普通、男はベッドを自分の攻撃的優越性が発揮される場だと思っている。彼は捕らえられたいのであり、受け取りたいのではない。交換し合いたいのではなく、魅了したいのだ。男は、女から貰う以上に、女を所有しようとする。男にとって、女の承諾は敗北であり、女の囁く言葉は女から奪い取った告白でなければならない。

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十四章 Ⅱ 自尊心に固執する女はたちのほとんどは不感症になる

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

女が自分の快楽を認める時とき、女は自分の隷属を認めるのだ。クロディーヌが素早く自分の方から服従することでルノーに挑むと、ルノーか彼女に先んじる。彼女が身を任せようとしているのに、ルノーは急いで彼女を力づくで犯そうとするのだ。

 彼女のくるめくような目を開けたままでいるように強いる。『人間の条件』のなかでも、威圧的なフェラルは、ヴァレリーが明かりを消したいというのに、あくまでも明かりをつけたままにしておく。誇り高く、要求も厳しい女はライバルとして男に接する。

 この闘いでは、女の武器は男よりはるかに少ない。まず男の方が体力もあり、自分の意志を通しやすい。またすでに述べたように、緊張と能動性が男のエロチシズムと調和しているのに、女は受動性を拒否すれば、彼女を快感に導く魅惑を壊すことになる。態度や行動において、自分の優位を表現すると、女はうまく快楽に到達できない。

 それで、自尊心に固執する女はたちのほとんどは不感症になる。恋人の支配的サディズム的傾向を満たしてくれるような男は稀だった。そして、こういう男の従順さが女の性愛を完全に満足させるかといえば、これもまたもっと稀なことである。
女にとってずっと楽に思われる道が一つある。マゾヒズムという道だ。昼間、働いて、闘って、責任とリスクをひきうけるとき、夜、まったくの気まぐれに身を委ねるのは、気晴らしにもなる。たしかに、恋している女やうぶな女は、たいてい、専制的な意志のために自分を無にするのを好む。だが、そうなると、彼女は自分が本当に支配されていると感じなければならない。

日常的に男たちのなかで暮らしている女にとって、男の無条件な優位を信じることはたやすいことではない。本物のマゾヒズムではないが、きわめて「女らしい」女、つまり男の腕のなかで自己放棄の深い性的快楽を味わっていた女の例を聞かされていたことがある。

彼女は十七歳の頃から夫を何回となく変え、たくさんの恋人を作り、多くの歓びをそこから得ていた。だが、ある困難な事業――そのあいだ男たちに指図していた――をうまくやり終えたのち、彼女は不感症になってしまったと嘆いた。屈託のない自己放棄ができなくなってしまったのだ。というのも、彼女は男を支配することに慣れてしまって、彼らの威厳は消えてしまったからである。

女が男の優越性に疑いをもちはじめると、男の自惚れは男が抱く尊敬の念を減らしていくだけとなる。ベッドで男が最も強烈に自分を男であると感じたいと思うとき、まさに、男が男らしさを身振りで表現するせいで、男は経験豊かな女の目には幼稚に見えるのだ。彼は去勢コンプレックス、または自分の父親の影、あるいは他の何らかの妄想を払いのけようとしているだけなのだ。

愛する女が恋人の気まぐれに譲歩するのを拒むのは、つねに自尊心からだけではない。彼女が相手したいと思うのは、自分の人生の現実の瞬間を生きている大人であって、自分の身の上話を語る少年ではない。マゾヒストの女はとりわけ幻滅を感じる。母のような過剰なもしくは寛大な気配りは彼女が夢見る自己放棄ではないからだ。

彼女は自分が支配され隷属させられていてると信じ込むふりをしながら、つまらない戯れに自分をまた甘んじなければならなくなるだろう。さもなければ、自分自身が見つかるのを期待して、いわゆる「優れた」男たちを追いかけまわすことになるだろう。それとも、不感症になることだろう。

すでに見たように、二人のパートナーがお互いに対等だと認め合えば、サディズムやマゾヒズムの誘惑から逃れることは可能だ。男女双方にちょっとした謙虚な気持ちとある程度の寛大さがあれば、勝ったとか負けたとかいった考えはなくなる。愛の行為は自由な交換となるからだ。

しかし逆説的言い方になるが、女にとって、別の性をもつ一人の個人を自分の同類と認めるのは男に比べてはるかに難しい。まさに男のカーストが優越権を握っているからこそ、男は多くの個々の女たちに愛情ある敬意を捧げることが出来る。一人の女を愛するのは簡単だ。

女は先ず恋人を彼の世界とは異なる世界に導く特権をもっている。彼は彼女に寄り添って世界を探検して楽しむ。少なくともしばらくのあいだ、彼女は好奇心をそそる存在であるし、楽しませてもくれる。そして、彼女の置かれた状況が従属的で限界があるために、彼女の長所はどれも獲得された者のように見える、一方、彼女の誤ちも大目に見る事ができる。

スタンダールはレナル夫人[『赤と黒』の登場人物]やシャステレル夫人[『リュシアン・ルーヴェン』の登場人物]を、彼女たちがひどい偏見の持ち主だったにもかかわらず、称えている。女が誤った考えをもっていても、あまり知的でなくても、洞察力に欠けていても、勇気がなくても、男はその責任が彼女にあるとみなさない。

女は置かれた状況の犠牲者だと男は考える――多くの場合、これは正しい。男は彼女はこうなったはずだとか、こうなれるのではないかと夢想する。彼女を信じて待ってやったり、彼女にないものをいろいろ貸し与えたりできる。なぜなら、彼女はどんな定義もなされていないものであるからだ。この定義が欠如しているせいで、恋人の男はすぐにあきらめる。

だがまたそれゆえに、神秘、つまり男を魅惑してたやすく愛情へと向かわせる魅力が生じてくる。男に対して友情を感じるのはなかなか容易ではない。というのは、男は自らがそりように作られた存在であって、それはどうにもならないことなのだ。男を、不確かな将来性や可能性のなかにではなく、その存在、その真実のなかで愛さなければならない。

男は自分の行動や考え方に責任がある。彼には言い訳は許されない。男との友愛関係は、彼の行動、目的、意見に同意するときにしか生まれない。ジュリアンは正統王朝派[思想上、彼の反対派]の女を愛することができるが、ラミエル[スタンダールの『ラミエル』の女主人公]は自分が軽蔑する思想をもつ男を好きになることはできないだろう。妥協してもよいと思っていても、女は寛大な態度を取るのはとても難しい。

というのも、男は女のために子ども時代の緑の楽園を開けてくれはしないからだ。女は、男にも女にも共通の世界であるこの現実のなかで男に出会う、男が与えてくれるのは彼自身だけだ。男は自己完結し、限定されていて、断固として、夢をかき立ててくれることはほとんどない。

男と話すときは、彼の話を聞かねばならない。男は自分の言動を重要視する。関心を引かない男であれば、うんざりさせられ、その存在が重く感じられる。ただ非常に若い男たちだけは素晴らしく気さくな態度が身についていて、彼らのなかに謎めいたところや将来性を探り、彼らを大目に見て、軽い気持ちで受け止めることができる。

これは若い男が成熟した女たちの目に非常に魅力的に映る理由の一つだ。ただしほんどの場合、彼らの方は若い女を好む。三十歳の女は大人の男の方に投げ返される。たぶん、そのなかで、期待や友情の気持ちを挫かれないように男たちと出会うだろう。

しかしそのとき、横柄なところをなにも見せない男たちだったら、彼女は幸運だといえるだろう。彼女が心も肉体も投入できるような一つの出来事、つまりアヴンチュールを望むとき、問題は、自分の方が優れていると考えていない男、彼女が一人の対等な人間として考えることのできる男と出会えるかどうかということだ。

一般的に女はあまり面倒なことは言わない人にはいうかもしれない。女はあまりくどくど質問せずに機会をとらえる。そして、自分の自尊心や官能性とうまく折り合いをつける。それは確かだ。だが、女は心の奥に数多くの失望、屈辱、悔恨、恨みを秘めているのも確かである。

男たちのうちには――平均してだが――それらに相当する感情が見つからない。多少とも失敗した情事からでも、男は性的快楽という利益をほとんど確実に引き出す。女はそれからいかなる利益もまったく手にできないこともある。女は男に対して冷淡な気持ちでいても、決定的な瞬間がくると、礼儀から抱擁に応じる。ところが、恋人が不能ということが明らかになる場合もある。すると、

女はつまらない騒ぎに巻き込まれたと苦しむだろう。また、自分が快感に達しなければ、そのときは、女は自分が「ものにされた」、弄ばれたと感じる。だが、満ち足りれば、恋人をずっとと捕まえておきたいと思う。快楽を期待して、その場限りの情事しか考えない女が言うとき、女が本当に噓偽りない気持ちで言っていることは滅多にない。

というのは、快楽は女を解放するどころか、彼女を縛り付けるものだからだ。別離は、いわゆる円満な別離であっても、女を傷つける。女が昔の恋人について友情をこめて話すのを聞くのは、男が愛人たちの話をするのを聴くよりはるかに稀なことなのだ。

女のエロチシズムの性質と自由な性生活を送る難しさが女を一夫一妻制へと向かわせる。しかし、愛人関係や結婚と職業の道とを両立させるのは、女にとっては男よりもはるかに困難である。恋人や夫がその両立を諦めるよう要求することもある。女はためらう。男の温もりを自分のものにして置きたいと熱烈に願っていながら、結婚の束縛を酷く恐れるコレットの『さすらいの女』のように。譲歩すればまたや従属の身になる。

拒否すれば、無味乾燥な孤独を余儀なくされる。今日では、男は一般的には自分の伴侶が仕事を持つことを認めている。家庭の平和を守るために自分の仕事を犠牲にせざるを得なかった若い妻を描いたコレット・イヴェールの小説はいくらか時代遅れになった。自由な二人の共同生活はそれぞれ豊かさをもたらしてくれる。そして、それぞれが、伴侶の職業のなかに自分自身の自立の保証を見出す。

自活できる女は夫婦生活の束縛から男を解放する。夫の束縛は彼女自身の束縛の代価となっていたのだ。男が良心的な善意の人であれば、恋人どうしでも夫婦も、相手に多くを要求せずに寛大な心で完全な平等に到達する(*6)

献身的に奉仕者の役割を演じる男もいるくらいだ。たとえば、ジョージ・エリオットのかたわらで、ジョージ・ヘンリー・ルイス[イギリスの哲学者、文芸批評家。ジョージ・エリオットの内縁の夫]は封建領主的な夫の回りに通常妻が作り上げるような最適の環境を作ったのだ。しかし、大半の場合、家庭の調和のために苦労しているのはまだ女の方である。女が家を維持し、子どもの世話と教育を一人で行なうのは、男とって自然に見える。女の方も結婚することで自分個人の生活では免除されていた負担を引き受けたのだと考える。

女は夫が「ほんとうの女」と一緒になったら見つけたはずのさまざまな利益をまた失わせないようにする。妻たちが伝統的にそうであったように、優雅で、良き主婦、献身的な母親やでありたいと思う。だが、それは重圧的なものになりやすい務めである。女は相手に対する敬意と自分への忠誠の両方からその務めを引き受ける。

というのは、すでに見てきたように、彼女を自分の女としての人生に欠けるものがないようにしておきたいからである。彼女は自分自身であると同時に夫にとっては分身であるだろう。夫の心配を引き受けるだろうし、自分自身の運命に関心を抱くのと同じくらいに、ときにはそれ以上に、夫の成功に協力するだろう。

男性優位を尊重するなかで育てられてきたために、第一位の座を占めるのは男だと、女がまだ考えていることもある。また時には、第一位の座を自分が要求すると、家庭を崩壊させるのではないかと恐れる。女は自己主張の欲求と自己忘却の欲求とに二分され、分裂させられ、引き裂かれるのである。

とはいえ、女が自分の弱点そのものから引き出される利点もある。出発点で男より不利なので、女はすぐさま自分に罪がないと感じるのだ。社会的不公平を補うのは彼女の責任ではないし、そう求められてもいない。善意の男は自分が女より優遇されているからと、女を「いたわる」ことを自分の義務とする。そうした男は心遣いや同情にとらわれやすいので、「しつこく付きまとう」、「むさぼりつく」女たちの餌食になる恐れがある。

彼女たちが無防備だからだ。男性的な自立を獲得している女は、自律して能動的な個人である男たちと性的関係をもつという大きな特権をもっている。そうした男たちは――一般的に――彼女の人生において寄生者の役を演じることはないし、自分の弱さや自分の欲求の要請で、女を縛ることもないだろう。ただし実際には、自分のパートナーと自由な関係を作り出せる女は、ごくまれである。

男は女を束縛したくないと思っているのに、女に自身が束縛を作り出してしまう。相手の男に対して恋する女の態度をとるのだ。

若い娘は二十年ものあいだ待ち、夢見、期待しながら、解放者であり救い主である。ヒーローの神話を温めてきた。仕事のなかで勝ちとった自立だけでは、輝かしい自己放棄の願望を捨て去ることはできない。思春期のナルシシズムを容易に乗り越えるには、彼女が完全に(*7)男の子同じように育てられなくはならなかっただろう。だが、女は大人になっても子ども時代をとおして彼女が仕向けられた自我崇拝を保ち続ける。

職業上の成功を女は自分のイメージを飾り立てる美点にする。女は天上から注がれる視線が自分の価値を明らかにし、認めてくれることを必要としている。日々その能力の程度を判断している、男たちへの評価は厳しいとしても、女は《男》を尊敬しないわけではない。もしそんな《男》に出会ったら、ひれ伏すつもりだ。

一人の神に自分の存在の意味づけをしてもらうのは、自分自身の努力でそうするよりずっと楽らである。世間は女がこの与えられた救いの可能性を信じるように促す。女はそれを信じることに決める。女が完全に自分の自律を諦めることもある。

そうなると、もはや恋する女でしかない、普通は、妥協の道を探る、しかし、戯れの愛や自己放棄の愛は惨めな結果をもたらす。それはすべての思考とすべての時間を占領し、しつこくつきまとい、専制的だ。仕事で失敗したとき、女は夢中になって恋愛に逃げ場を探す。彼女の失敗は八つ当たりや無理難題の要求となり、そのつけは恋人が払わされる。だが、

女の心の傷みが職業への情熱を強めることはほとんどない。一般的には、大恋愛の王道を禁じるような生き方に彼女たちは逆に苛立ちを覚える。女たちが編集する政治専門誌で十年間働いていたある女性が私に言った。

自分たちは事務所ではほとんど政治の話はしないで、もっぱら恋愛の話ばかりしていたと。ある女は、自分の素晴らしい知性は無視されて、肉体だけ愛されていると嘆き、ある女は肉体的誘惑にはまったく興味を示してもらえず、機知ばかりが評価されると不満を言っていた。ここでもまた、女が男のように恋愛ができるためには、言い換えれば、自分の存在自体を問題にしないで自由に恋愛ができるためには、女が自分は男と対等であることが必要だろう。

そして、女が男と同じ決定権をもって自分の立てた計画に身を投じることが必要だろう。しかし、これから見ていくが、そうしたことはまだごくわずかしか行われていない。

現在、自由に行使することがほとんど不可能な女の機能が一つある。それは母性だ。イギリスやアメリカでは、女は少なくとも「バースコントロール」実施のおかげで、自分の意志で出産を拒否できる。すでに見たように、フランスでは、女は苦しくかつ費用のかかる中絶に追い込まれる場合がしばしばある。

たいていは、望んで産んだのではない子どもの面倒を女が引き受け、自身の職業生活を失うことになる。その負担が重いのは、慣習が逆に、女が望むときに妊娠できるようにさせていないからだ。未婚の母スキャンダルとなり、子どもにとっても婚外子ということは大きな欠陥となる。

結婚の束縛を受け入れずに、または身を持ち崩さずに、母親になれるのは稀である。人工授精の考えが多くの女の関心を引くのは、彼女たちが男の抱擁を避けたいと思っているからではない。社会によって自由な母性がついには認められるようになる事をねがっているからだ。捕捉しなくてはならないが、きちんと組織された託児所や幼稚園がなかったら、子ども一人でいるだけで、女の活動は完全に身動きがとれなくなる。

子どもを親や友人や家政婦に任せることでしか自分の仕事を続ける道はない。彼女は、つらい欲求不満を感じさせる不妊か、職業生活との両立がむずかしい負担を引き受けるか、どちらかを選ばなくてはならない。

このように、今日、自立した女は職業への関心と性的使命への配慮とのあいだで分裂している。自分の均衡をとるのに苦労する。均衡がとれているにしても、それは譲歩、犠牲、離れ業と引き換えで、つねに緊張を強いられている。女によく見られる苛立ちや弱さの原因は、生理的条件よりはるかにこの点に求めるべきである。

女の身体構造自体がどの程度ハンディキャップとなっているのかを判断するのはむずかしい。とりわけ月経障害についてはよく問題にされてきた。仕事や活動でよく名を知られている女たちはそんなことはあまり気にしていないように見える。

生理痛が軽いことが成功の原因なのだろうか。反対に、行動的に野心的な生活を選択したから、このような特典が与えられたのかどうかと考えることもできる。というのは、生理による不調を気にすることが女たちの苦痛を酷くしているからだ。スポーツ選手や活動的な女たちは、自分の苦痛を無視してしまうので、他の女たちほど苦しまない。

たしかに、そうした苦痛は生理的な原因からも来ているし、きわめてエネルギッシュな女たちがひどく痛みに苦しめられて毎月二十四時間をベッドで過ごさなくてはならないのを私も見てきた。しかし、彼女たちの仕事が妨げられることは一度もなかった。女を苦しめる不調や病気の大部分の原因は精神的な原因から来ていると私は確信している。

そもそもこれは、婦人科医たちが私に語ったことである。女たちが自分の力の限界でつねに精根尽き果てているのは、すでに述べたような精神的緊張が原因であり、あらゆる務めを女が引き受け、矛盾のなかで悪戦苦闘しなくてはならないかだ。だからといって、彼女たちの苦痛はまったく想像の産物だということではない。

それらの苦痛は、それらが示す状況と同じように、現実のものであり、心身を苛んでいるのだ。とはいえ、状況に身体に左右されるのではなく、身体のほうが状況に左右されるのだ。したがって、働く女が社会でしかるべき地位を占めるようになれば、女の体調は仕事の妨げにはならなくなるだろう。逆に、仕事をしていると、体調ばかり気にかけるわけにはいかなくなるので、かえって身体のバランスをとるのに大いに役立つのだ。

女が職業面でどこまで進展をとげているかを判断して、そこから女の未来を予測しようと思うとき、以上の事実全体を見失ってはならない。苦しい状況のただなかで、つまり、伝統的に、女であることにまつわる負担に依然として縛られながら、女はキヤリアの道を進んでいくのである。

客観的な環境もまた女にとってけっして有利ではない。敵意に満ちた、少なくとも警戒心を隠さない社会を突きって一筋の道を切り開いていこうとするのは、新参者にとって、つねに厳しいものだ。

リチャード・ライト[1908-60、アメリカの黒人作家]は『ブラック・ボーイ』のなかで、アメリカのある若い黒人の野心が最初からどれほどの妨害に出会うか、そして、白人にとってはじめて難題が生じる水準に達するためだけでも、どんな闘いを続けなくてはならないのかを教えてくれる。アメリカからフランスにやって来た黒人たちもまた――自分の内と外で――女たちが出会うのと同じ困難を経験している。

まず修業時代に、女は自分が劣等の立場にいることに気づく。この点については若い娘に関するところですでに触れたが、もっと厳密にそこに立ち戻ってみなくてはならない。勉学時代、また、職業生活の非常に大切な最初の数年間に、女がためらわずに自分の可能性に向かって突き進むことは滅多にない。それに、多くの娘はスタートが悪くてハンディを背負っている。実際、私が述べてきたような葛藤が、最大限の激しさに達するのは十八から三十歳の間である。

将来が決定されるのがこの時期なのだ。実家で暮らしていようと、結婚していようと、周囲から男の努力が尊重されるのと同じように女の努力が尊重されることは滅多にない。つらい仕事や用事が押し付けられ、女の自由は抑圧される。

女自身もまだ自分の受けた教育に深く影響されていて、年上の女たちが主張する価値観に敬意を払い、幼年時代、青春時代の夢にとらわれている。自分の過去の遺産と未来の利益とうまく調整できないでいる。ときには、女は自分の女らしさを拒絶し、純潔、同性愛、または男まさりの女に挑発的態度とのあいだでためらっている。みっともない恰好したり、男装したりする。挑戦したり、茶番を演じたり、怒ったりすることが多くの時間と力を浪費する。

たいていは、反対に女らしさを強調する。マゾヒズムと攻撃性のあいだで揺れながら、媚びたり、出歩いたり、恋の真似事をしたり、真剣に恋をしたりする。いずれにせよ。彼女は自問し、動揺し、散漫になる。外部の心配事に気を奪われているというだけの理由で、自分の計画に没頭できない。また、そこから大した利益も引き出せないと、それだけで、それを放棄したいという気になっている。

自活しようと努力している女にとって最も気力をそがれてしまうのは、自分と同じ社会階層に属し、最初は同じ状況、同じ可能性を持っていたのに、寄生的な生き方をするようになった女たちの存在である。男も特権階級に対して恨みを感じることもあるだろう。

しかし、男は自分の階級と固く結ばれている。全体として、彼らは同じ可能性をもって出発し、ほとんど同じ生活レベルに到達する。一方、女は、同じ条件で出発しても、男を媒介にして、それぞれ豊かさは非常に異なる。結婚した友人や扶養されて安楽に暮らしている友人は、独りで成功を勝ち取らなくてはならない女にとっては誘惑だ。

彼女には自分が最も困難な道を一方的にとらされたように思われる。それで、つまずくたびに、他の道を選んだ方がよかったのではないか考えてしまう。「自分の頭だけが頼りで、何もかもそこから引き出さなければならないとはね!」。ある貧乏女子学生が憤慨しながらこう言っていた。

男は絶対的な必然性に従う。女は絶えず自分の決断を更新しなくてはならない。女は、目的を前方に真っ直ぐ見据えるのではなく、自分の周りをうろうろ見回しながら前進する。だから、その足取りはおずおずしていて不安定だ。彼女とっては――すでに述べたように――前進すればするほど、他の可能性を放棄することになるように思えるのだ。

青鞜の女[文芸趣味や学識があり、あるいはこれをてらう女性たちの呼び名]のようになっても、理知的な女になっても、一般的な男には嫌われてしまうだろう。また、自分があまり華々しく成功すると、夫や恋人に恥をかかせることになるだろう。

それだけにいっそう自分をお洒落で軽薄な女に見せようとするが、そればかりでなく、自分の飛躍も抑制してしまう。いつか自分自身への配慮から解放されたいと思う、そんな配慮をしていたら、そうした思いすら断念しなくてはならないという恐れが混ぜになって、彼女が学業や職業にためらいなく自分を投入していくのを妨げるのである。

女が自分は女でありたいと願っている限り、自分の自立的立場は女のうちに劣等コンプレックスを生じさせる。逆に、自分が女であることは、女に自分の職業上の可能性に疑念を抱かせる。これこそもっぱらとも重要な点の一つである。すでに見たように、アンケートのなかで、十四歳の女の子が「男の方がよく出来る。私たちより楽に勉強しているから」とはっきり言っていた。

若い娘は自分の能力は限定されていると確信している。両親や先生が女の子のレベルは男の子より低いと認めているので、生徒たちもまたとかくそう認めがちである。そうして実際に、高校でカリキュラムが同じなのに、女子の教養は男子ほど深められない。いくつかの例外を除くと、たとえば、女子の哲学クラスは全体的に男子クラスよりも明らかに下である。

生徒たちの多くは勉学を続けるつもりはない。勉強の仕方が非常に表面的であったり、競争心に欠けている。試験がかなりやさしいあいだは、女子の学力不足はあまり感じられない。だが、厳しい選抜試験に臨む時期になると、女子学生は自分の足りない点に気づく。

彼女は教養の貧弱さのせいにせず、自分が女であることに付随する不公平な不運のせいにする。この不公平をあきらめて受け入れることで、彼女はそれをいっそうひどくする。自分の成功の可能性は忍耐と応用のなかにしかないと信じ込んでいる。

それで、自分の力をけちけちと節約することに決める。これこそいやらしい打算だ。とくに、多少の創意や独創性、ある程度の細かい着想が必要とされる研究や職業においては、実利的な態度は有害である。カリキュラム以外の会話や読書、精神が自由にさまよえる散策は、何冊もの分厚い文法書を単調に引き写すことよりは、ギリシア語のテキストの翻訳そのものにはずっと役立つ。

あまりに真面目な女子学生は、権威の尊重や学識の重さに押しつぶされ、偏狭な考え方から視野は狭くなり、自分のうちの批判精神や知性さえも殺してしまう。彼女の型どおりの勤勉さは緊張と倦怠を生む。セーヴルの女子高等師範学校の受験準備をしている女子高校のクラスでは、窒息しそうな雰囲気に支配していて、わずかに生き生きしていた個性もすべて意気消沈してしまう。

受験生は自分自身で徒刑場を作りながら、そこから逃げ出すことしか考えない。本閉じると他のことばかり考える。彼女は、勉強と気晴らしが一つに溶け合い、精神の冒険が生き生きと熱気をおびるあの充実した瞬間をあじわったことがない。勉学の成果が上がらないことに打ちのめされ、自分は勉学をやり遂げるのには向いていないと次第に感じるようになる。

教授資格試験を受けるある女子学生が男女共通の哲学の試験のとき、こう言っていたのを思い出す。「男の子は一、二年で合格できるけど、私たちは少なくとも四年はかかるわ」。試験に出題される著書カントについての本を読むことを指示された別の女子生徒は言った。「この本は難しすぎるわ。男子高等師範生用よ!」。彼女は女はおまけしてもらって選抜試験に合格できるのだと勝手に思い込んでいるようだった。つまり、最初から引き下がって、成功のチャンスをすべて男に譲っていたのだ。

こうした敗北主義の結果、女はそこそこの成功で簡単に満足する。あえて高望みしない、薄っぺらな教育を受けて仕事につき、はやばやと願望を限定してしまう。自分で自分の生活費を稼ぐことがかなり立派な手柄のように思える。他の多くの女のように、自分の運命を一人の男に預けることも出来ただろ。

自立を望み続けるためには努力が必要である。その努力を誇りに思ってはいるのだが、やはり疲れる。何かすると決めただけで、たいしたことをやったように彼女には思われる。「女にしては、これだけでも相当なものだわ」と思う。

風変わりな仕事をしているある女はこう言っていた。「私が男だったら、トップにならなくちゃと思うでしょう。でもこんな職に就いているのはフランスでは私だけだわ。それだけで私には十分よ」。この謙遜には用心深さがともなっている。女は、あまり遠くをめざすことで挫折するのが怖いのだ。

女は信頼されていないという考えによって、まさに女は窮屈な思いをしている、と言うべきである。一般的に、上層カーストは下層カーストから上がってきた者に対して敵意を抱く。白人は黒人の医者に診察してもらおうとはしないし、男は女医には診てもらおうとはしない。しかし、下層カーストの人間は、彼ら独特の劣等感が染みついていて、運命に打ち勝ったものに対して強い反感を持っていることが多い。

彼らがまた主人にすがりたがる。とくに、女の大部分は男を崇拝することに浸りきっていて、医者、弁護士、所長といった男たちに主人を熱心に追い求めている。

男も女も女の命令を受けるのは好まない。男の上司たちは、女に対しては、たとえその女を高く評価していても、つねに多少の恩着せがましい心遣いを見せる。女であることは、大きな欠陥ではないにしても、少なくとも特異なことなのだ。

女は最初は信頼されていないので、絶えず信頼を勝ち取っていかなくてはならない。出発点で女は疑わられている。だから、証拠を見せなくてはならない。彼女に価値があるのなら、それを実証するするだろうと人は言う。しかし、価値はもともと与えられている本質ではない。それは幸運な発展の到達点である。

不利な偏見が自分に重くのしかかっていると感じることが、その偏見を打破する助けになる事は滅多にない。初期の劣等コンプレックスは、通常みられるように、自己防衛の反応を引き起こすが、過剰に権威を装うといったかたちをとる。たとえば、大部分の女医は権威を気取りすぎるか、あまりにも気取らなされすぎるかどちらかだ。

自然なままでいると、権威がない。というのは、女としての生活全体が、命令するよりはむしろ誘惑する方に女を仕向けるからだ。支配されたいと思っている患者は、あっさりと与えられる忠告にがっかりするであろう。そのことを意識して、女医は重々しく、きっぱりした口調で話す。

だが、そのとき、彼女には自分に自信をもつ男の医者のように人を惹きつける円満な愛想のよさはない。男は自分を認めさせるのに慣れている。だから、彼の患者はその能力を信じる。彼は自由にやることができて、確実に強い印象を与える。女は同じような安心感を抱かせない。もったぶり、大げさで、やり過ぎる。

ビジネスや役所の仕事で、女は几帳面で、些細な事にこだわり、すぐに攻撃的になる。学生時代と同じように、女はのびのびした態度、飛躍、大胆さに欠ける。成功しようとして、固くなるのだ。

女の行動は挑戦と漠然とした自己表明のくり返しである。それこそ確信のなさが引き起こす最も大きな欠陥である。この主体は自分を忘れることができないのである。この主体のおおらかな気持ちで一つの目的を目指すという事がない。

世間が自分に要求する価値の証拠固めに懸命なのだ。目的に向かって大胆に身を投げ出せば、幻滅を味わう危険がある。しかしまた、思いがけない結果に到達することもある。慎重さが強いるのは凡庸さである。女は冒険への志向や無償の体験への関心、利害を超えた純粋な好奇心はあまり見られない。

彼女は、他の女たちが幸福を築くように、「キャリアを築くこと」を目指している。彼女は男の世界に支配され、包囲されている。だが、その天井を突き破る大胆さはない。情熱的に自分の企てに身を投ずることはない。彼女はまだ自分の生活の内在的企てして捉えている。

一つの目的をめざすのではなく、その目的をとおして自分の主観的な成功を目指すのである。これはとりわけアメリカの女たちに顕著な態度である。彼女たちは「仕事」をもち、それを具体的にやり遂げることを証明したいと思っている。

だが、仕事の内容にはそれほど関心をもたない。同時に、女はこまかい失敗や些細な成功にこだわりすぎる傾向がある。やる気を失ったり、大いに自惚れたりを繰り返す。成功は、予想されていた場合には、淡々と受けとめられる。しかし、成否が疑問視されていた場合には、うっとりとするような勝利となる。これが、女たちが権威な夢中になり、ちょっとした業績でこれ見よがしに自分を飾り立てる理由だ。

彼女たちはつねに後ろ盾を振り返り、自分の辿って来た道を推し量る。しかし、それが女たちの飛躍を断ち切ることだ。こういうやり方をすれば、かなりのキャリアは実現できても、偉大な行動は実現できない。多くの男たちもまた平凡な運命しか築くことができないことを付け加えておくべきだろう。

非常にまれな例を除けば、女が後ろからついて行く存在に見えるのは、男たちの中の最も優れた者と比べてということでしかないのだ。私がこれまで上げてきた理由はそれを十分説明している。そして、そうした理由があるからと言って、それによって[女の]未来が限定されたわけではない。

大きな事を成し遂げるために、現代の女に基本的に欠けているのは、自分を忘れることである。だが、自分を忘れるには、まず今すでに自分を見出していることがしっかりと確認されていなければならない。男たちの世界に新しく入ったばかりで、男からの支援もほとんどない女は、まだ自分を知ろうとすることで手一杯なのだ。

これからの指摘が当てはまらない種類の女たちがいる。それは彼女たちの職業が、女であることの表明を妨げるどころか、それをさらに強めるものだからだ。それは、女であるという与えられた条件そのものを芸術的表現によって乗り越えようとする女たち、女優や、踊り子、歌手である。過去に三世紀のあいだ、彼女たちは社会の中で実際に自立を保持してきたほとんど唯一の女たちだった。いまも特権的な地位を占めている。

最近まで女優は協会から非難されてきた。この行き過ぎた厳しさがかえって、つねに彼女たちが非常に自由な生活態度をとるのを可能にしてきたのである。彼女たちはよく男の甘い言葉を受け、娼婦のように一日の大半を男たちに囲まれて過ごしている。しかし、自分の稼ぎで生活をし、仕事に自分の存在の意義を見出しているため、自分を束縛するものから逃れている。

彼女たちが享受いる大きな特権、それは、男の場合と同様に、仕事の上での成功が彼女たちの性的価値を高める助けになっていることである。人間として自己実現しながら、彼女たちは女として自分を完成させる。だから、矛盾する願望のあいだで引き裂かれることはない。

むしろ反対に、仕事のなかに自分のナルシシズムの正当化を見出している。お洒落、美容、魅力は職業上の義務の一部である。自分のイメージにほれ込んでいる女にとって、ただあるがままの自分を見せびらかすだけで、なにかをすることになるというのは大きな満足である。

それに、ジョルジェット・ルプランの言葉によれば、この自分を見せるという行為は、行動の代用品として現れるために、同時に、かなりの技巧と研究を必要とする。大女優はさらに高度なものを求める。与えられた条件を自分がその条件を表現するというやり方で乗り越えていく。そうして、本当の芸術家、この世界に一つの意味をもたらすことで、自分の生に一つの意味を与える創造者になるだろう。

しかし、こうした稀有な特権にもまた罠が隠されている。女優は、ナルシシスト型の自己満足と自分に許されている性的自由を芸術家としての生活と一体化させる代わりに、自己崇拝あるいは色恋に溺れてしまうことがよくある。

これらの偽りの「芸術家」についてはすでに述べた。彼女たちは男の腕のなかで利用できる財産を示すことで映画や演劇のなかで、「名声を得ようと」としているだけである。男の援助という快適さは、職業上の危険や、本当の仕事についてまわる厳しさに比べて、かなり魅力的である。

夫と家庭、子どもという女の人生への願望や恋愛の魅力は、女優として成功したいという意志とは必ずしも両立するとは限らない。しかしとりわけ、女優が抱いている自己礼讃の気持ちは、多くの場合、女優としての才能の限界を与えている。まじめに仕事をするのがむだに思われるほどに、自分は存在するだけで価値があると幻想を抱く。何よりもまず自分の姿を見せびらかしたいと思い、自分の演じる人物を台無しにしてしまう。

こうした女優もまた自分を忘れるだけの高潔さをもと合わせておらず、そのために、自分を乗り越える可能性を奪われる。ラシェルやラ・ドウーゼのような女優は、こうした障害を乗り越え、芸術を自我の下僕と見なすかわりに、自分の身体を芸術の道具とした類い稀な女優である。だが三流の女優は、私生活でもナルシシスト的欠陥をすべて誇張して見せるだろう。自惚れや自尊心が強く、芝居がかった振る舞いをし、世界全体を舞台と考える。

今日、女たちに差し出されている芸術活動は表現芸術だけではない。女たちの多くが創造的活動に取り組んでいる。女の状況からして、女は文学や芸術に救済を求めやすい。男の世界の周辺で生きている女は、世界をその普遍的な姿で捉えているのではなく、独自の視点から捉える。

世界は女とっては道具や概念の集合体ではなく、感動や情緒の源泉である。女は事物の性質に、それが無償で秘密であるという点で、興味を持つ。否認や拒否の態度をとって、現実に飲み込こまれることはない。言葉によって現実に抗議するのだ。自分を通して自分の魂のイメージをもとめる。

夢想に身を捧げ、自分の存在に到達したいと思う。だが、女は挫折する運命にあって、想像の領域でしかそれを取り戻すことが出来ない。なんの役にも立たない内的生活を無のなかに沈めてしまわないために、反抗しながら耐える女という与えられた条件に逆らって自分を主張するために、自己到達できないよう世界とは別の世界の創り上げるために、自分を表現したいと思う。こんなふうにして、女はお喋りでやたらと書きたがることは知られている。

女は会話や手紙、私的な日記のなかに自分の心情を打ち明ける。わずかな野心がありさえすれば十分だ。女は思い出をつづったり、自伝を小説に作り替えたり、詩のなかに自分の感情を発散させる。女はこれらの活動を進めるのに有利な膨大な余暇に恵まれている。

しかし、女を創造活動に導く状況そのものが乗り越えられないような障害となって立ちはだかることもよくある。日々の空白を埋めるという唯一の目的のために、絵を描いたり、文章を綴ったりしようと決心したのに、絵や随筆は「奥様の作品」として扱われる。それで、それにも時間や手間をかけなくなり、作品はほぼそれに見合っただけの価値しかもたなくなる。

女が自分の存在の欠落を埋めようとして絵筆やペンに飛びつくのは、更年期に多い。しかし、あまりにも遅すぎる。きちんとした訓練を受けていないので、素人にとどまるしかない。かなり若い時から始めていたとしても、芸術を真剣な仕事と見なす女は非常に少ない。無為に慣れ、厳しい習練の必要性をその生活のなかで感じてこなかったせいで、不断のたゆまぬ努力が彼女にはできない。しっかりした技術をつけようと努めない。

目に見えぬ努力とか、何回も壊してやり直すといった、孤独でむだに思われる暗中模索を嫌う。子どもの頃から人に好かれるように教えられ、ごまかすことを学ばされてきたので、適当にやって難局を切り抜けたいと思うのだが。それをマリー・パシュキルェフは告白している。「そうだわ、苦労して絵を描くのはやめるわ。今日、自分をよく見つめてみたの・・・・誤魔化すことにするわ・・・・」。

たいていの場合、女は仕事のまねごとをしてみるが、本当の仕事もするのではない。受動性の魔術と行為、形だけの身振りと実効性のある行動とを混同する。美術専攻の学生になったつもりで、一揃いの絵筆を用意する。画架の前に構えて立ち、視線は白いキャンバスから自分を映す鏡へとさまよう。

しかし、花束やリンゴのコンポート皿はキャンバスの上に自然に浮かび上がってこない。机の前に座り、漠然とした話をあれこれ思いめぐらしながら、女は、自分を作家なのだと想像することで、穏やかな逃げ道(アリバイ)を確保する。しかし、白い紙の上に何か文字を書きつけなくてはならない。そこで、その文字は他人の目に意味がなければならない。

そこで、誤魔化しがバレる。気に入られるためには幻想をふりまくだけで十分だ。だが、芸術作品は幻想ではない、確固とした一つの物である。それを作りあげるのには、その仕事をよく知っていなければならない。コレットが偉大な作家になったのは、彼女の才能や気質によるだけではない。

彼女のペンはしばしば生活の糧であったし、彼女は、そのペンで、良い職人が自分の道具を使ってするような丁寧な仕事をしようとしたのだ。『クロディーヌ』から『一日の誕生』を経て、アマチュアの作家はプロの作家になっていった。辿った道は厳しい修業の成果を輝かしく見せてくれる。

しかし、大部分の女たちには、自分の伝えたいという欲求に孕まれている問題がわからない。これで彼女たちが怠慢である理由の大半は説明がつく。彼女たちは常に自分をあらかじめ才能を与えられてものと見なしてきた。自分の才能は自分に宿る天賦の才能から来ると思っている。価値は自分で勝ち取ることのできるものだとは思いもよらない。

魅惑するためには、自分をそのまま見せればよいとしか思わない。自分の魅力が発揮されるか課されないか、のことだ。成功するか失敗するかについて自分から働きかける手がかりを彼女は一切もたない。自分を表現するためには、同じょうに、ありのままを見せるだけで十分だと考えている。

自分の作品を反省的な作業によって練り上げる代わりに、自分の自然性(スポンタネイテ)に頼る。書くことも微笑むことも、彼女にとってはまったく同じ一つのことなのだ。自分の可能性を試してみる。成功するかもしれないし、しないかもしれない。自分に自信を持ち、本や絵は努力しなくても、成功するものと期待している。

臆病で、ほんの些細な批評でも意気消沈する。失敗が進歩への道を切り開くことを知らない。失敗を修復不能の大惨事のように、先天的奇形のようにとらえる。だから、女たちはしばしば非常に傷つくのだ。そうした傷つきやすさは彼女たちにとって有害である。彼女たちは自分の間違いに気が付くと、そこから実りある教訓を引き出す代わりに、苛立ちや失意を感じるのだ。

残念ながら、自然性は思われるほど単純な作用ではない。ジャン・ポーラン[1884-1968、作家、批評家、言語学者]が『タルプの花』で説明しているように、月並みな考えがもつパラドックスは、月並みな考えと主観的印象の直接的表現とがよく混同されることである。

その結果、女は、他人のことは考慮せず、自分のうちに作り上げたイメージを示して、自分が最も個性的だと思い込む。しかし実際は、平凡なきまり文句しか生み出していない。そこを突かれると、驚き、悔しがり、ペンを放り出す。彼女には、一般の読者がそれぞれ自分の目で、自分の考えもって読んでいることが分からない。

また、非常に新鮮なある付加形容詞が読者の記憶のなかに多くの古い思い出を呼び起こすこともわからない。たしかに、自分のなかなら生き生きした印象を引き出して、それを言葉の表面に浮き上がらせることができるのは貴重な能力だ。コレットのなかには男性作家には見られない自然性があり、称賛されている。しかし、それは彼女のなかで――次の二つの言葉は調和しないように見える――十分熟考された自然性なのだ。彼女は自分が生み出したもののうちのいくつかは捨ててしまい、その他を十分に吟味したうえではじめて採用する。女のアマチュア作家は言葉を人間相互の関係として、他者への呼びかけとして捉えるのではなく、自分の感覚の直接的ひらめきと見る。

選んだり、削ったりするのは自分の一部を拒否することのように思われる。彼女は自分のうちのなにものも犠牲にしたくない。なぜなら、彼女はいまある自分に喜びを見出していて、他のものになるのは望まないからである。彼女の不毛な自惚れは、自分を築きあげる勇気をもたず、自分を慈しむことから生じるのだ。

このようなわけで、文学や芸術に趣味にやってみようとする多くの女たちのなかで、頑張り続けるものはごくわずかでしかないのだ。ナルシシズムと劣等コンプレックスのあいだで引き裂かれたままになることがよくある。自分を忘れられないという欠点は、他のどのような職業におけるよりも、彼女たちに重くまつわりつくだろう。

彼女たちの主な目的が抽象的な自己主張、成功という表面的な満足ならば、世界の綿密な観察に彼女たちが没頭することはないだろう。だから、彼女たちは世界の新たな創造はできないだろう。マリー・バシュキルッェフは有名になりたかったので絵を描くと決心した。

名誉の妄想が彼女と現実のあいだに介在する。本当は、彼女は絵を描くのは好きではない。芸術は手段でしかないのだ。彼女の夢想は中身がなくただ野心てきなだけで、一つの色、一つの顔がもつ意味を彼女に明かすことはない。女は自分が取り組む作品に献身的に打ち込むことをせず、それを生活の単なる飾りと考える事があまりにも多い。

書物や絵画は、彼女が最も重要な現実――自分という人間――を公に誇示できるためのあまり重要でない仲介物しかないのだ。したがって、彼女の関心を引く主要な――しばしば唯一の――主題は彼女という人間である。

ヴィジェ=ルブラン夫人はキャンバスの上に、にこやかに微笑む自分の母性をあきらめることなく書き続ける。また、女性作家は、一般的なテーマについて話すときでさえ、自分を話題にするだろう。著者の身長、体格、髪の色、特徴的性格について知らされずに演劇時評なるものを読むことはありえない。

たしかに、自己というものはつねに鼻持ちならないものではない。ある種の告白本以上に夢中になれる本はごくわずかだ。しかし、そうした告白は真摯なものでなければならない。女のナルシシズムは女を豊かにするのではなく、貧弱にする。何もせずに自分ばかり見ているので、女は無になる。

自分に抱く愛すら紋切り型になる。彼女が自分の作品で見せるのは、自分の本来的体験ではなく、きまり文句で建てられた想像上の偶像なのだ。パンジャマン・コンスタンやスタンダールのような小説のなかに投影したからといって、彼女を非難はできないだろう。けれども、不幸な事に、彼女は自分の物語を世間とは無関係なおとぎの国とみなすことが非常に多い。

若い娘はさまざまな不思議な魔法を張り巡らして、自分を脅えさせる生々しい現実を見まいとする。残念ながら、大人になってもなお、世界を、作品の登場人物を、そして自分自身を、詩的な霧のなかに埋没させている。こうした仮装の下から人生の真実が現れると、ときには素晴らしい成功が得られることもある。しかしまた、『砂ぼこり』や『忠実な心の妖精』と比べて、色褪せたつまらない逃避小説がなんと多いことから!

女が評価も理解もされないと感じることの多いこの世界から逃れ出ようとするのは当然である。残念なのは、そのときに、一人のジェラール・ド・ネルヴァル[19世紀フランスの詩人、作家]やポーとして大胆な飛翔を試みようとしないことだ。女の臆病さにはいろいろな言い訳がつく、気に入られることが女の最大の関心事だ。

しばしば、ものを書くというだけで、女としては嫌われるのではないかとすでに恐れている。女文士という言葉は少々使い古された感はあるが、いまでも不愉快な響きを呼び起こす。女にはまだ物書きとして嫌われる勇気はない。独創的な作家は死にでもしないかぎりつねに物議をかもしだす。新しいものは不安を引き起こしたり、反感をかうのだ。

女はまだ、男の世界である思想や芸術の世界で認められると驚き、満足する。彼女はそこで非常におとなしく振る舞う。混乱させたり、探りを入れたり、感情を爆発させたりなどしない。謙虚と趣味の良さで文学をやるという思い上がりを許してもらわなければならないかのように思えるのだ。

彼女は体制順応主義という確かな価値を当てにする。人が彼女に期待する個人的色合いをほどよく文字のなかにもちこむ。彼女は自分が女だということを適度な魅力、媚態、気取りによって思い起こさせる。こうして、「ベストセラー」の優れた書き手になるのである。

とはいえ、未曾有の道を切り拓くことなど、彼女に期待してはならない。それは女が行動や感情において独創性に欠けるからではない。閉じ込めておかなくてはならないほど風変わりな女たちもいる。大体そうした、そうした女たちの多くは男の規則を拒否して、男より奇異で突飛である。

しかし、彼女たちは自分の奇妙な才能を生活や会話で手紙の中には出せるのだが、いざものを書こうとすると、文化の世界によって、それが男の世界ゆえに、押しつぶされそうに感じる。口ごもってしまうばかりだ。反対に、男の技法を使って推論することや自己表現することを選んだ女は、自信がもてない自分の独自性を押し殺そうと懸命になる。

女子学生のように、ともすれば勤勉で衒学(げんがく「学者ぶる」)的になる。彼女は厳しさや男の力強さを真似る。彼女は優秀な理論家になるかもしれないし、確固たる才能を獲得できるかもしれない・けれども、自分のうちにある何か「異なる」ものは、すべて捨てざるを得ないだろう。

狂人じみた女たちもいれば、才能ある女たちもいる。だが、才能――人はそれを天才と呼ぶ――のうちにこうした狂気をもっている女は一人としていない。

これまで女の才能の限界を規定してきたのはなによりもこの分別ある謙遜さだ。多くの女たちは。ナルシシズムや偽りの不思議な魔法の罠を逃れてきたし、ますます逃れつつある。だが、与えられた世界の向こう側に頭角を現わそうとして、慎重さをことごとく踏みつけてしまった女はいない。

まず当然のことだが、多くの女はありのままの社会を受け入れる。彼女たちはとりわけブルジョア階級の代弁者である。脅かされつつある階級のなかで最も保守的な要素を代表している。彼女たちは、形容詞を選んで使うことで、いわゆる「質の高い」文明の洗練された姿を思い起こさせる。

幸福というブルジョア的理想を称え、自分たちの階級の利益を色とりどりの詩で装った。彼女たちは、「女にとどまる」ように女たちを説得するためのたぶらかしを繰り広げる。古い家、公園、菜園、趣のある祖母たち、いたずらな子どもたち、洗濯、ジャム、家族の祝い日、お洒落、サロン、ダンスパーティー、悩み多い模範的な妻たち、犠牲や献身の美学、夫婦愛のささいな苦しみや大きな喜び、若い頃の夢、熟年のあきらめなど、イギリス、フランス、アメリカ、カナダ、スカンジナヴィアの女性作家たちはこれらのテーマを徹底的に利用し尽くした。

そうやって、彼女たちは栄光とお金は獲得したが、私たちの世界についての理解を捜しはしなかった。

もっと興味深い女たちがいる。彼女たちはこの不公平な社会を告発した叛乱者たちだ。権利の要求を掲げた文学は力強く真摯な作品を産んでいる。ジョージ・エリオットは自分の反抗のなかから綿密かつ劇的にヴィクトリア朝時代のイギリスの姿を描きつくした。しかしながら、ヴァージニア・ウルフが指摘するように、ジェーン・オースチン[1775-1817、イギリスの女性作家]ブロンテ姉妹、ジョージ・エリオットは外的束縛から自由になるためなに多くのエネルギーを消極的に使わなくてはならなかった。

そのために、スケールの大きい男性作家がスタートする地点に辿り着いたときには、すでに少し息切れしていた。彼女たちには自分の勝利を踏み台にして、自分を縛るすべての絆を断ち切るほどの余力はもはや残っていなかった。たとえば、彼女たちのなかにはスタンダールの皮肉や遠慮のなさは見られないし、その穏やかな素直さもない。

彼女たちはまたドストエフスキーやトルストイの豊かな経験ももたない。だから『ミドルマーチ』[ジョージ・エリオットの小説]のような素晴らしい本も『戦争と平和』には及ばないし、『嵐が丘』もその偉大さにもわからず、『カラマーゾフの兄弟』のスケールをもてないのだ。

今日、女たちは自分を表現するのにもうそれほど苦労はしない。しかし、彼女たちは自分たちを女らしさの枠の中に閉じ込める古来からの性の特定化を完全には乗り越えてはいない。たとえば、明晰さはまさに彼女たちが誇りに思っている獲得物ではあるが、それで自己満足するのは早急だ。

事実は、伝統的な女は一つのたぶらかされた意識であり、一つの同意の仕方である。この依存を告発することはすでに一つの解釈だ。屈辱や恥辱に抵抗する臆面のない半世間的態度は一つの防衛である。これは一つの責任の引き受け方の粗描である。女性作家は、明晰でありたいと願いながら、女の利益に最大の貢献をする。しかし、世界を前にして公平無私な態度をとって広大な地平を切り開いていくためには、彼女たちは――概してそれに気づいていないが――あまりにもこの女の利益に
仕えることにこだわりすぎる。幻想と虚構のヴェールを剥ぎ取ったとき、彼女たちは自分はかなりやったと思う。けれども、この消極的大胆さは私たちを謎の前にまだ置き去りにしたままである。

なぜなら、真理そのものが両義性であり、深遠であり、神秘であるからだ。真理の存在を示したら、次はそれについて思考し、それを再創造しなくてはならない。だまされないということは実に良いことである。だが、全てが始まるのはそこからなのだ。幻想を一掃するのに女はその勇気を使い果たす。そして、現実を前にして恐ろしくなって立ち止る。

それで。たとえば、いくつかの女の自叙伝は誠実で人を惹きつけるものになるのだ。しかし、どれも『告白』[ルソーの著書]や『エゴイズムの回想』[スタンダールの著書]と比べられるようなものではない。私たち女は明晰に見る事ばかり気を取られていて、その明晰さの向こうにある他の未知の闇に踏み込もうと努力しないのである。

「女は絶対に題材を超えることはない」と、ある作家が私に言った。これはかなり正しい。女たちは、まだこの世界を探検する許しを得たことに大いに感嘆し、その財産目録を作っていて、世界の意味を発見しようとはしていない。おんなたちがしばしば秀でているのは、与えられたものを観察するときである。非常に優れた報告をする。

どんな男性記者にもアンドレ・ヴィオリスのインドシナやインドについての証言を凌駕することはできなかった。女たちは雰囲気や人物を描くことができる。また、彼らの間にある微妙な関係を明らかにできる。また。彼らの魂の密かな動きに私たちを参加させることもて゜きる。

ウィラ・キャーザー[1873-1947、アメリカの女性作家]、イーディス・ウォートン、ドロシー・パーカー、キャサリン・マンスフィールドは鋭い陰影のある方法で、個人、風土、文明を思い起こせさてくれた。だか、彼女たちが、ヒースクリフと同じくらい説得力に富む男性主人公の創造に成功するのは稀だ。

男のなかに、彼女たちはほとんど雄としての側面しかとらえていない。しかし、彼女たちは自分の内的生活や経験、自分の世界についてはしばしば見事に描いて来た。事物に潜む秘密の実体に心を奪われ、自分自身の感覚の独自性に魅せられて、自らの真新しい体験を趣のある形容詞や官能的イメージをとおして明らかにする。

通常、彼女たちの語彙(ごい)はその構文よりも優れている。というのは、彼女たちは事物と事物の関係より事物そのものに関心があるからである。彼女たちが目指すのは抽象的な格調の高さではない。むしろ反対に、言葉は感覚に語りかける。彼女たちが最も愛情をこめて探求した領域の一つは《自然》である。

若い娘や、まだ完全にあきらめていない女にとって、自然は、男にとって女そのものを表すもの――自我とその否定、王国と流刑地――を表している。自然は完全に他者の姿で現れる。女性作家たちが私たちに最も親しげに自分の経歴や夢を明かすのは、荒れ地や菜園について語ることをとおしてである。

彼女たちの多くは樹液や季節の奇跡をポットや花瓶、花壇に閉じ込める。また、植物や動物を閉じ込めることはないが、やさしい愛情を注ぐことで飼いならそうとする者もいる。コレットやキャサリン・マンスフィールドがそうだ。だが人間とはかけ離れた自由のなかにある自然と取り組む女性作家は滅多にない。

彼女たちはその未知の意味を解明しようと試みたり、この自然という他者の存在と一体化するために自分を見失ったりすることは滅多にない。こうした道はルソーが切り開いた。そこに踏み込もうとしたのはエミリィ・ブロンテ、ヴァージニア・ウルフと、ときにはメアリー・ウェッブぐらいしかいない。

まして、既知の事実を横断してその隠された側面を探究した女たちは五指に数えられるだけだ。エミリィ・ブロンテは死について問いかけ、V・ウルフは生について問いかけた。K・マンスフィールドはときに――そう頻繫(ひんぱん)にということではないが――日常の偶然性と苦悩について問いかけた。

どの女も『審判』、『白鯨』、『ユリシーズ』、『叡智の七柱』[T・E・ロレンスの自伝小説]を書かなかった。彼女たちは人間の条件に異議を唱えはしなかった。なぜなら、ようやくそれを全面的に引き受けることが出来るようになり始めたところだからだ。これが、彼女たちの作品に一般的に計而(けいしこう)上学的響きとブラックユーモアが欠けている理由である。

彼女たちは世界をかっこに入れたり、それの疑問をつきつけ、その矛盾を告発したりしない。ただ世界を真にうけとらえるだけである。もっとも、大部分の男たちにも同じような限界があることは事実である。女が凡庸なものにして現れるのは、「偉大な」と呼ばれるに値する何人かの稀有な芸術家と比較したときのことである。

女に限界を与えるのは運命ではないのだ。これで、なぜ、女に最高峰に到達する機会がこれまで与えられなかったのか、これからも当分のあいだ与えられないのか、ということが容易に理解できる。

芸術家、文学、哲学は、人間の自由、創造者の自由の上に新しく世界を構築しようとする試みである。こうした意欲を育てるためには、まず、自分を明確に一つの自由として定めなくてはならない。教育や習慣が女の押しつける制約が、世界に働きかける女の手がかりを制限している。

この世界のなかで地位を占めるための闘いがあまりにも厳しいとしても、そこから自分を引き離すことは問題になり得ない。したがって、この世界をふたたび捉え直したいと思うなら、まず、絶対的な孤独のなかでそこから浮かび上がらなければならない。女には、まず最初に欠けているのは、苦悩や自尊心のなかにあって、見捨てられ独りになった孤独と超越の修練を積むことである。

マリー・バシュキルッェフはこう書いている。

私の欲しいもの、それは、たった一人で散歩する自由、行ったり来たりする自由、チュイルリー公園のベンチに腰かける自由です。これこそ、それがなければ真の芸術家にはなれない、そういう自由です。誰か連れがいるとき、つまり、ルーヴル美術館に行くのに、その人の馬車や、その人のお嬢さんや、その家族と待ち合わせしなくてはならなかったら、そういうときに、見るものから何かを引き出すことができるとお思いですか!・・・・これこそが欠けている自由であって、

それなしでは真面目に何かになることなどできないのです。思索が絶えずこうしたばかげた邪魔にとらわれるのです・・・・これだけで翼が落ちるに十分。これは、女性芸術家が存在しない大きな理由の一つなのです。

実際、創造者になるためには教養を磨くだけでは、すなわち自由の生活にさまざまな光景や知識を組み入れるだけでは不十分である。教養は超越の自由な動きをとおして把握されなくてはならない。精神はその全ての富を持って、何もない空に向かって身を投げかけていかなくてはならない。その空を満たすのは精神の働きである。

しかし、義務的な無数の絆が精神を大地にふたたび縛り付けるならば、精神の飛躍は砕かれる。たぶん今日では、若い娘は一人で出かけて、チュイルリー公園をぶらつくこともできるだろう。しかし、通りが彼女にとってどれほど敵意に満ちているかは、すでに述べた。いたるところで、目や手が様子を伺っている。軽率に風の吹くままふらついたり、カフェのテラスでタバコをふかしたり、独りで映画に行ったりすると、不愉快な出来事がすぐに起こる。

化粧や服装から尊敬の念を抱かれるようにしなくてはならないのだ。こうした気遣いは彼女を地面に、自分自身を縛り付ける。かくして「翼は落ちる」。
十八歳でT・Eロレンス[1888-1935、イギリスの考古学者、冒険家、作家]は一人で自転車でフランス横断ツーリングを達成した。若い娘がこんな向こう見ずな行動をとることは誰も許さないだろう。その一年後にロレンスがとたように、なかば砂漠の危険な国を徒歩で冒険旅行するなどということは、若い娘にはなおさらできないだろう。

しかし、こうした経験は後々への計り知れない影響力をもっている。地球全体を自分の領土として眺めることを学ぶのはこの時なのだ。すでにもう、女は必然的に激しい訓練の機会を奪われている。女の肉体的弱さが女をどれほど受動的の方向に向かわせるかはすでに言った。少年が拳骨で喧嘩のけりをつけるとき、彼は自分自身の悩みは自分で引き受けられると感じる。

少なくともその代わりとして、女の子にもスポーツや冒険での自主性や、障害を克服した誇りとかが許されるべきではないだろうか。しかし、そうはなってはいない。彼女は世界のただなかにあって、孤独を感じているかもしれない。だが、彼女が唯一の絶対者としての世界と対立して立ち上がったことはけっしてない。

あらゆることが、外部の存在によって与えられ、支配されるままになるように彼女を仕向ける。そして、とりわけ恋愛において、彼女は自分を主張するのではなく自分を否認する。こうした意味では、不幸とか不運は豊かな試練になる。

エミリィ・ブロンテに力強く激しい本を書くことを可能にさせたのは、自分自身にしか救いを期待しなかったのだ。ローザ・ルクセンブルクは醜かった。彼女が、自分の像への崇拝におぼれ、自分を客体、獲物、罠にしようとしたことはけっしてなかった。

若いときから、彼女は精神そのものであり自由そのものだった。だからたとえそうであっても、女が与えられた世界との苦しい対峙を全面的に引き受けることはめったにない。女を取り囲む制約や重くのしかかる伝統すべてが、世界に対して責任をもっていると女が感じるのを妨げているのだ。これが女の凡庸さの根底にある原因である。

私たちが偉大と呼ぶ男は――なんらかのかたちで――世界の重みをその肩に背負った者のことだ。彼らは多かれ少なかれ世界から確実に抜け出した。そして、世界をふたたび創造するのに成功したか、失敗した。しかし、先ずはこの膨大な重荷を引き受けたのだ。これこそ、どの女もけっしてしなかったことである。またできなかったことである。

世界を自分の物として見るためには、また、世界の過ちを自分の罪と感じ、その進歩を自分の誇りとするためには、命令権を握っているそれらの特権者たちだけに、世界の秘密を明かすことによって、世界を正当化する権利はあるのだ。彼らだけが世界のうちに自らの姿を認め、そこに自らの痕跡を残そうと試みることができるのだ。

今日まで《人間(オム)》が具現されたのは、男(オム)のなかにであって、女の中にではない。しかし、私たちに模範と見える個人、天下という名を奉られる個人は、その個別の実存において人類全体の運命を演じようとした人々である。自分にその資格があると思った女は誰もいなかった。

どうして、ヴァン・ゴッホが女に生まれてくることなど出来ただろうか? 女がボリナージ地方[ベルギー南部の炭鉱地帯]に派遣される事などありえなかっただろう。女が人間の悲惨を自分自身の罪として感じ、贖罪を求めたりすることはなかっただろう。だから、女は決してヴァン・ゴッホのひまわりを描くことはなかっただろう。

この画家の生活の仕方――アルルでの孤独、カフェや売春宿への出入りなど、ヴァン・ゴッホの感性を養い、彼の芸術を育てたものすべて――が、女には禁じられていたということがあるにしてもである。女はカフカにも決してなれなかっただろう。なぜなら、疑いや不安にとらわれていても、女はそこに楽園を追われた《人間》としての苦悩を認めることはなかっただろうから。

完全に見捨てら孤立した状態のなかで、人間の条件を自分のものとして生きて来たのは、アヴィラの聖女テレサを除いてほとんどいない。その理由についてすべてを見てきた。彼女は、地上の階級制を超えたところにいたので、聖女ファン・デ・ラ・クルスと同じように、頭上の天井を安心できるものと感じなかった。

それは二人にとって同じ闇、啓示の同じ輝き、自己においては同じ虚無、神においては同じ充足感だった。このようにして、ついにすべての人類が性的文化を超えて、自らの誇りをその自由な実存の困難な栄光のなかに置くことが出来るようになるとき、そのときようやく、女は自分の歴史、自分の問題、懐疑、希望を人類のものとして共に考えることができるようになるだろう。

そうなってようやく、女はその生活や作品のなかで、自分という人間だけでなく、現実全体を解き明かそうとするだろう。まだ女が人間になるために闘わなければならないあいだは、女は創造者になる事はできない。

もう一度言うが、女の限界を説明するために引き合いに出さなくてはならないのは、神秘的な本質ではなく、女の状況である。本来はいまなお大きく開かれている。人々は競って女には「創造的天才」はないと力説してきた。

これはとりわけ、かつて有名だった反フェミニストのマルト・ボレリー夫人が支持する説だ。だが、彼女はあたかも自分の著書で女の非論理性や愚かさの証明を試みたかったようだ。その結果、彼女の著書そのものが矛盾だらけとなっている。そもそも、生まれつきの「本能的」創造者という考えは古いプラカードのなかの「永遠の女性的なもの」という考え同様、ありもしないものとして捨て去るべきなのだ。

もう少し具体的に言うと、一部の女嫌いたちは、女は神経症だから何も価値あるものを生み出せないのだと断言している。しかし、天才は神経症だとはっきり言い切っているのも、たいてい同じ連中だ。いずれにせよ。プルーストの例が心理的・生理的な不均衡は無能力も凡庸も意味しないということを十分に示している。

歴史の検討から引き出せる議論については、それをどう考えるべきかすでに見てきた。歴史的事実を永遠に真理を定義するものとして考えることはできない。歴史的事実はまさに歴史的なものとして現れた一つの状況を示すにすぎないのだ。なぜなら、状況は変化しつつあるものだからである。女には天才的な作品を――短い作品でさえも――完成させる可能性が拒否されていたのに、いったいどうやって、女は天才的資質を持てたと言うのだろう。

昔のヨーロッパは、芸術家も作家ももたない野蛮なアメリカ人に、かつて軽蔑の言葉を浴びせた。これに対してジェファーソン[アメリカ人合衆国第三代大統領]はおおよそ次のように答えている。
「私たちの存在の正当性を証明しろと要求する前に、まず私たちを存在させてください」と。黒人たちは、おまえたちはホワイトマンもメルヴィルも生まれなかったではないかと責め立てる人種差別主義者たちに同じように答えている。

フランスのプロレタリアもまた、ラシーヌやマラルメに対抗できるような名前を挙げることはできない。自由な女は今ようやく生まれようとしているところだ。それが勝ち取られたら、たぶんランボー[1854-91、フランスの象徴主義期の代表的な詩人]の予言は正しいことになるだろう。

「詩人たちが生まれるだろう! 男――これまで忌まわしきものであった男―が女に暇を出し、女の果てしない隷属が打ち破られるとき、女が自分のために、自分自身で生きるようになるときが来れば、女も詩人になるだろう! 女は未知のものを見つけるだろう! 女の思想の世界は私たちの男のものとは異なるだろうか? 奇異なるもの、はかり知れぬもの、むかつくもの、甘美なもの、これらを女は見つけるだろう。男たちはそれらを取り上げ、理解するだろう(*8)」

女の「思想の世界」が男の思想の世界し異なるのかどうかは確かではない。なぜなら、女は、自分と男たちを同列に置くことで、解放されるからだ。どの程度女が個別にとどまるか、その個別性がどの程度の重要性を得るのかを知るためには、思い切って大胆な予想をたてなくてはならない。

 確かなことは、これまで女の可能性はふさがれていて、それが人類にとって損失となっていたこと、そして、いまこそ、女自身のために、みんなのために、女らあらゆる可能性を自由に追求させる時である。ということだ。
つづく 結論
キーワード、男も受け身の肉体、生理的運命、高等動物
、幼児期のペニスへの欲望、セクシャリティ、男女の闘、カースト、二股、抑圧、犠牲、特権カースト、精神的、社会的、文化的、スタンダール、去勢コンプレックス、エディプス・コンプレックス、嫌悪、性生活、不感症、自分の欲望、自己実現、女のエロチシズム、