恋愛妄想の一つは恋人の行動が矛盾し謎に満ちて見えることである。こうした見方をして、患者の妄想はつねに現実の抵抗を打ち砕くのである。正常な女は最終的には真実に押され、もう愛されてはいないことを認めるようになる場合が多い。
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十二章W 恋愛妄想の恒常的な特徴

本表紙第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

正常な女は最終的には真実に押され、もう愛されてはいないことを認めるようになる場合が多い。しかし、こうして認めざるを得なくならない限り、女はつねに多少のごまかしをする。相思相愛の恋愛においてすら、恋人同士の感情には根本的な違いが存在する。女はそれを見まいとする。女の方が男によって正当化されたいと願っているのだから、男は女なしでも自分を正当化できなければならない。

女にとって男が必要なのは、彼女が自分の自由から逃げようとするからである。だが、男がそれなくして英雄にもただの男にもなれない自由を引き受けるなら、なにも、誰も、彼にとって必要はなくなる。女が依存を引き受け入れるのは女の弱さのゆえである。どのようにすれば女は、強いからこそ愛する男に相互的依存関係を見出せるというのだろうか。

激しく要求の多い女は、恋愛に休息を見出すことはできない。矛盾した目標をめざすためだ。引き裂かれ、苦しむせいで、彼女はその奴隷になりたいと思った男にとって重荷となってしまいかねない。自分の必要性を感じ取れないので、おのずから邪魔でいとわしい存在になってしまう。これもよくある悲劇である。もっと賢明で多少柔軟性のある恋をする女はあきらめる。

男にとって彼女がすべてではないし、必要でもない。でも、彼にとって役立つならそれでいい。別の女が簡単に自分の代わりになるかもしれない。だから、ここにいられるだけで満足だ。彼女は相互性を求めずに自分の従属を受け入れる。

そうして、そこそこの幸せを味わうことができる。とはいえ、こうした限界のなかにいても、暗雲がかからないわけではない。人妻よりはるかに苦しい思いで、恋する女は待ち続ける。人妻自身がひたすら恋する女であるときは、家事や育児、用事や遊びは彼女には何の価値もなくなる。倦怠の淵から彼女を引き離してくれるのは夫の存在だ。

「あなたがいらっしゃらないと、日の光を見るのもうっとうしく思われます。そうなると、何もかも生気を失った感じで、私は椅子の上に脱ぎ捨てられた小さな洋服のようです」と、セシル・ソヴァージュは結婚した当初に書いている(*12)。そして、すでに見たように、多くの場合、情熱的恋愛は結婚の外で生まれ、開花する。

恋愛に全身全霊をかけて人生の最も顕著な例の一つは、ジュリエット・ドルエの場合だ。彼女は永遠に待ちつづける女である。「つねに同じ出発点に、あなたを永遠に待ちつづける地点に立ち戻らなければなりません」と彼女はユゴーに書いた。「龍のなかのリスのように、あなたを待っています」「ああ! 私のようなものにとって、生涯をかけて待っているあいだは、一日は終わらないものと思っていました。でもいま、あなたに会えたにもかかわらず、あまりにも早く過ぎ去ってしまいました・・・・」

「私には一日が永遠のように思われます・・・・」「あなたをお待ちしています。なぜなら、あなたが絶対に来てくださらないと思うよりとにかくあなたを待ちつづける方がずっと私にはよいのです」。ユゴーが、ジュリエット・ドルエに彼女の金持ちの庇護者、ドミドフ公との関係を断ち切らせてのち、彼女を小さなアパルトマンに閉じ込め、昔の男友だちの誰とも交際を再開できないように、十二年間も一人での外出を禁じたというのは事実である。

しかし、「閉じ込められたあなたの哀れな生贄」と自分を呼んだ女の運命が緩和されたときでさえ、彼女はやはり恋人だけを生きる理由にしつづけ、彼にはほんとうのたまにしか会わなかったのである。「あなたを愛しています。私の恋しいヴィクトル」と一八四一年に彼女は書いている。「でも、私の心は悲しく、つらい思いでいっぱいです。

あなたに会えるのは本当にほんの時たま、ほんのわずかしかあなたにお逢いできない。だから、あなたはほんのわずかしか私のものではありません。それで、このほんのわずかが集まって悲しみの束を作り、私の心をそれでいっぱいにするのです」。彼女は自立と恋愛の和解を夢見る。

「私は自立した女であると同時に奴隷でありたい。自分で食べていける職業によって自立し、恋愛についてだけ奴隷でありたい」。しかし、女優としてキャリアに完全に失敗したのち、彼女は「一生」愛人であるだけに甘んじなければならなかった。偶然に尽くすために努力したにもかかわらず、時はあまりにも空しかった。

毎年三百から四百通の割合で、彼女がユゴーに書き送った一万七千通の手紙がそれを証言している。主人が訪れないときは、彼女はひたすら時間をつぶすほかなかった。
ハレムの女の状況で、最も怖ろしいのは毎日が倦怠の砂漠であることだ。男が彼女という自分のためのものを使用しないときに、彼女はもはやまったく存在しないのと同じである。

恋する女の状況もこれと類似している。彼女はひたすら愛される女でありたい、彼女の目にはそれ以外のことはなんの価値もない。従って、自分が存在するためには、恋人が彼女のそばにいて、彼女のものでなければならない。

彼女は彼の訪れ、欲望、目覚めを待ちわびる。彼が彼女の許を去るや、彼女は彼を待ちはじめる。これは、純粋な恋愛の巫女にして犠牲者である『裏通り(*13)』や『風雨(*14)』の女主人公に重くのしかかる不運である。自分の手に運命を握ったことのない人間に与えられる厳しい罰である。

待つという行為は喜びでありうる。恋人の愛を確信し、彼女のもとに駆けつけてくるのがわかっていて、いまかいまかと待ちわびる女にとって、期待は魅惑的な約束である。しかしながら、不在そのものを実在に変えてしまう信頼しきった愛の陶酔が過ぎると、愛は不在の空しさに不安という苦しみを加える。

男はけっして戻ってこないかもしれないと。私が知っている女性は、恋人と会う度に、驚いたように彼を迎え、「もう来ないと思っていたわ」と言うのだった。彼がなぜと尋ねると、「だって、来ないことだってできるじゃない。あなたを待っているとき、いつももう会えないんじゃないかという気がしていた」。

とりわけ、男を愛するのをやめることができる。別の女を愛するかもしれない。「彼は私を熱烈に愛している。私しか愛せないんだわ」と言って、女がいくら激しく自分をごまかそうとしても、嫉妬の苦悩は追い払えない。情熱的だが矛盾した確信を抱かせるのが自己欺瞞の属性である。

だから、自分をナポレオンとかたくなに思い込む気がふれた男は、自分がまた理髪店の見習いであると分かっても、困惑したりしない。まれに、女が自問する気になることがある。「彼はほんとうに私を愛しているかしら」。だが、それ以上に百回は、「彼は他の女を愛しているかもしれない」と自分に尋ねてみる。

 恋敵を想像する。彼女は恋愛を一つの自由な感情

彼女は恋人の熱が少し冷めてしまったことも、彼が恋愛に自分ほど価値を置いていないことも認めない。すぐに、恋敵を想像する。彼女は恋愛を一つの自由な感情とみなすと同時に魔法のように魅惑的なもと考える。そして、彼女は「自分」の男は自由に彼女を愛しつづけると思っている。だが、男は巧みに策謀をめぐらすひとりの女に「騙され」、「罠にはめられる」。

男は内在のうちにある、自分に同化するものとして女を捉える。それで、彼に気軽にブーブロッシュ[十九世紀、G・クールトリーヌの短編小説『ブーブッシュ』の主人公。おひとよしで、友人や恋人にすぐ騙される]の役回りを演じてしまうのだ。

男は恋人にもまた自分から逃れる一人の他者であるとなかなか想像しにくい。普通、男の場合嫉妬は恋愛と同じように一時的な発作である。発作は激しく、致命的ですらあるかも知れない。しかし、不安が男のうちに長いこと居座るのは稀だ。嫉妬は男の場合は気晴らしのように現れる。仕事が上手くいっていないとき、生活に苦しめられているとき、そんなとき、男は自分の女に浮気されていると考える(*15)。

逆に、男がその他者性、超越において愛する女は、たえず自分が危険の淵にいるのを感じる。不在という裏切りと不貞のあいだに大きな隔たりはない。女は愛されていないと感じるや、嫉妬深くなる。要求の多くなるとすれば、それはつねに多かれ少なかれそうした場合である。

彼女の非難や不満は、その口実が何であれ、嫉妬からくる喧嘩となって現れる。そのようにして、彼女は待つことの苛立ちや倦怠、依存の苦い思いと損なわれた存在でしかないことへの後悔をぶちまけるのである。女は恋人に全存在を託しているゆえに、男が他の女に目移りする度に彼女の人生そのものが危険にさらされる。

だから、恋人の目が一瞬でも違う女に向けられると、怒るのである。彼が彼女だって今しがた他の男をじっと見ていたではないかと思い出させても、彼女は確信をもって答える。「それは別よ」彼女は正しい。一人の女に見つめられても男はその女から何も受け取らない。

女が自分を与えるのは女の肉体が獲物になる瞬間からしか始まらない。一方、男に欲望された女はたちまち性的魅力のある欲望をそそる客体に変身する。そして、ないがしろにされた恋する女は「ただの女」にふたたび落ちる。だから、彼女はたえず目を光らせているのだ。

「嫉妬は女にとっておそろしい苦しみである」

彼は何をしているのかしら。何を眺めているのかしら。誰と話しているのだろう。一つの欲望が彼女に与えたものを、一つの微笑みが彼女から奪ってしまえるのだ。「不滅の真珠のような光の中から」日々の黄昏(たそがれ)のなかに彼女を突き落とすには一瞬で十分なのだ。彼女は恋愛からすべてを受け取った。だが、恋愛が終われば、すべてを失うかもしれない。

あいまいであれ明確なものであれ、根拠がないものであれ正当なものであれ、嫉妬は女にとっておそろしい苦しみである。なぜなら、それは愛に対する根本的な異議であるからだ。裏切りが確かなら、恋愛を一つの宗教にするのを諦めねばならない、またはその恋愛を諦めねばならない。

これはきびしい一大変動であって、疑いを抱き、思い違いして恋する女が、致命的な真実を見出したいという思いと恐れにかわるがわるとりつかれるのは当然である。

たえず嫉妬に駆られている女が根拠もなくいつも傲慢で、それなのに不安でいっぱいということはよくあることだ。ジュリエット・ドルエはユゴーに近づく女すべてに対する疑惑の苦しみを経験した。ただし、八年間ユゴーの愛人だったレオニー・ビヤールを怖れるのは忘れていた。不安のなかで、すべての女が恋のライバルであり、危険であった。

恋する女は恋人の世界に閉じこもるので、恋愛は友情を殺してしまう。嫉妬は彼女の孤独をいっそう激しくし、その結果、依存状態をよりきついものにする。しかしながら、彼女はそこに倦怠に対する救いを見出す。夫の世話をすることは一つの仕事である。恋人の世話をすることは一種の聖職である。熱愛する幸せに没頭し自分のことをないがしろにしてきた女は、脅威を感じた途端、それを気にし始める。

化粧、家庭への目配り、社交術の披露などが闘いの瞬間となる。闘争は一種の刺激作用である。彼女が勝利をほぼ確信するあいだは、闘う女そこに胸が締め付けられるような喜びを見出す。しかし、敗北への苦悩に満ちたおそれは、いさぎよく受け入れた献身を屈辱的な隷属に変える。

男は自分を守るために攻撃する。女は、傲慢なものですら、おとなしく受け身になる事を強いられる。手練手管、慎重さ、策略、微笑、魅力、従順さが女の最大の武器である。

私はそうした若い女性に会った。ある夜、私が不意に彼女の家を訪ね、呼び鈴を押したときのことだ。その二時間前に、お化粧もせず身なりも構わず陰鬱な目つきをした彼女と別れたばかりなのだが、玄関にでてきた彼女は彼を待っていた。

彼女が私と気づいたときには、もういつもの表情に戻っていたが、ほんの一瞬だが彼女を見る余裕があった。彼女は彼の為に身なりを整え、不安と欺瞞のなかで神経を張りつめ、その快活な微笑の後ろであらゆる苦しみの覚悟をしていた。彼女は念入りに髪を結い、おおげさなお化粧は頬や唇を生き生きとさせ、まばゆい白のレースのブラウスは彼女を別人のようにしいた。

晴れ着、闘いの武器。マッサージ師、美容師、「エステティシャン」は、お客の女たちが無駄に思える手入れにどんな深刻な悲劇を託しているかを知っている。恋人の為に新しい魅力を開発しなければならない。彼が出会い所有したいと思うような女にならなければならない。だが、すべての努力は無駄である。

最初に彼を引きつけた、また他の女のうちにあって彼を引きつけるかも知れないあの《他者》の像を彼女は自分のうちに甦らせることはできないだろう。恋人のうちにも夫と同じ二重の不可能な要求がある。彼は愛人が完全に自分のものであって、しかも自分とは異なるものであってほしいのだ。

彼女が自分の夢にぴったり一致し、彼の想像力が生み出したすべてものと異なっていてほしい。期待に対する一つの応答、思いがけない驚き出会ってほしいのだ。この矛盾は女を引き裂き、挫折へと導く。彼女は恋人の望みどおりに自分を変えようとする。

恋愛初期の、彼女たちのナルシシズムを確固としたものにしてくれる時期に輝いていた女たちの多くは、愛されなくなったと感じると、偏執的なまでの自分の卑屈さに怖れをなすようになる。彼女たちは強迫観念にとりつかれ、気力を失い、恋人に対して苛立つ。

ひたすら自分を捧げた女は、初めの頃に彼女を魅力的にしていた大きな自由を失ったのだ。恋人は彼女のうちに自分の反映を求める。だが、あまりにも忠実にその通りだと退屈する。恋する女の不幸の一つは彼女の愛そのものが彼女を醜くし、打ちのめすことだ。

彼女はもはやそのような奴隷、そのような召使い、そのようなあまりにも従順な鏡、そのようなあまりにも忠実な木霊でしかない。彼女がそれに気づいたとき、その苦悩するさまは彼女の価値をさらに下げる。涙や要求や喧嘩で、彼女は魅力を完全に失ってしまう。

実存者と実存者自らがつくりあげるところのものである。実存するために、彼女は他の意識に身を委ねた。そして自分で何かをするか諦めた。
「私には愛することしかできません」とジュリー・ド・レスビナスは書いた。『愛でしかない私(*16)この小説のタイトルは恋する女の常套句である。彼女は愛でしかない。その愛がその対象を奪われると、彼女はもはや何者でもない。

彼女が自分の誤りに気づくときもある。そうすると、自分の自由を再確認し、自分の他者性を回復しようとする。彼女は男の気を引こうとする。他の男たちから求められて、彼女は冷めきった男の関心を再びそそるようになる。これは数多くの「低俗」小説の月並みなテーマである。ときには、距離が彼女の威光を回復する。

アルベルチーヌは目の前にいて思い通りになるときは生彩を欠いていた。離れてみると、彼女はふたたび神秘的存在になり、嫉妬したブルーストはもう一度彼女を見直す。しかし、このような策略はむずかしい。もし男がそれを見破れば、滑稽にも彼女の奴隷的服従を彼に明かすことになる。成功したとしても危険が伴わないわけではない。

なぜなら、恋人が愛人をないがしろにするのは彼女が彼のものだからである。不貞によって打ち砕かれるのは軽蔑か愛着か。悔しがって、男が冷淡な女に背を向けることもある。男は彼女が自由であってもいい。まあ、それでもよかろう。だが、自分にはすべてを委ねてほしい。彼女はこの危険性を知っている。だがら、彼女の媚態の動きは鈍くなる。

恋する女にとってルールに従ってうまくゲームをするのはほとんど不可能だ。彼女は罠にはまるのを極端に怖れる。そして、自分の恋人をまだ崇めているあいだは、彼を騙すのに嫌悪をおぼえる。どのようにすれば、彼は彼女の目に神のままでいられるだろうか。彼女が勝てば、偶像を破壊する。偶像を失えば、彼女自身が破滅する。救われる道はない。

慎重な恋をする女――ただし、この二つの言葉はそぐわない――は恋人の情熱をやさしさ、友情、習慣に変えてしまおうとする。あるいは、強固な絆、つまり子どもや結婚によって恋人をつなぎとめようとする。この結婚願望は多くの恋愛関係につきまとっている。それは安全願望である。

抜け目のない愛人は恋愛の初め頃の寛大さを利用して、将来の保証を手に入れる。しかし、彼女がこのような思惑買いをするとき、彼女はもはや恋する女の名に値しない。なぜなら、恋する女は恋人の自由を永久に捉えておきたいと熱烈に望んでも、それを消滅させるのを望まないからだ。

したがって、自由な契約が一生つづく非常に稀な場合を除けば、恋愛=宗教は破局に行き着く。モラについては、レスピナス嬢は幸運な事に最初に飽きてしまった。彼女が飽きたのはギベール伯爵に出会ったからだ。そして、ダグー夫人とリストの恋愛はこうした厳しい弁証法に則って終わった。

つまり、リストをあれほど愛されるにふさわしい人にしていた熱情、生命力、野心が彼を別の恋愛に進ませたのだ。ポルトガル人の修道女は捨てられるほかになかった。ダヌンチオを非常に魅力的に(*17)していた情熱の炎は代償として彼と浮気した。

一つの別れが男に深い痕跡を残すこともある。しかし、とにかく、彼には送るべき男としての人生がある。捨てられた女はもはや何者でもなく、また、何も持たない。「以前は、どうしていたの」と聞かれても、彼女は思い出すことすらできない。自分のものであった世界、彼女はそれを灰のなかに捨ててしまい、新しい国へ帰依した。

だがそこからも突然追い出されてしまった。彼女は信じた価値をすべて否定し、友情を断った。ふたたび彼女の頭上に屋根はなく、彼女のまわりは一面の砂漠だ。恋人の他には何もないのに、彼女はどうやって新しい人生を再開するのだろうか。彼女はかつて修道院に逃げ込んだように、今度は妄想に逃げ込む。

また、あまりにも理性的な女には、死しか残されていない。レスピナス嬢のように直接に死ぬかあるいはじわじわと時間をかけてか。苦しみは長い間続くかもしれない。十年、二十年と一人の女が一人の男に全身全霊を捧げてきたとき、そして、女が男を祭り上げた台座に男がまだしっかりと居座っていたとき、そういうときに彼に捨てられるのは凄まじい破滅である。

「私に何ができるというの?」と、その四十歳の女性はたずねた。「ジャックが私をもう愛していないというなら、私はどうすればいいの」。彼女は身なりやお化粧やマニキュアに細心の注意を払っていた。だが、すでにやつれきった、けわしいその顔が新しい愛を呼び起こすことはもはや不可能だ。

一人の男の影で二十年過ごした後に、彼女自身他の男に恋することが出来ただろうか。四十歳なら、まだかなりの年月を生きなければならない。私は別のこうした女性を見た。彼女は苦悩に満ちた表情にもかかわらず、その目は、美しく、気品のある顔立ちをしていた。そして、公衆の面前で、何も見えず、何も聞こえないかのように、涙が頬を伝わるままにしていた。

泣いている事すら気づいていなかった。いまではもう、神は彼女のために創った言葉を他の女に言っている。王座を追われた王妃は、自分がかつて真の国王に君臨していたのかどうかもはや定かではない。女がまだ若ければ、回復する機会がある。新しい恋愛が彼女を癒してくれるだろう。

ときには、唯一でもないものは絶対ではありえないのがよくわかったので、新しい恋愛に多少慎重になりながら身を委ねる。しかし、たいていは最初よりもっと激しく次の恋愛にぶつかって過去の失敗を取り戻さなければならないからだ。

絶対的愛の挫折は女が自分の力で立ち直ったときのみ豊かな試練となる。アベラール[1079-1142、哲学者、進学者、エロイーズとの愛の往復書簡は有名]別れたエロイーズは、ある大修道院の運営にあたり、自律した存在になっていたので、敗残者とはならなかった。コレットの女主人公たちは愛の失望に打ち砕かれるままになるにはあまりにも誇り高く、また経済力をもっていた。

ルネ・メレ[コレットの小説の主人公]は仕事があったので救われた。そして、「シド」[コレットの母親の愛称]は娘にあなたの愛情面での運命についてあまり心配はしていないと言っていた。彼女はコレットがただの恋する女とは違うことを知っていたのである。しかし、自分を完全に他人の手に委ねてしまうこと、この献身というあやまちほど酷い罰をもたらす罪はそれほどない。

本来的な恋愛は二人の自由の相互性を認めたうえで築かなければならない。そうなれば、恋人のどちらもがお互いを自分自身として、他者として経験できるだろう。どちらもが自分の超越を放棄しないし、自分を損なうこともない。

二人でともに世界に対して価値と目的を明らかにするだろう。どちらにしても、恋愛は自分を相手に与えることによる自己の発見であり、世界を豊かにすることがあるだろう。『自己認識』という著作のなかで、ジョルジュ・ギュスドルフ[1912-、哲学者]は男が恋愛を求めるものを非常に正確に要約している。

恋愛は私たちを自分自身の外に連れ出して、私たちに自分自身のことをわからせてくれる。私たちは私たちと異なる者、私たちを補ってくれる者との交流をとおして、自分を確認する。認識の形態としての恋愛は、私たちが日々生きてきた光景そのものなかに新世界は他者であり、私自身も他者なのだ。

そして、私はもはやたった一人で世界を知るのではない。しかも、私にそれを教えてくれたのはある人なのだ。それゆえ、女は男が自分自身についてもつ意識に欠くことのできない重要な役割を果たしているのである。

若い男にとって恋愛修行がもつ重要性はここから来ている(*18)。「私自身も他者なのだ」という認識をもたらす奇跡にスタンダードやマルローがどんなに驚愕したかはすでに見た。しかし、ギュスドルフが、「そして、同じように、男は女にとって、女自身から女自身への必要不可欠な仲介である」と書いたのは間違っている。なぜなら、女の状況は男と同じではないからだ。

男は他者の姿で示される。だが、彼は彼自身であり、彼の新しい顔は彼の人格全体に統合される。女もまた本質的に対自として存在できないかぎり、女にとって事情は同じとはならない。そのために、女が経済的自立を手に入れ、自分の目的に向かって自分をプロジェし、どのような仲介もなしに共同社会に向かって自分を乗り越える事が前提とされる。

マルローがキョとメイ[マルローの『人間の条件』の登場人物]のあいだの愛として描いたのはそのような恋愛である。ルソーに対するヴァラン夫人、シェリに対するレア[二人はコレットの小説の登場人物]のように、女が男性的、支配的役割を演じることすらできる。しかし、多くの場合、女は自分を他者として認識しない。

彼女の対他は彼女自身の存在そのものと混同される。恋愛は女にとって、自己から自己への仲介にはならない。なぜなら、彼女は自分の主体的存在のうちに自分を見出せないからだ。彼女は男が示しただけでなく創造したその愛人のうちに呑み込まれている。

彼女の救いは、彼女が作り上げた、そして一瞬にして彼女を消滅させられるこの専制的な自由に依存している。自分でそうしているという自覚がまったくなく、またそうするつもりも全くないままに彼女の運命を手中にしている男の前で、彼女は脅えながら一生を過ごす。

彼自身の運命の不安に満ちた無力な証人である一人の他者のうちに包まれて、彼女は危険にさらされる。自分の意に反して暴君になり、心ならずも死刑執行人になったこの他者は、彼女の望みにもかかわらず、敵の顔をもつ。恋する女は、結合を求めた代わりに、争いやしばしば憎しみをも経験する。女にあって恋愛は、女に強いられた依存を引き受けつつ、それを乗り越える最後の試みである。同意のうえの依存であっても、それは恐れと従属のうちに生きられるほかない。

男たちは競って、恋愛は女にとって最高の自己実現であると主張してきた。「女として愛する女はひたすらより深く女になっていく」とニーチェは言った。そして、バルザックは言う。「高度な次元においては、男の人生は栄光であり、女の人生は恋愛である。女は、男の人生を不断の奉納物にすることによってのみ男と対等になれる」。だが、これはさらに一つの残酷な欺瞞である。女が与えるもの、それを男が受け取る気が全くないからである。男は自分が要求する無条件の献身も、自分の虚栄心を満足させる偶像崇拝的愛も必要としない。

男は、逆にそれらの行為に含まれる要求に応じないという条件でのみそれらを受け入れるのである。男は与えるように女に説教する。そして、女が与えるものは男をうんざりさせる。女は自分の贈り物が無用であるのに非常に困惑し、自分の存在が、無駄であるのにすっかり途方に暮れる。

弱さのうちにではなく強さのうちに、自分から逃げるためにではなく自分を見出すために、自分を放棄するためではなく自分を確立するために、女が恋愛することができるようになったとき、そのときには、恋愛は男にとっても女にとっても生命の源泉となり、死にいたるような危険ではなくなるだろう。

差し当たっては、恋愛は、最も悲壮なかたちで示される、女の世界に閉じ込められた女、自立できない、手足を奪われた女に重くのしかかる矛盾の縮図である。恋愛の数知れない殉教者たちは、女たちに不毛の地獄を最後の救いとして指し示す運命の不公平に抗して、証言したのである。
つづく 第十三章 神秘的信仰に生きる女
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