自分の像を飲むかのように鏡に唇を近づけ、「すてき、私ってすてき」と、微笑みながらつぶやいていた。巫女であると同時に偶像であるナルシシストの女は、永遠の中心で栄光の輝きに包まれて超然とし、大雲の反対側から、ひざまずいた被造物たちがそれを崇める。

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第十一章 ナルシシストの女

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

第三部 自分を正当化する女たち

ナルシシズムはすべての女に共通する基本的な態度であるとしばしば主張されてきた。(*1)だが、ナルシシズムの概念を過度に広げると、ラ・ロシュフコー[一六一三-八〇、作家、モラリスト]がエゴイズムの概念を壊してしまったように、それを壊すことになるだろう。ナルシシズムは、実際は、次のように明確に定義される。

それは、自我が究極の目的とされて、主体が自我へ逃避する態度も――本来的なものであれ、非本来的なものであれ――数多くあり、そのうちのいくつかについて、すでに分析してきた。女が男より自我にすがり、愛に身を捧げるのは、状況が女をそう仕向けるからであるというのが正しいのだ。

どのように愛にも、主体と客体という異なる二要素の共存が必要である。女は、結局は一つのところに至る二つの道を通ってナルシシズムへと導かれる。女は、主体として、満たされないものを感じている。女の子は、男の子にとってはペニスである、あのもう一人の自分[アルテル・エゴ]を奪われていた。

成長しても、攻撃的な性欲は満足させられないままである。そして、はるかに重要なのは、女には男性的な活動が禁止されていることである。いろいろと用事はこなしているが、なにもしていない。妻、母、主婦としての役割を果たしても、女はその個別性において認められているのではない。男の真実は、彼が建てる家、彼が開墾する森、彼が治療する患者のうちにある。

それに対して、女は、企てと目標を介して自己を実現することはできないから、その人格の内在性において自己を把握しようとする。シエイエス[一七四八-一八三六、フランス革命に理論的指針を与えた『第三身分とは何か』の著者]のあの言葉をもじって、マリー・パシュキルツェフは次のように書いている。

「私とは何か。何者でもない。私は何でありたいか。すべてでありたい」。多くの女が自分の関心を自分の自我だけに執拗に限定し、自我を《すべて》と混同するかたちで肥大させるのは、女が何者でもないからなのだ。マリー・パシュキルツェフは「私は私のヒロインです」とも言っている。行動する男は、必然的に自分と向き合う。女は、力を出せず、孤立させられているから、自分を位置づけることも、自分の限界を見定めることもできない。女は、いかなる重要な対象にも手が届かないから、自分に最高の重要性を与えるのである。

女がこのように自分を自分自身の欲望に差し出すのは、子どもの頃から、女には自分が客体として見えていたからである。女は、受けた教育によって、その身体全体のなかに自分を疎外するように促されてきたし、思春期になると、この身体が受け身で、欲望をそそるのものであることを知らされた。

それは、サテンやビロードに手が触れて心を動かされるように、女が、自分の手を差し向けることのできる、そして、恋人の眼差しで見つめることができる。モノである。女が男性的な主体と女性的な客体に二分されることがある。たとえば、ダルビエ(*2)が症例研究の対象としたイレーヌは、自分に向かって次のように言っている。

「私は私を愛そうとしている」。あるいは病気の極期には、「私は私を妊娠させようとしている」と。
マリー・パシュキルツェフは、「それでも、私の腕と上半身を、このみずみずしさとこの若さを誰に見てくれないのは残念です」と書くとき、彼女は主体であると同時に客体である。

 実際、対自が本当に他者であること、そして、意識の光のなかで自分を客体として捉えることは不可能である。二つに文化されるというのは夢想にすぎない。子どもの場合に、このような夢想を具現するのは人形であり、女の子は自分自身の身体よりも人形のうちによりはっきりと自分の姿を認める・

 それは一方[女の子]と他方[人形]のあいだに分離があるからである。自我と自我のあいだに優しい会話が成り立つには二人にならなければならないと、アンナ・ド・ノアイュ夫人はとくに『わが人生の書』のなかで説いた。

 私は人形が大好きで、私自身の存在の活発さを動かない人形にも分け与えました。人形を羊毛と羽根布団でくるまなければ、私自身も暖かい毛布に寝付けませんでした・・・・私は本当に純粋な孤独を二つに分けて味わいたいと夢見ていました・・・・幼い頃は、無垢のままでいたい、自分自身をもう一人増やしたいと切望していました・・・・

ああ、私の夢見がちな幸福感が屈辱の涙に翻弄されるという悲劇的な瞬間に、かたわらにもう一人の幼いアンナがいてくれたなら、私の首に抱きつき、慰め、私のことをわかってくれるでしょう・・・・私は、生涯をとおして、心の中で彼女に会い、力いっぱい引き留めていました。彼女は、私が望んだような慰めのかたちではなく、励ましの形で私を救ってくれました。

思春期になると、娘は人形を眠らせる。しかし、人生をとおして、女は、自分と別れ、自分に再会しようとするなかで、鏡の魔術によって大いに助けられるだろう。ランク[一八八四-一九三九.オーストリアの精神分析学者]は、神話と夢における鏡と分身の関係を明らかにした。とりわけ女の場合には、鏡のなかの反映が自我と同一視される。男の美は超越の証であるが、女の美だけが視線を捉えるために造られ、それゆえに鏡というじっと動かない罠に捉えられてしまうのだ。

自分を能動的、主体的であると思い、そうありたいと望んでいる男は、擬固した自分の像のなかに自分を認めたりしない。男の肉体は彼には欲望の対象とは思わないから、自分の像にはほとんど魅力を感じないのだ。

それに対して、女は自分を対象として認知し、形成するから、鏡のなかに自分をみていると本当に信じ込む。受動的で与えられていたものである反映は、彼女は女の肉体、つまりは自分の肉体を渇望するかのように、自分を称賛し、自分を欲望することで、鏡の中に見る生気のない美質を活気づけるのである。このことをよく知っていたノアイユ夫人は、私たちに次のように打ち明けている。

私は私の中にあるとても力強い、疑いようのない知的素質にはそれほど自惚れは持ちませんでしたが、しばしばお伺いをたてていた鏡に映る像には大いに自惚れました。・・・・肉体的快楽だけが魂をすっかり満たしてくれるのです。

「肉体的快楽」という語は、ここでは曖昧であり、不適切である。魂を満たすといことは、精神ならその真価をこれから発揮しなければならないのに、見つめられている顔はここに、いま、与えられていて、疑う余地がないということである。未来はすべて、その緑によって一つの宇宙が形作られている、この光の緞帳のなかに集められる、この狭い囲いの外では、事態は混沌としたカオスでしかない。

世界は一つの像、すなわち、《唯一者》が輝いているこのガラスの欠片に還元される。自分の反映[もう一人の自分]に耽溺している女はそれぞれが、唯一の絶対的な女君主として、空間と時間を支配する。彼女には男たち、富、栄光、快楽に関するすべての権利がある。

マリー・パシュキルツェフは自分の美に陶酔していたので、それを不滅の大理石にとどめたいと思っていた。このように、彼女が不死に捧げたものがあるとするなら、それは自分自身なのである。

家に帰ると、私は服を脱ぎ、裸になって、はじめて見たかのように、自分の殻だの美しさに感動します。私の彫像を作らなければならないけれど、どのようにしたらいいのかしら。結婚しなかったら、それはほとんど不可能。でも、是非ともそうしなければならない。そうしなかったなら、醜くなって、台無しになるほかないでしょ・・・・たとえ私の彫像を作ってもらうためだけでも、夫が居なければならない。

逢引きに出かける用意をしているセシル・ソレル[1873年生まれのフランスの女優]は、次のように自分を描写している。

私は鏡の前にいます。もっときれいになりたいのです。ぼさぼさの髪と格闘していて、櫛の下では火花が散っています。私の顔は、金色の光線のように逆立った髪の毛に囲まれて、太陽のようです。

私はまた、ある朝カフェの化粧室で見かけた若い女性のことを思い出す。彼女は一本のバラを手に持ち、少し酔っているようだった。自分の像を飲むかのように鏡に唇を近づけ、「すてき、私ってすてき」と、微笑みながらつぶやいていた。巫女であると同時に偶像であるナルシシストの女は、永遠の中心で栄光の輝きに包まれて超然とし、大雲の反対側から、ひざまずいた被造物たちがそれを崇める。

彼女は自分自身を見つめる《神》なのだ。私は自分を愛しています。私は私の神なのです!」と、
メジェロフスキー夫人は言った。神なるとは、即自と対自との不可能な総合を実現することである。個人がそれに成功したと勝手に思い込む瞬間は、その人にとって喜び、高揚、充足の幸運な瞬間である。

十九歳のある日、屋根裏部屋で、ルーセルは頭のまわりに栄光のオーラを感じた。そして、彼はこの症状から解放されることはなかった。鏡の奥に――自分自身の意識によって生命を吹き込まれた、とそう思われた――自分の姿をした美、欲望、愛、幸福を見た娘は、人生をとおして、こまばゆい啓示の約束を味わい尽くそうとするだろう。

「私が愛しているのはあなたなのよ」と、マリ・バシュキルツェフは自分の反映に打ち明ける。別の日には、「私は私をとても愛しています。私はすごく幸せなので、夕食のときとてもはしゃいでいました」と書いている。たとえ女が非の打ち所がないほど美しくはなくても、彼女は自分の顔にその魂独自の豊かさが浮かび出るのを見るだろう。

そして、彼女が自分に酔うにはそれで十分だろう。ヴァレリーの姿をとおして自分を描いた小説[『ヴェレリー』]のなかで、クリューデナー男爵夫人は自分を次のように描写した。

彼女には、私がまだどのような女性にも見たことのなかった。なにか特別なところがあります。同じくらいの上品さと、はるかに優る美しさをそなえた女性でも、彼女には遠く及ばないのです。彼女は見とれるほどではないかもしれないが、なにか理想的な、また魅力的なところがあり、引きつけられてしまうのです。彼女を見た人は、とても繊細で、とてもすらりとしていると言うでしょう。これは一つの意見かもしれませんが・・・・

不器量な女たちでさえときには鏡の恍惚(エクスタシー)を経験することに驚くのは、間違っている。彼女たちは、肉体というもの、それがそこにあるという事実だけでも感動するのだ。男と同じように、彼女たちを驚かせるには、若い女の肉体の純然たる豊かさがあれば十分なのだ。

そして、彼女たちは、ささやかな自己欺瞞から、自分を独自の主体として把握するので、自分の特別な資質には独特の魅力があると考える。自分の顔や肉体に、優美な、類いまれな、興味をそそる何らかの特徴を見出す。自分を女と感じることだけからも、自分を美しいと信じるだろう。

もっとも、鏡は特権を与えられてはいても、分身を作る唯一の装置ではない。誰でも心の中での対話で、双子の兄弟を作り出そうとすることがある。一日の大半を一人で過ごし、家事にうんざりしている女には、自分自身の姿を夢に仕立てる暇がある。

若い娘は未来を思い描いていたが、今は漠然とした現在のなかに閉じ込められていて、自分相手に自分の身の上話をする。彼女はそこに美的秩序を導き入れるかたちで、それに手を加え、死ぬ前から、自分の偶然の人生を運命に変えてしまうのである。

とりわけ、女が子ども時代の思い出にどれだけ深い愛着をもっているかはよく知られている。女性文学はそれを証明している。男の自伝において、子ども時代は、一般に副次的な位置を占めるに過ぎない。反対に、女はしばしば人生の最初の数年についてだけ語るにとどめる。

この最初の数年は彼女たちの長編小説や短編小説の特権的な題材である。女友だちや愛人に自分の身の上話を語る女は、ほとんどみな、次のような言葉で話を始める。「私が小さな女の子だったとき・・・・」。彼女たちはこの時代を今でも愛惜しているのだ。自立の喜びを堪能しながら、頭の上に、父の好意的で威厳のある手を感じたのは、この頃である。

大人たちに保護され、是認されていた彼女たちは、自律した個人であり、目の前には、自由な未来が開けていた。ところがいまは、結婚と愛によって不十分ながらも守られ、現在のなかに閉じ込められ、召使いあるいは客体になってしまった。彼女たちは世界を支配していた。

毎日少しずつ、世界を征服していた。それなのに、彼女たちは宇宙から切り離され、内在と反復に捧げられている。失墜したと感じている。しかし、彼女たちが最も苦しんでいるのは、一般性のなかに飲み込まれていること、つまり、無数の他の妻、母、主婦、女の子のなかの一人であるということである。それに対して、子どもの時には、それぞれの女は独自の仕方で自分の条件を生きていた。

自分の人生修業と仲間たちのそれとのあいだにある類似にはきづかなった。両親、教師、女友だちによって、個性を認められていたし、自分を誰とも比べようのない。ユニークな、またとない幸運を約束された人間だと信じていた。彼女は感動を込めて、かつての自分である、この若い妹の方に振り向くが、彼女はこの妹がもつ自由や要求や主権を捨て去り、この妹を多かれ少なかれ裏切ってきたのだ。

彼女は大人の女になったが、かつての自分であったこの人間を懐かしみ、自分の心の奥底に、死んでしまった子どもを探そうとする。「小さな女の子」という言葉は彼女の心を打つが、「型破りな小さな女の子」という言葉はそれ以上に彼女の心を打つ。それは失われてしまった独創性をよみがえらせてくれのだ。

彼女は、このきわめて希有な子ども時代を前にして、遠くから感嘆するにとどまらず、それを自分のうちに甦らせようとする。自分の好みや考え方や感じ方が型破りの新鮮さをもち続けてきたと確信しようとする。戸惑いながら、むなしさについて問い、首飾りをおもちゃにしながら、あるいは指輪を激しく動かしながら、彼女は呟く。「型破りなのよ・・・・想像してもみて、水が私を魅惑するのを・・・・ああ! 私は田舎に夢中なの」。好みはそれぞれ奇癖のようであり、意見はそれぞれ世界への挑戦のようだ。

ドロシー・パーカーは、生き生きと、この広く知られている特徴について書き記した。彼女はウェルトン夫人を次のように描写している。

彼女は、自分のことを、咲き誇る花々に囲まれていなければ、幸せではいられない女だと思いたがっていて・・・・打ち明け話をしたいというちょっとした衝動から、どれほど花が好きかを人々に打ち明けていた。この罪のない打ち明け話にはほとんど、一トンもの言い訳が含まれ、あたかも彼女が聞き手に、彼女のあまりにも奇異な好みに判定を下さないようにと頼んでいるようだった。彼女は、話し相手がびっくり仰天して、「いや、まったく、どうなることやら!」と叫ぶのを待っているようだった。

時々、彼女はその他の些細な偏愛を告白していた。それにはつねに多少の言い訳が混じっていて、あたかも慎み深いように装い、自分の心をさらけだすのを自ずと嫌悪しているかのように見せていた。彼女は、色彩、田舎、気晴らし、本当に面白い劇、きれいな布地、仕立ての良い服、太陽がどれほど好きかを語った。しかし、彼女が最も頻繫に告白していたのは、花への愛だった。この好みが、他のどれにもまして、自分と普通の人々を隔てているような気がしていたのだ。

女はともかくこのような自己分析を行動によって証明しようとする。彼女は色を選ぶ。「私は、緑、それが私の色」。彼女は大好きな花、香水、お気に入りの音楽、迷信、癖があり、どれも大切にする。衣装と家庭内の飾りつけで自分の個性を表現するためには、彼女は美しくなくてもよい。

彼女を演じている人物には程度の差はあれ、その知性、頑固さ、疎外の深さに応じて、一貫性と独創性がある。ある女たちはいくつかの断片的で混乱した特徴をいい加減に寄せ集めるだけであるが、別の女たちは一貫性をもってある人物像を作り上げ、その役を根気よく演じる。すでに述べたが、このように、女はこの戯れと真実とをうまく分けられないのだ。こうしたヒロインをめぐって、人生は、痛ましいあるいは素晴らしい、だが常に少々奇妙な小説に仕立て上げられる。

ときには、それはすでに書かれた小説である。なんと多くの娘が『砂ぼこり』のジュディに自分の姿を認めたと、私に話したことがある。また私とても醜い老婦人のことを思い出す。彼女は「『谷間の百合』をお読みなさい、あれは私の身の上話なのですよ」と言っていた。まだ子どもだった私は敬意をもちながらも呆気にとられて、このしおれた白百合の花を見つめたものだ。

もっと漠然と、「私の人生はほとんど小説のようだ」と、つぶやく女たちもいる。彼女たちの額の上方には幸運あるいは不運の星がある。「そんなことは私にしか起こらない」と、彼女たちは言う。不運が彼女たちに歩みに絡みつくか、または、幸運が彼女たちに微笑みかける。いずれにせよ、彼女たちには運命があるのだ。

セシル・ソレルその『回想録』全体を貫く無邪気さで、「こうした私は社交界入りを果たしました。最初の友人たちの名前は才能と美でした」と書いている。また、ナルシシストの伝説的モニュメントである『わが人生の書』で、ノアイユ夫人は次のように書いている。

女統治者たちはある日姿を消してしまいました。運命が彼女たちに取って代わったのです。運命は、強くて弱い被造物、女を、その欲求を満たしたと同じだけ虐待しました。運命は女を沈む難破船に乗せたままでしたが、彼女は戦って、自分の花を救おうとしたオフィーリアのように見えました。そして、その声はいつまでも聞こえていました。運命は女にその最後の約束を本当に正しいと思うよう求めました。ギリシア人は死を利用するではないか。そのように命を賭けろと。

さらにナルシシスト文学の例として次の一節を引用しなければならない。

華奢(きゃしゃ)であっても丸みをおびた手足、血色のよい頬をしたかつての丈夫な女の子から、私はもっと弱々しく、捉えどころのない体つきになり、そのせいで、思春期の悲壮な少女に変わってしまいました。

命の泉が、モーゼの岩と同じくらいの不思議さで、私の砂漠、飢え、束の間の神秘的な死からほとばしり出ていたにもかかわらず。私は勇気を誉めそやしたりはしません。私たちはそんな権利はないでしょうから。私は勇気を私の力や可能性と同じに見ています。私の眼は緑色で、髪は黒く、手は小さく、強く・・・・と、人がよく言うように、私は自分の勇気をそのように語ることができるかもしれません。

そして、さらに数行が続く

いま、私にはわかるのです。私は魂とその調和的力に支えられながら、自分の声に合わせて生きてきたということが。

美しさ、輝き、幸せがないと、女は自分を犠牲者と決めるだろう。彼女は《悲しみの聖母》理解されない妻をあくまでも体現しようとする。彼女は彼女から見て、「世界一不幸な女」になるだろう。シュテーケルが描写しているのは、こうした鬱病患者の例である。

 毎年、クリスマスになると、H・W夫人は、青ざめた顔で、くすんだ色の服を着て、自分の運命を嘆くために私のところにやって来る。彼女が泣きながら語るのは、哀しい身の上話である。棒に振った人生、失敗した夫婦生活! 初めて彼女が来たとき、私は涙に心を動かされ、危うく一緒に泣きそうになった・・・・そうこうしているうちに、長かった二年の歳月が流れたが、彼女は、失われた人生を嘆きながら、いまもなお彼女の経験の廃墟に住んでいる。

 彼女の表情は衰えた最初の兆候をはっきりと示しているが、それが、「私はどうしてしまったの、あんなにきれいだと言われていたのに」という、彼女の嘆きのもう一つの理由になっている。彼女の嘆きは増え、友だちがみな自分の不幸な運命のことを知っているからと言って、絶望感を言い立てる。

 嘆いてはみんなをうんざりさせる・・・・これが、彼女が自分を不幸で、ひとりぽっちで、理解されていないと感じる、もう一つの原因である。もはや、この苦しみの迷路からの出口はなかった・・・・この女性はこのような悲劇的な役に喜びを見出していた。彼女は文字通りこの世で一番不幸な女であるという考えに陶酔していたのだ。彼女の積極的な人生を歩ませようとするすべての努力は挫折した。

 愛しいウェルトン夫人、素晴らしいアンナ・ド・ノアイュ、シュテーケルの不幸な患者、特別の運命を定められた多くの女たち、彼女たちに共通する特徴は、自分は理解されていないと感じていることである。彼女たちの周囲にいる人々はその独自性を認めていない。あるいは十分に認めていない。

 彼女たちは、他人のことのような無視や無関心を好意的に解釈して、自分が心に秘密を押し隠しているためにそうなるのだと考える。事実は、多くの女たちは、自分にとってとても大切だった子ども時代や青春時代のエピソードを心のうちにひそかに秘めているということなのだ。

 彼女たちは自分の表向きの伝記と本当の身の上話が一致していないことを知っている。だがなによりも、ナルシシストの女が深く愛するヒロインは、人生において自分を実現できないのだから、理想の産物にすぎないのである。

 ナルシシストの女にとってヒロインとの一体性は、具体的な世界によって与えられるのではない。つまり、それは、隠された原理、フロギストン[十八世紀の燃焼理論において仮想された可燃性の元素]と同じくらい曖昧な、一種の「力」あるいは「効力」なのである。ナルシシストの女はその実在を信じているのだ。もし他人にそれを知らせたいと思うならば、明瞭なかたちをもたない罪の告白をしようと一生懸命な精神衰弱患者と同じくらい当惑するだろう。

 どちらの場合も、「秘密」は、感情と行動を解読し正当化できる鍵を自我の奥底にもっているという空虚な確信でしかないのだ。精神衰弱患者にこのような幻想を与えるのは、彼らの無為や無気力である。そして、女が自分には説明できない神秘が宿っていると思うのも、日々の活動のなかで自分を表現することができないからである。女性の神秘というかの有名な神話は、女のそう言う思い込みを助長し、そうすることで、さらに強化されるのである。

幸福の星のもとにあろうと、不幸な星のもとにあろうと、まだ知られていない宝物をうちに秘めている女の目には、運命に支配される悲劇の主人公たちの必要条件が自分には備わっていると思われる。彼女の人生すべてが神聖な劇に変わる。

厳かに選び抜かれた衣装の下には、司祭服をまとった女司祭と、忠実な手で飾られ、信奉者の崇拝に捧げられた偶像がともに立っている。彼女の部屋は彼女の祭礼が執り行われる寺院になる。マリー・パシュキルツェフは、ドレスに払うのと同じくらいの注意を、自分のまわりに配置する空間にも払っている。

机のそばに、古いタイプの肘掛け椅子があるので、人が部屋に入って来たとき、その人と向き合って座るには、この肘掛け椅子をちょっと動かして向きを変えればよい・・・・本を置く側に並べた衒学者風の机のそば、絵画と植物のあいだで、以前のようにあの黒い木で二分されて遮られる代わりに、脚と爪先が見えるになっている。

長椅子の上方には、マンドリンが二つとギターが掛かっている。こうした部屋の真ん中に、静脈が青く浮き出た、とても小さく繊細な手をした、金髪で色白の娘を置いてみてください。

客間のなかを気取って歩くとき、愛人の腕に身を委ねるとき、女は自分の使命を実現する。彼女は、世界に彼女という美の財宝を与えるヴィーナスである。ビブ[一八八八年生まれのフランスの風刺画家。彼の描いたセシル・ソレルの手きびしく滑稽な人物戯画は有名]の風刺画のついたグラスを砕いたとき、セシル・ソレルが守ったのは彼女自身ではなく《美》である。

彼女の『回想録』を読むと、彼女は人生のすべての瞬間に、人々を《芸術》の崇拝へと誘ってきたことがわかる。同様に、『わが生涯』のなかのイサドラ・ダンカンもそのように自分を描写している。

公演のあと、チュニックをまとい、バラの冠をかぶった私はなんときれいだったことか! なぜ、この魅力がうまく生かせないのかしら。なぜ、一日中頭を使って働く男が・・・・。この素晴らしい両腕に抱きしめられないなんてことがあったいいものかしら。彼が労苦に対する多少の慰めと、美と忘我の数時間を見出せないなんてことがあっていいのかしら。

ナルシシストの女の寛大さは、彼女にとって都合がいい。彼女が栄光に輝く後光に包まれた自分の分身を認めるには、鏡のなかよりも他人のうっとりした目の中である。そうした好意的な観客がいないと、彼女は聴罪司祭や医者、精神分析医に心を打つ明け、手相見や占い師に相談に行く。

「信じるわけではないけれど、誰かに私の話をしてもらうのがとても好きなの」と、あるスターの卵が言っていた。彼女は女友だちに自分の話をするが、他の誰よりも熱心に恋人に、証人になってもらいたがる。恋する女はすぐに自分の自我を忘れる。だが、女たちの多くは、まさに自分のことを決して忘れないから、本当の恋ができない。

彼女たちは閨房[寝室]での親密さよりも大舞台の方を好む。だから、彼女たちにとって社交生活は重要なのだ。彼女たちは、見つめてくれる眼差し、聞いてくれる耳が必要であり、彼女たちが演じる人物にとっては、できるかぎり多くの観客が必要なのだ。自分の部屋を描写しながら、マリー・パシュキルツェフはおもわず次のように告白している。

こうして、人は私の部屋に入って来て、私が書き物をしているのに気づくとき、私は舞台の上に、いるのです。

さらに、あとに次のように記している。

私は自分なりの出演料を奮発することにきめました。サラの邸宅よりもっときれいな邸宅と、もっと大きなアトリエを建てるつもりです・・・・

ノアイュ夫人で、次のように書いている。

私は広場が好きでしたし、今でも好きです・・・・それで、私は誰も座っていない長椅子の前で演じるのは好きではないのよと素直に告白して、しばしば男友だちを、安心させることができたのです。彼らはお客の数の多さに恐縮していて、それを私が不快に思うのではないかと心配していたのです。

化粧と会話は、この誇示したいという女の嗜好の大部分を満たしてくれる。しかし、野心的なナルシシストの女は、より非凡でより多彩なやり方で自分を見せびらかしたいと思う。とりわけ、彼女は自分の人生を観衆の喝采に供される劇にして、大真面目に芝居気たっぷりに振る舞うことに喜びを見出すだろう。

スタール夫人は『コリーヌ』のなかで、ハープの伴奏で詩を詠じて、イタリアの群衆を魅了したさまを長々と語っている。コペ[スイス、リマン湖畔の町]での彼女のお気に入りの気晴らしの一つは、悲劇的なセリフを朗読することだった。たいてい、彼女はフェードル[ギリシア神話のファイドラ。クレタ王ミノスとバシファエの子で、テセウスの妻、義理の息子ヒッポリュトスを愛し、自殺する]に扮して、ヒッポリュトスに仮装させた若い愛人たちに情熱的な愛の告白をするのだった。

クリューデナー男爵夫人はショールダンスを専門としていたが、彼女はそれについて『ヴァレリー』のなかで次のように書いている。

ヴァレリーは濃紺のモスリンのショールを求め、額にかかる髪の毛を払いのけ、頭のうえにショールをかけた。ショールは彼女のこめかみから肩に沿って垂れ下がっていた。彼女の額は古代風に浮かび上がり、髪は全く見えず、両肩は下げられ、いつもの微笑みは少しずつ消えた。

頭が傾くと、ショールはふわりと、組まれた腕と胸のうえに落ちた。その青い服とその清らかで優しい姿は、コレッジョ[一四八九-一五三四、イタリアの画家]によって描かれた絵のようで、穏やかな忍従を表現していた。それから、視線を上げ、唇に微笑が浮かぼうとするとき、まるで、シェークスピアが描いたように、遺跡のそばで《苦悩》に微笑みかける《忍耐》を見るようだった。

・・・・見るべきは、ヴァレリーである。内気であると同時に気高く、深い感受性をもち、惑わし、魅了し、感動させ、涙を流させ、そして、心臓に大きなショックを受けたときのようにドキドキさせるのは、彼女である。習って身につくものではない、自然が少数の優れた存在に密かに示した、このような魅力的な上品さを備えているのが彼女である。

もし状況がそうするのを許すならば、公に芝居に身を捧げるほど深い満足をナルシシストの女に与えるものはないだろう。ジョルジェット・ルプランは言う。

芝居は、私がそこに求めていたもの、つまり、高揚の動機となるものを与えてくれました。いま、芝居は私にとってカリナチェアのように思われます。並外れた気質に不可欠な何かのように思われます。

彼女が使っている表現はきわだっている。行動することがない女は、行動の代用品を考え出す。芝居は、ある女たちにとっては、特権的な代用品なのだ。それに、女優は非常にさまざまな目的をめざすことができる。ある女たちにとって、演じることはお金を稼ぐための一つの手段、単なる職業である。

別の女たちにとっては、名声への接近であり、名声は色恋のために利用されるだろう。さらに別の女たちによっては、自分たちのナルシシズムの勝利である。最も偉大な女優たち――ラシェル、ラ・ドゥーゼ[一八五九-一九二四、イタリアの舞台女優]―-は、自分達たちが作り出す役のなかで自己を超越する、真の芸術家である。それに対して、大根役者は自分が達成することにではなく、役によって自分に及ぶであろう名誉を気にかける。

彼女は何よりまず自分の価値を認めてもらおうとする。頑固なナルシシストの女は、自分を与えることを知らないので、愛におけると同様に芸術においても限界がある。

このような欠点は彼女の行動すべてにわたってはっきりと認められる。彼女は栄光につながる可能性のあるあらゆる道に気をそそられる。だが、無条件にそこに身を投じることは決してしないだろう。絵画、彫刻、文学は厳しい修業を必要とし、孤独な作業を要求する専門分野である。

多くの女がこれに取り組もうとするが、積極的な創造の欲求につき動かされないと、すぐに断念してしまう。辛抱強く続ける女たちの多くも、仕事をしているのを「演じている」にすぎない。マリー・バシュキルツェュは、名誉を渇望していたので、イーゼルの前で何時間も過ごしていたが、描くことを本当に愛するには、あまりにも自分のことを愛していた。

数年間悔しい思いを重ねたのちに、彼女はみずから次のように告白している。「そう、私は描く苦労を自分に課さなかった。自分を観察すると、いまは、自分を偽っている・・・・」。スタール夫人やノアイュ夫人のように、女が作品を打ち立てるのに成功するのは、自分に対する崇拝だけに囚われていなときである。女性作家の多くに重くのしかかる大きな欠陥の一つは、自分自身に対する自惚れであり、力を削ぐのである。

優越感が染み込んだ女の多くは、だからといって、それを人々に示すことができるわけではない。そうなると、彼女たちの抱く野心は、男に自分の美点を納得させ、彼を仲介者として利用するということになる。彼女たちは、自由なプロジェによって独自の価値を目指すのではなく、自分の自我に既成の価値をつけ加えたいと思うのだ。

だから、彼女たちは権勢と栄光を握る男たちに助けを求め、ミューズ、霊感を与える女、影響力をもつ女となって、彼らと一体化することを期待するのだろう。その顕著な例が、ロレンスとの関係におけるメイベル・ドッジの例である。彼女は次のように書いている。

私は彼の精神を魅了し、彼が何かを作り出すよう仕向けたかったのです・・・・私には、彼の魂、彼の意志、彼の創造的な想像力、そして彼の明晰な洞察力が必要だったのです。私がこうした必要不可欠な道具の女主人になるには、彼の血を支配する必要がありました・・・・私はいつも物事を、それが何であれ、自分自身でしようとせずに、他人にやらせようとしてきました。

私は代理人を介して一種の活気や豊かさを得てきのです。それは、何もすることがないという悲嘆の気持ちに対する一種の代償でした。

また、もっと後では次のように言っている。

私は、ロレンスが私を通して勝利者になること、彼が私の経験、私の観察、私のタオ[道教の哲理]を利用すること、そして、彼がこれらすべてを見事な芸術創造において表現することを望んでいました。

同様に、ジョルジェット・ルプランはメーテルリンクノ『栄養と炎』デアリタイト思っていた。しかしまた、この詩人が書いた本に自分の名前ガ記されているのを見たいとも思っていた。ここで問題にしているのは、――ユルシン王妃[一六四二-一七二二、フランス、イタリア、スペインの宮廷で活躍した女性]やスタール夫人のような――個人的な目的を選択し、それを実現するために男を利用する。

野心的な女ではなく、極めて主観的な権威志向にうごかされ、どのような客観的な目標をも目指さず、他人の超越を自分のものだと言い張るような女である。彼女たちがそれに成功するのは稀である。だが、彼女たちは自分の失敗から目をそらし、自分には抗しがたい魅力が備わっているのだと信じ込むのには長けている。

自分が愛らしく、好ましく、素晴らしいことを知っている女は、愛され、望まれ、感心されていると確信している。ナルシシストの女すべてベリーズ[モリエールの戯曲『女学者』の登場人物]である。ロレンスに献身した純真無垢なブレットでさえも、自分をちょっとした人物に仕立て上げ、重々しい魅力に授けている。

目をあげると、あなたはが半神獣のように皮肉っぽく私を見つめているのに気づきました。挑発的な光があなたの目のなかで輝いて、まるでパン[ギリシア神話の神。上半身は人間、下半身は山羊の姿をしている]のように。私は、あなたの顔からその光が消えるまで、威厳のある堂々とした態度であなたをじっと見つめます。

このような幻想が正真正銘の妄想を生み出すこともある。クレランボー[一八七二-一九三四、フランスの精神医学者]が恋愛妄想を「一種の職業的な妄想」と見なしたのも、理由のないことではない。自分を女であると思うことは、望ましい対象であると思うことであり、自分が愛されていると信じることである。

「愛されているという幻想」に冒されている患者の一〇人に九人が女であるということは注目に値する。女たちが想像上の恋人に求めているのは、自分のナルシシズムの開花であることは、まったく明らかである。彼女たちは、恋人が、聖職者、医者、弁護士のような、絶対的価値を備えた男であってほしいと願う。

そして、彼女の行動に見出される明確な真実は、彼女が理想とする女主人は他のすべての女より優れていて、その女主人には抗しがたい至高の徳があるということである。
つづく 十一章Ⅱ 恋愛妄想はさまざまな精神病のさなかに現れてくる
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