男は女にもったいぶって男の美徳と名誉の法典を押しつける。しかし密かに、その服従しないように女にほのめかす。不服従を期待してさえもいる。女が服従してしまえば、男がその背後で身を守っている壮麗な建前は崩壊してしまうだろう。

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十章 Ⅳ 女は、男の道徳が、女に関する限り、酷い欺瞞であるのを知っている

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

市民は普遍に向けて自己を超越することによって尊厳を獲得するというヘーゲルの考えを、男は拠り所にしがちである。だか、一人の個人として、男は欲望や快楽を得る権利がある。だから、男と女の関係は、道徳がもう適用されず、行動がどうでもいい領域に位置づけられるのだ。男は他の男たちとは価値が含まれているさまざまな関係を持つ。男は一個の自由であって、万人が広く認めている諸法則にしたがって、他の自由に立ち向かう。

しかし、女に対しては、男は自らの実存を引き受けるのをやめて、即自在性の幻想に身を委ね、非本来的な場所に自分を位置させる。暴君となり、サディストになって乱暴になるか、あるいは幼稚でマゾヒストで愚痴っぽくなる。

自分の妄想や偏執を満足させようとする。公的な生活を得ている権利を笠にきて、「気を緩め」たり、「だらけ」たりする。その妻は――テレーズ。デスケルー[フランソワ・モーリヤックの同名の小説の主人公]のように――夫の話や公的な行動の高尚な姿と、「陰で根気よくやる捏造」との対照に驚くことが多い。男は口では人口増加を説きすすめる。ところが、巧みに自分の都合のいいだけの子供しか作らないようにする。

貞操で忠実な妻を褒め称えるが、隣人の妻を不倫に誘う。すでに見たように、男が偽善的にも中絶は犯罪であると決めつけている一方で、毎年フランスでは百万人もの女が男よって中絶しなければならい立場に追い込まれている。夫や恋人はたいていこの解決策を女に押し付ける。

また彼らは、必要な場合には、この策がとられるのを暗黙のうちに想定している場合が多い。女が不法行為の罪をかぶってくれるのを期待すると公言する。女の「背徳」が男たちの尊重する道徳的社会の調和に必要なのだ。

この裏表のある態度の最も明白な例は、売春に対する男の態度である。売春の供給を生み出すのは男の需要なのだ。一般的には悪徳を非難しながら、自分の個人的な偏執にはきわめて寛大な尊敬すべき紳士たちのことを、売春婦たちがどんなに嫌悪に満ちた懐疑的態度で見ているかはすでに述べた。

しかし、自分の肉体で生活する娘たちは背徳的で身をもちくずしていると見られるのに、その娘たちの肉体を利用する男はそうは見られない。こうした精神状態を例証する逸話がある。前世紀末のことだが、警察はある娼家で十二、三歳の少女を二人発見した。

訴訟となって少女たちは証言した。社会的地位のある客たちのことを話し、少女の一人がその名前を揚げようと口を開いた。検事は慌ててとめた。「名誉ある方の名を汚さないように!」国家から名誉勲章を授かった紳士は、少女の処女を奪う時もやはり名誉ある方なのだ。

名誉ある方にも弱点はある。弱点のない人間などいるだろうか。一方、普遍という倫理的な領域に属していない少女――司法官でも将軍でも偉大なフランス人でもない、ただの小娘――は性欲という偶然的な領域で自分の道徳的価値を賭けるのだ。それは背徳の女、堕落した女、感化院行きのひどい不良少女なのだ。

男は多くの場合、女に加担させて、自分の高尚な姿を汚すことなしに、女には不名誉となる行為をすることができる。女にはこうした巧妙さがよくわからない。女にわかるのは、男は、自分が標榜し、女にそれに背くよう要求する原則に従って行動しているのではないという事だ。男は、自分が望むと言っているものを望んではいない。

だから女も、自分が男に与えるふりをしているものを与えないのだ。女は貞節で忠実な妻になるのだろう。そして、こっそり自分の欲望に身を任すだろう。彼女は称賛すべき母親になるだろう。しかし、注意深く「バースコントロール」をして、必要なら中絶する。男はそんな女のやり方を表向きには否認する。これがゲームの規則なのだ。

しかし男は、「貞操観念の乏しい」女や「不妊症」の女に感謝している。女は、捕まれば銃殺され、成功すれば報奨をたっぷり与えられるというスパイの役割を演じている。男の背徳の結果をすべて背負わされる売春婦だけでなく女全体が、立派な方たちの住んでいる輝かしく健康な宮殿の下水溝の役割を果たしているのだ。

そのあとで、品位とか名誉、誠実、男のあらゆる高尚な美徳を話したとき、女が「従う」の拒否したところで驚くにはあたらない。有徳者ぶった男に、欲得ずくだの、芝居をするだの、噓をつきだのと非難されても、女は蔭で冷笑している。(*6)

他にどんな出口も開けてもらえないことを女はよく知っているのだ。男もまた、金や成功には「関心」がある。しかし男には、労働によってそれらを獲得する手段がある。女には寄生者の役割が割り当てられている。寄生者はすべて必然的に搾取者になる。女は、人間の尊厳の為に、男を必要とする。

女は、服従するときには自主的に快楽を感じるふりをする必要がある。

性の奉仕によって男の恩恵を確保する。そして、そうした機能に閉じ込められているため、女はまるごと搾取の道具となってしまう。嘘をつくことは、売春の場合を除いて、女の保護者とのあいだの公明正大な取引に差しさわりとならない。男は女に芝居を演じるように求めさえもする。男は女に《他者》であることを望むのだ。

しかし存在者はすべて、どんなに強く自分を否認しても、あくまでも主体である。男は女をモノにしたがる。それで、女は自らモノになる。女は存在しようとする瞬間、自由な活動性を発揮する。これこそは、女の生来の裏切りである。最も従順な、最も受動的な女でも、やはり意識をもつ存在である。

だから時には、女が男に身を任せながらも男を見て判断していると気づくだけで、男は騙されたと感じる事があるのだ。女は捧げもの、獲物でもなければならない。しかし男はまた、このモノを女が自由意志で男に委ねるよう要求する。ベッドでは、男は女が快楽を感じるように要求する。

家庭では、女が男の優越性と長所を心から認めなければならない。だから女は、服従するときには自主的に快楽を感じるふりをする必要がある。その一方で、他の場合には、受動性の芝居を能動的に演じる。女は、日々の糧を確保してくれる男を引き止めておくために、喧嘩と泪と、愛の陶酔、神経発作といった嘘をつく。

また、打算的に受け入れている横暴から逃れるためにも嘘をつく。男は、自分の権柄ずくな態度と虚栄心を満足させるための芝居をするように女をそそのかす。そこで女は、隠し事をする能力を男に向け直す。こうして女は二重に楽しめる仕返しをするのだ。

男をだますことで、女は自分だけで欲望を満たし、男を翻弄する快楽を味わう妻や娼婦は感じてもいないのに陶酔しているふりをして嘘をつく。そのあとで、愛人や女友だちと一緒になって騙された男のおめでたい虚栄心を面白がる。「彼らは私たちを『満足させない』ばかりか、必死になって悦びの声をあげるのを望んでいるのよ」と、恨みを込めて言う。

こうした会話は、ちょうど調理場で「主人」悪口を言う使用人たちの会話と似ている。女が使用人と同じ欠点をもっているのは、女も同じ家父長的温情主義の抑圧の犠牲者であるからだ。女は従僕が主人を見るように下から上に男を見るので、同じような冷笑的態度をとる。しかし、女の特徴はどれも、生まれつきの堕落した本性や意志を表しているのではないのは明らかである。

つまり、どれもが状況を反映しているのだ。「強制的な制度のあるところはどこでも、虚偽がある」とフリーリエは言った。「商品と同じく、愛においても禁輸と密輸は切り離さない」。そして、男は、女の欠点とは女の条件を表すものであることもよく知っているので、男女の序列の維持に気を使いながら、男が女を軽蔑する根拠となるような女のさまざまな特徴を自分の伴侶のうちに助長するのだ。

もちろん夫や愛人は、一緒に暮らしている個別的な女の欠点には苛立つ。しかし彼らは、女らしさの一般的な魅力をほめそやかすときには、女らしさの一般的な魅力をほめやかすときには、女らしさは女の欠点と不可分なものと考えている。

女は、不実で軽薄で臆病でものぐさでなければ、その魅力を失ってしまうのだ。『人形の家』のなかでヘルメス[女主人公ノラの夫]は、男が弱い女に子どもっぽい過失を許すときに、どんなに自分が正しく、強く、思いやり深く、寛大であると感じるかを説明している。

同様に、ベルスタンの描いた夫たちは――作者と加担して――盗みや、いじわるや、姦淫する女に同情している。彼らは寛大にも女に深い関心をよせて、自分たちの男としての賢明さを推し量っている。アメリカの人種差別主義者やフランスの入植者もまた、黒人が手癖が悪く、怠け者で、噓つきであることを望んでいる。

それが黒人の無能力を表しているというわけである。黒人は抑圧者の側に正当性をもたらす。もし黒人がどこまでも正直で誠実であろうとすると、強情だと見られる。従って、女の欠点は、女がそれを克服しようとはしないで、反対に飾りにしようとするだけに、いっそう目立つのだ。

論理的原理や道徳的命令を拒み、自然の法則に対して懐疑的である女は、普遍の感覚をもたない。世界は個々の事態の雑然とした集まりのように女には見える。女が科学的な説明より近所の女の噂話を信じやすいのはそのためだ。印刷された書物を尊敬するかもしれないが、その尊敬は書物の内容をつかむことなく、書かれたページにそっとすべっていく。

ところが反対に、何かの行列やサロンで見知らぬ人間の語った逸話はすぐに圧倒的な権威を帯びる。女の領域ではすべてが魔術である。下界はすべてが不可解だ。女は何が真実かというその基準をしらない。自分自身の経験でも、また他人の経験でも、それが十分に強く主張されるなら、確信をもたらすのは直接的な経験だけだ。

女は家庭に孤立していて、自分を他の女たちと積極的に対比することがないので、自然に自分が特異な立場にいると考える。運命と男たちが自分にいいように例外を作ってくれるのを待っている。誰もが承認できる論理より、自分の心によぎる霊感の方をずっと信じる。女はそのような霊感が神だとか世界の得体の知れない霊のようなものから送られるのだと想定しやすい。

ある種の不幸や事故については、平静に、「私にはそんなことは起こらないだろう」と思う。また逆に、「私は例外にしてくれるだろう」と思い込む。商人は割引してくれ、警察官は通行許可証なしに通してくれるだろう。人は女の微笑の価値を過大評価することを女に教えたが、女は誰でも微笑みするものだということを教えるのを忘れた。

それは女が隣の女より自分の方がすばらしいと思うからではない。つまり、女は比較をしないからなのだ。同じ理由から、女が経験を得て誤りを取り消すことは滅多にない。一つの失敗は拭っても、それらを総決算することができない。

だからこそ、女は男に挑戦できるような確固とした「反・世界」をうまく構築できないのである。散発的に、男一般を知ったり、ベットでのことや出産の話をし合ったり、星占いや美容法を語りあったりはする。しかし、女たちから発する「怨念の世界」を真に打ちたてるには確信に欠けているのだ。女たちの男に対する態度はひどく両面的である。

実際、男は、子どもで、偶然的で傷つきやすい身体であり、おめでたくて、しつこいマルハナバチで、卑しい暴君で、利己主義者で、見栄っぱりだ。だがまた、女を開放してくれる英雄であり、女に価値を与えてくれる神である。男の欲望は粗野な欲求で、その抱擁は下劣でうんざりする。けれども、男の激しい情熱や力はまた造化の神のエネルギーのようにも思える。

うっとりと「あの人は男だわ」と言うとき、女は自分が感嘆する男の男性的な勢力と社会的な有能さを同時に思い浮かべている。そのどちらにも同じ創造の絶対的な力が表されているからだ。



女はベットの快楽の中に世界の精霊との交わりを見る事が出来るのだ
女はある男のことを大芸術家も大事業家、将軍、指導者だと想像するときはいつも、その男がたくましい恋人であると考えている。男の社会的成功にはいつも性的魅力がある。その逆に、自分の欲望を満足させてくれる男には天才を認めがちである。

 もっとも、女がここで取り上げているのは男の神話である。男根(フアルス)は、ロレンスや他の多くの人にとっては、生き生きとした精力であると同時に人間的な超越である。それで、女はベットの快楽の中に世界の精霊との交わりを見る事が出来るのだ。
男に神秘的な崇拝を捧げている女は、男の栄光のなかに自分を没し、そして自分を再発見する。

 ここで矛盾は、男らしさを備えた人間が多数いるせいでたやすく取り除かれる。あの男たち――つまり女が日常生活のつまらなさを感じ取っているような男たち――は、人間の惨めさを体現している。他の男たちにあっては、男の偉大さが高揚されている。

 だが女は、この二つの姿が二つの姿が一つの姿に溶け合ってしまうことさえ受け入れる。自分より優れていると思っている男に恋をした若い娘がこう書いていた。「私が有名になったら、R・・・・は虚栄心が満たされるでしょうから、きっと私と結婚するでしょう。私と腕を組んで散歩しながら彼は胸を反らすでしょう」。こう言いながらも、彼女は彼がすごく立派だと思っていたのだ。同じ男が女の目には、けちで、こせこせして、見栄っ張りで、安っぽくて、しかも神さまでありうる。結局、神にも弱点はあるのだから。

 わたしたちは、その自由とその人間性において愛する人間に対しては、本当の尊敬の裏返しである気難しい厳格さを要求する。自分の男の前にひざまずく女は「男の扱い方を心得ている」ことや「操り方を知っている」ことを覆いに自慢するが、男の威信を失わせずに、男の欠点におもねだっているのだ。

 男らしさとは神聖なオーラ、擬個した一定の価値であり、たとえ、それを見に帯びている人間に欠陥があったとしても、それははっきりと表れているものなのだ。本人はどうでもいいのだ。むしろ、男の特権を羨んでいる女は、意地悪い気持ちで男を抑えることに喜びを見出すのである。

 女が男に対して抱く感情の両義性は、自分自身および世界に対する女の一般的な態度の内にも見出される。女が閉じ込められている領域は男の世界に包囲されている。この男の世界は男自身が弄ばれる得体の知れない力にとりつかれている。女がその魔法の力と結び付けば、今度は女が権力を獲得することになるのだろう。

 社会は《自然》を制圧する。しかし、《自然》は社会を支配する。《精神》は《生命》を超えて確立される。しかし、生命が支えなくなれば精神は消滅してしまうのだ。こうしたあいまいさを根拠に、女は都市よりも庭に、思想よりも病気に、革命よりも出産に、より多くの真実を認めようとする。

 女は自分が非本質的なものに対して再び本質的なものになろうとして、バッハオーフェン[一八一五-八七、スイスの民族学者。『母権制』の著者]の大地や《母》の支配を回復しようとする。しかし女もまた超越性を宿した実存者なので、自分の閉じ込められている領域を変形させることでしかその領域を高めることができない。

 女はそれに超越的な次元を与えるのである。男は思考された現実という理路整然とした世界に生きている。女の思考は許さない魔術的な現実と格闘している。実質的な内容をともなわない思考によって、その現実から脱出しようとしているのである。女は、自分の実存を引き受けるかわりに、天空に自分の運命の純粋《イデア》を見つめ、行動する代わりに、想像的なもののなかに自分の像を打ち立てる。

推論するかわりに夢想する。だから女は、あれほど「肉体的」であり人工的であるのに、また地上的であるのに、あれほど霊気に満ちているのだ。女の人生は鍋を磨くことで過ぎ去っていき、それは素晴らしいロマンである。女は、男の家来なのに、自分が男の偶像だと信じている。自分の肉体を辱しめられていながら、《愛》を賛美する。女は、生命の偶然的な事実性しか体験できないようにされているので、《理想》に仕える巫女となるのだ。

こうした両面性は、女が自分の身体を把握する仕方にも示されている。それは重荷だ。なぜなら、種によって苦しめられ、毎月出血し、受け身に生殖するその身体は、女にとって世界への手がかりの純粋な道具ではなく、不透明な存在であるからだ。女の身体は快楽を確実に自分のものにすることが出来ないし、苦痛が生じ、引き裂かれる。その身体のうちに脅威をはらんでいるので、女は自分の「内部」で自らの危険を感じている。

それは、内分泌物が筋肉や内蔵を統制する交感神経と密接に結びついているので、ヒステリックな身体である。それは、女か引き受けることを拒否する反応を表現する。すすり泣くき、痙攣、嘔吐のとき、身体は女から逃れ、女裏切る。身体は女の最も身近な真実であるが、それは恥ずべき真実であり、女はそれを隠す。

けれども身体はまた、女の素晴らしい分身でもある。女には鏡に映した身体を驚嘆して見とれる。それは幸福の約束、芸術品、生ける彫像だ。女は身体の形を整え、飾りたて、人前にさらす。鏡に向かって微笑むとき、女は自分の肉体的偶然性を忘れる。

愛の抱擁や母性のなかで自分のイメージは消えている。だが女はたいてい、自分自身のことを思って、自分がヒロインであると同時に肉体であることを驚くのだ。
《自然》は女に対称的に二重の顔を与えている。ポトフ[鍋料理]を煮るのと、神秘的な感動へ誘うのと。主婦になり、母になると、女は野原や森に自由に逃げ出していくのを諦め、それよりも平穏に菜園を作って楽しみ、花を栽培して花瓶に生けるのを好むようになった。

けれども、月光や夕日を見るとやはり気持ちが高鳴る。地上の動物や植物に女は何よりもまず食料や装飾を見る。だが、そこには自然の恵みであり魔力である精気が流れているのだ。「生命」は単に内在と反復なのではない。それはまた光の輝かしい面ももっている。花の咲き乱れる野では《生命》は《美》として現れる。

胎内の豊穣によって自然と調和している女はまた、自分を活気づける精霊である息吹に吹かれている感じがする。そして、女がどこまでも満足できずに、無限に未完成の女であると感じるほどに、魂はまたどこまでも続く道の果てしない地平線の彼方に吸い込まれていく。夫に、子どもに、家庭に縛り付けられている女は陶酔してただ一人丘の中腹に立つ支配者のような気分になる。

彼女はもう妻でも母でもない主婦でもない。一人の人間である。彼女はもう受け身の世界を眺める。そして、自分が一つの意識、何ものにも変えられない一個の自由であることを思い出す。水の神秘や山頂の躍動する姿の前で、男の支配的地位は消えてしまう。ヒースの野を横切って歩くとき、手を川のなかに浸すとき、女は他人の為にではなく、自分のために生きているのだ。

あらゆる拘束状態のなかで独立を維持してきた女は、《自然》に品の良い陶酔の口実を見出すだけだ。そして、そういう女たちは風邪をひく心配と魂の恍惚とのあいだのどっちつかずの状態でためらうことになる。

このように、肉体的世界と「詩的」世界に二重に属していることは、女が多少とも明白に受け入れている形而(けいしこう)上学、智恵をはっきり示している。女は生命と超越を混同しようとする。つまり、女はデカルト哲学やそれに類似するすべての意見を受け入れないのだ。

女はストア学派の哲学者や十六世紀の新プラトン主義者たちに似た自然主義に対しては気楽でいられる。マルグリット・ド・ナヴァール[一四九二-一五四九、フランスの女性作家]をはじめとして、女たちがそのような物質的であると同時に精神的な哲学に引きつけられたのは驚くに当たらない。

社会的にはマニ教徒である女は、存在論的には楽天主義者であろうとする深い欲求を持っている。女には行動することを禁じられているので、行動のモラルは女に適しないのだ。女はあらかじめ与えられた条件が「善」でなければならない。

しかし、スピノザのものと認められている計算に基づくとく善や、ライプニッツのものと認められる計算に基づく善は、女の心を捉えることはできない。女は生命ある一つの「調和」であり、ただ生きるという事実だけでそこにいられるような善を要求する。調和の概念は女の世界の鍵の一つである。その概念は、不動における完全さ、全体から各要素に至るまでの直接的な正当化、総体性への女の受動的な参加を含んでいる。調和した世界のなかで、女は男が行動の中に求めるものに到達する。

女も世界を越え、世界から要求され、「善」の勝利に協力しているというわけだ。女が啓示を受けたと思うときは、自身の上に安らかに休息しつつ現実に調和しているのを発見するときである。それは、V・ウルフが――『ダロウェイ夫人』『灯台へ』のなかで――K・マンスフィールドがその全作品において、女主人公たちに最高の報償として与えている輝かしい幸福の時である。

自由の飛翔という喜びは男のものだ。女が知るのは穏やかな充実感(*7)の印象である。女はふつう拒否や不平や要求の緊張のなかで生活しているので、単なる精神の平静(アタラクシア)が女の目には高い価値を持って見えるのはわかる。だから女が美しい午後や夕べのやさしさを味わうのを非難できないだろう。

しかし、そこに世界の隠された魂の真の定義を求めるのはまやかしである。「善」はあるのではない。世界は調和ではないし、どの個人も世界に必然的な場所をもってはいない。

社会がいつも懸命に女に分かち与えようとしてきた女の正当化、最高の補償がある。宗教である。民衆に宗教が必要であるのとまったく同じ理由で、女にも宗教は必要だ、ある性を、ある階級を内在に運命づけようとするなら、それに超越の幻想を与えなければならないのだ。

男が作る掟を神に肩代わりしてもらうのは、男にとってきわめて有利である。男はとりわけ女に対して至高の存在から男に授けられたとすれば都合がいい。とくにユダヤ人やマホメット教徒やキリスト教徒たちのあいだでは、男は神権をもつ主人である。神への恐れが被圧迫者の反抗の意図をすべて抑えつけてしまう。女の信じやすさがあてにされる。
つづく 十章 Ⅴ 女は男の世界を前にして尊敬と信仰の態度をとる
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