頻繁に自殺を演じる女のヒステリーは、涙で反抗を十分に表現できないと、女は喚き散らし、その支離滅裂な荒々しさが男をさらにいっそう狼狽させる。
ある段層では男が妻を実際に殴ることもある。また別の断層では、男の方が強くその拳固は効果的な道具であることがはっきりしているので、男は暴力をいっさい控える。

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十章 Ⅲ 頻繁に自殺を演じる女のヒステリー

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

 女は子どものように他愛ない荒れ方をする、女が男にとびかかって引っ掻いても、それは身振りに過ぎない。だが、とりわけ女は神経的な発作をしおして、具体的に実現できない拒否を身体で表そうとする。女が痙攣的な表現をしやすいのは生理的な理由からだけではない。痙攣とは、世界に向けて投じられたにもかかわらず何もつかめなかったエネルギーが内面化されたものなのだ。それは状況によって呼び覚まされるあらゆる不定能力が無駄づかいされたものである。

 母親は幼い子どもの前ではめったに神経発作に陥らない。子どもをぶったり罰としたりできるからだ。女が激しい絶望に落ち込むのは、手を挙げることのできないおおきな息子や夫や愛人を前にする時である。ソフィア・トルストイがヒステリックに喚き散らかすのは意味深いものがある。

 たしかに、彼女が夫を理解していなかったのは大きな間違いで、その日記を見ても、彼女は寛大ではないし、思いやりにも欠け、誠実でない。魅力があるとも思えない。しかし、彼女が間違っていたにしても正しかったとしても、彼女の状況が酷いものだったことには変わりはない。

 生涯を通じて、彼女は夫婦の抱擁、妊娠・出産、孤独、夫が押し付ける生活様式に、不平を言いながら耐えるだけだった。トルストイの新しい決心によって争いが激化すると、彼女の敵の意志に対抗する武器がなくなり、自分のありったけの無力な意志でもって相手の意志を拒む。拒否の芝居をやりだす――狂言自殺、噓の家出、仮病、その他――、まわりのものには不愉快で、彼女自身も消耗する。他にどんな解決策があるのか誰もわからない。彼女には自分の反抗心を抑えるようなはっきりとした理由が何もなく、またそれを表現する効果的な手段もないのだから。

 拒否の果てまできた女に開かれている出口が一つだけある。それは自殺だ。しかし、女は男より自殺の手は使わないようである。このへんのところの統計は大変曖昧だ(*5)。成功した自殺を見ると、自殺を考えるのは女より男の方がずっと多い。だが、自殺未遂は女の方に頻繁にある。それは多分、女は狂言で満足することが多いからである。

 女は男より頻繁に自殺を演じるが、自殺を望むのは男より少ないのだ。それはまた、粗野な方法を嫌うせいでもある。だから女は刃物や銃器はほとんど使わない。オフィーリアのように、身投げする方がずっと好きだ。これは、女と、生命が抵抗せずに溶けてしまうような受動的で闇にみちた水との、類似性を示している。全体として、ここでも、私がすでに指摘した両義性が見られる。つまり、女は、嫌いなものでも、自分の心に忠実になってそれを捨てようとはしないのである。

 女は縁を切るような芝居はするが、結局は自分を苦しめる男のそばにとどまる。自分を虐待する人生に別れを告げるふりをするが、自殺するのは比較的少ない。女は決定的な解決を好まない。女は男や人生や自分の条件に抗議するけれども、そこから脱出はしないのだ。

 それが抗議であると解釈しなければならない女の振舞は沢山ある。すでに見たように、快楽のためではなく挑戦するために、女が夫を裏切ることはよくある。夫が几帳面で倹約家だと、女はわざと軽率で浪費家になる。「女はいつも遅刻する」と非難する女嫌いの男は、女に正確さの感覚が欠けていると考える。

 実際はすでに見たように、女は時間の要求に実に素直に従う。女がわざと遅れるのはわびさびなのだ。コケティッシュな女には、そうすれば男の欲望を刺激して自分の姿の価値がさらに高まると思う者もいる。しかしそれよりも、女は男をしばらく待たせておくことで、自分自身の生活そのものである長く待つということに抗議しているのだ。ある意味では女の全生活は待つことである。

 女は内在、偶然性という混沌としたもののなかに閉じ込められていて、自分を正当化してくれるものはつねに他者の掌中にあるからだ。女は男たちの賛辞賛同を待ち、愛を待ち、夫や恋人の感謝の念や称賛を待っている。存在する理由、自分の価値、そして存在そのものさえ男たちから待っている。

生活費を待っている。女が小切手帳を手にしていようと、毎週あるいは毎月夫から与えられる金額を持っていようと、夫がその支払い分を手に入れなければならないのだし、女が食料品屋の支払いをしたり新しいドレスを買ったりするには、その余分の額を夫が獲得しておかなければならない。

女は男が現れるのを待っている。経済的に依存しているために男の意のままになるのだ。女は男の一要素にすぎないのに、男は女の生活全体である。夫は家庭の外で仕事を持っているが、妻は一日中夫の不在に耐えている。恋人同士でも男の方が――相手に夢中になっていても――自分のやるべきことを優先させて、別れたり会ったりするのを決める。

ベッドでは女は男の欲望を待ち、自分自身の快楽を――時には不安な気持ちで――待っている。女は出来るのは、恋人が決めた待ち合わせに遅れていくこと、夫が命令した時間に用意していないことぐらいだ。こうすることで、女は自分自身の仕事の重大さを主張し、独立を要求し、束の間だが、他者が受け身でその意志に従う本質的な主体になる。

しかし、これは臆病な仕返しだ。どんなに意地を張って男を[他者として]「定めよう」としても、女は、自分がいつもうかがい、期待し、男の望みに従うのに過ごす無限の時間を埋め合わせることは決してないだろう。

一般に女は、男の優位を大体認め、その権威を受け入れ、その偶像を崇拝しているが、一歩一歩、男の支配に抗(あらが)おうともしている。そこから、女がいつも非難される例の「あまのじゃく」が生じる。女は自律的な領域をもたないので、明確な真理や価値を男の主張する真理や価値に対抗させることができず、それを否定することしかできないのだ。

女の否定は、男への尊敬と恨みの混じり合い方の度合に応じてだが、いずれにしても意固地なものだ。しかし実際は、女は男の体系の欠陥をすべて知っていて、それを告発しよう躍起になっているのである。

女は体験を通じて論理や技術の扱い方を学ぶことがないので、男の世界への手がかりをもたない。逆に、男の道具のもつ力は女の領域の境界では消えてしまう。自分はその事を考えることが出来ないので、男が故意に無視しようとする人間的経験の一分野がある。その経験こそを、女は生きる。設計図を作る時はとても精密な技師も、家では造化の神のようにふるまう。

ひと言発すれば、食事が運ばれ、シャツは糊付けされ、子どもは黙る。子を作るのはモーゼの杖を振るうようにすばやい行為である。男はこうした奇跡に驚かない。奇跡の概念は魔術の考え方とは違う。奇跡とは、合理的に決定されている世界のただなかに原因のない出来事の徹底的な非連続性を置くことであり、それに対して思考はすべて砕けてしまう。

一方、魔術的な現象は秘密の力で結ばれていて、従順な意志がそれの連続的な変転を――理解はしないけれども――感じることはできる。生まれたばかりの子は、造化の神たる父にとっては奇跡的であり、その成熟を自分の胎内で耐えてきた母にとっては魔術的である。

男の経験は理解しやすいが、いくつも穴が開いている。女の経験はそれ自身の境界内で、漠然としているが充実している。この不透明さが女を鈍重にする。女と男の関係において、男は女に軽々しく見える。男は独裁者、将軍、裁判官、官僚、法典、抽象的な原則のもつ軽さをもっている。いつか、ある主婦が肩をすくめて次のように呟いたのは、多分そのことを言いたかったのだ――「男は考えなしなんだから!」。女たちはまたこうも言う。「男はものを知らない。人生を知らないのよ」。女は「カマキリ」の神話に対抗させて、軽薄で騒々しいマルハナバチを象徴にする。

こうした見方に立つと、女が男の論理を拒絶するのもよくわかる。男の論理が女の経験にかみ合わないだけでなく、理性が男の手の中では陰険なかたちをした暴力になってしまうことを、女たちは知っている。男たちの断固とした主張は、女をたぶらかすためだ。女を、同意するのかもしれないのか、のジレンマに閉じ込めようとする。

認められている諸原則の体系全体の名において、女は同意しなければならない。同意を拒めば、体系全体を拒むことになる。女はそんな向こう見ずな事はできない。女には別の社会に参加してもいない。反抗と隷属のなかばで、女は男の権威にいやいや服従している。女の曖昧な服従の結果を、そのつど女に強制的に背負わせるのは、暴力によってである。

男は自由意思により奴隷になっている伴侶、という幻想を追いかける。男は、女が男に譲歩することによって定理の明証性にも譲歩することを望む。しかし女は、男の厳密な推論のもとになっている公準は男がみずから選んだものであることを知っている。

その公準を女が疑おうとしない限り、男が女の口を閉ざすのは簡単だ。とはいえ、それが恣意的なものであるのを知っている。男は女を説得できない。そこで男は腹を立てて、女を強情だとか筋が通っていないなどと非難する。女は骰子(さい「意味双六、さいころ」)がいかさまだと知っているので、勝負をするのを拒否するのだ。

女は真理が男たちの主張する者とは別のものだとほんとうに考えているわけではない。むしろ、真理は存在しないと認めている。生命の生成が女に同一律につぃて疑わせたり、女を取り巻く魔術的現象が因果関係の観念を失わせたりするだけではない。男の世界そのものの中で、その世界に属している者としての自分のなかで、女はすべて原理、すべての価値、存在するすべてのもの曖昧さ把握するのだ。
つづく 十章 Ⅳ 女は、男の道徳が、女に関する限り、酷い欺瞞であるのを知っている
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