女が官能的快楽をむさぼるように追い求めるのは、ほとんどの場合、それを奪われているからである。性的に満たされておらず、男の荒々しさに身を捧げ、「男の醜さを我慢しなければならない」。女友だちや若い恋人の愛撫で自分を慰めるのだ

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十章 Ⅱ 女の受動的なエロチシズム

本表紙
第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

女が非難される多くの欠点、すなわち凡庸、卑小、臆病、吝嗇(りんしょく)、怠惰、軽薄さ、卑屈などは、単に女には前途が閉ざされているという事実を表わしているにすぎない。女は官能的だとか、内在のなかに転がっているとか言われる。だがなによりも、女は閉じ込められるのだ。

ハレムに幽閉されている女奴隷は、すき好んでバラのジャムや香水風呂に病的に熱中しているわけではない。彼女たちは暇つぶしをしなければならないのだ。女は陰気な閨房――娼家やブルジョアの家庭―のなかで息をつまらせているかぎり、快適さや安楽さに逃避する。だいたい
女が官能的快楽をむさぼるように追い求めるのは、ほとんどの場合、それを奪われているからである。性的に満たされておらず、男の荒々しさに身を捧げ、「男の醜さを我慢しなければならない」
女は、クリーム・ソースやまわりの早いワイン、ビロード、水や太陽や女友だちや若い恋人の愛撫で自分を慰めるのだ。

女が男にとってきわめて「肉体的」存在に見えるのは、女の条件が女の動物性に極度の重要性を与えるよう女にしむけるからである。男より女の肉体の方が強く叫ぶわけではない。しかし女は肉体のどんな些細なつぶやきにも耳をすましてそれを誇張するのだ、性的快楽は、激しい苦痛と同様に、直接的なものの電撃的な勝利だ。

瞬間の荒々しさによって、未来と世界は否定される。燃え上がる肉体の他にはなにもない。この束の間の絶頂のあいだ、女はもう骨抜きにされてもいなし、欲求不満でもない。しかし、もう一度繰り返すが、女が内在のこうした勝利にこれほどの価値を与えるのは、もっぱら内在が女の唯一の定めであるからに他ならない。

女の軽薄さにその「浅ましい物質主義」と同じ原因がある。女は大きな事には近づけないので小さなことを重視する。それに、女の日々を満たしているつまらないことの方が大切である場合が多い。女は自分の魅力やチャンスを化粧とか自分の美しさに頼る。

女は怠惰でものぐさでいることも多いが、女にあてがわれている仕事は時の単調な流れそのもののように空しいものだ。女がお喋りで、あれこれものを書きたがるのは、無為を紛らわすためである。不可能な行為を言葉に置き換えようとするのだ。事実、女も人間にふさわしい企てにかかわれば、自分が男と同じように活発で、効果的で、寡黙で、禁欲的であることを示せる。

女は卑屈だと非難される。女はいつでも主人にひれ伏したり、自分を打った手に接吻することができると言われるが、たしかに、一般的に見て女は真の自尊心に欠けている。「身の上相談欄」が裏切られた妻や捨てられた女に与える助言には、卑屈な服従精神が吹き込まれている。

女は横柄な態度で喧嘩してへとへとになっても、最後には男が投げるパンくずを拾う。しかし、男が唯一の手段であり唯一の生きる理由でもある女は、男の後盾なしにいったい何ができるのだろう。女はあらゆる屈辱に耐え忍ばなければならない。奴隷は「人間の尊厳」の感覚を持つことができない。

窮地を切り抜けるだけで精一杯である。要するに、女が「卑俗」で、「家事にかまけて」、あさましく功利的なのは、食事の用意をしたり排泄物を始末することに自分の生活を捧げるように強いられているからである。こんな状態からは、偉大さという感覚を引き出すことはできないのだ。

女は自分の偶然性と事実性のなかで生活の単調な繰り返しをしっかり守らなければならない。これでは、女自身が繰り返したり、やり直したりで、けっして発明することはなく、時はぐるぐる回るだけでどこにも導いてくれないように女に感じられるのは当然なのだ。

女は決して何もする訳ではないのに、忙しい。だから、女は自分の所有しているもののなかに自己を疎外する。こうした物への依存は男から強いられている依存の結果であり、これが女の用心深い倹約や吝嗇(りんしょく)を説明づけている。女の生活は目的に向けられてはいない。それは食料、衣服、住居など、手段以外のなにものでもない物を作ったり保ったりすることに吸収されてしまう。

そうした物は動物的な生活と自由な実存とのあいだの非本質的な媒介物である。非本質的な手段に結び付けられる唯一の価値は、有用性である。主婦はこの有用性というレベルで生きているのであって、彼女自身も身近な人たちに役立つことだけを自慢にしている。

しかし、どんな存在者も非本質的な役割に満足していることはできない。すぐに手段を目的にしてしまう――とくに政治家に見られるように――、そして手段の価値が自分の目には絶対的な価値にとなるのだ。このように、主婦の空間では有用性が真理や美、自由よりも強く支配している。そして、こうした自分自身の観点に立って、彼女は世界全体と向き合うのである。

だから彼女は中庸主義も凡庸というアリストテレス的なモラルを採用してしまう。彼女の大胆さや熱意、毅然とした態度、偉大さをどうして見つけることができようか。このような性質が現れるのは、自由があらかじめ与えられた条件すべてを乗り越えて開かれた未来のなかを前方へと向かっていく場合だけである。

人は女を台所や閨房(けいぼう「寝室・寝やの意味」)に閉じ込めておきながら、女の視野が狭いといって驚く。女の翼を切っておきながら、女が飛べないのを嘆く。女に未来を開いてやれば、女はもう現在に安住しなくてもよくなるのだ。

女に対する非難の一貫性のなさは、女を女の自我や家庭という限界のなかに閉じ込めておきながらそのナショナリズムや利己主義、また、それらに付随する虚栄、自尊心の傷つきやすさ、意地悪さなどを非難するときにも露呈する。女は他人とのコミュニケーションの可能性をまったく奪われている。女は個別に、自分の家族にまるごと捧げられているので、連帯の魅力や利益を自分の経験を通じて感じる事がない。

だから、一般的な利益へ向けて自分を乗り越えていくことを女に期待することはできない。女は自分の慣れ親しんだ領域、物のうえに足掛かりが得られ、かりそめの主権を手にできる唯一の領域に執拗に閉じこもっている。

とはいえ、扉を閉ざそうと窓を塞ごうと無駄で、女は家庭のなかにも絶対の安全を見つけることはできない。女があえて入っていこうとはせずに遠くから敬っている男の世界が、女を取り巻いているのだ。その男の世界を技術や確実な理論や有機的につながった知識をとおして捉えることができないので、女は子どもや未開人のように自分が危険な神秘に取り巻かれていると感じる。

女は現実に対する魔術的な考え方を男の世界に投射する。事態のなりゆきは女には宿命的に思えるが、それでも何が起きてもおかしくない。女は可能と不可能の区別が上手くできず、誰のことでも信じてしまう。噂をすべて受け入れ、広め、パニックを引き起こす。

平穏な時も懸念しながら生きている。夜、半眠状態でじっと横たわっていると、現実がまとう悪夢の顔に怯える。
このように、受け身にならざるを得ない女にとって、不透明な未来は戦争や革命、飢餓や貧困の妄想につきまとわれている。行動できないので不安になる。夫や息子は、自分が何かの企てに身を投じたり、事件に巻き込まれた場合、その危険を自分自身のこととして受け止める。男たちの企てや男たちが従う規則は、暗闇のなかにも確かな道を示している。しかし女は漠然とした夜の闇のなかで七転八倒している。何もしないから「気に病む」。想像の中では可能性がすべて現実となる。

汽車は脱線するかもしれず、手術は失敗するかもしれず、事業はしくじるかもしれない。女かいつまでもうじうじと考えるなかで空しく払いのけようとするもの、それは自分自身の無力の亡霊なのだ。

女の態度は終始一貫して不平不満だ

気苦労は既成の世界に対する女の不信を表している。女にとって世界が脅威に満ちていて、見えざる大惨事でいまにも崩れてしまいそうに思えるのは、女がこの世界では降伏と感じられるからだ。多くの場合、女はあきらめに甘んじているわけではない。自分が耐え忍んでいるのでいのは、いやいやであることをよく知っている。女は相談されたうえで女でいるわけでないのだ。

反抗する勇気はなく、いやいやながら服従しているにすぎない。女の態度は終始一貫して不平不満だ。女の打ち明け話を聞く医師や僧侶や民生委員たちはみな、女の話し方がだいたい嘆き調であるのを知っている。女友だちどうしでもそれぞれが自分の不幸を嘆く。また一緒になって運命の不公平や世間や男一般を嘆く。

自由な個人は失敗すれば自分だけを責め、その失敗を引き受けるものだ。しかし、女に起こることはすべて他人のせいで、女の不幸に責任があるのは他人である。女の激しい絶望は手の施しようがない。くどくどと不平ばかり言う女に解決法をすすめてもなんにもならない。

どれも女には受け付けられそうもないのだ。女は自分が生きている状況をそのままに、つまり無力な怒りの中に生きてたいのだ。何か変化を勧めると、空に両腕を突き上げて「最悪だわ!」と言う。女は、自分の不快感は自分であげつらう口実よりも根が深く、そこから解放されるにはその場しのぎの手段では不十分だということを知っている。

世界が女抜きで、女に対抗して築き上げられたので、女は世界全体を責めるのだ。娘時代から、幼年期からも、女は自分の条件に抗議する。その埋め合わせが女に約束され、チャンスを男の手に預けるならそれは百倍になって返って来ると保証された。そして、女は騙されたと思う

女は男の世界全体を告発する。怨恨は依存の裏返しである。全てを与えても、十分に見返りがあることはまずないのだ。そうであっても、女は男の世界を尊重するのを必要ともしている。まるごと男の世界に抗議してしまったら、頭上の屋根がなくなって危険だと感じるようになるだろう。そこで、主婦の経験から思いついたマニ教の教徒の態度をとることになる。

行動する人間は、他の人と同じように自分も善や悪に責任があることを認める。目標を定めそれを実現させるのは自分だということを知っている。行動するなかで、解決はすべて曖昧なものであることを経験する。正義と不正、利益と損失は複雑に入り組んでいるものだ。しかし、受け身でいる者は誰も、勝負の外に身を置いていて、倫理的な問題を考えることすらしない。

善は実現されなければならず、もし実現されないなら過失があるからで、その張本人を罰する必要があるぐらいしか思っていない。子どもと同じように、女も善と悪をただの通俗版画のように想像している。善悪二元論は選択の不安を取り除くことで精神を安定させる。

災いというより小さな災い、現在の利益と将来のより大きな利益のあいだを決定すること、敗北したか勝利したかを自分で決めなければならないということ、それは恐ろしい危険を冒すことだ。善悪二元論者にとって良い穀物の実は悪い毒麦とはっきりと区別されていて、毒麦を抜きとりさえすればいいのだ。ほこりはほこりであるがゆえに悪い。清潔とは汚れがまったくないことである。

清掃とは屑や泥を取り払うことだ。こういうふうに。「何もかも」がユダヤ人やフリーメイソン、ボルシェヴィキ、政府の「過失」だと、女は考える。つねに誰かに、あるいは何かに反対なのである。反ドレフェス派のなかでも女の方が男よりずっと過激だった。

女たちは悪の原理がどこにあるのか必ずしも知っているとは限らない。しんし、女たちが「良い政府」に期待するのは、家からほこりを追い出すように悪を追い出してくれることもある。熱烈なドゴール派の女性には、ドゴールは清掃人の王のように見えた。彼が羽根箒や雑巾を手にして、磨いて艶を出し、「清潔な」フランスを作ってくれるのを想像するのだ。

しかしこうした希望はいつも不確かな未来のなかにある。差し当たっては悪か善を蝕みつづける。そして、ユダ人やボルシェヴィキやフレーメイソンが手に届くところにいないので、女はもっと具体的に憤りをぶつける相手を探す。そこで、夫に矛先が向く。男の世界が具現されているのは夫であり、男社会が女を引き受けておきながら欺いたのは、夫をとおしてである。。夫はこの世界の重さをささえている。

だからもし事態が悪くなれば夫のせいである。夫が夕方返って来ると、妻は子どものことや行きつけの店の主人のこと、生活費、リウマチ、天気のことなどを夫に責任があることを感じるせたいのだ。夫に対して個人的な不満を抱いていることもしばしばある。が、なによりも夫が男であることが罪なのだ。夫も病気になったり心配ごともあるだろう。

けれども、「同じじゃない」のだ。夫は特権を持っていてそれを妻は不当だと感じている。注目すべきことは、夫や恋人に対して抱く敵意が女を彼らから遠ざけるのではなく結び付けるという点である。男は、妻や愛人が嫌になれば逃げ出す。ところが、女は仕返しをするために相手を引き止めておこうとする。人を激しく非難することを選ぶと、不幸から抜け出すのではなく、不幸のなかで七転八倒することを選ぶことになる。女の最高の慰めは、自分を犠牲者だと思うことだ。自分の人生は男が征服してしまった。この敗北そのものを女は一つの勝利にしようとする。女が、子どもの頃のようにあれほどの無造作に涙にくれたり、喚き散らかしたりするのはそのためだ。

女があれほど簡単に泣けるは、その人生が無力な反抗を基盤に成り立っているからに違いない。たしかに、女は生理的に男より交感神経をコントロールしにくい。教育は女になりゆきに任せるようにと教えた。ここでは命令が大きな役割を演じている。習慣が禁じて以来、男は泣くことを辞めてしまったのに、ディドロやパンジャマン・コンスタンはボロボロ涙を流して泣いた。

しかし、女はとくに、世界に対していつも失敗の振る舞いをする傾向がある。世界を素直に受けとめたことがないからだ。男は世界に同意する。不幸であってもその態度を変えない。男は世界に立ち向かい、「打つ負かされるままになってはいけない」。ところが女は、一つ障害が生じるたびに、世界に敵意をいだき、自分の運命を不当だと思う。そんなときは急いでより安全な隠れ家、すなわち自分自身のなかに駆け込む。女の頬の暖かい涙の跡、焼けつくようなくぼんだ目、そこには悲痛な魂がはっきり現れている。

皮膚に柔らかく、舌にかすかな塩味のする涙は、また優しく苦い愛撫である。顔は慈しみに満ちた水の流れる下で輝いている。涙は嘆きであり慰めでもあり、熱であり心を静める冷たさでもある。涙はまた最高の逃げ道だ。雷雨のように突然ごろごろざあざあ降ったたり、台風や夕立やにわか雨となって、女を嘆きの泉、不穏な空に変えてしまう。その日はもう見えず、霧に包まれる。

それはもう眼差しでさえなく、雨に溶ける。盲目となった女は自然物の受動性に戻るのだ。女は、負けるように望まれ、その敗北のなかに沈む。垂直に沈んで行き、溺れる。瀑布を前になすすべもなく見つめている男から、女は逃れていく。男はこのようなやり方は正々堂々としていないと思う。

しかし女の方は、自分の手に効果的な武器は何も渡されていないのだから、闘争はそのはじめからして正々堂々としていないのだと思っている。女はここでもう一度魔術的な企みを用いる。そして、そのすすり泣きが男を苛立たせるのを知っているので、ますますこのやり方にのめり込む。
つづく 十章 Ⅲ 頻繁に自殺を演じる女のヒステリ
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