第三部 第十三、十四、結論章

第十三章
*1 「涙が彼女の顔を燃え立たせていて、冷水を浴びせなければならないほどだった」と、彼女の伝記作者の一人は伝えている。
*2 しかしシエナの聖女カタリナの場合は、神学的関心がひじょうに重要である。彼女もまた、かなり男性的なタイプである。
*3 ギュイヨン夫人

第四部 第十四章
*1 T巻参照。そうした仕事が外で働く女にとってどれほど耐え難いものだったはか述べた
*2 この状況についてはT巻、で検証した。
*3 この作品は――私は名前を忘れてしまった。急いで思い出さなくてはならないように思われないが――、彼らがどんな女性客も満足させるためにどのように訓練され、彼らにどんな生活をさせなければならないかを長々と説明している。
*4 この感情は若い娘に見られると私たちは指摘した感情の代償だ。ただ彼女は最終的には自分の運命を諦めて受け入れてしまうのである。
*5 T巻、第一部第一章でこの意見には一定の真実があることは見てきた。しかし、この非対称が作用するのは厳密には欲望の瞬間ではない。生殖においてである。欲望のなかでは男も女も同じように自然な機能を引き受けている。
*6 クララとロバート・シューマンの生活は一定期間ではあったが、この種の成功例であろう。
*7 それは同じ方法によるだけでなく、同じ環境のなかでということだ。教育者のあらゆる努力にもかかわらず、これは今日でも不可能だ。
*8 「見者の手紙」、1871年5月15日

第四部 結論
*1 『酒中に真あり』。キルケゴールはこうも言っている。「レディー・ファーストなどの礼儀は――本質的に――女のためである。そして女がためらいもなく礼儀を受け入れる事実は。最も弱い、最も恵まれない者のために自然がそのように配慮したからだと説明できる。
 こうした者たちにとって錯覚は償い以上の意味がある。しかし、この錯覚は彼らにとってまさに致命的である・・・・想像のおかげで悲惨さから解放されたと感じる、想像に騙される、こういうことはより根が深い嘲笑ではなかろうか・・・・女は、見捨てらた”人”に程遠いが、しかし、別の意味では、まさに見捨てられた者である。なぜなら、自然が女を慰めるために錯覚を利用してきたせいで、女は、今後ともけっして錯覚から解放されはしないだろうから」
*2 ある種のあまりにもきつい職業が女に禁止されていることは、こうした方向に矛盾しない、男たちのあいだでも、職業への適応の問題が、ますます具体的に取り組まれていて、彼らの身体的、知的能力によって、選択の可能性は決まる。とにかく、私たちが望むのは、性やカーストにどんな境界も設けないことである。
*3 私が知っている八歳の男の子は、母親、おば、祖母という三人とも自立していて活動的な人たちと、半分不能な高齢の祖父と一緒に暮らしている。彼は、女に対して、ひどい「劣等コンプレックス」に陥っていて、母親がどうにかしようと努力している。学校では、彼は友だちや教師をかわいそうな男たちと思い、軽蔑している。
*4 『哲学的論考』第六巻。強調はマルクス自身による。