第二部 第十、十一、章十二章


第二部 第十、十一、章十二章
*1 J・P・サルトル『汚れた手』参照。
 「エドエル――頑固な女たちだ。あいつらは、出来合いの思想を受け入れて、神を信じるように信じる。思想を作るのはわれわれだし、その製造所を知っている。われわれは、自分たちの理屈が正しいと確信など絶対にしていないさ」
*2 「将軍の通る沿道の群衆は、とりわけ女性と子どもが多かった」(「シ・ジュルノー」紙――1948年9月、ドゴール将軍のサヴォワ地方視察旅行に関する記事)「男性は将軍の演説に拍手喝采だったが、女性の熱狂ぶりは際立っていた。なかには、それこそ一語一語に聞き入っては文字通り恍惚とし、それは熱狂的に叫び声を上げながら拍手するので、顔がヒナゲシのように紅潮している女性たちもいた」(「ナ・ゼクート」紙、1947年4月11日)
*3 ジッド『日記』を参照。 「クレューズかロトの妻――一人はぐずくずし、もう一人は後ろを振り返る。これも、ぐずくずする。一つのやり方だ。情熱の叫びとしては、次のもの以上のものはあるまい。
 
このフェードルは、迷路にあなたとともに下って 道を見つけるも、失うも、あなたと運命をともにするつもり。
しかし、情熱が彼女を盲目にしている。実際、しばらく歩いたあげくに、彼女は座り込んでしまい、引き返したがるだろう――それとも、おぶってほしがるだろう」
*4 そのようにして、プロレタリアの女たちの態度は一世紀前から根底から変わった。とくに、北部の炭鉱における最近のストライキでは、女たちが、男たちと同じくらいの情熱とエネルギーのあるところを示し、男たちと並んで示威行動し、闘った。
*5 アルブヴァックス『自殺の原因』参照。
*6 「女はみなデリケートで弱弱しそうな様子。聖女も過去の長い奴隷状態の蓄積で同じ様子をしている。心ならずも誘惑的な風情で時を待つ以外には、救済と生活の資のための武器もない」(ジュール・ラフォルグ)
*7 数ある作品のなかから、メイベル・ドッジの数行を引用しておく。ここには全体的な世界像への移行ははっきり書かれていないが、明確に暗示されている。「金色と緋色に染まった秋の静かな一日だった。フリーダと私は果実をより分けていた。私たちは地面に座り、まわりには赤いリンゴが山積みになっていた。私たちはしばらく手を休め。太陽と肥沃な大地が私たちを暖ため、芳香で満たしていた。リンゴは充実と平和と豊穣の生きている印である。
 大地から生命力があふれ出て私たちの血脈にも注がれ、私たちは陽気で、誰にも飼いならされない、果樹園のような豊かさに満ちているように感じていた。ひととき私たちは、女が時折、完璧で自分だけで完全に自足していると感じる、豊かで幸福な健康から生まれる感情で結ばれていた」

第三部 第十一章
*1 ヘレーネ・ドイッチュ『女性の心理』参照。
*2 『精神分析』。子どもの頃、イレーヌは男の子のように排尿するのが好きだったし、夢の中゛自分がオンディーヌ[北欧神話の水の精]の姿をしているのを頻繁に見た。これはナルシシズムと、ハヴェロック・エリスが「アンディニズム」と呼ぶもの、すなわち一種の尿のエロチシズムとの関係に関する彼の解釈を証明している。
*3 『不感症の女』
*4 『恋愛妄想』

第三部 第十二章
*1 強調はニーチェによる。
*2 『強迫観念と精神衰弱』
*3  M・ウェッブ『影の重さ』。
*4 I・ダンカン『わが生涯』
*5 とくに『チャタレイ夫人の恋人』を参照のこと。メラーズの口を通して、ロレンスは自分を快楽の道具とする女たちへの激しい嫌悪感を示している。
*6 これはとくに、H・ドイッチュの説である。『女性の心理』
*7 サルトル『存在と無』参照。
*8 アルベチーヌがアルベールであるとしても、ここでは何も変わらない。いずれにしろ、ここでのブルーストの態度は男性的な態度である。
*9 『私は眠る男たちを憎む』
*10 『華やかな智恵』
*11 これは[ボーヴォワールが]『ビリウスとシネアス』で明らかにしようとしたことがある。
*12 女が結婚に自分の自律を見出しているなら、事情は違ってくる。そうなれば、夫婦のあいだの愛は二人の人間の自由な交換であることができるし、それぞれが満足する。
*13 ファニー・ハースト『裏通り』。
*14 R・レーマン『風雨』。
*15 これはとくにラガッシュの『嫉妬の性質と形態』という著書に現れていることである。
*16 作者はドミニック・ロラン。
*17 イサドラ・ダンカンの言葉
*18 T巻を参照のこと。