第二部 第五章

*1 T巻を参照。
*2 同上
*3 この進化は断続的に生じ、エジプト、ローマ、近代文明社会で繰り返された。T巻第二部「歴史」を参照のこと。
*4 官能文学に描かれた若い未亡人に独特の性格はこの点に由来する。
*5 T巻を参照。この考え方は、聖パウロ、初期教会の神父たち、ルソー、ブルードン。オーギュスト・コント、D・H・ロレンス等に見いだされる。
*6 『家庭のクロディーヌ』
*7 クレール・ルプレ『婚約』
*8 同上
*9 「しょせん穴は穴」という諺はもちろん粗野な冗談にすぎない。男は剥き出しの快楽とはまた別のものを求めはする。がそれでも、ある種の「安売春宿」の繁栄ぶりからわかるように、男はどんな女とでも快楽をいくらか味わう事ができる。
*10 たとえば、陣痛は母性本能の形成に必要だと主張する者もいる。雄鹿は麻酔をかけられて出産すると産んだ子鹿を寄せ付けないからというのだ。こんな援用例はまったくいい加減なものだ。だいたい女は鹿ではない。男のなかには女の重荷が軽減されるのを憤慨する者が入るというのが真相である。
*11 今日でも、女が快楽を求めることは男の怒りを引き起こす。この点について驚くべき資料がある。グレミョン博士の小論『女のオルガススムの真相』である。序論によれば、著者は第一次世界大戦の英雄で、54人のドイツ人捕虜の生命を救った、きわめて高い品性の持ち主とのことだ。
 彼はシュテーケルの著作『不感症の女』を猛烈に罵倒し、とりわけ次のように宣言している。

 「正常な女、よく子供を産む女に、性交時のオルガススムはない。多くの女は、みごとな痙攣など決して感じたことのない母親、それも最上の母親である・・・・たいていは潜在しているという性感帯は、自然の物ではなく人為的なものである。そんなものを備えていると言って得意になっている女もいるが、それこそ堕落のしるしというものだ・・・・こうしたことすべてを漁色家に言ってみても、見向きもされまい。

 破廉恥な相手の女がオルガススムに達するのを男が欲するなら、そうなると。オルガススムというものが存在しなければ作り出されるはずだ。当世の女は興奮させてもらいたがっている。こう応えてやろう。あなた、私たちには時間がないし、そんなことは衛生上禁じられていますよ!

 ・・・・性感帯の発明者は自らに不利な結果を招いた。飽くことを知らないで女をつくったのだから。性悪の女は疲れもせずに無数の亭主族の精力を尽き果てさせることができる・・・・「性感帯をもつ女」が新しい精神の女になり、時として犯罪にさえ走る恐るべき女になっている・・・・「セックスをする」ことは、食べたり糞尿を排泄したり眠ったりすることと同様につまらない行為であるとされるなら、神経症も精神病もなくなるに・・・・」
*12 『酒中に真あり』
*13 『結婚についての諸想』
*14 T巻第三部「神話」を参照。
*15 「合衆国のいくつかの地方では、移民の一世が今日でも床入りの証拠として血のついたシーツをヨーロッパに残る家族に送り返す」とキンゼー報告は述べている。
*16 『家庭のクロディーヌ』
*17 『不安の神経症状』
*18 『夜は動く』参照。
*19 前章で引用したシュテーケルの所見を参照のこと。
*20 『女性の心理』
*21 シュテーケルの『不感症の女』にしたがって要約したもの。
*22 『女』
*23 『さすらいの女』
*24 『波』
*25 『大地と休息の夢想』
*26 『束』「洗濯釜」を参照。
*27 アルジー『有名人をほめよう』。
*28 『負けを覚悟の勝負』に所収。
*29 ジュアンドー『夫の記録』
*30 『飢えた女』
*31 『大地と意志の夢想』
*32 同上
*33 『気の毒に』
*34 世紀末文学はとかく、処女喪失の場面を寝台車に設定している。それは、その場面を「どこでもないところ」に設定する手法なのである。
*35 『家庭のクロディーヌ』
*36 『強迫観念と精神衰弱』
*37 同上
*38 モーリヤック『テレーズ・でスケール―』参照。
*39 『エヴァ』参照。
*40 「私が父の許にいた頃、父は何でも自分の考えを話してくれました。それで私も私の考えをもつようになりました。時には違った考えをすることがあっても、隠していました。だって、父にはそんなこと、気に入らないかったでしょうからね・・・・私は父の手からあなたの手へ移りました・・・・あなたは何事につけてもあなたの趣味にしたがってやっていらっしゃいました。
 それとも、そういうふりをしていました。私にはあまりよくよくわかりません。その両方だったと思います。ある時はこちら、ある時はあちらというふうに。あなたと父、あなたたちは私に大きな害を及ぼしたのですよ。私が何一つできない女になったのは、あなたたちのせいです」
*41 ヘルメルはノラにこう言う。「おまえが自分自身の力で物事をやっていくことが出来ないからと言って、おまえに対する私の愛情が冷めるとでも思っているのかい。いやいや、おまえはただ私のことを頼りにしていればいいんだ。

 私はおまえに助言してあげるし、おまえを導いてあげる。その女らしい無能ぶりのために、おまえが私の眼にさらにいっそう魅力的に映るようにならないようだったら、私は男じゃないよ・・・・よく休んで、安心おし。おまえを私の広い翼の下で守ってあげるからね・・・・

 男が心から自分の妻を許してやったという意識をもつときには、何とも言えない穏やかな満足した気持ちになるものだ・・・・妻は、いわば、彼の妻でもあり子どもでもあるというふうになったわけだ。

 今後おまえは私にとってそういうものになるんだよ。身に迷って途方にくれている子どもはね。何ひとつ心配しないでいいんだ、ノラ。ただ、すっかり心を開いて私に話すんだ。そうすれば、私がお前の意志にもなり、良心にもなってあげるから」
*42 ロレンス『無意識の幻想』を参照。「男は自分の女に真の男、真の先駆者と見なされるようにするために闘うべきである。自分の女に先駆者と見なされるのでなければ、男ではない・・・・そして男は、女が自らの目的に従わせるようにするために激烈な闘いをしなければならない・・・・

 そうなったら、なんと素晴らしい人生だろう。夕方、女のもとに戻り、彼女が気遣わしげに自分を待っていてくれる姿を見るのは、なんと心楽しいことだろう。家に戻り、女のかたわらに座るのは、なんという快さだろう・・・・一日の労苦を腰に家路をたどりながら、なんとか豊かで重々しく自分を感じることか・・・・男は自分を愛してくれ、自分の仕事を信じてくれる女には計り知れない感謝を覚えるものだ」
*43 『夫の記録』および『続・夫の記録』
*44 結婚生活のなかに愛情も存在しうる。しかし、それは「夫婦愛」のことを言っているのではない。「夫婦愛」というとき、そこには愛が欠如しているという意味になる。これと同じように、ある男のことを「とても共産主義的」だというとき、それは彼は共産主義者ではないという意味を示している。
 また、「立派な紳士」というのは、単なる立派な人のカテゴリーに属しているのではない男のことになる、等々。
*45 ジュアンドー『夫の記録』を参照。
*46 時には、男と女のあいだで、双方が同等に自律しているという真の協力関係が成り立つこともある。たとえば、キュリー夫妻の場合がそうだ。しかし、夫と同じくらい有能な妻は妻という役割から脱する。また、個人的な目的を達するために男を利用する女たちもいるが、そうした女たちは結婚した女の条件を免れている。
*47 第二部七章を参照。
*48 『ゼリードの肖像』
*49 G・スコット
*50 『自殺の原因』引用した指摘はフランスとスイスにはあてはまるが、ハンガリーとオルデンブルクにはあてはまらない。
*51 イブセン『人形の家』。