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第一部 第一章

第一部 第一章
*1 ジュディット・ゴーティエは、回想記で次のように語っている。
 私は乳母から引き離されてあまりにも激しく泣き、打ちひしがれてしまったので、やむなくまた乳母の元に戻された。それで、離乳はかなり遅れることになってしまった。
*2 この理論はラカン博士[1901-81、フランスの精神分析者]が『個人の形成における家族複合』のなかで提起したものである。この事実は大変重要性をもつもので、個人の成長の過程において「自我が情景の両義的な姿を保ちつづける」ことを説明づけるものである。
*3 『青いオレンジ』のなかで、ヤシュ・ゴークレールは父親についてこう語っている。「彼の上機嫌は私にとっては苛立ちと同じくらい恐ろしく思われました。なぜそんなに上機嫌なのか、私にはなにも説明がつけられませんでしたから・・・・神様の気まぐれと同じようなもので、彼のご機嫌は私には計りかねて、なにか不安な気持ちで父を見ていました・・・・硬貨で裏か表かを占うように、どんな反応があるのかと思いながら、自分の言葉を投げかけてみたものです」。その後、次のようなエピソードを語っている。『ある日、𠮟かられてから、念仏のように、古テーブル。デッキブラシ、暖炉、ボウル、牛乳瓶、片手鍋などと唱え始めたら、母がそれを聞いて、声をたてて、笑ったのです・・・・数日後、また𠮟かられ、私は母をなだめようと、同じ念仏を唱えてみました。今度はうまくいきませんでした。彼女を陽気にさせるどころか、二倍叱かられ、おまけにお仕置きまでされてしまいました。大人たちの行動はまったくわからないと、おもったものです』
*4 モーリス・サックス『安息日』。
*5 ・・・・「彼はもう股袋(ブラケット)を使い始めていた。侍女たちは、毎日毎日、この股袋を見事な花束やきれいな紐飾り、美しい花々、立派な総束で飾り立て、円形型練り薬でも手でいじり回すように、時間があれば両手で握っていた。そしてあたかも悪戯が気に入ったとでもいうように耳をたてたりすると、皆はどっと笑い出すのだった。ある侍女は『私の可愛い捩子(ねじ)』と呼び、他の侍女は「私の針」または他の者たちは「私の栓」、「私のつめもの」、「私のくりこ」、「私の押し込み棒」、「私の錐(すい「意味・キリ」)「私の瓔珞(ようらく)・・・・など呼んでいたのである。
*6 アリス・バラン『子どもの内面生活』本書、Ⅰ巻、参照
*7 本書Ⅰ巻74ページ参照
*8 フロイトやアドラーの著書のほかにも、これを主題とした多くの文学作品がある。最初に、カール・アブラハムが、女の子は自分の性器を去勢による傷とみなしているという考えを明らかにした。カレン・ホーナイ、アーネスト・ジョーンズ、ジャンヌ・ラン・ド・グルー、ヘレーネ・ドイッチュ、アリス・バランなどが精神分析の見地からこの問題に検討を加えている。ソシュールは精神分析とピアジュやリュケの見解とを両立させようと試みている。なお、ボラック『性の相違について子どもの考え方』も参照のこと。
*9 A・バランより引用
*10 『女性にみられる去勢コンプレックスの由来』国際精神分析誌、1923-24年
*11 モンテラン『夏至』のなかの「毛虫の寓話」参照
*12 本書Ⅰ巻 第一部 第二章を参照
*13 しかしながら、ある場所には同一視は明らかである。
*14 ハヴェロック・エリス『アンディニズム』[精神医学用語。尿を見ることで性的快感を得るもの]
*15 H・エリス『性の心理学』第13巻。
*16 以前、彼女が語ったあるエピソードにいし触れている。ポーツマスで立って用を足さなくてはならない近代版女性用トイレが作られたことがある。どの客も入るなりすぐ出てきてしまったらしい。
*17 傍点はフロリー。
*18 『精神発生学と精神分析』フランスの精神分析誌、1933年
*19 H・ドイッチュ『女性の心理』参照。また、彼女はK・アブラハムとJ・H・ラム・オフィングセンなどの権威書もあげている。
*20 女と人形のあいだにある類似点は成年期にまで持ち越される。フランスの用語の俗語では女のことを人形と呼び、英語では着飾った女を「dolled up(人形のように着飾った)」しているという。
*22 もちろん、多くの例外はある。しかし、男の子の成長における母親の役割については、ここで検討しないことにする。
*23 ユング『子どもの心の葛藤』
*24 アンナの遊びのなかで大きな役割を果たした架空の兄のことである。
*25 「彼のおおらかな人間性は私に大きな愛と極端なほどの恐怖とを抱かせたのです・・・・」と、ノアイュ夫人は自分の父親について語っている。「まず、彼は私を驚かしました。初めて出会う男というものは小さな女の子を驚かすものです。すべてが彼にかかっているだということを、私はひしひしと感じておりました」
*26 父親崇拝がとくに長女に見られるのは注目に値する。男ははじめて父親になることによりいっそう関心をもつものだからだ。母親が下の子にかかりきりのとき、息子を慰めるように、しばしば父親は娘を慰める。それで、娘はすっかりお父さん子になるのである。また、逆に、次女は全面的に父親を独占することはできない。
 普通次女は、父親にも長女にも嫉妬する。彼女は、父親のお気に入りで大きな威信をもつ長女そのものに向かうか、母親の方に向くか、家族に反抗するようになるか、外に助けを求めるかである。大家族のなかではもちろん、いろいろな状況から父親が特別ひいきにすることもありうる。しかし、私の知るほとんどのケースが長女と次女の相反する態度についてのこの所見を裏付けるのである。
*27 「一方、私は自分には神を見ることができないのだと悩むことはなくなりました。というのは少し前から、私は亡くなった祖父の姿かたちに神の姿をおもい描くことができるようになったからなのです。その姿は実をいうと人間でした。胴体から祖父の頭を分離させ、青い空をバックにして、白い雲をあごひげにした彼の顔を心のなかに作り上げ、さっさと神様に仕立て上げしまったというわけです」と、ヤシュ・ゴークレールは『青いオレンジ』のなかで語っている。
*28 スカンジナヴィアやアングロ・サクソン諸国などのプロテスタントの国々よりも、イタリア、スペイン、フランスなどのカトリックの国々において、女たちははるかに受動的で、男に捧げられていい、奴隷的で屈辱を受けていることは疑いの余地がない。その大部分は女たち自身の態度からきている。聖母信仰、告解などが彼女たちをマゾヒズムへと仕向けるのだ。
*29 『思い出の瞳に』
*30 M・ル・アルドゥアンのマゾヒスト的夢想に対して、C・オードリーのそれはサディスト型である。彼女は、傷つき、危険な状態にいる自分の愛人を屈辱的な気分にさせて、英雄的に救い出したいと望んでいる。これは受動性をけっして受け入れず、人間であることの自律性を獲得しようとする女特有の個人的な調子である。
*31 V・ルデュック『窒息』、S・ド・テルヴァーニュ『母の憎しみ』、H・バザン『蝮(まむし)を手に』を参照。
*32 例外もある、たとえば、スイスのある学校では男の子も女の子も快適さと自由に恵まれた条件の元で、同じ教育を共学で受けていて、全員が満足を表明している。しかし、こういう状況は例外的だ。たしかに、女の子も男の子と同じように幸せになりうるはずだ。だが、現実の社会では、事実は女の子は幸福でないのである。
*33 R・ライト『ブラック・ボーイ』。
*34 本書第一巻 16ページ参照
*35 リーブマン博士『青少年期とセクシャリティ』からの引用
*36 「嫌悪感でいっぱいになり、私は神様に、母性の法則に従わないことが許される宗教的使命をお与えくださるよう、懇願しました。心ならずも隠して来た嫌悪すべき秘密について長いこと考えた後、神のお告げによって、また非常な嫌悪感のせいで”純潔が確かに私の使命なのです”と確信をもって結論づけたのでした」
 こうヤシュ・ゴークレールは『青いオレンジ』のなかで書いている。とりわけ穴をあけるという考えが、彼女に恐怖を抱かせている。
 「だから結婚式の夜が恐ろしいのです。この発見で私は気が動転してしまいました。私が以前から感じていた嫌悪感に加えて、非常に苦しいものだと想像していたこの動作への肉体的な恐怖とが重なったからです。
 もし私がこちらの道を選び、出産することになったら、私の恐怖はもっと増していただろうと思いました。しかし、子どもは母親のお腹から生まれてくるものと長いこと思っていたので、子どもは分割されてお腹から出て来るものだと信じていました」
*37 これについてはⅠ巻第一部第一章で文字通りの生理学的過程として描いた。
*38 シュテーケル『不感症の女』。
*39 同上
*40 H・ドイッチュの『女性の真理』に引用されているデイリーとチャドウィックの研究を参照のこと。
*41 「わたし」
*42 クララ・マルロー訳。
*43 フロンドの乱のあいだ、男に変装していたシュヴルーズ夫人は馬に乗って長時間、向こう見ずな戦いをした後、鞍の上の血のしみを見つけられ、正体を見破られてしまった。
*44 W・リーブマン博士『青少年期とセクシャリティ』参照。
*45 ベルリンの貧しい家庭の少女のケース。
*46 H・ドイッチュ『女性の真理』からの再度の引用。
*47 これはもちろん、両親の直接的、間接的介入や宗教的ためらいが入り込むことで、罪の意識を作ってしまうという非常に多くあるケースを除いてである。「悪い習慣」から解放するという名目で、子どもがよく受けるお仕置きのうち、ぞっとするような例が巻末にあげられている。
*48 『不感症な女』
*49 リーブマン博士『青少年期とセクシャリティ』。
*50 H・ドイッチュによる引用。

1幼児は不快を避けて快を求めるが、不快を避けて快を求めることを考えるだけで願望は満たされたようなきもちになる。