用語解説

投企(プロジェ)
 人間の本性は存在しない。人間はまず先に実存し、その後に自らをつくるものである。人間はみずらかくあろとして、未来に向かって自らを投げる。このようにいつも自分の可能性に対して主体的で開かれていることを「投企(プロジェ)という。個々人が実際になんらかの計画を立てるのは、この根源的な投企があるからである。
超越⇔内在
 人間は、根源的なプロジェによって、現にある自分をたえず越えていく。「超越」は、こうしてつねに自らをつくっていく運動としてとらえられる。
内在
 「超越」が運動であるのに対して、自らの内にとどまっていること。
疎外
1 人間が自らの自由を逃れて固定したものの安定性に閉じこもろうとすること。自主性を失い、自分以外のものに隷属すること。
2 自分を自分以外のものに託すこと。子どもが、自己同一性(アィデンティティ)の確立の過程で、鏡に映った自分の姿が自分であることを認めるのも、一つの自己疎外である。
本来性⇔非本来性
 人間は一人ひとり、自らの状況のなかで、他の人間とは異なる可能性を秘めている。こうした自分独自の可能性に目覚めた状態を「本来性」という。また、それに向かって、責任と危険を引き受け、自らを乗り越えて生きていく自由を「本来的な」自由という。
非本来性⇔非本来的
 人間が自らの状況に目をつぶり、他の人間と同じような平均的、没個性的な状態にとどまるとき、その状態を「非本来性」という。また、こうした状態に逃避することを『非本来的な』逃避、自らの主体性や自由を放棄した生き方を「非本来的な」生き方という。ハイデガーの用語からきている。
自己欺瞞
 自分に対して自分の真実や可能性をおおいに隠すこと。これは、自らの自由を逃れ、責任を回避しようとする企てであり、「非本来的な」態度である。
事実性
 人間が、理由や必然性なしに世界のなかに投げ出され、状況のなかに放り出され、みずから選んだのではない条件のなから、単に事実として存在している在り方。ハィデガーの用語からきている。
対自⇔即自
 サルトルは『存在と無』において、対自を「それがあるところのもであらず、それがあらぬところのものであるような存在」と言っている。すなわち、つねに現在の自分を超越し、本来の自分のあり方を意識的に選択するような存在。
即自
 対自である意識に対して、物のあり方を示す自己のなかにとどまり、それ自体とピッタリ粘着とている存在。 日常語として「それ自体として」の意味もある。
本質的なもの⇔非本質的なもの
 サルトルの実存主義の第一の原理は、「実存は本質に先立つ」である。人間に本性はなく、あらかじめ定められた本質はない。人間はみずからつくるところのもの以外の何物でもない。しかし、本書で、男=「本質的なもの」というときの本質は、右のように「定められた本質」という意味ではなく、二元対立的思考において、「主たるもの、基準となるもの」の意味に使われている。
非本質的なもの

 他者であることに甘んじて、主体である「本質的なもの」に左右される人間は「非本質的なもの」である。
 だが、実際には、「本質的なもの」と「非本質的なもの」、言い換えれば「主体」と「他者」のあいだには相互性があり、固定的な関係ではない。したがって、女も「非本質的なもの」として甘んじてはいけない、というのが『第二の性』を通じてのボーヴォワールの主張である。
一者
 形而上学史に表れる《一者》は絶対的一者を意味する、すなわち、それは絶対的に完結した全体であり、すべての根源である。これに対して、ボーヴォワールは、一方の者と他方の者の関係は相互的なものであり、両者とも相対的一者であって、《他者》から《一者》への反転はありうるはずだと考える。しかし、歴史のなかの男女関係を見ると、男は常に《主体》であり、絶対的《一者》であった。女はつねに《他者》であったと言うのである。
世界への参加(アンガージユマン)
 人間は状況によって拘束されていると同時に、自分を積極的に拘束する、すなわち受動を能動へと転換し、自由な選択によって行動し、状況に対して働きかける。というサルトルの実存主義の中心的概念。