浮気・不倫はとても自己愛的な行動である。自分の快感を追い求め自身の心と体の在り様を知り、何を欲しているのか、何処をどうして欲しいのかをパートナーに互い伝えあって実践できれば満足し合えるよう!
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愛の倫理 女として自分を生きる、女として愛しきる 瀬戸内寂

本表紙

〆女である前に


赤バラT愛からの追求
〆忘れてはならない能力
妻に求める夫の考え方
家庭的な女というイメージは、男にとっては永遠の憧れであるらしい。独身時代は、顔の美しさや、肢体の魅力的なことに惹かれるけれど、一度、結婚してみると、妻の上に求める夫の要求はすべて家庭的なものとなってしまう。
拒まず求めない能力
セックスの要求の薄いこと
夫の要求は決して拒まず、我がからは決して求めない昔の女大学のセックスが、家庭生活を安定にたもつ。今や、セックスの知識過剰時代で、世の中の主婦は一種のセックス・ノイローゼになり、常にセックス被害妄想にかられ、夫のセックスの性能において、強さにおいて、つねに懐疑的になっているのは、およそ家庭的ではない。
天下の夫族が生存競争の過酷さに負けて、ほとんど不能に近づきつつあるとき、妻族ばかり、セックスの机上の論にウンチクをかたむけられては、ますます夫の方は萎縮してしまうだろう。世の夫族に、せめて妻とのベッドでくらい自信をもたせるためには、妻たちはもっとセックスに淡白であらねばならない。
男が本当に休める個所
〆男が本当に愛したい女
 秘められた女の表情
 女が不幸になる運命
悲劇をおこす男女のズレ
〆やさしいさが生む深情け
 情の濃い女と、情けの深い女はちがうようだ。情の濃いということはセックスの濃厚さに結びつき、情の深いということは、たぶん精神的なもので、いいイメージとしては近松の女が浮かんでくる。冷たい女、温かい女というのも、「情」にかかっていることである。

 男は、日常生活では、情の深い女を便利だと喜び、その恩恵に浴していながら、冷たい女に憧れる身勝手な気分がたぶんにある。
「恋」の性質の中には征服欲がある。これは男の側には特に強いもので、男は猛烈にファイトを燃やして恋する女を獲得することに熱中するが、一旦獲物を手中に収めると、実にあっけないほど、獲物への興味を失ってしまう。それは赤ん坊が這い這いしながらみつけたものに猛烈に突進し、一旦手にしてしまうとポイと捨てて顧みないのと同じようなものだ。

 女は、たいてい男が自分を獲得するまでに示した情熱や誠意や賛美や、時には泪を大切に胸の底におさめ、それを反芻(はんすう)することによっていきているようなものだ。
 男は、現在進行中の恋人の手紙を友達に見せひけらかすようなことはしても、昔の女の恋文などは決して見せないし、第一、手許にとっておいたりはしない。ところが女は、よく過去の男の恋文を見せたがる。

 幸福な人妻が、恋愛時代の夫の恋文をしきりに見せたがるのに私は何度出逢ったかもしれない。そういう過去の甘い想い出に頑強にしがみついて、女は現実の男の心変わりを断乎として認めまいとする。
心をこめた愛の押しつけ
 恋のはじめは、女も本能的に相手の心を引き寄せるテクニックを心得ていて、無意識に自分を謎めいて見せようとするし、情けも小出しにする技術を心得ている。

 ところが一旦、男にすべてを許してしまうと、その瞬間から、女は男に秘密をなくし、自分のすべてを明け渡してしまう。正直で、ナイーブで、やさしい女ほど、その度が強くあらわれる。本当にベールが必要なのは、この時からだということをほとんどの女は気づかない。
夫の心が離れるとき
 厭(いと)われる愛の崩壊
奪う心理、奪われる心理
〆軽蔑の心あるもの
 女の中の心理
対等に愛し合う自信
〆男と女の年齢差
 年上の女の効能
生理的な凋落(ちょうらく)の自覚
 恋の執念に生きる
自分のかくれた欲望
〆自分への夢とイメージ
 女の貞操が生命より大切だと信じ込まされていた頃は、たとい未亡人でも、再婚したら、何となくふしだらなような目で見られる、非難がましく世間はみつめたものだ。

 妻が恋するなど、もってのほかで、たとい、男から言い寄られたとしても、そういうすきをみせたことで、その妻は非難がましい目で見らなければならなかった。

 けれども、そんな時代でも、ある種の妻たちはやっぱりやむに已(や)まれない恋をしたし、打ち首、はりつけ、さらし者になっても、恋に殉(じゅ)じた。そして非難しながら、世間は彼女たちの恋の激しさに内心感動し、羨(うらや)み、憧れ、それを後世に語り継いだ。

 人間の愛などいうものが、そもそも不確かなもので、心は移ろい易いものである以上、一人の男と女が、一生にただ一人の相手しか愛さないなどいう方が。むしろ奇跡的で、そういう心の方が、何か欠けているのかもしれないのである。
男は相当馬鹿な男でも、自分を見る自分の目というものを持っているものだが(つまり自分の意見を持っているが)、女は相当賢い女でも、男を鏡にしなければ自分というものが映し出せない。

 妻が恋するのは、夫という鏡が曇ってきて、自分の姿がぼんやりしか映らないときである。結婚生活に馴(な)れ、疲れ、面倒くさくなって、鏡を拭(ふ)くということを投げやりにしだす。それに、その鏡はいつでも変りばえのしない、一つの自分しか映してくれないのだ。そこで妻は、もっと精巧な、曇りのない、自惚れ鏡が欲しくなる。

 妻が恋するときは、妻が自覚しているといないとにかかわらず、自分の生活の単調さにあきあきしているときだ。
一瞬夢みる放恣(ほうし)な姿態
 男と女の性愛がどういうものであるかを知っている女にとって、誘惑者のことばは、たとい精神的なことしか語らなくても、すべてベッドにつながって、妻の心には落ち込んでゆく。
姦通に踏み切る時の妻の状態は、十人が十人同じもので、要するに好奇心に負けたのである。秘密を持つこということが、単調な妻の生活に、精神の緊張を与える。
女が一番いきいきと魅力的にみえるときは、ある目的のために、ウソをついて、必死に演技するときだろう。
 人妻を満足させるほど、人妻を姦通への誘惑に引きずり込むため、情熱的になってくれる男は、どちらかと言えば、精神的プレーボーイで、人妻をものにするまでの過程を愉しんでいるのであり、ものにした女は他の多くの女同様、大して珍しくも美味しくもない女なのを知っている。
 
妻たちの深層心理
 性を重要視し、性が人生の中で最大の関心事のように考える風潮は、マスコミの扇動のせいもあるけれども、それに乗せられやすい女たちの浅薄さのあらわれで、今の人妻の多くは、自分から性の自縄自縛にかかっているようなところもある。

 夫の不貞が、感覚的に許せないといって、いって一度や二度の、あるいは、ある時期の夫の浮気以来夫との性交渉を断つというような、潔癖な妻は滅多にいるものではない。
 ある時期、思い出すたび、口惜しさと、不潔感に、泣いたり、わめいたりしても、いつのまにか夫を受け入れているし、男とはそんなものだというあきらめで、あきらめてしまっている。

 女を美しくする秘薬
 決して相手につけこまれない自信と、事をバラさない周到さと、万一バレたところで夫を我慢させる自信があるならば、世の中の妻のすべてが、夫以外の男を肉体的に知った方が、夫婦生活はかえってスムーズにいくのではないかと思う。

 夫にとって何でなくすぎる浮気は、妻にとっても、避妊の用意さえ、確かだと、なんでもなくすぎることなのである。
 肉体の傷などが大したことのない証拠に、打ったり蹴ったりの夫婦喧嘩などは、あっけないほどあっさり仲直りしている。
 自分は、妻以外の女とさんざん寝ておきながら、妻が生涯自分ひとりを守り抜くのを望んでいる夫達の身勝手な願望は、永遠に男からはぬけないものだろうけど、妻はもうそろそろ、その都合の悪い習慣からはみ出すことを本能的に望んでいる。

 妻たちがそういうものを見向きもしなくなるとき(必ず近い将来それはやってくるだろう)、妻たちは、上手に、手際よく、姦通を愉しんでいることだろう。

 姦通して、妻たちは、おそらく生々と今の妻より若くなり、会話もウィットがこもり、反応も敏感になり、そして今よりはるかに夫や子供に優しくなるだろう。
 危険と苦しみと、嫉妬と、姦通につきもののそうした条件ほど女を美しくする秘薬はないのだから。

 そのとき、妻たちは、今よりもっと生々と蘇ることだろう。ちょうど多情な夫たちがいかに魅力的なのと同様に。

女にかくされている叫び
“男の性が画一的で女のそれは千差万別である、それだけにいつの時代にも、女のドラマが際限なくうまれる”
 〆童貞と処女の結婚
密かに芽生えた性知識
やるせない快楽のめざめ
性への本能的な予感
解剖学的には、男のセックスが画一的で、女のそれは、千差万別であると言われる。それだけに、性への目ざめも、性への理解の道筋も、女の方が複雑で、千差万別かもしれない。いつの時代にも、女の新しいドラマが際限なく、生まれているゆえんだろうか。

《手紙》わたしからあなたへ
 〆女についての追求

赤バラU 愛からの自覚
〆におそわれる不可抗力のとき
 新しい人生の意義
 娘の頃、女の幸福とは、生涯にただひとりの運命的な異性にめぐり逢い、その男に愛され、愛し、その男と結婚して、子供を産み、その子から生まれる孫を抱き、いつか夫を看病しその死を看取る。その後、一、二年、ゆっくり人生に名残を惜しんで上、子や孫に看取られ、夫の後を追う。

 そいう生涯こそ、女の幸福な一生と呼ぶにふさわしい者だろうと考えた。何の本でそう教えられたのか、あるいは誰かから教えられたものか、今は忘れてしまった。

 周囲を見渡しても、やはり女の大多数はこういう夢を描きながら、その七十パーセントくらいは、こういう生涯を送っているのではないかと考える。

 愛し、愛される異性にめぐり逢うということが、なかなか難しい。大抵の恋愛は錯覚の上に花開くものだから、愛し、愛されているという幻影に酔うのが恋愛というものの正体であるのかもしれない。

 錯覚が取れ、相手の正体が、正味のままに目に映りはじめる頃は、相手の目からも鱗が落ち、自分もまたかけ値なしの正体を相手の目にさらされていることを覚悟しなければならない。
 家出妻の九十九パーセントは、家を出る前より不幸になっているということが調査され、データーも上がっている。けれども、人間の幸、不幸の感じなどというものは、すべて個人的な主観的実感であって、他人の憶測などあくまでも想像に過ぎない。

 客観的に、どう惨めな生活に陥っていようとも、本人が、そこに、以前は味わえなかった新しい人生の意義を認め、惨めさの中にも、生きる実感を掴んでいるなら、前の生活より、今の生活が悪くなったとは考えていないだろう。

家出妻の本当の原因
大抵の家出妻が、その発火の役目をした新しい恋に失敗しているのを見ても、家出妻の本当の原因が、新しい生活への憧れでないことが頷ける。
 わかってもらえないもどかしさ・・・・そういうものを感じたことなく生涯をすごす妻たちも決して少なくないだろう。そういう妻たちの無難で貞淑な生涯は、今の世の中でも称賛され、尊敬される。

 けれどもボーヴォワール夫人の不幸、アンナ・カレーニナの不幸を、人は決して修身の教科書的に読み継いできたのではない。彼女たちの心の迷い、悶え、充たされない苛立たしさ、肉の誘惑、それは、人間の中の永遠の業苦(ごうく)であって、すべての女たちに、その苦悩が通じるからこそあれらの小説が名作として読まれてきているのだろう。
〆女が離婚にふみきるとき
生きる自由を求めて
崩れ去る結婚のかたち
「離婚される」しか能のなかった女が、今や「自ら離婚する」女になったことは、決して道徳の腐敗でも、婦道の失墜でもなく、女の成長であり、女の力の拡張の証明のように思う。

 男に頼り、男に養われるしか能力もなかったし、そういう立場しか許されなかった女が、自分自身の足で立ち自分の手で自分の生活の糧をつくるようになったことは、女は誇っていいのだと思う。

 昔、女は嫁入りの時、二度と家の敷居をまたぐなと親たちから訓戒された。それが娘を嫁に出す親たちの、共通のはなむけの言葉だった。実際そのころの生活能力のないように育てられた女たちは、夫の家を出る以上は、また誰かに養ってもらわねばならず、親のもとに  かえるしか方法はなかったのである。

 ところが今では、生活能力を持った女たちは、嫁いだ家を出たところで、もう二度と生家のしきいをまたぐ必要はない。夫の家から、自分自身の家を発見すればいいのである。

 将来、女が生活能力を身につけ、それぞれの自分の才能を伸ばし始めるにつれ、今までのような、「家」の観念に捕られていた古い「結婚の形」は崩れ去るだろうし、離婚はもっともっと多くなるだろう。かといって結婚がまったく女の夢から消える時代は、決してそうたやすくはやってこないのではないだろうか。

 まだまだ、花嫁衣装は女の夢をかきたてるし、炉辺の幸福は、働く女たちの疲れ切った神経に、美しい灯となって憧れを誘う。逞しい夫の胸に頭をあずけて眠ることが、女にとっては何よりの安らぎであることは間違いない。

 ただ、昔のように、この結婚は死ぬまで貫き通さねばならないという悲壮感は、次第に薄らぐだろうし、離婚の経験を持った多くの才能ある女たちの方が、幸福と貞淑な家庭の妻たちよりは、より多くの女の生き方の幅を広げていくことは、争えない事実となるだろう。
 今でも、まだ世間は有能な一人の独身の女性よりも、結婚リングをはめた無能な女の方に伝統的な敬意を表したがる。

 けれども、少なくとも夫たちは、昔の夫のように全面的には妻に安心しきれないのである。いつ妻に離婚を宣言されるかもしれないと不安とともに、結婚しなければならないのである。かといって、永久に逃げる心配のない妻を持つには、夫の経済力が次第に不足になってきている。皮肉な現象である。少なくともこの状態は、もっとすすむだろうし、女の立場はまた少し強くなるのではないだろうか。

有能な女として幅広く
惨めな愛の因果関係
〆恍惚と栄光の犠牲(いけにえ)
 酬(むく)われない愛
“男まさりの女”の分析
〆女の心の痛ましい姿勢底にある女の本当の弱さ
 “男まさりの女”の生き方
ヘマをやらない賢明な妻
自分の内からあふれる愛
〆尽くされるということ
いつも充たされない女の心
《手紙》わたしからあなたへ
 後をふりかえらずに

赤バラV 愛からの生き甲斐
〆女が働くことへの白眼視
女そのものの正体
〆男食いの性の女
恋の熱量が仕事の支え
 男が捨てておかない女
男にとって本当に怖い女
人間の愛欲の本能
〆情事を愉しむ誘惑
愛する相手を独占したいという、人間の愛欲の本能は、ずっと一筋の道を貫いてきている。変わりやすく移ろいやすい「愛」だということを、人間は本能的に知っているからこそ、さまざまな約束ごとで互いの愛を縛り、つなぎとめようと努力する。
肉体的も敏感
奪ったものの誇りと自信
血みどろの嫉妬と疑惑
 「愛人」の立場に甘んじる女たちは、「家庭」の不潔さ、空虚さ、ご都合主義など口をきわめて罵倒するし、(心のうちだけでも)自分こそ、純粋で打算がない真実一路の高尚な人間のように思い込みたがる。

 けれども。それもたまたま、相手の男としりあったとき、すでに相手に妻子がいたという既成の事実があったからにすぎないのであって、なおさら、それでも相手の誘惑に打ち勝てなかった、精神的、あるいは肉体的な弱みが、自分の方にあったからだということはあんまり認めたがらない。

 一人で働いて自活している女は、妻子を養っている男ていどに、社会から疲労して自分の部屋に帰りつく。そのとき待っている冷たい空気と、ひとり寝のベッドと、答える者のない独り言と、味気ない食事の淋しさとの、気の狂うような夜が何度かあったのだ。

 それらはきれいさっぱり忘れて、世間の良識や、相手の妻たちに非難されると、自分の無限の自由とひきかえに、こんな屈辱の立場を選んでしまったのかと、ひとりで後悔するときがある。

 男が家庭に帰っている間、妻を抱くのが止められないように、自分だって男と適当に浮気をして見せればいいようなものだけれど、「愛人」という名に甘んじるような、お人好しで、ひとところ抜けたところのある女は、ことのほか貞節で、浮気のひとつもこっそりしておけるような気の利いたところは持ち合わせていない。

 それができるような目先の利く女は、「愛人」などという何の益もない、犠牲だけ強いられる惨めな立場に、べんべんとおとなしく収まってなんかいないのである。

 たいていの「愛人」が、「愛人」の立場にようやく飽き足らず、疑惑を抱き、自分の誇りも、意地もすてて、かつてあれほど軽蔑した「妻」の座にすりかわろうという考えを抱くのは、ただ時間の問題にすぎない。

 正常な神経の持ち主の夫婦の結婚生活に、必ず倦怠期が訪れるように、どんな熱烈な愛人関係にも、それが継続されているうちは、やはり倦怠期が訪れる。

 皮肉なことに、一方、「愛人」というものの侵入のため、それまで倦怠期で垂きっていた夫婦の間に、急に活発な精神の交流が蘇ることが多い。たちまちそれが、血みどろの嫉妬と、猜疑心と憎悪の浴びせかけてのドロ試合であっても、何も起こらない無風状態の退屈さ、無刺激の怖しさよりは、ずいぶんとましなのである。

 嫉妬や憎悪を通して、互いに相手を、卓袱(ちゃぶ)台や座布団くらいにしか感じられなくなっていた妻や夫の中に、改めて人間の息吹きを感じ合うことが出来るようになる。

 嫉妬に狂う妻や、喚く妻や、荷物をまとめにかかる妻のなかには、茶碗やスブーンが突然、口を利き出したような愕きと新鮮さを夫に感じさせるものがある。
愛が幻影に変わるとき
女の可能性を拡げる勇気
〆炎のような女
 自我に生きた一生
本能的な無意識の打算
母になる女のすべて
なぜ私生児を産みたがる
 浅ましい女の業の深さ
愛情の激情が、男女の肉を結びつけるように、憎悪の激情もまた、男女の肉を相寄らせるという人間の業の深さをまざまざと悟らされたことだった。女の闘いの道
友情はどこで確認するか
〆不安定な女の友情
骨肉の愛や、男女の恋愛は、肉体で感じることが出来る種類の愛だけれど、友情はあくまで心と心の問題なので、その高尚さが女にはもともと不向きなのかもしれない。
仕事の中にこそ生まれる
未亡人という女の中の心
〆なまめかしい雰囲気
 男にとって、おんなのなかでいちばん魅力的に見えるのは処女でも、人妻でも、尼僧でもなく、それは未亡人という名の女たちではないだろうか。彼女たちはもうすでに性愛の何であるかを知っているし、その育ち切った肉体はすでに耕され、肥料を撒かれた畠である。
 こちらの眼差しひとつ、吐息ひとつで、言いたいことは察してくれるし、躯の動かし方だって心得ている。
恋をしている女たちが、相手に実物以外の自分の願望や夢をかけ、勝手に理想像を描くのと同じような熱烈さで、未亡人は死んだ夫の影像を、追憶という絵具で、美しくも頼もしく塗り替えてしまう。
一挙に破れる幸福
 長い生涯にはどんな理想の相手でも倦怠期がくるし、愛想の尽きる時もある。たいていの夫婦が、なかば諦めと面倒くささから、お互いに誤魔化しあって、ずるずると情熱も誠意もない結婚生活を送るのに比べたら、面倒くさい離婚の騒ぎや手つづきもふまず、もう一度別の相手と、新しい結婚生活のやり直しができる状態におかれるということは、考えようによっては都合のいい恵まれた環境といえないことでもない。けれどもそんな風に自分の自由になった立場を喜ぶような未亡人は、ほとんど見当たらないのである。
淋しさの卑しいかんぐり
女の生涯は男とちがって、本来受身なものだから、婚期を過ぎた未婚の女が、世間の想像してくれるほど肉体的に悩んでなんていないように、未亡人もまた、それほどかやの広さに悩みつづけたりなどしていない。同時にまた女は、男が考えているよりも、近ごろ世間では喧伝されているよりも本来精神的であり、セックスにおいてはムード派であるために、愛している夫を失ったというショックと痛手で、一年くらいの禁欲は何でもなくすぎてしまうものだ。一年の喪が明けたら、未亡人が涙を忘れ、新しい恋にたちむかっていったところで、何の不思議があるだろう。
女の性が受身だといっても、女が女として肉体的な快楽を味わいえる年齢ならば、誰に遠慮もなくセックスに充されて、幸福になる権利はあるだろう。
ふた色の人生を生きる権利
 一人の男を深く知り尽くせば万人の男に通じるという言い方も一つの心理ではあるけれども、人間は顔の違いのように、性格も肉体も結局は千差万別である。
 死んだ夫がどんなに最高にすばらしく思えても、死んだ夫とはまた違った、魅力のある男性が無数にいる。一人の男より二人の男、あるいは三人の男を、精神的にも肉体的にも知る方が、愛する夫を奪われるという不幸の代わりに、二人目の男を合法的に認められるという特権を与えられたのが、未亡人という名の意味だと解釈して悪いだろうか。
 どんなに仲の良い夫婦でも、あまり長すぎる夫婦生活の中では、夫も妻も、相手がある朝、ポックリ死んでいてくれないか、と願うような夜が一度や二度はあるものだ。未亡人になった女の中だって、夫にそんな呪いをかけた日がなかったとは言えないだろう。だからといって、熱烈に愛した無数の夜が、差し引きになるわけもない。人間の生命の儚さを誰よりも痛切に思い知らされた未亡人こそが、人間の生きている時間の快楽や幸福に、もっとも積極的に貪婪(どんらん)になる権利があるのではなか。

幸福の何たるかを考えたとき
〆愛をも奪われる不安
何よりも確実に生きる力
あとがき

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