虐めは落伍者意識から起こる
 考えて見ると、虐めとは登校拒否というのは、生存競争の最初の落伍者の、体制への反抗といった面がある。
 虐めというのは三つのタイプがある、と前に述べたが、明らかに体制から落伍した者への虐めは、いわば大多数の黙認の下に、アイツはそうされても仕方ない、といった共通の理解を見越しての虐めだが、それだけに虐められる者には救いがない。全員がいわば敵になってしまう。

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第四章 すべては学力だけが男の子の価値基準であるところからはじまる

[なぜ虐めか、登校拒否か、家庭内暴力か]〆虐めは落伍者意識から起こる

 考えて見ると、虐めとは登校拒否というのは、生存競争の最初の落伍者の、体制への反抗といった面がある。
 虐めというのは三つのタイプがある、と前に述べたが、明らかに体制から落伍した者への虐めは、いわば大多数の黙認の下に、アイツはそうされても仕方ない、といった共通の理解を見越しての虐めだが、それだけに虐められる者には救いがない。全員がいわば敵になってしまう。

 しかしそういう標的を選び出して、率先して虐めをする者こそ、実は自分が落伍者になる不安を覚えているのだ、と言える。つまり虐めるのは、対象が落伍しかかっていることに深い洞察を伴うという点、ほとんど同情と似たような、対象への理解がある。同情はその理解に基づいて同じ立場に身を置こうとするの対して、虐めは自分と対象との間に明確な境界を引こうとする。

 同情の場合は対象に対する理解がありながら、自分は対象とは違う世界にいるという自負や自信がある。しかし虐めは、対象への理解の故に、うっかりすると、自分を相手と同じにしてしまう、という不安が、対象と自分との違いを虐め、という形で表現しようとするのである。

 たとえば、アメリカの南部で黒人に対するもっと執拗な差別主義者は、プア・ホワイトという、白人であること以外に、誇るものが何もないような、社会の落ちこぼれ白人である、と言われる。

 そして第三の優れた者への虐めは、一種の劣等感だから、虐められる者は辛いかも知れないが、対象は落伍者の反対の極にいる者だから、うっかりすれば、自分もそのような優秀な人間になって、クラスの他の者の虐めの対象になる、といった不安? はない。だからこの場合の虐めには、どこか迫力が欠けるが、ある局面では激烈な行動に出ることがある。

 旧軍隊では普通以上の学歴の持ち主、具体的には、大卒の兵士は試験を受けて合格すると、短期間の訓練で将校になれた。それだけに、普通の兵で一年前に入った先輩兵士の学生兵への風当たりは強かった。

 普通の兵は、入隊後二年の兵役期間に、普通の人は階級が一つ、優秀な人で二つ上の上等兵になるのが限度であった。特に優秀な百人に一人程度が伍長勤務上等兵と言って、階級は上等兵だが、下士官の仕事をする役につく。伍長勤務上等兵は戦時中に、兵長という新しい階級になったから、その意味では普通の兵は二年の兵役期間に最大で三つ階級が上がるが。それが限度であった。

 それが学生兵は入隊後三ヶ月ほどで行われる試験に合格すれば、一挙に位が二つ上がる。さらに三か月後の試験で将校組と下士官組に分かれるが、将校組はその後半年で下士官のトップの階級になり、見習士官と言って、将校の服を着た将校待遇の下士官より上官になる。

そして、入隊後の一年半ばかりで、晴れて本物の将校になってしまう。そのころ、一緒に入隊した仲間は成績の良い者で、二つ上の上等兵になるのが限度であった。そして学生兵は将校になり損ねた者でも、入隊後には伍長という下士官の一番下の階級、兵長の上の階級を与えられるのである。

 それだけに普通の兵の学生兵への嫉妬があったことは間違いない。嫌がらせ、不当な制裁が学生兵に加えられた。
 それだけに学生兵でありながら、最初の試験に落ちて普通の兵と同じ道を歩くようになると、同情と安心から、そして恐らく兵士たちの中にある、密かな高学歴への敬意から、人並み以上の好意を受けた、という人がいる。

 第二の虐め、クラスの落伍者、クラスの落伍者集団での最下位者への虐めは、二重の意味で虐めので、これが一番悲劇かも知れない。彼は虐めから逃れるためには、まず、落伍者集団から離脱しなければならないが、それはヤクザが足を洗うより困難であろうし、それが可能であったところで、普通のクラスの仲間にいれば、彼はそこでまた、落伍者に過ぎないのである。それは背中にイレズミを背負った元ヤクザが堅気の世界で就職するような困難が予想されよう。

 だから彼はやがて自分より下級と認められた新しいメンバーが現れることを期待して、虐めながら、上級者の走り使いをするより仕方ないのである。
 虐めも登校拒否も、家庭内暴力も、落伍者意識からくるのだが、落伍者の内容によって、そのストレスが外に向いて虐めになる場合と、内に向いて登校拒否になる場合と分かれる。

 小学校に入ったころは、虐めも目立たない。せいぜいでわがままに育った子が、隣の子との付き合い方が分からなくて、不安定な関係しか結べない、といったことである。たとえば家庭の中で、望めば何でも与えられた子が、隣の子が持っている消しゴムを要求して、ケンカになることがある。しかしそういうエゴからくるトラブルは子供の精神的な成長と共に解消される。

〆男の子の唯一の価値基準は学力だけ

 問題は小学校の三、四年ごろである。このころになると、学力差といったものが次第に明白になって来る。三十人のクラスなら、優秀な一割が劣った一割がはっきりしてくる。きっかけは分数の加減乗除ができるかできないか、といった他愛ないことだが、子供たちにとっては、それは重大な問題である。

 そして虐める子は優秀な一割からも、また劣った一割からも出てこない。中間の八割の中に虐める子が潜んでいる。女の子と男の子の違いは、女の子は学力だけが勝負の分かれ目ではなく、容姿とか家庭環境に関係のある美的感覚、趣味といったものも評価の基準になりうる。そこで学力優秀な一割のほかに容姿の一割、家庭環境の一割、そしてセンスの一割といった、多価値的な選別が行われる。

 容姿と学力の相関性は希薄で、つまり学力を押し上げる資質と容姿をよくする資質はほとんど関係ないから、容姿の優れた子は、学力のある子にも普通の子にも、劣った子にも同じ確率で出現するであろう。

 従って、学力もあり、容姿もすぐれている、といった子もいることは確かだが、女の子の場合はさまざまな形で、自分の優越を感じうる。大きくなっても、あたしは顔はまずいけれどスタイルがいい、身体にも顔にも自信はないけれど、魅力的だと言われる。ブスかもしれないが、センスがいいというので、皆に衣類のことなんかで相談をもちかけられる、ウイットがあって楽しいというので、男の子たちのグループでハイキングなどに行くときは必ず誘われる、といった形で、自尊心を救済することができる。

 しかし男の子の場合も小学校三、四年ごろの価値基準は一つきりである。学力である。優秀とされるのは、学力であって、きびきびしている子ということになるが、学力のある子は物事の判断が的確で、そのために行動面でもきびきびしていることが多い。それでなくとも、学力の自信、先生の信頼などによって、行動に迷いがない。

 反面、学力で劣ったとされた子は、この段階ではクラスの者からダメなヤツという目で見られ始め、することなすこと自信がないために、消極的で、本領を発揮できる場でも、自信のなさのために失敗してしまう。

 この段階ではスポーツや芸術の能力はあまり評価されない。絵がうまい、ピアノが弾ける、野球がうまいと言っても、それは上級生の能力から比べると、まだ劣っている。学力だって優れていると言っても、大したことはないのだが、日常、教室で優劣がつくのはこの分野だけだから、いわゆる偏差値的なものが、唯一の価値基準になってしまう。

 上の一割はいい。悩み深いのは下の一割である。彼らはこの段階でまず敗者としての自覚を持ってしまう。
 それに劣らず悩み深いのは、八割、つまり並みの集団の一部である。彼らはあるいは運動能力のために、ケンカの強さではクラスで上の一割に入る。しかしその能力は学校では評価されない。スポーツなら自信があるが、上級生が相手だと、手もなくひねられる。

 行動は機敏だから上の一割と行動を共にできるのだが、一割に入るためのパスポートとも言うべき学力を伴わない。彼らは上の一割に入れない挫折感を下の一割を虐めることで、解消しようとする。この集団には、女の子だったら、他の形で自尊心を救済できるであろう者が混じっている。

 つまり女の子の場合、家庭が悪い、学力が劣っている、ブスである、といった形で差別感が作られるのだが、その対象が特定の者になかなか絞られにくい。だから女の子の中にも虐めはあるのだが、あまり大きな問題にならない。対象が特定の個人に絞られた場合でも、虐めの理由がはっきりしないために、虐めの形は陰湿ではあるが、消極的であって、たとえば口をきいてもらえない、臭いと言われる、といった形をとる。

 男の子の場合はもう少し激烈である。優秀な一割に入れないが、入れる可能性もないではない、といった一割か二割の中にいじめっ子のリーダーが現れることが多い。虐めの原因が挫折感だから、相手を徹底的に弱者の場に置かないと気持ちが収まらない。

 元々、運動能力に優れていたり、知的にも優秀集団に入れるかも知れない、といった子が、それも一人ではなく、二、三人がグループを作ると、それはもうクラスではもっとも勢力のある存在になる。それは大学のゼミやクラスでも、特定の政治組織や宗教団体の者が二、三名で結束すると、他にそれに対抗する集団がいない限り、全体をリードする形になるのと同じである。

 この準優秀グループができると、能力的にはさらに劣る層から、このグループに参加して忠勤を励む、といったものが現れる。これは単数でも複数でもよいが、虐めに決定的な役割を果たすのは、この層は実は下の一割と紙一重なのだ。彼らは自分が下の一割でないことを立証するために、下の一割の典型的な者を見つけて、彼らを虐めることで、自分の優越を何よりも自分が確信しようとする。

 基本的にはリーダーのご機嫌取りの面と自分の挫折感の憂さ晴らし的な意味合いがあるが、この中に虐めグループの全員から弱みを握られた者がいると、それが虐めグループ内の虐めの対象になる。

〆登校拒否は自罰的落伍者から現れる

 しかし、上の一割の者でも悩みはない訳ではない。知能検査では、百人に一人の優秀児、とされても、学校の成績では、性格、その他の要素が加味されるから、必ずしもクラスでトップにはなれない。あるいは性格的に多数者の中に混じって行動することが得意ではない子もいる。家庭にも責任があるが、こういう子は学校生活に適応することが苦手で、学校で緊張しすぎて、一種のストレスが働いて学校生活に挫折感を覚える。

 そういったことから、子供が自分で自分に落伍者の烙印を付けることがある。虐めの場合は落伍者の欲求不満が他者への暴力によって解消しようとするのだが、上に挙げたような場合は、糾弾の対象は自分になる。

 家庭で大事にされる少年のことを考えてみよう。冬など、母親が温かい衣類を着せてくれるのはいいが、それはどう見てもクラスの仲間からすれば、衣類が一枚か二枚多い。それは男の子としてはどちらかと言うと、屈辱的なことである。少なくとも虐めグループの中心である、学力については多少劣っていても、運動能力において優れている少年たちから比べると、男の子らしくない。着膨れていることについて、虐めグループの下っ端に問題にされ、あやうく虐めに遭いそうになったこともある。

 家庭が過保護であることに、彼の心に密かに劣等感が育つ。しかし母親の手をふりきって、薄着をして登校したら、たちまちのうちに風邪をひいてしまった。家庭の過保護を呪いながらも、それと絶縁できない。

 ついに自分はクラスの中に自分が占めるべき場所がないように思う。自分の手足には糸がついていて、それを母親が操っている。そしてクラスの誰彼と共同動作をとり、あるいは虐めグループと同一行動をとろとしても、そんなことはとてもできない。おまけに優秀な一割の中にも自分の座を見出せない。彼は学校に行くことが苦痛になってくる。自分で自分を学校の落伍者にしてしまうのである。しかも落伍したのは決して、クラスの者や先生の責任でもなく、自分の不甲斐ないであることを承知している。

 登校拒否はこういう自罰的落伍者から現れる。彼らはしばしば学力優秀児である。ただ彼は自分が望むほど優秀ではないのが悩みなのである。たとえ優秀児でなくても、自罰的になるほどの感性を持っているのだから、芸術的センスを持っていることが多い。

彼は自分がこのようになったのは、母親の過保護のせいだ、とか、父親が一流大学出だから、息子がそこに入るのが当然である、といった雰囲気であって、それが自分を絶えず圧迫していた、と思うようになれば、彼は家庭内暴力になる。

 彼は自分の空間に立てこもって、登校拒否をするばかりでなく、家庭拒否といった姿勢をとる。そしてある場合は狭い自分の城から出撃して、もっとも弱い敵、多くは母親を攻撃の対象に選ぶ。母親が逃げれば、対象は父親に向く。この際の心理はクラスでの虐めと似た性質のものである。

 しかし虐めも登校拒否も、家庭内暴力も高校の上級になると激減する。むしろ、この種の問題は中学までと考えてよい。その理由は義務教育の段階では、男の子の価値を測る物差しはただ一つ、「よい高校」に入れるかどうかにかかっているからである。一流大学に入るのも、野球をやって甲子園に出られるのも、それぞれの面での「よい高校」に入れなければ、お話にならない。

 高校が決まってしまえば、小学校の三年ごろから悩んできた問題は、一応の答えが出た形になる。それに甘んずるのではないにしても、入って見れば、クラスの仲間は自分と同じ悩みを持っているものばかりである。そしてこの年になれば、一流大学を出ることが、人生のすべてではないこともわかるようになる。他人や家族を虐め、自分を責める必要は、この段階で消滅するのである。

 そして男の子が優秀か優秀でないか、の区分けに敏感になるのは、そこに自分の人生がかかっているからである。
 相撲の弟子に教える言葉に、土俵の土の下に名誉も富も女も隠れている、という意味のものがあるという。これは古代の中国の皇帝が若者に書物の中に権力も富も女の潜んでいる、と言ったことの応用であろう。

 中国の場合は科挙の試験に受かれば、権力も富も女も望みのまま、だから勉強しろ、というのである。つまりこれは功利的な勉強というか、勉強を手段として見る立場である。従っていくら勉強しても、科挙の試験に受からなければ、一切の努力は無駄になる。

 中国の物語に、科挙の試験の勉強をする若者が主人公になるものが多いのは、おそらく多くの若者が挫折したためであろう。彼らは集団で挫折したのではない。たった一人で書斎で勉強しつつ、しかも挫折したのである。いわば大学浪人の挫折である。だから彼らの間からは虐めはなかった。

 邯鄲(かんたん)という話がある。ある科挙の受験生が都に受験に上がる旅の途中の宿で、夕食の支度のできる間に昼寝をして夢を見る。夢の中で彼は試験に及第し、富と名誉と美しい女を手に入れる。やがて彼は皇帝の不興をかって失脚し、すべてを失う。夢が覚めて見回せば自分は依然として受験生である、夕食はまだ来ていなかった、というのである。

 彼は人生の無常と受験勉強のはかなさを悟って、試験を受けずに家に帰った。
 もし、男の子が人生の無常と競争して勝者になることの無意味さを感じれば、虐めも登校拒否もなくなるであろう。しかし反面それは男の子から闘争心や、積極性を奪う結果になるかもしれない。

[子供の無邪気な残酷さを放っておいてよいか]
第五章 子供は人間として作ってゆかなければならない

〆子供は、無邪気ゆえにより残酷である

 子供は天使のようだとか、無垢で純粋だとか言う。それは嘘ではない。確かに大人の手がまだ大きな影響力を与えていないから、大人の汚れを知らない。しかしそれはまた動物的ということであり、大人になると当然に備わってくる配慮とか、想像力とかに欠けていることでもある。

 つまり子供は恐ろしい、動物のように残虐性を持つ。未完成な人間である。そもそも良識ある大人の心を持っていれば、赤子と言えどもオムツの中であろうと、排泄を遠慮なくして、母親に後始末をさせるような心無いことはできるはずがなかろう。この段階の子供は自分の都合、自分の利害しか考えていない。子供は残酷でもある。

 私の孫はよちよち歩きのころ、祖父、つまり私の家にやってきて、私たちが飼っているネコと対面した。
 ネコは賢く、最初から幼い人間などを信用していなかった。あまりその体面を喜ばなかった。しかし飼い主に強制されて、しぶしぶ幼児のそばに身をすくめていた。私の孫はネコに敵意を持っていたわけではない。しかし彼の最初の行動は、まるで気に入りの果物にでも手を伸ばすようにして、ネコの背中をむんずと掴んで持ち上げた。

 それ以来、ネコは孫を決して信用しなかった。孫の声が聞こえたかと思うと、何年たっても、孫が小学校にゆき、ネコに乱暴しない年になっても、孫がやって来るとするりと姿を消してしまうのである。

 ある時、孫がやって来た時に、例によってネコは姿を消したのだが、庭に出るとついでにふとボイラーの上を見た私は、そこにネコを見つけた。アッと叫ぼうとしたが、その時、ネコは人間の言葉で言えば、
「頼む、見逃してくれ」
 と目で訴えたのであった。
 私だって小学校二、三年のころまでは、トンボがとれすぎた日は友達に見せても自慢にならいようなトンボを選んで、尻尾をちぎって後ろに藁を突っ込んで、飛ばして喜んでいた。

 尻尾をもがれたトンボはいずれ死んでしまうのだが、そしてそのような形で飛ぶというよりも、人間の子供の手から逃れるために、彼らは必死であったのだろうが、その苦しみよりも、人間の子供の手から逃れるために、彼らは必死であったのだろうが、その苦しみや恐怖、そして痛みを思いやるゆとりは私にはなかったのである。

 子ネコを学校の帰りに拾って、郵便ポストに入れるかどうか試すために、二、三匹、ポストの中に押し込んだこともある。
 丁度、集配のための郵便局員がきて、ポストの蓋を開けたからネコは死に物狂いで飛び出し、郵便の人は驚いて、その場に尻餅をついた。

 あれは厳密には郵便法違反ということなのだろうが、子供だった私はそれだけの配慮もなかった。ただ、ポストの狭い口にネコが入るかどうか、という点にしか頭が廻らなかったのである。

 それもこれも幼かった私や私の孫が無邪気だったからである。大人の汚れを知らなかったからである。
 しかし男の子に比べると、どうも女の子のほうが、体制に従順なのではないだろうか。それは語学の学習についても、そういう傾向が見られる。男の子よりも女の子のほうが、言葉を覚えるのが早いと言われる。また大人になってから、外国語を覚えるのも、どういう訳か、女性の方が早く上手くなり、発音もいいようである。

 男というのはそれは後天的な教育の影響というものも考慮しなければならないが、妙なプライドがあって、人に頭を下げて、教えてもらう、ということに素直になれない。本当に尊敬できるならともかく、それほどでもないことに、頭を下げにくい。

 そんなこともあって、語学を習う時も、先生が厳密な発音を仕込もうとすると、反発するのは、男の子である。そんなに正確でなくても、通じればいいのではないか、といったことを考えもするし、時には口にする。

 しかし女の子は先生の発音を何とか、再現できるように努力する。いや、努力できる、と言ってもよい。その結果、男の子より女の子のほうが語学の発音はよい。その証拠に、日本で催される各種の語学コンテストに勝ち残り、優勝するのはまず女性が大半である。それが大学対抗だったりすると、女子学生が占める比率の割には多数の女性が決勝に残っている。

小学校の同じクラスでも、女の子のほうが体制的である。男の子が何か非行的な行動をすると、体制の理論から見て、それは違反だといった指摘をし、非難するのはしばしば女性である。

〆子供を人間として通用するように作る必要がある

 男性ばかりでない。徳川時代までの日本は動物を去勢するということを知らなかった。それで雄馬でも、従順な雌馬と同じようにして乗馬に使っていた。その結果、当時、日本にやって来た西洋人は、馬というよりも、猛獣に乗るようだと言っていた。馬の場合は雄馬なんだから、もっと強くなって、人間に反抗しなさいよ、と親や仲間から教育される訳ではない。

 それでも、雄馬は鞍を付けて人を乗せ、手綱と鞭の指示通りに運動することに反抗するのである。よほど、乗り手との間に意志と疎通が図られ、馬の方で乗り手をボスとして認めなければ、人の指図に従順にならない。

 雌馬だって、なかなか人に従順という訳ではない。人を見てバカにするし、時には危害を加えようとすることだってある。猿使いでも、子猿のうちに、どちらがボスかということをしっかり教えておかなければ、芸を覚えるようにはならない、と言うではないか。

 先日、テレビを見て面白かったのは、近頃の家畜を飼う日本の家庭で、飼い主失格とでもいう現象が出てきた、というのである。

 つまりペットの人権ならぬ獣権を重視するあまり、犬に過大の自由を与える。そのために犬のほうで、自分が自分の判断で行動しなければならない、という意識を与えて、そのために犬にストレスができるという。

 時には犬のほうが、飼い主に対して自分がボスであることを立証しようとする。その結果、飼い主に反抗するばかりでなく、噛みついたりするというのである。
 犬に安らぎを与えるためには、ボスが誰であるかを充分に教え込む、このボスの下にいれば、安心だと思わせることが、犬にとっても有り難いことと、悟らせるのが、家畜の幸せにつながるのである。

 このことについて。産経新聞で気になる文章を見つけた。父親が家庭内暴力の息子を殺した事件について、最近の事例において、その父親が二人とも東大出身であったこと、そして二人とも人権とか環境とかを大切にする思想の持ち主であること、従って子供の教育にあっても、子供の人権、といったことを必要以上に考えて実践したのではないか、というのである。

 子供は適切なしつけを受けないと、自分の行動は自分で決めなければならない、という重圧で、その子が敏感であればあるほど、ストレスを覚える。そしてすでに、巧みに行動の規範を持っているらしい親に羨望とも、憎悪ともつかないものを持つかもしれない。私はその点については自信がない。私は息子を甘やかしたかもしれない。それでも息子は一応は世間に通用する大人になってくれた。しかし私は息子の教育について、なお後悔することがある

 それというのも私は甘やかされて育ったからである。だから自分は家庭では王様だったのに、世間、子の場合は学校、において、何かというと能力を競い合うライバルがおり、スキあれば虐めようとする上級生がいることを知った。

 私は彼らと対抗するために少しずつ狡(ずる)くなっていった。それでも充分ではなかったらしい。つまり私は学校には最後までうまく適応できなかったし、退学の一歩手前までなったこともある。

 私にとって大人になるということは、家庭と社会で感ずる違和感を処理することであった。私は適度に鈍感だったから、それでもやってこられたが、もっとデリケートな子だったら、登校拒否や家庭内暴力を起こしていたかもしれない。
 同じことが息子にも言える。彼も家庭と社会の矛盾に悩みながら、大人になっていったことであろう。

 ボーボワール女史は、「女は作られる」と言ったのだが、それでは「作って」はいけないのだろうか。子供はやはり何かの形で作ってゆかねばならないのである。子供は生まれたままの状態では、残酷であり、社会の約束に通じていない。だから子供を人間として通用するように作ってゆく必要がある。

 その典型が、言葉の教育であり、家庭や社会の中のルールに従うことを、子供に教えるという点に見る事が出来る。
 この際、文化的相違があることに注目する必要がある。
 つまり同じ資質の子供でも、環境次第では違った躾、教育を受ける、ということである。

 アメリカではよく他民族の子を幼児の頃から養子にする。ここに韓国に双子の兄弟がいたとしよう。一人は韓国人として韓国で育ち、一人はアメリカの養子になって、アメリカ人として育つ。すると数年後には、一人は韓国語を日常的に使い、韓国の衣食住の習慣になれ、韓国的な世界観を共有するようになるであろう。

 一方、アメリカ人の養子になった子供は、あくまでもアメリカ人として育ち、言葉は英語であり、アメリカ的な社会通念を持った人になるであろう。
 つまり同じ資質の子供でも、その子が属する社会によって、違った理想、常識、違った言葉を教え込まれるのである。それなら、男性と女性といった違いがあるなら、そこに違った教育が施されてもよいのではないだろうか。

 近年のフェミニズムの震源地であり、今も最も女性の権利の拡張に熱心なアメリカにおいても、男女同権を憲法にうたうことはなされていない。
 アメリカでは憲法を改正することなく、新しい概念を持ち込むときは、修正条項というのをつけ加えるのだが、男女同権の修正条項は、反対する複数の州があって、未だ成立していない。

〆男女差は文化が作る

 男女の生理的相違は絶対的にしても、つまり男性は出産することもできず、女性は自分の遺伝子を他の個体に与えて、自分の子を産ませることはできない。しかし生理的差異の影響下に生じる心理的差異は絶対的なものではない。

 前に書いたように、能力において、性格、人格において、二人の個人の違いは、男女の差として説明されるより、社会内の個人差として扱われるのが、先進国においては常識になっている。一つの職業において、男女、いずれかでなければ、といった分野は例外である。
 シベリアで捕虜として重労働に従事した男が帰国して、
「いやー、ロシアの女というのは力が強い。われわれは捕虜、彼女らは囚人で、食料なんか似たものだと思うが、われわれよりも彼女らのほうが力あったもんなあ」
 とため息をついたのであった。彼だって日本人としては体力のないほうではなく、それだから過酷な捕虜としての二年余りの体験に耐えて、無事に帰国したのである。だから男女の差がもっとも際立っているという体力においても、性差よりは民族差のほうが大きいということである。

 自然の中にあっては、たとえば日本猿は群れを作っているが、一頭、一頭が餌を捕る時は孤独である。そこには雄も雌もない。違いは性交の場と、社会の構成メンバーになった時である。性交の場を除いても、猿ですら、雌雄の差が認められる。しかも人は文化的動物である。社会の構成原理のようなものを文化として発達してきた人間は、文化の中に男女差を盛り込んでしまった。

 キリスト教において、「天にまします、我らの父よ‥‥」という祈りがあって、これは言葉が古代的な気取った語彙(ごい)を使うか、口語に近い表現を使うかは別にして、あらゆるキリスト教において、共通のものである。それというのも、キリストが弟子たちの質問に応えて、このように祈れ、と言って教えられた祈りだからである。

 フエミニストたちは、どうして神が男なのだ、と言って反対する。通常、神やキリストのことを英語では大文字で「彼」を表す単語を使うが、それはけしからん。神は男性でも女性でもないはずだ、と苦情を言う。
 それはその通りのようだが、少し違う。

 キリストはローマ時代の属領の被支配者である、イスラエル民族という一つの部族に生まれられて、彼らに分かるような形で、教えを説いた。例えば、キリストが使った言葉は、アラマイ語であったとされる。

 もしキリストが日本で生まれられたらなら、当然、日本語で教えを説かれたはずだ。
 ただイスラエル人は当時、すでに農業民になりかかっていたが、基本的には牧畜民だった。だからキリストの言葉を伝えた「福音書」には、多くのたとえが見られるが、その中に麦やブドウなどの農業的なたとえ話もあるが、牧畜民的な羊や羊飼いのたとえ話もある。

 そしてキリストは神と人との関係を説明するのに、度々、羊飼いと羊を使われた。そして中近東では今でも羊飼いは男性である。羊飼いには他の羊飼いとの争いもある。狼の襲撃から羊を守らなければならない。
 それはまた多くの人を率いて、荒野を旅する家長や族長もその種のたとえに使われる。
そしてこれもまた男性である。族長の判断が間違えば、全員渇き死にするのが砂漠の掟なのだ。

 だから砂漠で起きたキリスト教では、神は男性であっても仕方ない。同時に農業民の神は日本の天照(あまてらす)大神のように女性である。地中海沿岸の農業地帯には多くの神殿の廃墟が残っているが、そこの中のかなりの部分はかつては、女神が祀られていた。

 つまり人間の文化の中に、男性と女性が棲み分ける形で、そのありかたを規定してきた。文明の発達の結果、男性でなければできない仕事、女性が得意としている分野、といったものは消滅する傾向がある。

 先日タクシーに乗っていたら、前に巨大な鉄材を吊ったトレーラー・トラックがバックで建築現場に入ろうとしていて、道をふさいだので、タクシーが停まった。そのトレーラーの運転席から半身乗り出して、後ろを見ながら長大なトレーラーを後進させていたのは、長い髪の女性であった。

 機械の発達は昔は筋肉を必要としていた労働でも、今は技術だけで処理できるようになっている。また昔は綿密な技術を必要としていた分野でも、機械の発達で誰でも簡単にできる。
 大工さんのカンナ掛けなどは、昔は大変な収斂が必要だったが、今では電動カンナを使えば、初心者でも簡単に板をすべすべにできる。

 昔は長年の経験を積んだ主婦やプロの料理人しかできなかった料理も、今はレトルト食品などが市販されていて、不器用な男でもそれらしいものが作れる。だから、かつてはテレビのコマーシャルで性差別だとして問題になった「私作る人、ボク食べる人」といったことは、インスタントラーメン自体の発達によって、完全に意味がなくなってしまった。そして近来のラーメンのコマーシャルでは、逆に夫が女房におだてられて、ラーメンを作って得意になっているのも現れた。

[少年の夢は一生を支配するか]
第六章 異性への憧れと欲望の狭間で揺れ動く心

〆女性への憧れ、自分の性への関心

『古事記』によると神代の昔から、女性が働きかけると、男女の仲はうまくいかないが、男から働きかけると、その関係は生産的になるらしい。

 そのせいか女性が男性に関心など持たないうちに、男性は女性に無関心ではいられなくなる。女の子が赤いスカートを欲しがるのは、男性の歓心をかうためではないのだが、、男の子は女の子がいわば自己満足のためにはいている赤いスカートに惑乱される。

 それでも小学校のころは、女の子は男の子にとって憧れであるが、近寄ってはならない存在である。
 学校の自治会やクラブ活動、授業などで一緒に行動することはあっても、女の子の女である所以(ゆえん)については目を背けて考えないようにしている。

 しかし、スポーツ万能選手になって、クラスや学校の代表になるよりも、また成績がよくて先生に褒められ、同級生に嫉妬されるよりも、密かに思いを寄せている女の子に好かれる方が、どれだけましか、という想いは心のどこかにくすぶっている。

 第二次世界大戦中の英国を率いて戦った、宰相のウイントン・チャーチルは少年時代に、自分醜男だから女の子にはもてないと、勉強に努力したという。恐らくは女性への憧れを棄てたのではなかろう。相撲取りが、そして中国の秀才が土俵や書斎の中に美女がいると信じたように、チャーチルもたとえ醜男であろうとも、男性の勲章を手に入れれば、女性も関心を持ってくれる、そう思ったに違いない。

 小学校の上級から中学にかけて、女性への関心は男子の心に猛然と突き上げてくる。哺乳類の繁殖のパターンを見ると、大体は雄が性に目覚め、互いに雌を争って戦う。そして雌は最上の雄を迎える時に備えて、性に目覚めても生殖行為には消極的である。勝ち残った雄が決定されるのを待ち、さらに雄の積極的求愛にいやいや従うという形をとるのが普通である。

 人間の思春期の少年の心に荒れ狂う性の嵐は、哺乳類の雄に訪れる性の目覚めと同質に違いない。
 この年齢以前では、少年の異性への関心はロマンチックというか、性欲が伴わないし、また性的な興奮があったとしても、生殖能力をまだ持っていない。幼稚園のころは担任の女先生に、ほのかな恋心を抱いていたとしても、それは母親への気持ちとそれほど違わない。しかし思春期の男子を捉えるのは、そんな牧歌的な女性への憧れではない。

 小学校のころの男の子の憧れの異性は、やはり同じ年代の女の子、精々で一、二年上の女の子であった。それが思春期になると、はっきりと成熟した女性が対象になる。少年の性腺がようやく完成して、生殖能力を持った、ということであろう。もっとも大人の女性が自分の相手をしてくれるとは思わないから、もっぱらヌード写真などが、具体的な対象となる。

 二十歳の娘、三十歳の若妻は、自分が小学生の男の子の性の対象になっている、と聞けば気味悪がるかもしれないが、それは事実なのである。もしチャンスがあれば、彼らは一人前の男として彼女の肉体に迫るであろう。

 この時期、男子は寄ると触ると女の性について語り合う。性器の構造、肉体の蠱惑(こわく)的な魅力について、性交の実際について、出産の秘密について。

 しかしそれも同時に、自分たちの性についても関心を持たざるをえない。女性を意識する時、自分の性器が充血し、全身に興奮を覚え、性器にある感覚が生じる。勿論、子供のころから、それは単なる排尿器官とは思っていなかった。しかしそれは新しく、特別な使命を持つものとして意識される。

 小学校の中級のころ、並んで小便をして、誰が一番遠くまで飛ばせるかという競争をしたのは、必ずしも、男性として無意味な競技ではなかったのだ、と思ったりもする。

 彼は自分の性器と、それと連動して、ようやく明確な形をとりはじめた性欲を持て余す。性器と性欲のどちらがニワトリでどちらが卵かはわからないが、性器が興奮する時の、いたたまれない気持ち、その結果、彼は精通を経験する。

 夢精、つまり寝ている間に射精することで、精通を経験する男子もいると読んだことがあるが、ほとんどの場合、自分の性器への集中的関心や実験が、最初の精通になるのであろう。つまり、多くの少年はマスターベーションによって、自己の性的能力を確認するのである。
〆女性は限りない快楽を与えてくれるもの

 女性の性の認識はしばしば不快感を伴うと読んだことがあるが、男子の場合は性の自覚である精通は快感を伴う経験である。やがて彼は女性の裸を想像するだけで、射精するようになる。彼は女性が自分に限りない快楽を与える物体であることを認識する。

 それは決して人としての、愛の対象としての認識ではない。欲望充足の道具としての認識である。生身の女性も一枚のヌード写真もその点では全く同じである。
 このことから射精、つまり自慰の対象としての女性と、人間として対処しなければならない女性との距離に悩むようになる。たとえば男の子は友達が自分の母親を性の対象としていることを知ると動揺する。具体的には、
「お前のオフクロさん、いかしてるじゃないか。水着の写真か何かないか、一枚くれや」
 などと言われる激怒して、まるでそれは自分の母親が友人の性の対象として挑みかかったかのように相手に対するのは、それは母親への愛情である。友人が性の対象として母屋を選ぶことは、人間としての母親への冒涜(ぼうとく)であると感ずる。母親は彼にとって女性であるよりも、懐かしい母親なのである。それだから友人が欲望を充たす道具として母親を眺めることが許せないのである。

 この時期、かれは自分の性器を点検して、自分が普通じゃないのではないかと疑い、自分の性器の構造が特異であって、女性を相手にするのに不適当なのではないか、と脅えたりもする。

 人によっては、その疑問を解決するために、仲間の一人を犠牲者として選び、カイボウと称して、性器を点検する。それが自分と同じ構造をしていれば安心する。しかしカイボウの対象とされた者にとっては、それは立派な虐めである。

 また男児は女性の性器について深い興味を持つが、それは普通の状態では決して見ることのできないことを知る。丁度、仲間をカイボウとたように、女性の行動を抑制する、つまり縛ったり、抵抗不能の状態にする以外に、女性の性器を知るすべがない。そういう状態で女性を自由に探検することは、想像するだけで快楽を覚える。

 普通の男児はこの段階で多少ともサディスティックになる。それは自分の異性への関心を充たすためには、暴力による以外に可能性はないからである。思春期や少年の性的好奇心を充たすために、自分の身体を開いてくれる女性などいるであろうか。いる訳がないではないか。

 それなら少年の夢は、暴力による以外は果たされない。少年が女性に対してサディスティックな欲望を持つのは、やむをえない面もある。

 倭寇(わこう)という海賊がいた。それでなくとも、世界の貿易船は武装していた。自分でも一応の財貨を持っているし、それを不当に略奪されないために、また、どうしても必要な物資を入手するために、平和的な手段ではラチがあかないと見通した時などに、やむをえず使うのが暴力である。

 日本の倭寇は中国との貿易からはじまる。貿易が日本の船乗りの考えるような形で成立しない場合には暴力に訴えた。遂には、最初から暴力を前提にしたが、当時の商業はそういったものであった。

 ギリシア神話の商業の神のヘルメス、英語のマーキュリーは商業の神であると同時に泥棒、通信の神でもある。
 西洋の十字軍も、優れたイスラム文明を採り入れようとしたヨーロッパのキリスト教諸国民が、暴力を肯定するために、信仰を利用したというより、信仰心を似て自らの盗賊行為を正当化したにすぎない。

 サディズムとマゾヒズムはそれほど違うものではない。暴力に訴えても奪おうとするものは、自分の憧れ、夢にみる対象だから、その前に身を低くすることを厭わない。少年の異性への憧れはサディスティックな衝動になるとはいっても、現実に美しい異性に親しく話しかけられたりすると、主人の前に呼び出された奴隷のように、卑屈になり顔も上げられなくなるのである。

〆少年の性的環境が一生を決めることがある。
 もし少年の欲望にブレーキがかかるような憧れの対象があれば、具体的には中学生の少年が兄嫁に憧れて、彼女が少年の欲望に気づきもしないで、やさしく接してくれるような場合、現実には彼女がまともに相手にしてくれる可能性のないままに、彼はマゾヒスティックな態度、少なくとも騎士物語のナイトのような態度をとるであろう。彼は彼女に依頼された仕事を果たすためにどんな苦労も厭(いと)わないし、それを完全に果たすことに、密かな満足を覚えるはずである。

 母親は息子が自分の指図には従わず、反抗ばかりするのに、彼が兄嫁には従順なことに怒りを覚えるかも知れない。
 この時期の少年の性的環境によって、彼の性の嗜好の傾向が決まることが多い。私には姉が一人いるだけで、兄嫁にあたる人はいなかったから、兄嫁を例にとっても、私の性生活を告白することにはならないので、兄嫁を例にすることにする。

 ある少年は兄嫁が、授乳している光景を見て性的な刺激と、乳を飲む自分の甥や姪に嫉妬を覚え、またそういう形で若い魅力的な母親が自分の肉親になったことを確認することができた。その場合、彼は異性の豊満な乳房への憧憬を根強く持つようになったのかもしれない。同じようにして、兄嫁の脚線美にひかれれば、彼は異性の脚の美しさに敏感になる可能性がある。

 髪の毛、腰、尻、肌の滑らかさ、ついには、女性が身につける下着、ストッキングなどへの偏愛は、この時期の体験に結びつくことが多い。同性愛は幼児からの生活環境に原因の主要な部分を求められるというが、思春期の少年にとっては、同性との交友を通じて、ふとした性的満足を覚える機会から、そういう性癖が助長されることもある。また性愛とまではゆかなくとも、クラブ活動や部活動などで、先輩の指示に従い、後輩の面倒を見ているうちに、同性愛的な感情が芽生えることもある。

 しかそれはスポーツのチームワークの変形みたいなもので、異性の友人や恋人ができると共に、同性愛的な情緒は雲散霧消してしまうものである。その意味では、近頃のスポーツでは女性のマネージャーが活躍するが、それはチームの中から同性愛的な雰囲気を解消するのに役立つかもしれない。

 そしてこの時期多くの少年は初恋を経験する。
 幼年期から年の近い女の子に憧れたり、幼稚園の先生に憧れたり、といったことはあったが、少年時代になって、それは明らかな目的意識を持つようになる。つまり憧れの対象は同時に自分の欲望を充たす肉体を持っているという認識である。

 激しい欲望と、できれば彼女にとってその欲望を満たしたいのではあるが、欲望充足のために彼女に近づくことを、誰よりも自分に許さない、彼女への憧れの感情がある。
 多くの場合、それは高校の同級生、あるいは上級生、あるいはマドンナと言われる娘である場合もある。

 初恋の人が兄嫁であったり、父親の恋人、情人であることもある。ツルゲーネフの『初恋』という作品は、父親の恋人に憧れた少年の物語だが、私の知人で父親の妾に惚れた男がいた。

 彼女は少年が自分を恋しているとは知らずに、彼には主人に対する従者のように接した。戦前の人間には身分というものが認められていた時代のことである。妾はあくまでも日陰の身であった。

 彼女は旦那の息子に対して、道徳的な引け目もさることながら、将来、旦那にもしものことがあれば、その時には成長して一家の主となっている少年から好意をもたれていなければならない、という打算からだろうか、彼女は少年にやさしかった。

 少年の父親は一代でたたき上げた実業家だったが、少年は父親に背いて、過激な政治運動をするようになった、父親や憧れの人には、言わなかったであろうが、親しい友人には、成功する前の父親や芸者になる前の妾を肯定し、現在の彼の在り方を批判するようになった。

 私は彼の話を聞きながら、ふとツルゲーネフの「初恋」を思った。ツルゲーネフは十九世紀半ばのロシアの没落地主貴族で、退役軍人の息子とて生まれ、ロシア社会の矛盾を意識して、農奴解放に尽力することを心に期す若者に育つのである。

 その理由は母親の気まぐれと苛酷な性格のために、多くの農奴が苦しめられている現実を見たからとされるが、あるいは私の友人に似た、つまり父親への反逆といった条件もあったのかもしれない。

[思春期の男の子ははじめての女性にどう対処するか]
第七章 男の子が愛と性にめざめる時

〆心と肉体のアンバランスさ、分裂と矛盾の中で

 思春期の男の子は右の視力と人左の視力がひどく違っている人に例えたらよいだろうか。身体も心もアンバランスで、当人も実は途方に暮れているのである。

 青春を疾風怒濤の時期という人がいるが、思春期は分裂と矛盾の時期である。身体はたとえば性腺は生殖力を持つと言っても、全体的にはまだ子どもである。筋肉も発達していなければ、髭もまだ産毛の段階からあまり変わらっていない。性毛だって生え揃わない。

 この時期の男この子はしばしば鏡の前で、腕を曲げて、自分の力瘤(こぶ)を作ってみたり、母親の前で自分の裸を見せて、すでに男性である事を保証してもらいたがったり、筋肉のトレーニングに突如はげんだり、といったことをする傾向にある。

 それは彼なりに子供の状態から一日でも早く大人の男になりたい、といった願望の現れであろう。しかし家族の前で自分の筋肉の充実ぶりを披露しようとすること自体、まだ子供なのである。
 また抽象的思考ができるようになる。
 抽象的思考というのは、現実に自分が体験してみなくとも、観念的にその事件を自分のものにすることができる、ということである。

 たとえば小説の中の事件も人物も架空の存在であるが、自分が登場人物になり、その事件を体験しているかのように思うことができる。実際にお年玉を現金で持っていなくとも、銀行の通帳とか、母親がくれた証文のようなものがあれば、紙幣を自分で管理しなくとも、安心することが出来る。

 だから思春期になって、数学でもXとかYといった数字を使って式を展開することができるし、「任意の三角形ABC」といったやりかたで、特定の三角形ではなく、抽象的ですべての三角形を包括する概念を使って、図形を考えることが出来るようになる。

 だから自由とか権利とか、真理といった抽象概念を使って思索も可能である。
 そうは言っても、彼に実際的能力は皆無と言ってよい。客がきても挨拶もろくにできない。大人ならなんでもなくやれる掃除とか洗濯、料理などもできない、何よりも社会生活のすべてについて非常識である。
「ヘーゲルの世界理性という観念は、ほとんど神概念に通ずるものがあって・・・・」
 などという論議をする中学生でも、母親に言われてスーパーに買い物にゆけば、指示通りのものを買えないのである。

 何よりも分裂の矛盾を露呈するのは、セックスの分野である。中学生は何処から手に入れるのか、日本の税関では決して入国を許されないような写真の類を持っている。ウチの子に限って、愛する息子は純情な少年だとばかり思い込んでいる母親からすれば、ゲッとするような写真や絵画を机の引き出しにしまっておく。それを使って、少年はあらゆる放恣(ほうし)で淫らな妄想を描き、女性を凌辱する。

 しかしそれは言ってみれば、ヘーゲルの世界理性なるものを理解する次元のことであって、現実の彼の異性との関係は幼稚園の時代から比べると、意識過剰のためにかえって退化しているほどである。幼稚園の時に親しかったミヨちゃんと道で会っても、顔を背けるようになっているし、ミヨちゃんも覚えているのか忘れたのか、幼馴染みの彼には無関心を装う。

 知識としては性の実体というか、生理的な意味を思春期の少年は理解している。あるいは性の心理的側面、社会的タブー、場合によってはそれが法律の面でどのような制約となっているかまで知っている。しかし彼は現実の女性との間に男と女としての関係を結ぶことは困難である。

 精々で、クラスで同じ自然観察のグループに属しているとか、学級の自治委員として同僚だとか、といった関係の中に、異性としての関心を強引にねじふせ、あたかも同性に対するのと同じであるかのような体裁を作る。

〆秘密は秘密ゆえに二人を結びつける

 高校になると、やや違ってくる。少年はこれはという異性と二人きりで休みにピクニックに行くことを提案する。
「午前十時に駅の改札の前で待ち合わせて、電車で深大寺にゆく。お寺を見て、その前でそばを食って、それから万葉園に行って、午後四時頃には帰って来ると思う」

 少年はそんな提案をする。少女としては生まれて初めて男性のリードに身を任せる快感を味わう事になる。彼女としたらイエスかノーを言えばよい。自分で企画し判断し、うまくゆかなかったら自分で責任を負う、といった煩わしいことはすべて男性に任せる。保護され、大切にされ、お客のようにおっとりとかまえていれば、何もかも彼がやってくれるのである。

 彼女が提案を引き受けて、一緒にピクニックに行った時、二人はその日の計画が、決して自然観察のためでもなく、自治委員として打ち合わせでもないことを承知している。彼女は彼が自分に女性としての魅力を感じていて、その魅力をピクニックを一緒にする、という形で賛美することを許してほしい、と願っていることを認めている。だからデートに応ずることは、彼に自分を女性として眺めることを許容していることになる。

 彼にしてみれば、それは自分がはじめて男性として一人の女性から待遇されたことになる。とにかく彼女は一日の行動のプログラムを大筋において、彼の考えに従おうというのである。彼は一人の女性の一日について責任を委ねられる。

「こういう時に、彼女の信頼を裏切るようなことはしてはならない。彼女は脅えたり、オレに反感を持つようなことはすまい」

 だからと言って彼にあの激しい欲望は消えたのではない。それが激しいからこそ、こういうデートを計画したのだが、彼女の信頼を裏切らないためにも、欲望は抑えつけて、男であることの証拠を、楽しいピクニックを企画し成功させる、という形で、相手に印象付けようとする。

 つまりこの時、彼は欲望Xと現実の異性Yの二つの未知数Xのみを含む方程式と未知数Yのみを含む方程式を別々に解いていたのである。XとYを同時に満足させる数値を出す必要がなかった。いや、二つの未知数を関連付けようとする試みすらされなかった。それが今や二つの未知数を同時に満足させる必要ができた。それが青春である。

 しかし最初のデートはうまくゆくとは限らない。見知らぬ少年の誘いに乗ろうとする娘を案ずる母親は、小学六年の次女を付けてやったりする。少年は万葉園がつまらないからと言って、多摩川の防波堤に誘い、彼女の腰が冷えないように、自分のレインコートを毛氈(もうせん)がわりに敷いてやると、小学生の妹は堤防の斜面の二、三メートル下に背を向けてしゃがみ、二人が高校の教師の悪口などを喋っていると――彼としてはそんな話題ではなく、彼女の女性的魅力を讃えたい、そしてライバルに誰それがいる、といったことを話し合いたいのだが――妹は依怙地に二人に背を向けたまま、
「お姉さま、ま―だ?」

 と小憎らしい声をあげて、約束通り蜜豆を食べに行こうと催促して、彼のせっかくのピクニックのプランを台無しにするのである。

 彼は知らないなのだが、彼女はその妹を連れて行かざるをえなかったことで、母と妹に腹をたてており、彼に対してはすまないと思っている。その分だけ彼女は彼に借りができたと言ってもよい。だから彼が面白くない腹をさすって、彼女の妹の要求もいれてやれば、姉妹にとって彼はよい人になれる。つまり彼のデートの計画、彼女と一緒の特別の時間を持ち、しかもそのことを彼女にある程度の充実感を与えるという計画、彼女と一緒の特別の時間を持ち、しかもそのことを彼女にある程度の充実感を与えるという計画は成功したと言えるのである。

 多分、彼女は次のデートの申し込みに応じてくれるだろうし、妹というお目付けを追い払うために、彼女は家にウソをついて彼とのデートに来ることになろう。こうして二人は秘密を持つことになる。秘密は二人を結び付けるし、秘密を秘密にならしめるために、二人は特殊の関係になるかもしれない。

 彼女は彼が愛の告白をするのに、脅えながらもそれを受け入れる。一人が留守番をしている日に、もう一人が相手の家に訪問して、二人きりという条件に興奮して、二人は禁断の性の境界を超えるかも知れない。

〆ガールフレンドにして同級生、同僚として恋人という関係が成立する時

 しかし多くの男の子は一人の娘をデートに誘う責任の重さに耐えきれない。むしろ年上の女のペットになって、煩わしい責任は、男性として負わねばならない立案とか実施といった面まで、年上の女性にやってもらおうとする。しかし言ってみれば、薄汚い野良犬のような男の子に興味を持つてくれる年上の女性などめったにいるものではない。

 年上の女性のペットになれる男は、肉体か精神において特別の美質を持っていて、それが成熟した男性にない魅力となっていなければならない。だからペットになることは、ほとんどの男性に叶わぬ夢なのだが、まったくあり得ないことはない。

 バイト先で知り合った親切なOLとか、一流大学の学生なら、家庭教師先の母親とか、彼をペットにしてくれる女性もいないではない。

 娘時代に慶応の学生のボーイフレンドがいて、彼に憧れていたが結局はできなかった、というような人妻がいて、そんなこともあって、一人息子を是非とも慶応大学にいれよう、などと決心しているとしよう。そういう人妻にとって、家庭教師にきた慶応の学生にかつてのボーイフレンドの面影を見ようとしすることは、ありがちなことである。

 同様にロクなボーイフレンドにめぐまれないまま、後輩からお局様などと言われるになったOLにとっては、バイトにきて、世慣れない一流大学の学生はペットとして手ごろかもしれない。とにかくペットになれる男性よほどの美少年でない限り、高校生では無理であろう。肉体的条件に問題があっても、受験勉強しかしてこなかった、一流大学の学生は、その社会的能力を、純情と誤解されて、ペットにしてくれる年上の女性が現れる可能性がある。

 しかし自分から女性をデートに誘える少年も、年上の女性のペットになれる学生も、それほど多くない。かなりの若者は未知数XとYを含む連立方程式を、風俗と言われる世界で解くことになる。彼が若く独身であり、風俗の女性がふと憧れるような、平凡でも穏やかな生活の伴侶になれる資質があれば、彼はこの段階でペットになれる可能性もないではない。
 しかし多くの場合、彼が解いた連立方程式は風俗の世界では通用する数値を出してくれても、それは彼の日常生活の女性に満足させる値ではあるまい。彼の青春は就職、という形で社会に出て、そこで相手を異性として扱うことに対するタブーの存在しない相手、たとえば会社の同僚などを会社の隣りの机に発見して、はじめて普通の女性に対して通用する連立方程式の数値をだすことができるようになる。

 高校生の頃までは、女性であることを無視して、一人の友人として女性を見る事を自分に強制してきた。従って特定の彼女に女性を見ることは、それ自体が不倫と言ってよいようであってはならないことであった。この段階までは、ガールフレンドと同級生が分裂している。

 しかし大学に入り、会社に勤める段階になると、同級生にしてガールフレンド、同僚にして恋人、という関係が、許し難い悪としてではなく成立してくる。また周囲も一人の若者が同級生であったり同僚であったりする女性に、クラスメートとして、あるいは同じ会社の社員であると同時に、異性の関係を持っていることを当然として見せてくれる。

 だからと言って、思春期の異性関係の矛盾と分裂は完全に消滅した訳ではない。
 大学でゼミの同学年の男女が恋人の関係になると、二人は何かと一緒に勉強ができるからよいかも知れない。しかしゼミとしては困るのである。
 ゼミとしては個々の学生が独立した人格として、というより独立した学識なり見識を持って、一つの問題に立ち向かうことに意味がある。それを二人が最初から共通の本を読み同じ意見をまとめて出席するようになると、ゼミとしての彼らの意見をもう一度ほぐし、分析した上で、つまり個人に還元した上で、改めて討論を行わなければならない。

 同じことは会社や役所でも起こるし、仕事の場合では、個々の人間が職務を持って、互いに協力し合えない場合もある。共同で同じ仕事をする時も、恋人同士の二人がその仕事を分担するとは限らない。

 職場では恋人同士という固い繋がりがある二人の存在は、仕事の上で好都合というより、具合が悪いことのほうがおおいのである。

 当人としては学生生活や仕事の面の仲間意識と、異性としての意識を上手く両立させたつもりでも、周囲がそう考えているとは限らない。学校や職場において、恋人同士という存在は迷惑であれこそ、歓迎すべきことではない。それで昔から不義はお家の御法度、などと言い、結婚するなら一方は辞めてもらうといった不文律があった。

 恋人たちが学校や職場で人目を忍んだり、不自然なまでに、自分たちの「愛」にこだわるのも、「周囲の不当な」圧迫に対して、自分たちの誠を貫こうとなどという、思い上がりがあるためである。

つづく[男と女の連立方程式をいかに解くか]
第八章 こうして若者は人生の最初の成功を得る。
〆男が解かねばならない連立方程式