人間に本質という枠をはめることはできない

 第二次世界大戦後の世界に、実存主義という言葉が流行ったことがある。この実存主義には何人かの教祖がいたのだが、その中で大教祖とでも言うべき人に、高名な哲学者のサルトルがいた。
 現実の体制よりも自分たちの思想を重視するこの種のインテリたちは、世俗的な結婚などという制度を全く認めない人が多く、サルトルもその仲間だった。従って彼は法的結婚はしなかったが、常識的に言えば夫人にあたる、最も親密な異性の人生の同伴者とでも言うべき人がいて、その名前はシモーヌ・ド・ボーボワールと言った。

 彼女も哲学者であり、小説も書き、サルトルと生活を共にしながら、結婚もしなかったのだから、実存主義も実践もした人だが、彼女の有名な言葉に「女は作られる」というアイディアがある。

 面倒なことは書くまい、と思ったのだが、友達に会って、ハッタリをかます役にたつかもしれないので、実存主義というものについてちょっと書いておく。膏薬と理屈はどちらにもつく、という言葉があって、哲学などは所詮、空念仏、屁理屈以外の何物でもないと思う人は、ここから暫くは、つまり「それなら女は作られるものであろうか」という言葉が始まる次の頁の終わりのほうまで、飛ばして読んで下さってもかまわない。

 たとえば、爪楊枝などという代物は、それを作る過程から、それが使われて破棄されるまで、爪楊枝以外の何物でもない。つまりこういう場合の楊枝なるものは、そのために作られ、そのように消費されるモノの本質である、という。

 ところが、人間というモノを考えると、人間はツマヨウジのように、これはしかじかの目的のために、このようにして作られ、そのためにエネルギーを消費して死ぬ、といったことは何一つとして言えない。
 つまり人間には本質を問題にすることは難しい。この場合の人間の在り方は、人間はあるがままに実存する、と言う。

 実存としての人間は、自分で形成したような形の人間になる。その形成の過程が人間にとっての自由なのだとする。ツマヨウジのような形で、人間の本質を決定しようとすることは人間への侮辱で、人間は自分に特定な枠という形の本質を与えようとする外側の権威と戦わねばならない、サルトルは説いた。

 ボーボワール女史はそういうサルトルの生活同伴者であったから、彼の考えに沿って、女性問題も考えた。
 そして人間にはツマヨウジのような本質を考えることができないのだから、人類の半ばの人々に対して、それを女と呼び、彼らが女であることを、あたかも彼らの本質であるかのように扱うのは間違っている、と主張したのである。

 女性は実存としての人間の状態から人生をスタートするのに、女になってしまうのは、サルトルのように、人間としての自由なる意志によって、女になるのではなく、外の権威によって、女にされてしまうのである。だからこそ女性はそのような権威と戦い、自らの自由意志によって、人間、あるいは一つの人格を形成しなければならない、というのがボーボワール女史の見解であった。

 それなら女は作られるものであろうか。ある意味ではイエスであり、ある意味ではノーである。

 一本の木材が、たとえ意志を持っていたとしても、その意志とは無関係に、ツマヨウジに作られるのと同じく、女の子は否応なく、女の子にされてしまう。あたかもその人間にとって、女であることが本質であるかのような扱いを受けることは確かである。スカートをはかされ、料理、裁縫などの家事を仕込まれ、反面、軍人になろうとしたり、船員になろうとすると、その道は塞がれていた。

 それどころか、戦前の日本では女性は例外的な場合を除いて、大学に進むことはできなかった。戦前の女子大学は正規の大学ではなく、文部省の扱いでは高等専門学校の一種だったのである。

〆男であることは、人間の本質ではない

 アメリカが軍の将校養成の大学を女性に門戸を開いたのは比較的新しいし、軍人として採用しても、彼女らを戦闘の局面には投入しないのは、やはり差別であろう。女性はそういうことには向かないとして、つまり女性は「本質的」に戦いには向かない、とされているのである。ツマヨウジはつまったパイプの掃除道具くらいには使えても、木材と木材を繋げるクギとして使う事は出来ない、とするのに似ている。現実には、日本には巴御前(ともえごぜん)などのような女性の闘士もいたし、『旧約聖書』の「士師記(ししき)」にはデボラという女性の将軍が登場する。

「女なんだから」「女のくせに」「女らしくしなさい」「女だてらに」といった表現はいずれも、女性を軍人に養成する学校が、昔から彼女らを門前払いにしていた考えと通ずるものがある。

 その意味では確かに「女は作られた」モノであり、一部の人間にとって、女であることはその本質と見なされる場合もあった。たとえば娼婦は男に性的な満足を与えるためのものであって、それ以外のことは期待されていない。それはツマヨウジが歯をせせるのに使う以外のことは、期待されていないのと同じである。

 つまり娼婦は彼女らも人間であるにもかかわらず、ツマヨウジと同じく、本質を問うことのできるモノということになる。それが女性が娼婦にされること、女性を娼婦として扱うことが、人権問題につながる理由である。

 しかし女性は最初から女性である面を持っている。それは男性が最初から男性であることと同じである。それは肉体的には性器や、第二次性徴といわれる豊かな乳房があり体毛は少なく、体全体に脂肪が多い。そのために線が丸みを帯びている、などにおいて顕著に現れている。またそれに伴って、特有の生理的反応があることも事実である。

 大きな事故が起きると、女性の生存率が高いことはよく知られているし、それは偶然とは言えないほどの率である。ドーバー海峡を泳いで横断する人が時折現れるが。これも女性が多いのは。脂肪の量と持久力という精神面が大きいのであろう。

 札幌の地下街ができる前のことである。私が厚い背広に外套、ズボンの下には女性に評判が悪いステテコ、そして厚手の靴下、といういでたちで、真冬の朝の札幌の街を歩いていると、駅からオフィスへゆく人達とすれ違った。男性は下着まではわからなかったが、私と大同小異の服装であった。女性の中にはナイロンのストッキングだけという人を何人も見かけて驚嘆した。街角の電気表示の寒暖計では、零下十度近い数字が見えた。

 かりにオフィスではスカートの制服を着ることを強制されていて、どうしてもナイロンのストッキングが必要だったことも考えられるが、寒がりの私だったら、勤務先にゆくまではスラックスに丈夫なウォーキングシューズ、そしてオフィスについてから、ストッキングに履き替えて、ハイヒールでも何でも乾いた靴に履き替えるだろう。

 彼女らはいわゆるドサンコで、北海道の気候に生まれた時から慣れていたにしても、私はその時、女性の厳しい環境への抵抗力について感嘆せざるを得なかった。

 勿論、零下十数度でのナイロンのストッキングについては、生理的にそれを可能にする条件と共に、「作られた女」としての、慣らされた悲しい習性があるかもしれない。
 だからボーボワール女史の言葉はイエスとも言えるが、ノーとも言えるのである。

 まず、女性のことを述べたのは、この文章の目的は女性のために男性を論ずることであるが、男性についても、先天性と同時に、外の権力によって男として作られた面がある、と言いたかったからである。ただ男性であることは、それを以て人間の本質とされることはない。英語で言えば。マンという単語は男性を意味すると共に、人間を意味する。

 英語的な考えでは、男性であることは、その人間の本質ではない。つまり爪楊枝は所詮ツマヨウジ以外の何物でもない、といったこと、男は所詮、男なんだという決めつけかたをされない面もある。

 もっとも、男はみんなオオカミよ、という形で、すべての男性は女さえ見れば、性の充足を求めるとみられることがある。つまり、それが男性の本質で、男性にはツマヨウジ的な目的充足という本質があり、その材質がスギの木かサワラの木かは、問題にするに足らない付属的要素、という考えが女性の中に行きわたっている。

 しかし多くの男性はこれに苦情を申し立てるだろう。男は自分たちもこの点は実存主義者の言う通り、男性と言っても、それは一筋縄では処理できないさまざまな現象であって、一括して片づけそれが男性の「本質」だといったものを、取り出すことはできない、と言いたがる。つまり男性もまた生理に束縛される面があるが、それはたとえば昆虫の本能のように絶対的なものではなく、人間の自由なる意志によって、自己をコントロールすることもできる。従って、性は男性の本質とは言い難い。

 しかしまた、男性が本能を超越する過程において、男性もまた、外側の権威によって、さまざまな指示を受けて、それに従わされる面もある。つまりボーボワール女史風に言えば、男もまた作られるのである。

 つまり男性も女性と同様に、社会の期待する役割を果たすべく、作られた男性の面と、本能に影響される面とがある。これは外的規制と内的規制という違いはあるにしても、男性に共通な枠となる。また実存主義書の言う本質が男性に存在するように見える面も確かに見受けられる。

 内面外面の規制にもかかわらず、女性から見れば一種のワンパターン、これが男性の本質と間違わられかねない部分からはみ出した要素を持っている。

〆今、男性論が必要とされるわけ

 その難しい線引きの作業がとにかく終わって、二つの国ができることになると、この線引きで、新しく生まれる国では少数者になる人たちが、予定国境の向こう側、自分たちが多数派になれる地域、に向けて移動し始めたのである。ところが、その列車は多くの場合、殺戮(さつりく)の現場となり、国境の反対側についた列車は酷(むご)たらしい殺し方をされた死体を満載していた、といったことになった。二つの円の共通でない部分が改めて意識され、対立抗争を生んだのである。

 その時以来、インドとパキスタンの国境は常に緊張状態にある。
 男女の関係もヒンズー教徒とイスラム教徒の関係と共通の要素がある。学校や職場で両性はある場合には性差をそれほど強く意識しないで、一緒にやってゆけるであろう。トイレは別だし、体育は別の集団で行い、更衣については、別々の配慮が必要である。こうして別の集団になる場合もあるにしても、インドのヒンズー教徒とイスラム教徒のように、同じクラスに所属する仲間であることができる。

 しかしセクハラのような問題が起こると、普段は仲のよい二人が、男性と女性ということでいがみ合いをするかもしれない。また異性側に共感を示した、というので裏切り者扱いをされて、イジメの対象になることも起こりうるのである。

 だから男性は作られるのか。生まれつき男性であるのかは別にして、女性とは違った人間としての男性について、考える必要が生じるのだ。

 従来、社会の中心は男性で、彼らは女性を社会の中の異分子として扱う必要があり、その上で女性論が度々書かれた。しかし今は女性が学校でも社会でも、男性と同じ活躍をするようになる。そこで女性も集団の中の異分子である男性についての知識が必要となる。
 恐らくこれからはさまざまな男性論が書かれるであろうが、これもその一つになるのであろう。

[男の子は、いつから女を意識しはじめるか]
第二章 男の最初の挫折と試練

家庭の中で、男と女の性差は失われつつある

 普通の男は強制され、教えられるものではなくとも、女性とは違う存在であることを主張したがる。女の子を望んでいる親がいても、乳幼児のころは性別が外見からは、はっきりしていないこともあって、男児に女児の服装をさせる人がいる。

 やがて彼は女児の服装を拒絶するようになるだろう。あるいは「可愛い」と言われることに違和感を覚えるようになる。「可愛い」と言われるより、「強い」とか「丈夫そうだ」とか言われることを好む。

 この場合、男児には選択肢が与えられている。まだ幼児だから、「可愛い」と言われても、「丈夫そうだ」と言われても、どちらも喜んでもよいはずだ。しかしほとんどの男児は「丈夫な」、あるいは「強そうな」という形容を好む。これは必ずしも外力がその傾向を強制するとは断定できない。

 この段階ですでに、たとえば「お父さんのように力の強い人になるのですよ」といった誘導がなされるかもしれない。しかし現実にはそんなことはほとんどありえない。今の日本の母親は自分の夫を力があるとも男性的だとも思っていないから、男の子に対して、お父さんのように強く、と励ますことはまずありえない。また、強い男への憧れを公然と意識することもない。お父さん見たな弱い男でなく、もっと男らしい人になれ、という事も考えられないのである。

 実際、家庭の中では、殊(こと)に今時の核家族にあっては、夫も妻も別に男、女を生活の面で意識することもあまりないし、子供は男児であっても、女児であっても、性別を明らかにして、その特徴を強調する家庭も数は多いとは言えまい。

第一、 幼児が男児であり、女児であることを要求されたのは、かつての大家族の時代、あるいは同胞
が複数いた時代である。兄の下に生まれた妹は、そして姉の下に生まれた弟は、それぞれ女児であり、男児であることを自覚するように誘導されるであろう。しかし今の家庭では子供は男女の性別を超えた子供である。そもそも一人っ子の場合、性別は問題にならないのである。また夫は男でなく、妻は女性ではない。彼らは父と母、もっとはっきり言えば、親でしかないのである。

 昔だったら、父親は働き手であり、体力を必要とする存在として、夕食の惣菜などについても優先権を持っていた。だからボクも早くお父さんのようになって、美味しい物を、家族よりたくさん食べよう、などと思う男児がいたかもしれないが、今ではダイエットのために、父も母も競って食料を減らす時代だし、夕食で酒を飲むのは父親だけではない。母も父の相伴(しょうばん)というより同一の資格で酒を飲む。

 飲食は子供だけは大人になってから、と除外されるであろうが、そこには性差はない。男女の生理的条件は乗り越える事はできないものだが、子供と大人の差は時間が消滅させてくれる。つまり家庭には子供と大人がいるだけで、男女という区別は存在しない。
子供は男の子、女の子ではなく、それこそ実存的な意味での子供であるにすぎない。英語でも性別の明らかではない、少なくとも性別を強調する必要がない場合、子供を示す代名詞は彼でも彼女でもなく、「それ」というジェンダーのない形を使うのである。

 もっとも女の子の肉体に男の子の心が住み、男の子の内に女の子の心が住みことが起こりうる。そして男でありながらスカートを履いて、女の子として暮らしたいという男の子が稀には現れる。こういう複雑な性を持つ人は例外で、男の子らしさ、女の子らしさといったものは、自然に備わっていて、親の趣味で女児の服装をさせた男の子が、女性的になるとは限らない。菜食と料理した動物たんぱく質で育てた子供のライオンは、ある日、初めて与えられた生肉を、野生のライオンと同じように、それまで普通に食べていたかのように平然と食べたという。

 種としてのライオンの本能と比べると、同じ人間として生まれて、男あるいは女であることは、肉体の条件であると共に、内的傾向であっても、それは種の本能ほど強烈とは言えなかろうが、それでも男、女、の生まれつきは、後天的に身につけたモノによって変わらないものがある。

 ある日本人の若者はフランスで生まれ、フランスで育った。彼はフランス語と日本語をよどみなく使う、いわゆるバイリンガルなのだが、父親は仕事で家にいる時間が少ないために、日本語は母親との接触で覚えた。そのために彼の日本語は女言葉である。だからと言って彼はいささかも女性的、ということはない。それはたとえばスコットランドに育った男なら、その土地のキルトという日本ではスカートとしか思えないものを身につけることがある。かと言って、彼が女性的、あるいは女性の衣服を身につけている、とは言えないのと全く同じことである。

〆男の子が最初に女性を意識する時

 男の子が男の子として行動することを強制される、つまり男は作られる、といった現象が起きるのは、むしろ社会生活を始めてからである。保育園や幼稚園では、男児と女児は区別される。制服が違い、エプロンの色が違っていたり、少なくともトイレは違う、そして男の子、女の子という二つの集団に分けられる場合もできてくる。

 それよりも男の子にとって決定的なのは、先生の存在である。幼稚園の園長はしばしば男性だが、担任の先生は女性、それも若い先生である。多くの男の子は先生に最初の異性を見てしまうのである。

 男の子にとって、丁度、目の高さにある先生の腰、尻。そして体臭、化粧品の匂い。それらは男児が先生に接触するたびに彼の感性を惑乱させる。タイトなスカートに包まれた、柔らかな豊かな腰。そのくせ、彼が小便をする場合に便利な道具が、先生の場合、あるとは見えない。いつか抱きついた時に、絶対、あそこに何もなかった。一体、先生のあそこはどうなっているのか。

 一部の男児ははっきり先生に異性を見出す。そして大きくなったら先生と結婚しようと決心し、その決意を先生に打ち明ける勇者もいる。その種の冒険心が、スカートめくりという野蛮な遊びにつながってゆく。先生へのプロポーズは笑い話にされ、スカートめくりは𠮟責され、という形で、男の子は女性とそれに対処するマナーを学んでゆく。

 実はこの段階では、男児は群れとしての女性を意識しているわけではない。幼稚園の先生に女を、あるいは初恋めいた心理を体験したとしても、母親を含めた女性なるものを発見した訳ではない。

 私は東京の郊外の農村地帯で幼少期を送ったので、近所に子どもの数は少なく、東京市内から移住してきた家の子は、農家の子から浮き上がっていたというか、疎外されていた面もあって、自分たちだけの環境では遊んだ。幼稚園は平等にすべての家庭の子供を収容しえたかもしれないが、私たちの場合は子どもの数が少なく、幼稚園は成り立たなかったであろう。私たちは年齢が近い者同士でグループを作って遊んでいた。私の遊び仲間は同年の女の子が二人、一つ下の子が一人いるだけであった。

 私はその年齢の時に、はじめて女性の性器を見た。同じ年の女の子とホウセンカの種を取っている時、彼女が突然、私を近くの草むらに連れ込んで、そこに仰向けになり、私の前に、というより、大空の下に女性の女性である所以(ゆえん)を広げたのである。

 しかしそれを性器として認識したのは、ずっと後年のことである。当時は何だかわからなかった。女の子なるが故の構造ということまでわかったが、自分の母親をも含めた人類の半ばが、そういう器官を持っているなどとは夢にも考えなかった。

 またその頃、はじめて洋装の母を見た。それまでは和服しか着なかった母が洋服を身につけた。和服と違ってスカートをはくと、腰の線が丸出しになった気がした。それを私は魅力的だと思った。女として眺めたつもりもないが、まだ記憶にある豊かな母の乳房のように、好もしいと思った。私が中学に入って性を意識するようになった頃の母は、私にはすでに女性としての時期を終えたように見えたが、私の幼児のころの母は三十歳ほどであったのだろう。彼女は自分の若い頃を、
「あたしは鳩胸、出ち尻、言われて、着物を着ると似合わなかった」
 と回想したから、若い時の母の尻はセクシーであったかもしれない。

 とにかく当時の女性体験というのは断片的であって、たとえば性器を見せてくれた女の子とはその後も前も親密な関係だったかというと、そんなこともない。性器を見たというのは、あくまでも突発的な事件で、二人の仲はそれによって、深まりも遠ざかりもしなかった。二人が決定的に遠のいたのは、小学校入って、男と女の違う組に分かれてからのことである。

 私はもう彼女らとは口をきいてもらえないのだ、と幼心にも思った覚えがある。それで一つ下の男の子だけと遊ぶようになった。
 また自分の排尿の器官を性器として意識したこともなかった。父と並んで立ち小便をする時、前に富士山が見えて爽快だったから、父にそういうと、父がこういうことができるのは男の特権だ、というような意味のことを言った。その時、そうか、母や姉は立ち小便はできないのか、と同情した。

〆女の子は、ちっとも自分を振り向いてくれない

 幼児の男としての意識というのは、そんなものだから、大人の目からすると大胆なことをする。幼稚園の先生にプロポーズしたり、先生のスカートの下をのぞいたりするのは、そういう無知の、性の意識の不足の結果である。そして私に性器を見せてくれた女の子も、やはり性の意識の不足のために、そういった大胆な行動を取ったに違いない。

 しかし小学校に入ると、子どもによっては幼稚園の終わりごろから、自分の性を意識せざるをえなくなる。
男の子はたとえば慶応の幼稚舎という小学校を受験するように、親に強制される。女の子は雅子さまも在学されていた双葉の小学校に入れと言われる。この場合の性は性欲や性器と結びついているものはないが、とにかく、この段階で男の子の人生、女の子の人生のプランが示されるのである。

 男の子の場合、一流大学を卒業して、よい企業に入って、重役になって、権力と財力を手に入れる、といったコースを一つの理想として与えられる。その時初めて母親は息子に囁くであろう。

「お父さんは、いい大学を出なかったから、本当はもっと力があるのに、今の会社にしか入れなかったし、今の会社の創立者の一族が代々、経営権を握っているから、お父さんにどんな能力があっても、重役にはなれないのよ。あなたは一流大学卒業して、実力だけで勝負できる分野で働きなさい」

 すべての子が慶応の幼稚舎を受験しろと親に言われるわけではないが、スポーツ選手への憧れは、大体、このころからすでに現れる。野球のルールも知らない子でも、イチローのように、有名な人になりたいと思う。貴乃花のような人気があって、キレイなお嫁さんをもらえる人になりたいと願う。

 ノーベル賞をもらった人が出て、新聞やテレビがそのことで持ちきりになると、そういう世界に名前のとどろいた学者になるのもいいな、と思う。人気歌手、スター、誰でもいいが、大人の言葉で言えば、富、権力、名声、才能、知能、体力、などに恵まれた人、この場合で言えば、そう言う力を持つ男を、漠然とした目標として意識する。

 近くに。あるいは学校の上級生に、野球の巧い子がいれば、その子の将来はイチローのようになるかもしれないと尊敬する。慶応の幼稚舎の制服を着ている子を見れば、彼らの姿はオーラに包まれていると思う。

 しかし、この憧れの底に、それと無縁でありながら、何となく無縁に思われない憧れとして異性が存在する。
 幼稚園のバラ組で一番、可愛らしいミサちゃんは、ボクが慶応の幼稚舎に入ったら、誕生祝いに招(よ)んでくれるだろうか、とある男の子は思い、また別の男の子は自分がイチローのようなスタープレーヤーになったら、ミサちゃんは、ボクのファンになって、応援してくれるだろうか、と夢想する。

 子供には成功の甘い果実の実態がわかっていない。だから、男の子は慶応の幼稚舎受験のための塾に通いながら、この苦しく、楽しさを見いだせない勉強の彼方にある、慶応の入学試験の成功が、何か喜ばしいものをもたらすとすれば、たとえばミサちゃんの歓心といったことでしかない。幼稚舎に入ってからの学校生活の楽しさなど、誰も話してくれない。
親はそれが名誉であり、将来を保証してくれる、といったことばかり言うものの、肝心の学校生活がどのようなものかは、語ってくれないのである。

 野球の名打者の本当の喜びは、優れた投手の、これが決め球、という球を打ってホームランにすることであろう。名声や富よりも、その源となったグランドでの成功が、何よりの喜びであるはずだ。しかし、幼児はまだ成功や勝利の果実の味が、どれほど男を酔わせるかわかっていない。それだからこそ、成功の報酬としては、ミサちゃんの歓心、といったことしか考えられない。

 つまり、これも幼稚さの故の異性への関心ということができる。それなのに憧れる女の子は、決して自分の方を振り向いてくれない。いつも女の子と楽しそうに遊んでいる。男の子はさしあたりは慶応の幼稚舎入ったわけでもないのだから、彼女の関心を引こうとして、乱暴したり大声を出して、彼女の注意を引こうとする。しかし彼女は見向きもしてくれないのである。男の子の人生の挫折はこんなところからはじまる。

 ボクはミサちゃんを好きなのに、ミサちゃんはボクを嫌いみたい。それが男の子が男の子として人生を歩もうとするときに、彼を襲う最初の試練になるのである。

[なぜ、男の子はいじめをするのか]
第三章 男のいじめの構造

〆男と女、夢のおり方、こんなに違う

 小学校下級の男の子に将来の夢を書かせると、まずはプロ野球選手の花形、オリンピックの年ならゴールドメダリスト、その時のトピックスによっては宇宙飛行士、それから意外と高位を占めるのは、飛行機のパイロットである。昔なら陸軍大将というところだが、戦後は偉い軍人に憧れる子はいなくなった。

 ノーベル賞の授賞者が日本から出た年は、学者に憧れる子もいるかも知れないが、それはいわば特異現象と言うべきである。
 女の子の場合はスチュワーデスがかなり高位を占める。後は英語ができて、国際的に活躍する人、先生、看護婦などで、男の子のプロ野球のスターに対抗する、人気のあるタレントはそれほど多くの票を集めない。

 一見して言えることは、男の子の夢は、文字通り夢であることだ。野球の花形選手になれるのは、それこそ数百万人に一人であろう。それは宇宙飛行士、パイロット、ゴールドメダリストについても言える。そして優れた体力が必要で危険が予想される分野に、男の子は将来の夢やヒーローを見出す。

女の子は現実的、というか、男の子よりも実現の可能性の高いものに夢を抱く。スチュワーデスも先生も簡単になれる職業ではないにしても、プロ野球のスター選手より、チャンスの多い地位である。そして先生に憧れるのは、簡単に言えば、クラスの担任の女性の先生への憧れの結果である。

 国際的に活躍する、英語のできる人や看護婦になると、さらに現実にそういう仕事をしている人が身近にいる可能性がある。

 タレントの票数が少ないのは、この地位を手に入れるには、美しいことが第一条件で、自分にはその資格がないと、最初から諦めているか、自惚(うぬぼ)れていると言われないために、あえて夢として数えないのであろう。

 男の子に総理大臣と言う子が少ないのは、政治家の評判が悪いせいもあろうが、女の子にとって土井たか子さんは理想になれるはずだ。

 つまり女性政治家になり、有力な政党の代表になり、やがては日本の総理大臣になって、世界に貢献する日本を作り上げる、といった夢を持つ女の子がいてもよいと思うのだが、現実にはそんな子はほとんどいない。女性の宇宙飛行士にしても、数としてはあまり多くない。

 つまり女の子の方が、男の子より、将来の夢を語っても慎ましい所がある。少なくとも、先生、スチュワーデス、同時通訳、看護婦などいう夢は、かなりの女の子が中学生のころまでは胸の中ではぐくむことができる。その夢を棄てる時がきても、挫折よりも、女の子としての成長、かつての夢が夢にならなくなるかである。

 しかし男の子は挫折によって、夢を放棄させられることが多い。まず、クラスで自分の体力がトップでないことを知った者は、野球選手の夢は諦めざるを得ない。体力が一番ある子でも、野球が上手いとは限らない。

 私の小学校のクラスで、いちばん野球の上手い子は、身体は小さかった。運動神経は発達していたが非力であった。野球以外にも、相撲も弱くはなかったが、大柄の子に組まれると、あえなく押し出された。

 小学校三、四年の段階で、スポーツ万能という子はすでにいない。この段階で、プロ野球のスターの夢はほとんどの子は諦める結果になる。宇宙飛行士にしても、何分にも確率が小さすぎる。

 一億二千万の日本人のうち、数名が宇宙飛行士になれるに過ぎない。非常な体力もさることながら、超一流大学の卒業生でなければなれないらしい、となると、これも諦めざるをえまい、といったことになる。それで男の子の夢はまず小学校四年までに、完全に挫折感と共に放棄される。

 その代わりに男の子には、少しでもよい学校に入れという、いわば至上命令がある。もっとも、この命令も成績がクラスで半分以下の子には最初から無縁である。

 よい学校に入れる可能性のない子は、そこで早くもドロップアウトの組織を作る。つまりイジメッ子になる。入学試験競争から脱落した心の傷を、他の子を傷つけることによって、癒そうというのである。

 彼らは原則として女の子は虐めない。クラスの半分を占める女の子の指弾を受けないためである。女の子を虐める場合があるとすれば、女の子の中で虐めの対象になっている子である。この子を虐めても、女の子たちは共感を示さないまでも、無視してくれるから安心して虐められる。

〆男の子が虐めをする三つの対象

 しかし野球選手にも偏差値秀才にもなれないとわかった男の子は、自分のプライドを救うためにも、自分より劣っている者を発見しなければならない。

 その対象は三種類ある。
 第一は女の子の虐めの対象になるこの場合のような、虐めてもクラスの者から非難されることのない、安心して虐められる者、クラスの異端者が選ばれる。
 異端者の地位を与えられること自体、すでに無意識な虐めの対象になることだが、ドロップアウトしたグループも、一人なら虐めの対象だが、クラスの半ばを占めれば、もはや異端者ではなく虐められる恐れはほとんど消滅する。

 彼らは自分が社会の弱者ではなく、異端者でないことを立証するために、クラスの異端者を発見して、彼を虐めることで、自分たちこそが多数党であることを確認する。数人の仲間と、その子を苛めている時、彼らは孤独でない。競争から脱落して群れから無視される存在ではなくなる。

 この場合は虐めるのは、脱落者集団でも、やがてクラス全員が虐めに参加する場合が多い。
 異端者が異端者であるが故に、拒否され疎外されるのである。この場合の虐めは、時に暴力の対象になる事もあるが、それよりも心理的屈辱を与えて、異端者であることを思い知らせるような虐めになるケースが多い。

 臭いから向こうへ行けとか、クラス全員が共謀して口を利かないといった虐めである。あえてこの禁を破れば、虐めを始めたのはクラスの絶対多数とは言わないが、最大多数グループであることが多く、その意向を無視することは、自分も異端者の仲間にされてしまうから、結果的にはクラス全員が虐めに参加する。中核のグループは、虐めに参加しない者に有形、無形の圧迫を与える結果になる。

 第二は、自分たちの仲間から生け贄(にえ)の羊を探すことである。
 偏差値、スポーツ挫折グループは、彼らは自分たちが落伍者であることをうすうす意識している。
 自分たちのグループ以外の者を虐めの対象に選ぶに際して慎重に対象を選ばないと、被害者が先生に訴えたりして面倒なことになる。そこで秘密がもれない、という利点があるから、グループの最も序列の下っ端の者を虐めの対象に選ぶ。

 偏差値競争に破れた子供たちは、いわば序列化の競争で下位の序列しか与えられなかったのであり、それに恨みを持っている。つまり序列は仇のはずなのに、自分たちの仲間の内部では仲間だけの序列を作り、その中で自分が高い序列を獲得して、偏差値序列で受けた傷を癒そうとする。

 リーダーは自分が序列のトップの座を確保するが、自分の座を維持するためにも、子分たちを各個の働きによって序列の昇進を行わねばならない。当然、序列の下がる者も出る。しかし彼にも敗者復活のチャンスを与えねばならない。序列三位から五位に下がった者は、次の評定の時には序列二位に上がれる可能性を与えねばならない。

 そういう序列付与の権限を持つことがトップである者の証拠であり、またその権力を行うために、自分への忠誠度を明らかにするよう、仲間に命令しなければならない。トップはしばしば集団ではカリスマ的、根拠の不明な権威を持っていることがある。

 時には革命が起きて、トップがトップでなくなることもある。彼は群れを去るか、三位か四位の座に甘んずる結果になりやすい。時には新しい権力者が力の誇示のために、かつてのトップをグループのどん底に落とすこともある。

 しかし通常トップは安泰だし、グループの序列はしばしば変わるが、序列の下落によってそれほどの衝撃を受けないために、絶対に序列の上がらない者を作ることがある。それは一人のことも、複数のこともあるが、序列とは無関係の、言ってみればグループの見習いである。

 彼らも忠誠の度合いによって、序列を与えてくれる貴族階級に昇進する可能性は与えられるが、それまでは、奴隷的仕打ちに耐えなければならない。

 この奴隷がただ一人であったりすると、奴隷が貴族になれば、誰かが奴隷的奉仕をしなければならないから、この奴隷は永遠に貴族になれない。しかも彼は仲間なのだから、自分の悲劇的な状況をグループ以外の者に訴えることはできない。グループから金を要求され、貴族になるための試練として、万引きその他の犯罪を強要され、肉体的にも拷問にあうのは、このタイプに多い。

 第三には憧れの代償としての虐めである。優等生であるとか、子供ながらタレントとして活躍しているとかいったことは、一種の憧れである。反面、嫉妬の感情もあって、それが虐め、と言っても多くの場合は仲間はずれといった形形をとるが、虐めになる事もある。

 もっともこの場合は虐められる側は、虐められても困らないだけの実績があるから、いじめが虐めにならない場合もある。
 クラス委員をしていて、クラスの者が誰も先生の意向を汲んだ自分の指令に従ってくれないといったことで、落ち込む優等生もいるが、反面、彼は基本的にはそんなことでは傷つかないだけの自信を持っている。

〆夢が崩壊した時、代償作用として虐めが始まる
 この三種の虐めは、大人になっても立派に存在しているところを見ると、いわば日本人の社会構成原理なのかもしれない。

 たとえば大学社会というのは、商社などと違って、個々の教員の能力は簡単に識別できないだけに、競争が陰湿になりがちな職場だが、そこでも上に挙げた三つの虐めが存在する。

 第一タイプの虐めとしては、ほとんどの教授が官学の出身で固めているところに、一人だけ私学出身が混じったりすると、官学出身者はいじめをしている自覚がないままに、異端者を虐める結果となることがある。
 このタイプにはさまざまなケースがある。

 文学部出身が主流の学部で、理学部が一人いても同じことだし、旧制の大学出身者で構成されていた教授会に、新制の大学出身の教授が生まれた時にも、そういった現象が起きえたであろう。つまり異端者を除け者にして、他の者が共通の体験、仲間うちだけに通用する言葉で親しげに語り合い。異端者は置物のように沈黙せざるをえない立場に追い込まれるのである。

 近年のように教授にも任期を決めるべきだといった声が強くなると、黙っていても再任するであろう一等教授は平然としているが、すべての教授はそれほど自信があるわけではない。

 ひょっとすると、辞めろと言われないにしても、いまの任期の内にしかるべき業績を出さないと、人事委員会の再任審査にかける、といった宣告を受けそうだとなると、そういった教授たちは徒党を組む可能性がある。
 それは偏差値であまり大した成績でなく、いわゆるよい高校に入れない。とわかった子供たちが徒党を組むのと似ている。
 彼らは組合的な組織を作って、人事委員会に働きかけをするが、その中でも、再任の可能性の大きい者は、学部内での政治力のある者などがボスになって、グループを取り仕切る。

 そしてその中の一番弱い者、グループの助けがなければ、クビななりそうな人が、番長システムだったら、バシリというわれる役回りを務める。

 連絡、会合の場所の設定などをするのは勿論、ボスへの盆暮れの挨拶にも心を砕かねばならない。しかも満座の中で、
「いや、今年のお歳暮はウイスキーばかりでねぇ、あなたから頂戴しておいて失礼なんだが、国産ウイスキーとなると、紅茶にでも入れるより仕方なくてね‥‥」
 などとボスに厭味を言われる。これなどは第二タイプの虐めであろう。

 第三タイプの虐めとしては、再任審査委員会にかけられても困らない、またはその大学を辞めても、すぐに他の大学から貰いがかかるような一等教授に対しては、いろいろと厭味を言うばかりでなく、社交的な会合には招かない、と言ったこともある。

 もっともこういう人は、下らない社交をする暇があるなら、色々することが沢山あるから、呼ばれなくとも堪えないが、それがまた疎外した側にしてみれば、シャクの種ということもある。

 女の子にもいじめがあるが、それは第一と第三のタイプが圧倒的に多いのではないだろうか。第二のタイプの虐め、学校や社会が作った序列ではよい順位をとることができなくて、非公式な形の序列を作ってそこにささやかな自尊心を充たそうとするのは、大変に男の子的なのだ。

 将来の夢の場合の所にも書いたが、男の夢は厳しい競争の末の勝者となることなのだ。
 だから勝者になれない者は、非公式の組織を作って、その中で勝者、あるいは準勝者となろうとする。

 アメリカのマフィアや日本のヤクザはすでに社会的に公然となった、その種の組織だし、組織として固まっていない者としては、暴走族や極端な信条の政治団体や宗教組織が、学校以外の世界での非公式組織の典型である。ただ社会の組織は複雑で、学校的秩序ではエリートになりうるものが、非公式に入ることもある。

 つまりエリートといえども、社会の公認組織では最下級からスタートしなければならないが、非公式集団ではしばしば、幹部になることができるからである。
 非公式集団でも、自分が体制の競争で敗北になった屈辱をはらすために、自分たちの作った組織の中でも、典型的な敗者を作る。その敗者を虐めることで、自分が体制の序列争いで敗れた傷を癒そうとする。

 これは形を変えて、いろいろな場所で存在するだろう。高校の名門野球部ではレギュラーになれるのは九人だし、試合の時にベンチに座れる者だって限りがある。そこでは上級生であっても、実力の世界だから大きな顔をすることはできない。

 そこで、レギュラーには勿論のこと、試合でベンチに入ることもできない上級生は、試合の時に、自分たちと同じ応援要員として観客席に上がらねばならない下級生をしごくのである。

 母校の野球部のため、といった名目があるだけに、補欠にもなれない上級生は、将来のレギュラーがいるであろう下級生を、自分たちが監督やコーチになったかのようにしごくのである。

 つまり虐めというのは、まず、男の子の将来の夢が崩壊したことからくる、代償作用の面がある。

つづく [なぜ虐めか、登校拒否か、家庭内暴力か]
第四章 すべては学力だけが男の子の価値基準であるところからはじまる
〆虐めは落伍者意識から起こる