今時の若い人は知らないだろうが、一九六〇年ころ、フランスの進歩的文化人でジャン・ポール・サルトルという人がいた。彼は進歩的文化人だから、結婚などという「陋習(ろうしゅう)」にはこだわらなかった。フランスの結婚式は、教会でするのが常識だし、彼の信条として、教会の神父や牧師に結婚式を主催してもらうなどという「愚かしい」ことに堪えられなかったのだろう。

本表紙 三浦朱門著 
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第一章 夫婦ゲンカは、勝ってはいけない

〆なぜ、夫婦は「ケンカ」をするのか

 キリスト教の結婚式では、神父や牧師が結婚する男女に対して、「貧しい時も豊かな時も、病気の時も健康の時も、生涯、互いに愛と忠実を尽くして人生体験を共有することを神にかけて誓うか」というようなことを質問する。二人はそれに「ハイ」と答えて、結婚は成立する。

 しかし問題は、人生体験を共有するということの意味は、その内容である。そもそも夫と妻は当然のことながら異性である。その嗜好も、家庭や社会から期待されてきた内容も違い、肉体的条件も違う。
 したがって協力するといっても、同じことをする訳ではない。違う方面で努力しながら、それぞれ、相手の及ばない面についてそれを補おうとする。それが人生の苦楽を共有し、助け合うことの意味である。

 だからといって私は、夫は外に出て働いて金を稼いでくるべきだし、妻は専業主婦でいい、と言うのではない。共働きであろうと、それぞれに夫と妻の仕方については差があって然るべき、と考えている。

 たとえば我が家でいえば、妻の曾野綾子は家庭菜園に関心がある。菜園ばかりでなく、花を育てることにも情熱的である。私は毎朝、大量のサラダを食べるが、その材料を自家で供給できることをもって、彼女は夫への大きな貢献だと信じている。

 一方、私の方は、住宅用地としては高価な土地で野菜を作っても、果たしてそれが経済的に間尺(ましゃく)に合うか疑問に思っている。もちろん、土地を遊ばせておくことはないにしても、花を作り、野菜を育てることは趣味の領域だと思う。確かにスーパーから買って来る野菜よりも新鮮だから、ただ洗って塩を振っただけでおいしく食べられる。その点では感謝している、といってよい。

 だからといって、気候の悪い時や彼女の健康がすぐれない時に、私に家庭菜園を手伝えとなると、話は別である。
 私は、食べられる植物には関心がある。したがって、花などは庭に咲いていてくれればよいのであって、別に机の上に飾ってほしい、などとは思わない。サラダ菜だって菜園にある間は、それと識別できない。サラダボールに盛られてはじめて、うん、これはサラダの材料であり、ドレッシングをかけて食えばうまい、と思うだけのことである。

 だから家庭菜園を手伝えとなると、それくらいなら、サラダの材料をスーパーで買ってきた方が簡単だ、と思ってしまう。
 そこで意見の衝突、つまり夫婦ゲンカが起きる。
「体がきつかったら、畑仕事なんかしなくていいよ。野菜は買ってくればいいのだし」
 などと言おうものなら、たちまち、逆襲される。
「でも、あなたはウチの野菜が一番美味しいって言ったじゃない」
「それはそうだけどさ。なまじ家で作ると、地代とか、お手伝いさんに手伝ってもらったりして、かえって高くつく」
「あなたがそんなことを言うとは思ってもみなかったわ。そんなに食料品を節約して、何を使おうと言うの?」
「それはね、単に経済観念の問題で」
「あなたから経済についてのお説教を聞くとは思わなかったわ。いつも買い物を頼むたびに、幾らだった? と聞いても『忘れた』と言うだけじゃないの」
 こうなると、女性の方が記憶力はしっかりしているから、夫たるもの、敗色濃厚である。

 それだって、相手は二次方程式の根(こん)の公式も誘導できないほどの、頭脳の人間だから、私が理論的にやり込められないことはない。しかし彼女の記憶力というのは、統計的なものではなく、感情が裏付けになっているから論理性に欠ける。やり込めることは不可能ではない。

 〆夫婦ゲンカは復讐がコワイ

 そのようにして、やりこめたとしよう。すると、妻というものは、そのことを執念深く覚えていて復讐する。夫の、この場合でいえば、私の嫌いなものを食卓に並べる。つまり煮魚である。そして私が渋い顔をして、何か言う前に、先手を打つ。
「これね、何といってもお安いのよ。スーパーで見切り品というの買ってきたのよ。多分、明日まで持たないから、割引したのね。経済的でしょう」

 とにかく彼女はお手伝いを配下に置き、家事を掌握しているから、こちらとしては無力である。自分から先頭に立って、買い出しとか料理とかするわけにもいかないし、何よりも経験不足だから、そんなことをやっていると、こちらの社会活動に支障が出る。

 だから夫たるもの、夫婦ゲンカには絶対に勝ってはならいのである。こちらが弱者になれば、相手はやはり女性だから、雨に濡れた子犬を見るように憐れんでもくれる。そして三度に一度は、こちらの好きなおかずを用意してくれる。

 だから夫婦の間で意見の不一致ができたら、夫としてはその場で両手をついて、
「悪かった、このとおり、許してくれ」
 と、平身低頭するのが安全無事である。
 結婚当初は、こういうことにはならない。夫に主導権があったはずである。
“デキチャッタ結婚”ならともかく、普通の結婚なら、初夜の時に、新妻のほうが積極的ということは、まずない。そんなことになれば、夫としては萎えてしまって、なすべきこともできなくなる。その時に夫が積極的になるからこそ、なるようになるのである。
“デキチャッタ結婚”でも、恐らく、夫の方で、
「さ、これまでは人目を忍ぶところがあったが、今日からは公明正大だからな」
 と積極的に出るからこそ、妻の方も安心して、これまでの多少の後ろめたさもなしに、夫の抱擁に身を任せることができるのであろう。

 そうして夫は強く、積極的なもの、そして妻は弱く、受け身的なもの、といった公式というか、偏見ができてしまう。
 そう、公式ではなく、偏見である。その偏見が結婚後、間もなくその欺瞞(ぎまん)を明らかにしてしまう。結婚して、何か月も経たないうちに、妻は夫の積極性というものは見せかけであり、強がっているだけで、実体は弱虫で或ることを見抜いてしまう。

〆 女はつくられる。男もつくられる!

 今時の若い人は知らないだろうが、一九六〇年ころ、フランスの進歩的文化人でジャン・ポール・サルトルという人がいた。彼は進歩的文化人だから、結婚などという「陋習(ろうしゅう)」にはこだわらなかった。フランスの結婚式は、教会でするのが常識だし、彼の信条として、教会の神父や牧師に結婚式を主催してもらうなどという「愚かしい」ことに堪えられなかったのだろう。

 彼には、事実上の妻であるが、形の上では生活上のパートナーでしかなかった、シモーヌ・ボ・ボォワールという女性がいた。彼女もフランスのフェミニストの代表みたいなものだから、いわゆる「女らしい」などということには反感を持っていた。だから彼女の有名な言葉は次の一言であろう。
「女性はつくられる」
 女性はもともとから、いわゆる優しいとか、消極的なものではなく、そのように教育されるものであって、男の前で恥じらったり、それを表現するために、うつむいたり、肩や腕を動かしたりすることで、それとなく、自分の胸やウエストを強調して、男心をそそる。すべては女性として成長する過程で仕込まれるものだ、というのである。

 そういえば、スカートをはいた女性が駅のホームなどで立っていた場合、両足首を交差させるような姿勢の人が多い。まかり間違っても、自分のセックスのあたりが人目にさらされないように、という感じでもあるが、そういう姿勢だと、ヒップとウエストが強調されて、女性らしさを男に見せびらかしているようにも見える。

 電車の中で立っている時でも、電車の振動から身を守ろうとするなら、両脚を開いてふんばっているのかが一番いい姿勢なのに、彼女らは踵(かかと)を揃えたり、足首を交差させたりして、吊り革につかまっている。

 会議の席などでも、進行役が議題を説明すると、いちばん先に発言する女性は少ない。
最初の発言者はまず男性である。そして、それに反論とまではいえなくとも、違う意見を述べるのも男性である。それからが女性の出番。それまでに出ているA論、B論を比較しながら、C論を述べる。最初の二人の男性の意見を前提にしているから、妥当性が大きい。結局、女性のC論を中心に議論が進み、結論は女性のC論に近いものになってしまう。

 つまり女性は弱いフリをしながら、結局、男を手玉に取る。電車の中の立ち姿も控えめにしているように見えながら、結局、男を誘惑しているのである。
 ボーヴォワールが言うように、「女はつくられる」のかもしれないが、男を手玉に取り、トクをしているのは女性である。

 では、男はのびのびと育っているのかというと、それなりに、「男もつくられる」のである。何かというと、
「男らしくしなさい」
「アンタも男でしょう」
 と言われながら育つ。
 私だって、両親に溺愛され、三つ年上の姉に虐められながら育った。つまり男の子というよりも何よりも、家族の一番下の存在で、当然のことながら、弱虫であった。しかし小学校に入ると、そうもいっていられない。

 当時、農村だった東京・武蔵野の小学校で、同級生の殆どは農家の子供だった。我が家は、一応はインテリだったから、学用品なども、最新流行のものである。たとえば鉛筆のキャップに歯車のつているのがあった。これは紙に当てて強く引くと、ボツボツと穴が開き、そこを手で切ることができるようにするための装置に違いない。

 私と並んだ子がそれを欲しがった。断ると、彼は私の腕に噛みついた。私は黙って、それに耐えてやった。やがて私の隣の子の姿勢の異常に気づいた先生がやってきて、隣の子が噛みつくのをやめさせた。

 しかし私の腕には、彼の上歯と下歯で楕円形の青あざがついてしまった。
 同級生たちは農夫になるための基礎訓練というか、体力をつけるように教育される。用水路は飛び越さねばならない。

 イモ掘りもした。イモの茎を掴んで引き上げると、軟らかい畑の土が割れて、中から幾つものサツマイモが現れる。その中から市場に出せるものを選び、そうでないものは、自分たちで焚火をして、焼いて食べてしまう。もちろん、市場向けにはならないが比較的よいものは、自家用に持って帰れるのではあるが。

 そういう同級生の中で揉まれて、私は自分の腕力を発見した。体も大きかったし、家庭環境も善くて、食事もよかったことも影響してたのだろうか。

〆 男の子は強くなければならない

 とにかく、男の子は強くなければならないのである。泣いてはいけない。どんなことがあっても怯(おび)えてならない。ケンカに負けるにしても、堂々と負ければ相手もそれなりの敬意を払ってくれる。

 腕力に劣っている男の子は勉強ができなければならない。男の子にとってのよい上級学校というのは、何よりも秀才の行く学校である。

 女子の場合、よい学校に行くのは必ずしも才媛である必要はなかった。「良家の子女」という言葉であって、家庭がよくて、躾が行きとどいて、身のこなしもセンスもよく、できれば美少女が多い学校、それが女の子の進学するよい学校であった。

 近頃では、東京の雙(ふた)葉学園にしても白百合学園にしても、有数の進学校になってしまったが、半世紀ほど前までは、こういう学校はお嬢さま学校だった。お嬢さまは大学などに進学せずに、お茶やお花を習って、しかるべきところにオヨメに行くとされていた。

 今から四十年前に「ペンクラブ」が国際会議をしたことがあり、私たちは雙葉学園と聖心学園の人を事務に雇うことにした。なぜなら、彼女らは家庭がよいので、皆、電動タイプライターなどを持っているからである。それにマナーが洗練されている人が多くて、外国人と接しても、しかるべき態度をとることができる。

 そのひとり、雙葉学園の出身に、同級生のうち何人が大学に進学したかと訊ねると、五十人のクラスのうち、二人を除いて全員が大学に進んだという。
「なんて。ムダな」
 と私は思わず絶句した覚えがある。その女性が外交官と結婚することになった時、それまで阿川弘之の秘書をしていた関係で彼が仲人をしたのだが、花嫁の紹介の時に、阿川が、ことさらに声を張り上げて、
「新婦はヒジョウな才媛でいらっしゃって・・・・」
 といった。すると、彼女を知る者が皆、ゲラゲラと笑い出したのである。
 ペンクラブ時代、用があって、彼女を神田に連れて行った時、
「あ、ここが神田なの? 生まれて初めて来たわ。でも古本って、誰が読んだかもわからないんでしょ。キタナクないかしら」
 と言ったのが記憶に残っている。
 遠藤周作の息子が結婚した時は、私が仲人を務めた。遠藤の判断では、私がいちばん、常識ある、と考えたからであろう。

 新婦もその母親も、私の妻の曽野綾子も皆、聖心女子大学の卒業生である。私は新婦の紹介の時に、
「聖心というところは一を聞いて一を知る、というところでして」
 と言った。悪い意味ではない。一を聞いて十を知るというのは、才はじけた人の形容に使うが、私はそういう女性は好きではない。知ったことをアルガママに受け止める人柄ゆえに誠実で信頼できる、と思っていたからそう言ったのだ。

 しかし、披露宴に出ていた人には、聖心出は想像力や創造力に欠けるバカばかり、という意味に取られてしまった。おまけに新郎を紹介する役目の阿川弘之が、
「新郎の父親の遠藤周作という男は大変にイカガワシイ男でして・・・・」
 と言ったものだから、結婚披露宴は何が何だかわからなくなった。そのうえ、新郎新婦のテーブルの真ん前のテーブルで、北杜夫(もりお)が評論家の山本健吉と、
「ね、山本さん。あの二人、もう、ヤッタんですかね」
「バカ。こういうところで、そんなことを言うヤツがあるか」
 などと大声で話し合っているのが、周囲のテーブルどころか、新郎・新婦のいるメインテーブルまで丸聞こえで、一層、茶番めいてきた。
 たまりかねたのか、遠藤周作が私の前に来て。
「おい、三浦、お前だけは当てにしていたのに、いったい、オレはこの結婚のために、したくもない講演をどれだけやったと思う」
 と文句を言い、それでも足らずに、トイレで反論の文章を書いてきて、それを披露宴の席上で読み上げた。
 そのせいか何か知らないが、それ以来、私への仲人の依頼というのはまったくない。
 でも少なくとも一九七〇年頃までは、女子の学校は才媛ではなくともよい、という通念があった。

 大阪でという「大手前」、「清水谷」という府立の女学校は才媛が集まるが、その為かあまり人気がなかった。同じ府立でも「夕陽丘」という女学校があった。第一、名前がいい。
 そのころ、『春の唄』というのが流行っていた。「ラララ紅い花束 車に積んで・・・・」。戦争にでもなろかという、うすら寒い時代に、ほのぼのした雰囲気をつくってくれた唄である。この作曲者が「夕陽丘」の音楽の先生だと聞いた。それに有馬稲子が、ここ(夕陽丘高等学校)の出身だという。

 もちろん、私の十代の頃は、彼女はまだ「夕陽丘」に入っていなかったろうが、いかにも「夕陽丘」出身の麗人である。だから女子のよい学校と、男子のよい学校は、価値基準が違っていたのである。

〆男の甲斐性は美女に惚れられること、だった

 男の甲斐性というのは、醜(ぶ)男でも学業に優れ、立派な人格の持つ主で、絵に描いたような美女に惚れられること、といった感じがあった。

 それだけに私は、旧姓の高知高校に入学して、同じ宿舎の六畳で暮らすことになった同級生の阪田寛夫(ひろお)、彼は後に高名な作家・詩人になるのだが、彼が、
「オレはクラスで二番目の男前や」
 と言った時にはビックリした。男で容姿のことを問題にするヤツがいたのか、という驚きであった。思わず、
「オレが一番か」
 と聞いたら、阪田はバカにしたように笑って、
「アホ、お前なんか番外や」
 と言う。聞いてみると、一番というのは、なるほどハンサムである。そしてオレが一番というのは、いかにウソくさいが、二番というと妙にリアリティがある。

 しかし容姿はともかく、私には行動力がある。だから先生には睨(にら)まれていた。それに体力もある。だからわい女性と縁がある、と固く信じていた。
 確かに私は女性の前では知ったかぶりをして、行動力もあり、頼もしげに装う傾向があった。しかし、二十代前半の私の異性の知人というのは、誰もが私よりも年上であって、彼女らは私を子供扱いにしていたのではないだろうか。とにかく、女性の一メートル以内に接近すると、胸がドキドキして、何も言えない、何もできない、そういう状態になる。それで女性がいる時は、ある程度距離を置いて、偉そうな態度をとろうとしていた。

 だから私が結婚まで性の体験がなかったのは、論理的な理由ではなく、もちろん、やがて結婚する時の花嫁の為にということでもなく、臆病さの結果であった。
 いざセックスをする段になって、それまでの偉そうなしったかぶりの偽善の皮が剥げて、無知で弱弱しい正体が暴露されるのを恐れたのである。多分、十代の私は女性の下着を脱がそうとしても、指が震えて、ボタンもフックも外せなかったのではないだろうか。そしてそういう私を、女性は嘲笑うに違いない。

 だから私と深い仲になるのは、私と同じように、たとえツッパッてはいても、実体は異性経験の浅い、臆病な娘がよい、と思っていた。
 とにかく男の道は二つしかない。

〆男の生きる道は二つに一つ

 その一つは歌謡曲風にいえば、「やると思えばどこまでもやるさ」という道である。
 もう一つは秀才の道。「わかりません、できません」とは口が裂けても言わない。
 私で言えば、敗戦の翌年の初夏、つまり日本もどうやら復興の機運が見えてきたころ、さる婦人雑誌からバイトの口が舞い込んできた時である。
「それから年四回、ファッションの臨時増刊を出してゆこうと思うが、それについて、アメリカの通信社からファッションのパターンを買う事にした。これには説明がついているから、英文を訳してほしい」

 その雑誌の編集長が父の後輩であったことから、これは、私にバイトを世話してやろう、という純粋な好意からであることはわかっていた。
 確かに、私は、アメリカの兵隊が棄てて行った文庫本を扱う大道の古本屋などで、推理小説や西部劇を読んではいた、しかし英語の力でバイトをするなど、考えたこともなかった。

 とかく東大の学生というものは悲しいもので、英語に自信がないとは言えないのである。「ハイ」と二つ返事で引き受けたものの、パターンの説明の文章には洋裁特有の述語があるし、ナントカ袖とか、シカジカススカートといったような、洋裁の、少なくともアメリカのファッションに詳しい人なら知っているような、固有名詞的な単語がやたらと出て来る。

 私はさっぱり分からないし、字引だってもちろん、出ていない。サンザン考えたあげく、知らないほうが悪いんだ、と言わんばかりに、英語を片仮名書きにしたままで提出することにした。

 そのようにしてみると、「自転車のペタルを踏むのに適したズボン」などと説明的に訳すよりも、自転車に乗るような軽快な感じの短めのズボンという意味で「ペダルプッシャー」としたほうが、感じがいいような気がしてきた。つまり「自転車などにも気軽に乗れる、女性向けのズボン、ペダルプッシャー」とするのである。そして同じ単語が二度目に出てきた時は、もう片仮名しか使わない。

 ファッションの世界には何といっても美女が多い。それで私は結構、このバイトを楽しんでいたところがある。
 要するに男は強いぞ、といったフリをするか、オレは秀才だと反り返るか、二つに一つなのである。
 女が「弱く優しいフリをする」ように育てられているのなら、男は「強く賢いフリをする」
 ように育てられるのである。そして、その実体が明らかになるのは、結婚生活なのである。

 夫は強いフリをしている。妻は弱いフリをしている。どっちがバレやすいか。それは強いフリである。妻に、
「お隣の子が、ウチの壁にボールをぶつけてキャッチボールの練習をするのよ。うるさいし、壁が汚れるでしょう。お隣にやめるように言いに行ってよ」
 と言われると、強いフリの夫としては、隣家との交渉に自信がない。強いフリは妻に対してが精一杯である。
「お隣の子やお母さんは、キミのほうが親しいんだろう? 君から言った方が、カドが立たないんじゃないか」
 最初は、「それもそうね」と妻のほうも納得するかもしれない。しかしそういうことが度重なると、夫はつまり逃げているのだ、強いフリは自分に対してだけで、隣近所にも、まともな交渉は出来ないのだ、と妻に見破られてしまう。

 だから結婚当初、夫が不機嫌な顔をしていると、オドオドしていた妻は、やがて、
「何が気に入らないのさ。言いたいことがあるなら、言ったらいいでしょ」
 という気になるし、夫のそんな表情など、ヘッチャラになってくる。
 だから夫婦の意見が分かれた時なども、
「ハイ、ハイ、わかりました。それだったら、ご自分でどうぞ」
 ということになる。
 それに対して、夫は腹が立つものの、自分では何もできないし、結局、妻の言うとおりになってしまうのである。

第二章 男は体力、女は器用さ
〆男は衣食住の素材を提供してきた

 人間の生活に必要条件として、衣食住というものがある。
 人間はその昔、生まれ故郷のアフリカ大陸を離れて、今日のスエズ地峡を越え、ユーラシア大陸に進出した。以来、気候に対して我が身を守り、体の栄養を保つために、食べ物を手に入れ、かつ自然と人間を襲うケモノに襲われないように、生活空間、つまり住む家を必要とするようになった。

 アフリカで人類が発生した当時は吞気なものだった。自然の中から生まれたのだから、自然の息吹きに従っていればよかったのだ。気候は毛皮を持たない人間にとって、適当な温度、湿度があったと思われる。

 人間の肉体の構造から考えると、木に登ることもできたが、それよりも地上を移動するのが普通であったようだ。敵が来た時は、避難の意味で樹木に登ることもできた。木の登りは果実を採取するにも役立ったに違いない。
 人間の歯の造りは雑食に適している。人間は地上に生えている草の実、木の果実、それから捕まえることのできる魚類や貝類。また地上の小さな動物などを食べていたのだろう。
 大型の肉食獣は主として地上で獲物を捕らえるから、人間は夜になると、樹木の上で眠ったかもしれない。
 とにかく当時の人間には、衣類はいらなかった。食べる物も自らが発生した自然の中で手に入った。住まいの必要も無く、夜は樹木の上で眠れば、ヒョウなどの木登りできる特殊な肉食獣を除いて、身の安全を保てた。

 それなのに、なぜ、人はスエズ地峡を越えて、ユーラシア大陸に進出したのであろうか。
 自然の環境が変わって、より好ましい場所を探す必要がでてきたのか。あるいは、あまりにもアフリカの自然に適応して、人口が増えすぎてしまい。新天地を開拓する必要に迫られたのか。多分、これが複合した結果、より幸運な自然環境に恵まれた一部の人――現在のアフリカ原住民の先祖――を除いて、ユーラシア大陸に出ていく結果となったのだろう。

 何を食べるか、ということが問題になる。魚は、海水の中に生息する生物にとって必要な要素の集約されたものであり、これを食べていれば、大量の海の生物を養うエッセンスを摂取できることになる。

 同様に、地上に繫茂する植物の実には、そこに生息する動物に役立つ要素がすべて詰まっている。また動物の肉には、植物の果実以上に大量の栄養が含まれている。一頭の牛や豚が肉体を支えるために、どれだけの植物を消費するかを考えれば、人の食糧としての動物がいかに効率がよいかよくわかる。

 食糧としては植物よりも魚類や動物の方が、蛋白質、脂肪を摂取するのに向いているから、昔からこれらの物を人が珍重したのは当然である。これはどこの国でも同じである。

 しかし、蛋白質や脂肪の豊富な動物を捕らえるには、力と技術がいる。力とは体力であり、技術とは道具の使用であり、あるいは人間同士の団結と共同の活動である。しかも常に収穫を保証することはできない。場合によっては、敵の反撃にあって、犠牲を出すこともありうる。

 また夜を安全に過ごすためには、アフリカ時代のように、木の上にいればよいという訳にもゆかず、洞窟などを利用して、野獣が入らないように入り口で火を焚いたりするし、そこの番をするのは武器を手にした力のある男性である。

 しかし男性が野獣の皮を手に入れると、それで皮膚を守り、野獣と闘う時の防御となる衣類を作るのは、手先の器用な女性の仕事となる。殊に寒冷な地域に住むようになると、女性はさまざまな植物を利用して、衣類を作り出していった。

 日本の神話にも、天照大神が稲を作り、衣類を作っておられたのに、弟の素戔嗚尊(スサノオノミコト)がやってきて田を荒らし、織物をされているところに動物の毛皮を投げ入れる。それで怒った女神は、天の岩屋戸に籠もってしまわれた、という話がある。

 つまり生産の中心にいる女性のところへ、男性は蛋白質の食材である動物を獲ってきてくれはするものの、その適切な使い方を知らない。だから余計なことをしたり、必ずしも役立たない動物の肉や毛皮を持ってきたりして、女性を当惑させることになる。

 つまり男は衣食住の素材を提供したが、それを本当に役立つようにしたのは女性というのが、この日本の神話のテーマではないだろうか。

〆主食の発見が集団の定住につながった

 人はスエズ地峡を越えて進んでゆくうちに、アフリカ時代には知らなかった新しい食料を見つけ、それを獲得しやすい場所に定住した。環境がよければ、そこで人口を増やし、環境に適した遺伝子を持つ血統が自然に増えて行ったで、そういう適地はバラバラに散在していた。

 というよりも、さまざまな地域で、人の集団はそれに適応する技術を開発したから、そういう人の集団は遠く離れ離れになっていった。それ故に今日、人種といわれる多くの肉体的特色を持つ集団に別れるようになった。
 寒い土地に行く羽目になった集団は、体毛があり、皮下脂肪が多い方が有利である。そこで白人のような毛深い人種、またアジア系のような脂肪の多い、ポッチャリ型の人間ができる。

 彼らはそれぞれの土地で適当な植物系食料を見つける。気候が寒冷で巨木の多い地域を移動する民族は、椎、栗などの樹木の果実を発見して、当然、それらを採取して食べたであろう。また湿気の多い藪の中の土地に進出した民族は、イモ類を発見する。

 しかし究極の植物性食品はイネ科である。それは地球上の各地に進出していった人類が、どこであれ、主食としてイネ科の植物を選び、それを栽培したことからも知ることができる。
 麦、栗、稗(ひえ)黍(きび)。アフリカ大陸で発見された黍は、日本では特にトウモロコシと呼ばれるが、アメリカ語ではコーンであり、この意味は第一義的には穀物の意味である。

 強大な繫殖力、味、栄養素、獲得する手段の安全こそ、そして何よりも食品としての栄養分の豊富さという点では、麦と米が世界の主食の中心になった。

 麦の長所は、瘦せた土地でもできるし、悪い土地でもできるとあって、雑草を取り除く必要がほとんどない。手数のかからない栽培植物である。欠点は倍率の少なさである。一粒の麦を撒いて、何粒収穫できるか、という点に問題がある。

 いろいろな説があって、その中には三倍などというひどい数値もあるが、まず、数倍から十倍くらい原始農業でも収穫できた量だろう。それだって、なかなかの量である。
 今の若者に、四月に一万円出資して、半年で十万円になる、といえば、喜んで投資するであろう。ましてや稲の収穫は数十倍である。春、一万円投資すれば、秋には七十万円くらいになると考えてもよい。

 人間がイネ科の植物を地球上の各地で見つけて、それをもって主食としたのは、むしろ当然のことであろう。
 どうやら、今のイランあたりで麦の栽培に成功したらしい。西はチグリス河、ユーフラステス河、さらにはナイル河沿岸などに栽培適地を発見した。とにかく一年で数倍に増える食品であるから、食糧獲得以外のことに、生活の中心を置くことのできる階層を維持することができる。

〆こうして男性優位の世界は造られた。

 人を襲う野獣との戦い、いやそれよりも麦のような便利な食品を持たず、いつも飢えている近隣の集団の来襲を防ぐための武力部隊をつくり、指揮者を用意し、あるいは、蓄積した共有財産を社会全体の所有とする名目として、神を創造する。神を崇めることを通じて、豊かな生活が営める幸運を喜び、さらなる豊かさを願う。

 麦は、栗や稗などを主食としていた中国の黄河流域にも広がってゆく。
 米の発生はどこの地域か判然としないが、インドでは比較的古くから栽培されたようである。中国の雲南省あたりを源流として、北の小麦文化圏が勢力を増してくると、米は南下して、今のベトナム、タイ、カンボジアなどに広がる。

 ここは元来がイモ文化圏であった。イモはナガイモ系統とサトイモ系統があって、今のマラヤ語では「ヤム」とか「イブ」とかいうが、日本もかつてはイモ文化圏であった可能性がある。ヤマイモとかイモとかいう言葉は、これらの東南アジア系の単語と関係があるのかもしれない。

 今日でも十五夜に団子をお供える地方とともに、サトイモを供える地方もあるし、餅を珍重するのも、米によって、イモに似たものを作った時代の名残りかもしれない。
 しかし収穫量からも、かつその巨大な収穫を背景にする文明を発達させうる作物としても、イモは米の比ではない。米はイモを駆逐する。

 それでも東南アジア、たとえばフィリピンなどは、もちろん、稲を作るのだが、家の周りにはサトイモ系統のイモを作り、バナナを植え地域がある。日本でも高知県辺りでは、サトイモを作るが、同時に実がならないのに、バナナの木を植える家が、私の少年時代にはまだ残っていた。

 ちなみに、中国で川を「江」と書く地域はだいたいにおいて稲作地帯だし、「河」と書く地域は麦作地帯である。朝鮮半島は全域にわたって「江」だから、沖縄か南中国から稲作が入ったのであろう。それが中国の東北、満洲に入ると、渾河(こんが)は「渾江」とも書く。さらに北の遼河(りょうが)になると、もう「江」の字は使わない。

 つまり渾河のあたりまでは、稲と麦が入り混じって栽培されたのであろう。麦は収穫率が悪いが、寒冷な気候に強い。米は収穫率はよいが、元来が暖地の穀物である。

 バンコクなどの、地面を少し掘れば水が出るような土地だと、排水を兼ねてたくさんの溝があるが、これをタイ語で「クロング」という。これは「江」の字の時代中国語を日本語で書いた「カン」に近いから、同系統の言葉かもしれない。ついでに日本語の「カワ」も、「カン」や「クロング」と同系統の言葉である可能性も考えられよう。

 農業は女子が発明したと言われるが、穀物栽培が大規模になるにつれて、体力が必要となり、次第に男性の労働力が中心になってゆく。
 船を操って水産物を獲り、あるいは野生の動物を殺して食料にする。前に書いたように、肉類は植物性の食品に比べて貴重品であったから、それに従事する男性が女性より上位に位置するようになっていった。その傾向は、野獣を狩る代わりに牧畜をするようになると一層の体力を必要とするので、この面での優位は揺るぎないものになった。

 それで古代では、日本の天照大神をはじめ、中近東の農業を司る地母神など、女神が多かった。しかしそれもギリシャ神話のヘラのように、主神ゼウスの妻として、格下げ(?)される傾向があった。知恵の女神アテナ女神も、愛と美の女神のアフロディテも、かつては生産と文明の主神である女神であったかもしれない。

 とにかく衣食住の中で中心となる、生命維持のための食は、男性が支配する結果になったから、社会を構成し、それが発展した文明時代になると、人間の集団においては、男性世界になっていった。だからといって、女性の存在が希薄になった、と言うのではない。

 男が米や麦、獣の肉や魚を持ってきたところで、それを処理し、場合によっては保存の手段を考え、家族や社会によりよい食品を提供できるようにしたのは、女性であった。
 男は洞窟を掘って、そこに住まい――野獣に襲われない空間――を造ったかもしれない。しかしそこで過ごす時間を快適にするためには、やはり女性の手を借りねばならない。

 男は獣と肉と同時に毛皮を持ってきたかもしれないが、それで体の皮膚を守り、気候の変化に対応できる衣類を作るのは、女性の仕事となった。
 つまり男は社会の中で偉そうな顔をしていながら、衣食住の実際面では、すべて女性の支配に甘んじなければならなかったのである。

 簡単に言えば、生活の枠は男性、その中身は女性、という分業が成立する。それは最近まで男性は外で働いて金を稼ぐ、それを効率よく使うのは主婦の仕事、といった分業が存在していたことにつながる。

〆男は家族にとっての城壁、家族を守る兵士

 西洋の、というより、西は英国から東は朝鮮半島に至るまで、都市は城壁に囲まれていた。その素朴な形は前に書いたように、人が洞窟に住んでいた時代の名残りかもしれない。
 当時は入り口で火を焚いて動物の侵入を防ぎ、女を狙って襲ってくるかもしれない、はぐれものの人間の男を防ぐために、入り口に武器を持った男が昼夜となく見張っていたのであろう。

 洞窟はやはり山地にしか見つからないであろう。しかし人間が農業やぼくちくで暮らすようになると、どうしても平野に出て来る。そうなると洞窟の代わりに、家を集合的に造り、共同で防衛するために、それを塀で囲む。動物や敵の襲撃を防ぐためである。

 そして食塩、その他の利用によって、食料の貯蔵が可能になると、穀物以外の腐敗することのない食料も塀の中に貯蔵する。塀の中の人間は、外の牧場や農場で働かなくとも、食べてゆくことができるようになる。都市の発生である。

 塀の中には食料の所有者の他に、その食料を与えられる条件に、衣類や武器、装飾品、また食料その他の生産・貯蔵に必要な道具、武器等を作る専門家の集団が現れる。都市は支配者たちと従属者の集団である。

 そして都市の外には、食料の生産に従事する人々が仕事の性質上、あまり大きな集落を作らずに、散在した状況で暮らしていた。彼らも非常時には、手持ちの生産具や食料を持って、都市に逃げ込んで保護を受けるのである。

 都市の塀は次第に頑丈になり、石で造られ、幾つかの門を通らずに出入りが不可能になる。もちろん、そこには防衛する武器を持った男がおり、その集団を組織し、指揮する階層、さらにはそのトップを占める人々が現れる。

 都市の財産を神の所有とするなら、その神に仕える人々が都市の支配者になるし、その財産を防衛する武装集団の頭(かしら)は、神に仕える人と同一の階級を作るか、場合によっては神に仕える集団、あるいは武力の集団のいずれかが優位を占める。

 もちろん、両者を兼ねる支配階級が出現する場合もある。神に仕える人たちを宗教家、武力の支配者を王というなら、宗教家には女性も存在しえた。女性の感情的な傾向が、神への集団ヒステリーをつくるに役立ったのであろう。しかし社会の秩序の現実的運営にあたっては、武力という実力を持つ王が支配権を持つようになる。

 こうして、物資と道具を作る場としての都市ができると、そこには王、神官などの支配階級と、武装集団、神に仕える人々、そして彼らの為に働く食糧貯蔵関係者、道具の製作者などが都会の住民になる。そして都市の外れには不作の時や敵襲の時に保護を求める農民や牧畜民が散在する、という形ができる。
 その縮図が家庭である。
 結婚すると、多くの場合、妻は夫の姓を名乗る。もっとも中国文化圏、中国や朝鮮半島など、近親結婚を恐れるあまり、妻は違う家族の出身であることを立証するために、結婚前の姓を捨てないケースもあるが、二人の間の子供は夫の姓を名乗るのが普通である。

 夫は家族の城壁である。外部から来た力を持つ存在、それが政府の関係者であろうと、金融関係、通商関係、あるいは暴力的な闖入(ちんにゅう)者であろうと、彼らに対しては、夫が対応する。夫は城壁とそれを守る兵士の役割を果たす。つまり都市の縮図である家庭の名目的所有者になるのだから、それを立証するために、夫は家庭の維持に必要な物資、現代で言えば、現金収入を確保せねばならない。

 夫が稼いだ金は、城壁を守る兵士が武器を守るように、自分で保管するのが普通であるが、日本の奈良や京の都がそうであるように、都市であっても塀、珠に石の城壁で囲む必要のない国では、夫が稼いだ金を全部、妻に渡してしまう。

 夫は金を稼いだということ、武器を保有して、いざという時にはそれを使うことが出来ることを示すだけで、実際的には武器は家の壁に立てかけておく。その管理、つまり武器が錆びないように磨いたり、いざという時に夫に手渡したりするのは妻の役目、ということになる。

〆建て前上の支配者と、本当に力を握る者

 パリの昔話に、オオカミの中から天才的な指導者が現れて、パリの街を包囲して人間と戦うという話があるが、これは人間にとって野獣――ヨーロッパでいえばオオカミ――が、かつては恐るべき存在であった時代の「神話」であって、現実には都市を囲む野蛮な異民族の記憶が、野獣への恐れと混同されて、この昔話になったのであろう。

 ヨーロッパでは緑もロクになく、高層の建物の集団、市民の排泄物や入浴の習慣のない市民の体から発する体臭その他で、生活が不快なものになってゆく。そしてもはや、野獣はもちろん、異民族の襲撃というものも考えられない。

 十七世紀になると、フランスのルイ十四世はパリを嫌って、郊外のベルサイユ宮殿という自然を採り入れた大宮殿を造り、貴族の生活を維持するための側近の従者を連れて移住してしまう。

 王の存在が権威を示すものになる。彼の言葉といわれる「朕(ちん)は国家なり」は、現在からすると誤訳とはいえないまでも。当時は国家という意識はなかった。彼の言葉の「国家」はフランス語では「ユタ」と言うのだが、英語で言えば「ステイト」である。

 これは「状態」が本来の意味で、「現在の体制」「支配」とも解釈できる。十八世紀の末に独立したアメリカの十三州のうち十州は「ステイト」と称した。これは植民地とはいいながら、もはや英国が支配する地域ではなく、この土地として自律的な体制を作っている、といった宣言でもある。

 他の三つの州は「コモンウェルス」と称した。これは共有財産という意味である。つまりここは英国王の所有ではなく、この土地を開拓して都市と農地と牧場を開いた人々の共有、という宣言でもある。共和国を英語で「リパブリック」と言うが、これはラテン語の「レス・ププリカ」が訛(なま)ったので、「レス」は物、「ププリカ」は公共の、という意味だから、「コモンウェルス」というのは、このラテン語の直訳である。

 ルイ十四世の言葉は、同時代の三代将軍徳川家光が諸大名を前に、
「我が父祖は諸君の力を借りて将軍になったが、自分は生まれながらの将軍で、朝廷の勅許(ちょっきょ)も受けている」
 と宣言したのを思わせる。

 将軍とは征夷大将軍のことで、異民族を征討する軍司令官、幕府とは幕で囲った前線司令部の意味である。しかし、この時代に日本人に反逆する勢力を持った異民族がいるわけはない。だから将軍も幕府も名目であって、その内容はルイ十四世の「朕はエタである」というのと似た意味であろう。

 フランス王とか徳川幕府の将軍とは、実質的には象徴的な権力、という存在になった。パリでは、実権は市民の指導者に移り、日本では十七世紀末の元禄の経済成長の頃から、経済の実権は武士から町人に移ったのである。

 日本の家庭でも、家とは本来、初めは夫婦が、やがては親子が生活を共にする場、家屋のことだが、次第にその直接的な意味から離れて、生活を共にする夫婦を中心とする血縁関係を意味するようになっていった。

 だから「家長」という言葉は、元来が家屋の支配者の意味であるが、家族の支配者なってゆく。それも日本のように家を襲う存在がなくなると、名目的になり、今では役所などに登録する場合の家族の中の筆頭者とういにすぎない。

 ルイ十四世がベルサイユ宮殿で生活をするようになってから、パリ市民は次第に自立性を強め、ついにはフランス革命を起こすに至る。

〆子供ができると家庭の実権は妻の手へ

 日本でも、家長が金を運んでくるだけの存在になると、家長の座は次第に軽い存在になって、日常生活の中心は妻の掌中に握られる。家長である夫、子供からすれば父親は、月給を運んでくるとはいっても、銀行の口座に毎月振込まれるだけになるが、ま、顔を立ててやるか、といった程度の存在になる。

 家の中を仕切るのは主婦である。「主婦」の意味は、家庭の中心を占める女性の意味である。ほとんどの家庭の主である女性、ということだ。主婦の前には家長は名目に過ぎない。子供だって小遣いは父親にねだらない。母親と交渉して手に入れる。

 子供が自分の部屋を持つと、母親は息子であっても娘であっても部屋に入る権力を残しているが、娘は女性としての自覚を持つようになると、男性である父親の入室を拒否するようになる。
 パリの支配者がルイ王朝から、パリ市民の指導者に移ったのと似たことが、日本の家庭でも起きた。家長は名目上の、それも面倒なことが起こった時の責任者で、現実の生活の支配者は主婦、という事になっていった。

 こういう時に、夫婦ゲンカ、つまり家長と主婦の争いが起きたら、結果はどうなるか、三歳の子供でもわかる。妻が勝つ。
 その点が多くの夫には分からない。徳川時代の武士が、実力はもうないのに、町人より偉いと自惚れて威張っていたように、日本の亭主族も妻や子供から軽んじられていることを自覚しない。だから夫婦ゲンカでも、勝ち目があると思っている。

 しかし徳川幕府の旗本だって、経済的にその年の俸禄(ほうろく)を抵当にして、札差(ふださし)という旗本たちの俸禄を金に換える職業の町人に、頭を押さえられている。威張っていても、いざとなると、札差の言い分に従わざるをえない。

 だから夫婦ゲンカは、徳川幕府でいえば、創始者の家康が将軍であった時代はともかく、それから百年近くたった元禄時代、つまり夫婦に子どもができた頃からはもう、家庭の実権は妻に移る。
第一、 子供にしてみても、日常生活接する親は母なのだし、それに較べると父の影は薄い。だから、
夫婦ゲンカの原因が何であれ、子どもの目からすると、母親の言い分は納得がいくし、父親の言うことは、
「何、ネゴトを言っているんだ」
 ということになる。

第三章 夫の威厳の保ち方
〆専業主婦が働きに出る日

 伝統的な家庭では、夫は会社や役所に出勤して仕事をし、月給をもらう。妻は家で夫が持ってきた月給を巧みに運用して、とにかくも家庭の物質生活を維持し、家庭の中の人間関係が円滑になるように配慮する。

 つまり夫、家長は一日の殆どは家庭の外にいるし、時間的にも心理的にも職業面への対応の比率が多い。当然、家庭のことについては妻より疎(うと)くなる。
 それは自営業であっても同じである。商店であれば、夫は商品の仕入れや販売価格の決定、営業方針、客の対応に追われる。
 その結果、皮肉なことに、女性客の反応は、
「あの店もいいけれど、ご主人がいる時は買いづらい。奥さんのほうが話はわかるし、同じ主婦同士、ということもあって、買い手の気持ちをわかってくれている」
 ということになるのもしばしばである。

 近年、共働きの夫婦が増えた。女性が外で働く理由はまず、女性も専業主婦として家にいるばかりいると、面白くない。それに金を稼ぐのは夫だけだということになると、亭主の存在がハナについて、季節のドレスを買うのも、気が引ける。その点、自分で稼げば、小遣いもできるし、社会活動に必要だからという名目で、服だって靴だって遠慮なく買える、といったことだろうか。
 その名目は、
「アタシには、専業主婦で終わるにはもったいない資質と能力がある」
「家にじっとしていると、息がつまる。学校時代(OL時代)のように、のびのびと暮らしたい。教師(上司)にイヤな人がいたけど、接触しなければよかった。それに、イヤな人の悪口を仲間と言い合うのも楽しかった」
 という事であろう。

 働くということは、子供が幼い時なら、夫に「あなたの稼ぎが悪いからよ」といったことを暗黙に示すことができるし、子どもが母親の手を離れる年齢になれば、
「ウチのお母さんは偉いんだ。社会が主婦だけをしているのはもったいない、と思っているから、外に出て働いている」
「お父さんの稼ぎが悪いから、ボクたちが大学に入るために、お母さんは働いているんだ。お母さんに感謝しよう。学校から帰って、お母さんがいないことの淋しさなんか、ガマンしなくては」
 といったことになって、お母さんが「働くのは当然」となり、あるいは「稼ぎの悪い」父親への敬意は薄れゆく結果になりがちである。

 だから共働き夫婦の場合、たとえ妻が夫の姓を名乗っていようとも、家長というのは純粋に名目だけのものとなると覚悟した方がよい。中国の皇帝には、よく臣下に実権を握られた、名のみの皇帝がある。

〆夫の定年後、経済的に存在感を増す妻

 夫にとって最悪のケースは、定年後、次の職が見つからない場合だろう。退職金は家のローンに使いたいところだが、老後のことを考えれば、やはり有価証券とか貯金にして置きたい。今まで部長だったことを思えば、あまりみっともない仕事はやりたくないし、かと言って、前歴が生きるような仕事はなかなかない。しかも年金だけでは、これまでの生活レベルを維持することは難しい。

 こういった状態の時に妻が学歴を利用して、塾の教師をしたりするようになると、その収入は年金よりいくらかマシな程度であっても、妻が一家の経済の担い手のような形になってしまう。
 たとえば、夫六十歳、妻五十五歳の夫婦の場合。子供は二人で、妻が二十七歳で産んだ第一子は男で。もう社会人になって結婚している。

 妻が三十五歳で産んだ次男は大学生活も後半に入っているから、就職のことを考えると、今はバイトを辞めて、学力をつけておかねばならない。

 しかし大学の後半となると成年だし、友達付き合いというものがある。だから、
「ホラ、これで飲み会の足しにでもしなさい」
 と母親がくれる二万円、三万円の金は本当に助かる。
 それに反して、年金以外に収入のない父は、その使い道も決まっているだけに、そういう妻の気前よさを、見て見ぬふりをせざるを得ない。父親の値打ちは下がる一方である。

 長男の妻、次男にとっての兄嫁というのは、またまたミニ母親みたいなところがある。
「男物の靴下が三足まとめて買うと安いのがあったから、そのうちの一足をあげる。どうせ、足の大きさはいっしょでしょ」
 など言って、時々、物をくれるのは有り難い。次男は、ああ、オレもああいう心の行き届いた女性と結婚したい、などと思ったりする。
 なに、兄嫁にしてみれば、ロクに面倒も見られない舅、姑の自分への評価は低いだろうから、そういう悪口は食卓の話題になったときには、弁護役を務めてもらおうという魂胆でしかないのだ。女性というのは天性の陰謀家、といったところがあって、義父母の所に残っている、夫の弟妹を手なずけておこうとする。

 それが、第一子が女の子の場合、その夫の儀弟に対する調子はだいぶ違う。
「おお、いよいよ大学三年か。就職、ガンバレよ。
 三年になったら、専門の経済学とか英語とか、時事常識なんかを身につけるのは当然としても、そういうのは一次試験で足切りに使うだけだから、学科が一番でも、会社に入って役に立つか立たないかの判断は、二次試験という面接の要点なんだ。

 だから、何か特技を身につけておけ。たとえば会計簿記でもいい。簿記学校に行って、とにかく資格を取る。そうすれば、面接で『君は何ができる?』と訊かれた時に、自信を持って答えられるからな」
 いいことを言ってくれるようでも、どこの簿記学校に行ったらよいのか、そもそもその学費をくれそうな空気でもない。やっぱり義理の仲というのは、どこか他人なんだ、と思ってしまう。

〆男は女性の用心棒にすぎない?

 父親も頼もしいと思ったときはどんな時かというと、女の子でいえば、
「遊園地で回転木馬にのりたかったけれど、チョット怖かった。そうしたら、お父さんが抱いて乗せてくれて、とても楽しかった」
 などという場合であり、男の子なら、
「河原でタコ揚げを教えてもらっていて、転んで膝を擦りむいた。泣いていたら、川の水で傷を洗って、帰りに薬屋で薬を買ってつけてくれて、『お母さんには内緒だぞ』と言ってくれた時」
 というところか。
 あるいは息子、娘とも懐かしい思い出になると、
「デパートに一家で買い物に行った時。お母さんは何を買うの、幾らだのと血眼になっていて、子供たちは退屈していた。その時、『よ―し、お父さんについてこい』と言って、食堂でアイスクリームをご馳走してくれた。すごくおいしかった」
 という記憶であろうか。

 言い換えると、父親が子供の介添え役であるケースである。母親がいないときは、まるでイタズラをするように遊んでくれたり、物を食べさせてくれる。たったそれだけのこと。母親がいる場では、母親の意志、方針が絶対で、父親の存在はないも同然である。

 回転木馬については、母親は危ないからやめなさいと言った。それを父親が、「よーし、オレが抱いて乗せてやる」と言ってくれた時は、本当に頼もしかった。でも、一方、家の中に入ると、「借りてきた猫」という言葉があるが、父親は自分の居場所がないかのように、オドオドしている。

 つまり女性は今日でも、たとえ先進国であっても、表向きは弱い存在である。だから外では、男性である夫は偉そうな顔をしている。
 アメリカあたりのレディ・ファーストだって、あれは女性が偉いからではない。女性が保護を必要としている弱い存在だからである。昔の軍隊では、馬を使う部隊が休息する場合、まず、馬の鞍をおろし、馬に異常がないかを確かめ、水なり餌なりを与えてから、人間の食事や休息に入る。つまりホース・ファーストなのである。

 ヨーロッパの、珠に上流階級では、女性にとっての生活の場は家庭の中であり、親しい家を訪問するとか、貴族の場合であれば宮廷の宴会などに出席するとかぐらいで、一般社会に出る事は、どちらかというと日常の習慣に背くことであった。だから社会に出る時は、男の保護が必要なのである。

 保護というと聞こえはよいが、つまり男は女性の用心棒なのである。だから女性のためにドアも開けるし、カフェでは、女性の代わりに注文もするし、もちろん、代金も払う。考えようによっては、女性は、「よきに計らえ」といっているようなものだ。

 日本ではどうだろう。外では妻はあくまでも慎ましい態度をとる。形の上では夫を立てている。
 道で夫の会社のひとに会ったとしよう。夫が紹介すると、妻は、
「いつも主人がお世話になっておりまして。本当にいつも陰ながら、おウワサをしては、有り難く思っているのでございますよ」
 などといっているようなものだ。相手を喜ばせておく。しかし相手の姿が見えなくなると、
「なに、あの態度。仮にも、アナタが上役なんでしょう。あれが上司の妻に対する態度かしら。どうせ、ああいう男は社用で外に出しても、相手を怒らせるようなことをして、仕事をダメにするし、その責任はあなたにかかって来るんだから、あなたも、用心した方がいいわよ」
 と言うにちがいない。その場それきりで終わるが、盆暮れの季節になると、やおらまた、
「ホーラね。あの男からは何も送ってこない。そいうタイプなのよ。あの人は」
 ということになり、その執念深さは夫を驚かすのである。

〆結婚後、夫の動向がアヤシクなるのはなぜ?

 恋人同士なら、女性の方からホテルに誘う事はまず有り得ない。男性がそれとなく誘っても、女性は拒否的になる。男性は強引に、ほとんど暴力的に彼女をホテルに連れ込む形になる。

 これが誤解の元なのである。あくまでも女性はホテルなど行きたくないフリをしている。芝居をしているだけなのだ。いや、本心はホテルに行きたいと思っている、とまでいうのは言い過ぎであろう。ただ、彼が自分を愛していること、自分の女性としての魅力にとらわれているとことを実感したいだけなのかもしれない。だから、愛されていることを実感するために結婚するのだ。

 結婚当初は、確かに夫は自分の肉体に熱狂して、夜も日も開けない状態で、ちょっとスカートの裾が乱れたくらいで目の色が変わる。それが面白かった。たとえばスターになったような気分さえ味わえた。愛情も実感することができた。思い通りにならないこともあっても、ちょっと拗ねてみせると、あわてて、ご機嫌をとってくれた。

 しかしそれも二、三年である。湯上りで半ばヌードになっているというのに、彼は僅かな晩酌に酔って、妻の体に関心を寄せるどころか、居眠りをしている。
 新しいハンドバックをねだると、
「そんな金あるわけないだろう。月給は全部、君に渡しているしさ。こっちの小遣い一日分で千円ポッキリ。タバコは吸わないけれど、社員食堂で一食、四百円のランチを食うと、赤提灯に仲間と行くのも、週に一度がやっとなんだからね」
 と不機嫌になる。
 婚約時代、新しい夏のドレスが゛欲しいと言った時、自分の冬の外套を質に入れてまで買ってくれた彼は、いったい、どこにいってしまったのか。
 そうかと思えば、赤提灯のオカミさんともなんだかアヤシイ。
「とにかく、親切なんだ。日本酒をやめて、焼酎のオンザロックにしろ、と言うんだね。そうすれは、週に一度のところが、二度、オレの顔が見られるかと言うんだ。いつも一緒に行く後藤のヤツが冷やかしやがる。肴も、ひじきの煮たものとか、ブリのアラと野菜の煮付けとか、金のかからないものにしてくれるし」

 妻にしてみれば、要するに、週に一度しか来ない、しかも三千円しか使わない客を二度来るようにして、日曜の小遣い千円も入れて四千円を搾り取ろうという算段じゃないの、と言いたくなる。でも、それを言えば、ヤキモチを焼いていると自惚れるから黙っていてやるけど、後藤とかという同僚の冷やかしを真に受けている亭主のバカさ加減が気に入らない。

 でも、赤提灯のオカミサンのことを口にするからまだ安全。多分、いい年して、みっともないオバサンなのだろう。それに較べる、今年、会社に入ったカヨちゃんとかいう娘への気持ちのほうがもっとアヤシイ。

 ほとんど彼女のことは口にしないが、彼の課に配属になった九月ころからの服装へのこだわりが変だ。どうやら赤提灯も週に一度になったらしい。してみると、週に二千円のユトリができたはず。それをカヨちゃんに使っている、あるいは、そのために貯めていることは見え見えである。若い時のネクタイを取り出して洗濯屋に出した当たり、どうもうさんくさい・・・・。

 確かにこれはクサイ。しかし私に言わせば、若いOLが既婚の係長などに思いを寄せるはずがない、ということを世の細君には知ってほしい。そもそも部下のOLに手を付けるような上役というのは、四十過ぎまでは仕事もできるし、将来、出世間違いなし、といった感じの男が多い。家庭で細君を巧みに操縦するであろう。

 しかし中年になると、アイツはちょっとやり過ぎということで、社内でもお得意先でも信頼感が失われて、意外と五十歳になると窓際に追いやられたりして、かつて彼の恋人であったOLは、ちゃつかり、しかるべき男と結婚して、昔の情事は忘れてしまう、といったケースが多そうである。

 また、普通のサラリーマンは、水商売の女性には、珠に若い頃はもてないものである。もてるのは前に述べたOLを情婦にしたりするタイプか、水商売の女性が仲間意識を持ちそうな破滅型の男、文士にたとえると、後で述べる水上勉とか吉行淳之介といったタイプである。

〆男がいちばんカッコよく見えるのは家庭の外

 私に限っていえば、老人になると、そういう女性のいる場所に行くこと自体が面倒になった。宵闇迫れば、ベッドに入ってテレビを見るか、近年はやりの、書き下ろしの時代小説の文庫本を読むのが楽しみになった。

 若い頃は金がないから、そういう場所ではもてない。講談社の女性社長が先ごろ亡くなったが、彼女の父親にあたる人が社長だった頃、私たちを赤坂のキャバレーで驕ってくれたことがある。若い作家に、そういう高級な場所を見せてやろう、という親切心からである。

 たとえばこういう場所で、若くてもてるのは水上勉のような男だ。
 彼はハンサムだし、子供の頃から苦労している。ホステスと愛し合って、駆け落ちしたものの、彼女を養うこともできず、やはり水商売を続けさせた、といった苦労話をすると、ホステスたちは我が身に引き比べるのか、水上にやたらと親切になる。それどころか、今の夫人の代わりに、自分が水上の相手になってもよい、といった風情さえ見せる。

 吉行淳之介ももてた。彼は結婚生活がうまくいっていない、といった風情があって、何か物思わしげであり、しかもハンサムで、江戸前のイキなところがある。
 彼が芸者の三味線ダコを撫でて、
「キミも苦労しているんだなあ」
 などと言うと、一遍で芸者はホロリとなる。
 遠藤周作が吉行の真似をして、ホステスの首にタコのようなものを撫でながら、
「何これ? バイオリンの練習で、タコができたの?」
 などと言うと、
「違うわよ、これ、ルイレキの跡なの。触らないで」
 と突き飛ばされる。
 講談社の社長さんがおごってくれた時も、遠藤と私の間にホステスが一人割り当てられた。どうせ、金を払うのは社長だと知っているから、彼女は私たちなど相手にしない。黙ってソッポを向いている。それで私が機嫌をとうとして、
「キミ、何考えているの?」
 と聞くと、彼女はタバコの煙を私に吹きかけながら言った。
「いい客来ないかなあ、と思っているの」
 さすがに遠藤が、口を出した。
「我々だって客だぜ」
 するとホステスは遠藤に微笑みながら答えた。
「だから、こうしてガマンして座ってるんでしょ」
 とにかく私と遠藤はもてなかった。

 私たちの文学の同人雑誌の仲間に、近ごろは忘れかけられている梶山季之という流行作家がいた。彼は私があまりにももてないのに同情して、さるバーで、ホステスたちに宣言した。
「三浦と寝たら、三十万円やる」
 昭和三十五年ころの三十万円である。今の物価にすれば百万円くらいの感じだろうか。それでも結局、その三十万円を獲得したホステスはいなかった。

 とにかく水商売の女にもてるというのは、何か陰影のあるハンサムである。普通の家庭を営んでいる男など、金目当てにチャホャされることはあっても、彼らの妻がヤキモチを焼くようなことはまずありえない。といってよい。
 ホステスにもてるような男なら、それより先に細君に愛想をつかされているから、ヤキモチケンカなるはずがない。その意味では、
 女房の妬くほど亭主もてもせず
 という川柳は正しい。
 とはいえ、夫や父親が一番カッコよく見えるのは、やはり家庭の外である。
彼らは日常の行動範囲にいる限り自信を持って、おどおどしている家庭の先頭に立ち、買い物の場にせよ食事の場にせよ、家族を率いていって、それなりの満足を与えることができる。

 たとえ行ったことのない遊園地などで、よく知らないために係員に断られ、注意されても、
「いや、そうでしたか。知りませんでした。失礼、しつれい」
 と潔く謝ってみせるのもカッコいい。
「亭主は達者で留守がよい」というが、また、亭主は丈夫で「外」がいい、というのも真実である。
 つまり夫というのは、家庭の中では用なしなのである。男たるもの、そこを間違えてはならない。

〆妻に主導権を譲り渡そう

 結婚当初は、確かに男が主導権を持っている。新妻に月給を袋ごと渡すと、
「こんな大金、手にしたのははじめて」
 などと感激してくれる。ひとり暮らしのOL時代や、実家にいて親から小遣いをもらっていたころからすれば、結婚した男の給料は段違いに多いだろう。

 夫にとっては、そういう妻とセックスするのも、スリルがある。性体験の豊富な妻でも、相手が夫の場合は、そういった過去は隠そうとするから、主導権は夫にある。心の中ではヘタクソと思っても、その下手さ加減が可愛い、ということもいえる。まして、男性との経験の乏しい妻なら、嵐のような夫の情熱に圧倒されて、主導権は夫に奪われたままである。

 夫から、料理が下手だなあ、と笑われると、新妻は身が縮むような思いだが、夫がそういうまずい料理でも楽しげに食べてくれるのは嬉しい。今度はもっと上手に作ろう。などとしおらしい気持ちになれるだけでも、家庭生活の主導権は夫にある。

 しかし数年たった今では、料理も格段にうまくなっている筈なのに、夫はまるで味のない物を食べているように、無言で食事をするし、目はテレビの、それも、脚のきれいなCMの女の子に釘付けである。

 妻のほうも、子供が生まれるころから、セックスより子供という感じになる。夫もそういう妻を性の対象というよりは、子供の母親に変容したかのような態度になってゆく。

 ここに至って、妻は悟るのである。もう、自分は夫にとって、新鮮な異性ではない。溜まった欲望のはけ口でしかない。家計だって子供が生まれると、育児や何やかや出費がかさむし、生活は苦しくなるばかりである。食事を一生懸命に作っても、夫は有り難そうな顔もしない。

 それどころか、一緒に街を歩くと、美人ならともかく、若くて目立った服装の女が来れば、目をキョロキョロさせる。かくなるうえは自分がしっかりしなければ、この子供を育てるどころか、家庭は崩壊する危険がある。よし、自分が主婦、家庭の女主人にならねばならない。

つづく第四章 男と女は、「男類」と「女類」ほどに違う?
〆私は「耳女性体験者」だった。