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霊廟・マッキンリー 

霊廟・マッキンリー 


本表紙 曽野綾子著

 今年、リオデジャネイロで行われた地球サミット(一九九二年六月三日から十四日まで開催。百七十カ国の政府・国際機関が参加し、地球規模の環境破壊に対する国際協力のあり方について協議した)の報道からも同じような印象を受けるのだが、市民レベルでの地球を守れ、自然を守れ、の大合唱は、新しく起こった熱病のようになって来た。

 もちろん、増えすぎる人間と、後退する自然との間に調和を見つけ出すことは難しい作業であり、それでもなんとか解決策を見つけ出さねばならない緊急課題だと思うが、それは割り箸を使わなければ解決するのでもなければ、原発を潰せの反対運動をすることでもないのである。

「地球に優しい」などといううす気味悪い言葉も、誰が考え出したんだろう。そのような安易な既成語をまた平気で使える神経の粗い新聞記者たちがたくさんいるのである。

 自然というものを誰がどれだけ知っているのだろう。
 今年になって私の見た最も感動的な景色は、この二月、アラスカへオーロラを見に行った時、上村直己さんが遭難して亡くなられたマッキンリーを見た事であった。

 アンカレッジで国内線の飛行機に乗り換えて、フェアバンクスという北緯六五度線の上にある町を目指して飛んだのは、オーロラというものが地球の北緯六五度の上に、ドーナッツ状にぐるりと現れるからである。

 私の乗った飛行機は、左手にマッキンリーをすぐそこに見ながら北上した。一つ一つの谷がなだらかな優しいスロープのようになって、輝くばかりの日差しを受けながら、雪煙一つ上げず、穏やかさに、人間を誘っていた。

 ふと英語の「マウスリーウム(mausoleum)という単語を思い出した。霊廟(れいびょう)というほどの意味であろうか。特殊な単語だから、数年に一度くらいしか出くわさない。マッキンリーはまさに、植村氏や、そこで倒れた山男たちの巨大な奥津城(おくつぎ)であった。

 これほどみごとな墓を持つ人は、世界で数百人しかいないだろう。何れも山で死に、遺体の見つからない人たちである。語源になったマウソロスの墓はどんなだったのか、私は知識がないのだが、インドのタジマハールはムムタズ・マハール妃の廃兵院はナポレオンの、何れも豪華な墓だが、このマッキンリーの清冽、豪華、雄大さからみたら、小屋みたいなものである。

 マッキンリーについて、私はごく最近『ニューズウィーク』から極めて要領よく纏(まと)められた多くの知識を得た。

 マッキンリーは、エベレストより二千メートル以上も低い山である。私が飛行機の中から見た通り、山の傾斜もそれほどきつくはないのだという。しかしこの山は北極圏にあるために、厳しい寒気と烈風に見舞われやすい。

 一九三二年以来、エベレストで死んだ人の数は約百人、マッキンリーは七十一人である。頂上を極めた人は、エベレストで三百八十六人、マッキンリーが七千百七十二人だという。それにしても山というものは、実に多くの死者を出すものである。その理由は、山が、自然そのものであるからだ。

 私は自然ほど恐ろしいものはない、と思っている。恐れる必要がなくても、多くの場合不快なもの、人間の生を脅かすものであることが多い。
 蟻、蚊、ブヨ、などの野外にいて人を刺す虫、南京虫や家ダニやノミや虱(シラミ)のような屋内の虫、などに酷くやられた経験を持つ人は今は少なくなってしまった。家ダニや蚊や蜂くらいまでは経験したことがあるだろうが、それ以外になると、スリラー映画の世界の話で、自分たちには関係ない、と思っているから、「自然を守ろう」などと気楽に言えるのである。

 日本の環境保護主義者たちが、その保存を願ってやまない熱帯雨林がどういう所か、どれほどの人が知っているのだろう。とにかく、そこは恐ろしく湿気ていて、ヒルやダニや蚊などの凄まじい虫類、猛毒のある爬虫類の支配する世界なのである。

 偶然私は、ニューギニア以外の、世界中の熱帯雨林に入ったことがある。それでも、その自然の中で「生活」したことがあるとは言えない。夜は冷房のある部屋に泊まり、充分に下界の脅威を防備できる衣服を身に着けていたが、やはり外を歩けば、その湿気と暑さに耐え、虫に刺されて痒くて眠れない夜も出てくる。水には極度に気を付けていて、生野菜など何日でもまったく口にしないようにしていたが、それでも「水当たり」と思われる独特の間歇(かんけつ)性の胃痛に苦しめられることは毎度であった。

 ブラジルの移民さんたちが、むかしアマゾン地区に入植した後の生活というのを聞かされたことがある。何よりも忘れられないのは、凄まじい蚊のために昼でもご飯を食べる時には、日本から持参した蚊帳を吊らなければならない、という話であった。自然は彼らにとってとうてい「愛好」などできるものでなかったのである。そのままにしていたら、自然と人間のどちらが勝つか、というものであった。

 だから熱帯雨林で人が住もうとしたら、まず、林を切り拓いて、虫や動物が好んで棲む湿気空間を、人間の住処から一メートルでも遠ざけねばならない。それはアマゾンだけではない。シンガポールを開いた英国人・ラッフルズが住んだ家の光景が、有名な版画になって残っている。それはお供えの餅のようなかっこうをした剥き出しの丸い丘の上に建てられた洋館だが、その光景の持つ意味を私が理解したのは、或る年の雨期をシンガポールで過ごしてからであった。

 酷い湿気であった。家中のものが黴(か)びた。冷房で湿度を取っていなかったら、総てのものが湿気で腐るのが目に見えそうだった。信じられなかったのは、毎日履いて歩いている靴底の皮が厚みの部分にまで青カビが生えることであった。

 ラッフルズはつまり、湿度を避けるために、丘の上の木も切り払った吹きさらしのように見える場所に住んでいるのである。森は文句なく、人間の居住を許さない要素を持っているから、人間は木を切ることで、僅かな「人間領」を確保したのである。ラッフルズは、それより前に、スマトラのベンクーレンという所で、数ヶ月の間に三人の幼い子供を立て続けに死なせた。彼らは皆自然に殺されたのである。

 自然を破壊しているのは、日本のような先進国だけではない。インドでは実に八億人の人口の九〇パーセントの人が薪で煮炊きをしている。森の破壊者のもっとも大きな協力者は、経済が破綻している国の貧しい人々である。彼らは、すべて煮炊きを薪でする。誰もが考える事は同じ、薪を集めるのに、そんなに遠くまで行くのは真っ平ごめんなのだ。だからできるだけ近くの木を切って来て、今日に間に合わせる。その燃やした木が、どこにどのような目的で植えられていたかなどは、考えようとしない。

 私が直接に知ったささやかに悲しいケースは、マダガスカルで人々のために働いていたカトリックの神父が、自分の教会の庭に育てて、やっと実がなり始めたばかりのコーヒーの木を、夜中の内に誰かに切られてしまったことであった。貧しい信者の誰かが、翌日の煮炊きの薪にしようとして、手近な所から切ったのである。そのコーヒーの木は、自分の国に生えたもので、誰の所有であろうと、木を切る事の損失は、自分たちの国家の損失、実がなるまでかかった貴重な年月の損失だと考える力が彼らにはないのである。アフリカの一部の人々は、そのようなことをして、自分の手の指を、自分で切るような無駄なことをしている。

 しかし彼らは、それほどに手近な所で燃料用の木が欲しいのである。飢餓と燃料不足とは、必ず連動して出現するもののように見える。だからほんとうに飢えている国の人々は、リオのNGOのお祭り騒ぎに参加することはせず、ひたすら先のことなど考えずに、煮炊き用の木を、どうしたら人を出し抜いて一番手近なところで工面できるか考えているのである。

 自然は日本人が考えているほど生易しいものではない。
 インドでは、私は、二回砂嵐を体験したが、初めての時は、危うく眼をだめにするところだった。砂嵐が始まると、二メートル先も見えなくなる。人も動物も、どこかの遮蔽(しゃへい)物の陰に身を隠さねばならない。すべての予定された行動は出来なくなるのである。自動車も走ることは出来ない。仮に無理して走ると、フロント・ガラスが一度で擦りガラスになって翌日から使えなくなる。

 砂嵐と共に私はコンタクト・レンズを直ぐに眼から外したのだが、約二時間後に嵐が収まった時、再び装着したのが大きな間違いであった。人間の感覚に感じられないほどの微細な空中の塵は、嵐の後も数時間は浮遊しているらしく、それが私の角膜とレンズの間に入って角膜を傷つけた。私の眼はやがて激しい痛み、その日は顔も洗えず服も脱げないほどになった。その時、化膿を防ぐ目薬がなければ、私の眼はインドの田舎で潰れていたかもしれない。コンタクト・レンズも所詮は文明社会においてのみ使用可能なものだったのである。

 たまたま昨日のニュースは、釧路の湿原を守る運動が始まったことを報じていて、私は感慨無量であった。

 湿原、沼、と言えば、世界的に、人間の健康を害するもの、と今でも相場が決まっているのである。湿原があれば、まずマラリアの恐れがあり、その他、リュウマチやら結核やらの原因になりやすい。第一そんなところには家も建たない。そのため、人たちはどうしたら湿地を乾いた土地にできるかを数千年にわたって真剣に考えてきたのである。湿地にして置けばいいなどという考え方は、それこそ無為無策というものであり、人間の健康を考えないことであった。

 私は湿原を残すことに反対ではないのである。釧路市の観光がそれで成り立つなら、そうすることがいいだろうし、第一、湿原の近くに住まない私たちが、それを「見物」に行っていいなら、楽しいことである。しかしもし教育が、人類が湿原によって如何に苦しめられ、湿原を追放するのに、どれだけ長い年月闘って来たかを教えずに、ただやみくもに自然を保つのがいいだのという流行になったら、それは愚かというものであろう。

 世界的に、湿地を改良するためには、ユーカリという木を植えるのもその一つの方法だった。今、聖書のべんきょうにイスラエルなどへ行くと、あちこちでそのユーカリの木が、すばらしい並木や木陰になっているのを見る。しかしその度に私は同行の若い人たちに言わねばならないことがある。

「イエス時代には、この木はなかったのよ。だからこれは新しい光景なのよ」
 そして今日は、堺市が、市で発注する建設現場では、コンクリートの型枠に南洋材の使用を制限することにした、という。工業の基盤のない「南洋」で、南洋材を買ってもらえなくなったら人々はどうなるのだろう。彼らはますます貧しくなり、労働の意欲を失い、人間を失い、現実に死んでさえ行くだろう。堺市のようなやり方こそ、最近の流行的思考の無責任な幼児性を示している。

 南洋材は切って売って土地の経済を活性化させ、しかし後で必ず木を植えることを考えればいいのだ。それもできるだけいい森を存続させるには、どのようなテンポで、どのような植林や保林をしたらいいか、今後も研究を続け、土地の人々に教え、それが実行されるように手助けするのが日本の任務であろう。

 地球のエネルギーをどう使うか、原子力がいいのか、石油に頼るのか。安全面と経済性の兼ね合いは、どう考えたらいいのか。国際政治の不安定をどの程度エネルギー問題に加えて考えなければいけないのか。太陽光や波などのエネルギーが実用になるのは、何年頃なのか。発展途上国と先進国とは、限りあるエネルギーを、どう分けあえばいいのか。正直に言って、そういう問題は素人が答えを出せるものではない。その専門の官庁では、専門の人たちが、それこそ衆知を結集し、あらゆるデータを集めて気の遠くなるような計算を続けている現実を私はよく知っている。リオに集まった素人たちが、握手したり、誓ったり、共に歌ったり声明文を出したりして、解決できることとは違う。

 ただ私たちが痛み分けをする気持ちを常に持つことは、基本的に必要な徳である。それは教育や宗教の問題であって、素人が「外国のNGOと連携を深め」る程度でやっていけるものでもなければ、「外国のNGOに日本が経済的な援助を」すればできる問題でもない。少なくとも、私そんな甘い金の使い道には、決して財布のひもを緩めないだろう。そんなふうにして金を出せば、それはNGOを食い物にしようという外国の個人や組織に、いいように誤魔化されて使われるだけである。

 今世界には難民業という業について、働かずに食べている人々がかなりいる。本当の難民もいるが、業になった難民もいるのである。そこへ今度は、環境保全業という新しい詐欺が可能になったと私は見ている。最近、急に火の付いた感のある環境保護の熱病が、私にそのことを予感させるのである。この熱病は、しばらくの間、悪性の伝染病より恐ろしい魔女狩りのように世界を吹き荒れるだろう。そういう人たちに、私がたった一つ願うのは、アマゾンかボルネオの完全な自然の中で、最低三ヶ月は森の真ん中で暮らして頂きたいということだ。その体験なしに自然保護の合唱もないと思われる。

 しかし、夢中になって畑を作り、木や花を植えている。「緑の指」(英語では、植物を育てるのが上手い人を、こういう表現で呼ぶそうだ)の持つ主である私としては、人間が木や花と共存することは、当然のことである。切るべき場所と時期にはきちんと森を切って開発を促し、その代わり切ったら植え、そこに住む人の健康と経済を考え、その上で妥協の産物としての答えを迷いながら出す他はない。こうしたら絶対にいいということはないのである。

 植村直己さんが亡くなったマッキンリーで登頂に失敗して救助され、凍傷にかかって両足を切断しなければならなかったポーランドの青年登山家が言ったという言葉が、私の胸をうつ。

「山の上では、人生がとてもはっきりと見えるんだ」
 彼は再び来年、もう一度頂上を目指すつもりでいるという。
 人生が見える、というのは、いい言葉である。私も人生が一瞬火花のように見えた、と思った時がある。それは、サハラを横断した時、水の一滴もない千四百八十キロの砂漠の中心部で満月を迎えた夜であった。手つかずの自然は、多くの場合人を殺すのだが、時には人は死にかけても人生を見たいと思うのである。自然とはそういうすさまじい友である。
 (一九九二・八)

赤ちゃんつき秘書

 昔から、私は誰かと共同作業をするのがどうしても苦手な性格であった。それがいいと思っているわけではないが、仕方がない。そこで、一人でできる作家という仕事を選んだのだが、アメリカなどに行くと、日本よりもっと、社交的であること、コミュニティに交わること、皆と一緒に楽しむことがいいとされているので、当惑することが多い。アメリカでは、行動する女たちも、やはり文句なくいいことをしているつもりらしく、夫たちも表向きは支持している。こういう空気にも私はついていけないのである。

 私はフェミズム運動というものも、集団でやるという点おいて体質的に嫌いである。そしてフエミニズム運動に、むしろ差別的なものを感じている。

 同性が、社会の下積みになっているのを放置していいというのではない。私は、結婚生活においても社会生活においても、「男がしていいことがどうして女に悪いのよ」という単純明快な論理を押し通して来たつもりなのである。しかしとにかく、私は団体でものを言うことが嫌いなうえに、女だけがフエミニズム運動のために集まるという光景も、不自然だから好きになれない。人間の生活の形態は、男も女も、老人も子どもも、適当に混ざっている、という状態が普通だから、女だけが集まる場所というものを、異様に感じる。だから私は「女性の」と但し書きのつく集まりは、講演会でも引き受けない。男も女もない。誰もが抱えている人間としての問題があるはずだからだ。

 一般的に見ても、グループを作って権利を勝ち取るという形は、実力ではない。むしろ悪い意味で非常に女性的なやり口であろう。フエミニズムは、そこに女性がいなくてはやっていけない、むしろ女性はそのことをうまくやる人が多い、という形で達成することだ。

 人間は実利的なものだから、女がいてくれることの方が仕事もうまく行き環境もよくなるとなったら、誰もが女性にその仕事をしてもらいたいと思うし、既にいい仕事をしている人を、女性だからといって追い出したりするわけではないのである。社会的にも、その方が評判が良くなるのだから、なおさらである。

 私は何事でも保護主義というものが好きではない。もちろん基本において守らなければ、その芽までが枯れてしまうことはある。日本では、第二次世界大戦後にできた憲法で、男女同権をはっきりうたった。しかしアメリカの憲法にはその条項がないのだから、アメリカの女性たちはフエミニズム運動に熱心になるのだろう。
 しかし憲法にうたわれていることが、実社会でいかに定着するか、ということは、当事者の問題である。私の知り合いのいくつかの会社に聞くと、表向きの男女の賃金には格差がないという所が多い。しかしこういう答えをまともに聞くわけにはいかない。女性は会社で責任ある地位に就く率は極めて低い。アメリカでも同じだという。

 それは、男性の女性に対する偏見と差別だと、フエミニズムの人たちは言う。しかし私は他にも理由はある、と思うのだ。私は今までに見知らぬ会社に電話をかけて、出てきた女性から要領よくテキパキした答えを得た、と思った記憶は、本当に数少ない。
「これこれのことについて伺いたいのですが、あなたでよろしいですか。もし、他に専門の方がおられるなら、その方に言いますけど」
 と言うと。
「どうぞ仰ってください」
 と言うので、一、二分かけて説明する。そしてやっと説明を終わると、相手が、
「ちょっとお待ちください」
 と言い、別の人物が現れて、
「どういうご用件でしょうか」
 となるのが終始である。それが時間の無駄だと思うから、初めに必ず「あなたでいいですか」と聞いているのだ。どうして女には、裁量権や専門的な説明をする能力がないのか。これで男女同権みないものだ、と思う。
 管轄外で自分には答える力がないと思ったら、すばやく、
「ちょっとお待ちください。ただいま係の者と代わります、その者に仰ってください」
 と言えばいいことなのだ。むしろそれこそがプロの姿勢である。つまり女性には、そのポストで専門職になり切っている人が、あまりにも少ないのである。

 男には知識の塊という人も多いが、私は自分を初めとして、女でそういう人に滅多に会わない。多分それは勉強が足りないからだろう。しかし一方で、女性で家事の達人という人には終始会う。私も料理は決して下手ではないのだが、戦争中、疎開していた金沢の県立女学校の同級生も、私が幼稚園から大学まで通った東京のカトリックの学校の親友たちも、料理は実にうまい。だから、女性には能力があるのだ。しかし、家庭で料理を作るのが上手い人が、必ずしもオフィスで組織を動かすのもうまいとは限らない。小説を書くことには馴れていても、組織を動かすすべは全く知らない人も沢山いる。しかしたとえそうであっても、本業がしっかりしていれば、別に瑕瑾(かきん)とはいえない。

 人間に向きというものがあるなら、一つの職場で、誰もが同じ能力を示すわけはない。能力が同じと見なす方が、むしろ社会主義的な悪平等である。どんな人も同じに待遇しろ、という理論が、逆に差別を生む。

 何度も書いているのだが、私は生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている女性などを、とても秘書には使えない。赤ちゃんが病気だと言えば、すぐに家に帰さなければならないからだ。そんな半端人足では、私のようないい加減な家内工業の秘書さえ、とてもやっていけない。仕事は福祉事業ではないのである。

 子供を職場に連れて来るのも、新しい女にとって当然の権利、という意見が世間を賑わしたこともあった。そういう甘い話を聞くと、そんな程度だから、女性に仕事はできないのだ、と思う。もちろん今の時代はどんな思想を持つことも許されているのだから、私は普通は黙っていて「どうぞ自由に、ただうちでは、赤ちゃん連れの女性は雇わないな」と秘かに思っていたのである。

 子供連れで働きに来ても通るとしたら、それは未熟練労働の世界である。また、他の人とは全く関係がない野良仕事だったら、赤ちゃんを畦(あぜ)道に寝かせておきながら自分のペースで仕事をすることも可能である。しかし、他人と密接に係わっている多くの仕事は、赤ちゃん込みで仕事をするようなのんびりとしたものではない、自分にとって目の中に入れても痛くないかわいい子どもだから、他人も同じように感じてくれているだろう、と思う事が、既に女性のやり切れない甘さと愚かさというものである。

 私は赤ちゃんが大好きだ、秘書が赤ちゃんを連れてきたらやはり仕事はできない。改めて言うのは恥ずかしいが、赤ちゃんの鳴き声の中で書けるほど、小説というものは粗雑なものではない。それに大切なのは、小説より赤ちゃんの命だとはきり思うから、泣かれるだけで仕事に差し支えるのである。

 私は決して職場に育児施設を併設すねことに反対しているわけではない。赤ちゃんを預かる設備を会社毎に作ってくれたら、毎日毎日、仕事前に赤ちゃんを保育所に連れて行く不安や疲労から、母親たちは解放される。しかしそれもあくまでも未熟練作業の場合である。女が男と同じ程度に、夜勤や出張や転勤、厳しい研究、激しい外交的活動、会社の建て直し、など言ったものを全てやり遂げながら、自らの手で育児することは不可能である。赤ちゃんを連れて、ヨットで数年もかかる世界一周をしたり、エベレストに登ったりするというのも、仮にできたとしても、やはりどこか不自然である。

 女性に能力がないのではないが、子育てをしながら男と同じ働きはできないのだ。それにも係わらず、同じだと見直せ、ということは、初めからおかしい。しかし、同じでない、と言えば、そこで激しく怒られ、世間からも時代に逆行する反逆者と見なされるから、男たちは男女の労働の質や量に基本的な差はない、と言い続ける。そしてそういう嘘を認めなければならないような相手、つまり女とはそれなく組まないでおこう、という気に、私ならなるだろう、と思う。

 何か自分で独特な解決策を立てない限り、女性は子どもを育てる間に、一時、仕事を離れて子育てに専念するほうが自然であり、幸福である。それは少しでも能力のなさを示すことにはならない。独特の解決策、というのは、同じような立場の女性と組んで人を雇うとか、実母や姑と同居して子供を見てもらうとか言う事である。

 そんなことを言っても、働かなければ子供を養えない、というケースもあるから、その場合には、一定期間、国家が補助を与えること、再就職の制度を整えること、職場に育児施設を併設すること、など考えるべきである。しかし会社に子供を連れて来て、仕事よりそちらに気を奪われている女性を、仕事に打ち込んでいる人と同じ待遇をする、という思想の方が、ずっと公正を欠くことだと、私は思っている。

 子供を産む、ことだけが、女性に余計に負わされている仕事だと言うが、だから、多くの男は女性の生活を見ることを承認してきたのである。そんなことを言うなら、男にだけ負わされている仕事もある。多くの力仕事がそれである。男だけが、力を出して働くのはつまらないから、女もそれをやれ、とは誰も言わない。

 先日、初めてカナダでロデオといものを見た。
 中に何人もの、女性の名騎手も登場したので、私は嬉しくなってしまった。アクロバット・ライディングなどなると、男でもそれだけ乗りこなすことができない、という境地にまで達する。疾走する馬の上に立ち上がったり、馬と全く平行に体をおいて敵から身を守ったり、息を吞むような技術である。フエミニズムなど叫ばなくても、こういう女性には男といえども、頭が上がらないだろうと思う。

 セクハラの問題に関して、世の中には確かに無作法な男が多いことも事実である。教養もなく、話題といえば卑猥なもので、すぐ体に触ったりする男を、それが男性的な現れだとして許容する野蛮な社会があったことも事実である。

 しかし女の方にも、セクハラを受けそうな状況を避ける技術もいる。もちろん、いくら掏模(スリ)を避ける用心をしても掏られることがあるように、セクハラを避ける方法を教えても、そういう目に遭うことはあるだろう。だから、その場合は満座の中でひっぱたくことか、恥をかかすような言葉を投げかけるとかいう技術を知らなければならない。

 しかし、人間はどんな世界で、どちらの性を取って生きていても、何らかの被害を受けることはあるのだ。女性だけが受ける性的被害もあるが、ヤクザに絡まれて命を落とすのは殆どが男である。

 掏模の被害を完全に無くすることはこの世ではできないが、被害を減らすことは可能である。それと同じ程度に、男と女が、いつもいささかの異性を意識しつつも、それを超えた人間として気持のいい関係を作る事は不可能なことではない、と私は思う。

 私も若い時から、男たちと混ざって仕事をしてきた。泊まり込みで数週間も取材をしたこともある。そういう時、私は私なりに、男女の区別のない爽やかな関係を保とうと考えたものであった。私は自分をユーモラスな立場に置くことが割とうまかったから、男たちと会うと、三十分以内に、あの人は、すてきではないが滑稽で気楽な人だ、という印象を与えることに大体成功できたのである。

徹底して女を意識しつつ仕事をする人もいる。私のように女を消して(などと言わなくても、初めからそのケは薄いからダイジョブ、とも言われた)男と女の関係でない人間の関係を確立する方が気楽だなあ、という選択をする者もいる。いずれにせよ。その境地を得るために、人は常にいささか戦法を考えて闘うものだろう。

 痴漢を、弄(もてあそ)ぶ女たちの投書を読んだこともあるし、極度にそういう人間関係を嫌って尼寺に入る人もいる。やり方はさまざまあるが、或る望ましい境地というものは、他人によって用意されるものを待つのではなく、自分で闘い取るという姿勢がいるだろう。

 はっきり言うと、フエミニズム運動ほど、悪い意味で女性的なものはない。フエミニズムは、本当の男女平等を生きようとする者の足を引っ張る働きさえする。

 一番耐えがたい点は、フエミニズムはいつも他罰的な表現を取ることである。自分か悪かった点には一切触れず、相手が悪いからこうなった、と相手に責任を擦り付ける姿勢である。アメリカがジャパン・ハッシングをしている間は、アメリカは決して経済を根本から建て直すことは不可能だろう。自分が問題の解決者になろうとしない限り、問題が取り除かれることはない。フエミニズムには誰も表立って反対を唱えないから、その運動はますますいい気分で続行される。しかし、それが続くほど、男たちはうんざりしている。

 再びアメリカを引き合いに出すが、アメリカのもっとも愚かしかった点は、アメリカの多くの企業の代表者が「アメリカの産物はいいものだから、もっと買え」と言ったことである。アメリカの産物がいいかどうか決めるのは、日米双方の消費者である。だからアメリカの企業家のこういう「女性的な言い方」は、日本人の冷笑を買ったのである。ほんとうにいいものなら、日本国家が買うな、と国民に命じても、私などは密輸しても買うだろう。買わない時は、品物に魅力がない時である。しかしアメリカの企業人は、この点を、実にフエミニズムと似た言い方で解決しようとしたのである。

病醜のダミアン

 人間というものは、必ずいささかの悪と共存しなくては、生きていけない存在だと思い始めてたのは、もう子供の時からのような気がする。

 大体、人間はものを食べるし、その結果排泄もする。地球をきれいにするなら、人間の存在そのものをやめるのが一番いい。やめないのなら、せめて死んだあと、お棺にいれて燃やすなどという勿体ないことをしてはいけない。お棺は木でできているから、自然破壊の一つの行為である。その上、燃やすということも、エネルギーを消費し、大気汚染に加担することになる。遺体はすべて化学工場で分解して、有機肥料にして、生きている自分の子孫のために役立てるくらいのことを提案する環境保護主義者がいてもいいと思うのだが、そういう場合になると、人間の尊厳に関する議論ばかり出て来て、環境保護の話は全く後退してしまうのが不思議である。

 人間は常にいささかの悪をしながら、時にはかなりの善をなすこともできる。この感覚が大切だと私は思っている。自分の内部におけるこの善悪の配分の時に必ず起きる、一抹の不純さの自覚が、人間を作るのである。
 ところが戦後の平和がこんなに長く続くと、口先だけの理想論がけっこう幅を利かせるようになって、私は居心地が悪くなってきたのである。そんなことは、今穏やかな時代だから言えることなのよ。あなたは、自分が生きるか死ぬか、ということになっても、まだ目の前の敵に人道的配慮ができると思う? など聞いても、こういう人に限っていささかも自分の弱さに対する自覚がないから、
「当たり前です。私はどんなことがあっても人を殺しません。それに皆が平和を願えば、平和になるんです」
 などと信念を持って言うから、もう話は続かないのである。

 すべて人間に関することは不純である。一〇〇パーセントということは、科学にしかない。それが分かっているから、善人と悪人がはっきりしているような芝居と小説は芸術とは認めがたいと思うのである。

 そんなことはわかり切っているにも拘わらず、この人間の不透明な姿を、それが真実だからと言って表現しようとすれば、人間性の敵として槍玉に挙げられるのは、今も同じである。そしてその先棒を担ぐのは、常にマスコミ、特に新聞であった。

 こういう例を見つけるのは簡単だが、今この原稿を書いているのは旅先なので、たまたま手元にある資料を使う外はない。

 以下すべての引用が毎日新聞の記事であるのは、毎日新聞社発行の『昭和史全記録』という本にのっているからで、別に他意はない。

 一九八六年九月上旬、当時文部大臣・藤尾正行氏の罷免事件というのが起きた。
「9・5 来る十日発売の月刊『文芸春秋』のインタビュー記事『”放言大臣”大いに吠える』で、藤尾正行文相が日韓併合について『韓国側にはやはりいくらかの責任なり、考えるべき点はあると思う』と発言したことが明らかに。また藤尾文相は靖国神社公式参拝の見送りには『A級戦犯の合祀をやめることで事態を解決しようとした中曾根首相の姿勢はおかしい』と述べ、さらに南京虐殺事件について『殺した数で侵略の激しさを云々するのは妥当ではない』と発言」

「9・6 韓国の李駐日公使は外務省を訪れ、藤尾発言について『事実なら日韓国交正常化以来、最大の事件である。日本政府はどう対応するのか』と激しく抗議(後略)」
「9・7 中曾根首相は『はなはだ遺憾だ。しかるべく善後措置を取りたい』と述べた」
「9・8 韓国の曽外相が御巫駐韓大使に『極めて遺憾。納得いく措置を』と正式に抗議し、十日に予定されていた日韓外相会談延期を申し入れた。金丸副総理、安部自民党総務会長らが藤尾文相に自発的辞任を促したが、『私をどうか打ち首、罷免していただきたいと申し上げてきた』と拒否。中曾根首相は藤尾文相を罷免。三十二年ぶりの閣僚罷免となる」

 それから日本の中には、謝罪の大合唱が始まる。官房長官が謝り、倉成外相が遺憾の意を表明し、総理もアジア競技大会開会式出席のために訪韓した時、全斗煥大統領に会って陳謝する。一方、文藝春秋は、雑誌発行前に、後藤田官房長官の代理として外務省の藤田公郎アジア局長が、削除を、訂正を求めてきたことをすっぱ抜き、それは「言論、出版の自由、検閲の禁止に違反する」と中曾根首相と官房長官に、抗議文を郵送した、という経緯を公表した。

 韓国には韓国の外交上の立場があるから、私たちはそれに対して何も言うべきではない。しかし藤尾氏の言葉は、全く正しいと私は思う。藤尾氏は、日本が韓国を領有したのが正しいなど言っているのではないである。氏は韓国側の「いささかの責任と考えるべき点」について指摘しただけである。これは当然のことであろう。

 どんな些細な事件や事故、政治的経過にしても、このような部分が全くないものを探す方が難しい。
 普通の交通事故の場合を考えて見ると、もちろん加害者が九九パーセント悪いケースがほとんどであろう。それでも、被害者が横断歩道でない所を渡っていたとか、現場に駐車違反の車が停まっていたので見通しが悪くなっていたとか、どこで責任が分散されている場合も実に多い。

 もっとも、全くそうでないケースもたまにある。私の記憶の中に今での残っているは、気の毒な一台のタクシーのことである。その不運なタクシーは、東京の或る交差点に止まっていた。その上に、頭上の高速道度から大型の冷凍車が落ちて来て、タクシーは押しつぶされたのである。加害者となった冷凍車は速度を出し過ぎてカーヴを曲がり切れなり、路肩の塀を潰して、下に転落したのだという。

 しかし普通の社会で起きる事件では、一方に全く非がない、というのは通常稀である。
そのことを藤尾氏は言われたかったのであろう。その時期に、それを言うことの是非は別の問題である。相手の立場も心もある。しかし世間も新聞も、ことをけしかけるだけで、あまりに正当な見方もものの言い方もしないと、つい自分の政治的生命をかけても、本当のことも言わなければならないことも多い。藤尾氏も、自分から好んでその仕事に就かれたのだから、傍がご同情申し上げることではない。

 韓国と日本は一番深い仲の隣国として共存を図らねばならい間柄なのである。近くの国は、共にはっきりと個性を保ちつつ、繫栄していかなければならない。それこそが安全に繫がる道であるし、親友や近隣の家庭が、共に健康と経済的にも安定している方が、こちらも幸せだ、という庶民的な感覚と通じている。韓国と日本は、そのどちらが体力を失っても少しもいいことはない。そのことを両国民が冷静に理解することは実に大切なことなのである。

 日本人が現実を直視するのを嫌うようになった証拠は、一九八六年一一月の、次のようなニュースにも現れている。

「ハンセン病患者の救済に身を捧げ、自らも発病、死亡したベルギー人神父をモデルとしたブロンズ彫刻の傑作『病醜のダミアン』=昭和五十年舟越保武氏(七十四)作=を展示していた埼玉県立近代美術館が『展示は病気への誤解、偏見を生む』という元患者の社会復帰者がつくる団体の訴えで、彫像を三年近くも撤去していたことが明らかに。同じ像を展示する岩手県立博物館と兵庫県立美術館は、同団体の撤去要請に対し『愛の気高さにあふれる作品』と拒否している」

 ダミアン神父はハワイのモロカイ島に、ハンセン病患者たちの村を開いた。そしてまだ、治療法もない時代だったので、最期は同じ病気に倒れて亡くなった。像はその崩れた顔を表していた。

 ハンセン病は完全に過去の病気である。今では、仮に発病したとしても「水虫より簡単に」治るという。病気は伝染して長い潜伏期間を持つが、その間の生活状態が問題で、日本人のように栄養状態がいいと、菌が入ってもほとんど発病しない。万が一発病しても、二週間もあれば完治する。

 ただ問題は、薬の発見以前に、病気の一症状としての神経の麻痺の結果、怪我をした箇所から膿んで指が欠けたり、顔に変形が来たり、視力を失ったりした患者さんたちの現状である。そういう方たちは、外見上の後遺症のために、働きなさいと言っても、なかなか外部に職場を見つけて、周囲に適応することは難しい。ハンセン病の患者さんたちは、総じて体がやはり弱いのである。

 ダミアン神父にとって、病気は神からの特別な贈り物であった。病を通じて、彼は周囲の人々と同じになり、その苦しみを分かち、神の道具となった。病気は神父を完成へと導いた。その姿に舟越氏も、それを見る私たちもうたれるのである。

 誤解・偏見はいかなるものにもついて廻る。それを恐れていては、いかなることにも触れることが出来なくなる。私たちは現世にあることには、総て目を背けてはならないのである。

 もしダミアン神父がハンセン病にかからなかったら、神父はただの神父だったかもしれない。これは失礼な言葉だということを、私は知っている。しかし神父は、自分もハンセン病にかかったからこそ、誰にも単純明快に、人が人に尽くすとはどういうことかを見せられたのである。だから像は、健康な時代の神父ではなく、病に崩れた顔を持つ神父でなければならないのである。

 この患者さんたちのグループのような考え方こそ、差別だと私は思う。人間の精神の崇高さは、病気とも、人生の栄達とも、関係ない。病気そのものをいいというわけではないが、人間の偉大さは、むしろ病気の時にこそはっきりと現れる。それを一番はっきりと理解するのは、病気と闘った人たちの筈だ。

 埼玉県立美術館が、典型的な「人道主義風事なかれ主義」を取っても、岩手県立博物館と兵庫県立近代美術館がそれに抵抗したことは、立派である。

 どんなに政治的・社会的に地球と社会が整備されても、人間に内蔵された本性の中には、矛盾が残っている。それが暗さ、辛さ、不安となって残る。しかしそれらのものがないと、人間はたちどころに後退し、頽廃し、もっと悲惨な精神の荒廃を体験するからであろう。そして芸術とは、人生の暗さを直視し、人間の辛さを仮借なく再現する使命を帯びている。そのことを、子供にも、私たちはハッキリと教えなくてはならないと、と私は思っている。

 あまりの単純さに、ユーモラスな感じさえするのは、一九七三年の十一月十七日の記事である。

 その日、羽田空港にブラジルの日本移民三家族十四人が帰国した。まだ成田空港がなかった時代の話である。彼らは沖縄出身で、ブラジルのいわゆる”勝ち組”であった。つまり戦争が終わっても、日本が負けるはずがない、と信じていた人達である。日本が負けたとする”負け組”の人たちと、この”勝ち組”の人たちとが、激しく対立した話は有名である。記事によると、

「一行は羽田で『天皇陛下万歳』を三唱。『日本が負けるわけがない。ここ(羽田)の賑わいを見て、改めて勝ったことが分かった』と言い切った。三家族がこれから沖縄で生活するが、帰国を促した人は『真実がわかったときのショックが心配だ』」
 と発言している。
 負け組の勝ち組の話は、一九六〇年、ブラジルへ行った時、さんざん聞かされたものであった。誰でも祖国が繫栄していてもらいたいという思いはあるだろう。それが、これほどまでに解釈が対立し、憎悪が深まり、血を見るほどの争いになったのは、どうしてですか? と私は質問したのである。すると何人かの人がほぼ同じような答えを与えてくれた。それによると、ブラジルで成功している人は負け組、うまく行かなかった人は勝ち組になったというのである。

「祖国はうまくいってほしい。しかしここでの自分の暮らしがちゃんとしていれば、仕方ない、と思うようになるんです。中には、負けた祖国の復興に手を貸さなければならない人は、自分の拠り所を無くしてしまっているでしょう。せめて、祖国がきちんとしていてもらわないと、自分の立場がなくなってしまうんです。だから何としても日本の敗戦を信じない。貧乏をしていても『俺は日本人なんだぞ』と言いたいんですね」

 羽田で一行を迎えた人の心は、本当に複雑であったろう。この三家族は、戦後の沖縄で、あれほど憎まれている天皇のために万歳を三唱した。この三家族は、一九七三年に戦前の日本を持ち込んだのである。それは、終戦までは沖縄でも、他の平均的なに日本人同様、天皇を愛していた、いや愛さねばならなかった、という事実であった。

 ここで欠落しているのは、日本は負けたから繁栄したという不思議な理論である。もし日本が勝っていたら、とても昭和四十八年の繁栄はなかったであろう。どんな風になっていたかと言われると困るが、日本が勝つということは、アメリカが負けたという事だから、日本人が、アメリカの文化に刺激を受けて、意識の上でも民主的な路線を辿ったとは思えないし、生活のレベルの上でも、各家庭が電話やテレビや自動車を持つような生活をするようになったとは思えない。

 一人の人間の中に善と悪が同居し、一つの事件の背後にどれだけ矛盾する原因があるかを知ることが、私の知的楽しみなのだが、この点でいつも道徳的な世間とぶつかるのがコマルのである。
   (一九九二・十)

 風景の一面

 この夏、私は南ア政府の招待を受けて、二週間にわたって三つの町、ヨハネスブルク、ケープタウン、ダーバンを訪問した。そこで私は多くの南ア人と日本人に会い、自由で素直で親切な解説を受け、立ち入りの難しいブラック(黒人)の住む地区まで連れて行ってもらった。

 どこの国についても短い滞在の間に見聞きしたことを書くのは非常に難しいものだが、南アは際立って困難な国のように思う。南アを書こうとすれば、そこには幾つかの固定した姿勢が用意されているからである。

 今まで私が日本で読んだ本のうちの典型的なものは、アパルトヘイトの非人間性をうたい、無辜(むこ)のブラックがいかに虐げられてきたかを書くという姿勢に徹していた。これが一番、読者に理解し易い形だからであろう。そこには「人道的な姿勢」が歴然としており、読者は抑圧する側に義憤を抱き、抑圧される対象に同情を抱くという定型によって、自分が人間としてどれほど温かい心の持主であるかを保証することができるのである。

 ロングアイランド大学の英文学教授であり、アフリカの文学の研究者であるマーティン・タッカーはその著書『Africa in Modern Literature』日本語訳では『アフリカ 文学的イメージ』(山崎勉氏訳、彩流社)の中で次のように分類している。

「一九〇〇年以降の英語文学に映し出された南アフリカは幾つかの映像を持っている。その文学は次の三つのグループに分類できよう。即ち、(1)孤独の文学、(2)暴力の文学、(3)寛恕(かんじょ)の文学、である」
 孤独の文学を代表するのは、有名なオリーヴ・シュライナーの『アフリカ農園物語』だと言う。「アフリカの田舎では、白人も黒人も、じっと苦痛に耐えながら、等しく持っているのだ。人種間の対立という致命的な問題が爆発するのは都市だけである。南アフリカ文学にあって、人種問題が最も縁の薄いのが、この孤独の文学なのである」とタッカーは書いている。

 暴力の文学は南アの社会的緊張から出て来るフラストレーションの爆発を取り上げたもので、「左右いずれの作品たるを問わず、ボーア人の側に立つものであれ黒人の側に立つものであれ、プロパガンダ的な文学に堕す傾向がある」とタッカーは言う。このグループに属するほとんどの作家は南アの原住民、つまりブラックである。

 寛恕(かんじょ)の文学は、主に舞台を「社会的な調和を乱すさまざまな障害物のある都市」においているという。その中の一人ナディン・ゴーディマ女史は、近々日本を訪れるというので、その横顔が、一九九二年九月十八日付の読売新聞で紹介されていた。

「(女史の家の)書斎のドアには南アフリカ最大の黒人解放組織、アフリカ民族会議(SNC)のポスター。政府のアパルトヘイト(人種隔離政策)を一貫して批判し、ANCを全面的に支持してきた。作品の根底に流れるのは人種差別の上にあぐらをかいてきた南ア白人への告発と警鐘、非白人への共感だ。
 自身、ANCの武装闘争支持を認めるなど過激な発言が相次ぎ、著書の多くが国内発禁処分となった」
 女史は、日本が元デクラーク政権との外交を再開したことは批判的である。と読売新聞社は書いている。
「あともう少し待ってほしい。二、三年とは言いません。もっと短い期間です。もう少しすれば黒人が参加した暫定政府ができ、新憲法制定への道が開ける。そこまで行ってから外交関係を結んでも決して遅くはなかった。企業の進出でも同じです。現政権のためになるような投資はいけません。デクラーク政権退陣後、日本の投資が南アにどんどん入ってくれば黒人の生活向上にどんなに貢献するでしょう」

 つまり白人なしでも南アはやっていけることを見せる、と言う訳だ。これが、いわば、公式的で、人道的で、論理的な考え方であろう。外部の者はこう言われると、まことに安心するのである。しかし私があった限りでは、女史のような希望に満ちた見方をしている人は、偶然かもしれないが一人もいなかったのである。

 私は南アで、ブラックに積極的な悪意を持っている人にも会ったことがなかった。このこともまた、はっきり言っておく必要がある。そして私はブラックの中にも、実に愛情深く、人道と向上心に燃え、責任感もあり、論理的でもあり、社会改革の意識も明瞭な優秀な女性にたくさん出会えたのである。

 しかしブラックの一般大衆と、どうしょうもない意識の隔たりを感じている白人やカラード(有色人種)は今も決して少なくない。その意識の隔たりが、長い間のアパルトヘイトの弊害の結果によるものだ、という判断が、言い訳として用意されている。相手に優しいようだが、私にはそうは思えない。もしそうならば、今こそアパルトヘイトの廃止によって、ブラックが名実共に市民権を持つべく努力をするときでなければならないからだ。

 私は南アで、有名でもない各階層の人たちと話をした。特に「有名でない」と限定したのは、私が南ア訪問の一つの条件として、有名人と作家にはお会いしなくてけっこうです。と申し入れたからである。その結果、私は受入れ機関からはほんとうに楽な客だと、喜ばれることになった。多くの客が、ネルソン・マンデラ氏と会いたがる、しかし私は指導的な人と会って、本音を聞けたことがないし、作家同士が、作家的な立場について話し合うなどという文学青年みたいなこともしたくない。それに私の日本的な感覚では、「お忙しい方」にぜひ会ってください、というような心ないことも言いにくいのである。そのかわり私は自由に物が言える。「庶民」同士で話ができる方がどれほどいいかわからないと考えたのである。

 そのようにして私に時間を割いてくれた多くの人たちの話を聞いたまま、私は報告するのが自然だと思う。

「南アがどんなに豊かな国かご存知ですか。金もダイヤもプラチナもウランもとれるんです。そのほかパナジウム、マンガン、クロム、バーミキュライト、アンダルサイト、シリマナイト、カヤナイトや三酸化アンチモンなんかは世界一の産出量です。石炭もたくさんあります。発電所なんて、石炭の炭田の上に建っている。下で掘って、輸送もせずそのまま上へ上げて発電しているんです。その上日照が年間三百日もあります。ソーラー・システムを作ったら実に有効なんですけどね。液化ガスがいっぱいあるから、逆にソーラーの開発なんかにあまり熱心になれないでしょうね。日本に比べてどんなに裕福な国かもしれません」

「ソウェト(ヨハネスブルグ郊外のブラック地区)で暴動が始まったのは一九七六年です。状況は八四年にもっと悪くなりました。ブラックの人たちは自分の手で学校を焼いたり壊したりしたんです。『教育の前に、自由を! (リベレーション・ビフォアー・エデュケーション!)』と彼らは叫んだ。彼らはその言葉が好きでした。『経済の前に、自由を!』というのもあったんです。

 たとえ如何なる状況であっても、未来を考えるとまず教育でしょう。学校だけは破壊してはいけない。万が一学校がないなら、自分たちで作る、くらいの気概がいる。それが自立と独立のための自助努力というものでしょう。しかしそれはしなかった。だから今、三十二歳以下くらいの人たちのことを”失われた世代”と言うんです。ろくろく教育も受けていない。この暗黒の世代ができてしまったことは、今後も長い間大きな影響を残すでしょうね。
中国で文化大革命が盛んだった頃、思想の吊し上げばかりしていた世代が、ほとんど勉強しなかったのがたたっているのと同じです」

「今でもソウェトでは、子供たちがほとんど学校に行っていない。カトリックの教会がやっている私立学校はちゃんと授業もやり道徳も教えていますが、そちらはお金がかかりますから、誰でもやるという訳にはいかない。他の学校は壊れたままだったり、生徒は学校へ行っても授業がないから、一、二時間でふらふら帰ってきたりしています」

「どうして学校を壊した犯人を挙げないのか、ですって? 考えてもください。警官が出ていって、誰が学校を壊した、と言うと、三千人の子供が大はしゃぎで一斉に笑いながら『俺がやった!』と言ったら、警官はその子供たちを皆挙げられますか!」
 その中に、自分の子供を叱って、そういうことをやるな、お前が悪い、という親はいないのかと私が尋ねた。
「そんなことをしたら、自分の子に殺されかねない、と思っている親は多いんですよ。子供をだけでなく、その仲間がいて、徒党を組んでいますからね。同調しない奴は殺されるんです。ネックスレースというのは、タイヤを嵌(は)めて焼き殺してしまうことなんです。黒人同士の争いがひどい。レイプ事件の載っていない新聞なんて珍しいくらいですよ。犯人を見ていて警察に訴えた証人が、その晩のうちに報復で殺されたりしたこともあるんです」
「ここは無法地帯です。全くいつ何が起こるか分かりません。先月もホールド・アップに遇って、時計から財布まで盗られました」
 とカトリックの神父もいい、ソウェトに住むブラックの女性は、「ここに住むことは、時限爆弾の上に住んでいるようなものよ」と言う。

「私はソウェトの中で、自分の家に電気が欲しいから電気料金を払っています。人の分まで払っているのよ、どうしてって、他の住民が払わないからですよ。電気も水道も白人はただでもらっていると思っている。だから払わないのです。そうすると、電気は地区、地区で止められてしまいますからね。私が自分の分だけ払えばそれで電気がもらえることにはならないのよ。しかしこう言うやり方は不公平ですよ」

「ブラックの人たちは、どうしてか、我々白人はただで電気でも水道でも使っていると思い込んでいるんです。水については、はっきり言いますね。神がただで天からくれたものに、どうして金を払わなければならないのか、つて。そうじゃないんですよ。ここまでこうして引いて来るのにはパイプなんかいろいろ設備にお金がかかっている。その使用料金を払わなければないんですよ、と言っても、それがどうしてもわからないようです。ブラックの人たちがすぐに口にする言葉は『家賃、税金、電気代、払うな』です」

「この間もこんなことがありました。今、ブラックの人たちは、すきなところ、つまり白人地区でもカラード地区で好きなところに家を買えるんですけど、そのための融資を受けるのに、ブラックだから銀行から高い金利をふっかけられた、と思い込んでいるんです。私たち婦人たちが集まったところで、偶然その話が出ました。そのブラックの女性が銀行から提示されたローンの金利を聞いたら、私たちよりずっと安いんですよ。それで皆が口々にそれは安い方よ、って言ったんですけど、ブラックの人たちは、よく調べないで、自分たちはブラックだから、ひどい扱いを受けているんだって思い込むところがあるんです」

「たとえば、エイズ対策にコンドームを使うように教えるとしますね。彼らは子供が多い方がいいと思っているから受け入れないし、これはきっと白人がブラックの数を減らすために策謀しているという風に考えるのです。だからコンドームは使いたがらないし、同じコンドームを何回も使ったりするから、エイズにも感染するんです」

「今自由にどこへでも住めるようになったでしょう。でもそれで問題が解決したわけじゃないでしょうね。
 ブラックの人たちが入って来ると、生活のやり方がどうしても違います。掃除の仕方から、水の使い方、声の大きさまで違うんです。一つのアパートのブラックに、たとえば三十人とか、しんじられないような数の親戚を呼んで来て泊めたりする。この三十人がシャワーとトイレを使ってごらんなさい。アパートの水タンクは断水してしまうんです。水なしで暮らすことはできませんからね。

 それで白人の方はいたたまれなくなって、自然に町を明け渡して出て行っているんです。
中央駅の北側のオフィス街はほとんどの黒人のものになりました。最近では国外に逃げ出す白人も増えています。白人にも酷いのがいるんですよ。自分は白人だということにしか存在意義を見出せないドロップ・アウトです。そういうのが能無しの官史になって威張っていたり、アル中になって街をうろついて因縁をつけたりしているんです」

「そして白人はどこへ行ったかと言うと、郊外に別の町を作って。そこではセキュリティは厳しいですしね。犯罪も極めて少ない。街もきれいです。
 ブラックで白人地区に住んでいる人はいる。しかし白人でブラックの地区に入った人はまずいないんです。
 違う価値判断がありますからね。たとえば、白人はものを売る時に、地面の上に野菜でも果物でも拡げて売ろうとは思わない。自分の住むところだって、家は必ず床を張ろうと思う。土間に住むところは惨めに思うんです。

 もちろん貧困のせいもありますが、ブラックの人たちは、祖先の霊は大地を通して語り掛けると思っているくらいだから、別に家でも店でも、床に敷いたり、店舗を作ったりしなければならない、とは思わないんです。そういう違いを分かってあげるべきですね。

 ええ、歩道の上で野菜や果物を売るやり方は、ごく最近、ブラックの進出と共に増えて来たものです。。私自身よく利用しますよ。野菜は新鮮ですし、私の友達もよく買います。オフィス・アワー外でも売っているから、働いている女性は便利なんですよ」

「ブラックの人たちは、義務の観念がないんです。パンのためには働かねばならない、という論理もあまりない。何でも不都合なことがあると、すぐ政治が悪い、と言う。ほんとうに価値観が違いますね。私の友達は、ブラックの人が食べるものがない、というので乾パンを買ってあげたら、目の前で捨てられてしまった。仕事がないというブラックに、就職の世話をしたら、乞食をしている方が儲かると言われてしまった。どうしたらいいのか分からないんです」

 ダーバンというインド洋に面した町は、かつて若き日のガンディーが法廷弁護士(バリススター)として上陸し、あからさまな人種差別に遇い、彼の運動の精神的な基礎を作った地でもある。そのダーバンの郊外の丘の上に、ガンディーによって一九〇三年に作られた国際印刷所という建物があった。そこはいわゆるブラックの人たちの掘っ立て小屋の集落の中にあるのだが、訪ねてみるとその記念すべき建物もブラックの人達によって火を点けられ焼かれてしまっていた。何故? と理解に苦しむのも当然であろう。差別した側の持ち物だった建物なら破壊する情熱もわからないのではないが、何故差別に立ち向かったガンディーの記念の場所を焼くのか。こうしてブラックたちは、将来、精神的。歴史的に遺産ともなるべき場所さえも破壊したのである。
 しかし今私が書いたようなことは、なぜか、どこにも報道されないのである。
  (一九九二・十一)

 精巧絢爛豪華金ぴか

 自分が音楽家でもなく、音楽愛好家とも言えないのをいいことに、いつかモーツァルトと美空ひばりは好きでない、と書いたら、何通かの真摯な抗議のお手紙を頂いた。私としては、二人の偉大な音楽家の存在を拒否する気は全くなくて、あまりにも大勢のファンが居過ぎるから、少しくらいへそ曲がり雑音をたてても、全く何のことはないだろう、という遊びの気持ちで書いたまでである。

 だいたい人の好みというものは、全く横暴そのものであって、食べ物の好き嫌いや、スホーツの趣味というものを考えても何の根拠もない。ご贔屓(ひいき)の球団がどうしてできるのか私には分からないが、勝ったと言っても、負けたと言っても、道頓堀に飛び込む人もいるのだから、大したものである。

 私がモーツァルトを聞かないということは、便利でこそあれ、他の人には全く悪影響がないのである。この頃よく三、四種類の演目のオペラをセットで買わされることが多いのだが、私はモーツァルトの日だけ切符を他の人に譲ったり上げたりする。モーツァルトのファンは世間に多いから、そういう人たちは、自分の好きなオペラだけ見られて喜んでいる。

 全くそれと同じような気持ちで、私が野暮を承知で言うもう一つの選択は、日本のわびさびが困るということである。

 昔、韓国で国際ベン大会が開かれたことがある。私は年と共にパーティー嫌いになって、今では国際大会などいうものにはほとんど出なくなったのだが、その頃は、まだ妥協する元気があって、そういう場にもたまには出席していたのである。

 私がスピーチを終わると、質問の時間があり、はたしてイヤな質問が出た。日本のわびさびをどう思うか、ということである。質問者は金髪種族だったと思うが、正確ではない。

 私はこういう質問にまともに答えるのは面倒くさいので、「私の英語はそのような繊細な問題にこたえるのに充分でないから、会場に入る夫の三浦朱門が代わって答えてくれるだろうと思います」と答えた。すると三浦朱門は立ち上がって私を裏切るようなことを言った。

「自分は彼女と夫婦だから、皿を洗えと言われれば皿を洗いますが、文学では共同作業をしていないから、その質問には答えません」

 会場の人たちは、この夫婦の裏切り的問答に笑い転げ、そのおかげで、私はそのような高尚なテーマで相手と論争する羽目にならずに済んだのである。

 こんなふうに書くと、私が誠実に相手の質問に答えないことに、気分を害された方もあるだろう。しかし私から言わせれば、わびさびなどというものを、質疑応答の中で知ろうなどというのは、あまりにも怠惰でいい気なやり方であって、私がたとえばイギリス人を捕まえてビクトリア朝の美学についてちょっと説明してください、というのに似ている。そんなことを知りたければ、自分で何年もかけて、少しずつ本を読んで学ぶのが当然だから、私は返事を断ったのである。

 私も普通の日本人だから、わびさびを知らないわけでもなかった。私は純粋に日本的な家に住み、少し陶芸の好きな父の趣味が、中年になると急に息づいて来るのを不思議に感じながら生きていた。

 しかし戦後、日本に数十年もの平和が続いてみると、わびさびは本来の素朴な精神を失って、ひどくトレンディーなもの、金になるもの、権威主義的なものになっていた。それで、私は半端しただけなのである。
 私自身、一九七〇年頃から時々ヨーロッパにも行く機会ができた。わびさびを改めて考えるようになったのもその頃である。ヨーロッパへは遊びに行くというより、仕事を目的に行くことが多かった。私はカトリックでもあったから、ヴァチカンとの接触もできて、大理石と金で装飾を施されたあの巨大なヴァチカン宮殿の中を歩く機会も増えた。

 カトリックは時々いかにも権力的・物質的なように言われることがあるが、ヴァチカンは観光客から美術館以外拝観料のようなものを一切取っていない。建物はミケランジェロやラファエロなどの手になる超豪華なものでも、そこを歩いているのは、第三世界で働く黒い神父をも含めて、お金を持たない貧しい聖職者ばかりである。第一、ヴァチカン自身が、今はひどく経済的に逼迫(ひっぱく)している、という噂はたびたび聞こえて来る。

 ローマに長逗留した最初は、アウシュヴィッツで他人の身代わりに死ぬことを申し出たマキシミリアン・コルベというポーランド人の神父の調査をしに行っていた時であった。この神父は一九三〇年に長崎にも来て、日本で初めてマスコミによる布教をした人なのだが、その後、ポーランドに帰り、やがてナチスに連れ去られたのである。神父は十四日間ほど、水も与えられない餓死刑室の中に放置され、最期が長引いたので、フェノールの毒薬を注射されて殺されたと記録されている。

 そのコルベ神父の取材の間、私はさまざまなイタリア人の関係者に会わねばならなかった。子供の時に日本舞踊をやっていたおかげで昔から着物を着慣れていたので、私は外国でも気楽に着物を着ていた。そしてその頃、私が好んで着ていたのは。もっぱら紬(つむぎ)であった。

 私が結城紬を買ったのは、自分の本が初めてベスト・セラーになった時である。その印税で、私は押すだけで機械が氷の卵を生んでくれるアメリカ製の大きな冷蔵庫を買い、その次にやっと決心して憧れの結城紬を買った。期待した通りその温かく柔らかな風合いは、着手を抱き込んでくれるようで嬉しくなってしまった。私は大島は初めから好きではなかった。うんとほっそりした人が着ればいいのだろうが、裾がさらさらして開いてしまいそうな滑り易さが、私はどうも好きになれなかった。

 その点、結城は違う。ただその値段の高さもすごいもので、私は「清水の舞台から飛び降りるつもり」という凡庸な言葉を心の中で呟いて、買うことを決心した記憶がある。

 しかし日本では、日本の風土にしっくり溶け込んで、しかもなお凛とした艶やかさをそこはかとなく見せる結城も、イタリアの風土の中では全く冴えないことに私は吃驚(びっくり)した。一口に言うと、それは薄汚れた雑巾にしか見えなかったのである。

 勿論場所や相手にもよる。私は取材の為に一人の貴族の未亡人のコンドミニアムを尋ねたが、その方は私の着ているものに目を留め、その細かい織り方の贅沢さに感心してくれた。その言葉はお世辞とは思えない真摯なものであった。

 日本の着物を世界に冠たるデモンストラティヴな強さを持つものだという。しかしそう言えるのは、凹凸のある光った生地、つまり綸子(りんず)をカラフルに染めたものであり、その上に刺繍のあるものであった。慎ましさは外国では美的な要素にはならず、主張の強さが美点になる、ということを私はその時初めて思い知ったのである。

 一度ヴァチカンのライト枢機(すうき)卿はニューヨークのブルックリンの、貧しい家庭で生まれた。その後、私たち同業の新聞記者となり、それから神父になった方であった。枢機卿の服装はしておられても根っからの気さくなアメリカ人で、テレビの人が残り時間を書いた紙を用意していると、「数字が書いてあるからこれは残りが後三分という事だね」と察しがよかったが、漢字だけで、「時間です」と書いた紙を見ると、これは何だと質問された。「もう時間が終わりになりました、ということです」と言うと「シャラップ(黙れ)ということだ」と急にアメリカの新聞記者らしい片鱗を見せた。

 私はその時、宇野千代さんがデザインなさった綸子地の小紋を着ていた。刺繍も何もない。金色に近い黄色の地に、先生のお好きな墨絵風の桜を描いただけの、それほど高価でもない小紋である。しかしその手の光る着物は、ヴァチカン宮殿の中でも、堂々と自己主張をして見事であった。

 マダム・バタフライが、途轍もなく派手な着物を着ているのに日本人は辟易(へきえき)する。いくら舞台衣装とは言え、あんな極彩色の、めちゃくちゃに派手な着物を、よくもまあ恥ずかしげもなく着るもんだ、と呆れ返る。

 しかしそう考えるのは、西欧人の彼らが生きている、現実の建物や、その装飾の質を知らないからなのである。あの天井の高さ、ごてごての巨大な彫刻、大理石と金色に輝く材質。そういったもの中で、自己主張をしようとすれば、人間が身につけるものも、そこにおいてある家具調度も、総てそれなりの、洗練された技巧的な表現力の強さを持っていなければならない。

 日本の風土の中で、美しい家と言えば、私たちはどんなものを想像するだろう。天井の低い部屋。木と紙で作った小さな空間。露や雨に濡れる一輪の花。築地塀。苔の海の間にうずくまる飛石。小さな枯れ山水。そうしたものである。そこが映えるのは、土の色と炎の輝きを残した素朴な焼き物であり、しなやかな竹籠であり、ざっくりした木綿織りである。

 しかしその手のものを、西洋の、あの金と大理石の、過装飾とでもいいたい巨大な部屋においても、どこにあるか、その存在さえもわからないのだ。茶席では名器といわれる茶碗でも、猫のミルク飲みにさえならない貧しさと受け取られるかもしれない。

 日本人には、わびさび人種が、無数にいることを大前提にして、私はわびさび的な陶器を愛することを止めてしまった。誰もそれを支持しないということなら、私がしゃしゃり出ても、好きだ、大切だ、という必要があるかもしれない。しかも日本にはわびさび人の方が絶対多数である。そしてまたわびさびに属する作品の方が値段も桁外れに高い。それで私は心も軽く、不当にないがしろにされている非わびさびの方に肩入れすることにしたのである。

 私の感覚では、日本の陶器で、世界的に豪華な舞台で堂々と太刀打ちできるのは、九谷、伊万里、鍋島、薩摩、清水だけである。と言うと大抵の人は怒り、私をブベツの目で見る。しかし、一人くらいこういう西洋人並みの趣味の人間がいてもいいと思う。ほとんどの人がわびさびが分かるのだから、一人くらいわからないのがいても一向に構わないのである。

 今あげた五つの窯は、精巧で絢爛(けんらん)としている。技術の結晶である。西洋の陶器の窯が真似しようとしたのも、すべてこの絢爛豪華な系譜の日本陶器である。そして日本の技術は未だに彼らの技術を遥かに引き離している。

 或る時、地方の旧家の奥さんと知り合いになった。
「羨ましいですね。お宅なんか、伊万里でも、九谷でも、古い、いいものがいくらでおありでしょう。お蔵を開ければ、宝の山でしょう」
 と私はつい浅ましい本音を吐いた。親から受け継いだものが何一つなかった私は、自分が一家の主婦になってからほんの少しずつ、自分の稼ぎで買える程度の、骨董ではなく普段遣いの古い皿や鉢を買って、毎日お惣菜を入れるのに喜んで使っていたのである。

「ええ、それはあるんですけど、うちの娘なんか、もうそんな古い皿使うのは嫌だと申しましてね。お友達が見えなさった時、紅茶と洋菓子出すんでも、ノリタケがいいって、買って来て使ってます」
「あら、ノリタケはすばらしいものですけど、どうしてかしら。もったないわ。お宅におありの古い伊万里の中皿に洋菓子を載せたら、もっとすてきなのに」
 それは私の実感であった。
「でもそれが不思議なもんで‥‥ソノさんのお宅は新しい、ハイカラなおうちでしょう?」
「新しくはありません。もう二十年以上経ちましたから。それでいて安普請ですから、明治に建った古いおうちが立派に保っているのと比べると、風格も何もありませんけど」
「百年以上も経つ、古い家に住んでいますとね、不思議とせめて陶器くらい新しい西洋風なものを使いたくなるんです。古い家で古い陶器を使っていますと、何となく、気が滅入って来ましてね。どこもかしこも古いと嫌になりますの。もしお宅が古いものがお似合いだというんなら、それは新しいおうちなんですよ」

「いえ、うちも、紅茶碗だけは、キンキラのけばけばしいカップを使っているんです。それがどうにか入らないわけでもないから、それを考えると、うちはもう古いんでしょう」
 私は実は陶器はどれも好きなのである。しかし日本で、わびさびが不当に幅をきかし、権威を振り回しているように見えると、ヘソを曲げたくなったのである。その姿勢で眺めると、これは屋根瓦か、麦飯茶碗か、土管か、金魚鉢か、大根おろし用の器か、植木鉢の受皿か、としか思えないような粗雑な陶器に途方もない値段がついているのに、日本人がありがたがるだけで反発しないのが、何ともおかしく思えてくる。

 猫のミルク飲みにするのもかわいそうなようなかわらけを、法外な値段でありたがって買っている人たちは、一種の霊感商法にかかっているのではないか、と思う時があるが、霊感商法というものは、かかった人の幸福代が入っているのだから、決して詐欺ではないと思う。

 幸いなことに私の好きな「精巧絢爛豪華金ぴか」という軽薄な志向は、茶人にそっぽを向かれたおかげで、高価は高価でも、無茶苦茶な値段ではない。私はほんの少し陶器を焼くことを習ったので、この技術がどれほどの、気の遠くなるような精微なものかが、よくわかるのである。

 とにかく、世の中には、いろいろな趣味の人がいるからおもしろい。ことに、精巧絢爛豪華金ぴかが、わびさびにばかにされる国にいるということは、私のような俗物にはむしろ願ってもない楽しさである。
 (一九九二・十二)

 昔話としての戦争

 私には昔からたくさんのコンプレックスがあったけれど、その一つは、記憶が悪いということがあった。秀才の基本的素質に、記憶する能力がある。そういう人たちと比べると、私は恥ずかしいくらい記憶が悪いのである。

 例えばの話だが、昔、同じ大学の講義を聞いたはずなのに、こんなことを言う同級生がいると実にフユカイになる。
「サムュエル・ピープスの日記の始めのころに、妻に生理が七週間なくて妊娠かと思ったけど、大晦日になってあった、なんて書いてあってぎくっとしたじゃない」
「へぇー、覚えてない」
 私は不安を覚えながら言う。確かに同じクラスにいたのだが、私はサムュエル・ピープスという人の経歴とその日記がどのようなものだったか、というあらまししか覚えていない。
サムュエル・ピープスは、十七世紀のイギリスの日記作家で、二度にわたって海軍大臣を務めた。彼の日記には一六六六年九月に起きた有名なロンドンの大火の、極めて個人的な記録がある。彼はその日記を暗号で書いた。だからかなり私的なこともエッチなことも、あからさまに書けたのである。後年その暗号が読み解かれので、この日記は日の目を見る事になった、と私は記憶している。

 ともかく、同じ授業を受けながら、
「ピープスが下剤飲んでも効かなかった、とか、奥さんと女中が夜中の一時過ぎに洗濯してた、とか、すごくリアルで、覗き見しているみたいにおもしろかった」

 などと言われる、「そうそう」と無理して相槌を打ちながら、私はだんだん気が滅入ってくる。自分は大学時代に一体何をしていたんだろう、と思うのである。

 自分の記憶が悪いもので、私はその弱点をごまかすために、すっかり前向きの人間になってしまった。つまり過去のことを喋るのが嫌いになってしまったのである。私くらいの歳になると思い出話をする資料には事欠かないのだが、それまでに嫌いになってしまったのである。学校の近くにあったお汁粉屋の値段とか、受持ちの先生の言動とか、同級生がお嫁に行った時の話とか、そういう話をされると、日頃お喋りの私は完全に聞き役に廻る他はない。

 昔話が嫌いじゃないのは、今になってのことでもない。子供の頃からその人が来ると、「決まってその話をする」という人は何人かいたものである。
 一人の小母さんは必ず関東大震災の話をした。被服廠(ひふくしょう)跡に逃げようとしたのだが、逃げなかったという話である。当たり前だ。逃げなかったからこそ、小母さんは生きているんじゃないかと思いながら私は聞いていた。

 もう一人は、日露戦争に行った伯父さんであった。北陸の田舎に生まれ育ち生涯を暮らしたこの人にとっては、軍隊に入るということは、唯一の家出であり、冒険であり、移転であり、外国旅行であったのだろう。それを思うと、いくら語っても語り足りないと思うその人の気持ちも分かるような気がする。しかしとにかくこの伯父さんが「勇敢なる水兵」だった時、軍艦のマストの上から飛び込むのがいかに怖かったかという話を度々聞かされると、子供だった私たちはすぐその場から逃げ出したくなった。

 私がその伯父さんの話に辟易していた頃、私は幾つぐらいだったのだろうか。十歳として昭和十六年。日露戦争の話と言ったら、それより三十七年前の「他人の記憶」なんて、誰にとっても、そんなにおもしろうものであるわけがないのである。

 私だけが、年寄りの昔話に興味を示さなかったのかな、と思っていたら、或る時おもしろい体験をした。私の知人に大変親孝行な男の人がいた。いろいろな事情で、私はしばらく、その方の家庭と疎遠になっていたのだが、或る時、母上の八十八歳のお誕生日を機に、私に顔を見せてほしいと言われた。私のことだから、当日には仕事に行けなかったのだが、しばらく日を置いて出かけた。するとその母上は、昔私がよく遊びに行っていた頃は、決して話されなかった子供時代の身の上話をなさった。継母が来て、悲しい毎日だったというのだという。こちらは初めて聞く話だから、辛抱でも何でもなく、興味を持って聞いていた。

 しかしその身の上話は、その日初めて話されたものとは思われなかった。語り口調が整理されているのである。六十を過ぎた孝行息子は傍に坐って、母親の話すままにさせてている。
二十分くらいは独演会が続いただろうか、と思われる時、突然その息子さんが、
「はい、お母さん。話はそこまで」
 とタイミングよく言ったのがおかしかった。

 どこの社会でも、昔話は自己規制して語るべきものと思われている。整理された昔話は、おもしろいし、示唆に富んでいる。私は地方に行くと、その土地の本屋さんや駅や空港で売っているその土地の「昔話」をよく買って読む。この手の本は東京では買えない貴重品で、書庫に余裕があれば、全国の分を揃えて買っておきたいくらい好きである。

 しかしそれでも、昔話がおもしろいためには、付帯条件が付く。その第一が、道徳的・教育的ではないことである。
 四十七年も前の大東亜戦争の話を、反戦の目的で語り継がねばならない、などと私は全く思わない。そんな古い話は――戦争の話にせよ、震災の話にせよ――正直なところ、うんざり真っ平である。つまり反戦の目的で語られた戦争の体験談など、冷静な歴史ではない場合がほとんどだから、普遍性を持ちえないのである。

 四十七年というのは、実に長い年月である。昔は大体人は五十歳で死んだから、直接体験者もほぼ死に絶えるほど昔の話である。私の家はキリスト教徒なので、法事の知識なども正確でないので、日本式の冠婚葬祭に詳しい人に聞いてみると、法事は普通三十八回忌が最後で、五十回忌を営む人もいるけれど、あまり数は多くないのだという。大東亜戦争の敗戦も、間もなく五十回忌である。父の顔を知らず、女手一つで苦労した母に育てられた子供も、五十歳になる、そんな昔のことは時効というものだ、と私は思う。

 もちろん、戦争以前に既に子供だったり、大人になりかけていて両親を失ったり、自分自身が原爆に遭ったり、軍隊に取られて傷を負ったり、空爆で家族を死なせたりした人にとって、戦争が一生をめちゃくちゃに狂わせられた原因であることをわすれられないのは当然である。しかし私は、五十年も経ってまだあの戦争の話をしたり、そのことで自己批判したりする情熱にはついて行けない。

 しかし私が今ここで、戦争の話は沢山、というのは、自分にとって不都合にことは忘れたいから、そろそろ戦争のことを帳消しにしようというのでもない。戦争、殺戮(さつりく)、掠奪(りゃくだつ)、凌辱(りょうじょく)、植民地主義、人種差別、どれを取ってみても、過去の戦争の引き合いに出さなくても、今日の問題の中から、もっと生々しいく考える材料はいくらでもあるからである。言葉を換えれば、人間が生きる限り、悪のお手本は自分の中と、現実の周囲の生活にあるので、別に大東亜戦争から、その見本を取って来て、驚いたり、自戒の材料にする必要はないと思う。追体験、というものはまず多くの場合、不可能なものである。戦争も、洪水も、地震も、大火も、山崩れも、どんなに語っても、いくらか参考になるのは、逃げ方くらいのものである。

 先日、知人と実に不真面目な話をした。その人の乗った新幹線が故障で、実に五時間も遅れたというのである。彼が一番心配したのは、約束の場所で会うことのできなくなった相手との連絡とか、そのために影響が出そうな明日以降の計画とかであったのだろうが、即物的な私が注意して聞いたのは、食べ物の事だけであった。
「五時間も遅れて、お弁当あったの?」
「そうなんですよ、それは大亊な事だったんです」
 と彼は言った。
「止まって三十分ほどしたら、通路をやたらに弁当を持った人が通るんですよ。それで、はたと思いつつ、すぐに買いに行ったんだけど、その時はもうクラッカーしか残ってませんでした」
「いい話を聞いたわ」
 と私は言った。
「これから新幹線が、時ならぬ時に止まったら、次の瞬間たには、ぱっと立ち上がって、お弁当とビールを買込みに行くわ。私、今日利口になったわ。だけどこう言う智恵は決して人に教えないでおこう。皆がそうしだすと、私、弁当買い損ねるから」

 私が彼の話から学んだのは、決して事故の本質ではなく、その場合を生き抜くくだらない技術であった。というよりもっと悪い。人を出し抜いて生きる方法を一つ学んだだけである。たかが人身事故ではない、単なる新幹線の遅れでもこの通りである。ましてや、大東亜戦争の時の貧困とか、空襲の時の命の危険の予感とかいうものが、人に伝わるとはとても思えない。
 
 いつか東京の大空襲を偲んで、三月九日だか十日だったかに、電燈を消しましょう、という運動を唱えた主婦のことが新聞記事に出ていた。昔は、空襲警報が出ると、市民は電燈を消すか小さな明かりにし、窓には黒い布やカーテンを引いて、都市の燈を、敵機から見えないようにした。その空襲の思いを忘れないためだという。

 私はまだその頃子供であった。子供は、何でも変化がおもしろい。暗いお化け屋敷に連れて行かれるのは怖いけれど、親と一緒に電気を消して潜んでいるのは、ちょっとしたスリルである。

 私の家では庭に三畳ほどの防空壕を掘ってあった。中には二百リッターは入るドラム缶に水を蓄え、脱出孔も作り、湿気はひどかったが、中に布団を敷いて寝る事も出来た。空襲がひどくない時は、こういう防空壕で寝るのはちょっとしたキャンプに行くような楽しさがあった。

 空襲のたびに電燈を消すと、私は月の光のきれいさに打たれた。それはあの世のようであった。戦争を嘲笑っている存在があるとしたら、それは月であった。

 私は生まれつきひどい近眼であった。よく見えないから、勘はよくなっていた。目のいい人は、燈火管制の下で明かりがないと行動しにくいらしいが、私はもともと手探り・爪先探りだから、逆にのびのびと行動で来た。私は燈火管制下だけでは人並みであった。

 しかしやがてそんな遊び半分の時期は過ぎて、空襲は直接、私の生を脅かすほど苛酷になった。

 東京の私の家は、或る晩は焼夷弾、或る晩は大きな爆弾の攻撃を受けながら、やっと生き延びていた。焼夷弾は隣の家を直撃して全焼し、激しいは北風に煽られて、風下の私の家に火の粉を吹き付けた。大型爆弾は、数百メートルしか離れていない所に落ちて、私がよく花を買いに行っていた花屋さんの家族を全滅させた。花屋さんは子たくさんの大家族だったが、誰一人生き残った人はなかった。善人が生き延びたのでもない。悪人が滅びたのでもない。努力すれば延焼を消し止められるという程度のものでもなかった。うちが焼けなかったのは、火の粉が落ちた所に、可燃性のものがたまたまなかったから、発火するまでにならなかった、というだけのことである。

 電気を消したくらいで、戦争の重みがわかるわけではない。ふざけてほしくない。ダイインと称して「死んだ真似」をするなどという無礼は、本当に死んだ人への冒瀆である。

 昔の戦争の話なんかしたって、わかるわけがないのだ。私ていどに記憶の悪い人も世間に多いだろうし、昔話は、懐かしさという感傷としては大切だが、そんなもので、真理を分け合えるものではない。

 それより毎日の現実の生活の中から、人生の残酷さを感じたり道徳を教えたり、弱い人を労わることを実行したりする方がずっといい。車椅子の人が居たら交差点で押してあげ、年寄りの荷物を持ってあげ、老人ホームでウンコで汚れたオムツを洗う。そういうことをしたことがなく、昔の戦争の思い出話なんて聞いて心に平和を誓ってみても。むしろ偽善になるだけである。
  (一九九三・一)

 秀才のおかげ

 前も書いたとおり、私は子供の時からコンプレックスが多かったので、秀才と呼ばれる人たちに、複雑な感情を覚えて生きてきた。偉い人を見るような思い、も当然あったが、それだけではない。とうていその心理がわからない別人種という感じも強かったのだから、決して素直ではなかったのである。これこそまさに、秀才コンプレックスというべきぐちゃぐちゃした心理なのであろう。こういう感情は今に至るまで続いている。

 秀才が私と歴然と違うのは、たとえば数学がわかることであった。私は今でもどうしてマイナイ一にマイナス1を掛けるプラス1になるのかわからない。わからなくたって充分生きていけるのだ。卵を買う時だって、肉を料理する時だって、そんな数学なしで立派にやっていけるのだ。理論がわからなかったら暗記するという手だってあるのである。

 数学だけではない。私は物理もだめ、化学もだめ。歴史だって英語だって、できる人は桁外れにできる。とうていかなわない。
 しかしはっきり気がついてはいなかったのだが、トップではない人生を承認し、それなりにいきる技術を見つけるこということは、実は私が思うよりははるかに重大なことだったのである。

 私は前途に深い不安を覚えながら小説を書き始めるようになった。私は二十三歳の時に芥川賞候補になり、選外佳作にしかならなかったのだが、その作品が『文藝春秋』誌に掲載されると、それで道は開けてきた。私の小説を読んで、こいつを育ててやってもいい、と考えてくださったらしい雑誌が幾つか出てきたのである。

 或る日私が夫と一緒に映画を見て帰ってくると、郵便受けに二つの封筒があった。二つとも、文芸雑誌の編集部から、短編を書けという手紙であった。その頃、まだ電話というものがないおうちはたくさんあったので、小説の「注文」は手紙で来るようなのんびりした時代だったのである。

 しかしその手紙を読んで、躍り上がるほど歓び、張り切って仕事にかかれるかとおもいきや、私はすっかり暗澹(あんたん)としてしまった。同人雑誌に加わって小説を書いた時は、考えてみると気楽なものであった。社会となんら契約をしているのではないのだから、書きたいものを書ける時に、自由に書いていればよかったのだ。それなのに、「ページを空けて待っている」という感じで作品を期待されると(もちろんそれは抽象的な意味で、私の作品が悪ければ、代わりの作品なんていくらでもあったのだ)急に胸が苦しくなってしまった。不安を覚えながら書き始めた、というのは、そういう背景があってのことであった。

 私は昔からお酒が飲めず、社交が苦手、パーティーが何より辛い、という対人恐怖症みたいなものがあるのだが、仕事の目的で、時々は思ってもいなかった文学以外の世界を覗くようになった。仕事と思うと耐えられることもあったのである。対談などでは経済界の方たちにお会いしたし、中年以降には、年の功? で、ときどき霞が関界隈の政府の審議会のメンバーなどになるようにもなった。そこで私は、再びさまざまな秀才たちに出会う事になったのである。

 戦後の日本の繫栄を支えてきたのは、優秀な官僚たちだ、という言葉は真実である。審議会などで、私が接する限りでも、彼らは、数字に強く、整理の能力に秀で、人格の破綻を見せることなく、しかも特殊能力を必要とする答申専門の法律的な文章を書く達人であった。

 私は自分の書く文章と、霞が関の作文とが、いかに種類の違うものであるかを、しみじみ感じるようになった。いかなる感動的な内容の答申も、霞が関で書かれる限り、読んでおもしろいものになるはずがない。しかしそれは、法的な効果をバックアップするために必要なあらゆる要素を織り込んだ、正確で有効性のある文章なのであった。

 しかし何が驚いたと言って、私は霞が関の秀才たちが「できない理由」を礼儀正しく滔々(とうとう)と素早くとりつくしまもなく整理して述べる能力には驚いてしまった。許認可制度を司っている官庁としては、許可しないという理由を述べるのは当然のことであろう。

 しかし私の仕事の分野では、できない理由を述べるという事は、何ら意味のないことであった。できない事でも、総てをかいくぐってどうしたらできるかが人生の面白さであったし、それができないことは、さっさと諦めて次のできることにかからねば、生涯の持ち時間はそれほど多くない、というのが、私たちの考え方であった。

 不思議なことに、霞が関の秀才たちは私の世界からみると、規則を遵守しているだけで恐ろしく独創性のない仕事にもかかわっていることに、あまり不幸を感じていないようであった。私はその事にも驚きを禁じ得なかった。

 私は秀才の他の能力についても、だんだんわからなくなってきた。或る時、文部省のキャリアーと呼ばれる人から、自分がマスコミから全くあらぬことで叩かれたことに対して、抗議と釈明を書いた文章を配ってもらったことがある。その文章がまた実にひどい日本語であった。誤字もあれば、敬語もまともに使えていない。文部省の秀才がこういう反論を書くという事は、しかしなかなか面白いものであった。
 また、信じられない非常識な人にも出会った。

 或る大臣と対談することになった時である。大臣室で、私は大臣の他に一人の人物が坐っているのを見た。私はその人に初対面の挨拶をしかけたが、その人の態度はどうもおかしかった。立ち上がりもせず、名前を名乗らなければ、名刺も出さない。覚えていないだけで、既に私はその人にどこかで会って挨拶を交わしているのか、と思いかけていた。私幼時からの近視で人の顔を覚える才能を閉ざされてしまったので、ほんのさっき会った人を覚えられずに、他の人だと勘違いして、もう一度初対面の挨拶をしかねない人間であった。

 私は名前の知らない相手の司会で対談を始める事になった。どうでもいいといえば、人の名前などどうでもいい。しかし感覚として異様なものであった。私が彼の立場なら、まず名刺を出し、口先だけでも、「今日は忙しいところをまことにありがどうございました。私が本日の進行係を務めさせていただくことになりましたので、よろしくお願いします」くらいのことは言うと思うのに、相手はずっとだんまりを決め込んだままなのである。

 対談が終わって大臣に挨拶をして、控えの間に出て行くと、この人物は初めて自分の名刺を出し、「実はお願いがあるのですが」と全く別な用事を切り出した。
 やはりその人とは、初対面だったのである。

 なぜ彼が、私に挨拶もしなければ、今日はご苦労様でした、も言わなかったかと言うと、多分、それは大臣の前だったからなのである。大臣の前にいる人は、すべての視線を大臣に向けるべきであり、大臣をさしおいて、外部の人間と挨拶をしたりするのは、大臣に失礼に当たることだ、と感じたのだろう。

 私はその大臣とお親しいわけではないが、その方は、良識のある方で、自分の省の役人が、外部から来た者に、一応の礼儀を尽くすことまで許さないような方ではない、と思うのだが、考えて見ると、秀才というのは、選択の上手い人だから、とにかく大臣への礼儀を徹底して守ったとしても、不思議ではない。しかし外部の者からみると、この人は、非常識でありながら権力に阿(おもね)ることのうまい、不気味な精神構造である。こういう異常な人物が、上級公務員試験に通っているのだから、日本国の経営はどうなるのだろう。

 困った秀才というのは、霞が関だけではない。
 先日、女性読者のお一人から手紙をもらった。なかなかユーモアのある方で、自分の体験を少しも怒らずに、面白おかしそうに書いて下さって来ている。

「実は、『お入学』ならぬ『お入園』を体験いたしましたばかりのものでございます。塾などにはまったくお世話にならず、何の情報も持っていなかったのですが、幸いにして娘を地元の名門と言われている幼稚園の三年保育に入れて頂くことができました。

 面接日の前日に、主人が買ってまいりました『有名幼稚園合格ガイド』という本をパラパラとめくっておりましたら、過去の質問に、『今まで読んだ書物の中で感銘を受けられたものは?』という項目がありました。そこで私は図々しくも先生の御著書を思いついたわけなのです。が何しろ無知なもので、正しい読み方に自身がございません。そこで、以前にも嫌な思い出あるのですが、仕方なく出版元の、日本を代表するA新聞へ電話いたしました。

 用件を申しますと、さんざん待たされた挙句、やっと第一出版局(だったと思います)という所に繋いで頂きました。
『あの、お忙しいところ大変申し訳ないのですが、教えて頂きたいことがございますが』(こんなにへりくだることでもないと思うが)相手は無言です。
『曽野綾子先生の御著書の題名でございますが、”神のよごれた手”でしょうか”神のけがれた手”でしょうか』
『よごれたッ!』
 相手の方はそう一言だけお叫びになると、こちらのお礼を待たずに電話をお切りになりました、こんなバカとは関わりたくない、というお気持ちはよくわかりますが、それにしても相変わらずA新聞というところは、素晴らしくお忙しいのだ、と思いました」

 この手紙は、肩の力を抜いたかなりの名文で、A新聞社がさんざん待たせたところから始まって、実に生き生きとその場の光景を描き出している。この文章の特徴は、あくまでも下手に出ながら、ことの次第を(フユカイな要素がないわけではないが)充分に楽しみおもしろがっている面があるところで、これは私をも含む「非秀才」の特技ではあるが、自他共に許す秀才はほとんど持ち合わせていない才能である。つまり相手は上に立って威張る。こちらは下にいてやっつけられながらちょっとおもしろがっている、という図式である。

 これが、他の商品だったら、千円ずつ買ってくださるお客様にでも、心底から「いつもお買い上げいただきまして、ありがとうございます」という気になるのだろう。しかし秀才というものには、こういう視点は全くない。有能な自分が作ったものを、相手に読ませてやっている、という気分になるのだろう。

 昔、学者の先生方と半月ほどの旅行をしたことがある。団長も有名な学者だったが、その方のことを他の学者先生方は、皆、恐れるか煙たがっておられた。つまり、偶然、その先生の知らないことを質問すると、大変ご機嫌が悪い。仕方なく、その先生の知っておられることをわざと質問すると、そんなことも知らないのか、と馬鹿になさる。とにかく面倒くさくてたまらない、と言って、食事の時も、同じテーブルに坐るのを遠慮する人が増える。
「ソノさんがいいよ」
 と言われて、グループで最も知的でない私が図々しくお隣に坐ることになった。先生も、私がばかな話をしても、鷹揚(おうよう)に笑って聞いてくださる。無知な質問にも優しくお答えくださる。うまく行ったのだが、秀才同士の関係は、実に難しい、ということを発見した。とにかく、自分が秀才だと思っている自覚秀才の特徴は、つまらない駄洒落くらいは言えるが、決定的にユーモアと譲る精神に欠けているという点にある。

 秀才は官界とジャーナリズムと学界にいるだけではない。
 或る時、私は或る会議で、銀行の会長という方と隣席になるはずであった。しかしその方は欠席され、ご名代に、その銀行の課長さんという方が出席しておられた。

 会議は朝食から始まるものだったが、ご飯の間は沈黙して食べるのが無粋に思えたので、私は隣席の課長と、ぽつぽつ小声で喋りながら食事をすることにした。
「日曜日もなかなかお休みになれないんでしょう?」
 と私が言った。
「いえそういうこともありませんが、やはりゴルフのようなお付き合いもありますので」
「そうでしょうね、よくお続きになりますね。あれだって体力を使いますものね。私はゴルフというものを、したことがないんですけど」

 厳密に言うと、三十分だけ習ったことがあるのだが、それで、手が過労になることを知って辞めてしまったのである。私がその時、腱鞘炎を患ってあまり日が経っていない時だったこともあって運がなかったのであった。

 しかしその課長氏は、私の全く予想していなかった返事をされたのである。
「いう、そんなご冗談を・・・・」
 私は絶句した。私にとってゴルフをするかしないかは、全く個人の好みの問題である。だから、私はいささか卑下して言ったつもりはなかった。しかしこの課長氏にとっては、ゴルフをしない生活は惨めなものとしか思えなかったのである。秀才のものの考え方は、こんな形に容易に硬直するのである。

 おとなげないことを言ったが、型通りの秀才が、天下国家の運営をしてくれているというのは事実で。もし非秀才に天下を任せておいたら、あらゆる生活の機能は整備されず、市民の生活はめちゃめちゃになる。だから、非秀才はすべて秀才におんぶして生涯を生きるのだが、時々、この真面目で、有能だが、人間として面白みに欠ける秀才にふっとおかしさを感じてしまうという態度の悪さを持ってしまうのを、どうすることもできない。もっとも私がこうして安心して秀才の悪口を書けるのも、秀才という人種は、どんなに悪口を言われてもまったく動揺するということはなく、自分の能力を信じている人達だからである。
 (一九九三・二)

つづく  単なるもの盗り