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中国・一九七五年春

本表紙 曽野綾子著

 見方は違っても友になれる
 静かさの音が聞こえる

  かつてインドの取材を始める前に、私は自分に向けて呟いたことがあった。《どうせ、あんな大きな国、わかるわけはないんだから》私は書けるのは、何月何日、これこれの状況のもとに、こういう人が、こういう事をしているのを見た。彼がなぜそうしている(言っている)のか、その背後の理由は不明である、という姿勢しかありえない。

 インドならず、本来、あらゆる外国はよそのものにとって、ものである。しかし中国を訪問する場合、私には、その辺に、少しばかり甘さがあったように思う。今回、私もメンバーの一人となった政府派遣の学術文化訪中使節団が、出発前、外務省で顔合わせした時にも、団長の吉川幸次郎氏は、両国の思い違い知らねばならぬことを穏やかな口調で言われた。

 たとえば、文学のテーマ一つとしても、中国のそれは昔から政治であり、日本では恋愛である。中国を見ると同時に、今回は日本を知ってもらうこともその目的の一つだ、と言われた。それらは総て正しく、しかも後で考えると、ことごとく含みの多いものであった。

 私が、少なくともインドよりは、中国を理解し得るのではないかと甘く考えたのは、何と言っても、我々に与えられているデータの量が、インドと中国では比較にならないほど違うから、であった。私はインドの文学については、ほんのぽっちりしか読んだことはないが、中国は、同じぽっちりにしても、少しばかり量が多そうだと思ったのである。インドのヒンドゥー社会に関する本は集めるのに苦労して、結局、私にとっては頭の痛い限りの横文字の本ばかりになってしまったが、中国に関しては、同居人の三浦朱門という男が、ただごとでは思えない熱心さで絶版になっても古本屋で買い漁る趣味を持っていたので、私はその中から、ちょぼちょぼと、拾い読みもできたのである。

 しかし、私のこのような安易な考え方は、どれほど間違っていたか、ということ辺りから私は書いてみたいと思う。
【ここに訪中使節団のメンバーを紹介しておく。敬称を略することをお許し頂きたい。吉川幸次郎(団長・中国文学)、江藤瀋吉(事務局長・政治学)、茅誠司(物理学者)、石川淳(文学)、越智勇一郎(獣医学)、堀江薫雄(経済学)、桜田一郎(化学)、永井龍男(文学)、弥永昌吉(数学)、山本健吉(文学)、長尾雅人(仏教学)、内村直也(文学)、榊原仟(医学)、中村光夫(文学)、川野重任(経済学)、林謙太郎(歴史学)、小西甚一(文学)、森口繫一(計数工学)、佐伯彰一(文学)、藤沢令夫(哲学)、中根千枝(文化人類学)、それに私(小説)である】

 一人一人が全く違った専門分野と、ものの考え方を持った方たちであった。それ故、旅行の途中でも、儀礼的な(ということは決して心のこもらぬということはない)感謝や挨拶を、その時時に、吉川団長が我々を代表してくださったほかに、団員全体の意見を発表することは原則として避けたいという希望が、濃厚であった。つまりそれほど、皆は個々の違った意見を持っていたという事が出来る。言うまでもないことだが、これから書くことも、あくまでも私一人の個人的な、近視と乱視と軽い老眼と若年性の白内障までかかったお粗末な眼力で見たものと、お許し頂きたいのである。

 最初のちょっとした違和感は、日本をたつ前、外務省で、中国側から、先生方のブロトコール(儀礼)の席順をどうしょうかとしきりに聞いてきている、というところで、私の中に惹き起こされた。外務省では、先生方の場合は生年月日で決めさせて頂きましたが、それでよろしゅうございましょうか、という挨拶があり、皆は民主的に笑ったが、人民共和国でもそんな序列が問題なるのかということは、外交の世界を知らない私はまず勉強の第一歩であった。

 一九七五年、三月二十四日、外務省関係者や医師などを含む私たち一行二十五人は日航機で、静かな北京空港に着いた。羽田空港が不必要と思えるほど喧躁でごった返しているのを思えば、少し離れた所に三、四機の国内線の飛行機が停まっているだけの北京空港は、空気が澄んで、静かさの音が聞こえるような風景である。

 忘れていたものを思い出させてくれる
 プロトコールの順序というものは、お互いに紹介の時に、人を間違えないためもあり、きっちりした礼儀に支えられた暖い出迎えの儀礼のために、必要欠くべからざる「手順」の一つであったが、双方の挨拶が済んで、自動車に乗る事になった時に、私は初めて、中国について具体的なことを学んだのであった。それは、むしろほほえましいことであった。団員は吉川団長をのぞいて二人ずつ車に乗るように言われたが、プロトコール順に、四台目までは、ロールスロイス風の「紅旗」、五台目からはそれよりかなり小さい「上海」という車が用意されていたのである。

 私はその時、このような車種の編成は、偶然のものだろう、と思っていた。しかし、それ以後、地方を旅しても、車種を違えることによる一種の格付けは、多少のヴァリエーションはあっても変わらなかった。他の団員の中にもこのようなことを面白がっている人もいて、私たちの間にはそれ以後、「紅旗(高貴)の人、」と「上海組」という言葉が、ユーモアとして使われるようになった。山本健吉氏のように、ほんのちょっとお若かったばかりに「紅旗」に乗り損ねた不運な方を先頭にして、「上海組」は「紅旗の人」をやや盛大にネタンで見せることにしたのである。

 中国は人民の国だから、上の下もないのだ、という考え方は、恐らく日本人が一方的に思い込んだことであろう。中国と日本とは、その後(私の見るところでは)善しとしているまのが、全く違う場合が多いのである。中国の国体を知る最上の手がかりは、中華人民共和国憲法だろうと思うが、それを読めば、日本という制度上に大きな差があるか、一切の感情論を離れて明確に知ることができる。その点については後でふれるが、中国は古来、礼節の国である。長上を敬うことあつい国である。そのような美点は新中国になっても、変わるわけはない。私たち、いや私のような戦後育ちの日本人の方が、のっぺりと無礼になっただけなのである。

 私は内心ほっとしていた。もうここでは日本やアメリカのように(この頃は日本でさえも、アメリカ化して来たのである)レディファーストというあの虚偽的な制度に、従うべきか従うべきでないかなどと思う事はない。私は男性が、年長者が、先に車やエレベーターに乗られ、少しでも若いもの、女が、荷物をお持ちするという姿勢が大好きである。私は、中国へ来て、忘れていた礼儀作法を、思い出させられたような気がした。私の好みが、時代の流行に合おうが合わなかろうが、私は、又そちらに戻るべく教えられたのだと考えていた。

 私の車の同乗者は初めから終わりまで文化人類学者の中根千枝さんだった。私は中根さんのおかげで、どれだけ、私の視野を広くして頂いたか知れない。中根さんは少女時代を北京で過ごされた。その中根さんが、いつ北京市内に入ったのかも気が付かれなかった。城壁がとり払われてしまったのである。建国門外大街は、飛行機の離着陸もできそうなほど広い。そこに、よく私たちが中国に関する報道写真で見慣れた紺や灰色の(戦争中の日本の国民服と瓜二つに見える)人民服を着た人達がいる。そして何という自転車の多さ!

 私たちの泊まる北京飯店の新館はつい昨年できたのだという。部屋に入ると、私は最初の中国流のきめのこまかいホスピタリティを感じる。真新しいタオル、浴用にはやや大きめの、ベースンにはやや小さめの石鹸、お茶、果物、中華というタバコ、人民日報。小川大使からもスコッチ・ウィスキイ。

 真実の奥にあるもの
 この北京飯店の前には、日本のイトスギに似た木が植わっていた。木と木の間はあまり広くないのだが、その前に、一人ずつ人間の首がこちらを覗いている。何をみているのか。私は当然、外人の客を、見ているのだと思った。日本人は土地の人と同じような顔をしているから、面白くないが、北京飯店には、アフリカを初めあらゆる外国人が集まっているから、覗いてみたい気分は私にはわかる。しかし垣の間の見物人は、人間を見ているのではない、と教えられた。かれらは、ホテルの玄関に取り付けられている自動ドアの開閉をみているのだった。

 私は一刻も早く、この土地に慣れたい、と思っていた。ホテルの角を曲がれば、そこは王府井大街、つまり北京銀座だから、散歩の場所はは恵まれていた。北京の人たちはゆっくり歩いていた。あまり大声で話している人もいなかった。このことは私一人の印象ではなかったようである。団員の中には、何人か戦前の北京を知っているお方がおられたが、その方々から「音がなくなった」「色がなくなった」という印象を聞かせていただいたのだから、北京の人々が、ひっそりしているということは、まちがいないらしい。

 戦前の町の音とは何だったのだろう。物売りの叫び声、鈴の音、ケンカの声、叫んでいる人、私にはうまく再現できない。とにかく、喧噪があったというが、今、人々は春の日を浴びて静かである。叫ぶ人もいない、駆ける人もいない、犬もいない、猫も見ない、鳥の声も姿もない。

 私は時々、道行く人に、にっこりした。向こうが、私をじろじろ見ているから、こっちもお返しだ、と思ってにっこりしたのである。すると、ふっと逃げるように視線が避けられた。一人や二人ではなかった。私は後で少ししょげて帰ってくると、中根さんにこのことを報告した。

「あなたの大きな眼でにこりとされたら、向うもビックリしたんじゃない?」
 と中根さんは言われた。これは、ホメ言葉ととっていいのであろうか? 中根さんは一応はそのつもりであろう。
しかし私は小説家の習慣を堅持しやはりこの際ヒガムことに決めた。つまり目つきが悪かったということならむ。そうであろう。どの人もどの人もはっと視線を避ける理由がわかる。

 王府井は私にとっては最終的には理解しがたい町であった。そこには人が溢れていた。新華書店という本屋は、東京でも数少ないほど大きい。一番売れている本は、言うまでもなく、毛沢東語録だろうが、これは一階の一番いい場所で、各国語で売られているから、広大な面積となっている。私は二階に上った。地図があった。ほしいのは二種類あったが、二種類とも売り切れだと言われた。

 王府井には店がないのではない。しかしその人出の割に、店もくすんで、ひっそりしている。半分閉まっているような、開いているような、外国人にはよく分からない店もある。もちろんこの並びには東風市場や北京百貨大楼などもあり、そこには、いろいろな品物を売っている。ラジオ売り場は、青年たちで人だかりしているし、子供は文房具売り場に集まっている。私がにっこりすると子供だけはにたって笑ってくれた。只、北京銀座は、日本と比べると、これが銀座なのだろうか、と思うほど、くすんだところがある。

 私は再びここで危険な点にぶつかる。事実は今、書いた通りなのだが、日本は資本主義の原則にのっとって、できるだけ、華々しく装うとするのだが中国は社会主義の国で、あらゆる商店が国営なのだから、そうする必要がないのである。王府井の店は、はっきり言って、日本の地方都市の銀座通りよりまだ静かである。しかし国家の構造の違いを考えればこれで自然なのであろう。私は日中の理解の困難さを、つくづく感じさせられるエピソードを思い出していた。私たちの学術文化訪中使節団は、日中国交回復後に廖承志氏が団長として来られた訪日使節団の返礼ということになっていたが、その時日本に来られた団員の中の一人の女性が、日本の商店を見て、
「こんなに物があるのは誰も買う人がいないからだ」
 と言われたということを、わたしは耳にした。これは全く、正しいと言うべきなのか、正しくない言うべきなのか。いずれにせよ、同じような誤謬を多分私も犯すのだろう、考えると、少し憂うつであった。

 見方が違っても友人になれる

 私たちは、ゆっくりとしたテンポで(とは言え私のような公的行事に追われることに馴れていないものにとっては、結構な量であったが)あちこちを表敬訪問したり、招宴を受けたりするようになった。

 中国対外友好協会、中国科学院、人民大会堂。私たちは出発時間の五分前にはホテルの玄関に集まっている。私も――普段はあまり時間の正確なたちではないから、二週間だけは、無理に正確にしょうと心に決めている。五分前には既に。例の紅旗と上海が、玄関前に並んでいる。空港でもどこでも、これらの車の停め方は、実にうまい。そして時間ぴったりに行動は開始される。

 私にとって大切な、戦前の中国を聞かせて下さる方々のお話によれば、時間を守るなどということは、戦前にはなかった、と言うのである。中国人なのだが、戦前はどういうわけか、時間は守られなかった、と言うのである。中国人の意識は確かに変わったのである。

 私はこのような公式訪問に必ず行われる、中国風の会話のやり取りがかなり好きになった。北京在住の日本人の中には「あれを何度も聞かされるのは、やり切れません」という声であったが、私は最後まで楽しんでいた。それは主に吉川団長と、中国側の代表者の方との間に交わされる、「聞かせ用」の会話という形をとる。私たち団員は、お絞りを使い、出されたお茶やタバコを飲みながら、黙って聞いていればいい。吉川団長、衛藤事務局長には激務であったが、私はまことに楽でいい役廻りであった。

 この聞かせ用会話が退屈しなかった理由は二つある。一つは、吉川団長が、中国側にもそれだけの深い研究者がどれだけいるのだろうかと思うほど(この点は私が無知なので、吉川団長を褒めるあまり中国側に失礼してはいけないと思うが)中国文学に関して造詣が深かったことと、中国側の話の進め方が、やはり私から見ると大変にエキゾチックで、いくら聞いても飽きない楽しさであったからである。
 後から思うと、私たちはどこでも、政治の話をされなかったが、それは、はっきり言うと、先方が吉川団長に一目置いていたからであろう。又、団員の中にも、場違いな方角から、政治的な話を割り込ませたら、黙って聞いていたりせず、それは、はっきりとお許し願うという態度をとる人が何人かいた筈だと私は考えている。

 そんな背景もあって、会話は、いつも、和やかに穏やかに行われた。年齢のことから話が始まる場合もあった。中国では、高齢を喜ぶことは、「年の話をして失礼」ということにはならないようである。それは、私の好みでもあった。私は年齢を隠す女性とは、性格的に仲良くなれない。

 郭沫若氏は、日中友好協会名誉会長であり、中国科学院院長でもある。最近体が悪いという事だったが、無理をして、人民大会堂まで出向かれた。
「(出迎えもせず)四日目になって会うのは官僚主義です」
 などと、中国流のユーモアを交えて話される。小川大使とはもう一年半も会っていないという。八十三歳とは思えないほど、顔色は色艶ともにいい。

「頭は他の先生より一世紀遅れています。茅、石川淳両先生は二世紀進んでいます」
 など郭氏の通訳が言う。細かいことは聞き洩らしたので、一世紀、二世紀という表現の出た理由は、私には厳密に分かっていないが、何となく、日本人にしみ通りやすい上質の会話だという気がする。

「私は杜甫には興味を持っていませんでした。難しかったのです。李白はわかりやすいので、李白に傾きました」
 すると吉川団長が、
「私にはわかりにくいから、杜甫が好きです。先生の書物を読んだごく初期の一人です」
 と言われた。これに対して郭氏は、「批判してください」と返答した。一瞬、私はちょっと醒めた気分になる。郭氏は一九六六年四月、文化大革命の初期に、「現在の中国において自己の著作は値打ちがない。全部焼却すべきである」と自己批判したことを伝えられている。私には、当時、中国の人々がどのような気持ちで自己批判したのか、もちろん正確に理解することはできない。さきざきな説を読み、濃厚な中国の歴史の流れの中で生き抜いて来た天性の才能とでも言うべき国民性を考え、日本人とは違う国家と国民の関係・その表現法を思い、軽率に判断を下せないと、重苦しい気分になっているだけである。

 もちろんこの場合の「批判して下さい」は「批評して教えて下さい」という程度の社交的な言葉である。しかし、郭氏が心から自己の著作には値打ちがないと思ったという可能性は信じ難いから、私は何となく無残な思いを禁じ得ないのである。郭沫若氏は、一九七一年の夏にも、フランスの訪中国民議会議員団の団長であるペールフィットに対して、「古い儒教道徳を尊んで行く」と言い、ペールフィットはそれに対して、「孔子の理想像は一度失われたものである故に、むしろ新しい理想像なのだ」と解釈している。今は批孔運動がつむじ風のようにこの国を走り抜けている。時代の流れは常にこの老学者の上に、表面上では齟齬を来したように見える。

 人民大会堂は何から何まで大きい建物である。ここは会議や宴会などに使われる部屋が多くあるらしく、私たちは三回ここで会見をし記念写真を撮り、二回晩餐をご馳走になった。最後の一回は四月五日鄧小平副総理との会見であった。外交部部長の喬冠華氏も同席していたが、遂に最後まで一言も発言しなかった。

 鄧小平副総理は恐ろしく小柄な人であった。年齢より、はるかに若く見える。その時も日本では「老」という言葉をつけるかつけないか、という年齢の話から始まった。中国では老をよくつける。
 そこで吉川団長から薫必武氏の死去をいたみます、という挨拶があった。
「ありがとうございます」

 礼は一言であった。すぐ話は別の方向で続けられた。我々は仲良く付き合わない理由はない、小川大使ともよく話し合った。イデオロギイの違いは大切ではない。
 そこで、鄧氏は、「かあっ」という音を立てて足元に置いてある白いホーローびきの痰壺の中に「ぺっ」と唾を吐いたのである。

 私はびっくりしたが、実は、その時、実にいい気分だったということも、言っておかねばならない。それはまことにまっとうな、中国伝統の堂々たる振舞いであった。私は何国人によらず、その国の人らしい人物をみると深く惹かれる。

 この席で、鄧氏が「洗脳ではない」と言ったことは、画期的なこととしてあちこちで報道されたが、これは次のような背景があってのことである。つまり吉川団長が自然科学の方面では随分お互い収穫があったのだが一番一致を見にくかったのは、文学でした、という意味のことを言われたのに対し、

「過去において、洗脳ができると言われているが、人間の頭脳は簡単に洗脳されるとは思いません。年を取った人は知っているでしょうが、中国に入って来たものは殆ど西洋のものでしたが、我々の頭脳がそれによって洗脳されたことはありません。見解や見方は違っていても、いぜんとして友人になれます」

 ということだったのである。
「そのお言葉で安心しました」
 と吉川団長は言われた。
「お国では洗脳するものだと信じている人が実に多いです」
 皆、笑っていた。しかし、このことも、後から考えると、又、別の考えさせられる要素が持っていたのである。

 声なき声の重み

 文学は政治に奉仕する
 日本を発つ前、私は、中国に行けば、当然文学者に会わせられるだろう、と思ってはいたが、その事に関しては、本能的に避けたい気分を持っていた。またずっとずっと若い時、私は共産圏の国から来日した作家という人に会い、「あなた方の文学は、社会にどういう形で役立っているか」という質問を受けて閉口したことがある。文学の意義は日本では効用をもって計られるものではない。

 私はグループ別で行動する打ち合わせが外務省で行われた時、既にその予感があったから、私としては生活を見るのが目的で、文学を語り合っても仕方がない。ほかの、たとえば自然科学のグループにでもお加え頂きたい、と遠まわしに言い、永井龍男氏に、「我々は曾野さんに、嫌われちまってるようだから」冗談を言われるくらいだった。

 その段階において、私が中華人民共和国憲法をはっきりと読んでいて、憲法通りに文学の世界も運営されていることを知っていたなら、私は、もっと明確に、文学関係の集りにだけは出席をすることを拒否したろうと思う。中華人民共和国憲法の第一二条には次のように書いてある。

「プロレタリア階級は文化諸領域をふくむ上部構造において、ブルジョア階級に対し。全面的独裁を行わなければならない。文化・教育・文学・芸術・体育・医療衛生・科学研究は、すべてプロレタリア階級の政治に奉仕し、労働者・農民・兵士に奉仕し、生産労働に結びつかなければいけない」

 つまり、文学はプロレタリア階級の政治に奉仕するものなのである。
 私が中国の文学について勘違いしていた最初の徴候は、人民大会堂の招宴において、表われた。
 中国側は小説家のいる円卓には、いつも中国側の文学関係者が同席するようにきめ細かく配慮してくれていたが、そこに私は、全中国で五百万部ものベストセラーを出した浩撚氏初め、数人の作家や劇作家と同じテーブルになった。そして作家が月給制であること、発表前に作品を、労働者・農民・兵士に見せて、「その意見を聞いて、正しいものがあれば書きなおすのだ」ということを知った。

 私は今ここで、自分の作品の作り方を述べるのはよそう。私は怠惰な性格だから、作品をいつも、厳密に書いている、とは言い難い。しかし、エラーでない限り、作品は他人の意見を聞いて直せるような甘いものであっては(原則として)ならない筈なのである。第一「文字」における「正しさ」とはいったい何なのだろう。

 それが、分からないのは、私のつまり不勉強のせいだった。中国の憲法を知っていて丁寧に読めば、そこには彼らが、そう言える理由がわかるのである。
 第一に、これは日本人の多くが、勘違いしている点なのだが、日本人は、今の自民党に代わりに、共産党が政権を取っているのが中国と思い込んでいる、それ故、労働者の党が政権をとった場合を考えて、総選挙はもちろん、デモ・ストも大いに盛んであると思っている。大学の自治なども当然あるものと考えるのである。

 しかし、中国の憲法を読めば、そのような日本人の考える理想が、中国にとって何もいいこととはされていないことが、はっきり分かるのであろう。中国の憲法の前文は、日本文になおして僅か三ページと一行という短いものだが、その中に三回にわたって、中国は「中国共産党の指導のもとで」動かされる国であることを明記している。

 中国女性がお洒落しないワケ
 中国には総選挙はない。「民主的協議を経て選出され」た全国人民代表大会は「中国共産党の指導下にある国家権力の最高機関である」と第十六条に書いてある。つまり国家権力の最高機関である全国人民の、その上にあるのが中国共産党なのだから、中国共産党は国家を超えた偉大なものである。中国は、共産党の独裁政権によってなり立っている。その共産党に奉仕するのが文学であるとすれば、党の方針に近いような筋立てにするのが、正しい創作ということになる。それがはっきり分かるのも道理である。

 作家・劇作家たちは、皆、党の方針を信じて、その協力をしていることがわかる素朴な誠実さを感じさせる人達ばかりであった。
 私は話題を文学からそらそうとした。
「実は私は、東京である奥さんに、是非伺って来てくださいと言われたんですが、中国ではどうして、そう、地味な色のものをお召しになるのでしょうか、というんです。くだらないことですがお答えいただけませんか?」

「それは、表側だけの中国をみているからです」
 浩然氏は言った。私はちょっと反論した。
「それはそうでしょうが、中国の方だって、日本を表面しかご覧になっていない、お互いにそんなものです」
「毛主席も言われている通り、中国では婦人たちは天の半分を支えています。ですから、男のために装う必要もないのです」
「ああ、そうですか、ありがとうございました。そう申し伝えます」
 私は、こういう中国風の答え方に次第に馴れ始めてはいた。善悪の問題ではない。こういうふうにタテマエを述べるのが中国式なのだ、ということはだんだん分かって来ていたのである。この点については後日談がある。それから数日後に、佐伯彰一氏と私はたまたま、北京百貨大楼を見学のために歩いていた。二階の売り場にちょっとした熱っぽい人の列ができていた。小銭を握りしめている男もいる。何なのだろう、と佐伯氏と私はその先頭の部分を確かめた。するとそれは、春を思わせるピンクと黄色と青と藤色のナイロンのスカーフの売り出しであった。四色全部買って見合わせている女子学生もいた。

 北京大学にも革命委員会があり、大学の革命委員会はやはり(共産)党員によって指導されている。その中で印象的だったのは、二人の大学生だった。
 中国では現在大学試験というものはない。工場や、農村、解放軍で二年間働いた青年たちの中から、皆でいいと認定した人を推薦して大学へ送るのである。二人はそうして選ばれた若者たちであった。健康そうで、いかにもしっかりして見える。

 この学生たちばかりでなく、大学関係者も言うことは大体同じである。創作の目的は、名利のためでなく、プロレタリア革命の陣地を獲得することである。自分たちは初めてどうして米ができるのかも知らなかった。しかし、農村に赴き、農村の実体を知ると、創作の意欲が湧きおこった。

 私は心の中に次第に重いものがしこるようになった。私はまだ本体をつかんでいなかった。ただ、知れば小説が書けるというものではない、と思っていた。小説はもっと偉大だとか、難しものだと言うのではない。小説を書くの知る事は必要だが、知れば小説になるというものではない事だけは明らかなのだ。

 何が善で何が悪だろうか
「私たちは下層貧農と暮して、涙を流した。老農兵のやったことに、心を打たれた。私たちはそのことを書かねば人民大衆に済まないと思った泛泛。貧農や下層中層の人々は手を握って、ぜひ、これを書いてくれ、と言った。彼らはいかに共産党に忠誠を尽くしたかを書いてほしいと言ったのだ。その中で、我々が古い教育の中で受けた偏見も直された。自分も以前は、小説の中の人物は、実生活の中の人物より高いものである、と思っていた。

 文革以前の学生の文学は、空辣だった。或る学生は言った。《未名湖(北京大学構内にある池)のしだれ柳は、病気の女性の髪のようだ》こういう表現は、今ではつまらないことだ。と思っている」

 これは北京大学中文系学専攻責任者、厳家炎氏の発言の要旨である。
 私は小説の中の人物が、実生活の中の人物より高いものである、と思ったことがあるだろうかと自問していた。そんなことは只の一度も頭に泛んだことさえなかった。ここに出席している人たちは、農村の苦労を、それまで全く知らなかったようなことを言うが、どんな高貴の生まれだったのだろう。又、北京大学の末名湖のしだれ柳の表現は非常にいいものだとは言わないが、かなりうまい描写だと思う。それをなぜわざわざ、自己批判をして見せたのか。

 その会の最後に山本健吉氏が、自分は十七年前北京に来て、講義をした。その時、周揚氏が、文学者の批判について説明した。今と同じ労農兵と下層農民の間に入るべきだと言った。彼の作品は当時二十万部も読まれているということだったが、その周揚氏は今どこにいるのか分からない。生きているのか死んでいるのかさえわからない、ということを言われた。それに対しては誰からも、何の返答もなかった。

 私は次第に、文学者との会議を何とかして避けたい、と思うようになった。それが自分の心の安定のために最も必要な事と感じた。私の心理に追い打ちをかけるようなことをいくつか重なっていた。私は、台湾で訳された香港でも売り出されている自分の作品の中国語訳を二冊持って来ていた。一つはエッセイで、一つは短編集であった。中国にとって台湾は、認めがたい存在であることは知っていたが、資料としての本くらいは別だろう、と考えていたのである。
台湾が「敵」であってもいい。しかし「敵を知り己を知らんば百戦危うからず」と言ったのは、この国の古の思想家であった。団員の著書を集めて北京大学に贈るという段になって、この二冊は、日本大使館から止められた。中国側が気を悪くするから、と言うのである。私は初め信じなかった。大使館の小心のせいだ、と思っていた。私の本そのものは、カミクズ籠に捨てて帰ってもいいものである。
しかし、私は偉大な中国に、そのような狭量なことが行われていると思うのが嫌であった。
しかし後で、たまたま死去した蔣介石についての衛藤瀋吉氏の発言に対する中国側の反応を見ると、日本大使館の判断は正しかったようにも思える。

ついに、私は再び、今度は北京大学とは無関係の文学者との会合に出なければならなくなった。メンバーはすでに人民大会堂の夕食の席でお馴染みの人たちばかりだった。その日、私は文庫本の論語を持って行った。批孔批林についてもし話が出たら批判点をよく教えてもらって帰ろう。そのためにはテキストがいるだろう、と思ったのである。

午前中は、プロ文革をリードした革命的模範劇なるものについての話があった。私ははっきり言って、模範劇などと名前の付くものに興味はない、模範劇のルールは勧善微悪である。何が善か悪かを簡単に決めることの単純さからだけでは、私は逃れたいと思っている。私はしきりに普段吸いなれていないタバコを吸った。午前中だけで二十本吸った。私は前から心臓の期外収縮という、脈の停まるおかしな(重大でない)病気があったが、タバコのせいか脈のしゃっくりはひどくなり出した。私は心臓をなだめるために外へ空気を吸いに出た。

午前中だけ勤めれば、もう充分だ、と私は思った。これほどに耐え難く思われる会議には、私は出ない自由がある。私はその午後、四時から、北京の小学校に通っている子供たちに会うように手筈を整えてもらった。

タテマエに隠された声なき声
しかし、午後の会議にも出ないわけには、いかなかった。天の半分を支えるのは女の一人として何か言わなければいけない、というのである。

しかし中国側の長い演説のおかげで、私の喋る時間はなさそうに見えた。私は内心喜んでいた。私は何も喋りたくなかった。何も聞く気もなかった。しかし私に数分の残り時間が与えられた時、私は自分の手元にあった論語のことを思い出した。

私は、それならば伺いますが、孔子批判は全面なのでしょうか、部分なのでしょうか、簡単にお答え願いたい、と言った。
 すると一人が、一つの時代が生まれるには、確かに前の時代を踏まえる必要があり、前の時代の悪は、次の時代を作る要素になる、という意味のことを言った。それは孔子の反面教師としての存在意義を認めるように聞こえた。私は初めて身を乗り出して聞いていた。そのような見方なら、私にはよく理解できた。

しかし途中から、ベスト・セラー作家である浩然氏が、話をとり、孔子は全面的批判すべきであるもという事になった。そのまま前の人に言わせておくと身の危険を感じるので、この際、そこにいる作家達全部の為に、証を立てておいた方がいい、という感じである。

私は本質的な悲しみに捉えられた。それは中国側とは関係ないことであった。私はまだ、中国を知らなかっただけであった。中国は昔からタテマエでものを言う国だから全面的に良い人間と、全面的に否定しなければならぬ人間、を分けることができるのである。昔私は、高校の時殆ど二度と使う折がないと思われる一つの単語を覚えてしまった。それはローマ教皇の特性をあらわすinfallibility(不可謬権)という言葉があった。思いがけなく私は、この単語を中国で再び使うことができた。それは毛主席に対してであった。中国の全面性の中では毛批判はどんな小さなものも聞かれなかった。

全面的に善き人間も、全面的に悪い人間もこの世にはいない。全面的に良き存在など神しかいなく、全面的に否定されなければならないような人間もいないから、それは悪魔ということになる。

孔子を全面拒否することは孔子は人間でなかった、ということである。毛主席を全面的支持することは、毛主席が神であるということになる(私は、しかし、そのような見方をする人がいても、一向に構わない。しかし、それは少なくとも、作家と呼ばれる人間の見方ではない。いや、更に、そういう「作家」がいてもそれは自由である。ただその場合、私は長くもない人生に、延々と何時間も、そのような「作家」と語り合うことで、時間を失いたくない)。

私は、全面ということについての上のような私の考えの一部を述、しかし一九七五年に、皆さんが孔子を全面批判なさったことはよく覚えておく、いいことを教えて頂いてありがとうございました、と言った。それではちょうど、私は席を立たねばならない時間になった。

 私はこれからごく短い間だが、私の感情的なことを書くつもりである。私は今までできるだけ、裏付けのないことは言うまい、実証的になり、感情論を排そうとして来たが、それだけでは済まない場合もある。

 この部分を私は一段、段落を下げて活字を組んでもらうことにする。そうすれば感情論は一切要らないと言う、私の最も尊敬するタイプの読者の方々は、そこを飛ばして読んでいただくことが出来るからである。

中国滞在の十五日間、私は殆ど楽しく陽気だった。それは私たちの面倒を見てくださった中国側の人々が、誰も彼も穏やかで、優しく賢く、心遣いが細やかで、私は不愉快になどなりようがなかったのである。しかし「文学者」との会合を持った夜、初めて、私は心が凍るように感じた。私は昼間、タバコを吸い続けることで耐えて来た事の背後にあるものを考えたのだった。

闇の中で、私は、中国にいる筈の他の本当の作家たちの声なき声を感じた。私が北京へ来て以来、度々会う作家・評論家は、常に七、八人だが、八億人の人口の中に、文筆に携わる者が北京には、七、八人しかいないわけではないであろう。

とすれば、私たちが、会わせられもせず、その名前も、存在さえも知らされなかった、本当の作家の魂を持った作家は、今、書くことを禁止されている状態にあるか、自らペンを折ったかのどちらかであろう。
私はその人々のことを考えていた。長い重苦しい夜であった。

日本のいいところと中国のいいところを合わせたい
私は文学者の会議を抜け出すと急いで、子供たちに会いに行った。北京在住の日本人の小学生で三里屯第三小学に通っている子供たちである。
以下、のびのびとおしゃべりしてくれた四人の少年少女たちの話を、多少ごっちゃにはしてしまったが、まとめてみる。
学校は、夏は七時三十分から十一時三十分まで。午後番の日は一時十五分に出て五時三十分までかかる。友達と何喋ってるかって? そうだな、あんまりお互いの家のことは言わない。ボクはいつか友だちのうちに自転車で遊びに行ったら、小母さんみたいな人が出てきて、家に入るな、っていわれちゃった。でもね、友達の家では遊べないけど、道で遊ぶんです。

小遣いってのは、あんまりないみたいだけど、買うとしたらアイスキャンデーかな。
ボクのクラスは四十八人が紅小兵。ボクは外人だからなれないでしょう。後はね、先生の言う事を聞かないのがなれないんだけど、ボク、紅小兵になれないのに、共感もっちゃうなア(筆者註、紅小兵になるとピオニールと同じく赤い三角巾を身につけていい)。

ボクのクラスはね、四十六人のうち三十二人が紅小兵。
第一時間目にはね、「毛主席はこう教えています」ってのがあって革命の歌を歌うの。
外国のことはですね。僕、日本でいうと小六だけど、マルクスとレーニンは習った。アメリカのこと? 地理で、ロッキー山脈は習ったけど、平野と川は習わなかったなあ。もちろんリンカーンもケネディもない。常識っていう時間があって、理科と社会が中に入っているけど、歴史の時間はない。政治って時間があるんだけど、ボクたちは難しすぎるって教えてくれない(筆者註、これは語学力の問題ではないらしい。子供たちは皆、中国語はうまそうである)。話題? 話題はテレビのこと。×××のお父さんはテレビを持ってんだよ。あとは映画の話ね。女の子の話? しないよ。ぜんぜんしません。

 あのね、日本の人はね、どんなに中国風の格好しても、靴みればわかっちゃうんですよ。こっちの人は足元から見るから。
ボクたちね、人民公社へ働きに行ったんです。四、五年生から行くんだょね。麦にまじった小石を拾ったり、キャベツの根っこ掘ったり、楽しかった。
『何になりたいか』って、そんな話、しないよね。休み時間も、話ばかりしてふらふらしてるけど。虫ハカセ? そんなのないよ。蝉はとる。魚釣り? しないんじゃない。旗立てた車見ると手を叩くようになっているんです。
『共産主義のあとつぎになる』って言うよね、あんまり実感ないみたいだけど。
『お父さんお母さんと毛主席とどっちが好きか?』って言ったら『毛主席』って言ったよ。抗日戦争のことが、教科書に出てくると、先生はそこの所抜かしちゃうの、私のクラスでは。

批孔? わかりませんか? まあ、住んでみればわかるでしょう(大人のような口ぶりで、私も思わず大笑い)。ボクね、日本のいいところと、中国のいいところと、両方合わさるといいと思うなア(実感がこもっていた。いい言葉であった)。

上海の美しい朝
私は生活のことにもっと触れるべきであろう。 他の先生方はそれぞれに物理や化学や医学や電気や政治や、さまざまな学問をお持ちなのだが、私にとって専攻すべきものは人の心と生活とその表現くらいのものである。

戦前の中国を知らないことは、現在の中国のすばらしさを理解する力に欠ける。それは中国に着くなり私が自戒したところであった。
中国と日本では、過去の富も貧しさも、封建制度も共に桁外れに強烈である。私は或る時、中国系のアメリカ人がこう言うのを聞いたことがある。
「洋車を引いている車夫を、後に乗った白人がステッキで牛馬にムチを当てるみたいにぶん殴って、金を払わないで行くのを見たことがあるんですよ」

 ぶん殴ったのは、もしかすると日本人だったかも知れない、とその時、私は思っていた。相手は私を労わるために、真実を言わなかった可能性も強い。
 餓死寸前のような乞食が、生きているか死んでいるのか分からないような状態で通りに横たわっていたという光景を教えてくれた人もいた。そして町は腐敗臭に満ち、恐ろしく汚かった。

 それと対比するために、私は、上海の或る美しい朝のことを伝えなければならない。
 その朝、かつては外人専用の長期滞在者用のホテルだったという錦江飯店の窓から下を覗くと、朝陽が澄んで光っていた。男の従業員らしい人が何人か、ホースでホテルの前をていねいに掃除をしている。私はそれから暫くして下へ下りて行き、通訳の趙さんに会った。

「今日は、木曜日でね。お掃除の日なのよ。ですから町中、いつもしないところまで綺麗にしているの」
 ああ、いい習慣だなあ、と思った。それは私自身も学ぶべきことであり、我が町、我が国土も学ぶべきことだった。
 中国がここ迄来るには、大変な努力がいったのだろう思う。大都市と外人が立ち入ることのできないような辺境とは、かなり生活環境に差があると思いますよ、と忠告してくれる人もあったが、とにかく上海の町が、小ざっぱりしていることは目に見えて間違いないのである。

 私はこの旅行中に、一軒だけ中国人家庭を見せてもらい、数人から生活の話を聞いた。中国では、現在、外人は中国人家庭に行き来して付き合う事が許されていない。それ故、個人の家に入れるということは、貴重な機会なのである。
 その一軒から紹介しよう。

 それは上海の郊外の黄渡人民公社に所属しているアパートである。それは日本式に言うと、平屋の長屋式になったものだった。ご主人は留守だったが、二十六歳になる、まだ娘のような奥さんが、よく太った満一歳の坊やを抱いて私たちを出迎えてくれた。家はいわゆる1DKである。天井板は張っていない。寝室は、七畳半くらいの面積だったろうか。ダブルベッドの鉄製の机、二棹の箪笥の上に時計などが乗せてある。箪笥の上には、すばらしく立派な桶が置いてある。赤ちゃんを産湯に使わせたのだという。

 二十九歳の夫は昔は水上生活をして、生産大隊(人民公社の下部機構)に属して魚をとっていた。それがこうして新しい家を与えられて、ちゃんと陸の上で生活するようになったのである。今は市内の工場で働いている。

 台所と食堂は六畳くらいの面積である。お鍋四つ、薬缶一つ、ケロシンの炊事用ストーヴ、それにたどんもおいてあって懐かしい。いわゆる水道は各戸には引いてない。トイレは共同、風呂はない。
 奥さんの方は今でも子供を託児所に預けて、生産大隊の経理で働いていた。収入は夫四十五元(七千二百円)妻三十五元(五千六百円)計一万三千円近くである。編み物と洋裁をするのが好きだというので、ミシンはおいくらぐらいですかと聞くと百元(一万六千円)ということであった。米は配給、肉は市場で買う。物価は町中と人民公社の中の市場とは全く同じ値段で、ただ町よりもっと新鮮だと言う。

 帰りがけに、私はちょっと気になって、
「ここの暖房は?」
 と尋ねた。
「この辺は暖かいので、暖房はいりません」
 と奥さんは言った。ホテルへ帰って調べてみると、一月の最低はマイナス九度だが、最高は十九・九度で、平均が十三・七度である。東京、大阪の冬より寒い日がある筈だが、それでも暖房なしであろうか。

 つつましい暮らしの中で
 私が話を聞いた別の家族は、上海ではない或る地方都市である。
Aさんの夫の職業は聞き忘れたが、夫婦合わせて百元(一万六千円)ちょっとの収入はある。これは標準的家庭の収入であろう。食糧の配給量は一月分として大体次のようである。
夫、十九・八キロ 妻十六・八キロ
息子と娘(成人)二十七キロ
十九歳の息子 十六・八キロ
このうち米で渡されるのは、一人分六百グラムないし一・二キログラムである。あとは、トウモロコシ、アワ、コーリャンなどの雑穀、四・八キログラムのメリケン粉、大豆油三百グラムなどである。祝日や節句、お産のとき、病人などには特配がある。ビスケット、カステラなどは米の切符で買う。

朝はアワのおかゆ、トウモロコシの団子、まんじゅう、野菜など。肉は一月に四回くらい食べるという家と、そんなには食べていません、という家とまちまちである。つまり人数の多い家は肉の配給量が全体で多いから、何回かに分けて食べられる、という事らしい。魚は配給、塩魚は自由、近くの川で釣った魚は高価だが、買おうと思えばあるという。

衣料について。綿製品は配給である。一人一年分七メートルちょっと。化繊の上着は自由に買えるが十五元(二千四百円)する。
住居について。四軒の家について聞いた。
A家 奥さんが技工士(ミシンをかける人)家族五人で十八平方メートル(一一畳)の面積を有するアパートである。家賃は一年五元(八百円)。 
B家 旦那さんが工人(運転手)の夫婦、子供なし、昔からの自分の家、二十二平方メートル(十三畳)。六十平方メートルの庭付き、国家に土地代を三元(四百八十円)払う。
C家 夫が電気器具を作っている所に勤めている夫婦。夫婦二人のみ、アパートの面積は九平方メートル(五畳半)。
D家 妻は床屋さん、六人家族で二十二平方メートル(十三畳)の面積のアパート住い。自分の持家、三元半(五百六十円)の土地代を国家に払う。
 家にはいずれも風呂はない。年に何回くらいしか、公衆浴場へ行かない、という。乾いた土地では、日本のように入浴の必要性はないのである。
 他の物価について。
 砂糖 一キロあたり二百四十円
 ミシン(上海製) 百五十三元(約二万五千円)
 場所によっては値段が違うことを示している。輸送費がかなり高いことがわかる。むしろ日本のように全国均
一値段という方がおかしいかも知れない。
 豚肉(上海のマーケットで)
 モモ(キロあたり)二百六十円
 方肉(皮を除いた肉・キロあたり)二百十二円
 一般に中国ではどれくらいの収入を得ているか。労働者は八級に分かれている、という。もっとも最上級の
八級に属する人は古参で、数は極めて少ない。この人達は百五十元(二万四千円)前後の収入がある。最
下級の一級になると四十元(六千四百円)であるが、暮らせないことはない。

 行程士(エンジニヤ)の最高級になると三百元前後(四万八千円)もの高給とりである。
 ついでに作家の収入にも触れておこう。原則は月給でランクによって決まる。最高は三百二十元(五万一
千円)最低が五十元(八千円)。他に一千字につき二十元(三千二百円)から八元(千二百円)くらいの歩合
があるという。中国ではエリート中のエリートである。

 私はふと思いついて、亡くなった梶山季之氏の仕事ぶりを当てはめてみた。梶山氏は当代第一の売れっ
子だったから月給は五万一千円であろう。従って、千字につき、梶山氏は二十元の歩合をもらうことになる。
梶山氏は最盛期には月に千枚ずつ、つまり四十万字を書いていたといわれる。これを計算すると、梶山氏は
中国でも何と百三十三万円の月収、年収にして千六百万円の高額所得者になる。

 もっとも、梶山氏のような文学が、人気があるからと言って、中国で最高級の作家と認められるかどうか私には分からない。

 逆に執筆停止になるかもしれない。その方が問題である。
「毛沢東先生のお給料はおいくらなんですか」
 私は或る日、外交部からいつも私たちについてきてくださっている徐敦信日本部副部長に尋ねた。宮内庁の内廷費から、総理大臣、都知事の月給まですべて明からさまな日本から来た私は、決して失礼なことを聞いたつもりはなかったのである。

 しかし徐氏は困ったような表情をした。
「それはわかりません。しかし(党)幹部の給料は最高のクラスの行程士より安い筈です」
 私は自分が或いはひどく失礼な質問をしてしまったのかも知れないという話を、北京で他の日本人に話した。すると、その人は笑いながら言った。

「さあ、失礼だったかどうかはわかりませんけどねえ。今でも北京では要人はどこに住んでいるか分からないんです。二年前くらい前までは、政府の機関でも、看板を出していなかったくらいですからねえ。毛主席の月給はとうてい分からないんじゃないですか」

 もう一つの幸福

 広大な地方を結ぶもの
 私たちは特別機で、約一週間の西安、桂林、上海の旅に出た。それは実に楽しいものであった。
 どこに行っても、私たちは丁寧に迎えられ、細かい心遣いを見せられた。そして又、私たちは実に多くの人々に見つめられた。西安で六百年の歴史を持つ鐘楼に上がった時も、まわりのロータリーには黒山の人だかりができた。私たちの誰もがこんなにも多くの人から見つめられたことはなかった。中には「曾野さんを見てるんだ」と私をからかう団員もあったが、かりにそれが正しいとすれば、それはもう少し正確に「曾野さんを」ではなく「曾野さんの服を」と言うべきであった。私が着ている明るい色は、中国の社会では、決して表に出されることはなかった。

 私は、それは、上海に行けば少しは違うだろう、と考えていた。上海は何といってもいい意味で人ずれした町だとうと、と思った。しかし上海でもそれは変わらなかった。もちろん、それは決して不愉快なものではなかった。人々は私たちを閉じ込めたりはしなかった。私たちが動き出すと、道を開けてくれた。親しげな表情による感情の交流はあまりなかったけれど、珍しいものを見ようという自然さは、私も同感できるものだった。私も相変わらず見返すことにした。

 上海では、私は或る日、我儘を言ってグループから離れ一人で街を歩く許可を得た。通訳の趙さんが一緒に来てくれたので、私の散歩はもっとみのりの多いものになった。
「つまり、こういう町の商店全部が国営なのね」
 私は今さらでもないことを、趙さんに確認しながら歩いた。
「そうですよ。土地は全部国家のものです」
 そういう原則的なことも、私は言葉に出していってみなければぴんと来なかった。
 町には時々、人の列ができていた。
「何を買っているのかしら」
 私はすぐ覗きたがった。するとつきとめるまでもなく、列の先端から、一人の老人が、日本で言うアンコ入りの草餅のようなものを食べながら出て来るのが見えた。
「ここはね、お菓子がおいしいので有名なところですよ。だからすぐ人の列ができるの」
「わかるわ」
 私も列が無かったら買ったかもしれなかった。
「中国は国が広いですからね。北の人と南の人とでは習慣が違うのよ。北の人はお菓子でも何でもうちへ持ち帰って食べるの。でも南の人は開放的でしょう。お菓子を買ったら、すぐに食べちゃうの」
「わかるわ、その気持」
「もうすぐ、清明節と言って・・・・・」
「わかります。お墓参りする日でしょう」
「でもね、今はお墓参りはしないんです」
 この趙さんにばかりでなく、私は他の人たちからも、「もうお墓参りはしないんです」という説明を受けた。清明節には、子供たちは学校から革命に倒れた烈士のお墓にまいって学習はするのだが、いわゆる先祖の墓にはいかないのだという。

 世界中どこでも、墓参りに関する習性は根強いものがある。その習慣を辞めるという事になって、《ああ、簡単でいい》などと思うのは、私のような不心得者だけであろう。私の周囲の年とった人たちは、お墓参りを禁止されたらどういう心情になるのだろう。

 暫く行くと、趙さんは私のためにわざわざ立ち止って一軒の店を教えてくれた。それは回族(回教徒)のための特別の食料品店であった。つまり、いかなる加工食品にも、豚肉やラードを使っていないのである。
「回族は少数民族ですけどね。でも皆に好きなように生活させているのよ。決して、生活のやり方を無理に変えさせたりしないんです」

「では回教寺院はどうなんです。礼拝はしているんですか? 彼らは」
「礼拝はもう、しないのよ」
 私は再び同じ形の説明を受けた。
 回族の食料品店ばかりでなく、山西省(だったと思うが違うかも知れない)の食品だけを扱っている食料品店もあった。そこでは趙さんが、お産後に産婦に食べさせる特別に消化のいい長いみごとな干しうどんを教えてくれ、私は息子の土産に、固型醬油を買った桂林に行った時、そこは広西壮族自治区といわれ、少数民族が、革命後、全く差別なく漢族の社会にとけこんで平等になった、という説明をされたが、私はそれは例のタテマエ論であろうと思った。もし制度が整えば、そういう思想が一掃できるなら、インドのカスト制度の影響も、一九四九年の新インド憲法発布で正式に廃止を宣言された時からなくなっているだろうし、あらゆる国で、そうした問題が執拗におきるわけがないのである。回族のため、専門の常設の食料品店を見た時、私のその考えは一層強くなった。

 一般に巨大な中国では、地方性ということは、日本以上に避けられないであろう。中国では、どんな僻地の電気もないところまででも、有線放送をとりつけた。私の知人は、日本の地方生活における有線放送に対して、「個人の自由をいぶり出す装置」と呼んでいるが、一般的に見れば、有線放送は、ラジオを持たぬ人々にも、ニュースや指令を与え、その結果、団員の中国語のできる先生方全員が、これこそ、こぞって感心して保証されたように、陝西省でも、広西壮族(チワン)自治区でも、驚くべき完全な北京語の普及に役立ったのである。もちろん、有線放送だけがその原因ではない。義務教育制度の確立が大きいものであろう。それでもなお、地方性というものは、かなり大きいと思われる。

 私は趙さんと、喫茶店に入った。北京では、喫茶店に当たるようなものは、もちろんないわけではないだろうが、まるっきり目立なかった。しかし上海では、南京路や、准海中路などの目抜き通りには、喫茶店がちょくちょくあった。私は趙さんとすばらしくふくよかなレモンパイを食べ、甘い人懐っこい味のするミルク紅茶を飲んだ。私たちのまわりでは、トンカツ風のものを食べている人もいたし、おそばを食べている人もいた。上海はやはり大都市だった。ここにいる人たちも、北京とは少し違うように思えた。

 自分の言葉をもつ人
 私は、上海の空港に着いた時、茹志鵙さんという女流作家と同じ車に同乗することになった。茹さんは私より、少し上だったが、賢そうな自然な人だった。茹さんは、中国へ来て初めて、私に、「あなたはどんな作品を書いていますか?」と訊いてくれた人であった。その一言がどんなに人間的で暖く自然に聞こえたか、それ以前の状態を説明しなければ、恐らくわかってもらえないに違いない。

 公の席の挨拶の時に、吉川団長が丁寧に、「私たちにも日本のことをお尋ね下さい」と言われたのにも拘わらず、かつて私は上海に着くまで、八日間くらいの間、通訳以外の人からも日本に関する質問を何一つ受けなかったのだ。人民大会堂における二度の夕食には、作家たちもいた。あの、長い文学者とのミーティングもあった。その時、「自分の作品(主に上演されている劇であったが)を批判して下さい」という人はいた。しかし、日本について、私の文学について質問をする人は一人もいなかった。それは異常に思える無関心でこれが中華思想の実体か、とうっかりすると思いそうになるくらいだった。

 その後で、私は初めて茹さんに会ったのだ。「あなたはどんな作品を書いていますか」それは今までに、アメリカでも、ホーランドでも、インドでも、エジプトでも、イタリーでも、イギリスでも、タイでも、韓国でも、私の行った四十カ国に及ぶ外国の国々の誰もが、ごく自然に口にした言葉だった。作品を口ですることはお互いに難しい事だったが、それでも話は大抵そこから始った。

 私は茹さんに、「あなたのお作は?」と尋ねた。すると茹さんは、農村に行っても書くし、身のまわりの人達のことも書いています、という意味のことを言った。それも、私の心を暖くした。社会に出て農民や労働者を知り、創作をやろうという意欲が湧きあがったが、それ迄は、工場や労働者や農民について知りませんでした。などという深窓の令嬢みたいな素人っぽいことを茹さんは言わなかった。そして茹さんのような自然さを育てたのは上海であろう、と私は考えた。

 上海では、上海市革命員会副主席で党委員会書記の徐景賢という若い指導者が、吉川団長初め一部の団員の間で評判がよかった。三十代に見えたが、四十歳になったと誰かが話していた。彼は吉川団長を相手に例の話を聞かせ用の会話を堂々と果たし、宴会の席では、適当に団長に酒を強いいたりした。後で私はこの人物について面白い資料を発見したのである。

 それはフランスの人類学者であり、外交官でもあり、政治家でもあるアラン・ペールフィットが、「中国が目覚める時、世界は震撼する」という表題の著書の中で、徐景賢について語っている部分である。ペールフィットは、文化大革命は、「大躍進」の失敗を糊塗(こと)するための一つであるとことに対する誇りを表明している。中国人の精神の中では、この誇りを弱めるようなものは価値がないとされる。彼らは、貧者の精神、そして貧しさの中に留まることを願う精神を培わなければならないのである。『実際のところ』と私(ペールフィット)は(徐景賢)質問を続けた。『あなたがたは、人類の四分の一の性格を変えようと望んでいるのですか。ちょっとやそっとの仕事ではありませんね』
『それを、われわれはやろうとしているのです。われわれは、中国のこれまでのようにあらしめた文化や習慣を消し去る事に決めたのです。そしてプロレタリア的な文化や慣習がそれに代わることを望むのです。どれほど時間がかかろうと必要な限りは、このことを理解しない人々を洗脳して行くでしょうし、資本主義路線にはまり込んだ責任者たちの頭をひっくり返してやるのです』」
ペールフィットは、そこでわざわざ、この洗脳という箇所に註をつけている。「彼(徐景賢)はわれわれの前で『洗脳』を称賛した最初で最後の中国人指導者だった(いずれにせよ通訳はそういう言葉を使った)」

 鄧小平はわざわざ洗脳について不可能だと言い切った。いったいどこがどうなっているのか。鄧小平が修正主義者なのか。徐景賢が、上海に立てこもって、中央の命令にそうそう簡単には従わない若き反乱軍なのか。いずれにせよ、中国に地方性がある事はここでも分かるのである。

 愛のあるところ
 或る日、私は、北京で、中国の土木映画を見る事になった。私は朝型で、夜ははやばやと、頭が働かなくなる性癖を持っていて、その時も、その弱点は、決定的に作用したのであった。私は映画のタイトルを筆記する気力もなく、わからなかったらわからなかったで近くにいた中国側の通訳の人に確かめればいいのに、それだけの元気も失っていた。結局、私はタイトルのみならず、その工事の行われた場所もはっきりせず、しかも途中では断続的に居眠りをする、というだらしのない結果になった。

 それは、堤防を築き、段畑? を作る作業だった。私は中国の「作家」たちより、もう少し働く人たちの生活を知っているのではないかと思う。私は、映画に出て来る場所を見れば、この国の土木工事のやり方をかなり細かな点まで見当つけることもできるのである。

 それは、現代の日本人にとっては想像もできない作業の進め方だった。はっと目を覚してみると、若い娘たちが、ランドセルくらいの大きな石を、二人で持ち上げようとしていた。とうてい持ち上がらないくらいの岩は、削岩機ではなしに、ハンマーでこつこつと穴をあけそこに火薬を詰め、導火線で爆破して小さくした。そして人々は猫車ともっこの人海戦術で土を運んでいた。

 私はいくら居眠り半分であっても、その土木工事の目的が。決して只単に、堰堤や段畑を作るだけではないことくらいはわかっていた。それは人民を、共通の目的のために、向かって歩かせる、崇高な精神的な意義を持っていた。そして、そのようなものは、私が、自分の子供にも、与えたいと思っている要素だった。

 この土木工事は意図的には崇高であると同時に、日本では、あのような苛酷な労働を、もはやさせることはなくなっているような方式をとっている。私は日本の土木現場の安全保安会議というものにも出たことがあった。そこでは、働く人々が、あたかも知能の遅れた虚弱児であるかの如き,(私からみれば)オーバーな安全対策が立てられているので、私は少しおかしく思ったことさえあった。

 日本の現場では、ちょっとした寝台くらいありそうな岩の塊でも、そのままドーザー・ショベルが持ち上げる。ショベルと岩塊とは、触れ合った瞬間火花を散らし(文字通り)雨の日には、岩は巨大な焼きイモのように、全体から湯気をあげる。その岩は、そのまま三十トンダンプの荷台に落とされる。ダンプの運転席にいれば、その時の頭上の轟音は、思わず首をすくめたくなるものである。
 一千万立方メートル以上もの土を積むような巨大なフィルタイプのダムサイトでも、語らく人間の数は、最盛期でさえダムの本体の部分ではとうてい百人もいないであろう。なぜなら、重機が働いている限り。むき出しでプテクターのない人間を付近に置かないことは、安全の鉄則になっているからである。

 それが、資本主義のヒューマニズムというものである。社会主義にだけ愛があり、資本主義には愛がない、というような全面的な物の考え方を、私は取らない。
 私はなぜ、社会主義的なものだけに、人間愛があるかの如く言われるのを、その映画を観ながら分かったのであった。その一つの理由は、社会主義はタテマエで物を言い、資本主義は本音で物を言おうとするからだった。

 社会主義には、臆面のない宣伝臭があり、資本主義には計算高さが感じられる。「労働者を犠牲にしてはいけない」というのがタテマエの言い方であり。「労務者を殺すと金がかかるからよ、うっかり殺せねえよ」というのが、ホンネの言い方である。どっちがすてきに見えるかは説明するまでもなかろう。

 不思議な北京病の原因
 私たちは北京に帰った。
「桂林や上海はどうでした?」と訊かれる度に、私は、桂林の漓江を下る船旅のすばらしさについて語った。
「六時間もですよ」と私は子供のように言った。「六時間、本当に南画の風景の中にいたんですもの。飽きるなんてこと、全くありませんでした」

 私は、景色を体中で観ようとして、先頭の船のさらに舳先にべったり座っていた。おかげで鼻の頭の皮がむけるほど陽にやけた。船上でご馳走を頂くなどということは、資本主義的な遊びだと思ったが、それは敢えて考えないようにした。

 上海では或る夜、雑技(曲芸)を見せてもらった。信じられないほど達者な人達でも、ごくたまに失敗をする。感動的なのは、失敗した時には誤魔化してやめずに、必ず最初からやり直すことであった。それは実にすがすがしい印象を与えた。

 北京に帰って来たころから、私は、北京の在留邦人の間に、一つの特殊な心理状態があることに気づくようになった。私はそれをひそかに北京病と名付けることにした。

 北京の日本人は、何かわからない不満を持っているようだった。一つには彼らが外交高寓と呼ばれる外人専用のアパートに押し込められ、旅行も自由にできず、何より中国人と何ら個人的に付き合うことが出来ないでいるからだろう、と思われた。中国の特徴である全面病が伝染している気配もあった。

 この国へ来る日本人は、完全に中国に惚れこんで帰るのと、二度と来たくない、という思いになって帰るのと両極端だ、と教えてくれた人もいた。もう二度と来たくないというほどに、中国を嫌う人の側のものは書かれたことがなかった。なぜなら彼らは多くはビジネスで来ており、彼らがそのことを個人的な感情を表に出させる立場がなかった。中国は他のいかなる国とも違って、日本人のさして重要でもない人物(たとえば私のような人間もその一人だ)が発表する個人的なものに、すぐに何か、反応するところがあるからかも知れなかった。

 もう一つはっきりしておかねばならない点がある。今まで、中国に入った日本人は、自分の好みなど言っていられない会社に所属するビジネスマンか、さもなければ完全に中国側の招待客であった(それ以外に一時期を除いて、自費でこの国入る方途がなかったのである)。

 私たちは違った。私たちの中には、日本の国家がお金を出して下さったと言うので、行く気になった人が多かったと思う。少なくとも私はその一人だった。この点は更に明瞭にしておく。出発前外務省から、私たちが中国に入ってからの滞在費や旅費は先方持ちになるから、と説明された時、私たちの中には、明らかに、それは困る、という意見が出た。

 しかし、過日、寥承志氏の一行が日本へ来られた時、日本側が、国内の滞在費や旅費を持った。それ故、今度はこちらから返礼使節団が出る時に、先方の申し出を受けないという事では、角が立つ、と説明されたのであった。その点について、「週刊文春」四月二十三日号が、我々が先方の丸抱えの招待客であった、というふうに書いているのは間違いである。私は丸抱えなら、はっきりと行かなかったろうと思われる一人であ。

 わたしはお金にはこだわっているのではない。お金さえ出してもらわなければ、恩義を感じなくてもいい、と言うのでは決してない。お金はともかく、人間は先ず相手の心を受けるものである。しかしお金が心理的影響を与えないということも、又甘い見方である。この国を訪問する日本人の多くは、自費でなく、招待で中国を見た。招かれて行って悪いことは書けない、ということがそれらの人々の意識の中になかったとは言えないだろう。日本人はなぜか、中国だけ不必要なほど鄭重(ていちょう)になった。同じ日本人が、アメリカや、フランスゃ、スウェーデンゃ、フィリピンに招かれたり、自費で行った後に書くのとは、全く違った書き方をするようになった。

私が何を書こうすると、「そんなことを書いたら、もう中国に入れなくなるでしよう」という言い方をする人もいた。私は、アメリカについて、フランスについて、書く時と同じ姿勢で、中国についても全面的にどちらかに傾くのでない書くつもりだから、それで入国を拒否されるなら、行かなくても構わない、と言った。もちろん北京病は(かりにそういうものがあったとしても)それはむしろ日本人の誠実さから来るものだったし、犯されていない人も何人かはいた。しかしいずれにせよ、北京は、そこに住む人にとって、世界有数の厳しい土地であろうと思われた。

 中国のカトリック教会
 北京では、私は一つだけ大切なことが残っていた。それはカトリックの神父に会うことであった。私は北京から南方の旅に出る前に、誰でもいいから、カトリックの神父に会いたい、と申し入れておいた。

 北京へ戻って来ると、しかしそれに対しては、「お断り」の返事が待っていた。「やってみましたが、アレンジができませんでした」と私は説明された。「ありがとうございました」と私は言った。しかし、そのまま引き下がる気はなかった。
 私は日本を発つ前、カトリックの東京大司教区の白柳大司教から、一通の手紙を託されていた。それは大司教の、全く個人的な、隣国のキリスト者に送るメッセージだった。それが一切の政治的意図を持つものではないことがよくわかるように、ラテン語で書かれたその手紙は、特定の宛名もなく、封を開いたままだった。

 中国大陸には、かつて洗礼を受けたカトリック教徒が三百万人いた、とペールフィットは書いている。彼らはその後、バチカンから離れ(離され)愛国教会を作った。
 数年前から、北京在住の外国人カトリックの要望で、門前の傍の教会が日曜日毎にミサをやるようになった。私はそこへ出かけて行った。そこには確かに神父がいた。ミサ答えをする神父もいた。教会の中は、花もローソクもあった。司祭の祭服は古びてはいたが、どっしりしたものだった。

 ミサはラテン語始められた。司祭は低い力のない声で、「主よ、憐れみたまえ(キリエエレイソン)」を唱えた。私はそっと後を振り返ってみた。告解室は、もう長いこと使われたことがないらしく、入口の取れかかったカーテンがそのままになっていた。つまり一対一で司祭と話す告解ということは許されていないようだった。そして告解のないカトリックは、半ば死んでいるのと同じであった。

 もし、北京にたった一人しか司祭がいなくて、その人が病気ででもあったなら、確かに私の希望はアレンジできなかっただろう。しかし、私のホテルから十キロと離れていない所に、現に神父はこうしているのである。

 中国の憲法は第二十八条に、「公民は言論・通信・出版・集会・結社・行進・示威・罷(ひ)業の自由を有し、宗教を信仰する自由と宗教を信仰せず、無神論を宣伝する自由を有する」と書いてある。一見これは、宗教を信仰する自由があるが如くである。しかしよく読んでみると、無神論の方はそれを宣伝する自由が約束されているが、宗教の方は同等ではない。心の中で黙って信じるのは勝手で、それを顕すことは許されていない、とみて差し支えないのであろうか。もちろん、いかに偉大な中国共産党でも人間の心の中を覗くわけには行くまい。

 中国人が、宗教的な行事に参加することは禁じられているということは、私がミサが終わって教会を出た時に明らかになった。教会の前には、毎日曜、決まった時間に外人がミサから出て来るのを知っている人々が、数十人、人垣を作って待っていた。もし彼らが自由に宗教的行事に参加することを許されているのなら(この際、信仰心のあるなしなどは問題外である)、上海でも、どこでも町を歩いている私たちのほんの数センチの所まで寄ってきて、好奇心で一ぱいの目つきで我々を眺めていた中国人のことだから、必ず中に入って来て。ミサを見物するはずである。かれらが教会の中へ入ることを禁止されているのは明らかであった。白柳大司教の手紙を私は誰にも渡さずに持ち帰った。

 再び偶然から或ることが起きた。北京にいる間に、私は或る外人から、「私の車の中に、或る日紙つぶてが投げ入れられていてね」という話を聞いた。その人は中国語が読めないので、その紙つぶての話は、それなりにおしまいになった。

 私が中国から帰ってきて暫くすると、頼みもしないのに、その紙つぶてが、私の所に送られて来た。私は中国語をもとも読めはしない。しかし宛名を見て、私はハッとした。それはローマ教皇に対する直訴状であった。
「至尊貴的教皇慈父」

 とその手紙は書き出されていた。便箋は人民解放軍の部隊の№入りのものであった。日本語に要約すると
「慈父に対する私の忠誠と神に対する私の忠誠をあらわすために、あらゆるきわめて大きな苦痛にあい、多年にわたる監禁、厳しい刑罰、拷問を受け、さらに恐ろしい死刑に会う事を願っています」

 主教、神父のすべては迫害、監禁されており、教会は閉鎖され、教徒は弾圧されました、と手紙はつづいて訴えている。
 私は実に長い間、考えていた。私はこの手紙をすぐには信じなかった。これは誰かの造った策略ではないかとも思った。それならば、何のために・・・・私は今、その答えを出すことはできない。

 肉体の充足から魂の救済へ
 出発の朝、私は動物園のパンダを見に行った。私は東京でもまだ「パンダちゃん」をみたことはなかったのである。大きなオリの中には、三匹が同居していてゆっくりと対面することができた。中の一匹は、真ん中で足を投げ出して、実に救いようのないほど退屈そうな顔をしていた。残りの一匹は眠っており、もう一匹は、杭に背中をこすりつけてしきりに掻いていた。これほど退屈している人も、眠りこけている人も、背中を掻いている人も町では見かけたことがなかったので、私は北京に来て初めて「人間」に会ったような気がした。そう言えば、中国には、不幸そうな人も、不幸な話も完全にないので、坂道の途中で、ロバが歯をむき出して喘ぎながら重い荷物を引いて上って来るのに出会った時にも、私は反動でロバの顔に人間性を感じたことはあった。

 パンダの次に、私は「北方の虎」を見に行った。虎舎を探していると、近くにいた人々が皆寄って来て、口々に檻のありかを教えてくれた。本当に親切な人々であった。虎はおおきくて、日本の虎は”ネコ”かせいぜいでヒョウのような感じがしてきた。

 出発の日のお別れに当たって私たちがしたことは、北京飯店で、前後八日間、私たちだけのための小食堂で、面倒を見てくれたホーイさんたちのグループにも、お礼を言こともあった。本当に誠実を絵に描いたような人々であった。ヨーグルトが美味しいと言うと、代わりできる分まで作っておいてくれた。コーヒーが飲みたいと言うと、中国風の朝食の外にコーヒーが用意されてあった。八日の間には、二度も、日本ののりを使ったおすしを作ってくれた。

 いよいよホテルを立つ頃になって、初めて軽い黄塵の気配が見えた。私は黄塵をかなり恐れてもいたが、同時に、一度は会ってもみたかったのである。

 恐れる理由は単純であった、私はコンタクト・レンズを使っているために、埃は、レンズと眼の間に入って、角膜をサンドペーパーをかけるようなことになる。インドで砂埃に会った時、私は用心していたにも拘らず、両目の角膜を傷つけた。私は激痛を覚え、丸一日完全な盲になった。それでも私は黄塵を見たかった。それが中国らしいものなら、私は何でも大切に味わいたかった。
 中国は、未だに大きな未知の国である。

 中国は、八億の国民を食べさせて着せる、という偉業を成し遂げた。それは、主に人間の肉体を目的としたものだった。しかし、人間の生の肉体の生だけではないとアラン・ペールフィットはその点に一歩立ち入って考える。

「『人間は死なせるより思想を死なせた方がよい』とご馳走を並べたテーブルで私に言ったのは、生活をエンジョイしているらしい江西省革命委員会のある指導者だった。宴席にいたフランス人も中国人もこの言葉に大喝采を送った。こんな筋のとおった原則にどうして反対することができるだろうか。

 だがこれは、善意から出た言葉だが考えれば恐ろしい言葉だ。たとえば、思想によって生きている人間のことを考えたらどうか。もしこの思想が肉と血によって養われ、感覚の中に根を張っているものだとしたらどうか。
思想を殺すことはその人間から生きている意味を失わせることではないか」

 問題は、そこに還って来るのであろう。肉体の生と魂の生、肉体の死はそれぞれに別であることを私は知っている。肉体だけなら簡単なのだが、四つの組み合わせになると、これは複雑になってくる。

 中国は目下のところ、民族のプライドを以て、個人の魂の救済に当てようとしている。それも偉大な実験なのである。


 あとがき
 戦後の日本人を支えた情熱の一つは、正義の為という名目で「怒りを掻き立て、それを持続する事」であった。「正当な」怒りを持てない人間は正義の感覚の欠如した人であり、抵抗の行動をとれない人は時の権力に迎合する人であり、要求しない人は民主主義の権利を放棄した人だとみなされる空気があった。

 カトリックの学校で教育されたおかげで、私はこういう社会風潮の一部には同感もし、軽薄にそまりもしたが、一部に対しては懐疑的でのまれない態度をとることもできた。それは「正当な」といわれるものが、実は自分の利害と照らし合わせてそう判断されるだけであることもあり、抵抗と称するものが実は自分の身に何の傷も負わずに損にさえならない範囲での抵抗である場合もあり、権利の要求は欲得と新しい乞食根性の表現に過ぎないケースもあるという事を感じられたからであった。

 聖書の世界では、イエズスも怒りを示すこともあるが、決してそれは主流ではない。キリスト教では、愛と許しのみが基本である。
 その愛は、或る人を自然に好きになったという自然発生的な感情を指すものではない。憎しみや嫌悪を、意志の力によって舵をとろうとした。苦悩に満ちた苦い愛である。

 また許しは、ただ許すだけではない。許しは、平たい言葉で言えば、身の危険を引当にするのがほんとうのものなのである。
 ここに集まったエッセイの背後には、どこかにこの愛と許しへの憧れがある。現実としては、私たちの身のまわりは失敗した例ばかりかも知れない。しかし、私は自分がそうであることにすぐ失望もしないし、人が仮にそうであっても、決定的な非難などする気にもならない。私たちの弱さは似たり寄ったりのものだし、それ故にこそ、私たちは相手に哀しい親しみも持てるのである。

 小説書きの中にも、二通りの人がいて、一つは神聖な書斎から殆どでない人たちである。彼らはまた、繊細な神経を持っていて、そのような神経を受け入れない荒っぽい他人の神経や、自然の暑さや不潔、といったことに耐えられない。

 もう一つが、私のように、うろうろと野犬のように歩き廻る人種で、放浪そのものを楽しみもするが、その中からものを考えることもする人種である。その中でも、私はよく旅をした方だろうと思う。

 最大の理由は、私が体だけは丈夫だったからである。私が寒さに少し弱いだけで、暑さ、不潔さ、野宿、その土地の食べ物を食べること、などすべてに、かなり適応力があり、その中で、あまり自分を失うことがなくて済んだ。

 第二の理由は、私がイマジネーションの不足を旅で補っていたのだと思う。賢い人は行かない前からわかっているのだろうが、私は行ってみなければ分からない、という感じが身に染みていたようである。そして多くの場合、その国のことは結局のところ最後までよく分からずに済んでしまったが、結果として日本再発見の部分もあったのである。

 ここに収められている二つの比較的長いエッセイはチリの革命と、日中国交回復後の中国をそれぞれ訪れた時のものである。
 古いものを、と言うためらいがなくはなかったが、一方で私がこの激しい動乱の国々を、どのように書き、それがどのような結果になったかを見て頂くのも一興かと思って敢えて手をくわえずに収録することにした。

 私の素人の感慨は、歴史は繰り返すものだということである。今、ピノチェト軍事政権が人々から非難されているのは、直接的には国民経済の破綻が原因のようである。左翼も右翼も、同じである。人々は食べられないときに思想の如何にかかわらず反抗する。

 中国については、私は別のところで、日本の新聞がどれほど、中国報道に関して偏向したかを、はっきり書こうと思っている。戦後の日本の新聞は、明らかに思想を統制し、私などが署名入りで書いた原稿も取り下げさせた。その理由の総てが中国についてよくないことは書かないという事であった。新聞は決して言論の自由を守りはしなかった。

 このエッセイが『文藝春秋』に載った直後、或る日、近くの警察署の刑事さんが現れ「ああいうものを書いて、身に危険を感じるようだったら、いつでも保護します」と言ってくださったので、私は「まさか、それほどの大物ではありませんから」と笑ったが、当時、それは決してそれほどとんちんかんな危惧ではなかった。

 現在の中国は凄まじい近代化だという。しかし、私が中国人だったら、この変化をも決して信じはしないだろう。今年一月五日の読売新聞も延安訪問記の中で「気をつけろよ。党の政策がいつ変わるか分からないぞ」という民衆の声を伝えているが、それが、中国の偉大さであり、複雑さであり、中国人民の利口さというものであろうと思っている。
 一九八五年一月二十八日  曾野綾子
 恋愛サーキュレーション図書室の著書