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Ⅱ 時の流れの中でチリ編

本表紙 曾野綾子著

 アジェンデ共産政権が残したもの
 嵐の中で生きる人びと

 厳戒令下のチリへ
 一九七三年九月初旬、海外の仕事から東京へ帰ってくると、私はやっと決心をつけて、旅行代理店に電話をかけ、十月十三日にたつ、チリのサンチアゴ行きの飛行機の座席を予約した。きわめて私的なことになってしまうけど、当時、姑が入院しており、前年、同じ時期にチリ行きを計画していた時は、私の実母が急に具合が悪くなって取りやめたのだった。七十四歳、七十五歳のオールド・ジェネレーション三人と暮らしていれば、誰かが病気をする可能性は常にあるし、私は何となく気が重かった。代理店の人とも、万が一行けなくなった時は、前日でも辞めますから許してくださいね、などと初めから予防線を張っていたりした。

 私にとってチリに行けなくなる理由は、当時、「家庭の事情」しかないようにおもわれていた。姑が快方に向かい、早く病院から家に帰りたい、と言うし、私も退院は早い方がいいと思った。どちらかというと、留守中、病院に預けておいた方が安心なくらいだったが、帰りたいときに、帰りたいところへ帰る方が、誰だって元気になるに決まっている。

 なぜ、チリなどという国へ行こうとしたか。数年前、私は東京で、粕谷初枝さんという一人の修道女と会った。彼女は、私の母校を経営する聖心会のサンチアゴの修道院でも十年近く働いていた。彼女は闊達な人柄で、自分のチリ風の修道生活の実態についてあれこれと語ってくれた。その内容は、いささか個人生活の秘密にもふれる部分があるので、ここでは述べない。只彼女はこんなふうな言い方をした。

「自由になったとはいっているけど、まだ、日本の修道会というのは、禁止事項で成り立っているよ。何しちゃいけない、あれしちゃいけない、というふうにね。チリではそうじゃないわ。チリでは、自分に何ができるか、を考えるだけよ。それが愛でしょう。修道女だって、男も女も愛するわ。私が考えて不思議なのは、どうして、皆すぐに子供が生まれるような愛し方しかしないのか、っていうことなの」

 私は時々、この言葉を考えた。修道院というものが始まったのは、D・ノウルズによれば二七一年の下エジプトであると言う。裕福なエジプト人農夫の息子であったアントニウスが、一司祭の読む、イエズスの言葉を聞いたからである。

「あなたがもし、完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天の宝を受けるだろう。それから来て、私に従いなさい」
 修道者たちは、完全なる自由人である筈だという前提が、いつの間にか私を捉えていた。それは彼らが、現実に於いて自由人であるということではない。私が、修道者を初めてみたのは、満五歳の時である。それ以来、ずっと見っ放しである。

 粕谷修道女は、アジェンデの政権に、当時はまだ希望をつないでいた。彼女は外国人でもあり、修道女だという立場上、政治的な活動は一切しないのだと言っていたが、それには次のような背景があるのかもしれない。

 一九七〇年九月、サルバドール・アジェンデは、共産党、社会党、急進派が主体となって結成した「左翼連合」より推されて大統領になった。しかしその時次点の国民党より立ったJ・アレサンドリと僅か四万票足らずの差しかなかった。すなわちアジェンデは三六・四%、アレサンドリは三五%とったのである。チリ憲法によれば、大統領選挙において、いずれの候補者が過半数に達しない場合は、上位二名の候補者の中から、上下院合同会議(国民投票後五十日目に開催する)において、議員投票によって、新しい大統領が選出されることになる。一九七〇年十月二十四日、合同会議は開かれ、キリスト教民主党(PDC)支持の約束をとりつけてあったアジェンデが百五十三票、アレサンドリが三十五票と圧倒的多数をもって大統領に選出された。つまり世界で初めての民主主義的投票による社会主義政権の誕生の背後には、キリスト教民主党の動きがあり、チリのカトリック教会がアジェンデ政権を作るのに大きな働きをしたと言ってもいいのである。

 キリスト教と社会主義政権とのつながりを不思議に思う人もいたが、それは私にとっては大して奇異ではない。キリスト教自体が社会主義的なものであるし、修道院は、トラピストなど考えれば、かなり純粋な共産社会である。その上、私は政治的なことになると、勘が悪く、何にどう興味を持っていいのかわからない。エルマーナ(スペイン語でシスターの意)粕谷が、私の鼻の先にちらつかせてくれた「民主的社会主義」の実験室の話し方は、大して私の心に残っていなかった。

 そこには濃い春があった
 ともあれ、八月中に私はようやくチリのエルマーナ粕谷に、「行くことにしたから」という手紙を出した。「寒さはどんな具合ですか?」というのが、私の手紙の第一の、そしてもしかしたら唯一の関心事だった。私は他のことには、かなり耐えられるが、寒さに弱い。すると、折り返しエルマーナから手紙が来た。「寒さは昼二十度くらいなる日もあるし、夜は七度くらいに下がる日もあります」私は完全な混乱に陥った。手紙には、それよりも、他の用事が多かった。
「今こちらには何もありません。バター、砂糖、トイレット・ペーパー、肉。コーヒー‥‥」
 肉がなくても、魚があればいいし、バターや砂糖くらい、一ヶ月や二カ月、私はなくてもいい。コーヒーがなければお湯でけっこう。

 私は、聖心の幼稚園の時から同級生という悪縁に近い長い付き合いを持つ友人と同行する予定だった。彼女のことをチリの一英国人が、「木霊(こだま)」と呼んでいたので、以後、私もそう呼ぶことにした。日本風に言うと打てば響くような女性なのでこの綽名(あだな)はまことによく似合っていた。私は木霊にその件について相談した。木霊も、二日や三日食べなくても何も言わない女性だったが、それでも彼女は、食料は少し携行するべきだという説に賛成だった。

 それは第一に、我々が他の所ならその土地の食事以外口にしたくない、という趣味を持っていても、今回に限り、大切な他家の食料を食べて荒らすことになってはいけない。第二に我々は凄まじい闇値が出ているとうドルを持っていくことになるのだから、必ず闇市で物を買うことはできるだろうが、行って早々その国の国法を犯すようなことはしたくない。

 九月十二日、日本の新聞は、チリにおける軍部の”反乱”を報じた。アジェンデ氏はモネダ宮殿で自殺し、陸海空、それに警察の四軍からなる軍事評議会が発足し、ピノチエト陸軍総司令官がその議長になった。情報はサンチアゴからのものよりも、ブエノスアイレスからのものが多かった。飛行場は数日間閉鎖されており、私の身の回りの人々は、私のサンチャゴ行きは事実上不可能になったと思っていた。

 しかし私は、いいタイミングに起こるべきものが起きたと感じていた。七月末のトラック運送業者たちの反政府スト以来、外側から見ていても、チリには大きなおできができていて、いつその膿が飛び出すか、という不安定な状況だった。むしろ来るべきものが来て、外国人としては見通しがよくなった感じである。厳戒令が出れば、その事がそこの国家にとって本質的な解決になるかどうかは別としても、治安が一時的にむしろ良くなることは明らかである。日本人にとって厳戒令といえば、二・二六のあの緊迫した雪の日しか連想し得ないが、韓国でも、フィリピンでも、厳戒令は日常生活の一部である。

 木霊と私は、十月十三日に予定とおり東京を旅立った。四十五キロも制限重量を超えた食糧その他を持っていたので、私たちは、どこへも立ち寄る気にもならず、二十七時間近くの旅を続けてサンチャゴに直行した。
 リマからのチリ行きの飛行機は、私の予想に反して、ジャーナリストたちのほかに、一般市民で帰国する人々で一ぱいだった。破壊活動を恐れてか空港には一般の出迎人を立ち入らせていなかったが、空港の中の係官の態度は厳しいものは一つもなかった。私たちの荷物は一個も開けられなかった。

 私たちはそれから数キロの地点で、エルマーナ粕谷に会った。彼女は、彼女の日本語の生徒で、「冗悦」という号を持つ英国人の車で私たちを迎えに来てくれていたのであった。
 ホテルに入る前に、冗悦氏は、まず新名所となったモネダ宮殿に立ち寄ってくれた。十一日の政変の時、炎上し、その中で前アジェンデ大統領が自決したと言われる所である。入り口には二階から崩れてきた瓦礫が山になっており、外壁も煤けている。見物人が何人か中を覗き込んでいる。兵隊がいるので、冗悦氏は、中を見せてもらえるか、と尋ねた。特別な許可証がない限り、それはダメだと断られた。兵隊はまだ少年のように年若かった。チリの軍隊は笑わないという評判をどこかで読んだことがあるが、それは必ずしも正確ではなかった。彼らは私たちの顔を見ると微笑した。銃も正確には構えてもいなかった。

 私たちは諦めて車を廻した。外から見る限り、どこにもクーデターの気配はなかった。只そこには濃い春の気配があった。ホテルの前の小岸には、数本の柳の大木があった。その信じられないほどふさふさした葉の先は、同じ長さに切り揃えられたようになっていた。
「どうしてだかわかる?」
 エルマーナが言った。
「あの下に馬をつないでおくと、馬が皆首を伸せば届く範囲の葉っぱ食べちゃうからなのよ」
 ああ、チリへ来た、と私は思った。私にとって必要なのは政変がどのように行われたか、ということではなく、チリには信じられないくらい見事な柳の木が多く、しかもその先っぽが馬の食欲のおかげで切り揃えられているというようなことを知るためだったのだ。

 たくましい人びと
 エルマーナ粕谷の住んでいる聖心の修道院は、古い高級住宅地の一隅にある石造りの大きな家であった。部屋は全体で十五、六、いや、もっとあるかもしれない。もともと修道院として建てられたものではなく、チリ人の大家族の家を譲り受けたものだという。

 木霊と私は二階の部屋をあてがわれた。十畳くらいの部屋で、小さっぱりした寝台が二つ、書物机が一つ、押入れが一つ、ナイト・テーブルの上にバラが飾られていた。
 私たちは誰か先住の修道女の一人を追い出して、その部屋を与えられたらしいのだが、間もなく本当の住人はエルマーナ・プラッツといい、クーデターの後、いち早くアンデスを越えてアルゼンチンに行ったプラッツ将軍のいとこだったということが分かった。

 実は私たちは、二晩をこの町で最高のホテルに泊まり、内心では私はもう数日はホテルにいる方が気楽なような気もしていたが、それはある理由からできなくなったのである。それは、私たちが一人一泊二万エスクード(当時の交換レートで七千円弱)を払うと聞いた時、エルマーナ粕谷が呟いたからである。

「およしなさいよ、そんな高いの。私たち修道院では、七人が一ヶ月、ちょうど二万エスクードで食べているのよ」
 それで木霊と私は聖心の修道院へ移って来たのだった。
 私たちが使えと言われた浴室は八畳ほどあり、石造りの立派なもので、真中でダンスが踊れそうである。部屋の外には、細長い石のヴェランダがついており、そこから裏庭が見える。どれもこれも白いシートとしか見えない洗濯物が干されており、その向こうに有名なキリスト像が立っている丘が僅かに見える。雑種の犬が寝そべっている。陽射しが澄んで暖く、風が冷たい。木霊が、「この部屋はアンネ・フランクが潜んでいた部屋みたい」と言う。建物の構造はひどく違うが、閉鎖的な気分があって、私はまだこの町を愛していない。

 本当は、私たちはこの修道院にずっと厄介になるつもりでいた。ところが例のクーデターで、アンデスの山中にある修道院の別の建物が、隣にあったアジェンデの別荘への攻撃の巻き添えをくって被害を受け、そこから逃げてきた修道女で町中のこの家は一杯になってしまったのである。

 エルマーナ粕谷は、もう私たち同様、中年のはずだが、小柄なふっくらとした美人で、食べ物もよくないというのに、すばらしい血色をしていて、十八歳くらいにしか見えない。チリ生活十三年で、もう半分チリ人になっている。

 私は東京から、チリのクーデターに関する新聞の切り抜きを持って来て、着くなりそれを渡しておいたのだが、彼女はやや、びっくりしたようだった。
「日本の新聞には、政変でサンチャゴは死の町になったって書いてあったけど、およそそんな感じじゃなかったのよ。

 むしろその前の、数ヶ月の生活ったら、本当に酷かったの。一ヶ月前からはパンを買うのに半日かかった。何しろ私がよく行っていた貧しい人達のいる町の住人は、料理ってものを知らないのよ。卵の茹で方、私、教えてやったのよ。そんな状態だからパンがなかったらどうなると思う? 石油のストライキ、バスのストライキで、町中、車のない日があったから、どこへも動けないの。その中でも右翼連合の人の車は走れたわ。

 学校は六月からずっと閉鎖よ。たとえば木曜には開ける、と発表されるの。木曜になると月曜には始まる、という具合になる。子どもたちがたまりかねて、学校を開けろ、というデモをしたの。或る日、私がプロビデンシアの通りにいたら子供たちが、『大臣(ミニストロ)、馬鹿(トント)!)って繰り返しながらデモをしていた。傍にいた自働車が、一斉にホーンを鳴らして、それに合唱してやってたの。とにかく先生たちばかりでなく、誰も働かないんだから。普通なら一週間四十時間働いていた人たちが、アジェンデ末期には、一週四時間から十時間という按配でしょう。なぜか、って? 労賃が少し上ると、お酒飲んで働かないのよ。もう国中、血行不良で、どうにもならなくなった感じだった。何もかんも動かないままに私たち一ヶ月生きてきたんだわ。

 ちょうどその頃、このうちで、お婆さんのエルマーナが一人死にかかっていたのよ。私夜中に起きて行って、彼女を力づけたの。⦅今死んだらお棺もないよ⦆って。そしたら彼女、今でも生きているわ。

 クーデターの日、私は、何も知らなかったの。朝の八時頃だったかしら、このすぐ表通りに出たの。そしたら、あらゆる車が町中から帰って来るでしょう。おかしいな、思ったら、交差点で停っている車が、一斉にホーンを鳴らしたのよ。窓から手を出してVサインを出していた人もいたし、その時、初めて、ああ、異変があったんだなと思ったわ。

 その日のことをね、暗かったチリに、春が来た、と思ったっていう人が何人かいるの。その人達に合わせてあげるわね。もちろん、左翼の人にも会っていらっしゃいよ、私が会えるように考えますから」

 エルマーナ粕谷は、新しい意識を持った修道女(モンハ)らしく、決して修道服を着ない。チリでは修道女がそれらしい服を着ていれば、バス代がただなのだそうだが、バス代を節約するためにそういう服装をしているといういじけた気持ちが嫌なので、決して着ないのだという。只胸に、大きな銀の十字架を下げている。
「十一日は大変だったのよ。とにかくチリの人は政治が好きだから、修道女だって、その例外じゃないの。クーデターだと分かるや、あらゆる所へ電話をかけまくるんですもの」

 心に、きく、薬、ありますか
 修道院の朝は六時頃から物音が始まるが、私は起きないことにしていた。閑さえあれば休むことが、旅行を「消極的につつがなく」終わらせるこつだと心得ているからであった。階下の入口を入ってすぐ右側に、栗色の板張りの部屋があってそこが聖堂になっている。私はミサの気配を聞きながら、ベッドの中にいる。木霊の特技の一つは、何度も寝直せるということで、彼女は六時ごろ、私と一言二言口をきいていたのにまた眠っている。

 思い出すこともなく、昨夜エルマーナが、おかしそうに言ったことを考えていた。
「日本の新聞を拝見したけど、何だかよく筋が通りすぎているのよね。つまりこう言うことがあるの。チリじゃ、ストでも撃ち合いでも必ず水曜日とか木曜にあるの」
 へ、と私はびっくりして理由を尋ねた。
「月曜日は、日曜日の次の日で、まだ疲れているから、誰もあんまり働かないの。乞食だって月曜は休みよ。火曜日ごろからやっと皆働き出して、水木に主にどんぱちね。でも、それも金曜にはもう終わるの。そういう気質を分からないと、日本式な解釈になっちゃうのよ」

「なぜ、金曜には戦争しないのよ」
 と私が尋ねた。
「だって、金曜は土曜の前の日ですもの。お休みの前の日はもう戦争に身が入らないのよ」
 そこ迄思い出して、私は急に起き上がった。ハンドバックから手帳を出し、クーデターのあった九月十一日は何曜日だったかを確かめた。九月十一日は火曜日であった。
 八時頃、私は階下の食堂に降りていき、修道女たちに引き合わされた。どこの修道院もそうなのか老女が多い。

 朝食はパン、ミルク、お茶。バター、マーマレード。チーズの日もある。お茶は「ゲイシャ」というマークのティバックである。

 エルマーナはもう二カ月も修道院では肉を食べていないという。ちなみに、修道院のメニューは魚でだしをとったスープ、カリフラワーのホワイト・ソースかけ、ポロト豆の煮物、サラダ、などである。コーヒーはチリ製のネスカフェがあるが、味が悪くしかも高いと言うので、私たちは貧乏な修道院のコーヒーを減らさないために、自分たちのコーヒーを持ってきている。

 エルマーナの目下の主な仕事は、在留邦人の子弟とチリ人のために、日本語教室を開くことである。その月謝を稼いで、彼女は修道院の生活の一部を支えている。私は子供たちのためのクラスはサボってみていなかった。只ちょうど放課後に廊下を通ると、彼女の教え子の小さな(もちろん純粋な日本人の)子供たちが、
「先生。どこへ行くの?」(センセイ・ドンデ・ヴア)
 と声をかけていた。
「一時間、私がみっちり日本語を教えたばかりなのに、クラスが終わると。先生、何処へ行くの?もうだからがっかりだわ」
エルマーナはちょっと愚痴を言った。
 チリ人の生徒の方は、中小企業の経営者のペドロ・ロドリゲスさん、学生のパブロ・サーラスさん、など四人ほどである。
「胃に、きく、薬がありますか?」
 私がクラスを下りて行った時、すでに授業は始まっていた。
「ロドリゲスさん、他の使い方は?」
「目に、きく、薬がありますか」
「そう、よろしい。サーラスさん」
「頭に、きく、薬がありますか」
「はい、他には?」
「心に、きく、薬がありますか」

 私は瞑目して聞いていた。ココロニ、キク、クスリガ、アリマスカ、か。これはなかなか意味深長な日本語で。エルマーナは間もなく授業を終わりにした。それから、私のために、とくに生徒たちに、クーデターの感想を聞く時間を作ってくれた。

 ここでちょっと断っておかなければならないのは、彼らの名前である。私が取材した人々の中で、自分の名前を出されたら困る、と言ったのはたった二人だけであった。
 他の人達は私が物書きであることを承知で、少しも迷惑そうな顔をせず、むしろ積極的に語ってくれた。

ただ、私は自分の仕事の為に、他人をいささかでも迷惑を受けることを深く恐れる。それで私は、あらゆる人間の名前を一方的に仮名にしてしまった。軍政が思想統一をしているという証拠を持っているわけではない。

 総人口九百八十万人のチリ社会はあまりにも狭い社会での発言は人間関係を本当にがんじがらめにしやすい。エルマーナの助力を得て、ここに登場する名前は、予めチリのどこにでも転がっていそうな姓名を電話帳で用意して来たものである。

 クーデターに民衆が見たもの
 ペトロ・ロドリゲスさんの話。太い縁の眼鏡、しっかりした喋り方である。
「九月十一日は午前十時半まで工場に居て、家に帰りました。十一時頃だったでしょうか。全軍は大統領に対して団結した、とラジオが放送しました。嬉しくはなかったけれど、生まれ変わったような気分でした。

 アジェンデは法を守らなかったんですよ。
 彼は、まず第一に、人々に土地の不法な占拠を許しました。ポップラシオン・カヤンパと言われているバラック建ての貧民窟があちらこちらにあるのをご覧になりましたか? カヤンパというのは、キノコのことです。一夜にして出来た貧民窟だから、そう言うのです。

 あれは土地を持たない連中が、勝手に他人の土地に移り住んだものなんです。アジェンデはそれに対して、強制的に移させはしない、納得させて移らせる、と言ったのですが、結果的には、何もしなかった。いや、むしろ、水道や、電気を引いてやった。土地はもちろん、すべての人に行きわたった方がいい。しかし、これが法治国のすることでしょうか。

 第二は企業の不法占拠です。外国からいらした方には分かり言いようにお話しすると、こう言う事です。一つの企業が、うまく行っていない場合には、国家が吸収できるのです。ですから、これと思った会社には、まず政府の息のかかった人間を送り込み、組合を作ってストをさせます。と同時に価格を抑えて、儲からないようにする。これが続けば、この会社の経営内容には問題がある、と見なして国有化できるわけです。私の工場も何度か狙われましたが、どうにか守り通しました。

 ピクニヤ・マッケンナと言う通りをご存知ですか。あのあたり十五キロほどは、完全に極左のMIRに抑えられていました。彼らは石やリンチャコと呼ばれる一種の武器で武装しましてね、私の会社もその近くにあって極左の入るのを防いできました。本当の武器を持って来られたらひとたまりもないのですが、――何しろMIRの連中の中にはソ連のバズーカ砲まで持っているんですから――毎晩、うちの従業員は女も加わって二十人くらいずつ、自発的に泊まって、乗っ取られるのを防いでくれたのです。MIRは古いタイヤなど燃やして、本当に、無法の町でした。

警察は何もしないのか、ですって? 何もしないで黙って見ていたんです。クーデターの起こる前までは、つまり彼らの内心どうであろうと、アジェンデ内閣の方針に従っていたのです。警察軍に大きな力を持っている内務次官のダニエル・ヴェルガラが左翼だったこともありますが。

 農地の場合もひどかった。前大統領フレイの時、すでに八十ヘクタール以上の土地は国有化できるという事になってい。ところが、企業と同じやり方で四十ヘクタール以下のところまでやりました。これに対しても議会が抗議したのです。

 三番目は、武器の取締法案があります。キリスト教民主党のカルモアナ議員が、議案を提出して、一九七二年十月十三日に正式に国会を通ったのに、一向に公布されない。私兵を置くのに都合が悪かったんでしょう。少なくとも国会を正式に通った法律が施行されない。これは国会の権能を無視したものです。

 さて、国営企業は、どんなだったかをお話ししましょうか。分かり易く言えば、国営企業は以前の倍の従業員を雇ったのです。それでは失業中はフレイ時代の八・三%から、俄かに三・八%とよくなったように見えました。しかしこれは不秩序のもとだったんです。労働や技能に対する正当な敬意が払われなくなったので、技術者たちは他の職業に移ってしまいました。国外へ逃げたのもある。国営企業自らが追い出したケースもあります。有名なエル・テニエンテ銅山からは、アメリカの技術者を追い出しました。その結果をまとめるとこうです。
一、 頭脳流出で指導者がいなくなってしまった。
二、 従業員が増えすぎた。
三、 職場規律が乱れた。
三番目の職場規律ですが、これはひどいもんでした。政治的集会、集会、また集会。逃げだせばいいって? それはムリですね。タイム・レコーダーは集会の場でしか押せないようになっているんですから。

 左翼が政権を取るようになって、中産階級の暮らしがよくなったように見えたのも、実は一時的な事だったんです。国営企業は従業員の数を増やしましたし、給与もあげた。中央銀行は、裏付けのない通貨を出しましてね、一時的には景気が良くなったように見えました。貧乏人も金持ちも、前よりたくさん、電気器具を買いました。私ですか? 私も、家を建てて家具を買いました。

 挙句の果てにどうなったか言うと、生産の方はどんどん下がって来た。銅も硝石も、食糧品の生産まで減って、すべて輸入に頼るようになってきました。ご承知のように、チリは、金属、綿のような原料、プラスチックのような第二次原料を買って物を加工しているのです。この原料を買う金を食料に廻さねばならなくなってしまった。

 一九七〇年の食糧輸入額は、一億七千万ドルでした。それが、一九七一年・二億七千万ドル、一九七二年・四億五千万ドル、一九七三年に至っては六億以上になるでしよう。
 私には共産主義者の友達がいましたから、思考の形態が酷く変わりました。

 ことにここ一年の変わり方は‥‥信じられないくらいです。共産主義に凝り固まるようになってから、彼は一つの見方しかできなくなりました。それと同じことを何度でも繰り返す機械になりました。これは共産主義の一つの特徴だということを、今度、チリ人は発見したんじゃありませんか。

 その間に私は日本に行ったんです。帰って来てこの友達に会いました。私は、いろいろなことについて、彼と喋りたかったんです。
 日本について、感心したことも、そうでないことも。しかし、彼はたった一つの質問しかしなかった。
『日本のマルキシズムはどうかね』
 それだけです。淋しかったですね。人間はあらゆることに興味を持ち、いろいろなことを学ぼうとしなくちゃね、日本ではどんな人に会ったかは言えません。迷惑がかかるといけないのでね。共産党員に会いましたよ。親中派は本物じゃありませんね。日本の共産党員で本物は親ソ派だけだと私は思いますね」

『パプロ、あなたはどうだったの? 九月十一日』
 エルマーナは、若い学生のパブロ・サーラスさんに尋ねた。
「僕は学校へ行く途中で、政変を聞いたのです。走って帰って、十時頃、ラジオをつけてニュースを知りました。僕個人としても、家族も、満足しました。軍部が、これだけの決断力を持っていたとは信じられませんでした。僕はチリ大学、アラビア語科の二年生です」

 私がクーデターのことを調べに来た、という話は(これは本当は正確ではなかったが)修道院の中に知れ渡っていた。
 その日、私が食堂にいると、先に食事を済ませた老修道女が一人、私たちのテーブルにやって来た。
 エルマーナ粕谷が「本当ですか?」などと穏やかに相槌を打っている。
 通訳をせがむと、アジェンデ政権はできた時から正しくなかった、と言っているのだそうである。なぜかと言うと、この修道女の妹の夫というのは、とっくに死んでいるにも拘らず、選挙人名簿に入っているという。
 それだけ言うと、彼女はとぼとぼと薄陽の差し込む食堂を出ていった。彼女はとにかくそう思い込んでおり、私にその一言を言うために、じっと食堂で待っていたらしい。

思想よりもパンを

 ブドー酒と美人と花に恵まれた国
 どこの国もそうだが、人間の生活というものはすべてアンバランスなものである。GNP第二位の日本は、町に世界中の品物が溢れ、自働車はピカピカに乗っているが、住んでいる家は面積、設備共にチリにはかなわない。

 一時はガソリンの不足で全くなくなったというチリのタクシーも、十月半ばには一応出廻り始めていたが、或る日私たちの乗った箱型の車は趣味的なクラッシックカーの範疇に入るべきものとは思うが、どこの車か想像もつかない。運転手に聞くと一九三七年のベンツだという。冷静に観察眼と、すばらしい視力を持つ木霊によれば、その自働車は、あらゆる窓とドアの握手が、全部デザインが違ったという。つまりいろいろな車からパーツを寄せ集めて、使っているのである。

 タクシーばかりではない。有名な日本の某財閥系商社の支店長の乗用車はアメリカ車で、サンチャゴ市内では立派なものだが、助手席の窓ガラスはヒビが入ったままである。お金がないわけではないが、これもパーツの輸入がままならぬのである。

 しかし、市内の住宅地は、道幅も広ければ、緑も多く、家も立派で、チリは、ブドー酒と美人と天気に恵まれた国だというが、もう一つそれに付け加えねばならない。
 それは花である。

 桐と藤とライラックが、春の盛りを競っていた。みずみずしい色気を見せて、その「プルプルラ」と呼ばれる色が少しずつ違う。田舎に行けば、《金の指ぬき》と呼ばれるオレンジ色の野草が、暖色の絨毯を敷き詰めたように咲いており、家々の庭には、カラリリーやバラ、アイリスなどがやさしい。

 金持だけが庭を持っているのではないのだ。いわゆる低所得階級は、フレイ時代には一軒家、又は二軒屋の家を与えられ、アジェンデ時代には高層アパートにも入れてもらったのだが、フレイ・ハウスにも、アジェンデ・アパートメントの一階にも、小さな庭がついている。

 経済が逼迫した状態になっている、というと、私など戦争直後の子供らしい記憶をたよりに、すぐに質問してしまう。よく花壇を畑にしませんでしたね。洗剤が不足して、シラミは湧きませんでした? 凄まじいインフレで食っていけないって、じゃあ、売り食いしているんですか?

 答えはいずれも否である。家庭菜園もシラミも、チリ人の生活の概念にはなかったという。

 エルマーナ粕谷と木霊と私は、必要と好奇心と両方から市場へ買い物に出かけた。レモンが一キロ日本円で十円である。アジといっても目の下五、六十センチはありそうなお化けアジが二本で百二十円である。すでにトイレット・ペーパーも、ジャムも、豚肉も、野菜類も、何でも出廻って来ていた。一時は、靴なども無く(皮は一年前からなくて、すべてが合成皮革だった)それも出て来たては皆が買い漁ったので、あっという間に売り切れたそうだが、今はラエルファースと呼ばれる銀座通りには、ファッション・シューズ風のもが売っている店も何件かある。

 私たちは市場で、ホウレン草と、蝦と、卵と、チリモイヤという大蛇の頭のような果物を買う。チリモイヤはキロ百円ちょっとして、この国では罰当たりくらい高価な果物だが、木霊はお料理の先生だし、私は自制心のなさからエルマーナが勿体ないといくら止めても買ってしまう。チリ人の収入の低さを考えれば、これらの物価は決して安くはないとわかってはいるのだが、世界一、と言われる日本の食料品の値段に馴れていると、つい、ここは安い、と思いがちなのである。

 そうしてふと気づくと私の目の前には、よれよれの背広を着た初老の男が、背を丸めてチーズ売り場を覗いている。国産のチーズでも、一般の勤労者には高価なものだ。彼の手には、垢だらけの十エスクード札(当時のレートで約三・三円札)が何枚か握りしめられている。
 私たちの会計係は木霊だが、彼女の財布には百エスクード札、或いは千エスクード札がぎっしりと入れられているに違いない。この国で最高額の千エスクード紙幣が三百三十円なのだから。

 私たちは。ポクロという静かな住宅地にある英国人・冗悦氏のアパートに移っていた。奥さんがヨーロッパにいる子供さんに会いに行って、大きなアパートの部屋が空いているので、私たちに自由に使ってくれ、と提案してくれたのである。

 ポクロのアパートから、アンデス山脈が見える。松本か富士にいるようなすがすがしい。前の通りは緑地帯と言えるほどの幅広い道で、中央分離帯に当たる部分がちょっとした公園風になっている。エルマーナが桜だという木は、もうすぐ葉桜だったが、その色がしその葉のように赤紫色をしている。

 冗悦氏は、夕食にはきちんとネクタイを締めて、私たちに詩とバラの花を捧げてくれる。詩は一日かかって書いたという。ちゃんと脚韻が踏んであった。私たちのことは三人の天使と書いてある。天使と書かれることは空前絶後のことであろう。この詩は私たちにもコピイが贈られ、フランスにいる奥さんにも送るという。

 ふと気つくとあたりは、しっとりとした静けさに包まれている。自然なるものの息づかいのみが、密やかに健やかに聞こえる夜。外出禁止時間になったのである。午後十時。ごくたまに、軍用のトラックかタンクが通るが、それとても、チリ名物のピスコの快い酔を乱すような緊迫感をもたらしはしない。

 突然、エルマーナが、
「あら!」
 と叫ぶ。
 「銃声でもした?」
 私は聞く。
 「いいう、犬が啼くと地震の前触れかと思っちゃう。そうでなくとも、フランスが、南太平洋で原爆実験やってから、気候がどうも不順なんですもの」
 エルマーナは、人為的なものより、こんな時でもなお自然的なものを怖れている。

 貧しい人々の期待を
 その人物は自分に会ったことを書いてもいいが、名前や職業は出さないでほしい、と言った。兄が、左翼連合に属して捕らわれていて、いつ処刑されるか知れないからだという。「何というお名前にしましょうか」と聞くと、「セルヒヨ・アリアガーダ」とり合わせみたいな名前を答えた。年齢は四十五歳。職業はエンプレアーダとだけしておいてくれ、と言った。エンプレアーダとは、サラリーマンとでも訳すのが適当かと思う。

「私はキリスト信者です。マルキストでもないし、何の党にも入っていません。しかしアジェンデに望みをかけていました。
 一九六〇年頃、ロタの炭鉱で働く人を見たことがあるのです。そこには生命に対する保証は何もありませんでした。南の方は寒いのに労働者は靴もなかったのです。危険と事故だらけ。食糧は粉だけだったので、人々は慢性的な栄養失調で、十二歳になると歯なんか融けてなくなってしまっていたのです」

 通訳のエルマーナは小声で、「今の貧民窟(ボブラシオン)の人たちだってそうよ。本当に十二歳になると歯の抜けているのよ」と付け加えた。

「彼らは長い板貼りの家に住んでいて、手洗い場もなく庭に掘って用を済ませていました。水道は十軒に一つくらい。そういうのを見ていて、これは、よくない、と思ったんです。

 実は私はフレイ(一九六四~一九七〇年、大統領だった)の時にも望みをかけていました。初めは確かに少しはよくなったんです。しかし終わりの頃は芳しくなかった。それで、大統領は、左翼だけだと思ったんです。

 フレイ時代には、アメリカはあちこちに経営権を持っていて、鉱石のまま、ユタなどに持って行ってしまったりしたから、大きな損失をしたんですね。アジェンデの公約は完全な国有化で、それが勝った理由なんです。

 アジェンデになって、皆が靴を履きましたよ。ニュージーランドやオーストラリアからミルクを買って学校の十五歳までの子供にやりましたね。私の給与も年々上って、平均五千円になりました。子供は三人ですが、充分食べられました。子供たちにダンスや絵を習わせられました。そうです。皆が一斉に物を買ったので、国中から物資がなくなったんですよ。

 アジェンデに対しては、私だって批判的ではあるんです。まず技術者を大切に扱わなかったし、行いの正しい人を上に置くという事をしなかったのです。自分の党の人ばかり、重く用いたので、労働者はやる気を失って働くべき時間にもぶらぶらするようになった。残り時間は、政府支持の為の、デモと、集会と、ストライキです。そういうことをさせたのは、生産率を下げさせて、国有にするためです。渦中の労働者は自分が何をすべきかわからなくなりましたしね。そういう混乱をうまく利用した人もいたんですよ。今まで、何を持っていなかった人が、急に家や車を買っても、使い方がわかるもんじゃありませんよ。適材適所ではないので、バカが金を握ったんですよ。

 アジェンデの政府がインテルベントールと呼ばれる人を各企業に派遣したことは知っていますか。インテルベントールは日本語で何と言いますか? え? 代官? ああ、検査官、ですか? ええ、彼らの中にも私服をこやした連中が実に多かったです。国全体がだめになっていました。

 思想よりもパンを
 でも、私は軍隊のやったことに反対です。今は黙ってことのなりゆきを見ているほかにありませんけどね。なぜかと言うと、時代はアレサンドリの時代に戻ってしまったからみたいなんです。アジェンデに関しては次の選挙で答えを出すべきだった。アジェンデが、それを防げたら、その時こそ、軍隊が出ればいいんです。

 軍隊は拷問を使っています。兄は組合の幹部でオフィスにいた時逮捕されました。十月三日のことです。サンチアゴではない、地方のある収容所に面会に行きました。頭を切ったり、首に穴を開けられたり、人糞を食べさせられたり、したので、死を望んだのだそうです。顔を見ても分からないくらいでした。収容所の上の人に連れて来られたら時、半死だったので受け入れるのを拒んだそうです。兄は司祭を通じて頼んだので、家族に会えました。意識が少し、戻った時、会えたのです。

 私の勤め先でも、八十五人がクビになりました。セクトに入っていたということです。証拠がなくてもそうされるのですから一日として安心できません。この国では大統領が変わる度に上の人を変えます。もっとも、今までは大統領と個人的に親しかったとか、そういう理由のためでした。今は共産主義だというだけで、追っ払われます。エクアドルなどへ逃げている人もいますが、そういうのはお金のある人です。

 クーデター以来のこの物価の値上りをどう思います。これが物価の表です。昨日までの値段と、今日(十月十八日)からの値段というふうに書いてあるでしょう。
昨日まで          今日から
1円30銭 バス代      6円
  18円 映画      51円
  12円 食用油(リッター) 80円
  10円 砂糖(量不明)  40円
  4円 パン(量不明)   10円
1円30銭 ガソリン(レギュラー)10円
これは決して象徴的な言い方ではないんです。文字通り、今日からあらゆるものが値上がりしたんですから。(値段は当日の旅行者用換算レートで概算した)
 私の収入はさっきも言ったとおり、一万五千エスクード(約五千円)です。一日に私の家ではどれだけ食糧にかかるかを別表に作って来ました。
パン(2㎏)  26円
ミルク(2ℓ)  20円
野 菜   30円
食用油1/8ℓ 10円
砂糖 0.5㎏20円
豚・鳥肉  80円
石鹸&紙  16円
家賃   1600円
靴一ヶ月に一足1600円
衣類   1000円
バス代  1200円
薬代   1000円
通信費  1000円
合計   7400円

 豚か鳥肉といいますが、これはほんのぽっちりです。育ち盛りの子供たちに充分の蛋白質が与えられ量ではありません。でも仕方ないのです。これが一日分ですから、三十をかけると、これだけで六千円になってしまいます。他にどうしてもいるのが、バス代、一人分往復で四回切符を買わなければいけないのです。乗り換えしますから、つまり二十四円です。一ヶ月間に二十日外出すればそれだけで四八十円です。うちは妻も働いていますから‥‥。今までは学校の生徒はタダで、大学生が三十銭くらい払っていただけでした。

 つまりこの七千円分は、そのうちの一部は妻の収入で何とかしますが、妻の収入がわずか千百円ですから、六千円あまりはどこからも金の出る当てがありません。医者の費用も、冬の光熱費もどうしたら出るのか分からない。何しろ半袖のシャツ一枚だって、七百円するんです。今、人たちはクーデター後の軍部に期待をかけていますが、そのうちに駄目だということが分かるでしょう。アジェンデは少なくとも、貧しい人に何かを潤しましたけどね」

 アリアガーダ氏が帰った後で、木霊が言った。
「大変ね。軍政が倒れるとしたら物価対策ができない場合だわ」
 アジェンデが倒れたのも、要するに思想ではなく、パンがなかったからだ。人々を食べさせるという、政治家として最初で最後の任務を果たし得なかったからだ。今また、軍政は、同じ問題をかかえている、というのが私も同じ印象だった。

「それともう一つ、拷問にかけて瀕死になっている人をなぜ家族に見せたりするのかしらね。なぜアリアガーダさんの一家だけが、皆がナショナル・スタディアムの中に捕らわれている家族を心配して、スタディアムの見えるところに立っている、っていうのにお兄さんに会えたのかわからない」

 私は誰でもいいから、収容所の中にいたという人に合わせてもらいたい、とアリアガーダさんに頼み、彼は連絡をとれ次第そういう人を連れて来る、と約束した、しかし、これは遂に実現しなかった。
 世界中の注目を集めたナショナル・スタディアムに収容されていた左翼の人々に対するもう一人の直接体験者の報告がある。私と同じころ、取材の為にチリに滞在していられた仙台放送製作部の佐藤正弥氏が、私に寄せられた個人的な手紙である。

「取材中、印象に残ったことを、二つ思い出したので――。(一)略
(二)例のサッカー場に行った時ですが、初めて百人が釈放された日の事です。午後八時をすぎて、私たちが場内に入ると、兵隊の親分が、『もうこんなことはするなよ』という意味の訓辞をしました。すると、彼らは一斉に手を挙げ、笑顔で『ムーチャス・グラシァス!(ありがとう!)』と答えました。日本でしたら、”こんちくしょう”と思ってツバを吐きかけるところでしょうが――。

 続いていよいよ囚人が釈放されると、各所で抱き合い涙また涙でしたが、スペイン放送の音声録音係が、ボロボロ大粒の涙を流しながらマイクを突き出しているのを私は見ました。日本のマスコミは絶えず冷静であり、客観的であることを要求されるあまり、滅多なことでは泣かないものです、この日気づいた二つのシーンは我々の在り方にも、少なからず反省を求めていたような、気がします」

 アジェンデの偉大な凡庸さに親しみと悲しさ
 私の文章は、チリのクーデターの経過報告ではない、あくまでもサンチアゴの民衆の声なのだから、あまり、私の好でない話題でも、それが何人かの口から話されたことは落とすわけにはいかなくなって来る。それはアジェンデ大統領の、私的生活の部分である。

 二十歳の時にチリに渡り、それ以来日系人として、手広く仕事をしている、H
老夫人の話。折り目正しい日本語で。
「アジェンデ大統領がご就任になって間もなくことです。私が、テレビを見ておりましたら、大統領がこんなふうにおっしゃったんですのよ。
 自分はチリ人全部の大統領ではない。左翼連合の人々のための大統領だ。
 あんなこと、仰っていいのかしら、と思ったことを、今でも覚えていますわ」
 
 在サンチアゴの日本大使館、二等書記官・鈴木邦治氏の話。
「私がアジェンデ氏を最後に見たのは、クーデターの四日前です。日産自動車とチリ政府との間に調印式があったので、そこに立ち合ったのです。無事終わって乾杯になりました。その時、アジェンデ氏は、自分は、フランスとロシアのしか飲まない。葡萄酒もチリ産ものは飲まない、と言いました。私たちのグラスにはチリ産の酒が注がれましたが、大統領にだけは、別の壜が持って来られました」

 エルマーナが、「人が言っている事ですけどね」という前置きをして、話てくれた。
「アジェンデ氏と夫人のオルテンツアさんとはもう、ずっと前からご夫婦じゃないっていうのは周知のことだ、という事になっているというの。アジェンデ氏には別の女性がいるし、オルテンシアさんには、別の男性がいるというの。オルテンシアさんは、公式行事の時だけはアジェンデ夫人としてふるまって日当をもらえるんですって…‥」

 人間というものは、「見てきたような…‥」を愛好するものである。公式行事に並んで出るだけでギャラが貰えるなら悪くない話だなあと、私は慎みのないことを考える。その噂を信じる人は、オルテンシアさんがアジェンデ氏の死後にわかに貞女になって、夫の非業の死を歎き、世界中に喧伝しているのが不愉快だという。しかし、夫の死後、俄かに貞女になることを不思議と思わないのが小説家というものかも知れない。

 私はすでに、トマス・モロと地名で呼ばれているアジェンデ氏の私邸のあたりまで行ったことがあった。トマス・モロというのは、「ユートピア」の著者「トマス・モア」のことだという。どうして俄かにカトリックの母校は、マルキストのアジェンデとさまざまな形で繋がりがあったのか、私には分からない。トマス・モロ街に面したアジェンデの私邸に立っている土地は、もとは聖心の敷地であった。

 アジェンデがキリスト教民主党の票を集めて、大統領になった時、カトリックとの繋がりができたのかもしれないが、聖心の修道会は望まれて、修道会の持っている土地の一部を私邸用にアジェンデに譲ったのである。アジェンデの修道女たちのために、ハイカラな住宅を一棟、一ロックほど離れた所に建ててくれた。

 聖心に行けば、その裏庭から、アジェンデの私邸の一部が見える。白い平屋造りの家が、アジェンデが「甘い生活」をした邸だと、彼の死後報じられた。チリ国民が僅かなパンを買うのに行列していた頃、アジェンデはここにフランスの葡萄酒をつめた酒倉を持っていた、ということは日本のテレビ・ニュースにまで出た。そのような喧伝は信じ難い、と私はサンチアゴで言った。前大統領が人格的におとった人間であるという悪い印象を人々に植え付けるために、アジェンデの死後、軍事評議会が大急ぎで創った舞台装置ではなかったのか。

 すると、チリの日本人たちは、あれはモネダ宮殿の攻防戦後間もなく放送されたものだから、そのような時間的なヒマはなかった、と口を揃えて言う。それは、まあ、それでもいい。アジェンデはトマス・モロの庭にプールを作り、そこに剥製のワニを置いていた。「夏に‥‥」と名づけられた庭の離れにポルノグラフィカ(好色)な書類や品物があったとサンチャゴの新聞は写真入りで報じていた。
どれもが何と凡庸であることか。マルキストも、少し金ができれば、ハリウッド風のプールを作り、フランスの葡萄酒を飲み、ポルノにうつつをぬかすのか。

聖心の裏庭には、大統領専用のヘリコプターを発着させるための小さなヘリポートがあった。そこからは、アンデスの雪をいただいた山々が見え、ヘリが発着する時に恐らくペロペラでその葉をなびかせたに違いない桃畑がのんびりと続いていた。その時、初めて、私はその偉大な凡庸故に、マルキスト・アジェンデに親しみと悲しみを感じたのである。

アジェンデ政権の残したもの
エルマーナ粕谷は「フンタマ」という言葉を発明していた。フンタマというのはつまりチリの場合、軍事評議会を意味するのだがから、フンタマとはクーデターを心から喜んでいる人達という意味である。フンタマに会うのは少しも難しくもない。そこら辺、どこにでもいる。

ドローレス・ターグレ・プリエート・デ・A夫人の方は必ずしも、「フンタマ」ではないらしい。このようなことはチリではざらであるという。
ついでに少し余計なことを書けば、チリは非常に危険な優しい陥し穴を持った国である。ここの国へ独身で来た日本の男たちの非常に多くは、このA夫人のような小柄な優しいチリ女性の魅力にひっかかって、日本に帰ってこなくなる。何しろ、今どきの日本の女は、羞恥心を見せることもなくなったし、身のこなしも振舞も次第に粗野になった。
しかし、日本人の奥さんになったチリの女性を見ていると、日本男たちが、がちりと彼女たちの魅力のワナにひっかかった理由がわかるような気がするのである。なぜなら、彼女たちは夫が喋っている間に、そっと気づかれないように汚れた灰皿を換えたり、夫の為に身なりに気を配ったり、夫にそっと甘えたりすることを知っているからだ。チリ全体が、どちらかというと女性的な国に見える、東南アジアの諸国もどちらかというと女性的国家が多い。

しかしオーストラリアとか、イギリスとか、アメリカとかなると、これはもう男性のみごとな国で、女たちまで男みたいになる国という印象が、私には拭いきれない。A夫人も、金髪の小柄な美人である。トマス・モロに近い高級住宅地に家がある。息子は三人で、長男がまだ五歳ぐらいだけど、恐ろしく賢い。どんな大人の話題にも、明晰なスペイン語で会話に加わろうとする。エルマーナ粕谷は自分の子供みたいに、この子供をかわいがっては膝に乗せながら言った。

「いつか、昔私のいたチェ・ゲバラの貧民窟(ボブラシオン)に連れてってあげるけど、そこじゃ、十人のうち、二、三人は精簿みたいに見える子がいるから」
「どうして?」
 私は尋ねた。
「近親結婚と、親のアル中が多いからじゃないかしら。こういう日本人の賢い子供の表情と比べてみるとわかるわ」
 A夫人の話。
「私はクーデターのことは、二、三日前から知っていました。政府に友人がいましたから。でも私は軍隊の一部はアジェンデを支持するだろうと思っていたのです。父は、ヴィア・アスールという大きなバス会社に勤めていて、前はもちろん、私企業だったのですが、国有化されていて、しかもクーデターの前三ヶ月は月給を払ってもらっていませんでした。

 私は毎週金曜日には市場に買い物に行くんですけど、ひどい乱暴な運転をするので怖くてたまりませんでした。一月の末に三番目の息子を生みました、クリニカ・サンタ・マリアで生んだのです」
 エルマーナ粕谷が「それは上等な病院よ」と私に教えてくれた。

「帝王切開で産んだのですが、もうその時すでに麻酔薬をぎりぎりしか打ってくれないくらいになくなっていました。それからの生活はさんざんです。三ヶ月月給が払われないと、普通の人はヤミをしなければ生きていけません。政府はかげでひそかにそれを奨励しておいて、ヤミをやるのには左翼連合以外の人だと喧伝していたのです。

 一月に生まれた子供が、九月十七日、クーデターから六日目の夜、肺炎になりました。外出禁止令の時間をすぎてから熱がひどくなり、呼吸も苦しそうになったのです。私は赤ん坊を車に乗せ、ルームライトをつけたまま、ゆっくり走らせて行きました。途中で車を止められましたが訳を話すと、病院まで護衛してくれました。八ヶ月の間に、これだけよくなっていたのです」

 私は今、お宅に来る途中の何かという学校(コレヒオ)の前に兵隊がいたけど、と質問すると、A夫人は答えた。
「ああ、あそこには、ピリチェト(軍事評議会議長)の息子さんがいるので誘拐を恐れてずっと護衛がついているんです」
 私はこの美しい夫人の日本人の夫であるA氏にも会った。A氏は夫人ほど「フンタ万歳」ではなさそうである。

 九月十一日以後の言論の統制のことが話される。トリブーナ他二紙が、自主規制という名目で二十四時間発行停止になった。従来の政府系の新聞・ラジオは禁止されている。キリスト教民主党系の新聞、ラ・プレンサは初め数日間許可されなかったが、その後、白い紙の部分を残した日もある。何しろ新聞記者が、夜取材できないので、どうしようもない。

 八月、チリ海軍が、極左による軍艦乗っ取り計画を見つけた、と発表した。制服を着た極左が軍艦を奪おうとしたというのである。海軍は左翼連合の他、マブー、MIRの二極左グループのそれぞれの書記長が、この事件に関連していると発表した。

「この状況から脱け出そうとして、キリスト教民主党との対話、軍人四人の入閣などを決めたんですが、あの時点では、もう抜け道がなかったんです。アジェンデが極左との関係をすっぱり切れるか、キリスト教民主党との対話が失敗しなければ、軍の蜂起は難しかったと思いますがねえ。左翼連合は行政を握ったけれど、立法を握っていなかったんです。議会政治をやると言っておきながら、それを守らない。初めはきれいな家に入っても、住み方を知らなかった、ということでしょうか。アジェンデが建てたという低所得者用の家も一九七〇年以後、それほど建っているわけじゃない。人口は二・八パーセントずつ増えるのに、家の方は三年間で六パーセント分だけ増えた程度ですからね」

 私たちがオフィスを出る時、A氏が言った。
「まあ、チリのことは日本の新聞にもいろいろ書かれるでしょうけど、このことだけは忘れずにいらして下さい。アジェンデ時代に、チリには改めて新しい階級的な対立が生まれて、憎む、ということを覚えました。これはもう決定的な事実です。社会主義の望ましからぬ置土産の中で、これが一番大きなものじゃないかと私は思います」

怒りは憎しみに悲しみは許しに

 互いに許しあうとき
 大司教館は外側から見ると、倉庫のような建物であった。待合室はちょっとした田舎の駅ぐらいある。風呂屋の天井と同じ、明り取りになった天窓がついている。大きな魚網と、アシを使った衝立があった。「主よ、来りたまえ」と壁に書いてある近くに、ギリシャとタヒチのポスターが貼ってある。

 長い煙突が天井まで這いあがったストーヴがあるので、私は猫のようにすぐその傍に寄って行った。ストーヴは冷たかった。エルマーナに言わせると、火の入る事はないのだと言う。
「なぜ、置くのかなあ」
 私が怨めしげに呟くと、
「こういうものがあると、ないよりは心理的に暖いからよ」
 とエルマーナは言う。
 大司教はスギアヤの背広を着ていた。暗い執務室である。木霊が後でそっと教えてくれた。
「大司教様の靴下、左右、色も模様も違ったわよ。よっぽどお金がないんだわ」
 大司教は普段は活力に満ちた、すばらしい活動家だというのに、その日は思いなしか暗く沈んでいた」
「チリでは、政治活動に属していないという人たちも、実際に政党に入っていなくても、政治的な考え方はよく持っていました。教会や副音に従うと、政治には立ち入らないと言いますが、逆に信仰を守るために、同じ考えの人が集まることもあるんです。

 前の政府の時も、今も、彼らは教会を利用しているとしか思えません。今出している新聞によると、軍事評議会(フンタ)を教会は祝福しているように見える発表をしています。今までにも、政権交替の度に、さまざまな圧力がかかったことはありますが、今度ほど酷いことはありません。左翼連合の人は失業させられ、一家は働き手を失って食べられなくなっています。軍隊がそうする権利があるでしょうか」

 大司教の配下の中に、貧しい人々のために政治活動をした神父がいて、或る者は捕らわれ、或る者は国外追放になった。目下の教会の目的は、チリ人自身お互いに許し合わせることだと言う。

 大司教があまり口が重いので、私たちは十五分ほどで面会を切り上げた。それから帰り際に、私は大司教館の裏庭を見せてもらう事にした。
 典型的なチリ風の庭であった。陽射しは暖く、日陰は青く寒い。葡萄棚が長く続いていて、その下の地面に病的に繊細な葉の影をくっきりと落としている。黄色い花が咲いていた。アカシアとオレンジとおぼしき木。その下を猫の仔がひっそりと歩いている。名前のわからない小鳥が、雑草の中に溺れるように隠れる。すべてが密やかで、そして理由もなく、――私はそこに死を感じた。

 エルマーナは、かつて、人々が一夜のうちに土地を不法占拠して、キノコ小屋を建てて解放区を作った貧民窟(ボブラシオン)の中でも、ことに有名なチェ・ゲバラに永い間住み込んでいた。

「大変なところよ。或る男と女がいつも、夫婦みたいに腕をとって歩いているの。私初め仲のいい夫婦だと思ってたの。そしたら、その男の人はその女の人だけじゃなくて、女の人の孫娘にも手を出すので、眼が離せないんですって、二人はすぐに殴り合うの。

 生活を見ればそうなるのも分かるような気がしたわ。小さな一間きりの小屋にベッドが二つあって、夫婦と子供が皆一緒に寝ているでしょう。子供は親の夫婦生活でも何でも見ているわけよ。病気になった子供をお医者さまのお供をして見に行っても、注射器一つ置く平面がなかった。何人もの子供ばかりじゃない、犬もヒヨコも入って来る。玉ねぎや長靴もその間に置いてある。そのうちに子供が死んだら、お棺までおいてあったわ。

 だから、何でも手当たり次第に人の物を使うの。洗濯物だって平気で他人のものを着ちゃう。盗まれた人はその人が干した時、又取り返すわけよ。
 たとえば鶏が家の中に入って来る。すると自分たちのものでなくても殺して食べちゃう。お金の計算が間違っても平気ね。足りないと文句言うけど、多くくれたら平気でとるわ。でも自分より貧しい人には恵むこともあるの。大きく盗んで小さく恵むの」

 人があふれて文化が生まれる
 ある日、ついに、私たちは、チェ・ゲバラへ出かける事になった。エルマーナたちがそこを根城に貧民窟に入り込んでいた家は、もう壊されていたが、そのあたりは、エルマーナの地盤だった。角の食料品屋で、私たちは、そこの若夫婦の間に生まれた生後四ヶ月の女の子に対面した。エルマーナが名づけ親で、その子は桜(SAKRA)ちゃんと言うのだった。

 私たちは店の奥にある彼らの新婚の部屋に通された。薄暗い十六畳くらいの部屋だった。真鍮のベッドが一つ、ヘッドレイのベッドが一つ。床は木で、壁はセメントで腰位までをブルーに、上をピンクに塗ってあった。戸にタオルがかけてあるのは、隙間風を防ぐためらしい。裸電球が一つだけ部屋の中央にぶら下がっていた。

「女房が前の叔母さんの家に来ていたのを見染めて貰ったんです。四月に結婚式を挙げました。サクラが生まれたのは六月末です」
 エルマーナが小さな声で言った。
「この頃の赤ちゃんは大てい六ヶ月くらいで生まれちゃうのよ」
「労働者は、アジェンデ時代には働かなったけれど、今度は働くと思います。大体、共産主義者は、仕事をしなかったんですか。アジェンデ時代は、高い地位に就くにはワイロのようなものがいりましたよね。しかし、今は自分の力でできます。僕たちも店をやれば今、何とか食えるでしょうが、三年経たないと、次の子供は産めないと思います」

 チェ・ゲバラは、ひどく変わった、という事だった。この若い食品店主の従兄夫婦という人が、一緒に来てくれて、新しくキノコ小屋から移り住んだアジェンデ・アパートメントにいる知人に紹介して中を見せてもらうことになった。私たちが空き地を通り抜けると、キノコ小屋の子供たちに会った。彼らは陽気な春の日差しの中で泥豚と遊んでいた。「豚ちゃん、おいで(コーティ ェンガ)と叫ぶ彼らの声がよく通った。キノコ小屋には、テレビのアンテナがあちこちににょきにょき立っていた。

 実は、それまでにも木霊と私はよく土地の不法占拠問題について語り合った。木霊は、他人の土地に動物小屋のようなものを建てて勝手に棲みつき、お手洗いもないような暮らしにすさみ切っても、二年我慢すれば、自分の土地がもらえる、というような精神の浅ましさが嫌だ、と言った。しかし、彼女は又、優しい反面を持っていたので、バルパライソや、ヴイニヤと呼ばれる海岸の保養地に小旅行に出かけた時など、「こんな広大な人気もない所で、一坪や二坪の土地ちょっと失敬して勝手に住んでも、悪くないような気はするわね」などと言い直したりした。

 どこへ行っても、人間の姿はまばらで、それ故にあたりは清潔に自然に保たれていた。文明と自然はどうしても一致しない、と私は思った。皮肉なことだ。一致するようなことを、言いたいところだが、人間が多ければ、すなわちそれだけで地面は否応なく汚れるのだ。しかし人間が地面を汚す程度にふえてこそ、そこに初めて、複雑な芸術や学問が生まれる。

 昔そこに悪臭をたてながら、下水もろくにないままに、溢れ返った汚水の中に浮かんでいたキノコ小屋の集落は、ほとんど取り除かれていた。アジェンデ時代に建てられたアパートに入るには、当人も多少のお金を払わなくてはいけないという事だったが(その金額を正確に書き取ったつもりだったが私のノートから発見できない。二百五十エスクード「約八十円)くらいだったようにも思う」)、大半の人が、規定の金額を払い終えて、きれいなアパートに入れたのである。

 アパートの間を歩いていると、子供たちが集まってくる。服は汚いが、裸足は一人だけだった。それも趣味で履かないように見える。

 食品店の従兄は、二階建てのアパートの、階下のとなりにある一軒に私たちを連れて行ってくれた。中に入って私たちはすっかり驚いてしまった。六畳ほどの居間兼客間には大きなガラス戸棚があり、中にはワイン・グラスやコーヒー茶碗などが飾ってある。食卓も大きく八人位は座れる。

 寝室は二つである。主寝室は八畳くらい、戸棚のリネンは色こそ白くないが、ぷんぷんと洗いたての匂いを立てている。他に台所と浴室と、小さな裏庭がある。

 奥さんは黒髪ででっぷりと太っている。旦那さんはバスの運転手だという。
「何としても自分の家が欲しかったので頑張ったのよ。ここに入れる資格は、自分の土地と家を持っていないことです。ええ、どんな人でも、ここに入れるんですよ。
 アジェンデがひっくり返った時は、本当に残念だと思ったけど、今は落ち着きました。家宅捜索はクーデターのあと、十五日後くらいに受けたわ」

 エルマーナに言わせると、昔知っていたチェ・ゲバラの或る奥さんの最初の夫は飲んだくれの極左だった。チリの夫の中には凄まじいヒモ的な性格がよくいるという。飲んで女に手を出しては、又、平気で女房の所へ帰ってくる。女房がどんなに別れたがっても、しつっこくへばりついて離れない。彼女の極左の亭主はあの騒ぎの時、撃ち殺されたか何かで、彼女は天下晴れて、真面目な二番目の夫と一緒になれたのである。だから、彼女はクーデターが嬉しくてならないのだという。

 木霊と私は少しショックを受けていた。このアパートが貧民窟(ボブラシオン)だって? それなら日本中の大半のアパートは、立派な貧民窟ではないか。
 キノコ小屋を見たい、と私は言った。南ベトナムでも、私は難民小屋を見た。
「覗かせてもらいましようょ」
 エルマーナは言い、一番近いところに、既にぽつんと取り残されたように建っている、小屋の方に近づいて行った。

 入り口にはビニールの白いカーテンがかかっていたが中はすぐに見えた。
 若い娘が一人、六畳ほどの面積の部屋の中にいた。壁には運動選手やら、俳優やらの写真が貼ってあった。ベッド、プロパンガスを使った大きな天火、流し、テーブル、ソファ。
 手洗いや風呂こそないが、内部はきちんと片づけられ、若い娘の住まいらしく飾られ、臭気もなかった。
「なんてきれいなんでしょう!(ケ・リンド)」
 私たちは口々に言った。お世辞ではなかった。娘は少し冷たい顔をしていたが、私は充分に目的を達していた。

 空軍司令官との対話
 庶民の声だけで沢山と思っていた私は、突如、そうでない人に会う事になった。エルマーナが、ピノチエト氏に会いたいと言ってみたら、どうかという。ダメかも知れないけれど、お膳立てをしてくれそうな人を考えてみるという。

 私は生返事をしていた。私は公式見解というものがどうも恐ろしい。それに誰によらず、忙しい方たちに、一介の物書きにすぎぬ自分に会って下さい、とはなかなか心臆して言えない。
 しかし、日本大使館のお計らいもあって或る日、急に、軍事評議会内部でも、最もタカ派と言われるグスクヴォ・リィ・グスマン空軍司令官に会う事になった。場所はモネダが破壊されて以来、使われているディオゴ・ボルターレという近代的な建物の中にある。私たちは入口から一旦地階に降り、そこからエレベーターに乗る。エレベーターは一階に止まらない。保安上のためなのかも知れない。護衛の警察軍の将校はすべてチリ人としては並外れた大男ばかりである。

 リィ司令官はガブリエラ夫人と同伴であった。夫人も、この中で働いているという。
「クーデターに関する日本の報道は読みました。友人が送ってくれたので。正しいのもあり、正しくないものありです。違っている大きなところは、殺害があったというところです。マポチョ川に死骸がたくさん流れていたとか、三万五千人が死んだとか」
「左翼に対しては、どのような処置をしていられまいか」
 と私は尋ねた。
「十一月九日以後の犯罪に対しては軍事裁判を行いますが、その前にものに対しては、普通の裁判で処理します。今日は十月二十九日ですが、恐らく一週間以内に終わると思います」
「しかし発言の自由に対する恐怖があるように見受けられますが」
「私たち共産党員が公然と武力で反抗した時は取り締まりますが、イデオロギィそのものをなくそうとは決して思っていません。彼らが一方的に恐怖を過大に感じていることはあるでしょうが。我々が排除に努めているのは、職業的な左翼の扇動家たちだけです」
「アジェンデ氏に対する絶望を感じられたのはいつ頃からですか」

「一九七二年の六月頃からです。しかし、その段階ではまだ陸空海と警察の四軍は何ら意見の一致を見ていませんでした。ご承知のように、アジェンデが法を守らなかったことについては、国会からも、最高裁からも、総監査院からも警告が出ています。最高裁は九回にわたって注意を促しました。そのうちZ計画(ププラン・セータ)という、軍部解体計画が明るみに出ました。これは九月十七日の観閲式を利用して軍人を殺そうというもので、キューバなどから使用する武器を持ち込んでいたのです。軍としては、もうこれ以上、左翼を放置することが出来なかったのです。すでにパンや他の食糧も、燃料も無くなっていました。九月十一日の二、三日前、海軍内部で問題がありました。海軍の上層部は、モンテロ将軍を海軍司令官の席から下ろして、メリーノ将軍をその任につかせることを要求し、アジェンデはOKを出したのです。

 十日の月曜日に、アジェンデは内務警察局長と二人だけで食事をしながら言いました。
『メリーノが水曜日には司令官になるよ。しかし、木曜日には暗殺する』
 国防省の給仕人は、海軍の軍人でした。この言葉を屛風の陰から耳にしました」
「アジェンデ氏は死ぬとお思いでしたか」
「そうは思いませんでした。朝八時からヘリコプターと飛行場を、彼と家族のために用意してあり、そのことを伝えてありました。アジェンデを、メキシコや他の南米のどこかの国でも望む所へ送るつもりでした。ただし、キューバだけは断乎、拒否しました」
「アジェンデ氏の遺骸を見られましたか」
「私は見ません。彼はカストロから貰った銃で、喉に向かって撃ちました。弾は頭に当たり、顔半分は吹っ飛んだと聞いています。彼は実際にモネダが攻撃されるとは思わなかったので、現実に爆撃された時は、恐怖で理性を失ったのだと思います」
「軍政はどれだけ続けられますか」
「わかりません、いつ終わるかはチリ人の双肩にかかっています。返すことは必ず返すのです。これは約束です」
「日本では軍人が政治をやってもろくなことはない、と言いますが」
「軍人が直接やるのではありません。経済顧問団、社会顧問団を作って、かつてアジェンデ時代に、国外に流出していた頭脳を呼び戻して、再建に当たってもらいます。有名な経済学者のラウル・サエスも帰ってきてくれました。憲法については、今五人の学者の委員会ができています。草案を作るのに、半年以上かかるでしょう。二年くらいで国民投票に持っていけると思います。
 これからチリ人は、労働と、正直と、勤勉でもって、日本のようになるべきです。しかし覚えておいて下さい。軍事評議会(フンタ)もチリ人です。右も左もありません。左でいいことがあれば左を採り、右のいいところはそこからも採ります。チリは大体、カトリックとスポーツの国なのです」

 自由な政治的選択に賭ける
 一時間半後に、ディエゴ・ボルターレを出た時、私は通訳をして下さった日本大使館の鈴木書記官に尋ねた。
「アジェンデ氏を殺すつもりはなかったというのは本当でしょうか」
「本当だと思いますね。南米はお互いに国家間にサルヴオ・コンドウクトール(安導権)と言うのがありましてね。ふつうは殺したりはしないで亡命させるんです」
 
 このことは全く別の形で、私には理解できた。私たちは13チャンネルというカトリック系のテレビ会社を訪ねたことがあった。そしてそこで左翼連合に属していた、というカメラマンに会った。彼は初めは国民党だったが一九七二年から共産党主義者になったのだ。

 彼は今エクアドルに行こうとしていた。向こうの方は技術が低いので、多分仕事があるだろうと思う、とやはり浮かない顔つきだった。「そのようにして主義主張で職場を追われることを何とも思わないのか」と私は彼の友達だという若い局員たちに尋ねた。
「日本だったら、人権問題ということに成りますけど…‥」
「そんなことはない」と友だちの一人は答えた。「私たちは自由に、政治的な選択に賭ける。アジェンデ時代この男はいい目を見ていたのだから、それが倒れた時には、仕方がないのだ」

 当のカメラマンも黙って聞いている。皆そんなもんだと思っているらしい。非難もせず、助けもしない。妙に大人びた受け止め方である。このような感じ方なら、アジェンデも逃すであろう、と私は考えたのである。
 日本商社社員C氏の話である。
「私は大学時代から少し、左翼的だったんです。それで、アジェンデ政権には、期待をかけていました。
 しかし、チリ人に失望したのは、アジェンデが立って一年半後ですな。私は少なくとも共産主義者は闇をしないと思っていました。ところが彼らは何でもやりますな。マルキストの闇ドル買いはソ連にもあるそうですが…‥。

 子供くさいと言われるかも知れませんが、私は、やはり、彼らが清浄(サント)であってほしかったんです。ところが、共産党の誰それさんに頼むと、アパートに入れてくれる、式ですからなあ。

 やや清浄なひともいないじゃなかった。アジェンデになって最初のクリスマスに、うちの会社は恒例で役人にシャンパンを配ったんです。共産党員のうち五人返しに来ました。翌年はやらなかったから、この調査はできなかったわけですけど。

 僕は共産主義やるなら力だけだと思いますね。だらだらした、民主的な共産主義なんて時間の浪費ですよ」
 日本大使館、二等書記官・鈴木邦治氏の話。
「クーデターの時、どんな流言飛語がとぶか。日本の方のお役に立てるかと思いますから。
○a (誰かが)水に毒を入れた。
  このパターンは今度も出ました。ドミニカ共和国のクーデターの時も出ました。
○b 南からプラッツ将軍が攻め返して来る、キューバから民兵五〇〇〇人が来る、沖に潜水艦が来ている。
 どれも根拠なし。
 それとこれは笑い話ですが中南米ではトイレット・ペーパーがなくなると、革命近しという説があるんです」

 日本人D氏の話。
「日本から、新聞記者さんたちが見えた時、その記者会見の場に、兵隊がおって自動小銃を構えたままだった。それがいたく、彼らの神経を刺激したようですなあ。新聞記者に銃を向ける国がどこにあるなんて怒ってましたけど(サンケイ、十月四日、小川敏特派員発『外国人記者に対する態度も不信と疑惑に満ちている。警戒厳重な国防省で行われた軍の実力者レイ将軍《空軍》の記者会見では、記者団の周囲を引き金に指をかけた鉄カブトの兵士が取り囲み、兵士は最後まで記者たちに銃口を向けて外さなかった。こういうむき出しのいささか幼稚ともいえる弾圧に、一部の上流階級を除く国民一般が満足しているわけはない』)こういう反応こそ幼稚ですな。この国は今でもどこでも誰に対してでもそうなんですよ。

 それと、記者さんたちの特徴は、私たちに九月十一日に何があったかとしきりに聞く。しかし、その前に長い間どうだったかは殆ど聞かない。不思議ですな」

 エルマーナは言う。
「あなたが持ってきてくださった日本の新聞を拝見しました。本当におもしろいくらい報道って不正確ね。こんなにいつも不正確なものなの?
 フランスのカメラマンが、死者少なくとも、四、五千人なんて言っているけど(ブエノスアイレス十八日、時事)そんなこと見えるはずがないわ。私たち住んでいる者にだって目に触れていないのに。実はロドリゲスさんが言っていたビクニヤ・マッケンナの通りね。あそこが極左の拠点でもあったし、私、外出禁止令が解かれた時、行ってみたの。そしたら、特にお葬式が多いらしい気配もないの。もちろん、何人かは死んでいるとは思いますけどね』
 私もいくつかの矛盾に気がついていた。

 たとえば毎日の北畠特派員は、ブエノスアイレスから十五日発の電報で、「サンチャゴ市内の二つの大競技場が臨時の監獄となり、ここには、最後までクーデター反抗して大学に立てこもった国立工科大学の教師、学生、など六百人が拘禁されたと言われる」と書きながら、四日後の十九日の電報では、「この近くの国立工科大は、どういうわけか迫撃砲が撃ち込まれ、校舎は大破」と書いてある。工科大学が左翼の拠点になったことは有名な事実で、迫撃砲くらい撃ち込まれたかもしれない。只単に、理由もなく軍が大学に迫撃砲をぶち込んだわけではないのである。

 しかし、いずれにせよ、学生が、そのような騒ぎに巻き込まれることが私は気の毒でならなかった。たまたま日本人のD氏の令嬢は大学で美術を専攻している爽やかな娘さんだが、彼女が、今度の軍政に批判的で大きなショックを受けている。とその母君から聞いたので、私は或る晩彼女に尋ねた。

「お友達が亡くなったんですか」
「そうね、先生が一人と、知り合いの男の子が一人ね、殺されたの」
 彼女は二世にしてはかなり上手な日本語で答えた。
「どうして、どこで、殺されたの?」
「先生はね、家に、機関銃や弾丸なんかをずいぶん預かっていたらしいのね。それで或る晩警察に襲撃されて、撃たれて死んだの。
 もう一人の男の学生は、この子はいつもピストル持ってた。工科大の学生でね」
 私はいくらかほっとした。
「武器を預かることは、本を預かるのとは違うわ。それは、とにかく、戦いに参加して、いざとなったら、お互いに人殺しをするという可能性を承認することだから。私は工科大学で、政治活動も何もしていない学生が流れ弾に当たって死んだというようなことがあるなら問題だと思ったんです。そういう人はいなかったの? 巻き添えを喰ったというような人は」
「さあ、それは、私は聞かない」

 悲しみは憎しみと許しに
 エルマーナは、十月十三日付の毎日新聞の「依然続く”恐怖政治”」「東側断絶、軍内部も不統一」という見出しに、赤鉛筆で次のように書き加えて私に返しに来た。
「依然続く”恐怖政治”」(から私たちは解放されたのです)、「軍内部も不統一」(というのはウソです)
 
十月三日の毎日が伝える「ニューズウィーク」誌のジョン・バーンズ特派員の記事は、死体置き場に忍び込んだ話である。「”スラム虐殺”続く」とつけられた見出しの上にエルマーナは、「全くウソ」と書き加えてある。
 九月十三日、サンケイ山田進一特派員の電報は、事件直後の混乱だけに致し方ないだろうが、キューバが十二日朝、キューバの在サンチアゴ大使館が爆破されたことについて、国連に抗議声明を出したと言うが、この事実も全くないという。

 しかしエルマーナを最も憤慨させたのは、九月十二日事件後、毎日の滝本記者の発した電報に対する「平和革命に”殉死”のチリ大統領」という見出しであった。この見出しは滝本記者の充分に冷静な内容に対してほとんど該当しない。新聞社の内部に、アジェンデが倒れたと聞くや、記者の書いた記事もろくに読まず(せめてこの記事さえ丁寧に読んでいれば、こういう見出しはつかないはずである)既成概念で典型的な反応を示す人があるという事を示している。

 見出しには「アジェンデが最後まで対話を求め」とあるが、エルマーナによれば、対話を最終的に拒否したのはアジェンデだったのだという。対話で思い出したが、アジェンデを批判するのに、九月二十八日号の「週刊朝日」早大教授・西川潤氏の「美濃部さんの感じ」という表現があった。すっかりチリ人になって、日本のことがあまりよく分からなくなっているエルマーナはこれに対しても真剣な顔つきで言う。

「ねえ、美濃部さんて、本当にアジェンデみたいな人なの? 本当だったら大変だし、そうでないのなら、そんなこと言われたら、お気の毒よ」

 しかしどのような報道よりも、私がやはりひっかかるは十五日のモスクワ電によって発表された、エフトシェンコの詩であった。「将軍たちの長靴」と題する詩は、「チリの友への電報」という副題がつけられているという。
「どこにいるのだ、パンチョよ。
 チリのジャック・ロンドン、私の友よ」
 君が今捕らわれの身となっていることだろう。
 君はそこから叫びたいに違いない。だからそれはできない相談だ。
 君の口は将軍たちの長靴におさえられているのだから」
「戦車、それは将軍たちの長靴を磨くブラシだ。
 彼らの使うクリームは炭鉱夫の血、牧童の血だ」

 この詩は又もや「怒りを込めて」作られたものだ、と江川特派員は報じている。もちろんそうかも知れないが、それはエフトシェンコに聞いてみなければわからない。
 私はチリで怒りを覚えることはなかった。只、悲しかった。
 そうだ、或る晩のことを書かねばならない。
 人々と喋っている時、私は突然、エルマーナから目配せで呼ばれた。私は別の部屋に連れ込まれた。暗い影のような男が一人いた。しかし町の微かなあかりで、私にはそれが、兄が捕らわれているアリアガーダさんだということがわかった。エルマーナは人目を避けるために素早く窓のカーテンを下ろし、それから初めて電灯をつけた。
「今夜、もしかすると兄が処刑されるかも知れないのです」

 彼は言った。誰もがどうにもできることではない。それを知りながら彼はいたたまれずにエルマーナに救いを求めて来たのであった。
 誰言う事もなく私たちはそこにひざまずいた。祈るだけしかなかった。
「主よ! (セニヨール)」とエルマーナは祈り始めた。
 私は日本語で祈った。長い間、私たちはささやかな悲しみ、しかし絶対なる一つの生のために祈った。
 その時ですら、私は怒りを込めたりはしなかった。他人の事だからだろうか。そう言われば仕方ない。

 しかし、怒りは憎しみにしかならない。悲しみは、時には憎しみにもなるが、半分くらいの確率で許しにもなることがある。
 エフトシェンコは、この土地に来て、人々の声を聞いたのだろうか。人間の生活も言葉も理念だけではない。ここに来て、さまざまに分裂した、こっけいで悲しくて、強欲で、慎ましく、強くてもろい、人々の声を聞いたのだろうか。それが、文学者の捉える人間というものだ。このような単純な、善玉悪玉的な人間の分け方で、文学ができるのは、私は到底信じられない。エフトシェコはこうしめくっているという。

「いつか人民を絞め殺した将軍たちの指のあとを
 人民が告発する時がやって来るだろう」
 こここにも一人典型がいた。しみじみと人を見、理解し、その存在を抱きとろうとすることなく、人間愛の名を借りてすぐに「告発」をしなければ自分の人間が立つと思っている単純で血なまぐさい処刑人が。

 変わるもの変わらないもの
「私の名前は決して隠してくださらなくても結構です。私は発言を少しも恐れません」
 ソニーの代理店主、エンリケ・カントーヤ氏は言う。氏の自尊心のために、私は私のルールを破って、氏の本命を出すことにする。
 氏のオフィスは町中にあるが、看板はどこにも出ていない。左右両方のデモで壊されてしまったのだという。
「十四年前から、ソニーの代理店をやっています。アジェンデは立つとき、議会政治を守ると公約したのです。しかし間もなく、左翼のジャーナリストに、自分の大統領としての地位を守る為だけ約束したと、と言ったのです。

 私はたまたま、食用油の製造工場をやっている人を、よく知っていました。その会社の場合、労働者はオーバー・オールを支給されないという事だけで、会社とちょっとした争いになった。それだけで、もうこの会社は内容がよく分からないから国有化するというのです。

 チリでは、紙会社は一社だけです。そこも国有化して、言論を統制しようとした。左翼は、言論の自由を決して認めない。私たちは必死で株を買って、紙会社を左翼の連中に渡さないようにした。これはもう有名な話です。

 クーデターのあと、モスクワ放送は何と放送したと思います。七十万人が死んだと連日伝えたのです。私は毎晩それを聞きました。マポチョ川が赤く染まっているとも言いました。七十万人死んだらどうなると思います。処理がつかない。昨日は諸聖人の祝日(トドス・サシース)で、皆がお墓参りに行くのについて行かれたそうですね。新しいお墓がとくに多くもなかったでしょう。

 具体的なことを話してくれとおっしゃるのですね。よくわかりました。私たちのソニーの工場は北の方の砂漠地帯にあるアリカという町にあり、アジェンデの政府からの検査官(インテルベントース)が入っていました。この男は大して悪い人間じゃなかった。只ひたすら持ち出したラジオを闇で売っていた。アリカはペルーと近いんです。ペルー側のタクナという町まで四十キロです。アリカで一の値段のものはタクナでは十になる。密輸は、最上の仕事でした。
 彼はいつか退官したら、豚の屠殺場を経営したかったんです。それが彼の夢でした。それで闇流しをやったけれど、あまり仕事に口出しませんでした。彼はクーデターの次の日の朝十時に消えました。私たちはアリカの軍政府に、彼のことを訴えようと思えば、訴えられたんです。しかし、軍事評議会(フンタ)は忘れ、赦すことを望んでいますからね。私たちは、二つの羽で飛んでいるチリと言う鳥なんです。

 私たちはマルキシズムが『憎しみ』の情熱の上に立っていることを体験させられました。
 マルキシズムが階級を取り払うなんて言うのは噓です。彼らはむしろ、階級闘争を盛り立てる。子供たちの心の中にまで、階級意識を植え付けるんです。左翼の人というのは、どうも我々と違う言葉を持つみたいです。私は一九四五年にソ連と仕事をしたときそれが分かったんです。

 チリについて恐らく日本も大きな間違いをしている。それはこの国では一握りの金持ちが、たくさんの貧乏人や、軍隊を自由にしている、という発想です。チリは中産階級の国なんです。たとえば、私も妻も、つつましい家の出です。しかし、アジェンデ以前のチリには、メリトクラシィがあればこそ、私たちもここまでになれたのです。つまり能力か仕事熱心かであれば、家柄や財産に関係なく浮かび上がられるのです。軍人の家族も、大半は中産階級です」
 その時、そばにいた英国人・冗悦氏が口を出した。
「それは間違いない、私は、チリ軍隊に、武器を入れているからわかる。将校たちの構成も、決して独占的なものではありませんな」
「チリの中産階級がプロレタリアを裏切ったという言い方はできないんです」
 カントーヤ氏は話し続けた。
「もちろん、一部には貧しい人もいるでしょう。しかし国の大多数は中産です。日本ではトラック業者のストがクーデターの原因になるなんて聞くと、大企業が左翼を潰そうとした、と思うんじゃありませんか。日本のトラック業者は大きいですからね。チリとは違います。一台か、二台、やっと自分でトラックを買って、自分で働いている連中です。その車まで取り上げようとしたから、彼らは車を政府に取られるくらいなら、と自分で自分の車に火をつけたのまであるんです。ひどい時代でした。あらゆる人がヤミをやるので働かなかった。働くよりその方が儲かるんですから。

 私は子どもたちと家族を連れてペルーへ行こうと思っていました、私は子どもたちに、愛をもって、正しい労働によって、正直に暮らすこと教えに行きたいんです。そしてそれが実証される社会で大きくやりたかった。私がまず一九七四年の一月に行き、家族は六月に呼ぶつもりでした。

 しかし、チリ人は働き出しました。二、三年うちに、日本と同じように奇跡を起こしたい。私は、そう願ってるんです」

 私はふと、自分がタイム・マシンの中に入るような気がした。十年後、二十年後、三十年後、木霊と私は、一九七三年のチリのクーデター直後に三週間を語るだろう。そして、それが、あたかも、切り取られた、アルコール漬けの標本のように、色褪せ、生気を失っていて、そこに語られたすべての言葉も、戸惑いも、情熱も、悲しみも、今や何の意味も持たぬことを知るだろう。
 しかし、そのような時の流れ、人間の心変わりが、もしかしたら生の証であり希望そのものなのかも知れないのだ。

 ここで登場する多くの人が、アジェンデの初めの頃、彼に夢を託した。そして、今それが無残にうち砕かれたのを見た。今、又、たくさんの人々は軍政に賭けようとしている。しかし、人生の常道から言えば、これも亦、必ずや幻影なのだろう。一切の状況が、その苛酷な運命から逃れる事はできないとみてもよい。
「相談があるんだけど」木霊が言った。

「今、アンデスを見ていたら、車で山を越えたくなったの。あなたいや?」
 嫌な筈はなかった。山だけは辛うじて数世紀の間変わらないかも知れない。木霊は私の心を見抜いてそういう提案をしてくれたのかもしれない。と私は思った。
 アリアガーダさんのお兄さんは遂に処刑されなかった。

つづく 中国・一九七五年春
 見方は違っても友になれる
 静かさの音が聞こえる