閉経による卵巣からのホルモン分泌が減少することで性交痛を引き起こし、セックスレスになる人も多く性生活が崩壊する場合があったり、或いは更年期障害・不定愁訴によるうつ状態の人もいる。これらの症状を和らげ改善する方法を真剣に考えてみたい

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 与えられている幸福

本表紙曽野綾子著

Ⅰ 愛と許しを知る人びと
 与えられている幸福

  人にはそれぞれの才能がある。

「私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、それが預言の賜物であれば信仰に応じて預言をし、奉仕の賜物であれば奉仕をし、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみなく施し、つかさどる人は心を尽くしてつかさどり、慈善を行う人は快く行うべきです」(ローマ人への手紙12・6~8)


 教育の問題は最近いよいよ熱心に論じられるようになったのは結構なことだが、その際いつも私のような者の心に引っかかるのは、人間には皆同じような才能が内蔵されていて、それがうまく開発さえすれば、決して落ちこぼれなどないという考え方である。
 これは万人受けする言い方だが、これほど無責任なものはないと私は思っている。

 私は生まれつき強度の近視であった。これくらい強い近視になると、スポーツが上手くなるわけがない。例えば球技では、最初の一秒の何分の一かで球の行方を見極めなくてはならないが、近視には遠くの球の状態などとても判断できないから、もうそれだけでスタートが遅れてしまう。
しかし遠くを見なくてすむ文章を書くことなら、どうにか人より少し楽になったのである。

 ここに書かれている人それぞれの任務はキリスト教の初代教会の状況を書いたものだから、現代の人から見たら何か抹香臭い感じがするかもしれないが、これはつまり人々が自分に与えられている才能を生かして働けということである。金儲けのうまい人には稼いだ金を人に分け与えることを任務と思い、知的なことの得意な人は他人に教えることにたずさわったらいい。リーダーに向いた人は他のことには無能かもしれないが、人を率いていくことはできる。「預言」は、「予言」と違い、神に承認された未来の予告であるが、そのような特殊な才能も、ある人にはあるし、ない人にはない。しかしある人もそれは自分の心がけ努力でそうなったのではないのだから、自分は他の人より高級だと思うことなく、ただその特殊任務を果たせという教えなのである。

 人間平等という思想は言葉の上では簡単だが、もし自分の持っている才能が自分の力によって手に入れたものだと考えたらとしたら、とうてい承認できないであろう。なぜなら自分で努力して手に入れたものに対しては正当に報いられるのが正義だからである。毎日ただで働けばいい肉体労働と、何年も勉強し続けなければならい学問とか、職業に貴賤はないという「暴論で、同じ評価を受けねばならぬという事の方がずっと不法である、という理論も成り立つ。

 しかし個人の才能は神から無料のリースとして与えられているものであり、あらゆる職種は神の計画のもとにあると考えるとしたら、その時初めて自分に与えられた生涯は誰と比べる必要もなくそれぞれに大切なものなのだということが納得できるはずである。

与えることは得ること

「兄弟たち、マケドニア各地の教会に与えられた神の恵みについてあなたがたにしらせましょう。その恵みとは、苦しみによる激しい試練のうちにも彼らの歓びがあふれ、また、どん底の貧しさがあふれ出て、人に惜しみなく与える豊かな心をもたらしたということです」(コリント人への第二の手紙8・1~2)


 最近日本では、教育を見直さねば、という機運が高まっているというが、新約聖書の中で、パウロによって書かれた手紙のこの部分は、教育の基本に触れている箇所だといえる。
 言葉遣いはいささか時代がかってはいるが、人間とはいかなるものか、また、人間は何をなしうるかという永遠の命題がここに明らかにされている。

 第一は、人間は神の恵みを受けて生きている存在だという解釈である。
 私たちの生命も健康も才能も決して私たちが思いのままにあがなったものではない。健康を保つことにいささかの力を添えたのは、私だったかもしれない。しかしそうできる気力を与えられたということは、私の力ではなかったのである。

 人間は基本としてまず与えられたのである。その関係はいわば神と人間との縦の関係だったが、それをもとに人と人との横のつながり作ることが可能になったのである。

 恵みはギリシャ語でカリスといい、この語は、ただ単に恩恵や賜物を指すだけではなく、それを自覚した人の行動の結果としての、善行や感謝なのを含む。つまりギリシャ人も、人間はよいことをしてもらったら、当然その後にお返しや感謝を考える筈だとしていたのである。

 しかし私たち日本人は今、してもらって当たり前という姿勢に馴れきっている。「受ける権利」という言葉に表される戦後の考え方である。そして、受けると同時に与えることが自然なのだという点には、ほとんど教育的配慮が払われていないという異常事態である。

 第二に、自然な人間性を、自然な人間関性を、一番強く持っていたのが、貧しい人々だったという事実である。
 パウロの時代、初代教会はあちこちで迫害を受けていた。またエルサレムには、貧しい信者たちがたくさんいて、パウロが彼らのために募金運動を約束してきたことは知られている。

 ここでさりげなく述べられていることは、今も昔も、人のためにお金を出す人というのは、決して金持ちでないというおもしろい現実がある。むしろ、自分で苦しみを知っている人の方が、その苦しみを原動力に人を助けようとする。このことは言葉を替えて言えば、逆境が豊かな人間性を作ることもあるという証明である。

 しかし、今の日本の風土の中では、貧困にも価値と意味を見つけられることが人間性なのだ、などと言えるのは、無頼な小説家くらいになってしまった。与えることは、決してものを失うことではない。与えることは、得ることなのである。金は与えるとその時は減るかもしれないが、愛は違う。愛は与えれば与えるほど、増えるのである。

 与える人生

 何回か確かに読んだことがあるはずなのに、これほどのことが書いてあるとは思わずいたという聖書箇所を、このごろよく発見するようになった。本を読むとことに関する集中度は、今より昔の方が優れていたと思うから、それだけ内容が身にしみるようになったのは、やはり生きる年月が長くなるにしたがって、誰でもそれだけ人生を受け取る容量が増えるということなのだろう。『使徒行録』20・35なども、まさにそのような箇所である。そもそも『使徒行録』というものは、使徒たちの行動の記録だから、それほど信仰に関して深いものを記してはいないだろう、などと初め私は思いがちだったが、決してそんなことはなかったのである。
「あなたがたも、このように苦労して、弱い人を助けなければならないことと、また、主イエズスご自身が、『受けるより与えるほうが幸いである』と仰せになったことばとを、心にとどめておくように、わたしはいつも模範を示してきた」(使徒行録20.35)
 この言葉をパウロが口にしたのは、ミレトの港である。ここから、パウロは最後のエルサレム訪問へと旅立ち、そこで捕らわれてローマへ送られる。ミレトに立ち寄った時、パウロは時間が無かったので、エフェソまで赴くのを諦めて、長老たちに、ミレトまで出てきてもらうように頼み、そこで、もはやこの世で生きて再び会うことはあるまいという予感と共に、別れの言葉を告げたのであった。

 その最後の部分がこの言葉である。
 今年、日本では飢えるアフリカに対する援助が盛んである。援助の手を差し伸べた多くの人々は、素朴に、自分たちは今飽食の気味さえあるのに、同じ地球上では飢えて死にかけている人たちがいることに、ショックを受けて、何とかその人たちを救いたいと考えている。それはもちろん自然な気持ちでいいのだが、その精神を支える根拠を、パウロはこの部分で、実に明確に述べている。ほんとうは私たちは「苦労して」弱い人たちを助けなければならないのである。自分がほとんど不便もせず、困りもしない程度のものを差し出すことは、(それで悪いということではないのだが)ほとんど誇るに足りないことなのである。

 なぜ、自分が「苦労して」も人を助けなければならないか。そうでなければ、人間は生きていけなからなのである。それは、未開なイエズス時代の話でしょう、という人がいるかもしれないが、今でもその原則は変わってはいない。砂漠に住む人々は、たとえ敵対する部族であっても、旅人には貴重な水を与える義務を負っている。近くにいる船が遭難したという信号を傍受した船は、たとえ時化の危険があっても、現場に急行して遭難者の捜査に当たらねばならない。地震でも火事でも洪水でも山崩れでも噴火でも、総ての場合に、私たちは、まともな人間であるなら、自分の危険を引き当てに、弱い人を救う。その行為がなかったら、地球は人間のものにならないのである。

 もちろん、この世には、一切の危険な仕事は、割に合わないからいやだ、という人がおり、今の日本では、私たちにはその人々をいかなる形でても強制することはできない。しかしその手の人々は、肉体は生き延びても、もしかすると、本当の人間としての誇りを持つことのできるような生活を全くしたことがないのかもしれない。なぜなら、自己保存の情熱というものは、動物のものであって、それだけでは人間の資格に充分なものだとは言えないからである。

 しかし、イエズスは人間の弱さを知っておられた。普通の人間はいくら来世で報いられるからと言われても、現在で全く無視されると、生きる意欲も減って来る。神の喜ぶことができればいいと言っても、やはりこの世の人から、時には浅はかな称賛も欲しいのである。それを見越して、イエズスは私たちが人のために働く時、してもらう時よりも強い喜びを感じられるようにしてくださった。

 戦後、日本が民主主義的な社会を作った時から、私たちは社会が自分に何をしてくれるかを待ち望むようになった。私たちは全く一人では無力なものである。一人で道路を作ることもできないし、電話を引くことも不可能である。だから多くのことは社会が組織的にしてくれることを期待するわけだが、それでも、与えられることを最終の目的としていると、常に不満が残る。というのは、与えられることは、自動的に「もっとたくさん」という欠乏感を伴うものだからである。

 しかしその反対に、与えるという行為は、たちどころに、私たちの精神を充たす。
 しかし、品物でも、お金でも、労力でも、普通与えれば減って行くものである。よく笑い話で言うのだが、金持ちはけちだと、我々は非難する。しかし金持ちに言わせると、けちで金を出さないようにしているからこそ、自分たちは金をためられるのであって、そうたやすく金を出していたらもう金持ちではなくなるのだ、という理論を持ち出す。金銭に関する限り、まことにもっともな話である。

 しかしこと心の満足となると話は違う。私たちがほんとうに満たされるのは、受ける時ではなくて、与える時なのである。受ける時は、私たちは受けるものの量に左右され、少しでも少なければ、直ぐに不満を感じる。しかし、与える時には、私たちは恥ずかしいほど少し与えても、心は満たされる。この効果はまことに不思議である。

 戦後の教育が総てそうであったわけではないが、私たちは国家に要求することで「権利」を知った市民になる。と教えられてきた面があった。そして与えることに喜びを見出す人間を作るなどということは、資本主義に奉仕するだけだ、というような、貧しい、非人間的な理論が一部ではまかり通ってきた。しかし人間の本当の幸福は、受けると同時に与え得ることの可能な状況にいることであり、もっとはっきり規定すれば、ここにイエズスの言葉として記されているように、受けるより、与えることが多い立場にいることのほうがより幸せなのである。

 私は今、韓国のカトリックのハンセン病の施設・聖ラザロ村と、マダガスカルでマリアの宣教者聖フランシスコ会が経営なさるアベ・マリア産院のためのお金を集める仕事の事務局をやっているが、そこへお金をくださる方々は皆さん与える喜びを知った方々ばかりである。面白いものである。与える不満はどんどん減って心は逆に豊かになる。神は最高の心理学者である。

 私はこのミレトの海岸を訪れた時のことを、今でも忘れられない。暑い荒涼とした人影もない海岸に、階段状になった遺構がいまだに残っており、抱き合ってこの世での最後の別れを惜しんだイエズスと長老たちの姿を見えるようであった。堂々たる階段状の石の遺跡は、時代は定かではないが、華やかな石材の緋葡萄酒色を今でもはっきりと残していた。

 パウロが引用した『受けるよりは与えるほうが幸いである』という言葉は現在私たちが知っている四つの福音書のどこにも書かれていないから、パウロがどこからこの言葉を知ったかは、また大変興味があることなのである。もしかすると、四つの福音書以外にも、たとえば第五の福音書のようなものが、そのうちにどこかから出てくるのではないだろう、などと、学者でない私は期待するのである。

 真に持てるもの
 幸福も不幸も借りもの

 「時は縮められました。今から、妻のある人は妻がないかのように、泣いててる人は泣いていないかのように、喜んでいる人は喜んでいないかのように、買う人は何も所有しないかのように、そして、この世のものを利用する人は、、意のままに利用してないかのようにふるまいなさい。この世は過ぎ去っていくからです」(コリント人への第一の手紙7.29~31)

 聖書の文章の中で、この部分ほど好きで、諳(そら)んじて来たものもない。
 この文章の筆者パウロが部類の名文家であることは有名だが、良い文章というものはまず簡素で具体的であって、文体の平易さの底に深い思想が隠されていることがよくわかる。
 恐らくパウロは身近な人々が、この世のことを信じすぎていることを、何とも無謀で理解できない心理として見ていたのであろう。家庭の幸せも、自分の健康も、社会的な地位も、国家間の平和も、なにがしかの財産も、それらは今この瞬間私たちの手に預けられているに過ぎない。それらのものが取り去られるかもしれないことに対して不安を覚えるならまだしも、それらがいつまでも続くように思って暮らしていられる人を見ると、どうしてそんな甘い気持ちになれるのかパウロは理解に苦しんだのであろう。

 私は今までさまざまな人の信仰の形を見てきたが、世の中で度外れの楽天家というのは、信仰と関係なく生きている人である。関係なく生きられればそれでいいとも思うが、一生で一度も困難に会わないという人もいないから、その時が問題になる。

 平凡な信仰は一種の苦い中庸の精神を用意する。普通、もっとも誤解されている点は、信仰が現実遊離の理想主義や観念であると思われている点である。しかし信仰はむしろ主義的なものの考え方から解放されているから、無残なまでに私たちが実際に生きている現世の諸相を見せつける事になる。

 中庸(ちゅうよう)と言ったのは、幸不幸のどちらも深く信じないという姿勢に、信仰を持つ者はやや慣らされているからである。それは何故かと言うと「この世は過ぎ去っていく」からなのである。そのような視点の長さが、普通のセンスの人間には到底ついていけない明るさと見える場合もあるようだ。

 この手紙の文章を読むと、望ましくない現状が改善されることに対する希望は、「泣いている人」の項だけである。いやパウロは妻というものに対してはいささか懐疑的であったところがあるから、「妻のある人」もろくでもない生活の中に入れたつもりかもしれない。残りの三項目は明らかにもろい性質を持つ幸福に対する警告である。私にはその、小心とも思えるパウロの苦しみを含んだ用心が何ともよくわかって仕方ないのである。

 自由を阻むもの

「わたしは、自分が置かれた境遇で満足することを学びました。赤貧の中で生きることも知っており、有り余る中で生きることも知っています。わたしは、満腹することも飢えることも、有り余る中で生きることも、乏しさの中で生きることも、いつ、いかなる場合においても生きる秘訣を授けられています。わたしに力を与えてくださるかたに結ばれていることによって、わたしはどんなことでもします」(フィリピン人への手紙4.11~13)

 私たちは今、自由についてかなりはっきりした定義づけを持っていると信じている。自由はいかなる思想を持てることであり、どこへでも行けることであり、どんなことをも発表できることであると知っている。
 そのような状況さえ叶えば、私たちは自由を得たと安心するのである。
 しかし、実はそうではない。この原稿を書き終わると、私は約一か月間のサハラ砂漠の旅にでるが、実はそのような一見無駄なことも、私にとっては、本当の自由とはいかなるものかということを発見するためなのである。

 実は私たちの自由を阻む者は、社会や国家などの外的な状況ばかりでなく、私たちの心の中の内部にあることを知らなければならない。「貧すれば鈍する」ということもある。「金は精神を腐らせる」ということも一面の真実である。つまり、貧富はどちらも人間の心を縛るという、皮肉な真実を語っている。しかし本当は富も貧しさも、人間の心を犯すことはできないはずなのである。

 私は自分が僅かな暑さ、寒さでも、すぐ精神がだらけたり、縮こまったりするのを知っている。滑稽にも、お腹がちょっと空いただけでも、もう怒りっぽくなり、ご飯を食べると掌を返したようにおっとりする浅ましさにも気づいている。すでにそのような低次元の状況からしても「不自由人」である自分を確認するために、そしてもし可能なら、いかなる苛酷な状態にあっても、精神の自由の範囲を少しでも拡げるために、私は砂漠に行くのである。

 この手紙の筆者であるパウロは、このほかの箇所でも私たちが、世間の思惑を気にすることなく、大胆に勇気をもって、真理を発言する力は、実は信仰によって与えられるものだということを述べている。しかも、それは神の前に、深い謙虚さとともになさねばならない行為なのである。

 貧しさにも、苦しみにも、意味を見つけるということが、信仰の真髄なのだが、現在の社会では、それらのものは、すべて政治、経済、文化の政策の失敗として片づけられる。こういう風潮はつまらない、弱い生き方だと思う事もある。つまり社会的な自由を行使するということは、神の前における人間の真の分際も知らなければ、そう簡単にできることではないはずだ。その秘訣は信仰にある、とパウロは言っているのだが、これもなかなか受け入れられにくいことだろう。

失って得るもの

友のために死ねるか

「愛する者のために命を捨てること、これ以上の愛はない」(ヨハネによる福音書15.13)

 十月十日、ローマ法王庁は、ヴァチカンの聖ペテロ大聖堂において、大きな式を行う。マキシミリアノ・コルペという一人のポーランド人の神父を聖人の位に列するためである。
 コルペ神父は一八九四ポーランドの田舎町の貧しい織物職人の子に生まれた。ポーランドは当時三カ国分割の惨めな状態にあり、コルペ神父の信仰はその苦しみと貧しさを土壌に豊かに成長した、

 神父は、ローマで勉強し、ポーランドに帰ってから「無原罪の聖母の園」という修道会をひらいた。それは当時としては珍しいマスコミによる布教を目的にしたものであった。

 一九三〇年、神父はゼノ修道士らと来日、長崎でも同じように印刷物による布教をはかった。神父自身は結核で度々高熱を出していたが、極貧の生活の中で印刷機を廻し続けた。その時に築いた修道会が、今も長崎で「聖母の騎士」という雑誌を発行している。

 一九三六年、神父は帰国した。一九三九年に大戦勃発。一九四一年、神父は有名な強制収容所アウシュビッツに入れられた。同年七月下旬も神父の収容されていた獄舎から一人の逃亡者が出た。厳しい捜索にもかかわらず、逃亡者は発見されなかったので、ナチスは翌日、罰として十人の餓死刑囚をアトランダムに運びだした。

 神父はその十人は入っていなかった。しかし一人のポーランド人軍曹が、「ああ、かわいそうな妻と子供たち」と叫ぶのを聞いて、神父はその身代わりを申し出た。強制収容所の歴史の中で、他人に代わって死刑を受けることを申し出たケースは、この一例だけだったという。神父は水も与えられず、拷問のような十六日間を生き、最後まで虫の息があったので、フェノールの毒薬を注射されて殺された。

 神父はまさに先の聖書の言葉を生きたのである。ここでは「愛する者」という語にフィロスというギリシャ語が使われている。フィロスというのは「友」「仲間」「味方」というのが一般的な意味で、つまり私たちが好意を持っている知人のことである。

 しかし神父は、「知人」ではない男の為に自分の命を投げ出した。私たちのうち誰がせめて好意を持っている「人」のためなら死ねるだろうか。私たちは好きな人に慰めの言葉はかける。仕事を手伝ったり、病床につきそったりする。百円、いや千円は誰でも醵金(きょきん)しやすい。しかし一万円、十万円になるともう出すのは嫌になる。十万円も出せないものがどうして命を差し出すことができよう。

 この聖書の言葉は、ヒューマニスト、平和愛好者を自認する我々に痛烈な反省を促すであろう。人間愛と称するものは、いざという時に命を差し出すことを引き当てにしたものである。我々のうち果して誰がそれに該当するだろうか。

 こだわるものは失う

「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。自分の命を大切にする者はそれを失い、この世で命を顧みない者は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネによる福音書12.24~25)

 麦に限らず、総ての種子の運命は同じである。種子だけでなく、他の虫や魚も種族保存のために死ぬ。私はカナダで鮭の産卵を見たが、人間がもし鮭と同じ繁殖の仕方をしなければならないのだったら、人生観は大きく変わるだろう、と思った。川を上がって来る鮭は、既に傷だらけである。産卵をしている鮭の鱗で、既に死んだ鮭が白くなって浮かんでいる。人間ももし子供を産めば、数時間のうちに死ぬ、ということを運命づけられていたら、今のように不遜にはならなかったであろう。

 一部の聖書では、「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で命を憎む者は、それを保って永遠に生きるであろう」となっているが、私はこの方が理解しやすい。これは極めてユダヤ的表現で「愛する」「憎む」は「重く見る」「軽く見る」と置き換えていい。
 つまり表面的に読むと「この世で自分に関するものは何一つ失わないようにしよう、としがみつく人はかえってそれを失い、自分の持つものを軽く思っていられる人は、永遠の生命を得るであろう」と解釈できる。

 ここで「命」と訳されているギリシャ語の言葉には、かの有名な「プシケー」という語が使われている。
 プシケーは、日本人の意識の中では、なかなか理解しにくい深い奥行きを持った言葉である。
それは、現世での肉体的な生を示す「息」「生命力」「生命」「生きもの」などと共に「(感情としての)
心」「(神の助けによって永遠の生命を受けることのできる人間の最も尊い部分である)魂」「(体の死によってもなくならない)霊魂」などを同時に意味するものである。

 私たちは簡単に心と体を対立的なものとして二つに分ける。そして「体が死んでしまえば心なんか問題でもない」と物質主義になったり、「でも幸福でなければ生きていても仕方がない」と自殺を企てたりする。しかしユダヤ人にとって、生命と魂とは全く一つのものなのである。

 人間の長い歴史の一部は、人がその生命を犠牲にすることによって保たれて来た面もある。医学にも、人命救助にも、戦争にも自分が死んで他人を生かそうとする努力があった。だからと言って、今、誰がたやすく死んでもいい、とか、誰かを犠牲にすればいい、というものではない。ただ、誰かが生き残るためには、別の人間の命が失われる必要があることもあるという自然の道理さえ、危険思想と思われそうで、恐ろしくて口にできなくなる現代社会は、それだけ嘘つきになっており、その分だけ別の危険をはらんでいる、と思うことがある。

神は総ての人の中にいる

「あなた方によく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたのは、わたしである」(マタイによる福音書25.40)

 私は人がする悪いことは、すぐさま人並みにやるのだが、たった一つかなり感情的に抵抗するものがある。それは権力者にこびへつらう人や状況をみると、嫌悪感が露(あらわ)に顔に出てしまうという事である。

 もちろん、私は強い人間で、最後までその姿勢を貫くということはない。今はそんなことを言っていても、権力者に脅されて、命を取るぞ、などと言われれば、すぐさま「はい、おっしゃる通りにいたします」と言うに違いないのである。

 しかし、そうなった時、私は自分を深く悲しみ、哀れむであろう。その源泉になっているのが、聖書のこの部分だったという事に気づいたのは、ずっと後になってからである。
「最も小さい者」という単語はギリシャ語のエラキストスという言葉で表現されており、それは英語のスモーレストという言葉と全く同じで「小さい」という語の最上級である。つまり、人間社会で見捨てられた者、侮られたものということだ。

 人間の言葉はおもしろいもので、喋った言葉を文字に書き直せば、別に大して失礼ではないことがある。しかし、その語調に微妙な含みがあって、どうしても見下しているという姿勢が匂うことがある。

 私は今までに、人を人とも思わない喋り方をしていた人が、相手が有名会社の社長だとか文豪の孫だとか分ったりすると、急に言葉遣いまで違えるように浅ましい場面を何度も見てきた。ラジオを聴いても、軽妙で気さくな司会と言われる要素は、つまり人をどこかで見下していることなのかな、と思う時がある。

 しかしこういう態度は、教えて直るものではない。つまり人間共通の弱さを認識し、自分も間違うものだということを自覚し、しかし、総ての存在が重く尊いものだという実感がなければ、付け焼き刃で態度を取り繕えるものではない。

 つまり神は総ての人の中にいるという発想である。だから、私たちは「その人」にするのではなく、その人の中にいる神にするのだという考え方をとる。そう思って相手に対した時。今と同じ不遜で思いあがった態度で済むかどうかである。

 神は偉さの点から言ったら、総理大臣の比ではない。総理大臣より偉い人からものを頼まれたり、総理大臣より偉い人にあげることを拒否しますか、と通俗的な解説をしたら、なるほどと考えてくれた人がいた。

 ただ、目の前の総理大臣より偉い人は、秘書官を連れずに、SPに護衛もされていない。バーゲンで買った服を着ていたり、アル中だったり、仕事に長続きしない人だったり、外見もよくない人だったりする。その中に神を見つけられるかどうか、ということは人間の才能とイマジネーションの豊かさにかかっているということは言えるだろう。

 私たちは二つとない神の作品

「実に、信仰によってあなたが救われたのは、恵みによるのです。あなたがた自身の力によるのではなく、それは神からの賜物です。あなたがたの行いに基づくことではないのです。これは、だれも自分を誇ることのないためです。わたしたちは、神の作品であり、わたしたちが歩むべき道として、神があらかじめ用意してくださった善い行いをするようにと、キリスト・イエズスのうちに造られたのです」(エフェソ人への手紙2・8~10)

 現代は自信の時代である。いや、誰物史観による近代精神は、すべて人間がなし得たものは、人間の力だというふうに考えて来たのである。

 しかし信仰はそうではない。確かに現実にことをなしたのは、その人である。そしてまた信仰は、人間の努力を全く不必要だと言っているのでもない。しかし、ある人その人がその年齢まで生きて、あることを成し得る才能や技術を身につけられたのは、全くその人の力だけだったのか、というと決してそうではない。

 私たちは我々と呼ばざるを得ないような力によって、いい意味でも悪い意味でも流されて今日に至っている。私たちの努力はその流れにほんのわずか棹さして、方向づけを行っているにすぎない。私たちは力を与えられたからこそできたのだ。

 キリスト教徒は一般に、悪いことをしない人種なのだ、と勘違いしている人がいるが、むしろ信仰は、単純な善悪の判断からもっと自由で柔軟なものに飛躍しうる要素を与えてくれている。その鍵が「私たちは神の作品だ」という思想である。

「作品」である以上二つとないのである。そのことにも、私たちは厳粛なものを感じる。
「人間はみんな平等なのだ」などという思想に、私はいつも反発する。平等などということはあらゆる意味でありえない。私は自分に小さくとも他人にない特徴が欲しいし、人には私が持てなかった強烈な生き方を見つけて、尊敬し続けて暮らすのが念願である。

 かりに今、ここに連続殺人を犯した人がいるとすると。パウロのこの手紙は、その人さえも、神の作品であると言っていることになる。
 しかし、それは可能な事なのである。人間には、何もかも悪いという人も、何もかもいいという人もいない。だからすべて悪だけだという非人間的存在を示す概念が悪魔なのであり、善以外の何者でもないという概念が神なのである。

 中国が今でも往々にして、一人の指導者が神の如き完璧な人物であると言ったり、急に、礼子は全面的に拒否すべき人物だと言ったりするのは、中国共産党の指導者がまだ人間というものの根本を見つめる自然な勇気を持ち合わせていないという事なのであろう。私は中国人というものをよく知らないから何とも言えないが、こういう子供じみた理論は、まともな社会では、うんと程度の悪いおべっかつかいしか納得させられないものがある。

 実に、信仰だけが、現世では悪としか思われない要素にも、意味を見つけ出す。
 トマス・アクイナスもこの点について実に明快に言う。
「悪のない善はあり得る。けれども善のない悪はありえない」

勇気ある心の革命

 戒律にまどわされる人々
 イエズスという方を当時のユダヤ社会の中で「一人の生身の人間」として考える時、イエズスは正統ユダヤ教徒の思想をはるかに越えてしまっていた。
 イエズス自身もそれを意識し、山上の垂訓以後の教えの言葉のはしばしに、その違いがうかがわれるのである。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人々は、『殺してはいけない、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた。しかし、わたしはあなたに言う。兄弟に対して怒る者は皆裁きを受ける」(マタイによる福音書5.21~22)

このイエズスの言葉に、私は当時のユダヤ教のラビ的な匂いをありありと感じる。ラビたちの律法に対する解釈はさまざまであって、ユダヤ人たちは、決してそのうちのどれか一つを正しいと決めなかったことにその特徴がある。ラビ・ユダはこう言っているが、ラビ・アキバはそれはそうではないと言っている、という式の表現が、始終出ている。そのように対立をそのまま残しているのがユダヤ人の智恵だという。

 ラビ・イエズスの言い方も、形式としては極めてユダヤ教的なものだが、その内容が、根本的にそれまでのユダヤ教的なものと違うことを、賢いユダヤ人たちは感じなかったわけではないであろう。

 私たち人間は、特に選ばれた人は別として、普通の場合、宗教を二つの要素から見るものなのである。一つは教義そのもの、もう一つはその教義を信奉する人々が作る「宗教的社会」の約束事である。そしてどちらかと言うと、私たちが気にするのは、後者の部分である。

『姦通してはならない』と命じられたのを、あなた方は聞いている。しかし、わたしはあなた方に言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者は、その女に対し心の中ですでに姦通の罪を犯したことになる。それで、もし右の目があなたに罪を犯させるならば、それをえぐり出して投げて捨てなさい。全身が地獄に投げられるよりは、体の一部を失うほうが、ましだからである」(マタイによる福音書5・27~29)

 私は学者ではないので、いささか空想の網を広げることを許して頂こうと思う。ここには、宗教が便宣化した姿を見るとイエズスの怒りの姿勢が感じられてならないのである。どの宗教にも、戒律の網をかいくぐって、何とか楽をしようという人間の気持がないことはない。しかし、戒律を便宣的にねじ伏せることに成功したからと言って、本当はそれでその人が宗教的に立派な人間になれるわけではないのである。

 つい先日、私はエルサレムへ行ったが、町の周囲の電線に、一見ビニールの切れ端としか思われないものがひっかかっているのに、初めて気がついた、
 しかしそれが、偶然ではないことは、その切れ端が一定の間隔でひっかかっていることで分かったのである。

 説明によると、それは、今でも厳密な戒律を守っているユダヤ教の人々が、安息日の外出に関する規定を弛めるために、自分の住いとしてのエルサレムを大きく規定しておくためだという。ミシュナーによると、労働を禁止されている安息日に歩いてもいい距離は、町の境界から約千メートル以内に限られていた。しかしそれでは不自由なことが多いので、ユダヤ人たちは、あらかじめ、この千メートル歩くことを合法的にしたのである。そこを仮の住居と見なすことで、さらにもう千メートル歩くことを合法的にしたものである。そして世間はそういう形で信仰を守ろうとする人に対して、極めて寛大であるのみならず、むしろ尊敬の眼をもって見るのが普通ではないかと思われる。

 しかしイエズスは違った。恐らく当時の人々の中には、表向きはきちんとした人と思われていながら、掟とすれすれの線で淫らなことをしていた人がいたのであろう。それが、このような言葉になったのだろうが、こういう発想自体が当時の社会としては、革命的なものであったろう。

 与えるために自分の生きる権利さえ棄てる
 しかしなによりも、イエズスが革命的な思想を明らかにしたのは「マタイによる副音書」の5・38以下の箇所である。

「『目に目を、歯には歯を』と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に逆らってはならない」(5・38~39)

 この「目には目を歯には歯を」という言葉を、「マタイによる福音書」が書いてあるからキリスト教の教えだと思っている人たちがたくさんいる。しかしこれはレックス・タリオニス(報復の法)と呼ばれ、紀元前十七~十八世紀のバビロン王であったハンムラビの作った法典の中に出て来る法律である。そして旧約聖書はこの思想を三度にわたって(出エジプト記21・23、レビ記24・19~20、申命記19・21)書いている。しかしここではっきりさせなければならないのは、旧約も決して報復を勧めているのではないということである。人間の弱さの常として、報復は増大しやすい。だからせめて拡大しないよう範囲を守れ、ということが、最大の目的であったろう。旧約はまた何箇所かにわたって報復は決していいことではないとも教えている。

「おのれを打つ者に頬を向けて、満ち足りるまでに、辱めを受けよ」(哀歌3・30)
  「マタイによる福音書」はさらに言う。
「もしだれかが、あなたの右の頬を打ったならば、他の頬を向けなさい。また、あなたを訴えて下着を採ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(5・39~40)

 相手をぶつという行為を実際にこのとおりしてみると、普通の右利きの人なら、手の甲うちをしていることになる。それはユダヤ社会では二倍の侮辱をこめたぶち方だと思われていた。

 侮辱を侮辱と思うな、ということは、実に革命的な考え方であり、従来のような習慣を重んじた物の考え方で人々の信仰生活を率いていこうとしていたユダヤの指導者階級にとっては、さだめし苦々しいことであったろう。また当時、貧しい人々は下着こそ二枚持っていたかもしれないが、夜の厳しい寒さを防ぐ上着に関しては、きたきりの雀の人も多かった。だから、「出エジプト記」の22・26~27に書かれているように、上着を質草に取った時には、日没まで返さねばならなかった。そうでなければ、人々は寒さに苦しみ、運が悪い場合はそのために病気にもなったであろう。しかしイエズスが言われたことは、われわれの生きる権利さえ、相手に与えるためには放棄せよという事だったのである。

 現在、革命というイメージには、二つのことがつきまとっている。第一にはそれが、人間の権利を拡大するためのだということ、第二には、理念のためなら個人の生活や慣習を破棄することもやむを得ないとする激しさを伴っていることである。革命を遂行する側は自分の情熱を達成するが、そのことを望まない人も、凶暴な変化を強いられるのである。

 イエズスの革命が、自分の権利を得るための闘争ではなく、むしろ、当然得ている権利さえも放棄するためのものだということは大きな違いである。これは、少なくとも、当時のユダヤ人にとっては、全く意味のない考え方か、気の触れた人がやる不気味な行為と映ったであろう。しかしそれが、本当に気遣いのやる行動だったら、イエズスは決して社会から報復されることはなかったのである。イエズスが十字架にかけられて殺されたのは、その言葉が真実であったからである。ユダヤの指導者たちは、民衆が真実に動かされることを恐れていたのである。

 自分を殺して相手を生かす
 イエズスの革命がいかにわれわれの考える革命と違うかを第二の点について考えてみようと思う。それは「マタイによる福音書」15・10~14に現れているところである。

「それから、イエズスは群衆を呼び寄せて仰せになった。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さない。口から出るものこそ人を汚すのである』。そのとき、弟子たちがイエズスに近寄り、『ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて腹を立てているのを、ご存知ですか』と言うと、イエズスはお答えになった。『わたしの天の父が植えなかったものは、みな抜き取られる。勝手にさせておきなさい』」

 ここにも、当時としては革命的なイエズスの思想が現れている。レビ記の十一章に記された清い食べ物と不浄な食べ物の区別は、今でもユダヤ人の間で厳密に守られているのである。それは、魚の場合、鰭(ヒレ)鱗(ウロコ)のついたものは食べてもいいが、蝦(エビ)蟹のような甲殻類はいけない、とか、昆布類はすべて食べてはいけないが、イナゴだけは例外だといったものである。他のことと違い、食物のような日常的なものに関する禁止条項は、かえって人々の心を根強く縛る。心の中のことなら他人には見えないが、食べ物に関する禁を犯せばすぐ人の目について避難を浴びる。しかし、イエズスは食べ物など、何を食べて人に悪を成すことにはならないことを明言された。しかしこれもまた、普通のユダヤ人にとっては恐ろしい考えだったろう。

 しかし私たちが注目すべきなのは「勝手にさせておきなさい」という言葉である。「アフェテ・アウトゥース」というギリシャ語の表現は「させておきなさい、彼らを」という意味である。そこには、人を力づくで変えさせようとするような姿勢は全くない。

 分からない者に無理強いしてはならない。というより、急激な変化はその人を痛めつけることにこそなれ、決して穏やかに正しい方向に向かわせることにはならないことを、イエズスはよく知っておられたのである。

 正しさを叫び、正しさを人に押し付けようとするのは、思い上がりと労りのなさの結果である。もし信仰があれば、人間について私たちはより深い洞察が可能になる。つまりだれにも必ず弱いところがあって、いかなる正しさも、急にやると無理がいくことである。

 もし神がなければ、私たちは現世で叫び続けてでも、自分の正しさを主張しなければならないが、神があれば、それほどに思い詰めなくてもすむ。「させておきなさい」という言葉が、冷たさではなく。むしろ人間的な優しい配慮の結果であることが分かる。

 それが、キリスト教的革命の原理である。納得しない人を力で押し切るというのは、革命が人間的ではないことの証拠である。イエズスの革命には、怒号も、デモも、シュプレヒコールも、旗も、歌もない。しかし本当はそれよりもっと勇気がいることであった。なぜならイエズスにとって革命とは人を殺すことではなく、自分が殺されることだったからである。

 生かされて生きる

 神に下駄を預ける

「父よ、もしできることならば、この杯(さかずき)がわたしの前を通り過ぎるようにしてください。しかし、わたしの思い通りにではなく、あなたの思し召し通りにして下さい」(マタイによる福音書26・39)

 これは、死を間近に控えたイエズスの、ゲトセマニの園に於けるお祈りである。ゲトセマニとは、オリーヴの桶、とかオリーヴの圧搾機というような意味だというから、何にせよ、オリーヴの搾油工場のあったところなのであろう。

 ここでは、イエズスの人間性が前面に出てきた箇所として有名である。聖書をいい加減にしか読まないと、神は常に迷うことなく、ためらいや恐怖の片鱗もなく、いいと思われることをまっしぐらに行動する、と思いがちだが、しかし、このゲトセマニのイエズスは、刑の執行が明日だと告げられた死刑囚と何ら変わることがなかった。

 それに、苦しい時間である。苦痛はまだ未来のものだが、その予感は現実の苦しみよりもっと激しくその人を責め苛む。それほど苦しむならいっそうのこと死んでしまいたい、と人間は望むことがある。
 まだ三十数歳の死だといわれる。ここにこの悲痛な、そしてきわめて人間的な祈りの根源がある。

 イエズスは「マルコスによる福音書」では、父なる神を「アッパ」と呼びかけている。これは「おとうちゃん」というようなごく一般的な愛称で、その親しさに満ちた父に自分の死や苦しみを、まだこの期に及んでもできたら取り除いて下さい、と頼んでいる。

 しかしそれだけではない。もしその苦しみが、神の望んだ道であり、それが、自分の使命だと、神が言われるなら、あなたのおっしゃる通りに私は致します、とも言っているのである。
 それから、まだ十三か十四歳であったはずの聖母マリアが、処女のまま懐妊を天使に告げられた時、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカによる福音書1・38)という言葉を思い出させる。

 人間は自分に降りかかった運命を、知りもせず、往々にして肯定も承認もしない。それどころか、全く別の生き方を願う。しかし、所詮人間は自分で運命を左右することはできないのである。だから、神から与えられた使命が、たとえ苦しいものでもいつか受諾する気持を持つことができると、世界はずっと変わってくる。人知の限りあることを知りつつ、自分の一生をできるだけ軽く見て、神に命じられたことをすることに、忠実の証と気楽さと美を感じるようになる。

 私はこの聖書の箇所を、最近ますます、自然で美しいと思うようになった。私たちは自分がどうしていいか本当によく分かっていないのである。私もよく自分の希望を神に登録するが、それが、百パーセント叶えられることは期待してはいない。
 望みはするが、しかし決定するのは、神だと思って下駄を預けるのである。

 神が望むことを実現する

「それ故、あなたがたに言っておく。命の為に何を食べ、何を飲もうか、また体の為に何を着ようかと、思い煩ってはならない。命は食べ物に勝り、体は着るものに勝っているのではないか。空の鳥を見なさい。種をまくことも刈り入れることもせず、また倉に納めることもしない。それなのにあなたがたの天の父は、これを養ってくださるのである。あなたがたは鳥よりはるかに優れているのではないか。あなた方のうち、誰が思い煩ったからいって、寿命が一刻でも延ばすことができるだろうか。(中略)・・・・明日のことは、明日思い煩えばよい。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6・25~34)

 私の聖書のこの部分の欄外には「ノイローゼ患者用」と汚い字で書き込んであるのがおかしい。他人がノイローゼ患者だというのではない。むしろ「自分用」というつもりの嘲笑的な書き込みである。

 ここに使われている「寿命」という言葉の原文は「ヘリキア」で、これがまたなかなか含みのある語である。「ヘリキア」は「寿命」と同時に「何かをするに適した年齢」、或いは「身長」の意味さえも含む。つまり、私たちは何かを望んで、その目的の達成の為に努力するが、それは私たちが寿命や身長や、或る仕事に適した年齢まで決定的に変えることはできない、ということである。

 ここを読んで、これは投げやりな生活をすすめているのですか、と言った人もいる。しかしこれは全く逆である。むしろここには、この地球上の総ての生が、神の深い配慮のもとに営まれていることが示唆されている。私たちが当然受けるべき権利と思っていることも、実は一人一人にきわめて精巧に合うように作られた特製の人生である。神は人間を一人一人覚えている。

 ただ、そこに、人間が希望することだけが、その人にとって必ずしも良い道ではない、ということがある。時に苛酷と思われる運命を与えられる人がいて、私たちはそのために悲しむが、ほとんどの人がその運命を受け止め、その中に積極的な意義を見つけ、困難に耐えて生きる姿そのものによって、他の人々に大きな励ましを与えていく。しかし当人はそのことに気づいていない時も多い。

「成せば成る」という言葉が東京オリンピックの時に、熱病のように人々にもてはやされたことがあったが、私はこの言葉を聞く度に、聖書のこの箇所を思い出していた。私たちは自分では何一つ完全になし得ないことを知る時に、かえって人間を保つのである。

 キリスト教徒になると、救われるのでしょう、という人がいるが、信仰によって急にいい人になどなるわけはない。しかし心のどこかに、安らぎ、というよりは、さばさばしたものが出て来る。それは自分の運命は、希望するものを何が何でも得ようとすることではなく、神が望むことの実現にしかあり得ないことを悟るからである。

 愛は耐え忍ぶ

 愛は耐えること

「愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は、ねたまず、高ぶらず、誇らない。見苦しい振舞をせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。不正を喜べないが、人とともに真理をよろこぶ。すべてを堪え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ」(コリント人への第一の手紙13・4~7)

 これは、有名なキリスト教的愛の本質を示した箇所である。
 私たちは終始他人や家族を愛していると思っているが、実は多くの場合、利己的な錯覚を抱いているにすぎない。そしてパウロは、コリントの信徒に当てた手紙で、完全な愛とは何かを、たった十行ほどの文章に総てもりこんだのである。
 一組の夫婦が子細に自分の心理を確かめてみると、実は相手より自分が大切だと思っているのを発見する場合が多いのであろう。
 パウロはまず、愛は忍耐と親切だという。しかし、忍耐はしなければいけないような人間関係になると、早々と愛も冷めるのが普通である。そしてまた、世間のいい加減な夫婦は、お互いに親切ですらない。

 愛はねたみを持たないものだという条件も、私たちはハッキリと自覚していない。友情が妬みで崩れることもしばしばある。私はそれも仕方ないと思う。ただその場合、相手の幸運や幸せが許せなかったら、それは、愛ではなかったのだ、と私たちはハッキリ自分に言い聞かせておくべきなのだろう。許せないこともあろうが、その時は、単なる付き合いであって、愛でも、友情でもなかったのだ、とすれば辻褄が合う。

 愛は謙虚だということも、私には新しい発見であった。もっとも、そう言われれば、私たちは本当に人を愛すると、自分をその人に値しない人間だとしきりに思うようになる。当然、相手よりも上になろうと昂ることなど考えられない。

 愛は礼を失しないものだ。と改まって自覚する人も少ない。安易な考え方によると、愛は、むしろ気楽であることを許すものであり、それは、いつのまにか、不作法に通じても仕方がないという暗黙の了解さえありそうである。しかし、本当の愛はもっと緊張を続けるもので、失礼などする訳がないというのである。

 しかし微妙なのは、最後の条件である。「すべてを忍び」の「忍び」に当たる言語はギリシャ語のステゲィという言葉で、これは覆うという意味である。覆うというのは、相手を急激に改変させることなく、そのままの不完全な形で抱き取ることである。鉄筋コンクリートの鞘堂が、今にも崩れそうな国宝のお堂を守るあの姿である。

 しかし、相手をそのままに受け入れても、何度信じてやっても、愛は報われないことがある。
 その時、最後に残された手段は、もし愛があれば、耐えることだけだ、とパウロは言うのである。
 この愛の条件を私たちは時々、自分の人間関係に当てはめてみて、現実の姿を承認しておく方がいいように思う。
 人のために耐える

「わたしたち強い者は、強くない人たちの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(ローマ人への手紙15・1)

 これはキリストの十字架における死の後にユダヤ教から改宗したパウロが、ローマの信者たちにあてて書いた手紙の一部で、これだけ読むと何か自分の信仰の強さを誇っているように見えるかもしれないが、実はそうではない。パウロは「だれかが弱っているなら、わたしも弱らないでいられるでしょうか。誰かに罪に落とされようなら、わたしも身を焼かれる思いをしないでいられるでしょうか。もし誇る必要があるとすれば、わたしは自分の弱さからくることを誇ります(コリント人への第二の手紙11・29~30)と言っている人物である。

 現代の日本において、ここに言われていることは極く当然のことと認識されながら、実はあまり実行されていない。「担う」と訳されたギリシャ語の言語はバスターゾーという動詞で、それは「担う」「背負う」という意味に「耐え忍ぶ」ということをも指している。

 現在、日本人が「担う」という言葉から発想することは、せいぜいで不遇な人の為に税金や寄付金の形で手助けするくらいだが、本当は私たち人の為に「耐え忍ぶ」ことができなくてはいけないのだという。「耐え忍ぶ」ということは何をするかというと、「持っている自由さえも相手のことを思って使わないこと」なのである。

 恐らくこの考え方は次のように発想から来ているのだと思う。つまり私たちには、「自由とは自分たちが自分の努力で手に入れたもので、従って自分の自由になるもの」という判断がある。しかし信仰を持つ人々にとっては少し違うのであろう。自由を得る為に努力しなかったのではないが、だからと言って自分だけの力では手にできなかったのでもない。それは神から贈られたものなのだ。だから相手の為にそれを自発的に使わないくらいのことはあってもいい‥‥。

 今の日本では、「自分の満足を求めるべきではない」という言葉はむしろ奇異に聞こえる。私たちは自分の満足を得る為に暮らしているという考えが基本にあるからである。勿論私たちは自分の心が満足することを幸福として生きているのだが、それは必ずしも物質的に満ち足りることではなく、むしろ物質的な欲求を断つことによって得られる場合もあるというからくりを知っている。

 先日、重度身体障碍者の施設を訪ねた。このような施設を作ろうとする度に、周囲の住民から反対運動が起こる。なにも施設に細菌や放射能を撒き散らす危険があるという訳でもない。ただ何となく嫌な感じ。或いは実際にそういう施設ができると地価が下がるだろうという計算があるからだろうという。
 そういう人がいる限り、この聖書の言葉の命はなくならないのである。

 苦難が希望を生む

「苦難は忍耐を生み、忍耐は試練にみがかれた徳を生み、その徳は希望を生みだすことを知っています。この希望はわたしたちを裏切る事はありません」(ローマ人への手紙5・4~5)

 この手紙の筆者であるパウロは、ユダヤ教徒から回心してキリスト者となった時、三日間、盲目になったという記録があるが、終生、視力障害は残ったようである。その証拠に、パウロの手紙には、ほとんど情景描写というものがない。ほかの四つの福音書には、その場の情景がありありと見えるような書き方がごく普通に取り入れられている。

 しかし、回心の場面以後のパウロは。もっぱら迸(ほとばし)るように、自分の内面を書き綴る。日本的な表現をすれば、「思いのたけを一瀉(いっしゃ)千里にのべる」とでも言うべきだろうか。

 その意味では、彼の手紙はことごとく私小説的である。パウロの生涯はキリスト教徒になったがために散々であった。秀才のユダヤ教のラビ(先生)として、キリスト教徒どもを弾圧する側にいれば、人々の尊敬も受け、名を上げ、危険に会ったり、長い苦しい旅をしたり、追われるようにして一つの町から逃げ出したり、何よりも殉教することもなかったのである。これらの苦労は全て、初代のキリスト教会を建てるためにパウロに課せられた任務であった。

 しかし、それらの、常識的には願わしくないことがどうしても内面の結果を生んだが、パウロはここで、自分の思いをこめて語った。
 それは、苦しみが人間を作るという一つの事実である。
 そこで思い起こさねばならないのは、イエズスが十字架につけられる直前、「父(神)よ、もしできることなら、この杯(苦難の死の)がわたしの前を通り過ぎるようにしてください」(マタイによる福音書26・39)と祈っていることであろう。

 イエズスでさえも、恐ろしい苦痛を伴う十字架刑に会わなくて済むようにしてください、と祈った。それが人間のごく自然な姿である。「ねがわくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈るよりははるかに人間的である。

 しかし同時に苦難が人間を高めるという事実も否定できない。できることならば、苦労はしたくない。しかしどうしても避けられないことならば、その苦難から、人はどう生きるかを学び、しかも希望を失うこともないのである。

 現代の教育は、教育の環境を整えること、つまり苦難を取り除くことに熱心である。もちろん、悪い環境を放置しておいていいというのではない。しかし人間はひどい環境だからこそ、その中から学んで強くなったという例がいくらでもある。しかし現在、子供には苦労をさせた方がいいなど言うものなら、時代に逆行するものとして避難を受ける。

 しかしキリスト教はそのような思惑に一切とらわれない。このような苦難から希望への過程さえも、時には神の配慮として組み込まれていることを、堂々と承認しているのである。

 私を裁くもの

 逆らない人は味方である

「さて、ヨハネは言った。『先生、お名前を使って悪魔どもを追い出している人を見ました。しかし、その人はわたしたちといっしょに先生に従う者でなかったので、それを辞めさせようとしました』。そこでイエズスは仰せになった。『辞めさせてはいけない。あなたたちに反対しない者は、あなたたちの味方だからである』(ルカによる福音書9・49~50)

「さて、ヨハネは言った。『先生、お名前を使って悪魔どもを追い出している人を見ました。しかし、その人はわたしたちといっしょに先生に従う者でなかったので、それを辞めさせようとしました』。そこでイエズスは仰せになった。『辞めさせてはいけない。あなたたちに反対しない者は、あなたたちの味方だからである』(ルカによる福音書9・49~50)
 宗教というものをとうてい受け入れられていないという人は、恐らくこういう箇所に引っかかるだろう、と思う。今から二千年ほど前の庶民の間で説明するには、やはり悪魔の存在が必要だったし、キリスト以前の旧約的な思想では、人間の老、病、死、不運は、総てその人の犯した罪の結果だった。

 聖書には、イエズスが病人をたちどころに癒(なお)した話かよく出て来る。それを迷信と笑う人があっても、私はわかるような気がするし、同じようなことは現代でもあるという人には、私と同意せざるを得ない。今、その点はさておくとして、私が理性的な現代の人々にとくに評判の悪そうなこういう箇所をわざわざ引用したのは、そこに描かれている愛も知恵も決して迷信的ではないからである。

 イエズスの名声が高まるにつれて、にせ教師、にせ弟子と思われる人物があちこちに現れるようになった。イエズスと同じように、奇蹟によって、悪魔を追い出して病気を癒す、と言えば、わんさと人が集まって来たのである。

 ヨハネを初めとする弟子たちはこのことを気にした。こっちは本家なんだから、にせ者は許せない。第一ににせ者なんぞに悪魔が追い出せるものか、というはらであろう。しかし愛を説く先生イエズスを師と仰ぐなら、今やっているような「詐欺的行為」も見逃してやるから、と申し入れたに違いない。
 ところがこのにせ者たちは、いっこうに心を入れ替えないで、弟子たちは腹を立てたのであめる。
 弟子たちのこの訴えに対して、イエズスは「やめさせてはならない」と言う。積極的に賛成しなくても「逆らわない人は味方だ」というのである。
 人間は往々にして厳しい道徳を相手に要求する、そしてささいな悪の故に、その人を全面的に否定する。それが自分の正しさの証となるからである。
 しかしイエズスはそうではない。敵でないのなら、味方と思え、という。人間は第一、総てにおいて一致することはない。完全ということもない。総体的に見て、その人のやっていることが自分の目的とする大体の方向と対立せず、小さな悪ではあっても大きな悪でないなら――この場合、いんちき行為で病人を癒すことであっても――それでいいのだ。むしろ辞めさせてはいけない、という。聖書というのは、すさまじい包容力を持つ。聖書を詳しく読まない人だけが、聖書は厳しい宗教書だと思い込んでいるのである。

 私を裁くもの

「このわたしは、あなたがたに裁かれても、あるいは人間の法廷で裁かれても、いっこうに意に介しません。それだけでなく、自分で自分を裁くこともしません。わたしは自分になんらやましいところはありませんが、だからと言って、わたしが正しい者とは認められたわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、あなたがたは主がおいでにならないうちに、どんなことでも早まって裁いてはなりません」(コリント人への第一の手紙4・3~5)

 信仰がけっして束縛ではなくむしろ解放であるという実感は、いつも私の胸にあるものだが、それを説明しようと思うとこの箇所を引くのが適当のような気がする。

 信仰を持つと、自分を裁くものが二重になるというのは面白いことである。
 第一は言うまでもなく、私たちが生きている社会を律している法律である。私たちは刑法や民法やその他もろもろの規制に縛られもし守られもして生きていく。
 第二は、神と私との関係を律するものである。
 もし信仰がないと、私たちを裁くのは、第一の法律だけになってしまう。しかしこの第二番目の、神の眼から見る裁きが加わると、人生はずっと複雑になってくる。

 なぜなら人間の裁きとは全く個別に、神はいつまでもどこでも私たちの行為を見ており、心の隅々まで知っている。あることに関して、私がどれだけ責任を負うべきか、神くらい正確に認識してくれているものはないのである。

 そこで信仰を持つものは二重の評価を受けることになる。その結果は四種類になるであろう。社会も悪いといい神の掟にも背いている場合、社会はいいことをしているという神の眼からは罪である場合。神の前には少しも悪くないが、世間から罰せられる場合。社会からも神からもよしとされる場合。この四つである。

 信仰のあるなしによって面白くなるのは、中の二つである。世間から糾弾されてもいないのに、自分で罪だと思うなんて損じゃないの、というのは、人生の味わい方を知らない人の言う事だと思う。自分が多少いい人間だと思うことも悪くないが、自分の卑劣さを嚙み締めるのも、生きる証である。

 しかしなにより信仰が力を持つのは、誤解されたり無実の罪を着せられたりした時であろう。正直なところ世間がどう見るかは、信仰を持つとどうでもよくなるものである。勿論誤解されることは悲しいが、その場合にもむしろ神から理解されているという静かさが、慰めとして贈られているはずである。

 人を軽々と裁かないということも私は大切なことだと思っている。パウロは自分さえも裁かない、というすばらしい表現をしている。自覚している罪はなくとも、だからと言って自分が正しいという保証もない、という。パウロという人はどこまで自然に厳密な人であったかと思う。

 神の前では皆五十歩百歩

「なぜ、あなたは兄弟を裁くのですか。なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの庭に立つのです」(ローマ人への手紙14・10)

 私たちは自分を生かすために、自分は正しくて人は悪い、自分は能力があって人はだめだ、と思わなければやっていけないところがある。あまり、自分に厳しいと、絶望して、自殺したくなったりするからである。

 よく世の中に、自制心や自己批判がないと思われている人がいて、他人はそういう人を顰蹙(ひんしゅく)するが、その手の人にはまた独特の良さが必ずある。それは、自分も少々おかしい代わりに、他人も責めず。ばかにしないということである。

 神があって来世があって、そこでこの世で犯したことの精算が行われると信じるかどうかか、今この際別として、去年の秋にサハラ砂漠を横断した時、広漠たる砂漠を走りながら、砂漠の民は、現世が不公平であることをはっきり承認している。ということを話し合ったことがある。

 現世がれっきとして不公平だから、彼らは来世に希望をかける。日本人はそれを惨めだというが、幸不幸の実感は、その人だけのものだから、そんなに簡単に決めつけられない。

 神の概念があると、人間に対する態度が違ってくる。つまり、神が完全であるとすれば、人間は不完全であることが、自然に納得されるのである。

 キリスト教は告発しないのだ、ということをいつか書いたことがある。と思うが、それは、人間が正しさにおいても、賢さにおいても、五十歩、百歩だということを、認識しているからである。神がいないと、この世で偉い人は徹底して偉い。しかしキリスト教では、誰もが大切なのである。
 その根底にあるのは、どうして私たちには他人が分かりうるのか、どれほど、私たちは人より利口なのか、ということである。

 私は昔から時々、新聞記者の質問を受けることもあったが、大抵の場合不正確に伝わり方をしてしまう。しかし、この場合も相手を一概に非難するのは間違いなのである。つまり私たち誰もが、他人と理解し合う能力に限りがあるという事なのである。「どうして小説家になりましたか」などという質問に対してもし誠実に答えようとしたら、私はどれだけ語り続けねばならないだろう。そんなことは考えるだけで不可能なことだ。「何故、離婚したか」「何故人を殺したか」などという問いに対しても、当事者はやはり数日語り続けても、説明仕切れたとは思わないだろう。

 聖書のこの箇所は、決して裁判をなくせなどと言っているのではない。人間の世界をスムーズに動かすには、ある程度、単純化した決着を現世でつけねばならないことが多い。しかし人間は決して人を本当に理解しているわけではないのである。そう思うと誤解されても気楽だし、人を決定的に決めつけることもなくなるはずである。

 覆われたものは現れる

 神は隠れたところを見ている

「また、あなたがたは祈るとき、偽善者がするようにしてはならない。偽善者は人に見せようとして、会堂や町かどに立って祈るのを好む。あなたがたによく言っておく。彼はすでにその報いを受けている。あなたは祈るとき、奥の部屋に入って戸をしめ、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイによる福音書6・5~6)


 まず、自分は無神論者であるかどうかを我々は自覚すべきであろう。神があっても無くてもどちらでもいいことだが、神があれば祈りなさい、なければ祈りなどしないであろう。それは大きな生き方の違いである。

 本当の無神論者は、自分が癌を宣告された時、あるいは自分の子供が自動車にひかれて生死の境にある時、あるいは恋人が山に登ったまま消息が途絶えている時、全く祈らずにはいられなければならない。もしその自信がないというなら、普段から祈っておく方がいいかも知れない。必要になった時に慌てて祈るというのは、少しばかり浅ましい感じがするからである。

 神が隠れて所にあって隠れた行いを見ている、という発想があるかないかは、人間の一生に実に大きな違いをもたらす。
 もし神がないなら、人間が隠れた場所においてなす行為は、誰が見ていても評価してくれるものがないことになり、人はもっぱら世間の評判だけを当て行動するようになる。他人が見ていて褒めてくれることならやるが、そうでないことは何一つするのは馬鹿らしい、という理論に到達する。

 新約聖書の原文はギリシャ語であるが、ここに出て来る「偽善者」という言葉の言語は「ヒュポクリテース」で、これは同時に「役者」という意味を持つ。これは決して俳優を貶めているのではない。自分の行為が他人に見られていることを意識した人のことである。世間からどのような判断を受けようが、私たちの隠れた行為は神だけが隠れた所から見ておられるという発想は、人間は勇気を与え、外界の圧力に屈しない自由な解放された精神を作る。世間からどんなに糾弾されようとも神には承認されているという行為もある。反対に社会からは全く当然と思われようと神に前にあっては卑怯者である行為もある。これは隠れた神の前ではまた明白である。

 信仰はこの世の法に従うことを命じながら、根底においては地上の方を超える。この世でいかに評価されるかということは、最大でも五〇パーセントの意味しか持たなくなる。キリスト教は人間を善い面でも悪い面でも複雑に強烈にすると私は思うのだが、それはこの二重性の故である。

 ともあれ、私が隠れた所にあって隠れたいことをする人には「芳香がある」と感じるようになってしまったのは、幼い時に聖書のこの箇所を知って以来である。

 覆われたものは現れる

「だから人々を恐れるな。覆われているもので、現れないものはなく、隠されているもので、知られないものはない。(中略)…‥体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れることはない。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい」(マタイによる福音書10・26~28)

 私は戦後の昭和三十年から、マスコミの世界で生きてきたが、新聞は言論の自由を守り通してきたと言いながら、決してそうではなかった。

 新聞と進歩的文化人が叩くのは常に叩いて安全な相手である。進歩的文化人は政府や与党の悪口をいうことは危ないことのように言うが、今は全くそんなことはない、拘引もされず、職を失うこともなく、経済的損失も全くなくて済み、むしろマスコミの人気さえ出ることの多い反対など、決してその人の心の証にはならないのである。

 創価学会が言論の弾圧をやった時にも唯々としてそれに屈服したのは新聞であった。中国が、長い間外国の報道陣に対して報道の管制を押しつけて来た時、それに抵抗し続けたのは、日本ではたった一紙だけでほかの総ての新聞は中国に対する不正確な記事を何年にも渡って書き続けた。

「覆われているもので現れないものはなく」というのは、考えてみれば、気楽な言葉である。私について書かれたものを読むと、正確だ、と思ったことは十回に一度あるかないかだが、心に神があると、下界の反応に対して、それほどひどく喜んだりがっかりすることもない。

 戦後のマスコミが弱さを露呈しつづけたのは、(現在は、肉体的な不自由を示す言葉を使わないという問題で、自主規制という名の下に言論統制を自ら強化している)聖書のこの激しい生き方を示した箇所を読んだことのない人が多いからであろう。

 これは、真実を求めて、どうしても避けられない時は、最後には死になさい、ということなのである。それは、人間のみが持つ正義の観念と、それを全うする道について触れている。動物には、母性本能と牝を争う時以外、死をかけて闘うということはない。

 もちろん私たちの誰もが死ぬのは恐い。しかしどちらを恐れるか、といったら、体を殺す相手ではなく、私の魂をめちゃくちゃにされることだと、聖書ははっきりと言い切る。

 人間が弱いことを自認する時、人間は立派にはならないが自ずからそこに、人間的な悲しみは漂う。だから私は、自分が卑怯者だという登録をすることで、せめてもの免罪符を得ようとする。しかし当世の流行は、声高に正義を叫び、そうでない人を告発するという形によって、自分の正義を示そうとする。これも、卑怯な人間の一つの典型である。

 魂の生を全うするか、心を売って肉体を生き延びさせるか、二つに一つしか叶わない状況の時にどちらを選ぶかを、私たちは時々、心の中で覚悟しておくのが本当なのであろう。

 神の声が聞こえる

 十戒の山へ
 九年前、サンケイ新聞に「アラブのこころ」を連載するために、アラブの数カ国を訪れて以来、私は折があれば、再び、アラブとイスラエルに行きたい、と考えるようになった。日本のジャーナリズムの中には、アラブとイスラエルと並べて言う事さえ、いけないように思っている人が現にいるのだが、私はそんな風には考えなかった。なぜなら、両者とも厳しい現実の上に立って物を考える人たちであり、双方の戦いがもしあるとすれば、それは決して架空の理念の上だけのものではないから、現実を理解することはどちらにとっても大切だと思われたからである。

 アラブ人とユダヤ人を、全く違った人種のように考える人たちがいるが、それは正しくない。この問題について本を読むと、私のような素人は、いよいよどのような言葉遣いをしたらいいかわからなくなるが、もしスペイン人とイタリア人は、同一のラテン人だということが許されるなら、アラブ人とユダヤ人は共に同じ根から出ている、という言い方をしてもいいであろう。ただ、その後の混血の度合が、アラブ人とユダヤ人は違うだけである。

 アラブ人の殆どはイスラムであるが、ユダヤ人はユダヤ教徒である。そして、キリストはユダヤ教徒として育ち、それを新しい思想にと再編成した。キリストの生前には、キリスト教というのはなかったわけだが、私のように、満五歳からキリスト教の空気の中で育てられている者でさえ、「キリストはユダヤ教徒の家に生まれ、ユダヤ教徒として育った」という根本的な一言を、かって一度も教えられたことがなかったのである。

「預言者ムハンマドは、元来都市に住む商人の出身で、隊商に参加して何度もシリアへ旅をしたことがあり、アラビアより外を見、キリスト教徒やユダヤ教徒やまたゾロアスター教徒と語る機会があったのでした。それどころか、ユダヤ教徒やキリスト教徒等は、古くからアラビアの奥深く入り込んで、アラブ族との間にある程度の関係をもっていました。とくにユダヤ人との関係は古く、(中略)預言者マホメットからメディナに避難した後、ユダヤ人とは容易ならぬ関係をもったのでした」

 と蒲生礼一氏は「イスラーム」という著書の中で書いておられる。つまりマホメットの啓示の中には旧約聖書の物語が数多く出て来るのである。そして私が自分中心の言い方をすれば、少くとも宗教の世界においては、キリスト教徒としての私は、ユダヤ教を無視してキリスト教が分かるわけではなく、イスラム教へも、ごく自然に尊敬の念や親近感を持てるのである。

 シナイ山に登る団体旅行があると聞いて、それに加わろう、と思ったのは、シナイ半島に個人で行こうとすると、宿泊設備もホテルがあるという訳でないから、事はおおごとになると考えたからである。
 シナイ山は、神がモーセに現れて、「十戒」を授けたところと言われている。「十戒」は「出エジプト記」に記されているが、次のような十の戒めを書いたものである。
一、 私は唯一の神である。
二、 偶像を作ってそれに仕えてはならない。
三、 神の名を、みだりに口にしてはならない。
四、 安息日を守れ。
五、 父母を敬え。
六、 殺してはならない。
七、 姦淫してはならない。
八、 盗んではならない。
九、 偽証してはならない。
十、 隣人の妻や、雇人、家畜、そのほかの持物を奪ってはならない。

この十戒は、陳腐なものだと決めつけられない。なぜなら、この十の戒めを全て犯しながら、現代では良識のある人と言われて暮らすことが可能なので、私はいつか、そのような人のことを小説に書いてみたい、とおもっているのである。
 もし「十戒」など、古臭い、人間の意識は変わったのだ。ということになれば、ロッキード事件も、殺人も、主婦売春も、盗みも、全く問題なくなっている筈なのである。今でも、この戒めに触れると、事件になるのだから、紀元前十五世紀といわれる時代に、モーセに率いられてエジプトを出た砂漠の民たちにとって、これほどに明確に整理された強烈な道徳であり規範であり、それを与えられたことは、頭からぶん殴られるような思いであったことは想像に難くない。

 私たちの団体は、まことに特殊なグループであった。四十四人もの大世帯のうち、二人の添乗員と一人のノン・クリスチャンを除き、全てがキリスト教徒であった。そのうち、カトリックは四人だけで、十五人が牧師、伝道師、神学生などであり、残りのプロテスタントも、皆、筋金入りの信仰の厚い人々で、口の悪い同行の三浦朱門が小さな声で「オレは今度は聖書など持って行かんぞ。どっちを見てもリビング・バイブル(生きた聖書)ばかりだから」と私に囁いたほどであった。

 死と親しむ世界
 かつて、医者であり、作家でもあるペーター・バムが一九五二年と、五三年の二回にわたって聖地を旅行した時の記録を見ると、彼はスエズ運河のほとりからシナイ半島に上陸している。そこから彼は少なくとも砂漠の中を九時間、自動車で、シナイ山の麓まできびしい旅をしたのである。

 しかし、今、我々はエルサレム空港から、中型のジェット機で二時間あまり、訳なく、南下して、サンタ・カタリナの乗客用の建物のない、素朴な空港に降り立つことができる。滑走路の端に、私たち四十四人を乗せる三台のコマンド・カー(兵員輸送車)が待っている。以後、三日間にわたる砂漠の旅には、このコマンド・カー以外には、走れる車がないのである。

 飛行機に降りた時に、既に、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。砂漠に雨が降るとは、よく聞かされていたが、現実になったのである。差し当たりその夜も、野営することになっていたので、この雨は何となく気にかかる。

 ここから、三、四十分ほどの所に、サンタ・カタリナと呼ばれる世界最古の修道院がある。私たちが分乗した三台のコマンド・カーはせいぜいで人間の腰あたりまでしかない小さな灌木以外には、草木の気配さえない、荒れた、渓谷の間を走り出す。両側にはかなりの高さの丘陵が連なり、月世界を行くようである。コマンド・カーは天井の部分にだけ、幌をかけているのだが、雨は両側から吹き込むので、我々は積まれている寝袋で、霧雨になって吹き込む冷たい雨を防がねばならない。

 やがて、谷の迫った部分に、高い城壁をめぐらしたサンタ・カタリナが現れる。近づくにつれて、銃眼(矢眼というべきか)がはっきり見える。
 この修道院の歴史は、三世紀の下エジプトに始る。富裕なエジプト人の農夫の息子であったと言われるアントニウスは、或る日、教会で、一司祭の読むイエズスの言葉を聞いた。
「あなたがもし完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天の宝を受けるだろう。それから来て、私に従いなさい。

 アントニウスはその通りにした。エジプトには、その頃、隠修士と呼ばれる人々が洞窟や仮小屋、煉瓦造りの庵室などに、単独または数人ずつかたまって生活しており、野菜畑や小さな田を耕したり、シュロの枝や葉で細工物を作っては売って、細々と暮らしていた。彼らの主な時間は、祈り、労働、読書、書物の暗記に使われた、とD・ノウルズは書いている。アントニウスも又、孤独な生活を送り、更に砂漠に一年以上も暮らしたあげく、彼を慕って集って来る他の隠修士と共に、初めて修道院と呼ばれるものをここに建てたのである。

 シナイ山。すなわち神が十戒を与えたモーセの山(ジェベル・ムーサ)がどれであるかについては幾つかの説があるが、しかし今のところ、このサンタ・カタリナの西にある高さ二三〇〇メートルの峰であろう、ということになっている。一つはサンタ・カタリナに泉があることと、もう一つは、モーセが引き連れてエジプトを出た人々は住まわせるに足りるだけの平原を近くに持つということもその大きな理由になっている。

 昼食後、私たちは何も知らず、雨の中をサンタ・カタリナのすぐ近くの広大な、涸(かれ)川(ワディ)の川床とは違う平原に連れて行かれた。

 そこにはよく見ると土の間に意図的に並べた小さな石があり、私は何かの廃墟に違いない、と思ったりする。すると、それはついこの間までここがエジプト領だった時代に、エジプト軍がキャンプを張っていた土地だったということが分かった。昔も今も、一定の人数の人間の住み得る土地という条件は、そうそうどこにもあるものではない。モーセが神に出会うまでその率いる人々の為の基地として選んだ土地がここでよかったのだということが、改めて、エジプト軍によって証明されたようなものかもしれない。

 とにかく雨がひどいので、何処にも行ようがない。私たちはサンタ・カタリナに戻り、城壁の内側ではあるが、外濠と内濠との間とでも言いたいような場所にある、小さな白い御堂に案内された。

 グループの尻尾の方にいた私には、そこに何があるのか説明が聞こえなかった。ただ堂内に一歩入ると、ぷんと異臭がした。内部は暗いが、その臭気を発生するものはよく見えた。それは、堂内の金網の向うに積まれた何百という、骸骨からであった。それは歴代の、ここで一生を終えた修道士たちの遺骸であった。

 一人の修道僧が、小さな蠟燭のもとに、堂守をしている。それが不思議と凄惨な感じはない。我々誰も、つい眼と鼻の先にぶら下がっている、人間共通の死という運命に対して、日頃から慣れ親しみ切っているという感じでもある。

 神の預言のままに
 このサンタ・カタリナは、聖書のシナイ写本が出たので有名な所である。それは一八五九年に、コンスタンティン・V・ティッシェンドルフによって発見されたギリシャ語の写本で、もともとは七百三十枚あったと思われるが、そのうち三百九十枚が残っていたので、新約が全部入っていたのだという。この写本は後にロシア皇帝アレクサンドルにわたり、修道院はツァーリから一万二千ルーブルを受け取ったが、ティッシェンドルフの手紙によると、将来、写本はここに返還される、ということになっていた。しかし一九一七年のロシア革命によって、この写本はボルシェヴィキに持ち去られ、彼らは一九三三年、この写本を二百万マルクという大金で、大英博物館に売ったのである。

 夕方五時までは、修道士たちの黙想のために静かにしてくれ、と通達されたので、私たちは当てがわれた部屋で、結核患者の安静時間のようにして過ごさねばならなかった。巡礼者を泊めるための部屋は天井の高い、暗い、湿っぽい部屋である。鉄製のベッドが八個ずつ入っている。蒲団も枕もあるが、総てがじっくり湿っている。私は眼が悪いから見えないだろうが、壁も濡れている、と友達が教えてくれる。これが砂漠の真っ只中だとは!

 あの先輩、仲間の骸骨と向き合っていた修道士のことがしきりに思い出された。私たちは生と死があまりに隔たれているから、その境を越えることが恐ろしいのであろう。このサンタ・カタリナの修道士たちは、生きている内から、我々の持つ総てのものを持つことを拒否している。

家族、文明のもたらす総てのガラクタ。ただ彼らは神の声にも豪風の音、眼前に立ちはだかる荒涼たる岸壁、そしてこの恐ろしく湿った寒さ、或いは地獄の窯(という発想はキリスト教にはないが)の熱さにも比すべき酷暑。と向かい合って暮らしている。とすれば、彼らはた既に生きているうちから、半ば死んでいるのであり、死んだ人々も、いま生きている彼らと大差ない暮らしを続けているのである。あの堂守の僧は、死と生の世界を半々くらいあっちこっちへ行ったり、こっちへ行ったりして生きているのであろう。

 夜六時から、数時間、サンタ・カタリナには電灯が点く。もともと字の読めるような明るさではない。もちろん、自家発電によって賄っているのであろう。それでも、夕飯にはトリ料理が出た。この砂漠の中のどこに、これだけの鶏がいるわけがないから、冷凍して空輸して来たものかもしれない。

 湿った冷たい寝床も気にならず、疲れていたので、早々に眠った。突然、暗闇の中に鐘の音がする。同室の人が⦅もう時間かしら⦆と呟いている。天候が悪いので、シナイ登山は朝八時以降に延期された。従って起床もゆっくりの筈である。この暗闇の鐘は、修道士たちの、朝の祈りのために決まっている。こちらの知ったことじゃない。とくるりと寝返りを打った時、純粋な幸せの実感のようなものが、ちらりと心の中を走ったのは何ということであろう。

 六時少し前、眼を覚ますと、豪雨とはいかないまでも、かなりの降りである。私は小心だから、早々と、これでは登山は無理だと諦めた。濡れて、風に吹かれたら、凍死しないまでも、いい結果にはなるまい。ふと眼前を見ると、昨日までは乾ききっていた花崗岩の絶壁に、小さいのまで含めると、三条の滝がかかっている。
 朝食の時、登山は中止という発表があった。シナイ登山を最大の目的としてきた、という人は、失望の色を隠せない。山に登れないどころか、こういう降りが続くと、涸川(ワディ)に出水が始まるので、早く逃げ出さなくてはいけない、とコマンド・カーの運転手さんが言っているという。驚くべきことに、砂漠は無限に水を吸うものではないのである。水を与えると、表土の数ミリだけが濡れ、それがまるで漆喰のように固くなって水の浸透を拒むという。日本のように柔らかな腐埴土がないので、水はただちに周囲から集まって、あたかも日本の川の出水時のように大濁流となって、涸川を流れる。この鉄砲水によって生命をおとす人がいるのである。しかしその水も、翌日には跡形もなくなり、涸川は又元の、ぽくぽくした、一木一草ない乾いた川床に還る。サンタ・カタリナの城門の前にも、早くも小さな濁流ができており、バスの一台が、そこにはまって動けなくなっている。

 神は偏在するのであって、シナイ山の上にだけ偏在するのではないから、と私は考えていた。後で気づいたのだか、老獪な神は「出エジプト記」の中にまさにその日の我々のためにのみ在るような言葉を用意していたのである。
「主がモーセを山の頂きに召されたので、モーセは登った。主はモーセに言われた。『下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主の所に来て、見ようとし、多くの者が死ぬことのないようにするためである』(中略)モーセは主に言った。『民はシナイ山に登ることはできないでしょう。あなたが私たちを戒め”山のまわりに境を設け、清めよ”と言われたからです』」

 私はむしろシナイ山に登れないことの方が、預言通りなのであった。無理して登っていたら、この寒さと雨の中で「多くの者が死」んだかもしれないような気さえした。

 神の恩籠を見る
 私たちに与えられた旅程は、サンタ・カタリナから、砂漠の中の道を八〇キロ走って、エイン・フドラという所で、野営をすることになっていた。シナイ登山はできないことになったので、コマンド・カーは、九時過ぎには、人と寝袋を載せて出発した。

 この三人の運転手さんたちは、いずれも、中東戦争で、このあたりを駆け巡った歴戦の勇士だという。

 砂漠は決して平らでもなく、なだらかな砂丘ができているわけでもない。アメリカの西部劇に出て来るように、あちこちに、かなり大きな丘陵や、岩塊があって、車は多くの場合、その間の涸川(ワディ)の川床を走る。運転手さんたちは、その山の形を覚えていて道なき道を走るのだが、時々、丘陵の切れ目を間違えて、通れる筈の道が無かったりする。すると三台のコマンド・カーは、縦列に連れ立って、ぐるりとUターンをする。車にはそれぞれかなり大きな水タンクが装備されている。そのほかに、オレンジの大箱、まことにしっかりしたサイズと味と形をしたビスケットの罐が積まれていて、これはいつでも、どれだけでもどうぞ、言われていた。あとは、皮の柔らかなフランスパン、罐詰、新鮮なレタス、キュウリ、ピーマンなどが、ゴムシートの蔭から覗いているが、夕食にはどんなものを食べさしてくれるかは、まだわからない。

 高度が低くなるにつれて、気温はどんどん上って来る。薄いヤッケを脱ぎ、重ね着をしていたカーディガンとセーターを脱ぐ。私は砂漠の砂埃を恐れていたが、(私の乗ったコマンド・カーは最後尾であった)車と車の間はうんと離れているので、その心配はなかった。

 私たちのグループは、実に規律正しい人々ばかりで、紙袋一つ、オレンジの皮一片も、外に捨てない。しかし私は、時々、オレンジの皮を盛大に、人に隠れて左右に投げ捨てた。この辺りでは山羊も羊もいないが、もしいれば、家畜は少しでも湿ったものを喜んで食べるし、こういうものが腐食することによって、表土ができるのだと、ささやかな緑化運動をしているつもりなのである。途中で、又、車を停めてピクニック・ランチをとる。パンを切り、罐詰を開ける。イワシの油煮、オリーヴの実、スイートコーン、などと共に、ナスをぐちゃぐちゃに潰したムサカ風のものと、レバノンでもよく食べるホモス豆のペーストがあってこの二つをパンになすりつけると、それだけで「おかあさぁーん!」と叫びたいような、いい味になる。

 この道なき道にも、ちゃんと隊商路はあるのであって、眼印になり、かつ、分岐点に当たる岩には、昔の人の彫りつけた、鹿や人間などの絵がある。人の気配もない。もちろん茶店もない。これが彫り付けられた時代はわからないという。

 モーセがシナイをさまよった頃のものか、初期のクリスチャン時代か、或いは二世紀以後にこの半島の実権を握っていたナバテ人の隊商が描いたものか、何もわからずに、ただ、この人の姿さえない砂漠に、濃厚に人間の通った跡をとどめるものである。エジプトを出たイスラエルの民が砂漠の生活の間に助けられたといわれるマナは、「天使のパン」と詩篇の中に謳われているが、現実には、それは、タマリクス(ギョリュウ)に小さな砂漠の虫がついた時に、とれる甘い樹液だと言われる。私たちはその林にも立ち寄ったが、もちろんマナは見られなかった。

 ベドウィン(遊牧民)たちは、枝にかまったマナを、非常に早朝、蟻がまだ起き出す前に、そして、太陽の熱が、この蜜の魂を溶かす前に集め、壺に入れて、長いこと貯蔵するという。

 人気も家畜の姿も見えない荒野に、突然、何キロかに一人、ベドウィンの姿を見かけるようになった。一人の女は薪にする小枝の束ねたものを一束持っている。これが貴重品だということはよくわかるが、運転手さんは、その女を荷物ごと乗せてやる。ベドウィンの写真は撮らないように、という注意がくり返それるが、彼らは、撮られることを期待しているようにも見える。

 やがて、私たちは何の変哲もない、高さ三、四十メートルの丘の麓に来た。コマンド・カーが、西部劇の幌馬車隊のようにコの字型に停る。どこからともなく現れたベドウィンが二人、ぺこぺこのブリキで作った手製のちゃぶ台の如きものを円陣の中に置く。後で考えると、この小さな行為がベドウィンが私たちの宿泊を承認した、という印のように思えた。

 丘の左右に男女それぞれのトイレ用地を決めれば、私たちは、後でめいめいの寝袋をもらって、どこで寝てもいいのである。円陣のなかでは、運転手さんがちゃぶ台の傍に石を集めて、炊事用の炉を作った。燃料はボンベに入れたガスである。女たちが、彼の助手になり、野菜の泥を落したり、米を研いだりした。その喧騒を数メートル離れると、噓のように、砂漠をわたる澄んだ風の音が初々しく聞こえた。

 宇宙と大地の完結した不思議な世界
 料理の指揮官でもある運転手さんは、三十分ばかり、岩の凹みにあぐらをかいて、瞑想してから夕食の支度を始める。釜の蓋をとって米を炊く、火元に近い方はぐちゃぐちゃになり、遠い方は、生米である。彼は私に、もっと水を入れろ、という。少し入れると、もっとだと言う。言われた通りにしたら、米はお粥風になってしまった。それで彼は機嫌がわるい。日本人という奴らは、何と米の炊き方も知らん奴だ、と思っているだろう。しかし、グループからは誰一人として文句を言う人はいない。食前の祈りは、充分に神に捧げられた。ベドウィンの数はふえて、闇の中に。六、七人がうずくまって私たちの食べるのを見ている。

 アラブの旅にも同行した、友人の⦅木霊(こだま)が、「あの人たちにも上げなきゃわるい」⦆と気を遣う。全くそれが、砂漠の礼儀なのである。運転手さんに言うと、「後で」と言った。サラダも、グラッシュも、ぐじゃぐじゃのご飯も、フルーツパンチも甘いコーヒーも、何もかも、後で鍋ごと、彼らに渡された。キャンプ・ファイヤーのもとで、食後人々は歌を歌っている。私は、それから五〇メートルほど離れた砂地においた寝袋にさっさと潜り込んだ。微風が砂を運んでくるので、風上の頭のあたりに灌木の茂みを選んだ。

 やがて歌声がとぎれると、驚くほど遠い所の人声が、手に取るように聞こえる。砂漠では内緒話はできない。「壁に耳あり」というが壁がないから宇宙全体が耳になる。私は眼鏡をかけて寝ていた。星を見るためであった。驚いたことに、空は星でざらざらしている。胸がときめくような崇高な星ではない。ざらざらじゃらじゃら、お盆に砂や貝を撒いたようで猥雑な感じですらある。しかし、不思議と、この繊細な、物音のよく通る、宇宙と大地が充分に慣れ親しんだ世界は、「完結」していた。それで充分だ。何もかもある、という感じだった。私はいっしょうけんめい、東京やローマや、ニューヨークの町を想像し、「そこにはあって、ここにはない物」をあげつらおうと努力した。しかし、どうしても、四十数年育った東京の町の実感さえ手元に戻ってこなかった。

 砂漠はひそかに、静かに、しかも隅々まで何かに満ちていた。砂漠は文明の欠落したものではなかった。むしろ、砂漠は、素朴であるがために、もう数千年の昔から、完成していたのだろう。都会は陽刻の世界であった。それ故に、あたりは欠落していると感じられるものばかりだった。
 しかし砂漠は陰刻の土地であった。それ故、そこには総ての崇高なものから不潔なものまでが充実していた。
砂漠には夜通しなにがしの光があった。夜中に起き出して、私は自分の寝袋のある灌木の茂みと、その背後の丘陵の姿を暗いシルエットとしてよくよく見覚えてから、真っ直ぐに三十歩歩いた。ペンシル型の懐中電灯は持って来ていたがわざと寝袋の枕元において来た。

 私のような酷い近眼は小さい時から、暗闇の中で動くことについてある種の訓練を受けて、ひとよりは上手なのである。茂みの陰で用事を済ませて、私は立ち上がった。記憶にあった通りを三十歩歩いて帰ったつもりだった。

 確かに私は、皆が死体のように寝ているあたりには戻って来たのだが、自分の寝袋の所には辿り着いていなかった。私は少し慌てた。深夜である。人を起こしたくはなかった。私は少し歩き廻った。すると完全に方向が分からなくなった。恐怖ではなかったが、私は困惑に陥った。
 朝まで、その場にそうしていようか。その時、向こうから、懐中電灯の光が動いてくるのが見えた。

 添乗員が、夜中に何回となく見廻りに歩いていたのである。私は彼の燈火を借り、ほんの、三十メートルくらいの所にあった寝袋を簡単に見つけた。私は一種の幸運に巡り合ったのである。人に迷惑をかけまいとして一人の方は、夜中、二時間、自分の寝袋を探して歩き廻ったというのである。あかりは自分が携行するのではなく、自分が出発した地点において来てこそ、初めて有効であることを、私はその時、体で知ったのである。

 砂漠の朝は荘重ではない。陽は陽気にさし、鳥は飛んで行く。顔も歯も洗わなくていいのだから、人々は起き出すとすぐ、ベドウィンが引いて来たラクダに乗って遊んでいる。

 朝食後、私たちはエイン・フドラに向けて出発した。天然のオアシスを見られるという。前回リビヤからアブダビまで、私は砂漠の国々を歩いたのだが、その間ただの一度の湧き水のオアシスを見ていない。今はどこども自家用の発電機にポンプをとりつけて、オアシスの水を汲み上げているからである。

 高い台地の上から見下ろすと、遥か彼方に一塊の濃緑色の繁みが見えた。ベドウィンの栽培しているナツメヤシの林である。滑り落ちそうな砂の坂を下ると、案内の運転手さんがこれはラクダの道と言うのだ、と教えてくれた。それかに更に熱い平地を三十分近く歩くと、やっと十畳敷くらいの面積の泉の傍に出た。ベドウィンの、ガゴール妖婆の如き女が、子供と山羊を𠮟りとばしている。家は近くに石造りの家が十戸くらいある。ふと見上げると、青い空は切り立った崖の上にあくまでも青く、彼らはやはり、「完結」した、彼らだけの小世界に生きている。

 帰りに、再び暑い平地を歩きながら、私は丸くてざらざらな不思議な石を拾った。すると、三浦朱門は「これはその昔、モーセがなさったウンコの化石、すなわちモシエ・ウンチです」と真顔で言った。でたらめは別として、モーセの生活を思わせる世界がまだ、そこには存在しているのだった。

 それぞれの選択
 死の意味

  人間の死とは脳死か心臓死か
 私の母が八十四歳で亡くなったのは、もう二年前になる。最後の一年四カ月ほどは、自分でものを飲み込む力もなかったが、数種の流動食を口に流し込んで自然に入っていくのを待ち、管を使う事も入院もさせなかった。病院に行きたくない、というのが母の希望だったし、管人間にしたくないというのが、私の実感だった。私は母の一人娘だったから、自分が嫌だと思うことは、誰にも相談もせずに母にもしなかった。

 しかし、そのために母がうんと寿命を縮めたとも思わない。亡くなった時、ホーム・ドクターは、母が痩せてもいず、肌の艶もよく床ずれさえもできていないのを喜んでくださった。
 死の判定を、脳死とするのか心臓死とするか、ということで、さまざまな議論が出ているそうだが、私にはこの問題は、医学的に意見が二に分かれるくらいだったら、選択は当事者に任せて欲しいと願っている。私たち夫婦は、共に脳死支持者で、「私」というものの存在を、今程度の意識が続いている状態でかんがえたいからである。人間が精神と肉体で成り立っている以上、恐らく元通りにはなるまいという予後が推測される状態で、その片方の精神の部分が完全に欠落した時には、もはや厳密にその人は死んだと見なすべきだろう。というのが、私たちの考え方なのである。

 もちろん、あくまでも心臓が停止するまでは自分は死んだことにはしないでくれ、という人やその家族に対しては、心臓死を死の基準にすべきである。しかし同時に、そうでない人間にも、死に方の好みは叶えてもらいたい。こういう背後には、当然、臓器提供の問題がある。

 私は正直言って、臓器を売ることがどうしてそれほど悪いことなのかよく分からない。将来人口腎臓ができる時代になると、昔は自分の腎臓を売っていた人がいた、ということが必ず野蛮な行為として驚きを持って受け取れるようになるだろう、と思うのが、現在では、やむを得ないだろう。借金に追い詰められた人が、一度は死のうと思ったが、それよりは、腎臓を一つ売って楽になりたい、と判断したとしたら‥‥彼の思い違いを説得することは必要だが、最後に選択するのはやはりその人だろう、と思っている。なぜならその人の人生で何をもっと大切なものとするかということは、人それぞれによって違うし、違っても構わないからだ。

 一方で、どんな高い金を払っても、腎臓を買いたいという人があれば、そこで二人はお互いが命の次に大切とするものの交換を行う事になる。致し方のないことである。ただそこに、中間で暴利を貧る人がいたり、暴力団が介入して、強制的に腎臓を売らせるたりするようなことがあってはいけないが、それを防ぐ手立てはいくらでもあるし、人間が全くの自由意思ですることに、現代の日本社会は、どうも過度の介入をし過ぎるような気がする。

 しかしそうなると、金のある人にだけが生き延びることになる。「当たり前のことではないか。力や能力のあるものが生き延びるというのは、淘汰の原理だから」という答えが返ってくる国は地球上にたくさんあると思うが、私が脳死を望むのはつまりその事も関係ある。脳死を認めてもらう事によって、金銭に関係なく、生きられる人が一人でも出るということが、私にはいいことだと思えるからである。

 人のお役に立って死んでいける光栄
 母が死んだ夜半であったが、明け方近く、両方の眼球を取りに東大の眼科からお見えになった。母が若ければ、もちろん臓器も差し上げただろう。日本には一億二千万人以上もの人がいて、当然年間たくさんの人が死んでいるというのに、スリランカから眼球を買っているというのは実に恥ずかしいことだと思う。もし腎臓の売買が人道に反するなら、当然、貧しさゆえに最後に家族に葬式代を残すために「輸出用」の眼を売ったスリランカの死者に対しても、我々は深い負い目を感じなければならないが、そのような世論はほとんどいなかったし、あってもわたしの耳には入って来るほどではなかった。

 その夜、母の眼の処置が終わると、ドクターは金一封をお香典として差し出された。私は一度は辞退したが、思うところがあって頂くことにした。私の所が事務所になって、韓国のハンセン病の施設とマダガスカルの貧しいカトリックの産院にお金を送り続けている。母が眼を差し出すことで頂いたお金は、最後に母の名前で、この基金に入れられたのである。

 母が眼を差し上げていってから、私たち家族がどんなに明るい思いになったか説明するのは難しい。善意の魂だが、癖のある人でもあった母が、仮にいささかの悪いことをしていたとしても、二人の方に角膜を贈っていったのだから、もし「あの世」があるとしても、確実に天国に行ったに違いない、と私たちは実感するようになったのである。私の夢に出てくる母の表情が、いつも明るいのは不思議なほどである。

 人のお役に立って死んで行けるということは最大の光栄である。現代の判断では、人のためになることは自分が損をすることで、それは悪だという事になっているらしいが、それこそ、人生を成功させる秘訣であることを考えるべき時にきている、と私は思っている。

 人間の原始性

  おばあさんの三つの悪態
 この凄まじい暑さのために八十五歳になる姑がご飯を食べられなくなってしまった。なにしろ普段から体重が四〇キロない人だから、すぐ飢えて死にそうになる。やむなく病院に入れて頂いて、先月元気になって帰ってきた。大変しおらしくなって、「いい社会勉強したわ。私の落ち行く先みたいな人がいたから、いい警告だった。これから心を入れ換えて、可愛らしいおばあちゃんになる」と信じがたいほどのハッピーエンドである。

 姑が自分の未来の姿というのは同室のおばあちゃんのことなのである。看護婦さんのっけてくれた桃色のリボンを髪に、いつて゛も人形を抱いている。ベットの裾から見ると、肌も色白で、鼻は高く、なかなか優雅なおばあちゃんである。

 もちろん半分ぼけているからなのである。その言葉がすごい。「ばか」「あっち行け」「死んじまえ」の三つがこのおばあちゃんの最も多く使う言葉だという感じである。

 もちろん、誰もそれを本気の悪意とは思わないから、私なども行く度にちょっと声をかけては「あっちに行け」と言われていたが、時々ふと人間というものはどうしてこう、年を取ると悪い所ばかりが残り、いいところは退化するのだろうと思った。この方はちゃんと昔の女学校を出ているという事だから、若い時は、お行儀もいいほうで、はしたない言葉など口にされなかったのではないだろうか。

 家に姑を迎えてから、時々あのおばあちゃんを思い出す。悪態のつきどおしでは、その病院の優しい看護婦さんのような人達でなければ、腹を立ててしまうかもしれないが、悪いことばかり残ったと感じる私のほうが、安易に道徳的な見方に振り回されていたので、実は人間の原型をこのお婆さんは示したにすぎないような気がしてきた。

「ばか」「あっちに行け」「死んじまえ」の三つの表現は私たち人間が生存を確保するために、持たざるを得なかった原初的情熱であろう。

 普通、よく統制された社会では、人間は飢えもせず、めったに殺されることもなく、私有地に侵入する人も例外だから、私たちは「あっち行け」という事も滅多にない。しかし「あっち行って」もらわないと、自分の生活が脅かされ、しかも相手が出ていかないことにはなると、そこで私たちは「死んじまえ」と相手の存在の消滅を願うようになる。

 年を取ると幼児に退行するというが、このぼけたお婆ちゃんの愛用語は、私たちの中に潜む、自分が生きるか他人が生きるかという事になった時には、躊躇(ためらう)うことなく、他人を犠牲にするという人間の本性の中にインプットされた原始性に先祖帰りをした姿なのであって、決してこの方が人一倍心がねじ曲がっているのではなく、正直に人間性をあらわにしたケースなのではないかと貴重に思うようになった。

 人間は不純を抱えて生きる
 もちろん、このお婆ちゃんと出会ったのが大韓航空機墜落事件とぶっかっていたからである。
 ソ連の前線の戦闘指揮体制に問題はあろうが、国家というものは必ずどこかで利害が相反しているものだから、お互いに「ばか」と思いたがる傾向がある。二つの国家が仲良くする時は、そうすることが得だからである。国家間には実質的制裁を持つルールなど何一つない。だからそこで残るのは、リボンのお婆ちゃんの三つの愛用語の精神だけになる。

 この点が国家と個人とでは全く違う。国家間で紛争が続いていようとも、敵対しているそれぞれの国家に属する個人たちは、お互いに深く愛することができるし、愛した者の為になら、時とする、損の極致と思われる、「死ぬこと」さえできるのである。

 ソ連が「あっち行け」という人間の本性を非常にまずいやり方で表現したのは事実としても、同じような情熱がどの国民の中にもないということはない。
「あっち行け」と言ったのに出ていかないから、と判断してソ連は、「死んじまえ」ということになったのである。これは決して異常なことではない。むしろ人間の生存の原始性、残酷性の中に昔も今もれっきとして存在するものなのである。

 理由の如何にせよ人を殺すことはいけないという考え方に私は原則として賛成である。原則としてというのは、この点こそあらゆるキリスト教徒たちが、昔からずっと苦しんできたことなのだ。私は良いキリスト者にはとうていなれないから、多分平凡に報復することで、正義と思われるものをこの世で全うしてしまうだろうと思うのである。

 しんし、本当に平和を通すという事は、相手に攻撃されたら殺されていく決意をすることなのである。相手も自分に悪をしないだろうというからという前提のもとに唱える平和論など子供だましである。なぜならさきほどから述べているように、人間の中には「ばか」「あっち行け」「死んじまえ」の三つの情熱が生理として組み込まれているからである。

 本当の平和をいうなら無抵抗で、しかも死ぬ覚悟をはっきりと子どもたちに教えねばならないだろう。そこまで自分を見詰め、追い詰めた時、初めて人間は口先だけでなく、たじろぎを知った大きな不純を持った人になれる。

 礼儀は自由を束縛するか?

 自由と礼儀のはき違い
 私の知人の学者は、ちょうど国会の開会式に天皇陛下のご臨席があった日に記者席にいた。陛下が来られたので起立しようとすると、「記者席は立たなくともいいんです」と起立を差し止められた、という話を先日聞いた。

 かねがね思っていた事なのだが、日本人の常識のはずれていうのは最近だんだん目立ってきた。農協さんの団体旅行が外国へ行ってステテコをズボンの裾にちらちら見せている、とか、ハラマキから金を出すのが恥ずしい、とかいろいろ気にする人がいたが、そのようなことに対しては、私はかなり弁護する側に廻って来たつもりである。

 しかし国歌や国旗に対して起立しないとか、国家元首が来場される時に立って迎えないということになると、ステテコやハラマキを愛用することと少々意味がちがう。
 そういうとすぐ、天皇は国家元首ではない、などという、幼児的な言葉尻を捕らえた論議が出てくるが、中国の主席もアメリカの大統領も天皇に表敬訪問をしたところを見ると、元首ではなくても、それに準ずる存在と考えるのが常識であろう。

 もちろん天皇制を拒否し、天皇に来られる所へは一切顔を出さないという共産党の議員のような意思表示は論理がはっきりしていい。おかしなのは、新聞記者たちである。仕事で取材しなければと思うなら、心にそまぬことでも妥協することだ。一切の礼儀というのは、本来、部分的にそまぬことでも、社会の多くの人達が認めていることだから従うという要素をもっている。

 ありがたいことに、日本では、現在、他の国では考えられぬほど、行動の選択が自由である。だから、新聞記者でも、どうしても天皇の前で起立するのは嫌だと思えば、取材をやめて、共産党の議員たちのように出席しない事も出来る。しかし生活のために、あるいはその仕事が好きだから、記者であり続けたいというなら、国際常識ぐらいは知って従うことである。

 しかし私は決して新聞記者だけが非常識だと思っているのではない。本当の責任はこのような屁理屈を自由と履き違えて通して来た、弱い教師と年長者たちであった。その上に、新聞記者たちの頭もあまり明晰でない上に不勉強だった。と言うだけのことである。

 国民の選択への敬意
 私も今までに何度かは、総理の出席される席に出た。するとそこでも誰も席を立たない場合が多かった。
 しかしこれは明らかに礼儀知らずの行為であろう。ただ、うっかり一人だけでも立とうものなら、「あいつは右翼だ」とか。「あいつは権力主義で、総理大臣がありがたくてしかたないのだろう」などと言われるから立ちにくいのである。現に私にはっきりと、「あんた総理大臣に起立なんてしてやることはないと思いますがね」と言った人がいた。

 私は歴代の総理大臣と個人的に少しも親しくない。その方たちがどんな私生活を送っておられるか全く知らない。しかし、私はその人達がいい人だから起立して礼を尽くすのではないのである。
 総理大臣は、日本人が自由な選挙によって選んだ代表者だから、私は国民に対する敬意の現れのために立つのである。

 国歌と国旗が気に食わないという人もいるであろう。その場合には、民主主義の原則に従って、それらを新しい時代に即したものに改変するように努力すればいい。しかしその日までは、私は日本人の選択によって選ばれたとしか言いようのない。現在の国家形態の表現に礼儀を尽くすつもりである。

 私の知人にも、天皇は終戦の日に責任を取って自決されるべきだったという人もいる。神道では自殺が罪ではないはずだし、大元帥陛下でいられたお立場を考えれば、そうであるべきだった、という。また別の人は、日本があの時、不幸な分裂をしなくて済んだのは、皇室のお蔭だったという。実に心の奥底まで響くような恐ろしい歴史の見解の違いである。私はこれらの見方にははっきりと答えを出す術をしらない。

 どの国の人々も、内に分裂を秘め、外に対立を持って暮らしている。だから外国に行って、そこの首相や大統領がいい人だから、とか、その国民が好きだから、その国の国歌が吹奏されたり国旗が掲げられたりする時に立つのではない。
 納得してもしなくても、それがその国、その国民の今日までのところの選択だから、その国民に対する敬意を顕すために起立するのである。

 場末の映画館でドタバタ喜劇が終わっても、国旗が画面に映し出され国歌が吹奏される国はざらである。その時に立つことを知らなかったら、殴られることもあろう。仕事に支障をきたした例も実際にある。そのようなことを教えなかった躾けが、一体どうよかったのだろう。人間は一定の年になったら、小さなことは、心と違う行動ができ、大きな問題は、命をかけても譲らないのが、本当の生き方だと、教えるべきであろう。今はその反対ばかりである。

 新聞記者たちも、特派員になって外国に行った時、国旗掲揚、国歌吹奏、大統領の臨席、などという場で、敢然と一人座っている蛮勇を示す決意のある人だけが、国会の記者席で立ち上がらない資格を持つであろう。

 日本に繫栄をもたらした三つの理由 

 仕事は趣味のように楽しい
 ここのところ、アメリカや日本国内で何人かのアメリカ人に会ったとき、「なぜ、日本がこのような繫栄を勝ち得たのか」という話題がでた。ひところは「日本はなぜ、近代化に成功したか」だったから、ニュアンスが少し違って来たという感じである。勿論、私の喋った人たちは多かれ少なかれ、親日的精神を持っており、その上、私のような素人が何を言うかなという程度の興味だから、私としても気楽に喋ることができた。

 私は最近の日本の繫栄の理由は三つの点にあると思っている。
 第一は日本には、働くことが義務ではなく、趣味のように楽しいと思っている人が結構いるということである。
 たとえば私はごく最近、ハワイにある米軍の中央鑑識所で、一片の骨からこれが誰のものかを科学的に割り出していく特殊な方法を開発された古江忠雄先生のラボラトリーにいたのだが、先生はアメリカ人の職員が帰ってしまったあとも残って、遺骨を相手に調べ物をしておられる。朝鮮戦争、ベトナム戦争だけでなく、また第二次世界大戦の戦死者の遺骨もニューギニアなどから蒐集(しゅうしゅう)してきて、その骨が誰の者かをはっきりと鑑別し、たとえそれがお骨一本でもきちんとお棺に納めて、陸海空三軍の栄誉礼をもって送り返す。死者にたいする愛がなければできない仕事である。

 ところが或る日、二世の運転手さんが「残業」を済ませた先生を迎えにきた。
「こんなにたくさん働くと、お金よけいもらえるでしょう」
 と言うと。
「いくら働いても同じょ。僕はただ気になっている問題を、なんとかして解決してやろうというのが楽しくて、勝手に残業しているんですよ」
 二世さんはどうしてもわからない様子であった。
 勿論、世の中には、決まりだけ働くという人もたくさんいる。教師たちの中にも「人のために働くということは、つまり資本主義に貢献するだけだ」という考えがあった。
 しかし仕事というものは、それがいやいやの任務である場合と、楽しくやっている場合とでは、その当人の幸福の度合いが全く違う。

 仕事は、一部の日本人にとって生きる目的であり、生の実感なのである。テニスや盆栽作りだけが趣味だなどと決めつけることはない。とにかく日本人の中には、仕事を楽しみに変え得る才能のある人がいたるところにいる。これはよその国にあまり見られない特徴である。

 他人の立場を思いやられる能力
 日本に繫栄をもたらした第二の鍵は、他人の立場を思いやり、相手の心を忖度できるという習慣であり、能力である。
 いつかテレビを見ていたら、竹村健一さんが生番組で二、三分遅れて出演されたことがあった。その日インタビューに出るはずのイスラエル人の学者が、打合せの段階でヘソを曲げてしまい、どうしても出ないと言い出したので、それに手間取ってしまったという事だった。

 その理由は竹村氏控室でなにげなく「ベイルートを追い出されたら。PLOはどこへ行きますかな」と訊いたことだった。
「PLOがどこへ行こうがそんなことユダヤ人のおれが知ったことか」ということで相手は怒りだし、土壇場になって出演拒否という事になったのだそうである。
 これは私にとっては実に面白い事件であった。原則を述べれば、テレビに出たくないと思えば、違約金の取り決めもない場合など、さっさと辞めればいいし、どうしても敵対関係にあるPLOの事など考えなきゃならないのか、という理屈も成り立つ。しかし、実にこの点でこのユダヤ人の学者のようにしなかったからこそ、日本は伸びてきたのだということもできる。

 日本人には常に人の立場を思う習慣が色濃くある。世界中を歩いてみてこの点がないことに、私はいつも新鮮な驚きを覚える。地球上の殆どの人々は自分を主張するだけだ。自分のことしか考えない人間というものは、つまり幼児性を残している。勿論この手の人は日本にも学歴のあるなしに拘わらずいるが、ほかの国はもっと酷い。

 私は(決してうまくないのだが)相手の立場を考えるという事を反射的にできるような教育を受けきたのである。日本人にこの点が上手くできる人が実に多いから、社会が不必要なエネルギーをロスすることなく、かなり安全に滑らかに動いて行くのである。

 第三の点は、日本人の板についた貧乏人意識である。日本人は金持ちだとこの頃は外国で言われることが多いが、日本人の中でそれを信じている人はきわめて少ない。皆、自分の家は相変わらずうさぎ小屋だと思い、約束されていた退職金だって、市民から高すぎると非難の声があればいつもらえなくなるかもしれない国なのだ。そう言うことを知っている。財界の大立者の土光さんは、質素な暮らしをなさっているそうだし、日本には絵に描いたような大金持ちなど一人もいない。皆死ぬまで働きづめなのである。

 それもこれも、日本は地下資源らしきものもない国で、あるのは手足と頭脳だけだという危機意識をみんなが持ち 勝たねばならぬ者の孤独
 ロスアンゼルス・オリンピックが始まる数日前、私は偶然、東京オリンピックの極めて人間的な記録をテレビで見た。私はどう見てもスポーツ人間ではない。しかし私その番組を途中で切ることができないほど惹きつけられた。それは、栄光の記録、であると同時に、無残さの記録でもあったからだ。

 私はそこにたくさんの故人となった方々が、笑ったり、奇矯な行動をしたり、歯を食いしばったりしているのを見た。その故人の多くは、普通の日本人の平均から見ても若死にであった。スホーツをする人は、体も心も健康で、従って長生きだ、ということは迷信にすぎないことを実証する、痛ましいものであった。

 東京オリンピックの時、私はまだ若かったから、今度ほど自由にオリンピックを眺める心の余裕がなかった。オリンピックは、やはり、人間の健康のためにいいことをしているのだ、という観念がどうしても抜けきれなかった。しかし今度私はオリンピックに出場する程度の「プロ級の」運動の多くは。むしろ選手の体に害悪を流しつつ行われているということをはっきりと感じたのである。しかしそれは、決して人間が生きる事のルールに反しているわけではない。小説家も板前も隧道を掘る土木屋も、考えてみれば、体に悪いことをしている。しかし、この人生で、体にいいことだけしていられる人など殆どいない。オリンピック選手もその範疇に入るだけである。

光が強ければ影は濃い 

 フォーク・リフトのなかった時代には、重量挙げは、確かに社会で充分に意味のある才能であろう。しかし、ああいう才能、人間が持つには不自然なほどの重いものを持っということは、体にいいわけはない。女子の体操の選手は、体重を軽くするために、厳重な食事制限をする、という。今は妖精のような小柄な細い少女たちが、七十歳になった時、彼らの健康が、年頃のころ普通にご飯を食べて育ったおばあさんと、同じような健康体を保てるという保証はあるのだろうか。オリンピック・クラスの激しいスポーツは、多かれ少なかれ、選手の健康と引き換えにその極限が示されているから、オリンピックは、体を健康にするためのアマチュア・スポーツとは目的も結果も全く違うものだと思うべきである。つまり、アマチュア・スポーツは自分のためであり、オリンピック・クラスのスポーツは、人のためのものなのである。

 テレビのお蔭で、私たちは選手の、スタート前の表情を、あたかも隣にいるかのようにはっきり見る事ができるようになったのだが、彼らはみんな孤独で、苦しそうな表情をしている。もちろんそれでもいいのだ。もともスポーツの世界は、私たちには想像もつかないほど、情け容赦ない世界である。

 スポーツの世界では、負けたけど、こういういいとろもあった。という言いわけは許されない、という点で、まさに戦争とよく似ている。文学の世界では決してそうではない。かりに私の作品が、一人の評論家によって駄作だと決めつけられたとする。しかしそれでも、たった一人の読者がその「駄作」の一部から自分の人生を左右する発見をするということよくあるのだ。つまり、全くいいところのない作品というものの方が珍しいのである。しかし、スポーツは記録が悪ければ駄目だという。なんと冷酷な、厳しい世界なのであろう。

 カール・ルイスは、大富豪で態度も威張っているという。しかし、スポーツと謙虚さとは、もともと相容れない。記録を伸ばすために謙虚に相手を学び、謙虚に努力する、という言い方はあるが、それでもスホーツは相手を負かすためのものである。その意味では、軍事力と同じように明快だ。

 いや、そうではない、オリンピックは参加することに意味がある、という精神は今でも残っている、という人があるが、オリンピックはもはや、とっくの昔から、アマチュアのスポーツではなくなっている。その証拠に、食品会社や化学製品を作る会社に勤めた選手たちは、決して毎日、ごく普通の社員の仕事をしていない。だから、その人々は会社の宣伝のために、勝たねば全くの「ただ飯食い」なのである。

 オリンピック選手たちが、もはや日々の糧を稼ぐための普通の人と同じような地道な仕事をしていなという事は、資本主義国も社会主義国も同じであろう。オリンピックもまた、他の多くの人間社会の出来事と同様、現実は理想と程遠い。理想やヒューマニズムが実行されているのでもなく、教育的かといえば、挨拶に困るとろもある。しかし私は小説家だから、その矛盾も不純も当然のこととして面白かったのである。

 希望を叶えられた後の苦しい闘い
 このオリンピックを最後にバレー・ボールを止める女子選手たちの一人から「バレー・ボールのない人生なんて考えられない」という談話が寄せられたとNHKのアナウンサーは伝えていた。

 選手でもいい、体協の役員でもいい、彼らは、フランクルが書いている、希望というものの持つ機能の特性について、読んだことがあるだろうか。

 アウシュヴィッツで妻子を殺され、自らも収容所の生活を体験したフランクルは、人間の希望が実現した日以後の、荒涼たる苦しみ生にたびたび触れている。希望はそれがまだ叶えられていないから希望なのであり、希望が現実にならなかった以前より、はるかに厳しく苦しまねばならない。オリンピック選手がもし鋭い感覚をもっていれば、彼らは、勝利の瞬間からすぐにその苦しい作業にとりかからねばならないのである。彼らの心が何の曇りもなく祝福されているのは、表彰台の上のほんの数分だけに違いない。

 ギリシャ語で人間の「寿命」のことをヘリキア、というが、それは同時に、「背丈」とか「その職業に適した年齢」とかいう意味に含む言葉である。つまりギリシャ人の考えらよれば、人間でどうにも自由にでないことは、いわゆる死の時期、自分の背丈の寸法、そしてこの「運動選手なら運動選手に敵した年齢」の三つだと思われていたのである。それなのに、その運動選手としての寿命が尽きた後の人生をうまく生きるようにする準備には、誰もほとんど心を砕いていないのではないかと思う。

 オリンピックの栄光を上手に、一場の夢と化して深追いしなかった人生の達人もいた。しかし多くの人々は、その栄光に押しつぶされそうになってやっと生きるのである。
 オリンピックは、見ようによっては、痛ましい祭典である。この画面に現れる部分が一番はなやかなだけで、後は(例外を除けば)すべてこれより暗く辛い。

 東京オリンピックの時、「なせばなる」と言い切って金メダルをもらしたバレー・ボールの大松監督の言葉を、私はその時、恐ろしい思い上がりの言葉として聞いたのであった。しかし日本中の人々はその言葉を立派な道徳的な言葉として拍手で迎え、文学の世界でさえもそれに反対の意を表明した人はごく少なかった。オリンピックをみていると、努力すればいい、ということと、努力しても運がなければダメ、という二つの対立的な命題が、どちらも本当であることを改めて思わせられる。

 人間は皆平等で、才能は開発されさえすれば誰にでも可能性があるなどと、いうどこかの国の聞いたような教育論を、ものの見事に打ち砕いたのも、オリンピックである。
 陸上の短距離の決勝に残るような選手の殆どが黒人の選手によって占められていることを思う時、私たちは人間の才能が決して平等でないことを知る。人間には、自分ではどうにもならない動かしがたい素質がすでにインプットされている。ネグロイド(黒人)にはネグロイドの。コーカシアン(白人)にはコーカシアンの、モンゴロイド(黄色人種)にはモンゴロイドの、この地球上における任務というものは違っている筈である。但しそこには違いはあるが、上下はない。上下はないからと言って、同じになれることではない。

 スポーツが政治の抗争の道具になることを嘆く人がいるが、私はそれをむしろ楽しむ立場である。ソ連とその衛星国が、オリンピックをボイコットしたことが、「世界戦略」の上で正しかったかどうかということも、オリンピックの記録以上に、おもしろいゲームである。あえてゲームと言える理由は、原爆と違ってそこには、人間の血を見る事がないからだ。クーベルタンの理想に反するかもしれないが、総ての人間が作り上げるものは、その時代において、少しずつ状況や形態の変化があることを認めざるを得ない。オリンピックは、もはや、国家の後盾のない個人としての参加も不可能になったし、純粋にアマチュアの精神を守り通すこともできなくなった。しかし、私たちの時代の、地球上の過半数が誰からも強要されることもなく望んだオリンピックの形なのである。

 明るさは暗い陰を伴う
 オリンピックはその昔から、明るい話題ばかりではなかった。むしろ、ギリシャの歴史や神話にまつわるオリンピック関係の物語は、ギリシャ思想の偉大さを示すかのように、重苦しく、辛く、悲しい人生そのものであった。
 
 その昔、紀元前四百九十年、マラソンの闘いの勝利を知らせに約三十二キロの道程を駆け戻ったフィディピィデスは、アテネのアゴーラに着くや、味方の勝利を伝えるとその喜びの最中に斃れて息絶えた。

 また、オリンピックの勝者の栄誉をたたえるために昔は使われていた冠の月桂樹の葉は、太陽神アポロの悲惨な恋の記念である。
アプロディテの子供のクビドは二本の矢を持っていた。一本は人に恋をさせる金の矢、もう一本は恋を嫌う鉛の矢であった。

 金の矢を胸に受けると、アポロはすぐにダプネに夢中になったが、恋を嫌う鉛の矢を胸にうけているダプネは、アポロから何とか逃げようとした。しかしアポロは執拗にダプネを追ったので、ダプネは父である川の神に、アポロが自分に手出しをできないように自分の姿を変えてくれないか、と頼んだ。アポロの眼の前で、ダプネは見る見るうちにそのその長い髪を枝としてなびかせた月桂樹に変ったのである。アポロが思わず、その幹をかき抱くと、ダブネの心臓の鼓動の音はまだ月桂樹の木の中で聞こえた。

「ああ、ダブネ、あなたはもう私の妻にはなれないが、私の木にしてあげよう。私は王冠としてあなたをかぶろう。ローマの征服者たちがカピトリウムに向かって凱旋の列を進める時、あなたの葉で、私は将軍たちの額を飾る花輪を編もう。永遠の青春は私のものだから、あなたはいつも青春としているのだ」
 とアポロは言う。

 私はオリンピックをとうてい明るい青春の祭典とは思えないことを許して頂くほかない。私は総ての明るくて影のないものなど、オリンピックならずとも、この世で信じていないのである。明るさは必ず陰の濃い部分を伴うのが原則である。私はその光と影の双方を見る癖がついているだけのことだ。しかも、その対比が強烈だということで、やはり、オリンピックは偉大なできごとなのである。

つづく Ⅱ 時の流れの中で
 アジェンデ共産政権が残したもの
 嵐の中で生きる人びと
 厳戒令下のチリへ続けていることも重大な要素である。