子どものときには、「学力偏差値」が高いことで家でも仲間にも承認されていた子が、「女」としてはちょっとまずいんじゃない? みたいな視線を少しずつ感じ始めるのである。
「ギャグ偏差値」もまた同じである。高すぎると、セクシャリティの「ガラスの天井」にぶつかるのである。偏差値と女性としての価値が反比例するのである。

本表紙 結婚の条件 小倉千加子著

女性の偏差値

 女性の偏差値newpage119.5.8.html
 女性には四つの偏差値がある。
「学力偏差値」「ギャグ偏差値」「容貌偏差値」「実用偏差値」である。成績がいいか、ギャグが冴えているか、容貌が優れているか、上手に男を立てられるかである。このうち「学力偏差値」と「ギャグ偏差値」には、青年期になってジェンダーの壁が立ちはだかる。

子どものときには、「学力偏差値」が高いことで家でも仲間にも承認されていた子が、「女」としてはちょっとまずいんじゃない? みたいな視線を少しずつ感じ始めるのである。
「ギャグ偏差値」もまた同じである。高すぎると、セクシャリティの「ガラスの天井」にぶつかるのである。偏差値と女性としての価値が反比例するのである。

 その点「容貌偏差値」と「実用偏差値」には天井がない。どこまで磨きをかけても、愛されなくなる「臨界点」に達することはない。この、男性から見た「欲情価値」と「使用価値」に充当する能力は、逆に偏差値が下がると、価値が下落する。偏差値と価値が正比例している。そのために、偏差値を落とさない努力が不断に求められる。どちらの人生も大変である。

 男性に擁護されるタイプになりたいと思えば、「しっかり」してはいけないのだ。
 男性のギャグの「受信機」になり、けっして「発信機」にならず、天然ボケ系の頼りなさを備え、男性に「僕がいないとこいつは生きていけない」と思わせる女。それは、「うっかり」してなおかつ「ちゃっかり」した女になることである(本人たちは絶対に否定すると思うが)。

「うっかり」して「ちゃっかり」した女とは、仮面ライダーで言えば、こういう女である。
 あの谷に行くとショッカーがいるから絶対にいってはいけないとさんざん言われているにもかかわらず、「あ、あそこきれいなお花が」とか言いながらショッカーのいる谷にのこのこ行ってしまう。そういう「うっかり」した女がいないと、仮面ライダーは変身して敵と闘えないのだから、仮面ライダーと「うっかり女」は「共依存」していると言えるだろう。

 一方、言われるまでもなくショッカーの谷には行かないのにもかかわらずなぜかショッカーがやって来て、それまた仮面ライダーに頼る方法を知らないので、自分の力だけで闘ってやっつけてしまう女を「しっかり」した女という。

「うっかり」して「ちゃっかり」した女は、いつも仮面ライダーに守ってもらえる。しかし、「しっかり」した女は、仮面ライダーに守ってもらえないし、実際仮面ライダーを必要としないのである。恋愛がそういう、「うっかり女と仮面ライダー」の関係なら、恋愛はしたくないと思っている女は実際たくさんいると思う。

 例のギャグ発信能力の冴え過ぎた友人は、自分の理想は「不二子ちゃんとルパン三世」の関係だと言った。不二子ちゃんは、グラマーでナイス・バディである。不二子ちゃんは「容貌偏差値」が高いのではないか。グラマーでない不二子ちゃんに片思いするルパンがいるだろうか。

「いえいえ、男にとっての美人はさまざまですから」と、不敵に笑って、友人は帰っていった。楽天的すぎる、と私は思っている。

拝啓、西村知美様

「24時間テレビ」で、タレントの西村知美さんが、一〇〇キロマラソンに挑戦し足を引きずりながら完走した。あれは、彼女が抱えている苦悩から解放されるためだったんですよ、と教えてくれた人がいた。彼女の夫は元芸能人だが、今はコックさんである(さだまさしの店で働いていると言うが、そんなことはどうでもいい)。で、西村知美さんは、自分が芸能界にいて、夫より収入が多いことにとても苦しんでいる。

自分の所得額を夫に知られないようにし、ものすごく夫を立てて生きていると語っていた。それでも、女性として夫に罪深いことをしているのではないか、そういう気労がいつもあって、それを振り払うために彼女はマラソンに挑んだのだそうだ。運動をしている時、確かに人は自分の悩みから解放される。走りながら苦悩することは難しい。

 女性が「女性」として愛されること、男性が「男性」として愛されることは、同じ「愛」という言葉で語られていても、その内実はまったく異なる、「愛」は対称ではない。

 普通、男性は金や地位という「資源」を持って、その資源と交換するように女性を獲得する(男性芸人は、売れ方がピークの時に結婚する)一方、女性は「女性であること」それ自体を「資源」にして男性を獲得する。「女性であること」は、女性の肉体そのものの魅力はもとより、「女性ならでは」と世間は思われている。

さりげなくお茶を淹れる心遣いや家事能力全般、子ども好き、そして男性から見てセックスの欲望の対象と精神的庇護の対象たりえるかということにまで及ぶ実に包括的なものである。それを磨くのがフツーのパターンである。

 一方で、女性が金や地位という男性に所属する「資源」を努力して所有したとする(こちらの努力の方が結果と結びつきやすい。実力主義の世界が女性にも開かれたのだ)。しかし、それによって男性に選ばれ、愛されることは多くなるだろうか。むしろ男性から敬遠されるという事の方が多いだろう。

男女平等であるといっても、左右対称のように重ね合わせてもぴったり一致するわけでないので、これを性別における非対称という。(こういうことを語っていると「ジェンダー」という講義の入門編のようで、こういう文章は久し振りに書いている気がする)。

 男性は、女性に男性と違う生き方を求めている。簡単に言えば、男は裸でもいい、ラクだから。でも女は衣装を身にまとって裸体を隠さなければならない。隠さなければ女は恥じらうような女でないと男は発情しないので「平気で裸になるなよ! 恥じらえよ! 」と男はキレそうになって女に言ったわけである。

女が隠さなくてはならない裸というのは、女も男も同じで汗はかくわ、腋毛は生えてくるわ、みたいないわゆる「動物性」のことである。で、もう一つは、これは「動物性」よりも、もっと不愉快なもので、それは男と同じ「欲望」のこと。貧しい家庭で、餓えた親子がいたとして、母親が、自分がお腹が空いているために子どもの食べているお粥をひったくって食べてしまい、驚く子どもの前で「子どもより親が大事」と太宰治のように言ったとしたら、子どもにとってかなりきついことだし、トラウマにもなるであろう。

しかし、これと同じことは戦争中にもあった。中国北部から引き上げてくる日本人たちが、ソ連兵の襲撃を恐れて民家に身を隠しているときに、赤ん坊が泣きだすと、日本人のボス格の人が、その子の母親に「子どもを泣かすな」と命じる。そう言われて、泣く我が子どもの口を塞ぎ、子どもを窒息させて殺してしまった母親がいた。子どもよりも自分たちの命の方が大事だったのである。

そこにいた赤ん坊のお姉さんにあたる幼児が大人になって「自分の母はそうやって私の妹を殺した」と言い、私に向かって「自分は母親というものが子どもに無償の愛を注ぐなんて信じません」と告白したのを聞いたことがある。大変穏やかな口調だったので、私は余計に息を呑んだ(大学の教員は、社会人学生から一番多く学ぶものである)。

 そうです。西村知美さん、危機的事態になると、人間は子どもより自分が大事なのです。あるいはその場にいる怖い人に逆らえないで、自分の子どもを殺してしまうのが女なのです。しかし、このことを受け入れて、つまり母にエゴがある、母は権力のある人の前では必ずしも子どもを守ってはくれないしいう真実を受け入れてもなお、人間というものを信じて生きていけるほど強い人にはなかなかいるものではありません。

同じことでも、これが父親であれば、人はそれほど父を恨んだり、憎んだりしません。それは、父というものが、「社会的存在」であって、父は利害で動くものだということを子どもは最初から知らされているからです。父ではなく母が、「社会的存在」ではない母が、利害によって動いたからこそ、子どもは母を恨み、憎むものです。

 こういう「ジェンダー・バイアス」がかかるため、私たちは男女平等と頭では分かっていながら、男女を平等に見る事が出来ないのです。母が子どもを殺したり殴ったりすることの方をわれわれは父がそうしたときよりも嫌がるのは、われわれが母にお世話になって生きているからです。人間というのは哀しい生きもので、自分に最初から冷淡だった人にではなく、自分に優しくしてくれた人に対しても最も強い怒りを向ける傾向があります。

なんで最後までちゃんと面倒見てくれないのだと、われわれは自分の面倒を一番見てくれた人を一番憎むのです。これは甘えの裏返しです。しかし、女の子はいずれ自分自身がお母さんになるので、子どもの要求に際限なく応えることがどれだけ大変か、利己的ではなく子どもを愛することがどれほど難しいか、やがて身をもって知る事になるのです。

 汚いことは母がする

子どもに無償の愛を注ぐのは、とても苦しいことです。人間は、正直に言えば、やはり自分が一番可愛いのです。子どもがいなければ、自分には違う人生があったはずだ。一瞬でもそう思わないお母さんはいません。子どもがいなければ、存分に才能を伸ばせたかもしれない。なんで子どもを産んでしまったのだろうと後悔する瞬間は誰でも訪れます。

 もちろん子どもは可愛いです、言うとことを聞いてくれている限りは、あるいは、周囲に自慢の子どもである限りは。やがて子どもは言う事を聞かなくなり、反抗し、母を無視し、命令さえするようになります。お風呂から出てきた子どもが「お母さん、お風呂の排水口、詰まってお湯が流れないよ」と、当たり前のように、排水口の掃除を要求するのです。

汚いことはお母さんがやるのが当たり前、子どもも夫もそう思っています。ですから、お母さんは排水口に詰まった毛を自分で取るのです。なんで汚いことは自分がやるんだろうと思っても、自分の育てた子どもです。自分の育て方が悪かったのかもしれないので、誰を責めることも出来ません。お母さんの中には、でも何かおかしい、女が生きていくのは大変だという気持ちがずっとあります。

 西村知美さんは、二〇〇三年八月に赤ちゃんを産みました、不妊治療をし、産まれないと諦めていたので、出産できて本当に嬉しかったそうです。子育のために仕事を休み、夫の給料で家族三人片寄せ合って生きていくそうです。夫の収入で生活ができるのかどうか、ワイドショーの芸能レポーターは危惧していましたが、西村知美さんは夫に「あなたはこれからお父さんなのよ。私と子どもはあなたを頼りに生きていくのよ」と言える立場になって、ホッとしているようでした。

西村知美さんがしたことは、難しく言うとこうなります。女が自分で自分の所有物(仕事と収入)を手放すことで、夫の立場を高め、そのことで、夫に庇護される一段低い「正当な妻の位置」に身を置くことに安心感を見出す。彼女は、自分が夫より一段高い所にいるのが苦しくてたまらなかったのです。
彼女は、当たり前のことをして排水口の掃除をしたいのです。

 芸能人の場合、一般の仕事と違って、有名になれば収入はとても大きなものになりますから、そのことで自分の恋人や夫との関係にひびが入ることを恐れる女性は今までにもたくさんいます。それに、自分が一番幸せと感じられる場所は、TV局のスタジオではなく、夫と子どもたちがいるリビングにいるのが見渡せるキッチンだと考える人もいます。

その代表は、何と言っても山口百恵です。今では山口智子も安田成美も、結婚退職みたいな形で、まあ、頼まれれば前の職場に手伝いに行ったりはしますが、基本的には家庭というシェルターにいます。山口智子にも安田成美にも、ブレイク女優として最高のときに結婚したという事実があります。

山口智子は「29歳のクリスマス」と「ロングバケーション」。安田成美は「素顔のままで」というドラマで高い視聴率を獲得するという実績をあげた直後に、TVの世界を去ったのです。

 松嶋菜々子の結婚もそうです。松嶋菜々子は「やまとなでしこ」で一気にNo1女優の地位を確立しましたが、「やまとなでしこ」の神野桜子というキャラクターがそのまま自分と重ねて見られるのが、とても怖かったのだと思います。

あのドラマのコピーは「愛は年収」ですよ。資産家の男をゲットするために合コンの女王と呼ばれる桜子のような女性の価値観を自分が持っていると思われたら怖い、日本中の男性に「女はまごころより金か」「そんなに金持ちが好きか」と、憎まれるに決まっていますから。

 貧乏な男を敵に回すだけではありません。金持ちの男もまた、自分の資産目当てに結婚を狙おうとする女なんて、自分の奥さんはそんな女ではないはずと思って聞いてみたに違いありませんから。「こんな女性どう思う?」「ホントに酷いドラマよねえ。こういう主人公って私には理解できないわ」と、奥さんももちろん一緒になって非難してあげなければなりません。

 成功恐怖

 女性がトップの位置に登りつめつつある、まさにそのときに心の中から響く声があります。「本当にいいの、そんな高い所に昇って。そこまで行ってしまったら、男の人はみんな私より下になってしまうのよ。そうしたら、誰も私と結婚なんかしてくれない。引き返すなら今よ。もう十分成功したじゃない。もっと大事なことがあるでしょう? そう、愛よ。結婚よ。暖かい家庭を築くチャンスを失ってしまうかもしれないのよ。降りるのよ。そこから降りなさい。早く!」

 こういう、無意識の中から立ち昇ってくる感情を、心理学では「成功恐怖」と言います。マティナ・ホーナーという女性の学者が「発見」しました。こういう恐怖に駆られると、女性は成功を避けるように行動します。せっかく入社した一流企業で一人選ばれて昇進したりしたその時に辞表を出すとか、女優の場合も大ヒットした直後に不釣り合いな相手と結婚して銀幕を去ったりすることがしばしばあります。

「女性が成功したって、孤独で不幸な人生が待っているだけだ」「可哀想に、仕事に打ち込むしかないなんてモテない女なんだ」といった、男性たちのそういう女性に対する非難を当の女性が知るからこそ、その位置から去りたいと女性は思うのです。

「そんなこと思われても、現に自分は孤独ではない」というような立場のある人は何ともないのですが、そう思われる自体に恐怖を感じる女性はたくさんいるのです。

 さて、この「成功恐怖」ですが、マティナ・ホーナーが、こういう発見をしたのは一九六八年のことです。「アンは、医学部の成績発表の掲示板をみて、自分の成績が一位だと知りました。さて、このときアンはどう思ったでしょう。それから、アンは将来どんな生活を送っていると思いますか」と、大学生に質問したところ、さきほど書いたような、特に男子学生の「孤独で不幸な人生」を意味するような具体的な反応文が見られたのです。
「狭くて寒いアパートで、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけたアンが顕微鏡を覗いている。大学では仕事はパッとせず、恋人はもちろんいない」

 しかし、現在この実験をしますと、日本の学生の反応は全く違います。「アンは、医学部在学中に年下の医学生と婚約し、卒業とともに結婚。二人は医者として仲良く働き、郊外に家を建て、子どもが二人と犬もいて、リッチで幸福な生活を送っています」女子学生も男子学生も多くがこういうふうに書くのです。

もし医学部で成績トップだと分かったときには、どういう気持ちかという質問には「すぐに親にメールし、家でお祝してもらう」「彼氏を携帯電話で呼び出し、一緒に喜ぶ」というのが圧倒的でした。
「成功恐怖」は、なくなったんでしょうか。同じ実験をすれば、今の日本では確かに「成功恐怖」は見られません。

 しかし、私は去年、こういう知らせを受けました。私がかつて名付け親になった女の子が、東大と慶應を受験し、両方に合格しました。親と先生は東大に行けとすすめたのに、本人は入学手続きの前の晩まで泣いて抵抗、結局慶應を選んだと。

彼女にとって「東大」に入学することがすでに「成功」なのです。だから彼女は降りたのです。実際、東大に進学すると、女子学生は在学中に結婚相手を見つけなければなりません。社会に出ると、自分が東大卒だと聞いた途端、男の人はひくからです。医学部でも、女子学生は同じ理由で在学中に結婚相手を見つけようとします。

「東大」「医学部」「芸能界」、私はこの三つの世界が、一番女性の「成功恐怖」の表れる場所だと考えます。「当事者」でないと分からない恐怖というものがあるのです。
「成功」「名声」「富」は求めたいけれど、同時に「愛」「結婚」「子ども」も欲しい。あるいは「社会的自己実現」もしたけれど、「性的自己実現」も果たしたい。日本の女性は、両天秤をかけようとし、順番でいうと、「愛」「結婚」「子供」が「社会的自己実現」より先なのです。

女性が所有しても罪悪感を持たないですむどころか周囲に褒められ祝福される唯一のモノは「子ども」です。夫は、「子ども」と「子どもを育てる環境」を運んでくれるコウノトリです。「成功」するよりも「結婚」して引退し、子育てに専念したい。「成功」する才能のない者までがそう口にするのです。

子育てが一段落してはじめて自分育てに入るのです。しかし、結婚前に、「成功」出来なかった人が中年になって「成功」できましょうか。だから、子どもで「成功」しなければならないのです。「子ども」は母親の自己実現の代理戦争に遣われます(そうやって子どもは親の欲望の生贄にされます。子どもの「境界性人格障害」は激増しています)。結婚に注ぎ込まれたのは、「性的自己」ではなく、実は「社会的自己」なのです。

 成功してから結婚し、結婚を「成功」の手段としなかった西村知美さん。あなたがマラソンをしてまで振り切ろうとした苦しみは、苦しむ必要のない苦しみです。成功するのが怖いのは一瞬です。失敗した悔恨は一生です。二〇〇三年夏の夕方、あなたは職場に辞表を出し、小走りで駅に向かっています。駅の方からあてもなく街に出てくる夥しい主婦の群れとあなたは今すれ違っているのが分かりますか?

 夢追う男

 いつか雑誌で、全国の大学の学長を対象としたアンケートに「学長であることで一番苦しいこととは何か」という質問があって、その一位が「孤独であること(自分の決断が正しいかどうか分からないこと)」というものを見て、かなり驚いたことがある。この驚きはとても複雑な感情の現われで、到底ひと言で説明することはできない。

会社に勤めてる人でも、その会社の社長の一番苦しいことが「孤独であること」と知らされたら、名状しがたい感覚に襲われるであろう。

 男は女ほど依存的ではないとされている。が、それは嘘である。男は女に依存したい。
しかし、女に頼るのは、それも大きな決断に際して頼るのは、恥ずかしいと思っているから、代わりに男(身近にいる腰巾着)に、自分の決断は間違っていないかどうか確認をもとめる。

そういう男の子分がいない中小企業の経営者にとって唯一頼れるのは妻である。中止企業のオーナーに対するアンケートで「経営者として一番頼りにするのは誰か」という質問の回答のダントツ一位は妻であった。会社の創業者のオーナーであれば、妻は糟糠(そうこう「貧乏を共に耐え抜いてきた意)の妻であり、戦友のようなものであろうから、これはよく分かる。妻には、愛人とは違うものを男は求めている。

 女の子に「夫に求める条件と恋人に求める条件」を聞くと、はっきり別々の条件を出すが、男性の場合はどうか、やはり一生モンであるからして、軽率な選択はできないと当然思うであろう。

 犬に喩えると「恋人はチワワやヨークシャーテリアがいいかもしれないが、妻となると雑種がいい」と島田紳助が断言していた。吹雪の冬でもカンカン照りの夏でも雑種は外を走り回り、予防接種をしなくとも病気はしないからだそうである。

 妻が雑種犬であれば、どういうことが望めるのか。他にも考えてみよう。
 いつも明るく機嫌がいい。常に自分を勘定に入れず、夫が病気になれば徹夜で看病し、一日に玄米とほんの少しの味噌と有機野菜を食べ、肉も服も欲しがりもせず、廊下の電気はマメに消し、他人の家庭に妬みもせず、夫の親を大事にし、朝は夫より先に起き、夜は夫よりあとに寝る、給料日には「ご苦労様」と頭を下げ、夫が帰ると「お風呂にする? それともお食事?」と尋ね、

晩酌は夫に勧められると一杯だけビールを飲んですぐに真っ赤になり、雨が降っても洗濯物が縮むからと乾燥機を買いたいとも言わず、食器洗い機など買うのは後ろめたいと言い、子どもを一人で育て上げ、特技はマッサージで、いつも知らぬ間に夫の財布に小遣いを補填してくれている。

 こういう宮沢賢治と、さだまさしと高島礼子を足して三で割ったような妻を探しても、いるわけはない。だからせめて、男の給料がカットされても自分がパートで働くことを厭わず、夫を呪いもせず、夫を捨てず、自分たちより下を見ては自足を知り、つつましく一緒に暮らせる女なら見目うるわしいくもないと思っても、そんな女すら、現在五十歳より上ぐらいでないと存在しない。要するに、病めるときも貧しきときにも、あなたといれば幸せと言って、夫の自己愛を満足させてくれるような妻を探すのは、もう無理なのだ。

 男子学生の結婚の条件

 しかし、そういうことをいくら言って聞かせても、男子学生は理解しない。結婚相手に求める条件として「金遣いが荒くなく、子ども好きで、美人」と書いてくるのがよくある。
金遣いが荒くない人というのは、学生が自分の収入が低いことを悟っているようで、なにか胸が熱くなる。しかし、できれば専業主婦として家にいて欲しいという希望はとても強く、自分(夫)の稼ぎの中でやりくりして工夫してほしいという希望は、妻に経済力があれば自分が大切にされなくなるという、オスとしての動物的直観のようにも思える。

子ども好きという場合の子どもとは、もちろん自分(夫)の直喩なのだ。僕を大切にして、僕を可愛がって、という希望には、ハイハイと言うしかないが、そこに突然美人とくると、オイオイと思う。もっとも、「自分のような男に美人が来てくれるはずはないが」とか、書き足してあると、また切なくなってしまうのである。

 今まで、男子学生が書いた一番具体的な条件は、次のようなものであった。
「僕は、相手の人に難しい条件は出しません。ただ、僕は肉じゃがが大好きなので、いつも肉じゃがを作ってくれる人が理想です。僕の肉じゃがはいたってシンプルなもので、肉とタマネギとじゃがいもと人参が入っていればいいのです。

さやえんどうとかグリンピースの入っているのは、僕は好きでありません。ですから、僕の望む肉じゃがは全然難しいものではありません。そういう肉じゃがを作ってくれる女性が理想です。僕は、結婚に高望みはしていません。先生は、条件を三つ挙げるように言われたので、あとの望みをあえて探せば、やっぱり美人がいいです。あと、僕が帰ってきた時に家にいて待ってくれる人、そうです、専業主婦がいいです。その女の人がどうしても働きたいと言ったら、働いても構いませんが、僕の給料でやっていってくれるなら、やはり家にいてほしいです」

 こういう条件がものすごい高望みでなくてなんだろうか。
 男子学生のこういう結婚願望を女子学生に紹介すると、教室全体に一斉に溜息が満ちる。「なんて、幼いのだろう」という驚きである。

 次に、女子学生の、結婚願望を紹介する。
「私が結婚相手に望む経済力は、そんなに大きいものではありません。ただ私と子ども二人が安心して暮らせる程度でいいのです。子どもには小さい時から習い事をさせてやりたいです。お金がないと言って子どもに惨めな思いをさせるのだけは絶対にいやです。そして、子供二人を私立大学に行かせてやれるくらいの給料は求めます(だって、私もそうしてもらったので当然だと思います)。

月に一回は外食し(もちろん廻るお寿司ではなくお洒落なイタリアンとかです)、年に一回は海外旅行に行く。そういう程度の経済力です。私には玉の輿願望ではありません。私の両親に対し、肩身の狭い思いをするのはいやなので、軽い玉の輿程度で十分です。

もちろん夫は真面目に働く人でないと困ります。ちょっといやなことがあると会社を辞めるとかされたりすると、とても困ります。それから、土曜日には子どもを連れて公園でサッカーしたり、川の堤防の下でキャッチボールしたりするのを、私は堤防の草むらに座って眺めるのが夢です。それから、タバコを吸う人は絶対にお断りです。

本人よりも周りにいる私や子どもたちの間接喫煙が恐ろしいからです。家族(子どもと私の両親)を大事にして、結婚記念日とかは絶対に覚えていてくれないと嫌です。あとDVとかして、暴力を振るう人はもちろんお断りです。まだ、他にもありますが、先生が三つまでと言われたので、このくらいにしておきます」

 言っておくが、これは学生が書いたもので合成したり、特定の個人のものを意図的に抽出したりしたものではない。みんなみんな、こう書いてくるのである。なんでここまで同じなのか、私が聞きたいくらいである。この女子学生の結婚願望を男子学生に紹介すると、教室中に「冬虫夏草」みたいな菌糸状のものが浮遊する。漠然とした怒りと不安めいたものだ。

 こういう学生の書いたものを何年も多数読んできて、私はこの国の晩婚化は止まらないと思ったものである。今は、まだ晩婚化で済んでいるが、これからは非婚率の上昇は必至である。就職難と結婚難が、双子になってやってくる。

 男の子は、正社員として就職できずにフリーターになれば結婚できない。結婚できないで家庭を持てないから、就労意欲が低下し、ますます離職が促進される。女の子は、正社員で就労意欲の高い、ついでに給料も高い男性を目指して、「容貌偏差値」を上げるのに余念がない。

しかし、「実用偏差値」は極めて低い。料理を作ったことがない。ご飯を炊いたことがないという女子は多い。なぜなら、女子学生の母親は「女は、結婚するといやでも家事をしなければいけないから。家にいるうちはそんなに苦労させたくない」と、娘に家事をさせないのである。

むしろ、男子学生の母親の方に「将来。息子が結婚したら、奥さんも働いている可能性が高いので、男も家事ができなければならないので、今から教えている」と語るケースが多かった。だから、男の子の方が、基本的な炊事はできるのである。

現在、大学生はとても忙しい、授業以外に専門学校に行き、アルバイトもしている。
「バイトで深夜の十二時にアパートに帰り、カップ麵を食べていて侘しくなり、就職してもこういう生活かと思うと、家に帰ったときには誰か人の気配があってほしいなと思います」

 こういうことを女子学生が書いてきたケースは一回もない。男子学生にのみ見られる、こういう生活実感からくる結婚への憧れだからこそディテールに凝った具体的なものになるのであろう。
私は、男子学生に何度も諭してきた。結婚に高望みをしてはならない、男性が女性に求める不動の条件は4K「可愛い・賢い・家庭的・軽い(体重が)」であるが、四つのKを求めていては、いつまでも結婚できない。二つあれば御の字で、三つ求めのるのは自信過剰である。

どれを捨てて、どれを残したいのか早く決めて、条件の合う人がいれば早く行動を起こすこと。しかし、それもこれも就職が決まってからの話で、フリーターの身分で4Kなどと甘い夢は持ってはならない。というよな「夢のない話」していた。

 男子学生は、「ラッパー系」と「オタク系」にはっきり分かれる。ラッパー系は、先ず髪を染めることでラッパーになる。オタク系は、髪が黒いままで、ズボンにシャツを入れ、ベルトまでしているから、大人から見ると真面目な青年に見える。が、モテない系である。

 しかし、モテる系の中には「夢は生きる」という困った学生がいる。ある大学の学生相談員から聞いたのだが、男子学生の留年の多くには、その背後に「非現実な夢」が大きくかかわっているという。たとえば、仮にドラマーとして有名になりたいと思っている学生がいるとする。企業に就職する気はなく、卒業しても、昼はドラム、夜はコンビニのバイトで生活し、いつか誰かに才能を発見してもらう日が来ることを夢見ている。

夢を追っている自分はカッコいいと思った。が、バイトで体力を消耗し、夜が遅いので、眠くて授業には出られず、単位が取れず、留年していく。親はもちろん早く卒業して堅気の仕事に就いてほしいのだが、ダラダラ留年している間に、父親がリストラされてしまう。

学費はリストラの前に銀行で借りていたので、それが父には払えなくなり、息子に働いて自分で返すように求める。こういう場合、父親が息子に一番薦めるのは自衛隊に入る事だという。「自衛隊に行け」「いや、ドラムで生きる」という応酬が続き、間に相談員が入るのである。ドラムで生活できなかったら、その場合どうするのかと、聞いてみると、「夢がダメだったらコーラの運転手になる」と、投げやりに学生は言う。

この、コーラの運転手に「でも」なるという表現に、すべての問題が凝縮されている。学生は、現実には(父親がリストラされたので)運転免許も持っていない。大型免許など論外である。コーラの運転手なら誰でもなれると思っているのである。

コーラの運転手になるのにも、厳しい選抜があり、たとえ受かっても「正社員アルバイト」という不安定な身分しか保障されないこともある。前に私は、今や大学を出ても男子はファミレスやファストフードの店長になる時代だと書いた。自分にはミュージシャンとしての才能がある、アーティストになりたいと夢を追う男は、店長になるがいやなのだ。

しかし、店長になるための就職活動すらできない男の子は、自衛隊に行くしかない。いやだ、自衛隊に行きたくないとダダをこねる学生に、それなら単位を取るために夢を捨てなさいと諭すのが大学関係者の仕事なのだ。自衛隊に入ればミュージシャンに憧れる男の子が毎日匍匐前進(ほふくぜんしん)をさせられる。

「自衛隊を辞めたい」と親に訴えても、父親は「我慢しろ。帰ってくるな」と言うだろう。自衛隊員の自殺者が増加しているが、私は背景にこういう理由があるのだろうと考えている。

 女子学生は、現在の自分の生活水準を保障してくれる男を探し、男子学生はユートピア的場所となる女探す。しかし、そんな理想の相手は何処にもいない。いやしかし、理想の相手を見つけて幸福な結婚をしている人が現にいるのではないか。自分はなぜそこから締め出されるのか。なぜ夢を追ってはいけないのか。夢を実現した一部の者への復讐の時代がこれからはじまると、私はひそかに覚悟しているのである。

「大学の大衆化」の進行に伴い、専門職、キャリア継続型のライフコースに就くのは学歴が上、中の上以上の者にしか認められない。にも拘らず、親の階層上昇の期待は、子どもが学歴達成する過程までますます強く内面化されるため、子どもたちの間で同じ階層内の友人たちと同調競争が起こる。
この同調競争は、就職と結婚の際にも最大の動機として働き、そのために就職も結婚も友人に対する衒(てら「意」自慢してひけらかす)示的行為として決定される。

 一九七九年、「共通一次」が始まった。一九六〇年以降の生まれは、小、中学生の時から受験産業のはじき出す偏差値によって序列化され、個別化されて生きる事を自明のものとして受け止めている。彼らは、自尊心と偏差値がパラレルであることを疑わない世代でもある。

 さらに、一九九〇年代に起こった世界規模における構造転換(グローバリゼーション)は「情報関連事業に従事する新しい中間層(高級官僚・専門職・科学者・技術者・多国籍企業のエグゼクティブ)」「彼らにサービスを提供する下層階級」の二極分化を生み出した。

この苛烈な新しい分業にうまく適応できない(生き甲斐を見つけられない)圧倒的たすうの青年は消極的失業者となり、心理的には「何もしたくない」「夢中になるものが何もない」気分を基底に持って生き続ける。しかも皮肉なことに、高度成長期に成人社会化を受けた右の世代は、美的性向に関して、先行世代と比較できないほどの”成熟”を遂げており、それは近代的生産者(労働者)の規範をばかげたもの、冷笑すべきものと見なす傾向を生み出す。

 同一階層内での同調競争は、同一の趣味、同一の規範システムを持たない者への暴力的なまでの「美学上の不寛容」を生み、そういう他者への情緒的接近すら自制される。「晩婚化」は、グローバリゼーションの波を大きく受け、世界的にも同調性の高い国民性を持つ日本には起こるべきして起こった現象である。そこから生き延びるのは、お金を持った男を捕まえるという個人戦あるのみである。「とりあえずお金さえあれば子育てが楽しいのは事実」(さかもと未明『ニッポンの未明』「SPA!」二〇〇三年十月二十一日号)なのだから。

小倉千加子著者、一九五二年生まれ早稲田大学院文学研究科心理学専攻博士課程修了。大阪成蹊女子短大教授・聖心大学女子大学非常勤講師。
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