女性は結婚してかにも、自分のフェチを外に追求する。芸能人の追っかけをして、夫からは生活費以外なにも求めないし、愛しているという気持すら要らないと言った主婦がいた。メシとカネの交換のみという割り切った夫婦生活で、家庭にエロスはない。結婚相手とフェチの対象への愛は両立するのだ

本表紙 結婚の条件 小倉千加子著

女性のフェチ・男性のフェチ

 女性には、それぞれ固有のフェチがある。
 私の知り合いでは、三十代の女性がこう言っていた。
「頬杖をついた時に、肘の筋肉のラインが美しい男でないとイヤ」
 その彼女が、四十歳目前で結婚した。相手の肘のラインで選んだかと尋ねたが、そのフェチは我慢したそうである。我慢したら結婚できたそうである。

「男の鎖骨フェチ」の女性もいて、鎖骨の上の窪みに石鹸が乗るくらいでないとカッコいいと思わないと言っていたのに、今付き合っているのは鎖骨がそこにあることが分からない程度の肉付きのタイプである。女性は、フェチを諦めるのではない、結婚相手にフェチを求めるのを諦めるのである。

女性は結婚してからも、自分のフェチを外に追求する。芸能人の追っかけをして、夫からは生活費以外なにも求めないし、愛しているという気持すら要らないと言った主婦がいた。メシとカネの交換のみという割り切った夫婦生活で、家庭にエロスはない。結婚相手とフェチの対象への愛は両立するのだ。

 一方、男性のフェチはこういうのはかなり違う。女性の体のある場所にフェチがあるというより、ある行為とか存在の醸し出す何かがフェチというケースが多いのである。

身体フェチという場合でもたとえば巨乳フェチの場合、それは母性の大海に身を委ねる赤ん坊に帰りたいという「物語」が必要なのではないか。巨乳だけがそこにあればいいというのではなく、その所有者との関係性が重要なのではないのだろうか(まあ、単なる物質でいいという人もいるだろうが)。

 行為フェチで言えば、ある男の子は「自分が『風邪をひいたかもしれない』と言ったら、どれどれと言っておでこに手を当てて熱があるかどうか測ってくれること」と言っていた。
「ほら」と体温計を渡されると、そういう神経の細やかでない行為は許せないそうである。そして、いつまでもそういうおでこに手を当ててくれる女性(必ず年上でないといけないらしい)を探すことをそのことは諦めないのである。

男性で妻からは気持ちも要らない、フェチは結婚の外で満たすというのは、なかなか難しいのではないかと思う。男性は芸能人の追っかけをするより愛人を作るという方にいくだろう。

関係性の中では、男性が欲求を満たされる側で、女性がそれを満たす側という非対称性があって、女性はある年齢で、もう夫の欲求に応答するのはやーめた、という時期が来るのではないか。それが結婚生活に入ってから速いか遅いかの違いだけではないかという気がする。

 「学者」対「作家」

 さて、また話が難しくなるが(恐縮です・・・・)セックスの欲望と人格を切り離すことは、それ自体で反・制度的なものである。たとえば、男が相手の合意なく人格を無視してやると強姦となって犯罪者となり、男が相手の人格を尊重していても欲望しないとEDとラベリングされてバイアグラを処方される。すなわち法律と医学で対処されるが、女がこれをすると、強姦にはならないので法律で裁かれることがないかわり、「色き〇がい」とか、「壊れてる」とか言われて「非難」される。

法律を破ると国家が定めた「罰」がくだるが、公序良俗という名の規範(文章化されていない規則)を破ると「恥」を感じるように仕向けられる。人は、「罰」より「恥」の方が恐ろしいため、多くの人は「恥」を内面化して「非難」を避けるように生きている。人が最も恐れるもの、「非難」なのだ。

中傷、軽蔑、差別、迫害、孤立。非難はさまざまな形をとる。最終的にこれに対するには、自分が内面化している「恥」を捨てるしかないのだ。自分の中から「恥」を追い出して「恥知らず」になれば、頭を上げてちゃんと生きていける。私は、最近の女性作家たちの表現に見られる、性器の俗称の連発は、「フェティッシュの交響楽」から、楽器を一つ抜き取って単独演奏する欲求、つまり「全体」としてのセックスへ回帰したいという欲望の現われだと思う。

フェティッシュとは本来、物質であり、次第に身体のパーツに向けられるようになった。感受性(理性や意志でコントロールできない)の対象であり、頭が気づく前に身体が既に知っているものなのだ。女が男をフェチで選ぶのはセックスの全体性を崩壊させ、男を物質に還元することなのだ。

 日本では、学者フェミニストは、セクシャリティをタブーにしてきた。なぜなら、大学という制度の中にいる以上、それを言う事とに自動抑止が働くからだ。フリーランスはその点自由だ。セックスの欲望に人格を、それも女だけが必ずセットにしなければいけないのはなぜか、という疑問に女性の作家たちは答えを出そうとしている。

 岩井志麻子は、「人格とセックス」のセットから人格を捨て、中村うさぎは「人格とセックス」のセックスを捨てて。アラカルトで生きる生き方もあっていい。なぜ、他ならぬ彼女たちが、疑問に答えなければならなかった。それは、彼女たちが結婚も「人格とセックス」のセットだと思い込まされ、そこで壁にぶつかり、一回壊れたからだ。

今現在フツーを目指している女の子がいたとしても、やがて気がつく人は気がつくし、つかない人は永久につかない。それでいいと思う。学者フェミニストは、日本では自身が多く結婚しているし、たとえ結婚していなくても、大学と結婚している。ただセクシャリティを扱っているだけでラディカルな学者だと自称できる時代はもう終わった。

 「うっかり・しっかり・ちゃっかり」の法則

 私たちは、恋愛しているときほど強い羞恥心に襲われるときはない。
 焼き肉を一緒に食べに行く恋人は、もうラブラブの安定期に入った恋人であるとは、よく言われることだが、大阪では、ラブラブ期にはお好み焼き屋も「行ってはいけない」。青のりが怖いからである。恋愛初期には、デート中、トイレにいくのに席を立つのも至難の業である。歯に青のりがついているかもしれない恐怖、トイレに行っても時間がかかると大の方をしていたのではないかと思われる恐怖は、自分が滑稽であったり動物的であったりしてはならないという恥の感覚から来るものである。

恥とは「親密な二者関係において、二人の力関係に大きな差があるとき、そのことによってその関係が壊れてしまうのではないかという恐怖」から来る感情である。女性は男性社会では、一般的に力関係において劣位に置かれているため、最初から強い恥の内面化し、男性の前で恥をかくことを恐れている。

男性は、女性に動物性を排除した「聖なる者」でいよという要求を出している。人間はもちろん動物であるからして、トイレにも行くし、オナラもする。動物性とは、究極のところ「排泄」と「セックス」に象徴されるものであろう。女性には、そういう現象を男性の前で見せるなと言う要求が出されており、女性はそれに応えなければ、愛というゴールの第一関門でふるい落とされる。

 それから、女性には男性と比べると「笑顔でいること」がより強く要求される。名古屋のTV局が放映するニュースを見ていたとき、男性と女性のアナウンサー・ペアのうち、女性が常に「笑顔」を作り、それが大阪や東京のTV局のニュースでの女子アナの笑顔と較べると、あまりにも過剰できわめて不自然なのに当惑した記憶がある。見ていて「作り笑顔」と分かる笑顔は、見る人に緊張感を与える。

本来、笑顔とは「幸せ」happinessと呼ばれている感情の表現されたものである。しかし、エクマンという心理学者の研究によれば、笑顔という表情は「幸せ」の表現でなく、人は対人場面で最も緊張しているときに「笑顔」をなかば自動的に作ってしまう。女性が絶えず笑っているとき、彼女は幸せどころか、緊張しているのだ。

名古屋のTV局において、女子アナは常に「冷たい視線」の中で働いているのだろう。アナウンサーに限らず、女優さんでもタレントでも、TVの中で「幸せ」の指標ではない笑顔をしている人を見ると、こちら側にまで緊張が伝播されるので不快感が起こり、自動的に私はその人が嫌いになる。

常に女性が笑顔でいなければならない仕事(デパートの総合案内所の人、エレベーター・ガール)をわざわざ設けているのは日本だけだと、何かの本で読んだが、日本人はもう、作り笑顔がサービスだと思わないくらい成熟しているのではないだろうか。

 さて、そうなると今度は「自然な笑顔」というものをつくらなければならいという新たな課題が登場する「自然な化粧」(ナチュラル・メイク)の技術に関しては、日本人女性はもはや世界一の水準に到達している。いかに素顔のままのように見せながらしっかりメイクしてあるワザの新しさは、素材の味をそのまま活かし、しかし味は微妙に確実につけてあるという日本の食文化のワザに喩えられよう。なんせ、竹ひごを細く削って虫かごを作る伝統の国である。

日本が海外で高く評価それるのは、アニメだけではない。自然なメイクをし、自然な笑顔のできる若い女性も、世界に誇れる「作品」である。

 女性に起きていることは、若手男性にも普及する。男性も、自分の身体をどんどん「作品化」させているから、両者の間で実践される恋愛では、恥を回避するためにマナーはどんどん進化する。私はこれを、伏見憲明のいう「欲情価値」が、どんどん洗練されていっているせいだと思う(氏の『ゲイという経験』は、結婚という制度のカラッポさを見抜く視点を持つためには必読の書である)。

 男女の力関係が対等になり、さらには逆転すれば、男性は女性以上に恥を内面化させ、いろいろなことに気を遣わなければならない。滑稽な事をしてしまえば、すかさずそれを自分で相対化(滑稽を滑稽視)して、恥ずかしい自分を観察するもう一人の自分(観察我)がいることを証明しなければならない。お笑いが進化しているのは、そういう恥の感覚がますます強まっているからである。

若い人たちは、親の世代よりもはるかに人間の力関係のバランスの悪さに敏感である。関係性で上にいることを自慢していると思われたくない、むしろあえて下に自分を位置付けようとする感覚こそお笑いの本質だと思うが、こういう「含羞」は大阪で発祥した文化である。TVも日常も、もはや大阪的なるものを排除しては成り立たなくなっているのである。

 恋愛センスとギャグ・センス

 恋愛上手な男とは、相手の女をタイミングよくトイレに立たせやって、それに気づかないフリをしてやり、仮に相手の女性が「排泄」に関して何らかの緊張を抱えていると察すると、わざわざ「排泄」に関するギャグを言ってまで、女性の心理負担を軽くしてやれるほどの男のことである。

さらには、「マメで噓つき」(ビートたけしの説)という重要な条件もある。たとえ疲れ果てていても、闇の向こうから恋愛刺激ボールが突然飛んでくると、素手でキャッチしてしまう能力こそ恋愛能力であろう。まあ、そこまでいけば嗜癖の一種である。

嗜癖があるからこそ、身体にも心にも悪いと分かりながら、マメに携帯メールを送り、噓をついてでも相手を喜ばせることがやめられないのである。私の友人の恋愛嗜癖の男は、職業は弁護士なのだが、裁判の最中に法廷から恋人に携帯で「愛している」メールを送っている。半分憮然とし、半分感心する話である。弁護士だからまあ許すが、裁判官ならかなり怖いものがある。

 恋愛上手な男のつく嘘というのはもちろん本当の嘘ではない。要するにチヤホヤしてやること、つまり相手が一番喜ぶツボ(相手のナルシズムの在り処)を外さず、わざとらしくなく褒めて持ち上げてやることを言う。早い話が、ヨイシヨである。

 種子のサイズのものを、大輪の花のように語るのだから、何も根も葉もない話ではない。要するに、こういう能力は、コミュニケーションにおけるスキルでありセンス(感覚)であるからして、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」で、当然職業選択にも作用するであろう。

 さて、恋愛上手な女となるとどうだろう。まずは、相手の男が女性に聖なるもの(つまり、相手の男にとっての「欲情価値」)を求めているタイプだとわかると、トイレに行っていることに気づかせないようにしてトイレに行かせなくてはならない。

 男の中には、女の部屋に行ってベランダに洗濯物が干してあるのを見るだけで、生活感に幻滅するタイプもいるから、彼が来る可能性のあるときには、絶対に洗濯物は干さない、ただし、わざとお洒落なバスタオルを、飾り物として干しているという友人もいる。生活感があってもダメだが、なさ過ぎてもダメだからである。ややこしいことだ。

生活感の全くない女――たとえば神田うのとか叶姉妹とか――を男子学生は怖がる。叶姉妹の場合、男子は特に恭子さんを怖がり、美香さんはまだストライクゾーンにかぶる。叶恭子さんは、伏見氏の言う「使用価値」のない女だからだ(伏見氏の定義する「使用価値」とは、意味が違っているかもしれないが)。

 それから、女性は会話の際、相手が面白いことを言っている(つもり)なら、つまらないギャグでもウケてやるふりをするというのは重要なお務めである。女も男のように、会話でヨイシヨしなければならないのだが、ヨイシヨする内容が男とは違う。

男は女がいかに他の女よりも優れているかという「優越の追従」をしなければならないのに対し、女のヨイシヨは、男が他の男よりいかに変わっていて個性的かという「逸脱への追従」である。男の優越というのは、自己卑下の屈折したものである。優越感だけで出来上がっている男ほど退屈なものはないからである。

 私の友人に、ギャグ・センスがメチャメチャ冴えていて、大学時代から男友達はいっぱいいても、友だち以上には進まない、つまり一次関門が突破できない女性がいる。三十代半ばになると、男たちは次々に結婚していく。彼女は、自分は友だちはあっても恋人にはなれないその理由を知りたくて、今まで何度も男たちに聞いてきたそうである。

「私には一体何が欠けているの? 絶対に傷つかないから、ホントのこと、教えて」
 彼らはゴニヨゴニヨ言うだけで、さっぱり埒が明かない。そこで、ついに彼女は質問の仕方を変えてみたのだ。
「私には一体何が余計なの?」
 堰を切ったように男友だちは話し出した。
「お前はギャグを、言い過ぎる。女は、ギャグを言わなくてもいい。男のギャグを聞いて、ウケてくれたらそれでいい。俺の嫁はそういう女だ」
 女はギャグの「受信機」でなければならないが「発信機」になってはいけない。彼女はそういう偉大な真理を、三十代半ばにしてようやく悟ったのだ。これは、男の九割に当てはまる事実であるから、真理と言っていいだろう。彼女はそれ以来、男友達にはウケ狙いの話はせず、フツーの女のように自分の弱みを見せるメールを送ってみるようにした。

彼女は唯一怖いものがあった。雷である。ある日の深夜、東京の空に雷が鳴り響き、怖くて本気で泣きそうになった彼女は、独身の男友だちに、携帯メールを打った。
「今、雷鳴っている。メッチャ怖い、すぐ来て」
「そんなことより、俺は今ウンコが出た。便秘がホンマになおった」という返事が来たそうである。彼は便秘体質であるが、男性誌には便秘対策の情報がなく、彼女から、ヨーグルトを食べろと教えてもらって成果が出た夜だったのである。

 女はギャグの「発信機」になってはいけないという男たちの暗黙の期待を一番実感しているのは、美人の女であろう。男たちから聖性を人一倍期待される美人は、少しでも滑稽系に羽目をはずすと、男に必ずこう言われる(と思う)。

「キミってイメージと違うヒトなんだね」
 これは否定的なメッセージである。がっかりしたという意味である。したがって、いつでもどこでも二のセンで振る舞わなければならないという宿命を担わされた美人は、男のイメージという鏡像に実像を合わせて、穏やかで善良なまま成長していくしかない。

 私は、大阪で電車に乗っていて、前に立っている若い男性二人がこういう会話をしているのを聞いたことがある。彼らは合コンの帰りだったらしい。
「○○ちゃんて、カワイいよなあ」
「せやけど、あいつオモロかったやん」
「そやねん・・・・」(重い沈黙)
 これも、○○ちゃんに対する否定的メッセージである。大阪ですら、オモロい女は×なのである。私は、会話に加わりたくてウズウズした。「オモロかったら、なんであかんのん? オモロい方がええやんか」と。しかし、こういうことを考えるのは、私が女だからであろう。男と女の間には、バカの壁が立ちはだかっているのである。
 つづく 女性の偏差値