離婚したいのにできないでいる人に、今までの私はなんらの思いやりの気持も持てなかったが、今ではよく分かる。離婚と退職は同じだ。そこにいる以上、ある程度の我慢さえすれば食べていけるし、なにかに所属している感覚が安心感をもたらしてくれる。そこを飛び出すのには勇気がいる。

本表紙 結婚の条件 小倉千加子著

だめんず・うぉ〜か〜「倉田真由美著」

 私は三十歳の時に大阪で短大の教員になり、四十二歳で名古屋の大学に移り、五十一歳になった二〇〇三年、その大学を辞めた。

 離婚したいのにできないでいる人に、今までの私はなんらの思いやりの気持も持てなかったが、今ではよく分かる。離婚と退職は同じだ。そこにいる以上、ある程度の我慢さえすれば食べていけるし、なにかに所属している感覚が安心感をもたらしてくれる。そこを飛び出すのには勇気がいる。

「毎月決まった日にちに給料が振り込まれないのは、こんなに心細いことなのかと思うよ」と言ったら、フリーランスのライターをしている友人たちが全員同じ言葉を返したのには感心した。

「私は、今まで心細くはなかったことなんて一度もないよ」
 私が退職すると知ると、社会人学生の主婦の人たちが、「雇用保険を貰うために、ハローワークに行って、仕事を探す振りをするんですよ」と、熱心にアドバイスしてくれた。が、そんな親切もみんなムダであった。大学教員は雇用保険に入っていないと、大学の人事課の女性が教えてくれたからである。

「こうなったら、向かいのスーパー・サントクでキャベツの皮を剥くパートをしよう」という提案も「あんたのような無愛想な人間は、面接で落ちる。それもそもそもサントクはパートを募集していない」と友人に却下されてしまった。

 で、何をしているかと言えば、毎日十五時間眠っているのである。とにかく眠く眠くて仕方がなかい。長年の疲労が一気に出てきたというのではない。要するに何もすることがないし、寝ていれば悩まないで済むし、お金も遣わない。新しい自分の状況に馴れるとき、人はボンヤリしながら馴れていくものだ。

起きると夕方なのに朝食を食べ、その三十分後には夕食を食べる。朝刊と夕刊を一緒に読む。大相撲のあるときは、一人で相撲解説を聞きながら夕食をとる。今は、阪神タイガースが首位を走っているので、阪神戦のあるときは、喜んでテレビを見ている。

 先日、阪神が巨人相手に、9回表に11点を入れて大逆転したときに嬉しくて友人に電話したら「阪神がそんなに勝つとは、もうすぐ地震が来るねんわ。明日中に水のペット・ボトルを三箱『暇つぶし』で買い込んでおきや。しかし、こんな時間に野球を見てるなんて信じられん。私なんか原稿書きで必死やのに」と驚かれてしまった。

 その頃から私は、五十歳まで組織に属する人間と、二十代でフリーの道に飛び込む人間は、何か基本的に人格のタイプが違うのではないかと考えるようになった。私のしたことは、山幸彦に代わって海に漁に行くようなものなのではないか。

 その頃からまた、私は五十歳まで一人でいて充足していられる人間と、五十歳になったときに「ああ、若いうちに結婚しておけばよかった」と後悔する人間がいることにも気づくようになった。

 しかし、結婚しても長続きする人間と、あっという間に離婚する人間がいる。この両者も、やはり人格のタイプが違うと考えるのである。
 最近は精神分析の英国学派の陰になって、あまり顧みられない自我心理学派のカレン・ホルネイだが、彼女は、離婚する人は、Aという人と結婚したから離婚したのであって、Bという人と結婚していたら離婚しなかったと言うようなことはあり得ないと書いている。
要するに、離婚する人は、誰と結婚しても離婚するのだ。それは子ども時代に決まっていると、ホルネイは書いていた。

 くらたまを分析する

「VERY」という雑誌と三浦りさ子的な生き方を、活字媒体ではっきりと「嫌いだ」と書いているのが、倉田真由美の『だめんず・うぉ〜か〜』である。

「婦人公論」のインタビューによれば、「くらたま」こと倉田真由美は、一橋大学在学中に、サッカー部のマネージャーをし、サッカー部のキャプテンを好きになった。キャプテンはルックスもよくて、運動神経抜群で、男子にも女子にもとても人気のあった人で、就職も、銀行や一流企業の内定をすんなり取れるような、男としての総合力ではダントツと言えるほどのいい人だったという。

ところが、くらたまはこのキャプテンに告白して、みごとに玉砕。で、その次に好きになった、これまた正統派のいい男にフラれ、三番目に好きになったいい男にもフラれ・・・・・。ヤケクソになったくたまは、バイト先の居酒屋で知り合った虚言癖のある男と付き合いだす。

安い居酒屋でバイトしているくせに「俺は裏で2円を動かす仕事をしているんだ」「中国マフィアに脅されてるんで、ちょっと2万円貸してくれ」なんて、大ボラばっかり吹いているヤツだった、以来、二十八歳で結婚して、二十九歳で離婚して目が覚めるまで、付き合った男と言えば、たった一人をのぞいて、みんな筋金入りのダメ男ばかり。そういう自分のダメ男遍歴に開き直って描き始めたのが『だめんず・うぉ〜か〜』である。

 ちなみに、くらたまが離婚した元ダンナは、雑学に強くて、話題も豊富。会話の受け応えも、おっ、こいつはセンスがあるって思わず感心するような男であったという。この男と結婚する直前まで、くらたまは誰もが認めるいい男の銀行マンと付き合っていて、結婚まで考えていたが、ギャグ・センスの切れ味が抜群にいい元ダンナの話の面白さにあっけなく惹かれて、いい男を振ってまでこっちと結婚。ギャグのセンスなんて、生活には何の役にも立たないのに、まったく、お前は何を考えてんだ!!

って当時の自分を殴ってやりたいですよ。と、くらたまは語っている(この話は非常に重要だと思う。「生活」の対極に「ギャグ・センスの切れ」が来るとは)。

 くらたまは『だめんず・うぉ〜か〜』(4号)の中で、女を四種類のタイプに分けている。「(男に)ぶん殴られるタイプ」「なかなか別れられないタイプ」「(男に)貢がされるタイプ」「男で失敗することはないタイプ」である。

 で、くらたまは、男で失敗することはないタイプを、「週に一度主人の診療所にお手伝いに行くのが生活のアクセントになっています」と語る歯科医師夫人に対して「尊い労働も奥様にはスパイスっ」と「ぶほー」と鼻で笑い、「古代中国、秦の始皇帝くん、今、キミを身近に感じました」と書いている。男で失敗しない女とは、計算高い女であって、男に求めるものの順位で分かるとも書いている。その順位は、
1 経済力(医者とか弁護士とかいい会社のサラリーマンとか。金持っててもホストなんかは×)
2 やさしさ(好きな事をさせてくれて好きなように金を使わせてくれる)
3 安定性(いきなり農業をやりたいとか言い出さない。ベンチャーに転職も不可)
4 学歴(ケイオーなら内部進学バカでも可。むしろ金持ちっぽいのでそっちのがいい)
5 まじめさ(浮気をしない。家庭を壊さない)

 となっており、「計算女にとって、SEX関係の要素って重要じゃないってこと」と総括し、「自然じゃないわよ」とツッコミを入れている。

 自然――くらたまにとっての自然――と思われるものは、(SEXに限局された)エロティシズムで男に惹かれることなのである。くらたまの言葉でいえば、自然に女が惹かれる男の条件は、「セックスのテクが上手い」「持続力がある」「ち○こがでかい」というようなすこぶる即物的で露悪趣味なものになる。
 しかし、性器の俗称を羞恥心なく語ることを、女性側からジェンダーを粉砕する戦略と考え、実験的にあらゆるセックスに挑戦することは、若い世代のフェミニストもやっている。くらたまは彼女たちとは違う。いや、違わなければならない。くらたまは、イデオロギーなしに、エロに惹かれる女を擁護したり応援したりする以前に、自分自身がそうならなければならない。しかし、くらたまはそれができない。そうなりきることができないのだ。

『たま先生に訊け!』という本で、くらたまは人生相談に答えるという仕事をしているが、元・女流王将林葉直子とくらたまが、同じ悩みに答える「対局てき相談」では、林葉直子の答の方が突き抜けていて、はるかに面白い。くらたまには、セックスに関する「常識的」な逡巡があり、このひとは「フツーの人」なのだと思わせる。学歴が邪魔しているのに、彼女はそれに気づかない。

息子を東大に入れたいと本気で思っているらしい。東大を出ても、一橋を出ても、いくら勉強ができても、そのことで人は自由にはなることはない。十八歳の時の頭の良さで一生は決まるのではない。三十歳の時に賢いかどうかがよほど大事なのだ。

 シロガネーゼへの欲望

 では『だめんず・うぉ〜か〜』でくらたまは何を主張しているかというと、こうなる。何をエロいと思うのかは、個人のフェチによって異なるので、他人からは趣味が悪いと思われようが、本人さえ良ければそれでよい。計算高い女が男を選ぶ基準が、すべて「結婚生活は見せてなんぼ」であることと、エロさん惹かれてだめんずに金をむしり取られる女は、決定的に違う。シロガネーゼが、子連れで買い物に行くのに、スニーカーなど履かずミュールであること、子どもを必ず高級ベビーカーに乗せているのは、道行く赤の他人をギャラリーにしているからである。

「ったく、そんっなに羨ましがらせたいかッ、赤の他人をっつ」と書いている。
「お洒落なんて男に見せなきゃ何の意味もないのにね」というセリフ(くらたまの友人ヨーコちんの合いの手)があることからすると、くらたまにとって「自然」なこととは、欲望は自分だけのものであって、他人を羨ましがらせたい。つまり「他者の欲望を自分の欲望にする」ことを止めろと言う事に尽きる。

 しかし、くらたまは、シロガネーゼが「見せてなんぼ」という格好をしていることを既に知っている。つまり、くらたまは既にシロガネーゼのファッションを見て、値踏みできてしまう女なのだ。だからこそ、くらたまはそれを見せられて、わかっているけど羨ましがってはやらないと反抗してみせるだけなのである。

自分は決してそうならないという証に「あたしは将来白金に住んでもフリース・ジャージで通すよ!」「待っていろよ 白金いつか犯してやるからな」と書いている。

 ここで、「おしゃれなんて男に見せなきゃ何の意味もない」というくらたまの本心と「フリース・ジャージで通す」というもう半分の本心と交差し、くらたまは引き裂かれるのである。男とのエロスに生きたいという気持と、女同士にしかわからない任侠を行くという気概(それがメシの種となっている)がくらたまの中にはあり、この二つの絶対に相容れないまま、くらたまはどんどん引き裂かれていく。

 くらたまは、『西原理恵子の人生一年生』(2号)の中で、本当は漫画家として才能のある西原理恵子よりもうらやましいのは「(ヨーコさんのような)若くてきゃぴっとしてて親が金持ちとかいう女の子のほうかもしれない」と答えている。女としての欠点を、二つの腕が太いとか、デブだとか書いているが、一橋大を出てしまった不幸を相殺するにはその程度の身体的欠点では弱すぎる。中途半端な美人というのも、困ったものである。西原理恵子は、くらたまに対するメッセージとしてこう書いている。

「あたしの歩いている道とあんたの道ねえ、全然違う道だから、あんたいくら走っても前に私はいないよ、気づけよ」

 完璧な助言であり、西原の精一杯の優しさが窺える見事な指摘だ。
 くらたま自身が認めているように、「そもそも(男に圧倒的に支持されている女に)むかつくのは、『本当は自分がそうなりたい』って気持が必ず少なからずあるから」である。西原はそれがない。中村うさぎにもそれがない。中村うさぎは、男を「受け入れない」と語っている。

 くらたまはフェミニストではない。むしろフェミニストなんぞを恐がる人間だ。しかし、やっていることはフェミニスト以上に制度破壊的である(つもりの)人間だ。しかし、そうなるためには、根っから壊れた人間でなければならない。男を受け入れたいと望み、なおかつ結婚に持っていく計算高い女にはなりたくないと考える女は、世の中で一番生きにくい。男を受け入れたくて、計算高さが自分の中に少しでもあると認めるのなら、結婚してしまえばいい。私はそう思う。

結婚した方がいい女というのは、子どもの時に決まっているのだ。くらたまは、シロガネーゼを批判しながら、今なら「誰もが認めるいい男の銀行マン」をためらうことなく選ぶと、「婦人公論」で語っている。

 今日の晩婚化は、「誰もが認めるいい男」を探しながら、女性たちが「自分は計算高くない」と自己暗示にかけなければならないややこしさによって生じているのである。自分の手は汚したくない。自分は、そんな女ではない。自分は無垢だ。そう思うこと自体が、女性というジェンダー・ロールの拘束である。くらたまの苦しさは日本中の女性の苦しさに通じる。だからこそ、くらたまは読者の共感をよぶのだ。

「計算高い女」への嫌悪は、自分の中にある要素を他人に投影して他人を憎むという図式となり、女性視聴者に受けるのでここ数十年ずっと繰り返されてきたものだ。自分はああではないと思わせる女とは、古くは、ロバート・レッドフォードとパーブラ・ストライサンドの『追憶』の最後のシーンで、世俗の世界で成功したロバート・レッドフォードの横に立つプラチナブロンドの美人の妻。そして「東京ラブストーリー」での有森也実の「関口さとみ」。また忘れてはならないのは「29歳のクリスマス」で柳葉敏郎の「ケンちゃん」と結婚する水野真紀。

「経済力」と「ギャング・センスの切れ」なら、どっちを選ぶかを問われても、現代日本の女性は正直な答えを出すことができない。なぜなら、結婚には経済が関わって来るから。みすみす損をするような選択はするのは、労苦を買いに行くようなものだ。それなら、結婚ではなく恋愛なら、人はどっちを選ぶだろう。純粋にエロティシズムだけで動き、経済の関与しないゲイ・コミュニティでは「容姿」という絶対的価値が存在する。「美しい」から性的欲望をかき立てるのではない。

フロイトは「性的興奮を喚起するもの」を人は「美しい」と思うのだと看破している。結婚制度が崩壊すれば、美的センスとギャグ・センスに溢れた男(女)が、だめんずどころかいい男(女)になるのだ。

 腰掛け総合職

 女性は、男性と対等な立場で仕事をし、同時に家庭を持って、夫と育児を分担し、定年までフルタイムで働く。男女共同参画社会のシナリオはこうである。その理想のモデルは、旧労働省少子化局の女性官僚たちの生き方である。彼女たちは、職場の先輩をモデルとし、多くが仕事と家庭を両立して働いている。

そういう場合には「女性が働きやすい雰囲気があったので」(当たり前であろう)「周囲の理解も得られてやってこれた」と、フェミニスト(?)の女性官僚はよく口にする。いったい、下の方はなぜに、自分たちと同じ働き方をしないのだろう、と彼女たちは、婦人行政をするにあたって怪訝に思っているのではないだろうか。

 私は、これも十年ほど前に、東京都台東区主催の女性問題のシンポジウムで、一緒にシンポジストをしていた女性弁護士と意見が対立したことがある。その女性弁護士は、聴衆の女性に向かって「子どもができても会社を辞めず、育児休業をとって、職場に復帰するんですよ」ハッパをかけていた。

「女性が自ら職場を去るから、女性の地位は向上しないんです」とも、彼女は言っていた。だがやむなく、私は言ったのだ。「職場に復帰したとき、自分の机がなくなっている人の方が多いので、弁護士の先生と自分を一緒にしてはいけませんよ」。聴衆は、ドッと笑った。弁護士の先生は怒りで顔を真っ赤にして、私を睨みつけた。

 女性の高級官僚といい、弁護士といい、学者といい、自分が「経済特区」にいるということに、なぜ気がつかないのであろうか?

「妻と同じ収入しかないが家事を半分にしてくれる男と、すごく収入があるが決して家事をしない男とだったら、どちらと結婚するか?」と、女子大生に質問してみればよい。圧倒的に、後者が選ばれる。家事をする夫にいくら心掛けがあっても、それで収入が増えるわけではない。が、夫に莫大な収入があれば、妻の家事負担はなんとでもなる。後者との結婚は、収入と家事の二つの課題をクリアしてくれる。

 私は、夫に毎月五百万の生活費を貰っている主婦を知っているが、彼女はそのお金をある芸人に入れ揚げ、パトロネスの生活をしている。夫が月に百万しか入れてくれない同じパトロネスたちからは。五百万の主婦は別格扱いされていた。百万クラスは芸能人と年に数回お食事できるだけだが、五百万クラスとなると電話一本でいつでもスターを呼びつけることができる。

家事からは免除され、夫とも家庭内別居のようなものであろうが、お金だけは出してくれて、自由な行動をさせてくれる夫ほど、有難い夫はいないかと思われる。逆に、リストラされて稼ぎもないのに「一日三回ご飯を食べる」夫を持った妻は地獄であろう。

 お金があって自由なことができる妻の典型が紹介した岡田美里である。私は岡田美里から目が離せないのだが、彼女は堺正章との結婚生活の中で、自分が父親から受けたDVのPTSDに苦しみ、そのケアを夫が十分してくれないことに不満を持っていた。

結婚当初、夫は妻と終日一緒に過ごし(要は仕事がなかったということだ)夜寝る時は、手をつないで寝たそうだ。ところが、堺正章に仕事が増えてくると、当然夫婦が一緒にいる時間が減る。それどころか、知らない人から蟹や伊勢海老(だっか?)が宅配便で送られてくる生活がイヤ気がさし、離婚してしまった。夫側に落ち度はないと業界では思われた離婚だったが、堺正章は岡田美里に慰謝料一億、子ども(二人)の養育費に月に百万を送る条件で離婚した。

その岡田美里が料理教室を開き、「料理は趣味だったころがいちばん楽しかったですね」と「STORY」で答えていたのだ。料理教室で採算が取れないにも拘わらず、岡田美里は二〇〇三年四月に友人と共同出資して広尾に店を持った。そして、それと相前後して、岡田美里は再婚もしたのだった。

 梅宮アンナという生き方

 生計を立てるための労働から免除されて、女性が自分の趣味を活かした仕事をしたいと強く望む現在の主婦のトレンドを書き続けてきたが、今やそういう生き方を凌駕する生き方が登場した。結婚して、夫の稼ぎにおんぶして、自分がしたいことをするというのではなく、仕事のない青年実業家と結婚し、妊娠・出産すると離婚するのである。

 梅宮アンナは、岡田美里と違って、一時でも主婦労働をしたことがない。ビジネスとしての結婚もなく、さっさと「中抜き」離婚をしてのけた。彼女はただ単に母親になるために結婚し、運良く女の子が出来ると、さっさと離婚した(こういう場合、運の強い人は必ず女の子を産む)。離婚後は、六人のベビー・シッターが子どもの世話をしているそうで、これこそ究極の女子学生の願望の体現であると思う。

成人式にはパパからBMWのカブリオレをプレゼントされ、パパの誕生日にケーキを焼いてあげると、パパは感極まって泣き出す(私はTVで見たのだ)、そういうパパを父に持つ一人娘が、なんで結婚して主婦労働にいそしまなくてはならないのだろう。

お金はパパが稼ぎ、子どもはお金に飽かせて育て、なんだかよく分からないが露出度の高い仕事をし、常に女の子から注目される。

 ドラ息子という言葉はあっても、ドラ娘という言葉はない。しかし、梅宮アンナは「平成のドラ娘」であり、結婚が女の労働とされてきた規範をあっという間に破ってしまった。

 夫ではなく父に依存する生き方は、少子高齢社会にどんどん増えていくであろう。岡田美里にとって堺正章があしながおじさんであるように、梅宮アンナにとって梅宮辰夫があしながおじさんなのである。結婚とは、あしながおじさんを見つけるものであり、既にあしながおじがいる女の子は、結婚する必要はなく、形だけの結婚をしてシングル・マザーになるであろう。

 総合職女性の選択

 ある日、私に一本の電話があった。某TV局が晩婚化を扱ったルポを制作するにあたって、その局の女性ディレクターが調査結果の分析について相談の乗ってほしいとかけてきた電話だった。彼女は早口でその作品のコンセプトを語り、分析の仕方にミスはないかと尋ね、私は実態をよく見据えた出来栄えだと答えたが、一通り話が終わると、彼女は自分自身の話を始めたのである。

 彼女は、いわゆるバブル世代で(一九六五〜一九六九年生まれ)、その世代の高学歴女性がみなそうであったように「なんの苦労もせずに」総合職になった。

 三十歳になるまで、仕事は遣り甲斐に満ちたものであり、無我夢中で働いてきた。しかし、三十歳になった時点で周囲を見渡せば、同期に入社した総合職女性はほとんど結婚退職しており、彼女は急に焦りだした。同時に、今までは楽しくて仕方なかった仕事が、辛くきついものに感じられるようになった。

自分で企画したものを作るのはそれなりに面白い。耐えられないのは、上から降りてきた企画で、なんの意味もなくても、仕事である以上グループで作っていかなくてはならない。結婚したい、痛切にそう思った彼女は。メル友は百人近くいても、結婚相手として相応しい男は広い範囲で周囲を見渡しても、何処にもいないことに気づく。

したいけどできない結婚、晩婚化の当事者として番組を作りたいと、彼女の中のプロ意識が芽をだした。取材の過程で、OMMG(結婚相談情報サービス会社)に行ったとき、結婚相手を探すコンピューターに自分の希望を入力してみた。大卒以上で、年収は自分と同じくらいで初婚の人――その条件に、該当者が七百人も出てきた。

「七百人ですよ、七百人!」
「ということは?」
「そうです。もっと条件を絞り込んでもまだいけるんです」
「七百人では選びきれない、と」
「いえいえ、既にすごいのがいたんです。島持ちですよ、島持ち」
「はあ? 島って?」
「南太平洋に個人で島を買ってるんです。四十八歳の男です」
「あなたは、その人と結婚して、こう言ってもらいたいんだ。『生活のことは全部僕がやるから、君はしたい仕事だけしていればいいよ』」
「そう、そう、そうです。その言葉。先生、私と結婚しましょう!」
「あのさあ、水を差すようで悪いんだけどさあ」
「はい」
「そんな金持ちの男がさ、四十八歳まで独身ということに、なんかあるとは思わないの?」
「なんかって?」
「世間には残り物には福があるって言うでしょ。私はそうは思わないの。残り物にはワケがあるんだよ。いいものは、とっくに人の物なのよ」
「う――ん。だからって十五歳上の島持ちに行かなくても」
「センセイ、今私のことを笑いましたね」
「いえ、笑っていない」
「私は真剣なんですよ」
「分かります。でも、あなたは仕事がいやだから、結婚したいんですよね。結婚によって今の生活をリセットして、したい仕事だけしていきたい」
「そうです。フリーのディレクターになりたいんです」
「仕事というのはね、いやなことも含めて、ぜ―んぶ仕事なんです。選んでする仕事では、人間は成功しない」
「そうなんですか?」
「そうですよ。中村玉緒はね、勝新太郎と結婚したとき、カツシンにこう言われたそうです。『玉緒、オレは生活のために稼ぐから、お前はしたい仕事を選んでやっていけ』。ところが、あなた、勝プロダクションは倒産するわ、カツシンは癌で死ぬわ、中村玉緒は一人でがむしゃらに働かざるを得なくなった。そうしたら、アッという間にブレイクした。

世の中とは、そういう皮肉なもんですよ。無我夢中で働いていたら、気がつくとブレイクしていた点では、中村玉緒も中村うさぎも同じです。そもそもがさ、フリーのディレクターで成功している女の人って、いるの?」
「います。二人」
「二人いると考えるか、二人しかいないと考えるかだけど」
 と、まあ、まだまだ話は続いたのだが、二人の認識が一致したのは、総合職に就いても、女は結婚相手に経済的に依存して、自分は「生活のためではなく、自己実現のための」仕事を目指す生き物だということであった。

「女は真面目に働きたいなんて思ってませんよ。しんどい仕事は男にさせて、自分は上澄みを吸って生きていこうとするんですよ。結婚と仕事と、要するにいいとこ取りですよ」と、彼女ははっきりとそう言い、私もその点に関しては全く同意見なのであった。

 これは、女性がそういう生き物であるというより、人間というものがそういうものであり、人間の中の女という位置に置かれたら男と違って楽をできる方法が許されている以上、それを使わないはずがないという、諦観にも似た認識である。

男性だって同じ立場になれば、同じことをするであろう。旧東海銀行(現UFJ銀行)が、一九九七年に三大都市圏に住む二十〜五十代の既婚男性八百人にアンケートしたところによれば、「妻が外で働き、それで生活ができる収入を稼いでいるなら、自分は主夫になりたいか」という質問に四割が「そうなりたい」と答えている。

 女だけでなく、男もあしながおじさんがほしいのだ。
 その女性ディレクターは、自分のことを「腰掛け総合職」と呼んだ。TV局のディレクターにしてもそうなのであるから、他の職業に「腰掛け」感覚が普及しているのは、避けられないことであろう。

 私のインタビューの中で結婚しても仕事を続けると答えた、いわゆる「保存派」に属する小学校教諭はこう発言していた。

「教師になって現在四年目で、結婚を前提で付き合っている人がいます。でも、結婚しても夫の収入だけでは食べられないので、仕事を続けなければならないでしょう。仕事と家庭を両立するのは大変で、どちらも中途半端になる気がします。

彼は、できれば仕事はつづけてほしいと言っていますが、私は彼の収入がもっと多ければ、仕事を辞めたいという希望はあります。家の中で、カーテンとか炬燵がけを作っているのを想像すると楽しいですね。自分は偏差値にあった大学を受けたら、それが教育大学だっただけで、教師の仕事がどんなに大変か分かりませんでした。

保護者の苦情を聞くのは辛いし、自分は緊張するタイプなので、この仕事を続けていく自信はありません。彼が、仕事を続けてほしいと言うから、辛抱しなければいけないかなと思うだけで。自分の子どもは自分が見てやりたい。家の中のこまごましたことをしているのが一番好きなんですが・・・・」

 彼女は自発的に「保存派」にいるわけではなく、彼の要望に従っていやいや「保存派」にいるにすぎない。この場合、その職に就くためにどれだけの選抜を経てきたかは、問題にならない。彼女を「腰掛け教師」と呼ぶなら、日本には今や「腰掛け医師」腰掛け記者」「腰掛け編集者」も数多くいることになる。いや、女性にとって、結婚という特典がある限り、すべての職業の人が「腰掛け性」を内在させていることになる。

女性だけではなく男性もまた、結婚によって経済的義務を相手が担ってくれたらと潜在的に考えている。日本の婚姻率が高いのは、相手に対するこういう「甘え」が二者関係の中でつねに許されてきたからであろう。

私個人は、二者関係から甘えを除くべきとはまったく思わない。日本中の父親が梅宮辰夫化している現在、労働からの逃走は避けられないと考えなければならなるまい。猫をカスタードクリームの中で溺死させるという殺し方もあるということだ。

つづく 娘の結婚は父親と国で決まる