「絶対に結婚したくない男性は?」という問いには多くが「貧乏な男」と即答した。そして、子どもが小さい時は子育てに専念するために専業主婦になり、子育てが一段落したら、趣味を活かした仕事をして、社会と繋がりたいと、答えた。自分の居場所を家庭に置くか、仕事場に置くかで、女性は二つのタイプに分けられる

 本表紙結婚の条件 小倉千加子著

女の子の二つのタイプ

「東京ラブストーリー」は一九九一年の放送である。それは、バブルがはじける直前の年でもあった。バブル時に就職した女性は、二〇〇三年現在、三十四歳から三十八歳にさしかかっている。このうち、すでに結婚している者が八割いると推計される。結局は、ほとんどがおでんを作ったのだ。リカを支持した視聴者は、結局リカのようには生きなかったのだ。

 リカ的なメンタリティに憧れながら、日本人女性は子どもができると仕事を辞めて専業主婦になっていく。「キャリア計画一時型」(一時的就労型)が十年前でも現在でも、最も一般的なライフコースである。

 私がインタビューした未婚女性たちは、結婚の必須の条件として、夫の経済力を挙げた。
「絶対に結婚したくない男性は?」という問いには多くが「貧乏な男」と即答した。そして、子どもが小さい時は子育てに専念するために専業主婦になり、子育てが一段落したら、趣味を活かした仕事をして、社会と繋がりたいと、答えた。自分の居場所を家庭に置くか、仕事場に置くかで、女性は二つのタイプに分けられる。

日本人女性は、八割が家庭こそ自分の未来の居場所だと思うのである。この日本という集団に固有のハビトゥスは、たかがドラマ一つで変わるものではない。ドラマに出会うもっと以前にその人が棲息する宇宙の中にそれは存在するのだ。

 社長になるか社長夫人になるかは、個人の人格が形成される相当早い時期に決められていると、正直言って私は思う。それはイデオロギーによっては簡単に変えられない強固な人格成分である。

 大学生の時になんの雑誌を読んでいるかで、その人の十年後の生き方はある程度想像がつく(しかし、大学生のときになんの雑誌を好むかは、もっと早い時期に決まっているのだが)。

「あなたは『non・no』派それとも『JJ』派?」こう聞いてみればよい。「non・no」派はOLになれば「MORE」派になり、「JJ」派は「CLASSY」派とか(出版社は違うが)「25ans」(ヴァンサンカン)派になる。要は、女の子は集英社か光文社系に大別できるということなのだ(私が学生に聞いた結果では、両派はほぼ同数であった)。

なかには、どちらの宇宙にも属さない少数派である「an・an」派や「with」派というのがいるが、マガジンハウス系は「人と違うことは怖くてできない」今どきの学生にはちょっときついし、講談社系は、こと女性誌に関しては集英社の亜流である。

 学生時代「JJ」派だった女の子は、結婚で階級上昇を狙う女性偏差値重視派である。
「女」として生きる覚悟が自然にできている。「non・no」派はその点、思い切りが悪いというか策略に欠けるというか、やがて「MORE」派に回収され、かなり真面目に、働くことやセックスについて考える。その中でもっとも職業志向の強い子は「COSMOPOLITAN」に流れ、さらに男女平等が当たり前と思う少数派つまり女性偏差値軽視派は「AERA」に行ったりもする。

が、「集英社系」対「光文社系」はかっての東西問題のように対立しており、世界で一番大きな対立軸をなす(もう一つの対立は南北問題だが、これは緊張感を失った対立である。「AERA」が北だとすると、南は「レタスクラブ」であろうか)。

「自分は『女』になる」と宣言した大学生に私が危惧を感じたのは、彼女がそう言っているくせに「JJ」を読んでいるふうにも見えなかったからだ。何を主張するかより、何が好きかで、より人の本質が分かる。

「JJ」が好きでもないのに「女として勝負する」と言う資格はないのだ。彼女は議論の好きな人で、インタビューが終わっても、まだ結婚問題についての話は止まらなかった。
結婚で大逆転を狙うなら、問題を論じる前に、嶋田ちあきさんの秋冬メークぐらいやっておくべきではなかろうか。あぁ、この人は結局は女としてではなく人間として生きていくのだなと、内心密かに同情した記憶がある。

 結婚に関しては、したがって目が離せないのが光文社だ。光文社は欲望に忠実である。
光文社系で育った女の子が三十代になったとき、「VERY」に行く。「VERY」は三浦りさ子さんの雑誌である。表紙が三浦りさ子さんであるだけでなく。すべてが三浦りさ子さんなのだ。

そこに秋本祐希さんと青柳姉妹がぴたっとつけているが、りさ子さんには及ばない。なんと言っても、設楽りさ子さんは三浦りさ子さんになった日にこれ以上お洒落なものはないと言うようなウェディング・ドレスを着てパレードまでした人だ。

「VERY」のコンセプトは、「結婚しても現役」だ。「ママになっても社交服」だ。別名「コンサバだけどカジュアル」だ。りさ子さんは、第二子を出産して、わずか一ヶ月で「お仕事」に復帰している。それも九時五時の仕事ではない。りさ子さん御用達の品を読者に伝達するという「表現の仕事」である。「VERY」には達人読者がいて、通販で購入した日常着を紹介するページもある。

子どもが小さくて外出する時間がないころに通販で購入したシンプルな黒アイテムは、子育てで汚れても分からないという実用性を持つ。黒アイテムを身につける読者はママクロ派と呼ばれるが、子育てと社交を切り離さない「VERY」のコンセプトが活かされている。

 白金や二子玉川や芦屋に住み、夫の金で消費と社交に明け暮れる三十代前半の「VERY」なママは、男女雇用均等法第一世代の後続世代である。女は男と対等なのではなく、女だからこそ働かなくても食べていける特権を与えられているのだ。それを「VERY」な主婦は選んだのだ。女が女の資源を使って何が悪い、という声が聞こえてくるようだ。

 子育てより優先されるべき仕事を持ち、子どもが小さいときにも働きつづける女性たちや、その反対に子どもが小さくても家系補助のために子どもを保育所に預けてパートで働かねばならない階層の主婦たちは、「VERY」の誌面から見事に抹殺されている。前者は、ママであることを拒否して、夫の扶養を必要としない存在だから、後者はママであることすらできない存在だから。保育所が足りないから子どもが産めないと国に文句を言う母親たちを、「VERY」な主婦は理解しがたいだろう。

結婚によって階層上昇できなかった女性に対し、「VERY」な主婦マリー・アントワネットのように言うだろう。子育て中は子育てに専念し、おまけに社交も怠らないでいられるような結婚を何故しなかったの、それ以外に女にどんなけっこんがあるの、と。

「VERY」な生き方

 私は「恋愛」という言葉を信じない。いや、たとえば女子学生が「私は恋愛の延長線上に結婚をおきたい」などと言っても、その「恋愛」の意味するところのものが何であるか確認してからではないと、彼女の会話は安易に始めたくないという一種の警戒心のようなものを持っているのである。まったく「恋愛」ほど定義の曖昧なものはない。

 最近はなくなってしまったCMだが、一時「チャーミー・グリーンのような夫婦になりたい」という学生がたくさんいて、辟易したことがある。老婦人になっても腕を組んで(まさか踊りではあるまいが)道を歩きたいというのである。私は、年を取れば足元がおぼつかなくから、互いに腕を組んで転倒を防止しようという気持ちはわかる。が、「チャーミー・グリーンのような夫婦」という意味はもちろんそんなものではない。

飛躍しすぎて簡単には分かって貰えないだろうことを覚悟の上で言えば、チャーミー・グリーンのCFに出て来るような夫婦に憧れる気持と、オーストリア人と結婚して夫と家事を分担しながら青い目の双子をもちろんオーストリアで育てたいという気持ち、たとえ相手が日本人で結婚したら二人の子どものほかにヨークシャテリアとチワワを飼って、週末には犬二匹を入れて六人の家族でドライブに行きたいという気持ちはみんな同じ根っこから生えた花であって、花を一輪ずつ分析しても無駄だという気がする。

根こそぎ引っこ抜かなくては何も分からない。何もというのは、戦後日本の女性の意識のことで、私は手を変え品を替えこの巨大な根っこと格闘しているからであるが、何もそんなことをしたくてしているわけではない。私の職業が大学教員で、職業上のクライアントがそういう方々なので、クライアントのニーズを知っておかなければ職業が成り立たないからやむを得ずしているだけで、いわば義務のようなものである。

この義務を怠ると、講義は私語の嵐となるか、黙殺(携帯に没頭されるか、お眠りになるかノートに漫画を描かれるか)されるかするかで、教員の精神衛生上、正攻法でいくしかないのである。正攻法とは、クライアントに対してクライアント自身の欲望について、説明する言葉を与え、さらにそれがどうやって作られてきたかまで解釈する論理を紹介するにとどめることである。いわば講義を通してのクライアント中心療法であり、けっしてこちら側の価値観を押し付けてはいけない。

「ジェンダー論」という講義はまだいいが、「フェミニズム概論」という講義はイズムすなわちイデオロギーを講じるものであるから、どうしても「〜すべきである」という物言いになる。これはフェミニストの教員の陥りやすい安易な啓蒙教育と言うべきもので、私は今では、啓蒙されるべき教員の方であるとさえ思っている。

学生は十八歳や十九歳でも、無意識のレベルでは教員以上に現実の困難さを知っている。無意識に言葉を与え、それが「腑に落ちる」なら学生の意識はそのことを前から知っていたのであって、ただ意識化していなかっただけなのである。学生の意識の量を増やすこと以外に文系学部の教員のする仕事があるとは思えない。「〜すべきである」という物言わずに、学生自身に「〜はしたくないと思っていた自分は間違っていなかったんだ」と自信を持たせることができれば御の字であって、それ以上の仕事を社会科学系の教員に求めるのは酷である。

 教員は分からず、学生たちの多くが分かっている現実の困難さを一応言っておくと、それは「人生には夢中になれることが何もない」という意識である。大学の四年間に夢中になれることを見つけたいと多くが口にするが、みつけられる者は圧倒的に少ない。

「人生には何も起こらない、何も始まらない、永遠にこの退屈がつづくのだ。あぁ、五分後に戦争が始まってくれれば」と出席カードに書いた女子学生がいた。もちろん、村上龍の『五分後の世界』の読者だった。大学生の人生にも何も起こらなくなってしまった責任は言うまでもなく大人にある。戦後、日本人が求めてきた「平和と安定」が、大学生には安定しすぎて今更どうやったって変わらない「不動の状況」という重石になり、深い絶望感を生み出している。

 就職難と結婚難

 名古屋市の私立高校の教員組合に、ジェンダーについての講義をしてほしいと依頼されて、無理をして先日行って見た。

 なぜか行った方がよいかという閃きがあったからだ。案の定自分が話したあとで聴衆の教員の人たちから多くのことを教えてもらって帰ってきた。今、高卒者の就職は厳しい。その辺の現場の話が知りたかったからである。

 私は新聞で報道されている今年の就職率という数字をそもそもあまり信じていない(同じく失業率という数値もだ)。
 就職率とは、就職希望者を分母とし、就職内定者を分子として出された数値だが、この数値を上げようと思えば早い話が分母を小さくすればいいのだ。すなわち就職志願者という定義を就職熱望者、たとえば就職試験を受けては落ち受けては落ちしながら、それでも諦めずに就職課を熱心に訪れるような学生だけを就職志願者と定義すればよい。

すると就職試験を一回落ちただけで、もう就職活動をする気がなくなって、フリーターでいいやと諦めている連中は、就職志願者としてカウントされなくなる。そうなると就職率は自動的に高くなる。
(言っておくが、私はフリーターすべてを、就職活動に嫌気がさした者と捉えているわけでは、もちろんない。「確信犯フリーター」すなわち、つまらない企業に就職して一生を決められるのは嫌で、自分の可能性を試すために無職でいたいという「大欲は無欲に似たり」という野心満々の高学校歴フリーターの気持も痛いほど分かる。一方で、就職が無理だという現実があるから、在学中に自分の希望を現実に合わせて削り落とし、卒業したら「フリーターになりたい」という「疑似自発的フリーター」になる女子大生の気持ちが分かると心が痛い)。

 さて、公立高校の現場で就職の実態はどうなっているのか、私が一番知りたかったのは、就職難という事実は文字通りの真実か、それとも高校生が、就職先を選びさえすれば就職は可能だが、就職先を選ぶために「希望の職種」に就けない就職難なのかということであった。

高校の先生たちは、「生徒が選んでいるのから就職が決まらないということは考えたことがなかったが、言われてみれば確かに生徒は選んでいるから就職が決まらないのでしょう」と首を傾けながら答えたのである。

「じゃ、結婚と一緒ですね」
 就職と結婚は同じである。究極のところ、選ぶことを辞めればできるが、無意識のレベルで選んでいるから就職も結婚もできないのである。
「生徒が望む職種は?」
「事務職です、デスクワーク。それが見つからないんです」
「生徒は選ばないというか、無意識で排除している職種は?」
「現業です」
「現業ってなんですか?」
「工場で働くことです」
「現業の名前の由来は?」
「‥‥多分、現場作業・・・・」
「それは、生徒が嫌がるんですね?」
「いや、私たちも勧めたくはないです」
 その時、定時制高校の女の先生が、こう言った。
「定時制の生徒は、親を見て知っているんです。とにかく仕事に就かなければ保険もない。何でもいいから、仕事に就くだという覚悟ができます。私は毎日生徒に、『現業に行け、理容・美容師になれ』と交互に言っています。

本人の適正なんか言ってられません。とにかくフリーターにならずに、現業か、理容・美容師になれと。一体、私の仕事は何なんだろうと毎日思います」

 現業という言葉はじめて聞いたが、現業を敬遠し、ホワイト・カラーになりたいという高校生の欲求を誰が責められようか? それでも、切羽詰まった生徒は、現業に就いていくのだ。

 結婚相手を求める条件として、ほぼ全員の女子学生が「経済力」を挙げる気持を、私はどこかで不快に思っていた。しかし、短大も含めて大学生女子の抱く、結婚による「階層上昇」志向あるいは現在の「階層維持」志向を誰が責められようか? なぜ自分で働いて自立し、結婚に経済を絡ませないようにしようとしないのかという叱咤は、現実の困難に早くから順応し、「不動の状況」を自力で変えようなどと馬鹿な事を考えない平均的な女子学生の絶望感の前では蟷螂(とうろう)の斧のようなものである。

「夢中にかられることを見つけたい」という女子学生の常套句は、教員であり女性でありフェミニストである私には長い間のしかかり身動きをとれなくする重石であった。やがて分かってきたのは、彼女たちは自分が何者であり、何ができるのか、自分の唯一無比の個性というものを見つけることができず、ただみなと同じように振る舞ってけっして集団から浮かず、なおかつ親の期待に応えられる程度には受験勉強や就職活動をしなければならず、暗い将来しか見えないこの国でなんとか生きていかねばせらないという諦めを若くして十分抱えているということである。

 尊敬する人物はと聞かれて「両親」と答える学生たちに、普通尊敬する人物には誰でも知っている歴史上の有名人とかを答えるべきであって、質問した人も知らない自分の両親と答えるのは質問者に失礼だと、就職活動に行く学生に注意していた時期が私にはあった。

今にして思えば、彼女たちは本気で両親を尊敬していたのである。今まで何不自由なく自分を育ててくれた親のように、自分が子どもを持った時に果たしてなれるかどうかという不安がどこかにあるのである。今の階層の維持は、彼女たちにとって至上の課題であり、その一番有力な方略が結婚なのである。

しかし結婚は、何処に住むか、どんな家に住むのか、子どもをどう育てるのかという「冒険」性にみちたものであり、夢中になれる決断を多々秘めたものであり、彼女たちがこの誘惑に勝てることは到底思えないのである。

 ロマンティック・ラブの復活

 男の子が癒し系を求めて、井川遥やモー娘。に行くのに対し、女の子は男の子を癒す役割を果たすことはもはやできない。母のように自分を犠牲にして家族の情動のガソリンスタンドになることは、今の大学生にはできない。彼女たちもまた癒しを欲しているからである。

女の子にとっての癒しは、浜崎あゆみであったり、GLAYであったり、はたまた屋久島の縄文杉であったりもする。何か生命力をチャージしてくれるものがなければ、彼女たちは自分では立ってはいられない。「それでもいいのよ。どんなときでも君を見ているよ」と絶えず語り掛けてくれる他者がいなければ、彼女たちは生きられない。そこには絶対者への帰依のようなものが感じられる。

 だから、優しい言葉をかけられ、安心感が得られて、はじめて心を許して自分を委ねられる相手と出会うと、それを「恋愛」だと思い込む学生がいる。癒しを求めている人たちは、相手と気持が通じ合ったり、気持ちを落ち着かせてくれる魂のふれあいによって、自分でも気づかない喪失感さえ満たされていき、それが永遠に続くことを欲している。自分でも気づかない喪失感とは、親によって与えられた傷である。女子学生は親を尊敬しながら、尊敬されるがゆえに親が持つ特権と独善による支配によって例外なく傷つけられている。

母との間に葛藤のない娘は存在しないと言ってもよい。母によってつけられた傷を癒すという意味において、こういう「恋愛」は本質的に女性化された愛情を備えている。つまり、相手は男性であって、男性ではない。男性的なフェロモンに惹かれてではなく、親子のような情緒的温もりをもった癒し系の相手との間の「恋愛」を、ロマンティック・ラブという。

 ロマンティック・ラブの対極にあるのは、スタンダールの言う「情熱恋愛」(アムール・パッシオン)である。情熱恋愛は、強く振った瓶からサイダーがほとばしり出るように、人々を日常性から開放する。どんな時にも相手のことが頭から離れず、おかげで日々の義務を遂行することが困難になり、性的にも相手に熱中する。ロマンティック・ラブにおいても、「一目惚れ」というケースはままあるが、情熱恋愛は、性的・エロス的脅迫衝動と結びついており、ロマンティック・ラブはそこに一定の良識というか抑圧する意志を備えている。

ロマンティック・ラブにおける「一目惚れ」とは、相手の人柄への直観的把握であり、この人は私の人生を申し分のないものにしてくれるという瞬時の選別のことである。もっと簡単に言えば、ロマンティック・ラブとは、相手の「人柄」(教養・地位・財産の醸し出すものを言っておく)に惹かれ愛であり、情熱恋愛とは、相手の「顔」に「VERY」な奥様は、ロマンティック・ラブを恋愛だと思って結婚しているように、私には見える。

情熱恋愛は、ひととき激しく燃えて、やがて消える。その喪失感はどちらかを、あるいは両方を打ちのめす危険性を持つ。情熱恋愛に自分を賭けるには、女性の側にある程度の自我の強さが必要であり、そんな強さを近代以降女性が持てた時代は、七〇年代だけだったように思う。以後、女性はなし崩しに弱く狡くなっていった。

 ロマンティック・ラブは、男女相互に義務を課し、制度によって互いを永続的に縛り付けてくれる。一方で、女性は家庭において夫に隷属し、外部からの感情的交流から隔離されていく。許容されるのは、女性同士の友情だけで、それを「VERY」では「社交」と呼ぶ。

「VERY」な妻や三浦りさ子への憧れは、結婚制度が妻の隷属ではなく喜びであり、その証拠に三十代で子どもがいる主婦が、まるで主婦主婦しておらず、いつまでも若く美しくいかにも幸せそうであり、女の「現役感」を失っていないように見えるからである。私は結婚制度は妻の隷属であると書いたが、「VERY」な主婦が隷属意識を持っているとは思わないし、私も彼女たちが隷属者であるとは露ほども思っていない。

女性の性的開放と自立を求めるフェミズムに拒否感を持つ二十代女性に向けて、やっぱり結婚はいいと思わせる効果に関して、「VERY」以上の雑誌はない。女性が「主体的「に結婚に入っていくようにするには実に見事な媒体だと感心する。少子化対策に、日本中の未婚女性に政府は「VERY」を無料で配布したらどうかと思う。共働きして、ジェンダー・フリーな生き方を薦めるより、時代の気分にずっとマッチしていると思うのだが。

「VERY」から「STORY」へ

 親からお見合いの話を持ち込まれると、断固としてそれを撥ねつける未婚女性は多数いる。「もう、放っておいてよ。結婚なんかする気がない」と言いながら、いよいよあとがない四十歳を目前にすると、結婚しなくてはと焦り出し、親に内緒で結婚情報サービス会社に登録する女性が結構存在するという。

親に対してさえ(親だからこそ言うべきか)本心を明かさない女性たちは、最終的には意図的な出会いを求めて、重い腰を上げるのである。そうなるまで、女性たちにとっての金科玉条とも言うべき出会いは「自然な出会い」である。

偶然によって出会って、恋愛感情が芽生えて結婚する。そういう、自分の意志が介在しないのみならず、結婚を目的としていると周囲から思われないようにして、「自然」に身を任せて結婚に辿り着かなければならないから、なかなか結婚は実現しない。

 主人公たちが恋に陥るのに先立って「自然な出会い」を創作しなければならないTVドラマの脚本家は大変である。今まで私が見た中で、究極の「自然な出会い」というか、こんなことがホントにあるわけないだろうと苦笑させられたのは、「恋愛の神様」北川悦史子さんの「愛して言ってくれ」における常盤貴子と豊川悦司の出会いである。

常盤貴子さんが渋谷の町の裏通りで林檎の木に一つ赤いリンゴがなっているのを見つける。彼女は必死でジャンプしてその林檎を取ろうとするが、手が届かない。そこにたまたま通りがかった豊川悦司が、長身を利して優しくその林檎をもいで、常盤に手渡すと、黙って去っていく。その男の姿を、井の頭公園で常盤が偶然に目にする、というものだ。

何でもはじまりが肝腎なのは認めるが、こういう出会いは待っていても普通は訪れない。しかし自分から積極的に出会いを求めるのではなく、神様が自分の上に誰かとの出会いをプレゼントしてくれると思うのは、贅沢と安楽に馴れた今どきの若者の性癖かもしれない。

「恋愛の鉄人」と周囲の誰もが認める人は、天からプレゼントが落ちてくるのを漫然と待っていたりはしない。あらゆる場所で、あらゆる人を密かに観察し、意図的と思われないようなやり方で近づき、そして相手を「落とす」のである。そういう意味では、恋愛は強姦と似ていると言えなくもない。

強姦は衝動的に起こる犯罪ではなく、周到に準備されて起こる。どちらも狙いやすい相手を物色してから、失敗しないように念入りに仕掛けられて起こる。恋愛はそういう意味では、確かに一種の才能である。世の中には恋愛の才能のある人とない人がいるのだ。

そして才能のない人にとっての最大の夢が「自然な出会い」なのであるが、才能のない者同士の間には、いつまで待っても恋愛は発生しない。

 つづく お見合いとロマンティック・ラブ