東京で起こることは全国で起こる

本表紙結婚の条件 小倉千加子
 十年ほど前、鳥取県の大山の麓にある村に講演に呼ばれたことがある。青年団の主催であった。以前は二十世紀ナシを栽培していた村の農家は、多くが牧場経営に変わり、広大な牧場で観光客向けのジンギスカン・テラスを経営する家も多いと聞いた。講演が終わったあとで、青年団長は、自分は違うがと前置きして、村の青年たちの結婚難を語り、私に、大阪の女子大生にこの村にお嫁に来てくれるように勧めてみてくれないかと真顔で訴えた。

紹介がうまくいって結婚に漕ぎ着けると、村から紹介者に十万円、お嫁に来た本人には五十万円が出ると言うのだ。大阪に戻った私は、勤務先の短大で、早速学生たちに「大山の花嫁」になる気はないかと尋ねてみた。村の青年団からは、結婚に当たって女性たちに二つのことは必ず保障しますからと言われていた。それは、家業である牧場の仕事は奥さんには決してさせないこと、親とは別居であることの二点だった。

 しかし、大阪の学生たちは誰一人大山に興味を示さなかった。それどころか、「大山の花嫁」になることを全員がきっぱり拒否したのである。「五十万貰えるくらいで、人生を棒に振りたくないワ、な」と学生は言ったのだ。「何が不満なの?」私は聞いてみた。

学生たちの理由は共通していた。第一に、自営業者と結婚すれば、「一日に三回もご飯を食べに夫が帰ってくるのがいや」。第二に、「いくら親とは別居といっても、窓を開ければ向こうの親の家が見えるような生活はいや」。第三に、「いくら家の仕事をしなくていいといっても、忙しい時には手伝わざるをえなくなるのが見えているからいや」。手伝う家業で「日に焼けるのがいや!」と吐き捨てるように答えた学生もいた。朝になったら夫が会社に行って、同じ敷地に夫の家がなくて、完全に専業主婦の生活を保証されることに、なぜそんなに固執するのかと尋ねると、これまた全員が同じ言葉で回答したのである。

「自分の時間が持ちたいから!」「自分の時間って、何をするのに使うの?」答えは即返ってきた。
「友だちに電話する」「将来、自分が何になるか考える」。「将来」という言葉に、私は少し驚いた。結婚して、子どもがいて、その子どもの手が離れたときに、自分の「将来」の人生があると学生たちは考えていたのだ。

「何かなるって、もう結婚した時点では、何かなっているじゃない」「そんなん本当になりたいのとは違うよ、センセ」。学生たちは醒めていた。その時、私は、日本ではこれから結婚難の時代が必ず来ることが分かったのだ。

 あれから十年、大阪の学生の意識は日本中に広がっていった。当時二十歳前だった学生たちは、今三十歳前になっている。大阪で二十代後半の女性の未婚率は五十%を超えている。彼女たちの半数以上がまだ結婚していないはずだ、今日の晩婚化の兆しは、十年前「大山の花嫁」を嫌悪した大阪の女子短大生の中に既に見出されたものだ。

 すべての鍵は、「結婚」が握っている

 晩婚化の傾向は止まらず、日本は少子化に喘いでいる。「結婚しても、自分の時間が持ちたい」という表現に込められた若い女性の心の中にあるブラック・ホールが理解できなければ、少子化対策は立てられない。結婚するなら見合い結婚でなく恋愛結婚がいいという答えが圧倒的だからといって、恋愛と結婚を混同してはいけない。大阪の短大生は一九八五年頃から「結婚と恋愛は別」と明確に主張していた。

 恋愛と結婚が同じだと思うのは「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」に染まっている古いタイプの人だ。結婚相手に求める条件と恋人に求める条件は違う。それなら条件を選べる見合いで相手を探せばいいじゃないかという意見は、あまりに鈍感で女心を知らなさすぎる。見合いしてまで結婚するなどということは、つまり目的的に結婚することなど、プライドが邪魔してできないのだ。恋愛結婚のような「自然な出会い」で結婚に辿り着きたい。しかし、恋愛と結婚は別だという未婚女性の結婚願望の三次方程式が分からなければ、有効な少子化対策は立てられない。

 残念なことに、この国の少子化対応施策は、ことごとくツボを外している。税金の無駄遣いだとはっきり言っていいと思う。結婚は奥の深い微妙でデリケートな現象だ。そこには、人間の欲望とコンプレックスが渦巻いている。あまりに屈折しているので、一筋縄ではいかない現象だ。しかし、内閣府は二〇〇一年、小泉総理じきじきの指示で、少子化対策に乗り出した。あからさまな「産めよ増やせよ」ではないが、内心はひたすらそれを目指す恥ずかしいフォーラムが毎年開催されることになる。虚しい結果に終わるだろう。

また、保育所待機児童ゼロ作戦などという政策(保育所設置の条件緩和等)が、既婚女性向けに始められている。しかし、少子化の最大の原因は、子どもを産む妊孕(にんよう)性の高い世代の女性が晩婚化によって、結婚を逡巡しているからで、当の未婚女性問題には関心がない。

「保育所の数が足りないから未婚女性は子どもを産みたくないと思っていると思うか?」と女子学生に問うと、全員が一笑に付す。保育所が充足していようと不足していようと、そんなことは女性が最初の子どもを産むかどうか決めるのに何の関係もない。しかし、未婚者が結婚をためらう気持と既婚者が子どもをこれ以上産みたくないという気持には通奏低音がある。

 すべての鍵は、「結婚」が握っている。幸福な結婚でなければ結婚も子育てもしない方がましなのだ。「不幸な結婚生活」ほど恐るべきものはない。「超お金持ちのブタ男と、超かっこいい貧乏男とだったら?」という質問には、全員が「そこそこ男」と答える。結婚に対して、女性は冷静なチョイスをし、選択は画一化している。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のと一緒で、みんなで結婚を先延ばしにし、ポーカーで言えば、何度もチエンジしていいカードを持ちつづけ、その結果、ひたひたと少子化が進行している。

 少子化の国際比較

 国は、人口推計というものを発表している。出生率を推定して、そこから将来人口を予測するのである。が、その予測数値は一九九〇年代半ばから、どんどん実態と外れていく、実態は、国の予測を無視してどんどん変化していっているというべきか。平成十五年現在一億二七六一万人の日本の総人口は、五十年後には一億を割り込み、しかも、人口に占める老人(六十五歳以上)の人口比は四割になる。現在はまだ高齢化ではイタリアがトップにいるが、今後日本が世界最高の、いや人類史上未曾有の高齢国になるのは必至である。

 現在、日本の合計特殊出生率は、1・32である。合計特殊出生率は、十五歳から四十九歳までの女性が一年間に生んだ年齢別子ども数を分子に、女性の年齢別人口を分母にして割り、これを年齢について足しあげた数字である。

 十五歳で子どもを産んでいいのかという議論や四十九歳で子どもを産めるのかという疑問は、この際棚上げにおかねければならない。なぜなら、今までずっとこの公式で算出してきたため、算出方法を変えると、今までとの比較ができなくなるのである。この合計特殊出生率は、二〇四九年には、1・10になると予測されている。が、もちろんこの数字すらも、実態を楽観的に見すぎだ行政統計の数字となるかもしれない。

 出生率が下がっている国、いわゆる少子化の国は、何も日本だけではない。お隣の韓国も台湾もそしてシンガポールも少子化なのである。ヨーロッパでは、スペイン、ポルトガル、イタリアといった南欧、それからドイツが少子化に直面している。逆に、少子化に歯止めがかかった国としては、イギリス、フランス、北欧、それにアメリカが挙げられる。

 日本の特徴は、少子化と高齢化のスピードが猛烈であることだ。国立社会保障・人口問題研究所は、二〇〇一年の社会保障審議会第二回人口部会の席上、こう率直に語っている。

「一体、どこまで下がるんだとか、どこかで歯止めがかかるのか、歯止めがかかる条件は何かという事は全く未知の世界なんですね。今まで人類の経験のない世界ですから」

行政の研究機関のトップにして、少子化の原因も対策もお手上げの状態なのである。阿藤所長は人口推計などの統計の専門家であって、結婚問題の専門家ではない。ましてや、未婚女性の心のブラック・ホールなど、研究せよと要求する方が間違っているのであろう。

 しかし、出生率を国別に、あるいは国内で都道府県別に比較してみると、興味深いことが浮かび上がってくる。現在、世界で最も合計特殊出生率の低い国を順に挙げると、イタリア(1・15)、ドイツ(1.24)、そして日本(1.32)となる。これは、どこかで聞いた組み合わせではないか。

 そう、第二次大戦の枢軸国三国である。かつてファシズムの国家体制によって、遅れていた近代化を一気に推し進めようとし、結果的に連合国に敗北した三カ国が、戦後五十年経って少子化に見舞われているのである。

少子化は、政治における何らかの問題の予期せぬ結果だと考えるのが妥当である。日・独、伊は、戦前から女性に母性と主婦性を強要する国でもあった。その国で、女たちは結婚することと母になることに静かに反乱を始めているのだ。

 日本は世界一の晩婚国

 日本では、現在二十代後半(二十五〜二十九歳)の、実に五四%が未婚である。一九七〇年には、同じ年齢の女性は、八二%が結婚していた。一九七五年にも、七九%が結婚していた。昭和一六年から二六年生まれの女性に対して、二十五歳で結婚しないでいることには、強い圧力がかかったのである。いわゆる「女性はクリスマス・ケーキ」説が存在し、二十四歳で売ればいいが、二十五歳だと売れ残りと言われたものである。

 それが今では、30代前半(三十〜三十四歳)の女性でも、二七%が未婚である。四人に一人が独身なのだ。三十歳や三十一歳での結婚も、決して遅いとは言われなくなった。女性は「クリスマス・ケーキ」から「晦日そば」に変わったと言われる所以である。

 平均初婚年齢という数字がある。女性の場合、これが一九七〇年にも、一九七五年にも二十四歳であったが、今や二十七・二歳に上昇している。この数字は、スウェーデン、デンマークに次いで第三位である。ただし、北欧の国は非婚率が高く、カップルは同棲したまま婚姻届出を出さずに子どもを産むことが多い。

スウェーデンでは、生まれてくる子どもの五五%が、デンマークでも四七%が婚外子である。この二つの国では二十代前半の女性の同棲率が四〇%に達していることから、婚姻届出を出す年齢は有配年齢と一致していない(ちなみに日本の二十代前半の同棲率は七・五%であり、しかもそれは「かつて同棲した経験があるか」という質問への回答である。現在同棲を継続している未婚男女は、最も多い二十五〜二十九歳でも三%足らずである)

 日本は「できちゃった婚」という変わった結婚制度のある国である。婚外子が二〇〇〇年時点で一・七%しかいない日本は。交際中の男性が女性の妊娠の責任を結婚という形で果たす律儀な国であるということもできるし、「結婚の中でしか子どもを生んではいけない」という強迫観念のきわめて強い国であるとも言えよう。

 結婚の中で子どもを産む、同棲率が極めて低いという日本の特徴を考えるならば、未婚であることは文字通りの独身であることを意味する。そうなると、日本の平均初婚年齢の高さは世界第三位ではなく、実質世界一位の高齢結婚国と受け止めてもよいと思われる。晩婚化ゆえに、出産のタイミングが遅れているのである。

第一子の平均出産年齢(とにかく何でもかんでも国民のプライバーを管理している国なのだ、日本は)は、二〇〇一年現在二十八・二歳と、晩婚化の道をひた走っている。ついでに言うと、合計特殊出生率にカウントされない五十歳以上の出産は二〇〇〇年に六件報告されている。四十代での初産も激増しており、女性ホルモン補充療法をしつづければ、六十歳で出産することも可能であるという。

平均出産年齢が、二十八・二歳だからといって、産科にいる妊婦の年齢で一番多いのが二十八歳の人と思い込むのは、平均値のトリックである。今、産科に行けば「ものすごく若い妊婦」と「ものすごく年のいった妊婦」二極化が起こっている。両者を足して平均値を出すと二十八歳になるというだけで、数字に騙されてはいけない。十代のママがいて、「フツーの年齢のママ」は、探してもあまりいないというのが、特に都会での実態である。

 要するに、出産可能から言えば、四十歳までに結婚すればまだ母になれるために、以前のように三十歳直前の「駆け込み結婚」はなくなっていきつつある。駆け込み結婚年齢は、十年も延長し、四十歳直前にやっと未婚女性は切迫と焦燥を感じるのである。

そして、焦った中の何割かは結婚するが、残りは独身のまま五十歳時点での未婚者すなわち「生産未婚者」に参入していく(五十歳の未婚者を「生産未婚者」と命名しているのは、もちろん政府である。国は、五十歳を過ぎた者には恋愛に関して「もはや何も起こらない」と定義している。エロスの賞味期限を国は五十五歳と決めているのだ。こういう国の定義自体が実態に追いついて行かない場合は、一体誰が責任をとるのであろうか。国民を代表して、ここは渡辺淳一先生にでも怒ってもらいたいものである)。

 さて、女性の事ばり書いてきたが、女性が未婚であるということは男性も未婚であるという事であり、男性の場合三十代前半の未婚率は四三%に達している。三十代後半でも二六%が未婚であり、五十歳の男性の一割以上が未婚のままである。今後、生涯未婚者が増加の一途をたどるのは不可避であり、日本は晩婚化国あるいは少子高齢国というより、将来は非婚国に移行していくのである。

 東京で起こっていること

 一九九五年時点で、東京都に限っていえば。女性の生涯未婚率は九・七四%に達している(ちなみに全国平均では、五・八%である)

 東京都は「日本全体の先行資料」(高橋重郷・国立社会保障・人口動向研究部長)なのである。二十代後半の未婚率は全国平均では五四%であると先ほども記したが、東京都ではこの数字は六十五%を記録し、三十代前半の未婚率も三八%(全国平均では二八%)まで上昇している。東京は「シングルの都」なのだ。

 東京都は、平均初婚年齢も二十九・二二歳で、日本一である。ちなみに、逆に最も早婚なのは福井県であり、以下福島、山形、島根、三重、香川と続いている。ついでに言うと、福井市は、夫婦共働き率日本一でもある。これはなにも福井市民が男女平等意識に富んでいるからでもなく、俗に「一人では食べられないが二人口は食べられる」というように、いまだ結婚が生活手段であることを意味する。

福井市では、結婚して妻が家にいると「あそこの嫁は怠け者」と後ろ指を指されると、福井市民から聞いたことがあるが、福井で結婚すると、女性は家の外でも内でも働かなければならず、有償無償の実働時間の長さは日本一である(福井では男性の家事参加意識が極めて低い)

 結婚の早さは、所得の低さや教育歴の短さと相関している。女性の場合、実際に初婚年齢は、中卒・高卒・短大卒・大学卒の順で早くなる。一九九七年の「出生動向基本調査」によれば、中卒女性は二十三歳で結婚し、高卒者は二十五〜二十六歳、大卒以上で二十七歳である。学歴資本を持たずに早くに社会に放り込まれる女性は、生活のために結婚していくのである。

 さて、東京都で女性の未婚率が高いのは、都市化、教育歴の高さ、雇用機会の規模の大きさなど、複数の要因が独身で生きやすい条件を生み出しているからであろう。東京都に次いで、未婚率の高いのは京都、福岡、大阪である。東京・京都・福岡・大阪は、二十代後半の女性の未婚率が五〇%を超えているが、その他の県は五〇%の壁を超えられない。

平均値のトリックに騙されないように、地域の質的差異を確認しておくと、二十代後半女性の未婚率の全国平均五四%という数字も、蓋を開けてみれば東京を筆頭にする大都市圏が数字を引き上げているのであって、「六五%の東京」対「四〇%台の地方」というのが正確である。この結果、東京都の合計特殊出生率は二〇〇一年ついに一・〇〇を記録した。二位は京都の一・二〇である。

 それでは、東京都も含めて女性の未婚者が結婚したくないから独身でいるのかというと、実際は違う。「いずれ結婚するつもりがあるか?」という質問に九割が「はい」と答える。にほんは先進国の中で最も結婚願望の強い国である。しかし「理想的な相手が見つかるまでは結婚しなくてもかまわない」という考えに五五%が「はい」と答えるのである(二〇〇二年「出生動向基本調査」国立社会保障・人口問題研究所)。

 巷間で言われているように「仕事に打ち込みたい」から独身でいたという回答は二〇〇二年の同調査でも十五%しかいない。一番多い理由は「適当な相手に巡り会わない」である。これは、男性の結婚したいのにしないでいる理由の第一位でもある。

 結婚したい、しかし「適当な」相手がいない。そう多くの人が感じているがために、日本の少子化はジリジリと進行していく・少子化とは「結婚の条件」の問題なのである。未婚者がそこまで拘る「結婚の条件」にせいふも少しは拘らなければならないのではあるまいか。

 「純愛」の消滅

 「純愛」の消滅
 未婚女性が、まだ結婚しない理由の第一に挙げるのは「適当な相手に巡り会えない」というものだ。この「適当な相手」という言葉は、晩婚化の深層に迫る重要な言葉である。

 家の洗濯機の寿命が尽きて動かなくなったとして見よう。新しい洗濯機を急いで購入しなければならない。しかし、今度の洗濯機には少しこだわってみたい。できればビルトインでドラム式で蓋は前開きのものがいい。この場合、予算があって探す労を厭わなければ希望の洗濯機は必ず手に入る。「適当な洗濯機」は、たとえ家電屋に在庫はなくともカタログの中には必ずあり、納期は多少遅れてもやがて家に届く。

そういう時代に私たちは生きている。洗濯機はなくてはならない生活必需品であり、理想はビルトインでも、リフォームの予算が不足していれば、ビルトインを諦めて、据え置きの式のものを人は買うだろう。
「理想の洗濯機」に準ずる「適当な洗濯機」を早く決めなければ、洗濯ができない。人は「適当な洗濯機」に出会えないから洗濯ができないと言って、洗濯を先延ばしにすることはしない。

 問題は、洗濯機と結婚相手とはどう違うかという事なのである。人は何故、「適当な洗濯機」は探せるのに「適当な結婚相手」を探せないのか。
 洗濯機はありとあらゆる種類があり、一種が大量に生産されているという答えが一つ考えられる。人間は洗濯機のように工場で大量生産されていないから、一人一人異種製品で、カタログであらかじめ好みの製品を探せないという難点がある。機能はすべて完備しているが、デザイン(ルックス)が気に入らないということも往々にしてありえる。機能もデザインも理想的なものとっくに他人に買われてしまっていることもあろう。「適当な洗濯機」だと、適当の基準は洗濯機の価格だの、洗濯機を置くスペースだのと、数字に換算できるのである。

早い話が、自分の収入や家のサイズで半ば自動的にきまるのである。が、結婚の「適当な相手」を選ぶ時に、人は自分に与えられた値段をみることが難しい。はっきり言えば人にはみな価格がついており、自分の価格に応じた相手が購入できるのだが、みな自分に貼られた値札を見る事ができにくいのである。

従って、自分が思っている「適当な相手」というのが、他人から見ればしば高望みであったり、「適当」を通り越して「夢のように非現実」な製品であったりしても、当の本人には気づかないという滑稽なケースが頻発しているのが実情である。

 一九四〇年体制と恋愛の統制

 男女が互いに好きになれば結婚するものだという「恋愛結婚」が主流になったのは、実は「一九四〇年体制」に端を発する。自由経済に対する国家による統制経済体制である「一九四〇年体制」は、男女の在り方に対しても、社会統制を戦争中に強めていった。戦中期には、若い男女が一緒に街を歩くことも禁じられていたが、それは、家族以外での恋愛や性関係を国家によって統制し、家族の秩序や道徳を強調するためであった。

言い換えれば、恋愛感情を家族の中に囲い込む「恋愛結婚イデオロギー」が国策として徹底利用されたのである。国家は大きな家族であり、天皇の下に無数の家族があり、家族の中には家長がいて、女子どもを統制する。家長の目の届かないところで娘が恋愛感情や性関係を持つことは禁止され、すべてのエロスとセクシャリティは家庭内でのみ許されることになった。

夜這いや農村での祭りの夜のフリーセックスは前近代的な悪習として放逐されていった。
夜這いに代わって近代売春制度が普及し、それは国家によって管理された。家庭の中では、家長と家婦は「性愛」で結ばれており、親と子は愛情で結びつく。
性愛感情は家長に対する家婦の従属を巧妙に隠蔽する。二十一世紀になっても、婚姻外でのセックスで妊娠が生じれば「できちゃった婚」によってやすやすと婚姻の中に男女が回収されていくのも「一九四〇年体制」の影響が払拭されていないからである。

 この国家統制は奇妙な形で戦後にも引き継がれた。すべての家庭がゼロから出発するという意味で皮肉にも出現した平等社会(一億総中流社会)では、誰もが「中流」家庭から「上流家庭」への階層上昇を目指すことができた。

一九五五年から一九七三年までの「高度成長期」には、親による子どもの性行動の管理が強化され、未婚の男女が性的に分離した社会があらためて形成された。結婚までは、男女交際のふしだらなことはさせてもらえない「おぼっちゃん」「お嬢さま」が中流家庭に多数誕生したのである。

戦前には上流階層の子弟にのみ許されていたピアノのお稽古が爆発的に増加し、女の子は猫も杓子もピアノのお稽古に、母の希望で通わされた。中流家庭でも、女の子には門限が設けられ、結婚前のおつきあいは母親によって厳しく監視され、交際を反対された女の子は泣く泣く恋人と別れさせられた。

 あと先を考えない一時の情熱で結婚してしまい、一生苦労することなど娘にさせるわけにはいかない。娘には幸福な結婚をさせて、何不自由しない生活を送らせてやりたいというのが、戦後の親たちの願望であった。女性が結婚によって階層上昇する、いわゆるハイパーガミー(上昇婚)は、高度成長期すなわち近代家族制度の完成期に生まれたものである。

結婚による階層上昇を目指す動機は、母親が娘にピアノを習わせたり、短大や四人に進学させたりする動機と同一のものである。そこには大学進学を夢見ながら、父親に「女は学問は要らない」と反対されて高卒で社会に出た母親自身のルサンチマンが隠されている。

自分がなし得なかったことを、娘の代で挽回せんとする母親たちが無数にいたのである。母親の中には娘との同一化と支配欲求がある。その母親たちが、実感をもって娘に語ってきたことが、娘には十分内面化されていく。

「結婚するなら長男だけはやめなさい」「お父さんのような商売人と結婚すると私のように苦労するよ」「サラリーマンと結婚して優雅な奥様になるんだよ」
そうして、恋人の条件とは違う結婚相手の条件が出来上がる。

 恋人の条件と結婚相手の条件

 私が教室で聞いた生の声から言うと、一九八五年頃から、女子大生は恋人に求めるものと結婚相手に求めるものをはっきりと区別していた。恋人には、ルックス・話題・車の所有を求め、しかしいかに恋人に満足していても、その恋人と結婚しないと明言していた。結婚相手には、先ず長男でない事・経済力・安定した職業を要求し、ルックスは恋人に対するほどうるさく求めない。

「結婚するなら、両親や親戚や友人に祝福されるような結婚がしたい」「結婚は何と言っても生活が懸かっているから、一時の情熱で決めれば失敗する」そう言って、ハイパーガミーを狙っていたのである。ある学生は、結婚を洋服に例えてこう表現したことがある。
「私が気に入って買った服は、流行が終わるともう着られない。その点、お母さんが薦める服はその時には気に入らなくても、なぜかいつまでも飽きの来ないものだ。あとになってその値打ちが分かる」

 恋人はモード系の洋服だが、結婚相手はオーソドックスなコンサバ系の服なのだ。そんな時、世の母親は同じセリフを口にするらしい。
「これなら素材もいいし、縫製もしっかりしているし、何にでも合わせられるし、どこに着ていっても恥ずかしくないし、一生モンとして着られるよ。これにしなさい」と。

 素材がよくて、作りがしっかりしていて、妻の親にも親戚にも違和感なく打ち解け、何処に出ても恥ずかしくない一生モンの男というのは、親の希望なのである。が、娘たちは実に従順にそれに従う。そして、親の言葉を見事に翻訳して表現する。「尊敬できる人」「夢を持った人」「やさしい人」等々。

「尊敬できる人」という言葉を額面通りに受け取ってはいけない。野口英世や坂本龍馬のような歴史上の尊敬できる人は、尊敬の意味が違うのだ。尊敬とは、具体的には「新聞を読んでいて、知らないことが書いてあるときに夫に聞くと、ちゃんと知っていて教えてくれる人」という意味であり、言外に隠された意味は、自分より高学歴もしくは高学校歴という意味だ。

「夢のある人」とは、仕事に対してモチベーションが高く、安易に離職するなど論外で、どこまでも出世競争を勝ち抜く「勝ち組」の男、あるいは起業家として高額の収入を得る可能性のある野心家の男のことである。間違っても会社を辞めて退職金で信州や那須高原にペンションを建て、お客と心のふれあいを求めるような夢ではないのだ。

そして、「やさしい人」とは、借金を頼まれても気の毒な友人に同情してお金を貸すやさしさでは決してなく、家族のことを考えて友人にお金を貸さないで、妻の生活を保証してくれるやさしさなのだ。さらには、ゴミの日を覚えていて、出勤時に黙ってゴミ袋をぶらさげてドアを出ていくやしさなのだ。すべては、娘のエゴを満たすための条件であり、それこそが母親の女から女への本音のアドバイスを娘が翻案したものである。

 中流階級の娘の「お嬢さま化」

 社会学者の山田昌弘氏は、女性にとって都合のいい、すべての条件を兼ね備えた「理想の男性」を求める女子学生にこう言って、諭すそうである。「そんな徳の高い男性は、徳の高い女性ととっくに結婚してるんだから、きみのような徳の低い人は徳の低い男性で妥協しなさい」

 しかし、それを諦めてくれないのが、結婚相手が洗濯機とは違うところなのである。
 繰り返しになるが、洗濯機の購入は財布との相談で決まる。いや、それで決めるしかない。一方、結婚相手の購入は、自分の市場価格で決まる。恋愛と違って、結婚は相手を探してするものである。恋愛が不意に陥るものなら、結婚は今や理性と打算で選ぶものである。

若い頃に出会った恋人と、一生離れたくないと思ってしまい、一時の情熱に駆られて結婚を決めるような、一切の打算のない愛を「純愛」と呼ぶ。別名「ヤンキーの愛」である。紡木たくの漫画で描き尽くされた純愛は、結婚相手に自分のエゴの保障を求めない犠牲的な愛でしかなく、日常生活という魔物の前では結局は潰されてしまうという哀しい予兆に包まれている。

元ヤンキーらしき若いカップルが、スーパーの前で今川焼の屋台を出して働いているのを見て、「絶対にああはなりたくない。紡木たくを実地でやるなんて信じられない」と恐怖に引きつった顔をした女子学生がいた。彼女は何よりも「転落」を恐れていた。男性が組織の中で「負け組」になりたくないように、女性もまた結婚で「負け組」になりたくないのだ。「負け組」とは、みすみす労苦を買いに行くような結婚をすることだ。

 女子学生の結婚相手に求める条件は、打算も隠蔽したものである。無視無欲でイノセントな部分を印象づけないと女性のジェンダーは評価されないから、打算はなんとしても隠蔽しておかねばならない。そこで状況はややこしくなってくる。モノ欲しそうにしないで、すべては「偶然の出会い」によって起こったようにしなければならない。

合コンは友人に誘われて初めて来ましたとか、結婚情報サービス会社に登録するのは土壇場の選択肢で、そこまでして結婚したくないとかは、多くの女性が口にする。

 しかし男性はまたしたたかな値踏みを女性に対してしているのである。結婚とは、女性と男性が持つ資源の交換であり、自分の資源を棚に上げて、相手にばかり要求水準を高くしても、永遠に「適当な相手」は見つからない。自分の資源価値(市場価格)を、重視することは苦しい。

大学生を対象にアンケートを取ると女性が男性に求める最大の条件は「経済力」であり、男性が、容易には口にしないが本音のところで固執しているのは「美人」であることである。結婚とは「カネ」と「カオ」の交換であり、女性は自分の「カオ」を棚に上げて「カネ」を求め、男性は自分の「カネ」を棚に上げてて「カオ」を求めている。

誰かが本当のことを教えてやらなければならない。が、女性たちが諦められないのは、他ならぬ「うちの娘に苦労はさせたくない」と考える親たちが、中流家庭の娘たちをお嬢さまとして既に育ててしまったからである。戦後日本の庶民の階層上昇の夢は無数の「苦労したくない、したこともない」娘たちを生みだした。労働からの逃避が自発的フリーターを作り出しているように、少子化を生み出しているのは苦労するような結婚からの逃避なのである。
つづく 生存・依存・保存 ラブストーリー

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