セックスレスに陥らないにはSEXは体と心両方の快感を求めるもの心さえ満足すればいと言うは欺瞞に過ぎない自身の心と体の在り様を知ることで何を欲しているのか、何処をどうして欲しいのかをパートナーへ伝えることでセックスレスは回避できる。

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第四章

本表紙 内館牧子著
 その夜、みさきの体から祥子の匂いがたちのぼった。それは重なっている謙次の体にもうつり、二人の汗がますますその匂いを濃厚にしていく。
 あの昼下がり、謙次が亜矢子を連れて入ったのは、ホテルの化粧品店であった。以前から会合でよく使うそのホテルには、インポートの化粧品ばかりを並べている小さな店があることを覚えていた。

 祥子と同じ香水をみさきにつけさせれば、何とか抱けそうな気がする。どんな手を使っても今夜こそ、と思ったのは、何もみさきへの義務感ばかりではなかった。昨夜、途中で言う事をきかなくなった体を、もう一度だけ確かめてみたかった。相手が妻でなくとも、自分は不能でないかという恐怖が、ずっと頭を離れなかったのだ。

 体は正直である。妻へのセックスを、ここまで嫌っているという事実も怖かったが、間違いなく、「不能」という事の方を恐れていた。妻を避けたがる自分よりも、不能である自分の方がずっと怖かった。

 みさきを道具として使っても、自分が可能であることを証明したい。本当に抱きたいのは祥子であるだけに、祥子の匂いがすれば必ずできると思いたかった。証明するだけならば、風俗の店に行って試す事も出来たが、どうせならみさきにツケを払っておきたい。うまくいけば、健常であるという証明にくわえて、また当分は何とかセックスレスでいられる。こんな一石二鳥のチャンスを逃したくなかった。

 しかし、ホテルの化粧品店で、謙次は困り果てた。祥子の香水名が分からない上、店員が次々に出してくる匂いを嗅ぎ続けるうちに、どれもこれも区別がつかなくなってきた。謙次は嗅覚を休めさせるために一度外に出て、亜矢子とホテル内を一周した。それから再び、店に入った。それでも、やっぱりわからない。
「パパ、アニメ、早く見たい」
 亜矢子にせがまれ、とりあえず、アニメーション映画を観た。そして、終了後、またその店に入った。
 今度はわかった。店員がひとつめの香水びんを開けるや、
「これですッ」
 と謙次は叫んだ。それは「ビザーンス」という香水で、ブルーのボトルの首に、バラ色のリボンが結ばれていた。
 甘く濃厚な香りといい、バラ色のリボンといい、あの祥子にはひどくミスマッチであった。これを好む祥子は、裸にするとかなり女めいているのかもしれない。パンツスーツで宝塚スターのように動く姿とのギャップが、ひどく謙次をそそる。
「これはね、ママへのお土産だ。一人でお留守番で可哀想だからね」
 謙次がとってつけたように言うと、亜矢子は突然、ビニールから財布を取り出した。
「それなら、亜矢子もお金を出す。パパと亜矢子のお土産」
「いいの。亜矢子はいいんだってば」
 あわてる謙次をよそに、亜矢子はピンクのチューリップ型の財布から。百二八円を取り出し、謙次に渡した。
「亜矢子、紙のお金もあるけど、それを出すと貧乏になっちゃうから」
「だから、玉のお金もしまっておきなさい。パパが買って、二人からのお土産だって言う。ね」

 邪心のある香水に、無邪気な幼い娘のお金を支払われるのは困る。だが、亜矢子は百二十八円を女店員に渡した。
「はい。亜矢子の分です」
 女店員は亜矢子に笑いかけ、言った。
「そうよね。パパだけ出したんじゃ、亜矢子ちゃん、噓つきになるもんね」
 亜矢子は満足気に頷き、美しく包装された小箱を胸に抱いたのだった。

 ベッドでみさきに覆いかぶさりながら、謙次は奇妙な刺激を覚えていた。みさきの豊満すぎるほどの体は、いくら香水が匂い立とうと祥子ではない。が、ふと、祥子だ、と思える瞬間がある。それはほんの一瞬だが確かにあって、またすぐに戻る。そして、また一瞬あり、また戻る。それは不思議な錯乱であった。その中で、目をつぶって祥子の匂いに酔い、ふと亜矢子の百二十八円がよみがえる。貝殻のような爪がつまんだ硬貨を思い出す。幼い娘の情愛を汚している自分にも、妙な刺激があった。

 体が途中で萎えることはなかった。昔のようにとはいかないまでも、ここ二、三年の間では最も激しい時間であった。
 胸に汗をかき、まだ大きく息をしているみさきの頬にちょっと触れると、謙次はベッドルームを出た。

 シャワーを浴びる。熱い飛沫(しぶき)を顔にかけながら、謙次は苦笑した。今は不能ではなかったことを喜ぶよりも、これで半年分は前払いしたという事の方を喜んでいた。
 寝室では、みさきが汗ばんだ体にガウンを羽織り、ベッドに腰かけていた。どこか虚(うつ)ろな目で、鏡台に置かれた香水を見ている。今夜は大きな月が出ており、その周囲は深い群青色の空であった。それは香水びんの青とよく似ていた。

 一年ぶりに謙次と激しい時間を過ごし、身も心も満たされているはずなのに、何かひっかかるものがある。
 香水は亜矢子の手からプレゼントされた時、みさきは大喜びした。
「すごーい。ママ、すぐつけるわね。亜矢子に一番最初に匂いを嗅がせてあげるね」

 謙次は少し困った笑いを浮かべ、亜矢子に言って聞かせた。
「香水ってね、お陽さまによく似合う匂いと、お月さまに似合う匂いがあるんだよ。ママにあげた香水は、お月さま用だ。だから今はつけちゃいけないんだよ」
 亜矢子が残念そうな顔をすると、
「亜矢子が高校生になったら、パパとママがお陽さまに似合う香水を買ってあげるからね」

 謙次はみさきに笑いかけて、亜矢子を膝の上にのせた。一人娘がいとおしくてならぬという表情であった。幼い子供に、こんなにわかりやすく、それも一生懸命に教えるのはそばで聞いていても心温まる。高校生の娘に両親が香水をプレゼントすることを夢見ている以上、離婚の意志はないということもわかった。

 外にいるであろう女は、やはり体だけの遊び相手なのだ。そう思うと、みさきは逆に心だけがつながっている自分たちの方が、ずっと揺るぎない関係にあるように感じた。
 夜になってベッドに入る時、謙次が言った。
「あの香水、つけろよ」
 みさきは笑って断った。
「もったいないわよ、寝るだけなのに」
「いいから、つけろって」
「イヤ。もったいないもん。いつか、すてきなレストランのディナーに連れてって。その時につける」
 しかし、謙次はいつになく執拗に、香水をつけろと言い続けた。その時、みさきはふと思ったのである。

 寝るだけだからもったいないという考え方は違っている。誰よりも夫の為に美しくあるべきなのだ。妻たちの多くは、「見せる人もいないのにもったいない」と言い、自宅では化粧もせず。ヨレヨレのトレーナーにジーンズである。考えてみれば、「見せる人」の第一番は夫であり、夫の前でこそ装いを美しくすべきなのだ。みさきはそう気づき、香水びんを開けた。

 ベットに入るや、謙次は手を伸ばしてきた。みさきは香水だけまとった姿にされ、充ち足りた気持ちで謙次を受け入れた。
 しかし、その行為は今までとはあまりに違い過ぎた。年に一度か二度、義務のように十分間ほどですませるのが通常であったのに、今夜の謙次は違った。

 体を重ねながら、みさきの心も体も急速に冷え始めた。それに反して、汗ばんだ体から匂い立つ香水は、濃厚に蒸れていく。
 みさきは初めて思い当たった。謙次はこの香水をつけている女と、いつも寝ているのではあるまいか。この香水をつけていれば、何とか妻を抱けると考えたのではないか。おそらく、寝る前につけさせたのは、みさきの匂いとして鼻になじむのを恐れたに違いない。

 それは、みさきのプライドをこなごなにした。謙次が抱いているのはみさきでなく、愛人の女。義務を果たすためにだけ、何ひとつ感じることのないセックスであったが、謙次を跳ね飛ばして、問い詰める気にはなれない。声を漏らし、爪を立てながら、頭はまるで別の事を考えていた。

「問い詰めたらおしまいよ‥‥。謙次は女の所に行ってしまう‥‥。いろんなことはあとでゆっくり考えればいい‥‥」

 みさきはこの時ほど、謙次を愛している自分を確認したことはない。謙次にいなくなられたら、経済的な意味ではなく自分は生きていけないかもしれないと思った。謙次に亜矢子がいて初めて、自分が生きていける。体だけの女なんか、居てもいい、とにかく、ずっと二人で並んで年齢をとっていきたい。愛している。別れたくない。愛している。

 そう思うと、重なっている謙次が大切で、何ひとつ感じないというのに、みさきはますます激しく、ベッドの上でうねって見せた。
 シャワーを浴びているはずの謙次は、ぬるい湯にでもつかっているのか、なかなか戻って来なかった。ベッドに腰かけていたみさきは、寝室の窓を開け放った。晩秋の冷気が流れ込み、体の汗が引いた、みさきは、室内の香りを外に逃がそうと、ドアも開けた。もう一瞬たりとも、この匂いは嗅ぎたくなかった。
「ん、寒いな」
 風呂を終えて入ってきた謙次に、みさきは恥じらったように言った。
「あなた、すごかったら。シャワー浴びてくるね」
 シャワーを全開にし、皮がむけるほど体をこすって匂いを落としていると、みさきは初めて涙がこぼれてきた。

 翌朝、謙次を送り出した後で、昨夜は考えすぎたのではないかと、みさきは思った。
 あまりにも長い期間、セックスがなかったために、女のことも香水のことも、すべてをそこに結び付けて考えてしまったのではないだろうか。レースのカーテン越しに入ってくる陽ざしの中で、みさきは取り越し苦労だったように思えてきた。
 その時、幼稚園の制服に着替えて亜矢子が、足を引きずりながら入ってきた。
「ママ、足が痛い」
 見ると、かかとがひどい靴ずれで、水疱ができている。昨日はここまでひどくなかったのだが、今朝は赤くはれていた。みさきは手当てしながら言った。
「パパと二人だからって、喜んで新しい靴なんか履いていくからよ」
 亜矢子は口をとがらせながら、抗議した。
「だってパパ、香水の店に三回も入ったんだもん。そのたびに亜矢子、ずっと歩いて、それでいっぱい選んで、パパ、匂いを思い出せないって言って、亜矢子、ずっと立って待っていたんだからね」
 みさきが聞きとがめた。
「匂いが思い出せないって言ったの? パパ」
「そうだよ。お店のお姉ちゃんに名前も分からないって言って、笑われたよ」

 取り越し苦労ではなかった。謙次はやはり、女と同じ香水をつけさせ、何とかして妻にサービスしようとしたのだ。
 亜矢子を幼稚園の送迎バスに乗せた後、みさきは考え続けた。
 どんな女なのかも一切わからない。いつから愛人関係にあるのかもまったくわからない。

 OLであれ水商売であれ、女はきっと二十代前半の若さだろう。メリハリのきいたボディにまっすぐな脚を持ち、シャンプーのコマーシャルに出て来るような長い髪をしているに違いない。きっと話も面白くて、甘え上手で、おしゃれで、セックスも上手いのだ。今時の女の子なんて、そうに決まっている。みさきは吐息をもらした。

 そんな女なら、自分に勝ち目はない。勝ち目のない勝負には出ない方がいい。それが大人の選択というものである。
 みさきは「りこうな妻」になることに決めた。女の名前やら居所などを探すこともせず、思い煩うこともせず、家族の暮らしをより楽しく保つのが一番りこうである。
 相手はしょせん、体だけの女であり、退屈な日々における刺激にしかすぎない。どんなに謙次とべったり会っていようと、妻にかなうわけはない。現に、遊び終えた謙次は、毎晩必ず自分の家に帰宅しているではないか。世の夫にとって、「女」などは消耗品なのだ・そう思うと、みさきは少し楽になった。

 祥子はパリに来ていた。
 パリで照明の研究会があり、その後、結城の代理で幾人かの建築家と会う事になっていた。たった一人で、約二週間のパリ滞在というのは、心弾むことであった。
 留学生活を送ってから後は、仕事がらみでたびたびパリに来ていたが、晩秋のパリは六年ぶりである。

 祥子は地下鉄のリュ・ドゥ・バック駅近くに、小さなホテルをとった。「オテル・ドゥ・サンシモン」というそれは、十八世紀の建物といわれ、小さな中庭をもっている。いかにもパリらしいプチホテルであり、七区の静かな場所にひっそり建っている。アンヴァリッドやロダン美術館にも近く、セーヌの河辺までいい散歩コースでもあった。祥子は留学時代、この近くにアバルトマンを借りていたのだが、日本と違って急速な変化を好まないパリの街は、あの頃と同じといってもよかった。

 二週間をパリで過ごすとなれば、義彦とのセックスは一回ははずせる。日本にいれば、ちょうど今夜あたりである。演技しなくていい夜が、これほどまでに解放的な気持ちにしてくれるとは思っていた。
 ホテルの花柄のダブルベッドに座り、冷えたワインを飲みながら本を読む。読み終えたらゆっくり湯に浸かろうと。そして朝は遅くまで寝て、近くのカフェで街を眺めながらブランチをとろう。

 義彦には一日おきに電話を入れていたが、寂しくもなければ恋しくもなかった。そんな自分に、祥子は少し怖いものを感じるほどであった。それでも街に出れば、真っ先に義彦へのお土産を選ぶ、ネクタイやらシャツやらで、すでにトランクは膨らんでいる。セックスがなくても、夫婦は愛し合っていけるということを、義彦はどうしてわからないのだろうか。

 窓の向こうに見えるアバルトマンの灯が消え始めたころ、祥子は本を閉じた。大きく体を伸ばし、ベッドに大の字になる。壁の古時計は一時を示していた。祥子はグラスの底に残っていたワインを一口に飲み干し、バスルームへ行った。

 ローズの香りのバスジェルを泡立て、白い泡の中に体を沈める。胸や腰にあわを這わせながら、思った。普通なら今頃はこの胸腰を弓なりにさせて、義彦に合わせているだろう。途中で飽きていることなど微塵も匂わせずに、完璧な演技をしている時間である。
 セックスを我慢できない義彦は、もしかしたらどこかの女と寝ているかもしれないと、ふと思った。不思議なことに何のジェラシーも感じなかった。
 
 ワインを四分の三近くあけた体は、ローズピンクの湯の中で芯から熱くなっていった。その時、祥子は義彦以外の男とならば、今、セックスしてみたいと思っている自分に気づいた。具体的に相手の顔が思い浮かびもしないのに、ワインと湯で熱くなった体は、勝手にセックスを欲している。自分にもこんな気持ちが残っていたことに、祥子は驚いた。

 と同時に、義彦とのセックスが改めて形骸にすぎないことも思い知らされていた。今、自分の体が勝手に欲しているように、本来、セックスというものはそういう状態のもとで満たし合うべきだろう。
 そう思った時に、「夫婦」という関係においては、セックスなどできるはずがないと気づいた。法的にも社会的に守られている関係であり、現にジェラシーすら感じていない。そんな相手に満たされるはずがあるまい。

 夫婦というものは共闘する「同士」であり、そこにエロスが介在するわけがないのである。欲情は男も女も、反社会的な何がないとあり得ないのかもしれない。現実に、祥子の体は今、義彦以外の男を渇望している。
 祥子はバスタブから出ると、勢いよくシャワーの栓をひねった。
 その頃、東京の自宅では、義彦が朝のコーヒーを沸かしていた。
 時計は九時を少し回っていたが、たった今、起きたところであった。日曜日のせいか、近くの公園から子供たちの声が聞こえてくる。遅めに起きてゆっくり新聞を読み、コーヒーが落ちるのを待つのは悪くない時間であった。
 昨日の土曜日に、祥子を抱かずにすんだせいか、体の疲れがまるで違う。祥子の体にときめいていた頃は、セックスの疲れが残るこさえ心地よかったが、今はたっぷり眠れた朝の方がずっといい。

 セックスなしでは生きられない祥子は、もしかしたら今頃、パリの男に抱かれているかもしれない。留学時代、フランス人の恋人がいたことは聞いているし、再会したとして不思議はない。そう考えても、義彦はまったくジェラシーを感じなかった・むしろ、「僕にかわってよろしくお願いします」という気分であった。

 所詮、夫婦という関係にセックスはあり得ないものかもしれないと思った。祥子がどんなにセックス好きでも、数段格上の妻でなかったら義彦は十日に一度抱くことはあり得ないと分かっている。数段格上の妻を悦ばせ、征服感を味わうことが、最も大きな動機であることは間違いなかった。

 寒さは日に日につのり、町には早くも師走のあわただしさが漂い始めている。
 あわただしさの中、みさきは淡々と年末の片付けなどを始めていた。謙次に「香水の女」がいることを確信してから幾日かがたったが、一言も口にしなかった。徹底して気づかぬふりをして「りこうな女」を守り通した。
 むしろ、言葉も態度も優しくなっていた。そして、何よりも化粧や服装に気を遣うようになった。常に謙次の目を意識し、いい女、いい妻でいることを心がけるしか救われる道はないと思っていた。
「お前、この頃変わったな。何かあったの?」
「イヤだ、いつもと同じよ」
 と答え、笑って見せた。妻が美しく、優しく変わる分には夫とて文句はない。謙次は深く追求することもなかった。
 そんなある夜、謙次が亜矢子を風呂に入っている時であった。亜矢子は小さなかかとを示して言った。
「みて、パパ、水ぶくれが治ったよ」
「何だ、水ぶくれって」
「だから、香水を買うのに三回もお店に入ったから。ママに言ったの。匂いを忘れちゃってパパ、お店で笑われたよって」
「そうか…」と思った。みさきのあの香水の裏を、かなり明確に気づいているのだ。おそらく、肉体関係にある女と勘ぐっているのだろう。それで、このところ妙に優しく、きれいに身繕いをしているのだということも、やっと納得がいった。

 湯船の中で謙次に抱かれている亜矢子の肌は薄く、細い骨が浮いている。桃のようにピンク色の体が、すべすべと謙次の腕の中で動く。この幼い娘を責めるわけにはいかなった。謙次はみさきに弁解する気はなかった、祥子とは肉体関係どころか、ずっと会っていない。

 謙次と亜矢子がリビングに入ってくると、みさきはあわてて涙をこすり、笑った。
「どう? いいお風呂だった?」
 亜矢子はつぶやいた。
「ママ、泣いている‥‥」
「今ね、悲しいドラマを見ていたの。あなた、ビール飲むでしょう? 待っていてね」
 みさきは小走りにキッチンへと行った。
「パパ、テレビなんかついていないよ」
 謙次はあいまいに頷きながら、うんざりしていた。こういう形の責められ方を、男は一番嫌う。ののしり、怒鳴りちらしたりて女のことを追求される方がずっといい。
「ハーイ、ビールとおつまみをどうぞ。亜矢子はジュース、ちょっとだけね」
 みさきの声は、うわずって聞こえるほど明るい。つまみの皿を見て、謙次は絶句した。チーズを海苔で巻いたものや、ちくわの穴の中にキュウリを詰めたものや、手作りのつまみが何種類も少しずつ並べられていた。
「私も一杯いただこうかな」
 明らかに泣いたことが分かる目で、みさきは陽気な声を上げた。謙次は心底うんざりした。優しい態度を取り、何も気づかないふりをするのが、大人の選択だと思う女が多すぎる。そんなものは「半端にりこう」と言うのだ。「小りこう」と言うのだ。半端りこうな女ほどバカはいないと、謙次は思った。

 謙次に問われれば香水の事は謝るつもりでいたし、多少の憧れを持つ女はいるが何の関係もないことを話すつもりでいた。みさきとセックスできないのは、何も他に女がいるせいではないことも、腹を割って話す気でいた。
 しかし、涙と陽気な声と、手をかけたつまみを見た時、何も言う気はなくなっていた。謙次は不機嫌にビールを飲んだ。

 三日後あたりから、謙次は家に帰るのが嫌になってきた。みさきが化粧をして、手の込んだ料理と冷えたビールを用意し、息を詰めて帰宅を待っているのかと思うと、それだけで気が滅入ってくる。香水の日以来ずっと、みさきはそんなふうであった。
 会社近くのスナックで時間を潰し、深夜に帰宅する日が続いた。それでもみさきは化粧を落とさない顔で迎える。
「おお茶漬けの用意、できているわよ」
 すでにお盆にセットしてあったお茶漬けを運んでくる。電話もせずに深夜の帰宅とあっては、手の込んだ料理はすべて無駄になったはずなのに、一言の愚痴さえない・
 そんなみさきを、謙次はいとおしいとも思う。思うが重苦しい方が大きかった。
 ベッドに入ってかも、すぐに、
「おやすみなさい」
 と優しく言って、みさきは目をつぶる。以前のように、抱いてほしさを遠回しに示すことも一切なかった。謙次の嫌がることは何もしないというスタンスが、明らかに見えていた。自分から裸になり、
「何なのよッ。女なんか作ってッ」
 と、むしゃぶりついてくれた方がまだ救われる。男のわがままとわかっていても、謙次は静かに眠っているみさきが、どこかおぞましかった。

 謙次の帰宅が遅い日が続くと、みさきはますます塞ぎがちになった。そのくせ、すべての思いは自分の中に封じ込めており、日に日にストレスが溜まっていく。
 ある日、とうとうみさきは亜矢子に言わせた。
「パパ、早く帰ってきて。亜矢子と一緒にご飯食べて」
 謙次は答えた。
「ママに言っておきなさい。クリスマスのイルミネーションが思った以上に評判で、取材やパブで忙しいんだってね」
 こんな難しい言葉を亜矢子が理解できるわけもなく、
「ママに言って。あとはよくわかんない」
 とだけ、伝えられた。謙次は子どもを使うやり方にますます嫌気がさしていた。
 そんな中で、みさきは謙次がどんな女と付き合っているのか知りたくなってきた。それがわかったところでどうなるものでもないが、見えない相手に嫉妬し、自問自答するのはもはや限度にきていた。

 しかし、女についてはまったく見当がつかない。考えてみれば、一歩自宅を出た謙次がどんな生活をし、どんな思いで生きているのかを、みさきはまったく知らなかった。「外でのことは話さない」という夫を、今までむしろ男らしく思っていたが、結局は夫のことをなにひとつわかっていなかったのである。夫の方も分かってほしいとも思わないから、外での話はしないのであろう。

 夫婦は安定した幸せに向かって二人で手を組み、その結果としてセックスなど不要になってくるものだという思いも、みさきの中にはあった。そのために謙次はセックスレスになっているなら、赦すしかあるまいという覚悟もあった。しかし、自分たちは会話もなく、理解し合っているわけでもなく、とりたてて手を組んでいるということもない。その上、セックスもない。夫は夫で生き、妻は妻で生き、それがとりあえず同居しているにすぎない。何の波風もなかったが、これでは夫婦というものに何の意味があるのか。

 みさきは何としても、愛人の正体を確かめたくなった。みさきには触れたがない謙次が、どんな女に触れたがっているのかを見たかった。しかし、愛人に関しては、情報が少なすぎた。「ビザーンス」という香水を使っているであろうということ以外、何らの手がかりもなかったのである。

 祥子は義彦の眠る寝室で、「ビザーンス」をつけた。昨日、パリを飛び立ち、昼に成田に着いたばかりである。甘い香りのする体に浴衣を着て、祥子は自分から義彦の布団に入っていった。
 パリでの二週間というもの、確かに祥子はセックスを欲していた。それは常に夫以外の男という条件があったが、体そのものが飢えていた。正直な体を確認することは、素直な動物にかえったようで、決して悪くない気持ちがしたものである。

 現実として、夫以外の男に飢えた体を満たしてもらう気はなかった。それはモラルという思いもあったが、ここまで欲している体がぶつかりあえば、夫とのセックスに新しい展開が期待できそうに思った。回数を減らしても、今夜のようにいいセックスをしようという話もできると思った。

 一方、義彦は自分から滑り込んできた祥子に、つくづく「セックスの好きな女だ‥‥」と思ったもちろん、愛してはいたが、祥子のパワーには舌を巻く。世の中では、「妻たちのセックスの嫌悪」も言われており、セックスをしたい夫たちが困っているというのに、うちはまるで逆だなと思った。

 二週間をセックスレスで過ごした義彦は、正直なところ祥子と交わるのが面倒くさくもなっていた。間が開いているとはいえ、知り尽くしている妻の体である。妻が留守の間に、なぜか征服欲も失せ始めていた。

 いくら格上の妻だからとて、ベッドルームの中で征服した勝利感が何年ももつはずがない。ベッドで何十回殺そうと、毎回達するまで攻めようと、しょせん妻の方が社会的に上であることに変わりはない。六畳間の秘儀は、世間には意味のないことなのだ。それでも、義彦は存分にベッドで祥子を愛した。夫の義務感がそうさせていた。

 義彦の手によって、祥子の体が明らかに満たされていく。祥子の表情の変化を上から見ながら、義彦は楽しんでいた。そこにはもはや「征服」という感情はなく、「包容」に近い充足感があった。

 祥子の表情の変化の八割は、演技であった。久々のセックスは決して悪いとは言えないまでも、やはりのめり込めるほどでなかった。いつもの手順で愛され始めたとき、安らぎは確かにあった。しかし、恋人時代や新婚当初のような絶頂感にはほど遠い。

 それが「夫婦」としての、安定した性であるとするなら、それはそれでいい。しかし、そんな夫婦になったが最後、二度とセックスの本来的なるものを味わえないという事である。他者との行為を許されざるものならば、結婚と同時に男女は枯れていくだけになる。それを「安定」だの「夫婦の安らぎ」だのという言葉で表すのは、単なるごまかしではないのか。

 あれほど欲したセックスの最中に、祥子はそんなことばかりを考えていた。それでいながら、感じているふりをし続ける。やはり、こんな思いはもう二度としたくなかった。これからはきちんと話し合い、しばらくはセックスレスでいることを言ってみようと思っていた。

 今年の冬は例年になく寒く、朝起きると窓が霜で白くなっていることが多い。それでも謙次が出勤する頃は、陽射しがリビングいっぱいに射してくる。
 今朝は、みさきは相変わらず、にこやかに謙次を送り出し、朝刊を開いた。
 女を探し当てたいという思いは強かったが、あまりにも手掛かりが少すぎた。謙次はこところ、みさきに淡々としていることも辛かった。みさきの懐柔策を喜んでいないことはわかっていたが、今さら「女なんか作ってッ」と叫び出すには、タイミングを外しすぎていた。

 自分レベルの女は、「りこうな女」などを目指してならないのだと、みさきは今さらながら寒々とした思いに襲われていた。
 今日は亜矢子が帰ってきたら、イルミネーションを見に行ってみようと思った。夕方から出かけていき、イルミネーションを見た後で謙次と三人で銀座に出ようと。いくら忙しくても、一晩くらい家族で外食する時間を作れるだろう。それが、このところのギクシャクを洗い流してくれるといいのだがと思いながら、何気なく朝刊の家庭面を開いた。その時、カラー版の写真が目に入った。それは「宝の小箱」という連載コラムで、毎回、著名人たちが大切にしている物を見せ、それについて語っている。

 今朝は「武田祥子さん(34)―照明プランナー」となっていたが、みさきには知らない名前である。ただ、二つの見出しから目が離せなくなっていた。
「古い香水びん」
「今、東洋電機のイルミネーションが大評判」
 見出しの横に、笑顔の祥子の写真があった。アンティークな香水びんをたくさん並べ、一つを手にして笑っている祥子を見た瞬間、みさきの背筋に悪寒が走った。恐れるように記事を読む。そこには「パリに留学している時に収集を始めた」とか「結城丈一郎が結婚祝いにプレゼントしてくれた」とか、祥子の絢爛たる経歴が匂っていた。そして最後の結びに、記者は書いていた。

「武田さんが体を動かすたびに、かすかに甘い香水が匂う。香水びんも好きだが、それ以上に、自分に手かけることが好きな人なんだろう。眠る間もないほどの仕事をこなしながら、みごとである。甘い香りはモスグリーンの男仕立てのスーツを着こなした武田さんの、アンバランスな魅力を際立たせていた」
 これを読んだ時、みさきは頭の中が空洞になった。それでいて、頭の芯がキーンと音を立てている。

 謙次の女は武田祥子に間違いないと思った。イルミネーションの仕事で知り合ったのだ。これ程の女ならば、自分が結婚していようが「自由恋愛」などと言いそうである。
 祥子の写真を再び見ながら、みさきは息苦しくなっていた。愛人は二十代前半の、体だけの遊び相手だと思いこんでいた自分は、何と浅はかだったことか。こんな女が相手とも知らず、ちくわにキュウリを詰めたり、化粧して陽気に振る舞っていたのだ。

 に時間後、みさきは亜矢子の手をしっかり握り、地下鉄大手町駅に降り立った。亜矢子が昼過ぎに帰って来るや、大急ぎでおやつを与え、すぐに連れ出していた。イルミネーションに灯りが入るのは夕方五時からであり、まだ二時間以上の間があった。しかし、みさきは居ても立っても居られなかった。

 灯りが入ろうが入るまいが、謙次の女が作ったイルミネーションが見たかった。女の力を見せつけられるのは震えるほど怖い。だが、それを見せつけられて、徹底して自分自身を惨めにすることもいい。そうすれば、つまらない「りこうな女」などはかなぐり捨てられる。
「私と別れないでください」
 と、土下座をすることもいとうまい。それは人間の尊厳に反することであるが、自分がそうしたい以上、誰にも文句は言わせない。みさきは震えながらも、そんなマゾヒスティックな快感をほんの少し感じていた。

 地下鉄の駅を出て、冷たい風の中を二分ほど歩くと、東洋電機の本社が見えてきた。作業員たちが動き回っており、道行く人も立ち止まってビルを見上げていた。
 ビルの前を行くと、作業員たちがイルミネーションを何やらいじっている。みさきは立ち止まって見ている通行人に聞いた。
「取り壊すんですか?」
「イヤ、手直しだって言っていましたよ。たぶん、今日から手直ししたのが点くんじゃないですか」
 みさきは頷き、ビルを見上げた。灯りの付いていないイルミネーションは電球がむき出しで、何だか間が抜けて見えた。
「亜矢子、パパに電話してごはんの約束しようね。それで、電気が点くまで、ママとどこかでお茶でも飲んでいようね」

 寒さに頬を赤くしている亜矢子は、おとなしく頷いた。公衆電話を探すために、その場を立ち去ろうとした時だった。本社ビルの玄関から、今朝の新聞で見た顔が出てきた。祥子は三人の男たちと連れだっており、誰もが防寒用のカーキ色のジャンパーを着ていた。背中には「J・YUKI STAFF」と大きく縫い取りがある。 
「ママ、早くお電話しようよ」
 せかす亜矢子の手を握り、みさきは祥子を擬視した。写真を見るよりもずっと若く、黒革のパンツに包んだ脚は長い。男物のスタッフジャンバーはかなり大きかったが、それが逆に祥子の体をことさらにスレンダーに見せている。みさきが想像していたよりもはるかに背が高く、一七〇センチに近いのではないかと思った。ジニョンにまとめた髪に栗色のメッシュが入り、スカーレットの口紅がいかにもパリ好みという感じがした。

 祥子とスタッフはまっすぐにみさきの近くまで歩いてくると、図面を広げ、ビルを見上げた。祥子が時々、笑顔で作業員に指示を出す。みさきはそんな祥子を無言で見詰めていた。
 図面のページを操る時、ジャンバーの前が開いて、真っ赤なセーターの胸が少し見えた、みさきはそこにほとんどふくらみがないことを知った。胸が薄いことは、女としてマイナスであるはずなのに、みさきは自分の方が洋服は似合うのだ。さかんにひっぱる亜矢子に返事もせず、みさきは祥子をにらみつけていた。
「ママ、行こうってばァ」

 亜矢子になおもせかされ、みさきは頷いた、そして公衆電話へと歩き始めたようとして、踵を返した。そして、祥子の前に立った。
「武田さんでいらっしゃいますか」
 祥子の眼差しが注がれると、みさきは胸を張って言った。
「私、大倉の家内でございます。いつも主人が大変お世話になりまして」
 祥子は一瞬訳が分からぬというように、みさきに目を受けていた。
 つづく 第五章
 祥子の目を正面からうけて、みさきはさらに言った。
「大倉はわがままですので、ご迷惑をおかけしておりますでしょう」