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第二章

本表紙 内館牧子著

気がつくと、窓を叩く雨の音が大きくなっている。
 武田祥子は、夫の義彦の布団にいた。たっぷりと一時間をかけて、濃密な交わりをかわした後であった。夫の義彦はいい夫であったが、セックスが好きすぎるということだけが祥子には苦痛であった。

 何とか腕枕から脱けて、自分の布団に戻りたいと思うのだが、義彦の腕はしっかりと祥子を抱え込んでいる。セックスの後の女というものは、腕枕で眠るのが好きなのだと義彦は信じ込んでいる。そんなサービスをわかっているだけに、祥子はいつも腕枕が好きな振りをし続けていた。

 小さないびきをかいている義彦の隣りで、祥子は意味もなく天井を見ていた。惨め思いが少しずつ、少しずつ広がって来る。その理由を、死ぬまで義彦に言うつもりはなかった。
 祥子は義彦とのセックスで、ほとんど毎回、達したふりをしていた。
 達することができないからみじめではない。義彦の求めに応じて、さまざまな姿態をとり、何ひとつ感じていないのに声を漏らし、震えてみせる自分がひどく惨めであった。

 義彦は三十七歳になるが、十日に一度は決まって濃密な交わりを要求する。時間をかけ、手をかけて、祥子がくたびれ果てるまで攻めて来る。
 祥子はいつも、途中で飽きた。
 義彦と恋人時代や新婚時代には、数え切れないほどの絶頂感を味わっていたが、今ではそれがまったくない。同じ男が同じ手順で進めるセックスが、いつまでも新鮮であるはずはない。
 しかし、祥子はどうしても義彦の求めを断る事ができなかった。それは皮肉なことに、義彦の手順が恋人時代から何も変わっていないからであった。

 義彦は付き合い始めた頃から、祥子が悦ぶやり方に当たると、それを忘れなかった。そして、次には必ずそうしてくれる。恋人時代の二年間で、義彦の手順は確定していた。それは間違いなく祥子の悦ぶやり方の連続であったが、今もってそれを守り抜く。何ら変わることなく、必死で悦ばせようとする義彦を、祥子はどうしても拒むことができなかった。

 それも抱かれながら、毎回、早く終わってくれないかと思う。今では早く終わらせるために、体をのけぞらせ、爪を立てて、上手に達したふりをする。手足をうまく痙攣させる術まで修得していた。
 そんな祥子をみると、義彦は満足そうに聞く、必ず聞く。
「よかった?」

 祥子は満足過ぎて声も出ないという演技をして、ぐったりしながら頷く。「ああ、とりあえず今夜はオシマイね」と思うだけで、しめくくりの演技などいくらでもできた。
 しかし、祥子が義彦を愛していることは間違いなかった。祥子はいつでも、義彦と結婚して本当に良かったと思う。夜、二人っきりで話していると、仕事で荒れていた心が凪(な)いでいくのを感じる。

 祥子は一級建築士の資格を持ち、「結城丈一郎建築事務所」に勤めていた。六十歳になる結城は日本でも屈指の建築家であり、祥子の大学の先輩でもあった。
 祥子は大学院に在学中から、照明に関心を持ち、パリに留学して照明を学んでいた。結城事務所では、ビルディングや橋などのライトアップも手掛けており、第一人者の照明プランナーが幾人も在籍していた。祥子は自分も第一人者を目指し、彼らの下で夜も昼もなく働いてきた。

 そんな仕事ぶりが、今ではかなり認められるようになり、結城も少しずつ祥子に任せ始めていた。
 義彦と知り合ったのは、六年前になる。祥子が二十八歳の時であった。仕事が一番面白く、そして一番苦しい時でもあった。自信もあり、野心もあったが、結城や第一線の建築士と張り合うには、力不足は否めない。何を言ってもことごとく論破され、祥子は日に日にストレスをためていた。

 そんな時、女友達の結婚式で隣りあったのが義彦である。義彦は新郎と高校時代の同級生であった。二次会でも義彦は人なつこい笑顔を見せ、祥子の隣りに座った。
 義彦は祖父の代からの獣医で、家は大田区久が原にあった。一階が「武田ペットクリニック」、二階に両親と義彦が住んでいた。父親も腕のいい獣医であり、評判を聞きつけて埼玉や神奈川からも患者が来る。

 義彦は隣りに座りながらも、祥子とはほとんど話さなかった。二次会には高校の同級生が溢れており、見知らぬ祥子には儀礼的にお酒を勧める程度である。
 賑やかな輪の中で、祥子だけが浮いていた。新婦とは中学時代からの親友であり、共通の女友達もたくさん来ていたが、話がまるでかみあわない。二十八歳の女友だちはすでに全員が母親になっており、子供が一歳から三歳というところであった。すべての関心は子供であり、すべって転んだのという話題に終始する。聞く一方の祥子に気づくと、慌てて話をふってくれるのだが、これが耳にするだけでうんざりする。

「すごいわね。一級建築士なんて。祥子の頭の中、どうなっているのか見てみたいわ」
 これに対して何と答えればいいのか。笑っているしかない。
「照明プランナーならサ、うちの台所の照明も考えてよ。社宅に入った時に付け替えた蛍光灯、そろそろ交換時だと思って」

 祥子はまたも笑っているしかない。パリに留学してまで学んだのは、社宅の電球の取替るためではない。
 祥子は仕事が残っていることを理由に、二次会の店を出た。その時、手洗いから出てきた義彦と出口で会った。
「あ、もうお帰りですか」
「はい、お先に」
 義彦は少し間を置くと、言った。
「雌鹿ってね、雄を虜にするフェロモンを体から発するんです。あのオバサンたちは、もはやフェロモン・ゼロ軍団」
 義彦はそれだけ言うと、片手をあげて席に戻って行った。

 義彦との出会いは、それきりであった。電話一本こないまま、半年が過ぎた。祥子はその間ずっと、妙に義彦のことが気になっていた。建築業界という男社会で、男とやり合えばやり合うほど、後で心に風が吹く。それでも、頑張りが少しずつ認められつつあっただけに、祥子は今、何としても伸びたかった。

 しかし、深夜に疲れ切ってひとり暮らしのマンションに戻ると、ふっと義彦の言葉が浮かぶ。初めは「あなたにはフェロモンがあるよ」という意味で言ってくれたのだと自惚(うぬぼ)れていた。しかし、電話一本こないところをみると、あれは単に、オバサンの言う事なんか気にするな、という意味の励ましに過ぎなかったのかもしれぬ。

 ある夜、風呂場の脱衣所で裸になった祥子は、鏡に映った腰に目をとめた。骨が浮き出ている。確かにまた、やせたように思った。
 全裸の体を鏡に映す。気のせいか、肌が乾いているように見える。首の下の鎖骨は大きく出っ張り、もともと薄い胸がまた膨らみを失ったようである。まるで、背中のような胸だった。

 まったく潤いの感じられない全身を眺めているうちに、ここ三年間というもの、セックスはおろか、プライベートで男と食事さえしたことがない事実に気づいた。
 湯船に体を沈めながら、恋人と半同棲の状態にあった大学時代は、胸は薄いなりに張っていたし、体に丸みがあったと思った。男の手によって女の体が変わっていくことに、今、祥子は嫌というほど気づかされていた。だからといって、抱いてくれる恋人もいない。抱かれたいと思う男もいなかった。義彦の顔を思い浮かべたが、抱き合いたいとは思わなかった。

 長い風呂からあがり、バスタオルを使いながら、またふと裸の体に目をとめた。熱めの湯で体がピンク色になっているというのに、どこか棒のような印象を受けた。愕然とした。
 その夜遅く、祥子は義彦に電話をかけた。せめて男と二人で、お酒を飲む時間を持たないと、自分は女でなくなるような気がした。わけもなく焦った。久が原の「武田ペットクリニック」を調べると、電話番号はすぐにわかった。

「山下祥子と申しますが‥‥」
 祥子が名乗っても、義彦はまったく覚えていなかった。結婚式で会ったことを告げると、義彦はやっと思い出した。
 これは祥子のプライドを傷つけるより、焦りを増幅させた。フェロモンどころか、ずっと男と関わっていなかったことが、男にはわかるのかもしれない。多少なりとも自分に女を感じれば、あれだけ会話をしたのだから、忘れるはずはあるまい。
「そのうち、食事でも」
 祥子は「そのうち」では困ると思った。「そのうち」などというのは、その場逃れの挨拶である。
「明日の夜、いかがですか。土曜日は診察はお休みでしょう?」
 義彦は一瞬とまどったようであったが、型通りの丁寧さで答えた。
「ええ、明日でもかまいませんが」
「それでは横浜の『白夜』というバーで。フェリス女学院の近くで、夜景がきれいなんです。古きよき横浜の匂いが残っているバーですから、お気に召すと思います」
「横浜ですか。都内に僕の行きつけの‥‥」
 義彦の言葉を遮り、祥子は優しく言った。
「私、明日、横浜で仕事がありまして」
 義彦はそれ以上言わず、バーへの道順を簡単に聞くと電話を切った。
 祥子は脱力したように、ソファに座り込んだ。横浜で仕事などない。ただ、どうしても横浜の『白夜』で飲むことが必要だった。

「白夜」はロマンチックを通り越し、どこか淫靡(いんび)な雰囲気のバーであった。カウンターだけの、ひっそりした小さな店だが、大正時代の横浜を思わせるような頽廃(たいはい)の匂いがあった。

 そして土曜日の夜、義彦は「白夜」に現れた。酒は強いらしく、火のつくようなラムを、オリーブを肴に飲む。祥子も酒は強く、ウッカにライムを絞り込み、赤くもならずに干していく。話題は建築の話や動物の話や、とりとめのないものであった。

 それでも、祥子は久々に男といる実感にときめいていた。カウンターに座っている義彦の背中は大きく、老バーテンに空のグラスを示すときに見える手首は骨張って太い。その背中と手首からだけでも、義彦の体は十分に想像できた。
「白夜」を出たのは零時を回っていた。横浜港の灯を見ながら、二人は暗い山手の坂を歩いて降りた。このまま降りていけば、石川町駅に出る。義彦が言った。
「駅前まで歩いて行けば、タクシーがつかまるでしょう」
「ええ」
 祥子は短く答えた。
 晩秋の夜風に吹かれ、二人は天気の話をしながら、坂を下りていく。途中で、義彦が立ち止まった。タバコに火をつける。ライターの炎は風に吹かれ、消えた。祥子は手を貸すこともなく、見ていた。義彦はトレンチコートの腕で風を遮り、火をつけた。暗い坂道に、オレンジ色の炎が義彦の横顔を浮かび上がらせた。大きく煙を吸い込む。
 祥子が言った。
「今夜、どこかに泊まりません?」
 紫煙の煙を吐き出すと、義彦は驚くふうもなく、答えた。
「いいですよ」
 何だか、水のような人だった。
 タクシーの運転手に、義彦は告げた。
「羽衣町に」
 手慣れたように近道を指示すると。タクシーは小さな和風のラブホテル前に停まった。
室内には春画もどきの浮世絵がかかっており、「夜具」というに相応しい布団が二つ、畳に並んでいた。寝室と風呂場は透きとおったガラス戸で仕切られており、そこにはもっと卑猥(ひわい)な浮世絵が描かれていた。

 丸見えの風呂場でシャワーを浴び、祥子は義彦の布団に入った。初めからこうなることを望んでいた気もするし、頽廃(たいはい)の匂う酒場で男と会うことだけを望んでいたような気もした。しかし、今となってはどうでもいいことであった。

 義彦の腕の中に入り、祥子は言った。
「横浜に詳しいのね。スパッと『羽衣町』って」
「ここ、前にも来たことがあるから」
 祥子の体の芯に、小さな火が付いた。このホテルで誰かと抱き合ったということが、体を刺激した。
「君、仕事で疲れきってたんだろう」
 義彦がポッンと言った。
「え?」
「仕事でクタクタになると、たいていの男は女が欲しくなる。たぶん、女もそうだと思って」
 義彦は祥子の薄い胸を掌で包み、囁いた。
「僕を街で拾った男だと思えよ」
 壁の春画が祥子の目に入った。着物の裾を割って白い太股をむき出しにした女が、男に組み敷かれている。
「そういう時は、こういう連れ込み宿が一番いい。下品な気持ちになれる」
 祥子は初めて、この男を好きだと思った。
 過去、祥子の知らぬ女と下品になったのだろうと思うと、体の芯についた火が大きくなった。

 祥子は街で拾った男を相手にするように、大胆に行為をした。それは再び顔を合わせる相手なら、決してできないことであった。それでいながら、「この人とはまた会う」という確信があった。また会う相手と、恥ずかしくて会えないような行為をしているという意識は、火照るような快感だった。

 ラムとウッカを注いだ二人の体は、暴れ。うねり、いつどこで果てたのやらもわからなかった。
 あれから六年がたち、結婚生活は四年目を迎えている。
 祥子は義彦の腕枕からどうにかすべり抜け、バスルームのドアを開けた。
 大きな姿見の前で、バスローブを脱ぐ。鏡に映し出された裸身から目をそらした。演技をしながら、夫を受け入れた体を見たくなかった。

 セックスが好きすぎるという一点を除けば、義彦は最高の夫であった。何よりも、祥子の仕事を義彦自身が誇りにしている。祥子がいい仕事をすることが、一番うれしいと言う。双方の実家から孫の顔が見たいと遠回し言われるたびに、義彦は祥子に聞く。
「君が作りたいなら作ろう。どう?」

 祥子は子どもが嫌いではないが、今は仕事がしたかった。ここ二年くらいが、仕事の上では大きなチャンスであり、それを外したくなかった。三十四歳という年齢は、出産年齢のリミットというほどではない。子供は二、三年は作りたくないと言うのが本音であった。そう言って謝る祥子に、義彦は必ず言う。

「僕は今のライフスタイルが一番好きなんだから」
 義彦の父は、義彦が結婚した直後に亡くなり、母は友人の多い横浜でマンション暮らしをしている。それだけに、何の気兼ねもいらない生活を二人で続けていられた。
 義彦と話していると、祥子はいつも心が和(なご)む。物言わぬ動物を相手にしているせいばかりではあるまいが、祥子の心を読むのが非常にうまかった。疲れ切っている時には放っておいてくれるし、これ以上は突っ込まぬ方がいいと思えば、阿吽の呼吸で引く。祥子の仕事上の人間関係についても、常に的確なアドバイスをする。妻としては、いつも自分が丸ごと愛されているとう安らぎがあった。

 しかし、どうして妻がセックスに飽きていることを読みとれないのか。どうして妻がセックスに飽きていることを読みとれないのか。そして、達した演技をしているのがわからないのか。祥子には不思議でならない。自分の欲望を処理したいがあまり、気づかないふりをしているのだろうか。

 祥子は「処理」という言葉に行き当たるたびに、惨めになってくる。しかし、何ひとつ問題のない結婚生活だけに、それを維持するためには、この程度の我慢は些細なことなのかもしれない。
 祥子はセックスが嫌いなのではなかった。結婚前に得ていたような、本当の快感が得られるならいい。それは気持ちを和らげ、自分が解放され、愛する相手との肉体言語ともいえるものである。

 ただ、今はもう義彦とのセックスには飽きた。夫として愛してはいるが、セックスには飽き飽きしている。
 いかにも感じているような演技をしながら、洋子はよく仕事のことを考えていた。
「明日の客はうるさいから、ビシッとスーツで行こう」とか「あの書類。コピーを二部取っておいた方がいいな」とか、時には会議の段取りを考えることさえあった。それでいながら身を反らせ、眉間に悦びの表情を刻む。すべて演技であった。

 義彦には祥子との結婚を決める時、かなりの躊躇(ちゅうちょ)があった。
 あらゆる点で祥子の方が上位にいることが、義彦の気持ちを重くしていた。
 祥子は一流大学の工学部で建築を学び、大学院に進んでいる。大学院の一年の時、国費でパリにわたり、照明を学んだ。これだけでも義彦には勝てないのに、加えて一級建築士の資格を持ち、結城丈一郎に目をかけてもらっている。

 義彦はといえば、いわゆるお坊ちゃま大学の獣医学部を出て、家業のペックリニックを継いだだけである。頭悪くなかったが、祥子の経歴に比べると見劣りする。ただ、一人息子として伸び伸びと育てられ、気のいい男ではあった。当然のことながら、友人も多かった。

 その友人の結婚式で、祥子と出会っていのだが、ほとんど記憶になかった。やせて背が高く、色気の感じられない女だったし、そんなすごい経歴の持ち主だということも知らなかった。ただ、主婦である友人たちとは話が合わず、何となく白けているようすに気づいていたという程度である。

 その祥子から突然、電話がかかってきた時は、誰だか全く思い出せなかった。友人の結婚式からは六ヶ月も経っていたし、関心もなかったから覚えているわけもない。
「白夜」のカウンダ―に並んだ時、祥子は言った。
「オバサンたちにフェロモンがないって言ってくださった、私、少し救われたんですよ」

 そんな気の利いたことを言ったとは、義彦は初めて知った。酒に酔っていたのか、まったく覚えていない。顔に出ないたちなのでそう見れないことが多いが、翌日になってから空白の時間に気づくことがよくある。祥祥子には覚えているふりをして誤魔かした。
「白夜」で会うことを承知したのは、女から電話をかけてきたというのに、まったく記憶にないことへのバツの悪さと、祥子が積極的で、これなら断るより会った方が手間がかからないと思ったからにすぎない。

「白夜」のカウンターで、先に着いていた祥子が会釈した時、義彦はホッとした。どうしても祥子の顔を思い出せず、また失礼なことをするかもしれないと思っていたのである。挨拶しながら、「ああ、そういやこんな女も隣にいたかもしれない」と思った。

 この時、義彦には付き合っている女がおり、彼女と結婚するつもりでいた。井上美保という彼女は二十三歳のOLであった。可愛がっているペルシャ猫を診察したのをきっかけで、すでにつきあいは二年になる。二人きりでグアムやサイパンにゴルフにも出かけいたし、
「妊娠したみたい」
 と打ち明けられ時は、すぐに、
「産めよ」 
 と言った。
 結局、妊娠はしていなかったのだが、いずれ結婚する心づもりはできていた。
 祥子に初めて興味を持ったのは「白夜」でその経歴を知った時である。祥子が積極的に話したわけではなかったが、二人きりで飲むうちに、それは嫌でも見えてきた。
 義彦の出た私立高校からは、祥子の学んだ大学の建築科には、三年に一人合格すねかしないかである。それほどの難関にサラリと現役で合格した女を、義彦はあきれる思いで見ていた。

 祥子はどんな話題にも、軽やかに反応した。政治や経済も語るし、芸能ゴシップにも、おいしいレストランにも詳しかった。動物は苦手だと、申し訳なさそうに言う。
「昔からダメなんです。犬も猫も写真で見ると可愛いと思うのに、どうしても抱っこできない。小鳥なんてもっとダメ。あの針金見たいな足や羽なんて、それこそとり肌が立つの」
 そう言った後で、笑っていった。

「私ね、果物もダメなの。苺もオレンジも桃もサクランボも、全然食べたいとは思わない。女の子って犬や猫を見ると、『ウワァー! 可愛い』って頬ずりして、『好きな果物はフルーツです』っていう人が多いでしょ。そういう人と会うたびに、私、コンプレックスを持つの。何か可愛くないもの」

 美保は全くそんな女だった。ペットクリニックに来る女たちも、そういうタイプが多かった。祥子の言葉を、内心では「とり肌が立っとは、獣医に向かってよく言う」と思いつつ、義彦はどこかで面白がって頷いていた。ペットとフルーツが好きな女ばかり見てきただけに、虚をつかれた面白さがあった。
 暗い山手の坂道で、祥子に、
「今夜泊まりません?」
 と言われた時、内心ではタバコを落とすほど驚いた。このやせた、色気のない女と「セックス」という行為がどうしても結びつかない。が、次の瞬間、答えていた。
「いいですよ」
 折しもの風にタバコの煙が流れ、義彦は目をしばたいた。目に表れた驚きは、絶対に悟られなかったろ。

 誘いを受けたのは、単純に興味があったからである。これほど知的レベルの高い女がどういうセックスをするのか、気をそそられた。知性を意識している女は、後腐れがないだろうという狡(ずる)さもあった。美保もいることであり、後腐れのあるのが一番困る。
 初めはラブホテルに行く気はなかったが、坂道を歩きながら考えた。
「この女は、何だって俺と‥‥」
 その時、ふと気づいた。徹夜で麻雀や仕事をやり、疲れ切った時に必ず女が欲しくなる自分自身に。

 坂道を並んで降りていく祥子は、そう思って見るせいか、仕事にやつれて見えた。おそらく、男とも何年も関わっていない顔だ。それなら、俺が身も心も解放してやるよという情がわいた。下品なベッドで、いくらでも下品になればいい。もしも、この女がそうなれるものなら、という気持ちになっていった。ほとんど見ず知らずの義彦は誘う女の思いが、何となく胸にしみてもいた。

 下卑た一室で抱き合うや、義彦は驚いた。セックスの好きな女だということが、すぐにわかった。
「電気は消さないで」
 祥子は煌々(こうこう)とした灯の下で、絡みついてきた。
 瘦せた骨張った腰、まるでふくらみのない胸でありながら、セックスはうまかった。挑みかかるかのように、何でもやった。男を悦ばせるテクニックを、玄人のように心得ていると言ってもよかった。そして、義彦に対しては、こうして欲しいと口に出す。こういう女とつきあったことはなかった。

 自分の体の下で果てた祥子を上から見ながら、義彦は初めて味わうような快感を覚えていた。経歴や知的レベルではかないそうもない女を好きなように扱い、何でもさせ、そして最後は義彦自身が殺した。

 義彦は祥子の上になって体を動かした。立ち上がり、タバコに火をつけた。祥子は一糸まとわぬ体を長々と伸ばし、荒い息をしながら動けずにいた。
 義彦は「オーガズム」という言葉が、「小さな死」を意味することを思い出した。下品なピンク色の灯りの下、裸の体に毛布を引き寄せる気力もなく、祥子は死んでいた。

 俺がこいつを殺したという快感は、美保には最初から持てなかった。女を抱いた快感はあっても、殺したという快感は一度もない。
 義彦は裸のまま、立ってタバコを吸った。一八〇センチの長身が、素っ裸で死んでいる祥子を見降ろした。タバコを一本吸い終わっても、祥子は動けずにいた。見降ろしながら、義彦はいい気持ちだった。

 それっきり、祥子から二週間以上、電話一本なかった。義彦はその間、美保を二度抱いた。祥子よりははるかに丸みのある、まさに女の体であったが、祥子を殺した後ではまったく面白くない。灯りを必ず消させることも、大胆なことを要求すると恥じらうことも、決してうまいとはいえないことも、今まではすべてが可愛らしかった。遊び慣れしていない証拠に思えて、いじらしくもあった。

 しかし、祥子ほどの知的で、いい仕事をして、社会的にも認められている女が、あそこまで淫らになれる。それを知ってしまうと、平凡な美保が恥じらったり、下手だったりというのは、単に鈍いとしか思えなくなってきた。

 そんなある日、小さな新聞広告を目にした。「都市の灯」というシンポジウムの案内で、フランス人二人と祥子がパネラーとして名前をつらねていた。
 義彦がシンポジウムに出かけて見ると、五百人ほどの聴衆を前にして、祥子はすべてフランス語で渡り合っていた。聴衆は同時通訳のイヤホンをつけていたが、義彦には内容などどうでもいいことであった。ペパーミントグリーンのスーツをマニッシュに着こなした祥子が、流れるようなフランス語で話すのを見ていた。

「あのスーツの下の体を、俺は知っているんだよ。あのスーツの下の体で何を‥‥。フランス語が出てくる口で何を‥‥。あいつは俺に殺されたんだよ」
 そう思うと、欲情した。薄くて棒のような祥子の体に、激しく欲情した。
 その夜、祥子を渋谷のラブホテルに連れ込み。ペパーミントグリーンスーツのスーツを引きちぎって押し倒した。祥子は一度目よりさらに激しかった。
 間もなく、美保とは別れた。

 結婚して四年が経ち、義彦は十日に一度、今でも必ず祥子を抱く。
 実は、義彦自身は、かつてのような快感を覚えていなかった。祥子に欲情するということも、もはやなかった。ただ、妻とセックスすることは、夫の義務だと割り切っていた。仲間たちに会うと、彼は必ず言う。
「オカアチャンとやってなくてサ。そろそろ半年だよ」
「俺んとこなんか、もう二年」
 まるで自慢話のように言う。それでも一緒にいるのだから、それはそれで夫婦の平和ということかも知れない。しかし、義彦はセックスという義務は、結婚した以上は果たすべきだと考えていた。

 できることなら、月に一回くらいしたいが、あれほどセックスの好きな祥子が我慢できるわけがない。長い付き合いの中でわかりあったやり方で、十日に一度、濃密に体を重ねるからこそ、祥子は充ち足りた気持ちでいい仕事ができるのだ。

 今では、義彦と祥子の社会的な差はますます大きくなっている。祥子の年収は、講演や多くのアルバイト、大学の非常勤講師もやっているから、千三百万ほどある。あまり商売の上手くない義彦は、八百万がいいところである。社会的にも祥子のポジションは高くなっており、新聞や雑誌に載ることも少なくなかった。

 そんな妻に、夫としては屈折した気持ちがないわけではない。美保と結婚して、当たり前に子供を作り、当たり前に家族でディズニーランドに行く幸せを選んだ方がよかったと思うことがある。
 雨の日、講演に出かける祥子を黒塗りのハイヤーが迎えに来て、自分は傘をさして駅まで歩き、往診に出かけた日はさすがに気持ちが沈んだ。車を車検に出していたから電車なのだ、という理由は何の役にも立たなかった。

 それでも、義彦には自信があった。あれほどセックスの好きな女を、毎回達せられるのは、自分ぐらいしかいないと思っていた。妻の仕事が認められ、社会的地位があがるほど、自分の後ろ盾が認められたような気になる。

 仲間たちは自分の妻に対し、
「愛しているんだから、やらなくたっていいんだ」
 と言う。が、女であれは体の充足が心の充足につながるはずだ。毎回、自分の下で体を反らせて果てて、一度たりとも拒否しない祥子を思うと、何があろうとも義務としてのセックスを、こなさなければならぬと思う。
 それに、毎回死ぬ祥子を見る事で、自分自身のバランスを保とうとしている事実をも、義彦は承知していた。

 十月も残すところ一週間となり、謙次の勤める東洋電機では、本社ビルをクリスマスらしいライトアップする計画が進んでいた。
 ひと頃の景気が影をひそめた今、あまり金をかけずに、洗練されたライトアップでイメージ作りが出来ないものかと広報室を中心になって話をつめていた。

 その計画を請け負ったのが結城丈一郎建築事務所である。
 最終的な、細かな打ち合わせがもたれた日、祥子は東洋電機の本社を訪れた。これまでも会議のたびに足を運んでいたのだが、謙次はいつも他の会議があったり、出張で不在だったりして、二人はまだ会ったことがなかった。
 受付に出迎えた謙次の方に、祥子は走ってきた。約束の時間を三十分も過ぎ、打ち合わせすでに始まっていた。
 ロビーの向こうから、祥子は走りながら叫んだ。
「遅れてすみませーん。武田です」
 そう言った途端、大理石の床にハイヒールがすべり、祥子はもんどりうって転んだ。
「大丈夫ですかッ」
 駆け寄った謙次の手を借りて、行き交う人々の中で、祥子は顔をしかめて立ち上がった。
 ハイヒールのかかとが、片一方だけ吹っ飛んでいた。
「あらァ…参った」
 謙次は転がっているかかとを拾い、言った。
「地下に靴屋がありますので、僕が修理に出しておきます。今、スリッパをお持ちしますから」

 祥子はそれには答えず、踵の付いている片一方を手にした、そして、力任せにその踵とをもぎ取った。
「こっちもク゛ラク゛ラしたのね。すぐに取れちゃったわ」
 踵ないハイヒールは履き、祥子は歩き出した。二、三歩行くと。謙次の方を振り返った。
「やっぱり歩きにくいわね。ま、スリッパよりはマシよね」
 初めて笑って見せた。
 面白い女だなと、謙次も笑った。

つづく 第三章
 ヒールのない靴をはいた祥子を中心に、東洋電機のイルミネーション会議は進んでいった。文章を入力してください。