これから眠らせる男のためにビーフシチューを何時間も煮込んだり、男の家の火災報知器を外しながらも、朝から晩まで家事をこなし、男の嫌いな食材を取り除いた料理を丁寧につくる女だよ? もちろん彼女の容姿もきになった。美しくない女が、この社会でどんな扱いを受けるか、女ならば誰だって知っている。彼女が感じてきたであろう視線を想像しながら思う。いったい彼女にとって、男とは何だったのだろう? 復讐の対象? ならばなぜ「そんなに優しい?」のか?

本表紙 より引用

「セックスレス」夫婦であっても「浮気・不倫」は楽しいものだしロマンスがある憧れチャンスがあれば間違いなく男女の区別なく逃さない。浮気性の恋人や夫をどうあやせばいいのか、恋人の「浮気・不倫」疑惑が浮上したときはどうしたらいいか、恐るべき夫の言い訳の”ただのお友だち”をどう撃退するか?

あとがき毒婦という戦い方 北原みのり

 友によれば、2009年、木嶋佳苗の事件が明らかになった時、私は佳苗のことばかり話していたという。事件の詳細を、まるで見てきたかのように語り、「あの人、完全黙秘なだよ〜!」と嬉しそうに自慢し、おまえは佳苗の親友か? というくらいにはしゃいでいたのだ。その時点で佳苗について書くとも、裁判を傍聴するとも考えていなかったけれど、確かに私は最初から彼女に強烈に惹きつけられていた。
 だって、これから眠らせる男のためにビーフシチューを何時間も煮込んだり、男の家の火災報知器を外しながらも、朝から晩まで家事をこなし、男の嫌いな食材を取り除いた料理を丁寧につくる女だよ? もちろん彼女の容姿もきになった。美しくない女が、この社会でどんな扱いを受けるか、女ならば誰だって知っている。彼女が感じてきたであろう視線を想像しながら思う。いったい彼女にとって、男とは何だったのだろう? 復讐の対象? ならばなぜ「そんなに優しい?」のか?
 
 その答えを知りたくて裁判傍聴をし始めたけれど、そしてその裁判は、まるでジェンダーの試験劇場のようでめちゃくちゃ面白かったのだけれど、でも結局、「平成の毒婦」と呼ばれた木嶋佳苗に近づけた実感は持てなかった。むしろ、私の答えが見えたのは、本書の元なった「毒婦座談会」によってだった。
 特に信田さよ子さんが「ケア」の概念で、木嶋佳苗が男たちにしたことを解き明かしてくれたことに、私は鳥肌が立った。ああもしたら、それこそが、私が木嶋佳苗の事件に惹かれる理由で、もしかしたらそれこそが、「毒婦論」そのものなのではないか、と思ったから。

 被害者の男性の多くが、初めて会った木嶋佳苗のことをこう語っていたことを思い出す。「色白で、純朴な感じで、自分からは話さず、話を聞いてくれていた」「私のぼろぼろの財布を見て、『堅実な方』と褒めてくれた」「育ちが良さそうで、自分の話すことに笑ってくれた」などなど。
 男の話を聞き、相手を褒め、子ども好きをアピールし、家事が得意であることを匂わせ、控えめにセックスを自ら求め、時に”母のように”男を導き、そして死まで”看取る”。佳苗がやってきたことは、こう書き並べてみるとまるでどこかの女性誌が特集する「愛される女」像にぴったりと当てはまる。それをケアする女、だ。まるで母のように男を世話し、エロもご提供。しかもそのエロは目の前の男にだけ響くエロであり、決してヤリマンを匂わせることはない計算されつくした、男を受容できる程度の矮小化されたケアとしてのエロだ。

 そう、男にとっては、エロですら女に求めるケアである。佳苗は、この社会から、彼女の生きた時代から、そのことを徹底的に学んだはずだ。それはもちろん、佳苗と同時代を生きた多くの女たちも同様に。

 座談会で語り尽くせなかったことはいっぱいある。その一つが、上野千鶴子さんが前から発言されていた、「私はあの世代(エンコー世代)から、思想が出て来るのだと思っていた」というお言葉だ。家父長制の柱をシロアリの如く食い荒らした「コギャル」たち。”女の子が最も大切にしなければいけない”ものを、ブランド物と引き替えに売り始めた女の子たち。90年代の大人たちは、というか上野千鶴子さんは、彼女たちが大人になった時に、社会をどう語り、男社会をどう生きていくのだろうかを待っていたのだ。

 年齢だけを見れば、木嶋佳苗はエンコー世代よりも、ロスジェネ世代に近い。ただ、北海道で育ち、東京に憧れも1993年に18歳でたったひとり上京した佳苗は、恐らく90年代の東京に純度高く順応したはずだ。でなければ、誰も助けのない東京でたったひとり「援助してください」と逮捕された34歳まで言い続け、男たちからお金を引き出すようなことが出来ただろうか? 「私がして差し上げたことの対価として(お金を)頂いただけです」と木嶋佳苗はそう裁判中に語っていたが、おそらく本心だったのだろう。そういう意味で、木嶋佳苗の事件は90年代の”あの世代”を生んだ一つの象徴である。「思想」として開花しなかった、ひとつの結果である。

 一方今、最も注目されているエンコー世代といえば、グラビアアイドルの壇蜜(だんみつ)だろう。1980年生まれの彼女は、「援助交際」が流行語になった1996年に高校一年生だ。私は彼女にインタビューをしたことがあるが、「ピンポイントでエンコー世代です」と自分の世代について言い切っていた。当時、女子高生を狙って、スカートにカメラを突っ込んでくる男や、歩道橋の下でカメラ抱えている男などいくらでもいたという。壇蜜さんは「男の人は性は売りものになる、と教えてくれた」とおっしゃった。もちろん、この社会で生きていれば、多かれ少なかれ、その現実に女は直面する機会があるだろう。が。あの時代の女の子たちは、最もあからさまに、容赦なく、逃れようのない勢いとして、その価値観を年上の男たちから一方的にぶつけられたのだ。

「あなたの性は売り物になるんだよ! しかも今が高値! 俺に売れ!」と。
 壇蜜さんは、当時エンコーをしなかったという。黒髪で色白のまま高校時代を過ごした。それは「性を売ったお金で何を買うかわからなかったか」だったと私に話してくれた。小学校から大学まで、ずっと都内の女子校にいた壇蜜さんにとって、男の性欲、男のエロ、男の社会は、女の社会と「対極」にある、「いつか出会う”黒い勢力”」であったのだ。その事の意味は大きい。なぜなら、壇蜜さんは、その価値の中に生きることなど端から考えておらず、対極にある価値として向き合っていたのだから。

 そんな彼女が、今、日本の男(特に40代以上)が求めているエロを凝縮し、「あなた、これが見たかったのよね!」と真剣にエロを体現する姿は運命的だ。信田さよ子さんに、壇蜜をどう思います? と聞いたところ、
「私、好き! あの人、女のバロディだから!」
 とサラっと仰っていたが、確かに壇蜜さんのエロは、どこにもない女のエロのバロディとして完璧で、だからこそ女に受けるのだろう。男にやらされている感や、虐げられている感がまるでなく、清々しく、潔く、そして「パロディ」ならではの、痛烈な批判がそこにあるのではないかと、女は見抜いているから。

 実は私が書いた『毒婦。』の映画化を企画してくれた監督がいた。山田あかね監督だ。山田監督は、木嶋佳苗役を誰にしようかと考え、一番はじめに壇蜜さんにオファーしたそうだ。まだ本格的ブレーク前の壇蜜さん、にだ。オファーは実を結ぶことはなかったけれど、その話を聞いた私は、ちょっとぞっとした。方や日本の男の股間をケアし崇められる存在として。方や日本の男を眠らせ罵られる存在として。だけど、どちらも男が見たいものを見せているだけという意味で、壇蜜と木嶋佳苗はとても似ている。そのことに気がつかされたから。「表現方法」は違っているとはいえ、間違いなく二人はあの時代を生きてきた女の子なのだ。90年代を、東京の真ん中で。

 性は売り物になると、あの時代教えられた女の子たちは、今、どうしているのだろうか。実際に性を売った子は、その体験をどのように受け止めているのだろうか。座談中、「売春は女を傷つけるのか」という議題は結局、どこにも着地せずに私の中ではもやもやしたまま終わってしまった、生きてるだけで傷だらけ、みたいな人がいっぱいいるような時代において、売春が特別に女を傷つけるのならば、それはいったいなぜだろう。

 木嶋佳苗は裁判の中で決して「売春」という言葉は使わなかった。彼女は自分と男の関係を「愛人契約」と言い、「(愛人契約の仕事)私に向いていました」と軽やかに証言台で語っていた。佳苗と同世代の男性検事が軽蔑するように「あなた、当時、決まった彼がいましたよね?」と言うと、「(彼がいたからといって、セックスを拘束するような)そういう価値観を持っていません」とサラリと流していた佳苗を、私は忘れられない。その言葉が本当にどうかはさておき、彼女のその軽やかさに法廷の男たちが苛立ったのは言うまでもない。

 売春で傷つかない女、売春を後悔しない女は、売春をしている女以上に、もしかしたら男にとっては脅威なのかもしれない。だから男たちは何度も確認するように、売春婦たちに語らせるのだ。セックスを買う男たちはクリシェのように、その最中に「なぜこんなことをしているんだ」と聞きたがり、売春をした女を「なぜこんなことをしたんだ!」と叱りたがる。女が性を売る理由やその物語を語らせたがるのはいつだって男だ。

 というよりは女の私にとっては、女たちが売春をし始める理由や、「それを後悔しているか?」などという物語は本当にどうでもよい。だいたい「性を売ったことがない」と言い切れる女など、どのくらいいるのだろう? グラデーションはあり、女は女であることで性的に買われ、性的に搾取され、性的に商品化され、性的にランク付けされる。売るつもりはなくても、商品として陳列されているのであれば、生きているだけで私たちはみんな売春婦だ。「処女か、やりまんか」「脱いだか、脱いでいないか」「本番をさせるか、させないか」「ナマでやれるか、やれないか」「産んだか、産まないか」「未婚か、既婚か」などの価値付けが男によってなされ、男の決めたセックスのルールの中で泳がされ、絶対に罠に落ちないように気を付けて生きようと思えば思うほど不自由になっていくことが宿命づけられている。そんなセックスから女を解放することこそ、私が目指してきたものだ。

 だから私は、上野さんがおっしゃる「言説の政治」的に、「はぁ? セックスで傷つく? なに、今さら言っちゃってんの? それ以前に、あたしたち満身創痍なんだよ! いい加減にしろよ、あん?」みたいに言い切りたいと思う。
「はぁ? 私にも性欲あるんですけど? 気持ち良くなきゃ、なんでこんな仕事やってられっかよ? っていうか腹筋鍛え直して出直してきな!」とか言ってみたい気持ちがあるのだ。「はいはいはい、あなたこの程度のエロでおちんちんを立っちゃうのねぇ、ちんけ〜」と笑ってしまいたい気持ちがあるのだ。

 私自身が痴漢の被害にあった時。また私自身が「売春」した時、私が感じたのは傷の痛みではなくシンプルな怒りだった。それは「私の人生に見知らぬ男が乱入し、かき乱し、邪魔した」ことへの理不尽さに対すること。「売春」について注意深く語らなければ、と用心すればするほど、なぜ私は用心しなければいけないのか? 買春する男たちは男同士肩を組み、時にはツアーまで組んで「娯楽」として、大きな声をあげてやっているというのに。なぜ女は、用心し続けなければいけないのか? という怒り。

 毒婦と呼ばれる女たちに私が惹かれるのは、まさに、その点なのだと思っている。私が知る毒婦と呼ばれる女たちは、この社会で自分の行く手を「邪魔されてきた」歴史を確実に抱えている。佳苗も、鈴香も、美由紀も、香織も、美代子も。彼女たちが犯した罪以前に彼女たちの怒りが伝わってくる。彼女たちは男の決めたルールの落とし子だ。罠に素直にかかってしまった者、ルールを自覚的に利用したつもりが、囚われすぎてしまった者、ただただそのルールに邪魔されてきた者。使い古された陳腐な言葉ではあるが、女の犯罪者、または被害者には、やはりこう言わずにはいられないのだ。「あなたは。私だ」と。

 そうそう、木嶋佳苗のことでひとつ。木嶋佳苗の容姿があまり美しくなかったから、男たちも気を許して騙されたのだ。という話が本文の中で出た。それは「男にモテるもの持てないのも、容姿は関係ない」という文脈だったが、そしてその時は「そういうもんかなぁ」と黙っていたけど、鼎談から時間が経った今、「やっぱり、佳苗が美人でも、男は騙されたんじゃないの?」と、確信をもって言いたい。

 佳苗が美人だったら、佳苗が”あの佳苗”になったかどうかは分からない。が、佳苗が美人だろうが不美人だろうが、男性は騙されたはずだ。なぜなら、男は生きる上で、用心などしていないから。そして自分の容姿や性的魅力について、相手の「ランク」と比較し批判できる客観性など、ほとんど持っていないから。むしろ美人な佳苗だったら、「ああ俺の良さをわかってくれる女が現れた、今まで不遇だったけれどようやく自分の優しさ、地味さ、堅実さを理解してくれる女が現れた! しかも美人!」ともっとお金を出したはずだろう。女がケアとエロを駆使し、男との関係を考慮することに、この国の男たちは安寧しきっているし、自己完結した性欲と女と男の物語を、信じ切っているのだから。そう、実は見えてきたのは、「毒婦と呼ばれた女の姿」である以上に、この国の男たちの姿、だったかもしれない。そのあまりにもおそまつな性欲観や女性観が、毒婦を通して浮き彫りになったのかもしれない。

 2013年5月、日本維新の会の橋下徹代表が、「慰安婦制度というものが必要なのは誰だって分かる」とか「(駐留米軍は)もっと風俗業を活用してほしい」と語ったことは記憶に新しい。橋下代表は激しい批判を受け、アメリカに向けて(女性にじゃなく)謝っていたけど、この発言に関連し、「男性とはそういう生き物」と肯定する男性言論人もいた。また橋本発言をフェミニズムの観点から批判する方はヒステリックで、男性の性欲を理解していないとばかりに、「女性は男性の性欲を理解した方がいい」という発言もあった。

 男の性欲とは、いったい何だろう? 自分の性を女にケアしてもらい、国家にコントロールしてもらうことに違和感を持たない性欲って何だろう? 私は男たちが語る”男というもの”に、何度も絶句した。だいたい「一般女性を守るために、俺たちは風俗を利用しているんだ」とか「国を守るために、俺たちは買春しているんだ」とでも言うような言い分は、あまりにも陳腐で滑稽だ。でもそれが多くの男性の本音だとしたら‥‥私には、男たちがいとも簡単に佳苗に騙されたのも分かるように思えてきた。薄っぺらな女性観で女からのケアを当然のように求める男たちの傲慢さを、佳苗は直球で狙ったのだから。抽象的な概念でしかない「男というもの」−男の性欲というもの」にしがみつき、目の前の女の生々しい性や言葉から目を背け続けてきた結果がここにあるかもしれない、と思えたのだ。

 本書の中で信田さよ子さんから、女は毒婦を自分に引きつけて考えるが、男は犯罪者を自分に引きつけて考えようとしない、というご指摘があった。その指摘は、対談後私の中でどんどん大きくなっていった。特に性犯罪などは「オレでもしてしまったかもしれない‥‥」と、最も考えやすく共感しやすい犯罪だと思うのだが、「男とはこういうもの」という安定感の上に立ち、「一部の過剰な性欲の持つ主が、風俗を利用する知恵も働かせず、抑えきれない劣情にかられ、本能の赴くままにやってしまう性犯罪」と捉え、自分とは無関係な犯罪と思いたがる男は少なくない。それは男性被害者に対してもそうだ。「もてないから、ああなった」「ぶすだから油断した」と言い切り、「オレは騙されない」と言って、佳苗の事件に興味を持とうとしない。

 そうではなく、男たちが「自分たちがボンヤリと信じてきた男というもの」に疑問を呈し、毒婦と向き合う頃なんじゃないだろうか。「男である」故に加害者になった男たち、被害者になった男たちと共鳴し、同情するところから、男であることを考え直してほしい。男がうたがいなく信じている男の常識を、毒婦たちは覆してきたのだから。覆されたのは、あなた自身の価値観である、そのことに向き合ってほしい。

 女たちは毒婦語りをし、女であること、私であることを徹底的に語ろうとする。それこそがフェミニズムであり、それこそが、この社会で生き、戦う言葉を紡ぐ行為だからだ。毒婦語りの中、上野さんと信田さんと話しながら、私はそのことを強く意識した。毒婦という戦い方を語りながら、自分自身が毒婦として毒婦と呼ばれる女たちを語りながら、考えた、女の人生を考えたその楽しさが、私にとってフェミニズムなのだと思った。フェミニストは、本当におしゃべりだ。おしゃべりでなければ、フェミじゃないって言うくらいに。そしてふと思う。もし、佳苗に女友だちがいたら。美由紀に親友がいたら、言葉を紡ぎ世界を語れる”毒婦仲間”が彼女たちに、もしいたらならば‥‥と。

 座談会は、2012年12月、原宿のブックカフェ・ビブリオテックで行われた。その後、上野千鶴子さんのご自宅、高層マンションの27階という”空の上”でも行った。なぜか上野さんは、信田さんの前でガールになり、放っておくと、ふたりはいちゃつき始めるし、下ネタが始まるのだった。長時間の座談会だった。時に上野さんは厳しく、信田さんはへにゃへにゃ身体をくねらせながら怖いことを言い切った。

 本文にもあるが、私が90年代はフェミが盛り上がった、と言うと、「上野さんはピシャっと「そんなのことはない。それはあなただけ」と言い切った。確かにそうなのかもしれないが、それでも90年代、女の子が武装し外に出たこと、東電OLが街に立ったこと、木嶋佳苗がひとりで生き始めたこと、壇蜜さんが「性が売り物になる」ことを受け止め、その20年後に日本のエロを背負うようになること、そしてもちろん私が「女が主体に楽しめばいいだよ!」と90年代にバイブ屋を始めたこと、そんなこと全ての背景に、私はあの時代聞こえ始めた「女の言葉」があったように思う。オジサンの価値に振り回されないための、女の言葉。それは、それまでに戦い、言葉を放ってきたフェミニストたちの言葉だ。だからこそ女たちは、「女であること」を、怖々とではあるけれど、一人ではないという思いで、試すように、冒険するように、戦うように生きようとした。70年代のウーマンリブ、80年代のフェミニズムが紡いだ言葉の重みは絶対に90年代の女に、届いているはずだと、私は信じたいのだ。

 きっと、「あの時代」を生きた女の言葉たちから生まれる思想、表現は、今後もっと出て来るだろう。それがどんな風に私たち社会、私たちの今を見せるのか、変えるのか、私はとても楽しみだ。

 あっちこっちに飛び、盛り上がった毒婦話をまとめてくれた河出書房新社の松尾亜紀子さん、ありがとうございました。佳苗の世代に最も近い松尾さんの話に触発されること、とても多かった。そして上野さん、信田さん、またいつか毒婦語りをしたいです。その日を楽しみにしています。

家族のパロディとしての事件を読む     信田さよ子


 鼎談のお相手であるおふたりの会話は本当に楽しかった。ついつい話しすぎてしまい失言かなあと思う部分もあったが、ま、いいかと思ったそのまま掲載することにした。

 女性が男性を殺す事件を受け止め方は、ジェンダーによって違いが生まれる。本書で扱った事件については、発生当初から興味を持って、週刊誌(中でも女性誌)を読んできた。不謹慎なようだけど、大勢の男性を殺害する事件にどこか痛快なものを感じていた。鼎談が結構盛り上がったのは、きっとそんな気持ちが3人に共通していたからじゃないだろうか。何人もの男性を殺した女性の話が、なぜそこまで私たちを興奮させるのだろう。

 ストーカー事件でも、通り魔事件でも、多くは女性が被害者である。DVで逃げた女性も、いつのまにか興信所を使って居所を突き止められて、待ち伏せされて前夫から殺されてしまう。そして逮捕された加害者である男性は、彼女を殺して自分も死のうと思ったけれど死にきれなかったと語る。彼らの殺し方はきわめて単純で、刃物を使ってめった刺しにしたり、首を絞めたり、殴り殺すという方法だ。見つけるまでの執念深さに比べると、殺す方法はあまりにもあっけなく、何の工夫もない。逮捕されてからの供述に、それほどの物語性も感じない。いっぽう、殺人を犯した女性は、もちろんマスコミではさんざんののしられ、悪女とか毒婦としてごうごうたる批判にさらされる。

男女共同参画競技などない

 毎日ニュースをチェックしていれば、男性が妻や娘、恋人、母親を殺す事件は数多く起きているが、身体の大きさや身体能力において、女性は男性には及ばない。それはどうしようもなくリアルな現実である。オリンピックの競技だって男性と女性は戦わない、走ったり泳いだりするタイムは違うし、砲丸投げの飛距離や棒高跳びの高さだって違う。筋力も腕力も違う。サッカーも、なでしこリーグとJリーグは戦わない。

 正面から一対一で男性と対峙したとしても、腕力でねじ伏せて首を絞めたり、刃物でひと思いに刺し殺したり、殴って頭蓋骨陥没に至らしめたり、顔面を殴打して意識不明にさせる事は出来ないのだ。正攻法では彼らには勝てないどころか、逆襲されて生命危機にさらされるだろう。そうなれば恐怖から身動きできなくなってしまう。

 だから、酒や薬で意識不明にしたり、誰かに代理殺人を依頼したり、さまざまな策略を練って殺人を実行するしかない。背後から頭部を鈍器や瓶で殴りつけてから殺そうとするのは、正面からだと反撃が恐ろしいからだ。正面突破できないぶん、工夫と戦略に知恵を絞るのも女性による殺人の特徴だ。本書で扱った女性たちは、男性を、それも複数殺害したのである。

 今は引退したが、舞の海という小柄な力士が当時横綱の曙を倒した相撲を見たことがある。観客はその体格差をものともしない一番に熱狂し、舞の海が勝った瞬間には座布団が舞った。彼女たちに私が感じたわくわく感には、どこかそれに通じるものがあるかもしれない。

負け戦はしない父
 ずつと激しい体罰で息子を殴ってきた父親が、あるときからぱったりと子どもを殴らなくなる。戦ったらどうなるかに父親は敏感で、決して「負け戦」はしないのだ。

 息子はそれをよく覚えていて、「中二になる直前からおやじは僕を殴らなくなったんです」と語る。今度は逆に息子が父親を殴るのではないかと想像するかもしれないが、実際はそうではない。父親たちは、攻撃対象にならないよううまくかわし顔を合わせないようにするので、たいてい殴られるのは母親になる。息子たちは、父を殴らない理由として、本気で父が反撃したら殺してしまいそうになるからだという。父殺しで逮捕されたくない、どうせならもっと殺し甲斐のある人間を選ぶというのだ。

 母を殴るときも「とにかく腹が立つんです」と言う。いつも父親から威張られ殴られている母親のことを、彼らは嫌悪する。殴った父への怒りよりも、そんな父に支配され続けている母の「弱さへの嫌悪」が優先するのだ。

 弱い母を嫌悪する息子たちも、そして面と向かったとき、身長や腕力において息子に「勝ち目がない」と思う父親も、強さへのこだわりにおいて共通だ。このような強さ(腕力や体力)の価値は、女性にはそれほど大きくはない。

核兵器とDV 

 夫婦とは、その気になれば妻ひとりくらい殺せるという腕力を持ちながら、夫が決してそれを実行しないという不文律の元で暮らし、妻がそれを心から信頼できるからこそ成立する。こうして家族の平和は保たれるが、それは世界平和と似ている。

 核兵器の保有は、使用が人類破滅につながるという最大のリスクを伴うがゆえに、決して使用しないという前提で容認される(少なくとも現実には)。そして、年に一回程度、軍事パレードで「こんな立派な核兵器をもっているんだよ、だから攻撃すると怖いよ」ということを誇示する。それはまるで威嚇する男性のようだ。

 彼らが妻にDVを振るうことは、「最終兵器を持ち出す」ことを意味する。勝つと分かっていて脅すのではなく、国際政治と同様に負けるかもしれないと思うからこそ最終兵器を使用に踏み切るのだ。筋骨隆々とした男性より、一見暴力など振いそうもない男性がしばしば激しく妻を殴るが、そういうことなのだろう。

負けることで生き延びる
 ちかごろ武道についての文章をよく目にする。
『どうやって負けるか』が武道だとか、強くなって勝てるようにするのが目的じゃないと書いてある。それを知ってびっくりした、というコメントを読むと、そう語っているのはたいてい男性である。たぶん、男同士で向かい合って相手から敵を感じたらどうするか、という勝負感覚が身についているからだろう。もともと勝つために格闘したり武術を遣ったりしていたのは男性である。彼らが今度は負けるために武道があるという。

 そもそも女性の場合は、相手から襲われないように、それこそどうやって負けるか、逃げるかという感覚しか身に着けていない、スポーツが盛んになって、レスリングの吉田沙保里選手のように、一般の男性は歯が立たないほど強い存在が登場したけれど、もともと女性たちは当たり前にどうやって負けるかを工夫してきた。それは殺されないために、生きる必要だったからだ。勝てるにもかかわらず、負ける工夫をするのと、勝てっこないから負ける工夫をするのは大きく異なるだろうが。

自分はそんな男とは違う

 近年は少ないが、連続女性殺害事件が起きたとき、事件詳細が週刊誌や新聞に掲載されるのを読んで世の男性たちはどう感じるのだろう。私などは、やはり殺される女性のほうに同一視して読むので、時にはつらくなり読めなくなることもある。男性の中で、わくわくしたり爽快感を覚える人はいるのだろうか。もしそう感じたとしても、批判を恐れて口外することはないだろう。このタブー感は、痴漢やレイプ犯に対する反応と共通している。

 ジェンダー的視点に敏感な男性であっても、それほど変わらない。反応はふたつある。どうやって痴漢の犯人に間違われないようにするかにどれくらい神経を使っているかを得々と語るか、人間として許せないとして激しく断罪し口汚く罵るかのいずれかである。これらは、週刊誌が性犯罪を扱う論調とほとんど同じなのでわかりやすい。

 要するに、まず「自分はそんな男たちと違う」ということを言いたいのである。一般的にはオネエキラについては寛容なのに、いざ自分がゲイかもしれないと疑われると、お真面目で否定するのとどこか似ている。ホモフォビア(同性愛嫌悪)と言ってしまえば簡単だが、多くの男性たちは、自分の中にあるかもしれない欲動として洞察することはない。激しく切り捨てる姿勢の中には、自己言及的視点は皆無なのだ。それは奇妙なほどに変わっていない。

 それに比べ、女性たちの多くが罪を犯した女性たちの中に自分を見る。「○○は私だ」「私ももう少しで○○になっていたかも」といった発言は珍しくない。
本鼎談も、客観的まなざしではなく、同じ女性として、ジェンダーという観点から語られている。男性の性的欲求を「本能だ」「だから適切に処理しなければならない」とする政治家の発言が世間から非難を浴びたことは記憶に新しいが、男性自身が自らのセクシャリティについて、もっともっと発言してほしいと願うのは私だけではないだろう。

犯罪者たちのハニートラップ

  女性が男性を殺すには、さまざまな工夫や意匠が必要となる。
 本書に登場する女性加害者たちも、練炭や睡眠薬といった、相手を意識不明にする方法をとっている。
殺すことそのものが目的というより、金銭目当てであったことも計画性に拍車をかけただろう。通り魔的犯
行、被物語的殺人は、女性には少ない。

 意識不明にするためには、相手の男性が心を許さなければならない。なんの疑いもなく睡眠薬の入った
飲み物を飲まなければ不可能だ。
 ハニートラップという言葉があるように、性的魅力を用いることがもっとも現実的である。さまざまな情報を盗んだりスパイ活動をするために、女性諜報員が性的手段を用いる事はよく知られてている。『007』の映画はショーン・コネリーからダニエル・クレイグ主演に至るまで全作を見ているが、飽きもしないで毎回美人たちがボンドに迫るのは罠にはめるためである。ジェームズ・ボンドのすごいところは、そんな罠を見破ってしまう点にある。男女ともにあのシリーズに人気があるのは、モテ男でありながら、決してハニートラップに騙されない、そんなクールさによるものかもしれない。言い換えれば、ボンドは決して美女に心を許していないということだ。

人間扱いしないから無防備になれる
 広義の生産業に従事する女性たちは、密室で初対面である男性と二人きりにならなければならない。男性と正面から対峙したとき、何をされるかわからない恐怖はないのだろうか。なぜ彼女たちはそんな仕事を続けられるのだろう。もちろん、雇用主に管理される商品である彼女たちは、それなりに守られている。しかしもっと大きな理由は、性行為の前後において、男性はこの上なく無防備になると言うことを知っているからではないだろうか。なにしろ彼らは、快楽を得る瞬間は、性的対象である女性に依存しなければならない。正確に言えば、ひとりの人間として女性に依存しているわけではない。彼らの無防備さは、女性が性的対象以外の何物でもないから、つまり非人格的存在だから生まれる。
 相手を圧倒的に支配できていることの裏返しとして無防備になれるのであり、心許せるのである。余談だが、ボンドはいつも女性たちをひとりの人間として扱っているからこそ、罠にはまらないでいられるのかもしれない。
 お金を払うことで、彼らの買春行為はさらに正当化される。セックスワーカーや女子高生を対等な人間として扱っていないからこそ心許せる男性たち。そのことを彼女たちもよくわかっているからこそ、怖がったり用心する必要もないのだ。

母なるものへの幻想

 それだけではない、もうひとつ彼らが心許すのは、「母」に対してである。現実の母というより、社会が作り上げた「母なるもの」という幻想に対して、心許し無防備になる。実際に甘えたことのない男性ほどその程度は強いはずだ。

 木嶋佳苗の料理の腕は、通っていた学校の名前をみても相当なものだったろう。実際、妹一家に対しても料理を振る舞ってたりしている。殺された男性たちが、佳苗の体つき(お世辞にもすらっとした体型とはいえない)を憎からず思い、彼女が「精魂込めて」作った手料理にころりと参ってしまったことは、母なるものがどれほど希求されていたかを表している。最近太ったタレントがもてはやされ、熟女好きな芸人のトークが人気を博すようになっているが、「三段腹って安心できるんだよ」「腕のプルプルしたたるみがたまんない」と全員が力を込めて語るのである。

 美醜ではなく、安心できるかどうかに求めるものの基準が依拠するなら、太っていたり中高年であることのほうが望ましいのかもしれない。佳苗の容貌や体躯はそれを表している。やさしい口調、ていねいな言葉遣い、ぽっちゃりした体つき、そしておいしい手作り料理。

 彼女は「女の機能がすごい」と発言しているが、実際の所はわからない。性的関係に至らなくても、彼女にやさしい言葉をかけられ、おいしい料理を食べながら睡眠薬を飲まされ、夢の中で苦痛も無く死んでいった男性たちもいただろう。

 佳苗と被害男性のあいだで繰り広げられたのは、母のような女性との家族ごっこではなかったか。男性はごっこなどと思ってはいなかったはずだ。それを彼女からの愛情だと見ていたのだろう。

虚構がリアルである世界

 しかし、佳苗は巧妙にすべてを仕組んでいたに違いない。
 男性たちが喜んでお金を出し、安心のうちに死んでいくためには、家族のパロディという舞台設定が何より有効であることを知っていたはずだ。それはもうひとりの被害者、上田美由紀も同じだ。ほっとできる家族、ゴミ屋敷みたいだが何も責められない家族に被害男性は惹かれたのだ。

 正確には、最初から意図的に仕組んだ計画というより、佳苗自身にとっての家族は、最初からパロディに過ぎなかったのだ。

 北原みのり著『毒婦。』を読んで何より印象に残ったのは、北の果ての何もない街で、理想的家族を演じようとしていた両親の姿だった。手作りのケーキを焼く母と、クラッシック音楽に聴き入る父親。一見知的で理想家族に見えて、どこか寒々とした光景だ。そんな家族の偽物ぶりを見抜き、はりぼてであることを早くに気づいていたのが佳苗だったとしたら。母親から嫌悪され、可愛げのない存在とみなされたのも不思議ではない。

 性虐待の経験がもし事実とすれば、早期に自分の性的価値を自覚させられてもいただろう。だから佳苗は、やさしげで美しいものを用意すること、飾り立てて幸せを演出することには長けていた。仮構の存在こそリアルであると思うからこそ、あの虚言か本心か見分けがつかない佳苗的世界がブログ上で構築されたのだろう。だから、罪悪感なくして男性を騙すことが出来たのだ。

家族の本質を露呈する

 男たちがほっと安らげて無防備なままに居られる場を作ることは、結婚した女性に期待される役割そのものだ。おいしい手料理をふるまうことも、性的満足を与えることも、男性にとっては家族を持つこと、結婚することの意味そのものだろう。ところが現実に彼らはそんな女性をゲットできなかった。過大な期待だったのか、与えてもらう事ばかり考えて、女性に与えることが彼らにはわからなかったのだろうか。

 佳苗がせっせとやったのは、文句も言わず与える一方で、代償としてお金を求めることだった。こう書いてくると、佳苗は、男の描く家族、男の求める都合のいい妻そのものを提供し演じていたことがわかる。もともと家族をパロディとしかとらえていなかった佳苗にとって、それくらのことはなんでもなかっただろう。

 パロディこそ本質を衝いているとすれば、佳苗の行為はすべて家族の本質を露にするものだったといえるのだろう。それが最終的に男性の殺害に終わったということは、妻が夫の死を願うという家族の恐ろしい本質を表しているのかもしれない。

佳苗とカウンセリング

 ときどき、佳苗のような女性はカウンセリングにやってきますか、と尋ねられることがある。答えはこうだ、「絶対にやってきません」。
 私たちのような開業関係機関は、料金がそこそこかかる。1万円札が必要になるような相談だから、相当困った人しか訪れない。困ってもいないのに、お金を払ってまでカウンセリングにやって来るはずがない。
 佳苗は果たして困っていただろうか。たしかにお金は必要だっただろうし、十分なお金を得るために、いろいろ工夫したり計画を練っていたかもしれない。しかし、それが彼女の深刻な悩みだったとはいえない。

 トラウマを受ける事で生まれる影響は、大雑把だが自分を責めて自傷的になるか、他者への攻撃に向かうかに、二分される。精神的問題を抱えるか、反社会的行為かの分岐点である。そう考えると、あらゆる犯罪の陰に過去の被害を読み取ることは可能だが、加害の方向に分岐するのは男性の方が多い。佳苗は明らかに後者である。

 もちろん小学校から思春期に至るまでどんな内的変遷があったのかは分からない。しかしある時点から、彼女は性的存在であることの利用と、すでに述べたパロディや仮構こそリアルであるという認識によって、サバイブ(生き延びること)に成功したといえる。他者の金銭を盗む。売春をする、騙す、といった数々の行為も、核になる自己が多層的で仮構されていれば、良心の呵責も悩みすら生じないだろう。

 佳苗の手記は美しい文字で書かれ、どこかジャンヌ・ダルク気取りとすら感じさせられるものだ。過去から現在までの整合性、一貫した自我といったものをはるかに超えて、その場の欲求を正当化し、なりたい自分になってしまうという捉えどころのなさが、佳苗のサバイバルの根幹となっている。

 生き延びたひとには、カウンセリングなど必要ないのだ。だから私の目の前には決して現れることはないだろう。分岐する地点にさかのぼれば、想像力が及ばないわけではない。北原さんとたっぷり話せたのもそんな足掛かりが助けになっている。縦横無尽なふたりとのトークは、何よりも私にとってお得な時間だった。ありがとう!

もうひとりの毒婦 上野千鶴子

  北原みのりさんが、グラビアアイドル、壇蜜を「AERA」(2013年8月12.19日号)の「現代の肖像」に取り上げているのを見つけた。みのりさんが関心を持つ女‥‥壇蜜には何の関心もないが、それだけの理由で読んだ。みのりさんの嗅覚の赴くところには、きっと何かある、と思ったからだ。それが女なら、腐臭がする、と言ってもよいだろうか。
 本書が取り上げた「毒婦たち」は、木嶋佳苗、上田美由紀、角田美代子‥‥男を殺した女たちだ。他にも下村早苗と畠山鈴香が実名で出て来るが、彼女たちが殺したのは実の子ども。東電OLは殺された側だ。
 で、壇蜜は何をした人だろうか?
 男を「悩殺した女」といえば、わるい冗談に聞こえるだろうか?
そういえば、ニホンゴには「悩殺」というコトバがあるのを思い出した。「悩殺」だって「殺」の一種。佳苗のように実際に男を殺さなくても、男を自縄自縛のシナリオのなかにからめとっていく。佳苗は「ムア」で。壇蜜は「エロ」で。
 この記事で「グラビア女優」という職業があることを初めて知った。男性誌のグラビアで、脱いでハダカになって扇情的なポーズをとってカネを稼ぐ、みのりさんに言わせれば「労働者にして商品」だ。「アイドル」というには薹(とう)が立ちすぎ(32歳で「アイドル」はないだろう)、「セクシー」と呼ばれるにはエロすぎ、「女優」というには出演作が少なく、「AV女優」と呼ぶにはそこまで「落ちた」わけでないぎりぎり感がそそる‥‥で、結果、「タレント」とか「有名人」とか呼ばれるほかない、よくわからない存在だ。どんな「タレント(才能)」があるのか、何で「有名」なのか分からない点で、メディアがつくった「偶像(アイドル)」ではある。

 メディアがつくる「偶像」には、ブランドの相乗効果がある。すでにメディアでブランドになったパーソナリティが、誰かをほめそやすことで新たなブランドが生まれる。壇蜜をほめやかす男たち、みうらじゅん、リリー・フランキー、福山雅治などが、壇蜜にオーラを与える。「王様はハダカだ」と誰も口にしないかぎり、たとえその中心が「空虚」であったとしても、壇蜜という記号は輝く。王様とちがって「女王様はハダカ」であることで、価値が増すのだ。移り気なメディアと消費者が次の「偶像」を見つけるまでは、女王様は君臨する。そのうち、「壇蜜、え? そんなひと、いたっけ?」と彼らは言うだろうことも織り込み済みだ。

 壇蜜はそれをよく知っている。
「はい。日本の矛盾が生んだ空っぽのただの32歳、それが壇蜜です(笑)。」
 写真でしか知らない壇蜜は、とびきりの美人ではない、どちらかといえば控えめな和風の容貌の持ち主だ。卵型の輪郭に長い黒髪、小柄でスレンダーな体型‥‥モテル女、の定番スタイルである。「モテル」とはこの際、男に「アプローチしやすい」と思わせることの代名詞にすぎない。『AERA』の撮影用に本人が選んだとされるコスチュームも、70年代を思わせるいささかチープなスリップドレス。意表を衝いたものでもなければ、カネのかかったものでもない。履いているサンダルも高級品には見えない。背景は、これも本人の提案で都内の中古車解体工場で。滅びゆく昭和を思わせる。このまま機械油にまみれながら工場の床に、男ともつれながら倒れ込んでゆく姿を連想させる。この貧乏くささが「セクシー」ではなく、「エロい」と呼ばれるゆえんだろう。今や「エロ」はすでにニホンゴだからだ。

 その工場を背景に、本人は言う。「古く、朽ちていく存在。私に似ている。」
 男の手前勝手なエロ(ス)のシナリオ(おっと、「エロス」と言うのももったいないからここは「エロ」で通そう)に自らはまってあげる。それがどんなに時代錯誤なものかよくわかっているから「古く、朽ちていく存在」。ほとんど『ALWAYS三丁目の夕日』のエロ版だ。だが、それが「求められている」ことは確かだ。だからこそ、マーケットが成立する。

 彼女が登場する着エロDVDを、みのりさんはこう評する。
「『あなた(男)が見たいものって、こういうものよね。ほうら、見せてあげるわよ』って男のファンタジーをそのままゴッソリと、男の脳から取り出し演じているような迫力がある」と。

 だから男はころりと「悩殺」されるのだろう。自分自身の「脳」が生み出したエロのファンタジーの毒がまわって自家中毒を起こしながら。その意味で、壇蜜もまた「毒婦たち」のひとりなのだ。
 だとしたら壇蜜に「悩殺」される男たちは、自分のエロのシナリオの自己チューさと幼さ、貧乏くささと安直さとを「告白」しているようなものだろう。「壇蜜って、いいね」と口にするときに、彼らは少し恥ずかしさを覚えたりしないのだろうか?

 そう思えば、壇蜜と木嶋佳苗の共通点が、痛ましいほど見えてくる。30代、ブラセラと援交の90年代に10代を送っている。周囲に援交少女たちがいて、そのあいだの敷居を越すか越さないかは偶然でしかない。物心ついたら、自分の身体が男の視線にさらされ値踏みされ、価格がついていることに気が付いた。自分が企んでいるわけでもないのに、売れるなら売って何が悪い。どうせ賞味期限付きなのだし‥‥と多くの援交少女たちが思ったかどうか。

 しかも男の自作自演のエロのシナリオは、驚くほど単純でわかりやすい。
「これでしょ、あなたが欲しいものは」と餌を投げ与えれば、面白いほど次々と男が引っかかってくる‥‥実感を、佳苗は味わったことだろう。佳苗はひとつしかない身体を多くの男たち相手にやりくりしなければならなかったが、メディアという複製文化の消費財である壇蜜は、使いべりしない。それどころかバーチュアル空間に拡散すればするほどマーケットは拡大する。
 
 佳苗が「援交世代」であることを指摘したのは、『毒婦。――木嶋佳苗100日裁判傍聴記』のみのりさんだった。壇蜜も援交世代に属する。
 今から20年近く前、わたしは「女たちがふしだらになっている」と書いた。その名も『発情装置――エロスのシナリオ』(1998)と題する著書のなかでのことである。題名の由来は、「エロスとは、発情のための文化的シナリオのことである」という命題から来ている。そこで論じたのは、素人(しろうと)女と玄人(くろうと)女との区別があいまいになり、しろうと女たちが性の市場に登場し、とめどもなく性的な存在になっていく…過程だった。あたりまえだ、女はもともと性的な存在だったものだもの、それまではしろうと女をくろうと女から区別するのが、「性の禁止」(間違って「貞操」とも呼ばれていた)だけだったのが、、そうでなくなった。「少女」とは「(使用可能であるにもかかわらず)使用を禁止された身体の持ち主」であると、定義したのは『少女民俗学』(1989)の著者、大塚英志だったが、その少女たちが、「使用可能な身体」として性の市場に大量に登場しつつあったのが、援交世代だった。

 素人女が玄人女との境界を超えて領域侵犯し、素人と玄人との区別がつかなくなる‥‥時代がやって来る、と予見したら、その通りになった。だが、向かう方向については、完全に予測が外れた。
 玄人は女はカネを対価にセックスをする女。素人女は、(「愛」というカン違いのもとで!)タダでセックスをする女・タダでセックスする女が、タダではセックスしない女の領域に進出していけば、タダの女がタダでない女を駆逐するだろう‥‥売買春の最大のライバルは性の自由化こと、タダでやる素人女の増加だ、という予測は完全に外れた。それどころか、素人女のほうが、セックスはカネになる(タダではやらない!)ことを学習してしまった20年間だった、と言ってよいだろうか。

 みのりさんのもう一つの著書、女性誌「アンアン」の創刊以来40年間のセックス特集の歴史を辿った『アンアンのセックスできれいになれた?』(2011)の読後感は、「‥‥・そしてみんな、風俗嬢になった」だった。素人女にとって、たしかにセックスのハードルは下がったが、その代わりセックスは男に奉仕するテクノロジーの集合体となった。それなら、カネでももらわなければやってられないわよ! という気分になるのもムリはない。

 壇蜜はエロのドラァグクイーン(女性の姿で行うパフォーマンス)である。男のエロのファンタジーを、これでもか、と拡大し濃縮して目の前に差し出す。それに男は悩殺、おっと悩殺されるが、その自縄自縛。自業自得のシナリオに、すこしは自己嫌悪や羞恥心を感じるほどの知性を持った男はいないのか。

 ゲイのドラァグクイーンは、女装コスプレをこれでもか、とやり過ぎるほど見せつける事で、ジェンダーなんてこの程度のコスプレにすぎない、とパロディ化する役割を果たす。自らを道化とすることで、お仕着せの秩序に毒を仕込む。だが、道化が権威に寄生しそれに飼われているように、ジェンダー秩序に依存するドラァグクイーン自身にも、やがて毒がまわっていくだろう。

 これまでも聡明なグラビアアイドルやAV女優たちがいた。彼女たちは自分を表現することばを持っていたが、そのことばは市場が許容する道化のことばを越えなかった。この聡明な女性たちが、性の荒れ野を無傷で生き延びてほしいとわたしは願ったが、飯島愛は孤独死し、黒木香は自殺未遂し後遺障害を持って生き残った。壇蜜は、自ら毒をまわらせずに生き延び続けるだろうか?
 壇蜜は「なぜ自分がこれほどまで受けるのか」という質問に対して答える、という。

「私が、赦しているから、だと思います、いやな部分、よこしまな部分みも過剰なくらい赦しているからです。いやな部分をぶつけられても、そうですか‥‥で済んでしまう。拍子抜けされるところで萌えるし、救われる部分でもあると思うんです、私も、赦すことで救われています」

 レポートの最後に「壇蜜の黒い瞳の背後には、もの凄い絶望と希望が同じ力で存在しているように、見える。私には、そう見える」と書くみのりさんは、彼女に、いったい何を「赦している」のか、聞くべきだった。男の愚かさと破廉恥さと横暴さとを? だが、「男ってしかたないわね」ですまされないほど、性的な存在としての女たちはずたずたに傷ついており、それを「赦す」ことのできる存在は神のみだ。自分を一次元高いところに置かない限り、そんな男という存在を「赦す」ことなどできっこないが、それは男に対する徹底的な「絶望」と引き換えだ。「絶望」とは、そういう男という存在に対して「わたしは何も期待しない」というとことんの「絶望」で、「希望」とは、その汚辱のなかでも「自分だけは無傷で生き延びてやる」という「希望」なのだろうか? そしてこの「絶望」と「希望」は、佳苗にも、東電OLにも親しい感覚ではなかったのだろうか、ね? みのりさん。

 本書は題名のとおり、北原みのりの『毒婦。』に触発されて生まれた。そこにもうひとり、信田さよ子さんに加わってもらった。わたしは何度か『結婚帝国』(2004)などで、結婚し出産した「ふつうの女たち」の闇について語りあってきたからだ。毒婦は事件の女たち。ふつうの女たちは事件を起こさないが、そのすぐ隣にいる。「毒婦」は木嶋佳苗だけではない。だから『毒婦たち』なのである。読者のなかには、女子会のノリで話しまくるこの3人の女が「毒婦たち」だと言いたい思いの人もいるかもしれない。そう、「毒婦」とは毒婦でない女のあいだの距離は、ほんの少しだ。だからこそ、女たちは「毒婦」にこんなにもそそられるのだ。

『毒婦たち』は尽きない。だから、私たち3人の話も尽きない。これから先も、つぎつぎに「毒婦」は登場するだろう。もっと正確にいえば、男メディアがたまたま「毒婦」と呼ぶ女たちが。それがどんな異様な光景であっても、そのなかには、女と男をめぐるわたしたちの社会の矛盾と闇、頽廃(たいはい)と毒とが時代の断層のように鮮やかに浮かび上がることで、わたしたちの関心をそそりつづけるだろう。

『毒婦たち』をめぐる3人のトークが終わった後も、みのりさんが書いた壇蜜の「現代の肖像」に触発されて、こんなに長い「あとがき」を書いてしまった。まだまだわたしたちのおしゃべりは続く。
 みのりさん、さよ子さん、今度わたしたち3人が話すのは、どんな時なのだろうか。
2013年10月初版発行
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