婚約中には、時に相手を妊娠させてしまう程に情熱的かつ頻繫に婚前性交に励んでいた男性が、いざ結婚した途端に、全く性行為をしなくなってしまう、と言うのでありますからな。これは問題です。と言うと、「悪い奴だぜ。そいつは。婚約中にさんざん遊んで置いて、結婚したら、もうお前には飽きたよ、と言うので触らないって手口よ。結構、昔からあるんじゃないの、こんな話」とおっしゃる方が多分いらっしゃると思います

本表紙奈良林祥 著

ピンクバラ心と快楽と身体のすれ違の「セックスレス」を、どうやって埋めていくのか。たかがセックス、されどセックス、といつも思う。そして、寿命が延び、いつまでも女、いつまでも男と願っても叶えられない現実は不倫、浮気しかないのか?

第七章 結婚にいい加減でありすぎるニッポン

 それにしても、この本の序章で示した「Sexlessの分類」の中のB続発性の2と3というタイプのSexlessは(序章参照)、信じがたいほどの大変興味のある症状を見せる、極めて複雑な代物です。
 何しろ、『婚約中には、時に相手を妊娠させてしまう程に情熱的かつ頻繫に婚前性交に励んでいた男性が、いざ結婚した途端に、全く性行為をしなくなってしまう』、と言うのでありますからな。これは問題です。と言うと、「悪い奴だぜ。そいつは。婚約中にさんざん遊んで置いて、結婚したら、もうお前には飽きたよ、と言うので触らないって手口よ。結構、昔からあるんじゃないの、こんな話」とおっしゃる方が多分いらっしゃると思います。確かに、そういう話、聞いたように思います。ありそうなことですもの。今だってあるに違いありません。

 でも、続発性の2&3のタイプのSexlessと言うこりは、その悪い奴と言うのとは全然違うのです。どう違うのかというと、婚約中は性行為をしていたのに結婚したら全くしなくなったというこの亭主たちは、
“これではいけない、何としてもワイフを抱いてやらなければ申し訳ない、こんな自分では無いはずなのに、なぜこんな自分になってしまったのだろう”
 
 と真剣に私のところに相談に来ているのです。中には、ポロポロ涙をこぼして悔しがる男性もいます。結婚してみたらどうしても性行為をする気が湧かない自分になったことが何としても腑に落ちない、というのが、このタイプのクライアントに共通して見られる悩みなのです。

 本人自身、狐につままれたような思いなのです、つまりは。でも、そんなことを亭主に言われたからといって、それこそ、そんな狐につままれたような話を、奥さんの側が、”あら、そうだったの。カカワイソー”なんて言えるわけはありません。奥さんにしてみれば、婚約中、毎晩のように性行為の相手をさせられ、挙句の果てに人工妊娠中絶までさせておいて、”君に申し訳ないと思っている。しなければいけないと、今でも思っている。でも、どうしても、その気になれないんだ”と涙なんか流されたって、”なに訳の分からないことを言ってのさ。ザケンジャナイワヨ。もういい。実家に帰らして貰うから”と言ってしまいたくもなる、というものでしょう。事実、大抵実家に帰った奥さんが、両親と一緒に私のクリニックにやってきて、”先生、これは一体どういうことなのですか”と言うところから話が始まるのです。

 必ずしも多いケースではありませんが、でも平均すれば、月に一例くらいの割合では私の前に現れるこの不可解なご亭主たちは、「成功恐怖症」亜流とでも言ったらよろしいでしょうか。この人たちは自分の目標の達成のためには大変な努力を払うのです。例えば、毎日のように彼女の職場に電話をかけてよこし、毎日のようにデートを重ねるのです。そして、彼の目標である”彼女との結婚”からまた離れていない間は、性的面でも彼は有能であって、性欲旺盛、性機能万全、なのであります。だから、時には、彼女を妊娠させたりもしてしまうわけです。
ところがです。今にも結婚という目標が達成されそうになると、そのギリギリの瞬間、つまりこの場合で言えば、結婚初夜のベッドで、目標の達成を自らの手で破壊してしまうのです。性欲の消滅ですね。それぞ、「成功恐怖症」患者の見せる症状なのであります。でも、彼には自分がそんな人間である自覚がなどありません。
知ってやっている行動では絶対ないのです。だから、彼らが、涙を流しながらじだんだ踏んで悔しがるわけです。だって、自分には、全く、身の覚えのない、まさに降って湧いたような出来事なのですから。責められなければならないのは、そんな彼を育てしまった親御さんなのでしょうからね。

 こんな、「続発性Sexlessとはなんと切ない性の病いなんだろうと、憮然たる思いにさせられるのです。かわいそうです。

 なのに、同じ日の、同じクリニックに「Sexless」だなんて、よくもイイケシヤアシャーと口にできたもんだ。としか言いようのない「疑似性セックスレス」の亭主と、その悪行に泣かされている奥さん、と言うSexless夫婦がクライアントとして現れ、亭主のほうに、”亭主が家庭の外で女を抱いて当たり前なことで腹を立てている困った女房が、一緒に行ってくれと言うんで、忙しいのに、やって来たんですが”なんて恩着せがましくブツブツ言われてご覧くださいな、”ニッボンという国の結婚、どうなっちゃっているんだ、一体”と、不貞腐れて見たくなるのですよ、結婚と性のカウンセリングを業としております私といたしましては。

 疑似性Sexlessのことはすでにのべてありますから、ここでまたくどくどというのは避けてさせていただきますが、要するに、ニッボン国特産、男特有ワガママ症候群妻の人権無視病婚外性交型、という性のビョウキです。官官接待で忙しい、談合で疲れている、男は仕事が命だ、誰に食べさせて貰って居ると思ってんだ。文句あっか、などと訳の解らぬ御託を並べ、奥さんとの性行為は二年、三年と手抜きを続け、ごくまれに義務として行為を演技することでお茶を濁し、家庭外の女とは本気でせっせと性行為をしているから、奥さんの立場からすればSexless亭主、ただし家庭でだけの偽物セックスレス野郎。いい加減なものですなあ。

 結婚にいい加減でありすぎるニッポン

 ニッポンという国では、結婚カウンセリングという仕事なんかやれるわけないんだ。と嘆き、ふてくされ、怒りながらの私の結婚カウンセラー人生でしかなかったな、と四十年目を抑えてみて、改めて考えさせられている昨今です。

 私がかく嘆き、不貞腐れている理由の最たるものは、
“結婚カウンセリングという仕事が業として成り立っていくには、ニッポンの結婚はあまりにもいい加減でありすぎ”
 と私には思えるからです。

 なんていい加減な結婚だ、としか言いようのないケースを長いこと扱わされ続けてごらんなさいな、こうも言いたくなるというものです。
「結婚してみて、はじめて彼がある宗教の信者であることを知りました。彼は私にも信者になって欲しいと思っているようなので困っています」

 などと真面目な顔で、夫婦の間がうまく行っていない悩み事だなんて言ってくること良くあります。宗教だの信仰だのといえば、その人の世界観、人生観、価値観、結婚観、さらに言えば、その人の人間としての存在そのものにまでかかわりを持ってくる問題でしょう。そんな、これからの結婚生活のまさに基礎になるような最重要ともいえる問題を、結婚前になんら話し合うことも無く結婚するということのいい加減さというか、無責任さというか。かといって、カウンセラーとしては、フクザケタ結婚をするな、と怒鳴るわけにもいきません。
 クリスマスというキリスト教の祝日をXマスもつまりなんだかわからないお祭りと思っている気安さからか、クリスマスイブのミサなどに、ファッション気分で出席し、それから間もない大晦日には初詣でに出かける。お側女を大勢はらべらしていたようなお偉い方で、セクシャル・ハラスメントの権化みたいな人が祀られているお宮さんの神前で、なんと女性である彼女まで肩を並べて柏手を打つわけです。それから二、三日してフーテンの寅さんでお馴染みの帝釈天なるお寺などにお詣りと、十日足らずでキリスト教と神道と仏教を渡り歩いても、不思議とも不見識とも思われないニッポンという国であってみれば、結婚してから旦那の信仰にびっくりなんてことがあっても、驚くにはあたらないのでありましょう。

 しかし、これは結婚に対して極めていい加減であることをあらわす一つのケースに変わりありません。でも、性か国言えば、ニッポン人は、かなり婚約ということにいい加減なのだというほど扱わされてきましたから。
 と言うと。
「あら先生、当節は結納が年々盛んになってきているのだそうで、婚約にいい加減などとは思えませんが」

 と反論される方もあるかもしれません。でしたら、「結納あって婚約なし」とでも言い直しましょうか。婚約というのはあくまでも、結婚の予約をした、ということなのでありまして、結婚の確約ではありません。
“この二人は、近い将来、結婚するつもりのあることを公にする”
 というのが婚約の定義なのではないでしょうか。
 アメリカに留学している時、新聞のローカル版のページに幾組かのカップルの顔写真が掲載され、それに、「ちなみに、ミスター・フォードは大学時代フットボールのQ B(クォーターバック)として活躍した」というようなコメントが付記されているのをよく目にしたものです。

 はじめはその土地の新婚カップルの紹介だと思っていましたが、よく見ると、それは最近婚約したカップルの紹介だったのです。

 それは、それまでのプライベートのものにすぎなかった二人の交際が、いよいよ公のものになるということのケジメのあらわれなのです。それが婚約にとっての一つの大切な要素であることのすごく分かりやすい証しとして、たいへん興味を覚えたものでした。

 では、婚約によって二人の交際が公にされたところで、二人はいったい何をしたらいいのか。とりあえずは、最低、
1、 お互いを深く観察し合う
2、 話し合いや討論をし合う
3、 よく考えてみる
4、 学んでみる
そして
5、 愛し合う
くらいのことをやりながら、”ほんとうに私はこの婚約者と結婚していいものかどうか”を徹底的にチェックしてみることでしょうね。いうならば、婚約期間と言うのは、
“結婚式で指輪を交換(日本流だと三三九度の杯事)が行われるまでは、婚約を解消していい、という自由を保証された上で、ほんとうに二人は結婚して大丈夫なのかどうかということを確認するための最終的チェックポイントである”
 というところに存在理由があるのです。
“披露宴というのは内容を松にするか竹にするか、いっそ簡素に梅でいくか、お色直しは何回にしようか、新郎のお色直しはどうするか、来賓のスピーチの順番は大学のゼミの教授が先か幼稚園の園長先生が先か、新婚旅行はハワイにするかヨーロッパにするか”
 なんて上っ調子の相談事で日を送っていればいいというものではありません。

 この人と結婚して本当にいいのかどうかを判断するための最終点検(チェック)の期間であり、ある意味では闘いの期間として、婚約はあるのです。

 チェックし合うだなんて、失礼な、だとか、水臭いなんておっしゃるかもしれません。でもそんな不真面目な甘っちょろいことを言っているから、結婚してから相手の宗教に慌てたり結婚しても指一本触れようとしない男性を婿さんとして引き当ててしまったり、などというどたばたを演じなきゃならないことになるのです。

“この男の人は本当な大人になっているのかしら、マザフィグってことないかしら”というような観察は女性のカンがかなり物を言います。最近のソ連や東欧諸国に起きている変革についてそれなしのディスカッションを試みてみることで、彼の知的程度や政治的立場や世界観などを知ることでも出来ます。

 共働きで行くつもりがあるなら、家庭内での役割分担をどうするのか、家事育児は女の仕事と頭から決め込んでいるような男ならどうするのか、親と一緒に住むのかどうか、子どもを持つのか持たないのか、持つとしたら二人なのか一人なのか。考えておくことはたくさんあります。二人で考え合っているうちに、この人は主体性に欠けている人だなとか、自己中心的な人間だな、なんてことを読み取れるでしょうし。

 子どもが一人か二人ということになれば、当然避妊しなければならない。ピルとはどういうものなのか、避妊を上手にやっていくためにはどうしたらいいか、ということをお互いに学習しておく方がいいに決まっているし、性行為についての知識も整理整頓しておいた方がいいでしょう。できれば同じ本を読んでおいた方がいいと思います。

 というような具合に、チェックし合っておいた方がいいこと、あるいはチェックできるチャンスは、婚約期間中の二人には、そのつもりになればたくさんあるのです。

 婚約を解消するということになれば道義的問題というのは沢山あるでしょう。でも「考えに考えたらやはり二人は結婚しない方がいいと私なりに判断しましたので、婚約は解消したいと思います」と二人のどちらかから言い出せるからこそ婚約なわけです。婚約した以上約束を守らないのは不届きだなんていうのなら、初めから婚約なんて言わないで、さっさと結婚してしまえばいいじゃありませんか。

 予約だからこそ、”やーめた”と言う事だってあり得るのです。わかったような顔をして婚約などと予約しておいて、やーめたはないだろう、という事になったんじゃ、婚約と言う期間のそのもの意味が死んでしまいます。

 婚約するということは、ただただおめでたいという甘いものではありません。婚約解消という苦い水を飲まされることがあるかもしれないということを、ご当人も親御さんたちも先刻ご承知の上の事でなければ、婚約に不真面目ということになるのです。そのことが早く世の中に通念になればいいなと、ひねくれているのかもしれませんが、私は思っています。婚約に不真面目だったゆえの、新婚夫婦のじつに愚にもつかない揉め事の面倒を見るって、ひどくバカバカしくて、やり切れないものでありますから。

 婚約に真面目であれ!

 婚約にとりわけ真面目でなければいけないのはお見合いから婚約にこぎつけた場合ということになるでしょう。恋愛結婚の場合でも、婚約期間に真面目であった方がいいのは同じことです。恋愛している二人というのと、結婚してもなお恋愛し続けていく二人であろうとするのとでは、まるで異質なものですもの。

 単に恋愛の相手であれば申し分ないパートナーでも、結婚というある意味で逃げ場のなくなる生活形態におけるパートナーとしては問題があるということ、いくらでもありますから。

 都合のいい時に、都合のいいように会って夢みたいな部分だけ拾って時を過ごし、さようならすればそれぞれ全く別の生活の中に戻れるのが恋愛です。夫婦という複合人格体になったばかりにバイバイとフリータイムに戻ることなく、夢みたいな部分ばかり追っていられない現実が否応なしにちらつく結婚という生活形態と、恋愛とは大変な違いです。

 だから、俗に恋愛結婚なんていわれる場合だって、しっかりと婚約期間を最後のチェックポイントとして過ごす必要はあるのです。

 ですから、一般的に会い合っているわけでもなく、ただその人間に付随するいくつかの条件が釣り合っているから、というだけの理由で結婚することになる見合い結婚の場合など、とりわけかなりの真剣さで、本当に結婚していい二人であるかどうかをチェックし合う婚約期間でなければならないと思うのです。だって、その人間に付随している条件と条件が夫婦になるわけではなく、夫婦になろうとしているその条件を持っている人間なのですから。

 大学超一流、勤め先超一流、母親思い超一流、真面目度超一流であっても、本人そのものはすでに述べましたようにマザフィグお父ちゃん坊やであったり、モラトリアム人間クンであったりというのは、危険極まりない、ということです。そして困ったことに、結婚にとっての危険分子という御仁ほど、恋愛などやれるわけがありませんから、どうしてもお見合い市場にリストアップされる結果になりやすいのです。

 だから、見合いから結婚という場合こそ、チェックポイントとして婚約期間をほんとうに活用する必要があると思うのです。
 ところが、これまた困ったことに、見合いから結婚へという場合ほど、周囲の大人から雑音や口出しが多いものなのです。せっかく相手の男の、男としての成熟度に疑問を抱き、「いい人だと思うけど、でもなんか違うんだなあ」と建設的ためらいを覚え始めた娘さんに、周りからプレッシャーをかける傾向が強いのです。

「そんな生意気なことを言って、なんですか。このお話を持て来てくださったのは、お父様の会社の大事な取引先の会長さんですよ。それをお断りしたらお父様の立場がどうなるかくらいわからないの。第一、あなたいくつだと思っているの、もう二十七よ」

 なんてことで、納得しないまま結婚、そして結果的に私のクライアントになってくださることになってしまった女の人を、いったいどのくらい扱ってきたことか。
 その人間の持つ条件の数々は、夫婦としてうまく行くかどうかという事に、ほとんど直接的な関係はないものなのです。重要なのはむしろ、その人間に付随した、いわゆる社会的条件なるものを取り去った残りの部分、つまり、その人間のパーソナリティー(人間性)であり、パーソナリティーから滲み出てくるサムシング(何か)なのです。

 サムシング(何か)ってなんですかと言われて説明しにくいのですが、人間と人間がうまくかみ合って生きていくためには、単に理論や理屈や、ましてやコンピューターの力などでは絶対に弾き出せない何かが必要なのです。それをとりあえずサムシングと呼ばさせてもらいました。

 相手をほっとさせるような、それがあったほうがたとえば夫婦の人間関係などが絶対に円滑に展開していくに違いないと思われる”何か”です。
 そういえば、もう四十年も前になりましょうか、「むだの美しさ」という森田たまさんの随筆があったことを覚えています。

 社会に生きる為めの要素と要素だけの集合体みたいで、その人間性の中に無駄というものがまるでないような人って、一緒にいる人をひどく疲れさせるものなのです。でもその人の無駄な部分なんてもの、見合い候補者としてのその人に備わった諸条件の中には絶対に記載されることなどあるわけがありません。ところが、お見合いをした後の最初のデートなのに女性は(さすがと思わせられますが)しばしば愛の男性に、サムシング(何か)欠けていることを感じ取っていることがあるものなのです。男より女のほうが一般的にカンが優れていると言われるだけのことはあるなと、こんな話を聞かされるわたしは思うのです。でも、そう思うのは、大抵はすでに遅れの時なのであります。

 相手のサムシングの欠如に気づいても、彼女は言葉でうまく説明できませんからね。「イマイチって感じなのよね」なんて言ったって周りの大人は納得しません。かくて結婚させられ、案の定、相手の彼はちゃんと性行為が出来ない男だったりして、彼女は私のクライアントになると言うのですから、時すでに遅しなのです。

 ひと言申し添えますと、性行為とは情の世界のものであって、絶対に知や理の世界のものじゃありませんからね。だから、むだな部分などというものが逆にものを言うのです。

 婚約に不真面目というのは、やはりよくないと思います。私の仕事を通しての体験からご注意申し上げておきます。
「結婚してみたら、当分子どもは作らないからと主人が避妊具を使うので、性行為に反発を感じてしまって」
 などと不満げな新婚早々の彼女の問題は、すべて婚約時代に当然確認されていなければならないものばかりです。いまさらそんなこと言ってみたって、ということです。結納を気ばるよりも婚約を真剣に生きることの方がずっと大切であるのにー。

 日本では、戦争に負けるという大変な犠牲を払って、家族制度という、権力者を頂点としたらピラミッド式の社会構造が打ち壊され、民主的社会になりました。だから、結婚も家と家のものでではなく、一人の男と一人の女のものにやっとなれたというのに、大安の日の結婚式場屋さんの玄関先には、家と家の結婚というケッタイな掲示がずらりと並び、しかも結婚する若い二人が、この掲示は不届きだから我々の二人の名前に書き換えてくれとクレームをつける事はまずないらしいというのも、結婚に不真面目な人が多いと言うことの一つの証しと言えるのではないでしょうか。

 妊娠に男の身勝手さがあらわれる

「私はいままで七回人工中絶を受けました。主人がどうしても避妊なんか嫌だと避妊具を使ってくれません。私がペッサリーを使ったことがあったのですが、こんなものを膣に入れたりしゃがってと、怒って取り出してしまうのです。妊娠が怖いので、主人と夜の生活はしたくありませんが、私が主人の求めを断れば、それを言い口実にうわきをするにきまっているのです。現に、つい最近も店の女の子と何かあったみたいです。私はもう疲れました。三人の子どもを連れて家を出ようかと思っていますが、先生のご意見をお伺いしようと思いまして――」
 
 まだ経口避妊薬もIUD(子宮内避妊器具)も今のように一般的に親しまれていない時代の例で、カウンセリングではなく、相談に乗ってあげる、ということしかできないLさんのケースでした。
「主人にも一緒に来てくれるように頼んだのですが、どうして俺がそんなところに行かねばならないんだ。家庭内の問題を他人の耳に入れるバカがどこにある、と叱られて、内緒でここにきました」
 という有様ですからね。カウンセリングどころじゃないのです。
 二週間ほどして、また来所したLさんは、
「友だちの誰かに聞いても、いま離婚してどうすると言うの、子どもを三人も抱えてどうやって生活していくつもり、我慢するしかないわよ。と言います。家裁にも相談に参りましたが、同じようなことを言われました。もう別れたい、という私の希望に賛成のようなことを言ってくださったのは先生だけでした」
 と寂しそうに笑いながら、
「別れる事はあきらめて、不妊手術でも受けようかと思いますが、いかがなものでしょう」
 という考えを出してきました。
「三人の出産、七回の人工妊娠中絶、夫の避妊への非協力、浮気の絶えない夫。離婚より惨めな結婚でしかありません。一回しか生きられない人生を、こんな人格を無視された、納得のいかない生き方で終わるなんて、それでは生命を与えられたことに対しても申し訳ないじゃありませんか。あなただって、もっと人間らしく生きる権利はあるはずですよ」

 というような意味のことを話してあげたことを、彼女は私が別れる事に賛成したと受け取ったのでしょう。それにしても、夫なる男性は私のような立場の人間の所に来る意志は全くありません。したがって、結婚をより健康で健全なものに軌道修正するには二人で何をすればいいのかを、私を交えて夫婦で話し合う事も出来ないと言うのは、なんともやり切れない思いでありました。こういうものも結婚と呼ばれてしまうのだとしたら、何を言わんや、という気分になります。

 その日は、「不妊手術をするなら、入院しなければなりません。それよりも、なにかと負担のかかる女性の不妊手術よりもずっと簡単で費用も安く済む男の不妊手術を選ぶのが常識だと思います。でも、ご主人は失礼ながら浮気の常習犯でしょ。その彼が不妊手術してしまったら、相手を妊娠させる心配がなくなったというので、浮気の虫がますます活発になってしまう事になりかねませんよ。その点、よく考えてください」というような助言をして帰しました。
 一ヶ月くらいして、彼女はまたやってきました。そして、
「いろいろご心配いただきましたが、主人が不妊手術を受けることに同意してくれたので、それでいいことにしました。不妊手術をうければ、先生がおっしゃつたように、主人は気軽に浮気するようになるでしょうね、主人もそのようなことを暗にほのめかしておりますから。
 でも、いいんです。浮気しても、他の女の人を妊娠させるという事で私が悩まされることがなくて済むのなら、それでいいと諦めをつけました」
 と言って帰っていきました。

 なんという悲しい結論の出し方である事か。その間、私の前で何回も涙を流し、ため息をつき、長い間沈黙し、苦しみ、考えたのは奥さんだけなのです。主人なる男は、ついに一度も私の前に現れることはなかったし、たぶん、苦しむことも悩むことも涙することも無く、それどころか、不妊手術を受ければもう何の心配も無く浮気を楽しむことが出来るとほくそえんで笑んでいればそれでよかった。しかも、奥さんの周囲も、それでも結婚にしがみついているべきだと(確かに、それがニッポンの現実の中での現実的な身の処し方というものであるのでしょうが)助言する。

 これはいまから二十五年くらい前のことでありますが、この時、私はしみじみと、ニッポンという国で結婚カウンセリングなどという仕事をしようと思うことの空しさみたいなものを感じさせられたものです。
 いえ、そんな空しさは、いまだって同じように味わっています。

 オーガズム欠如症の妻たち

 すっかり落ち込んでしまっている奥さんが、とても夫の求めに応じきれなくなって苦しんでいる、ということで、土地の保健所からの紹介状をもって来所しました。知的職業人を夫に持った、結婚して、まだ一年も経っていないMさんです。「主人は、学会を兼ねて、数名の同じ仕事上のお友達と台湾に出かけました。帰国して数日後に、一緒に行かれた方々がそろって来宅されたのですが、その時、お茶を出しにまいりました私は、偶然、”あの晩あんたが抱いた女は最高だったらしいな、今度行ったらあの女は僕に回せ”と友だちのお一人が主人に申しておられるのを聞いてしまったのです。お客様が帰られたあと、主人にそのことを問いただすと、”なんだ、そんなことを気にしているのか。バカだな、旅先のお遊びだよ”とまるで問題にしてくれません。

 思い余って、主人と同じ職業についてます彼の父に泣きながらその話をしましたところ、逆に、そんなことをいちいち気にしていて妻の役目が務まるか、と叱られました。
 先生、妻って、ほんとうにそういうものなのですか。このままでは、私はどうかなりそうです」
 というのです。
 じつは”東南アジアに団体旅行に行った同業者同士が店先で旅先の女遊びの自慢話をしていた。それ以来、エイズのこともあったり、夫が信用できなくなったりで、夫の求めに応じる気持ちが亡くなって、夫は機嫌が悪い”などという同じようなタイプの悩みを持った奥さんの来所など、よくある話なのです。

 世の中の旦那方がみんなこんなひどい人ばかりだなどと言っているのでは、もちろんありませんが、結婚カウンセリングという仕事がそもそも成り立たないという例があまりにも多すぎることは、事実なのです。だって、ご夫婦が同じ土俵で夫婦を生きているとはとても言えないわけですから。

 奥さんなる方から、オーガズム欠如症(俗に不感症等と呼ばれている症状)らしいので相談に行きたい、と電話の申し込みがある。

「ご夫婦で来ていただかないとそういう問題は解決できないのが普通だから、ご夫婦で来てください」と、私どもとしては当然のこととして答える。夫婦の間に起きている事なのですから、夫婦の話を聞かなければ話になりません。
「私一人じゃダメですか」
「あなたのような症状にはご主人にも原因の一端があることが多いですから」
「でも、それじゃ困るんです」
「なぜですか」
「そこに電話していることも主人には内緒なのです」
「なるほど」
「こういうことで相談にいったことが主人に知れでもしたら大変ですから」
「困りましたな」
 奥さん一人で来てもらってもどうにもならないと思っても、主人に内緒で、と言うのでは仕方ありません。

 奥さん一人で来てもらって話を聞いてみると、案の定、奥さんのオーガズム欠如症の原因は、ご主人の性行為の営み方の誤り。まずさ、にあることが判明しました。

「ご主人さえ自分の性行為の営み方の誤りに気づき、反省して、私が今あなたに話したような性の営み方をすてくれれば、今晩からでもあなたのオーガズム欠如症なんて治ってしまいます。だから、悪いことは申しません。もう一度お二人でいらしてください」

「でも、私のいう事など聞いてくれる主人ではありませんし、とても無理だとおもいます」
 結局、なんでもなく治るはずのものが治らないことになり、挙句の果てに、オーガズムに達しない女房は要するにダメな女なのだと、理不尽な決めつけられ方をご主人にされてしまうのです。

 こういうケースを扱われ続けていると、ニッポンという国の結婚は、結婚カウンセリングというものが生み出されて、結婚カウンセリングというものが事実活用されている欧米の結婚とは、本質的に違うものだなと考え込むことに成ってしまいます。どちらがよくて、どちらが悪いか、などと言う事は別として。

 結婚という外見を保つ道を選ぶニッポン

 ヨーロッパやとりわけアメリカの夫婦たちは、なぜこんなに切ない夫婦の話し合いのために結婚カウンセラーのところに何回も、時には何十回も通うのか。それはたぶん次ページの図に示しましたように、”結婚とは夫婦で支え合っていくもの”という結婚観の持ち主だからではないかと思います。夫婦で一生懸命支え合っていくものだから、どちらかが手抜きすれば必ず結婚は転げ落ちそうになったら、真剣に、どうしてなのか、どうすれば結婚が転げ落ちなくてすむかを二人で考えて、頃落ちずにすむように努力するよりしかたがいわけですから。

 だから、妻の側が夫に一緒にカウンセリングを受けに行ってほしいと言ったとき、忙しいから嫌だなんて言おうものなら大変な家庭内騒動になります。妻に非協力だということで
離婚という事になった時の慰謝料の額もそれだけ割高になるような社会の仕組みのバックアップもあるでしょう。夫としては、妻とともにいそいそと結婚カウンセラー通いをせざるを得ないというわけです。

路上駐車の違反の罰金だって本気でばっちりとるお国柄のアメリカでは、離婚の慰謝料だって、ニッポンのように最低だとたったの百万円だなんて、そんな半端なものじゃありませんからね。
 それに比べて、日本人の結婚観を図で示すと、おそらくBのようになるとのだと思います。
図4
 結婚という生活形態の中に夫と妻がすっぽりはまり込んでしまうことが結婚と考える考え方です。
 これですと、要は、結婚という生活形態を崩さないにしていれば、夫であり妻であり続けられる、ということに成るわけです。夫が手抜きしたって、妻が手抜きしていることを見て見ぬふりさえしていれば、結婚が転がり落ちるなんてことなくすんでしまうことになります。これもある種の甘えの構造なのでしょう。相当結婚ということに不真面目であっても、どちらかがそのつもりになれば、生涯、結婚しているという外見を保ち続ける事は出来るのです。離婚するよりもっと悲惨な結婚に甘んじている前記の人工中絶を七回もした奥さんの例などがあるのもそのためです。

 こう見て来ると、アメリカのほうがニッポンより離婚率が高いのは、アメリカの夫婦の方が結婚に真面目だからであり、ニッポンのほうが離婚率が低いのはそれだけ結婚に不真面目だからだ、なんて見方も出来るのかもしれません。ただし最近になって、ニッポンの離婚率も高くなってきたそうで、ということは、やっと日本人も結婚に真面目になってきたらしいことの現われかもしれません。

 要するに、われわれニッポン人というものは、ものの真実をしっかり見つめてしまうことで、肉体的にも心理的にもつらい思いをし、その結果、離婚せざるを得なくなるかもしれないよりは、真実の追求などというのはほどほどにして、どこかで誰かが我慢するか犠牲になるかすることで、とりあえず結婚という外見を保つ道を選びたがる傾向を持っている、ということでしょうか。さすが、いまや国際的脚光を浴びている、かの談合の国。だけのことはあるようです。

 近ごろ、日本人もNOと言えるとか、いろいろ言われますけれど、もともとニッポンという国は、YES、NOをあまりはっきり言わないことをもって美徳としてきたみたいなところがあるんじゃないでしょうか。私の専門外の事ですから、例によって私流の独断と偏見ということに成るかもしれませんが。

 YESなのかNOなのか、ただのモナリザの微笑みにも匹敵する不思議なほほえみを浮かべて黙って立っている人は―日本なしに世界は始まらないとまで言われそうな今日の日本になる前のころの外国人さんたちの目に映るニッポン人のイメージといえば、こういうものとされていたものです。

 かくていう私も、ニューヨークに留学している間、指導教官であったユダヤ系アメリカ人のカウンセラーに、YESなのかNOなのかをもっとはっきり言いなさい、とよく注意されたものです。もっとも、その中には、日本人のよくやる英会話上のミスで、そうだそうだという相槌を「OH NO」と言わなければならないところで、ついうっかり日本語の癖が出て、「OH YES」なんて力を込めて言ったりした極めて初歩的で幼稚な話し方の上での誤りも含まれていたと思います。

 真実を見つめる勇気を持たない国

 日本の歴史を考えるとかなり大昔のころから、ものの真実をとことん見つめ合うというような切ないことはなるべく避けて、賢く、当たりを柔らかく、和を持って貴しとなすというわけで、仲良くやっていくというやり方が、伝統的にニッポンという国にはあったのでしょう、きっと。

 穏やかで、心優しげ風で、
「まあまあ、むずかい話はそのへんにして、ひとつ、わっと参りましよう」
「じゃ、まあ、このあたりで、ひとまずお手を拝借ということに」
 と、常に、真実を見詰めきる一歩手前のところで、じょうずに柔らかくことを終わらせようとするわけです。やがて時が解決するだろう、と都合よく解釈してその場を収めて、結論は先送りしてしまうという、ニッポンの政治家屋さんの毎度おなじみのお粗末に代表されるように、私たちの周りで今日でもよく見られる光景も、それこそ縄文の昔からじっと育まれ、受け継がれてきたものかもしれないのです。ニッポン人の知恵というか、民族的癖というのか、とにかく伝統の表れなのでありましょう。でもなければ、戦争に負けたことは事実なのですから、敗戦と言えばいいところをわざわざ終戦などと言って、敗戦という真実を見詰める切なさを少しでも避けようとなどというややこしいことをやることもないはずなのです。
戦争で中国に侵略したと言われることを嫌がったり、南京の虐殺なる出来事をあいまいにしたがっり、最近話題になっている慰安婦問題の記載を教科書から抹消してまで真実をしっかり見詰めることの切なさを避けようとなどいうのも、日本人の民族的癖かもしれません。でも、我々の跡を継ぐ若い人達の心に、”自我忘るべからず”ということをしっかり根付かせるためにも、これらの記載教書から抹殺させてはならないのです。いずれにして、いかにもニッポン的な出来事というべきなのでしょうね。

 ご亭主が、奥さんとカウンセリングの場に臨むことを拒否する例が圧倒的に多かったり、奥さんは奥さんで、亭主に内緒でカウンセリングを受けにきているから自宅の住所と電話番号は教えたくありませんとおっしゃるのも、結局、夫婦でこれまでもめごとの原因という過去の真実をとことん見つめ合うというせつなさを、なんとなく避けてしまっているわけです。

私はふと、ヨーロッパの良心と呼ばれたりした西ドイツの元大統領リヒアルト・フォン・ヴァイッゼッカーさんが、第二次世界大戦がドイツに降伏で終わってから四十年目の記念日に「一九四五年五月八日――四十年をへて」と題して行った演説の一部を、いま思い出しました。

 この演説は、ナチス支配下の大戦中、ドイツ人がユダヤ人をはじめとして多くの国の人たちに対していかに残虐非道の限りを尽くしたかという自自の記録を、ドイツ人であるがゆえに、われわれは子々孫々に至るまで忘却の彼方に追いやってならない、という彼の信念国民に訴えたものだったのです。その中でヴァイッゼッカーさんは、
「この過去を清算することが大切なのではありません。それは、われわれには不可能であります。過去を後から変更したり、なかった事にすることは出来ないのです。しかし、過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのであります。かつての非人間的なる事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる罪の伝染力に負けてしまうのです」
 と言いました、それに加えて、
「忘却を望む心は解決(著者註・原文は追放なのですが、わかりやすくするために解決としました)を長引かせるのみ
 そしてそこから救われる秘訣は
 思い起こすべきことを思い起こすこと」
 という、伝統的なユダヤの知恵の一つだという言葉を引用しています。

 要するに、事実は事実としてしっかり見つめる勇気を持とう、見つめるのがつらいかに苦しいからといって、その事実から逃げたり事実を忘れようとするなら、とヴァイッゼッカーさんは国民に呼びかけているわけです。ここに流れる欧米流といいますか、ユダヤ――キリスト教流といいますか、このものへの対し方と、春霞のようなニッポン流のものへの対し方の、どちらがよくて、どちらがよくないか、などと言いたくてこの演説を引用したわけではありません。

 私がヴァイッゼッカーさんにご登場いただいたのは、じつはこの演説の底流にあるユダヤ――キリスト教的な頑固さのようなものの延長線上に、結婚カウンセリングという仕事はあるのでではないかという、私流の自問自答を申し上げて見たかったからなのです。

 一神教の国と多神教の国の違い

 私が仮にニッポン流と呼ぶこの伝統のようなものが、とげとげしく乾燥した土地柄ではなく、自然に恵まれ、四季の変化に富み、肥沃で湿り気の多い気候風土という好条件を持ち、しかも何の幸いか、狭いかもしれないけど四方を海に囲まれ、したがって外敵に簡単に侵略される不安もまずなかったという環境によって育て上げられたものか、こういうかんきょうだからこそ根付いたとされる多神教という宗教の形の中から生まれてきたものであるのか、私にはわかりません。それとも、ごく近代になってからこういう日本流のやり方が生まれたのでしょうか。

 でも、結婚カウンセリングという面接療法が日本で生まれたものではなく、ユダヤ―キリスト教文化圏と呼ばれる欧米の国で生まれ、ことにアメリカできわめて積極的に利用されているという事実を考えると、私が業としてやっている仕事は、やはり日本人好みではないだろうな、とは思います。

 キリスト教は長い長いユダヤ民族の歴史の流れの中で待ち望まれ続けながら生まれてきたものですが、キリスト教とユダヤ教は全く別の宗教です。でも、一つ共通点があります。それは、共に一神教、つまり一つの神様しか絶対に信じない立場であるという点です。

 不毛で乾ききった、ギラギラとした太陽が照りつづける状況の下でサバイバルの中から生まれた宗教である一神教に根を持つユダヤ―キリスト教文化圏の民族は、戦闘的で残虐で、多神教民族である日本人の持つ優しさや潤いに欠けるのだ、とおっしゃる学者先生もあるくらいです。確かに一神教の文化と多神教の文化はひどく違います。もっとも、多神教の見本みたいなニッポンだって戦争中ずいぶん残虐なことをしていますから、要するに多神教であろうと一神教であろうと戦争というものは人間を狂人にしてしまうということでしょう。

 ニッポンは、やおよろずの神の国といわれるだけあって、多神も多神、たいへんなものです。軍人やお殿様は死んだに神様になるという。それだけじゃ物足りなくて、木でも石でもしめ縄張り巡らして神様にしてしまうのですから。中には神様だった木が枯れて神様ではなくなったり。あまり神様が多いとありがた味が薄くなるというか、あまりにもありすぎると逆にないがしろに等しいことになってしまうというか、ニッポン人には宗教的にかなりいい加減ぽい人が多いのもそんな関係があるのかもしれません。でも、そういう中から出て来る同じような宗教音痴であるかもしれない政治家さんという人たちに、有史以来といっていいほどに延々としかも執拗にくり返されているユダヤ教徒とイスラム教徒という一神教同士の争いや、旧教徒と神教徒というこれまた宗教がらみの争い事であるアイルランドの揉め事のようなもののひたむきさが、本当に分かってもらえるのかどうか心配に成ってしまいます。

 というのは、私自身、先に述べましたように、”ジューヨーク”というニックネームがあるほどにジューことユダヤ教徒の多く住むニューヨークで、ユダヤ教徒のカウンセラー女史に日々しごかれて、なるほど一神教の民族とはなんと融通はきかず、なんとまあいい加減ということが出来ない人たちであるかということを、いやというほど思い知らされた一人ですから。

 私は留学生という学生でありながら、日系人や商社の駐在員の家族のカウンセリングを受けもたされるスタッフにもされていましたから大変でした。

 午前中に担当したカウンセリングの経過を午後になって指導教官に順を追って説明します。すると、あなたはどうしてここでこういう応じ方をしたか、などと言う事を根掘り葉掘りやられる。三時ごろから始めたものが夜になってもまだカンベンしてくれない。ユダヤ人という人には、ほどほどに、ということがやれないのです。もう遅くなったし、この辺りでOKということにしておきましょうか、など言ういい加減ができないのです。そういえば、チャーリー・チャップリンにもそういうところがあったそうです。学生である私のほうがうんざりして、適当に「はい、わかりました」なんてやると、「わかってくれてよかった。それじゃドクター・ナラバヤシ、あなたがどのように分かったかを説明してください」とくるんです。

 こんな時、なるほど、この妥協を許さない頑固さがアインシュタインの相対理論を生み、ジーグムント・フロイトの精神分析学を生むんだなと納得する一方で、こんなだから、世界中でなとなく嫌われるんじゃないだろうか、なんて、失礼でありますが、気の毒に思ったものでした。「あつ、そうか」と思い当たってくださった方、いらっしゃるでしょう。そうなんです。結婚カウンセリングという仕事、厳密にいえば、どうみても、ひそひそ談合、はい手締め式ニッポン的風景の似合う作業ではないのです。むしろユダヤ的といってはいささか偏り過ぎるようでしたら、平凡な欧米的とでもいいましょうか。要するに、結婚とは二人で必死に励まし合い、いたわり合いながら支えてゆくもの、という結婚観のほうがよく似合う仕事なのだ、ということです。

 春霞のような甘えの構造

では、この章の冒頭で、
「ニッポンという国では、結婚カウンセリングという仕事なんかやれるわけないんだ、と嘆き、ふてくされ、怒りながらの、私の結婚カウンセラー人生でしかなかった」
 という発言をしたのは、そういう理由からであったというと、それが必ずしもそうでもないのです。なるほど、どこか春霞のごとき、YESイヤイヤNOイヤイヤふう甘えの構造を利用して、とりあえず結婚という生活形態をこわさずにすんで、まずはめでたしめでたしというケースであります。結婚カウンセラー奈良林祥氏がものの見事にコケされる羽目になったとしても、まあこれもニッポン的光景とがまんすることくらいは、私もします。

 それに、郷に入っては郷に従えとも申します。ニッポンで結婚カウンセリングを業としている以上、やはりどこかでニッポンの結婚をめぐる風土に合わせるくらいの弾力性を持たせませんと、なんとか解決してあげられそうなケースまで助けてあげられないことにもなりかねません。私は私なりに苦心もし、工夫もしております。結婚カウンセリングのほどよきジャパンナイズ法とでも申しましょうか。
 でも、です。
「この春霞のごときあいまいというニッポン的物事のおさめ方によって、結局、いつもトクをしているのは、ほとんどの場合、男の側ではないか」
 という私の体験上の事実が思わず、
「ニッポンという国で結婚カウンセリングなんて仕事がやれるわけないんだ」
 と、不貞腐れて見たくなるという事なのです。
 でも、女の人って、世界中で男に匹敵するほどの貢献をしながら、なぜかいつも忘れられていってしまう気の毒なところのある人たちのようなのです。

 ヴァイッゼッカーさんも、先ほどの演説の中で、「戦争により人間に課された苦しみの、おそらく大部分を担ったのは、諸国民の中の女性たちであります。女性の苦しみ、その諦念、その静かな力を、世界の歴史は、あまりにも早く忘れるのです。女性たちが、心を痛め、働き、人間らしい生活を担い、守ってくれたのです。女性たちが、戦死した父たち、息子たち、夫、兄弟、友人のために悲しんでくれました。――(中略)――戦争が終わった時、女性たちがまず最初に、まだ確かな将来への展望もないまま、石を一つ積むことを始めました」と述べています」
 だからというわけではないのですが、
「結婚してから五十五歳の今日になるまで、友だちに聞いたり雑誌に書かれているような女のよろこびというものをまだ味わったことないのです。いまさら、という気がしないではないのですが、でもね、そんなにオーガズムというのがいいものなら、せめて死ぬまで一度でもいいから私も体験したいと思いまして。

 主人にそういったらいいのにとおっしゃいますけどね、結婚の初めから、ほんとうはいい気持ちなんかなっていなかったのに、私もいい気持ちになっているみたいに芝居していましたでしょ。だって、いい気持ちになれないなんて正直に言ったら、嫌われて浮気でもされたらどうしょうと心配もありましたし。いまさら、私は一度も満足したことがないなんて言えませんよ。それじゃお前は三十年以上俺に嘘ついていたのかなんて、それこそカンカンに怒られちゃいますもの。先生、今からでも満足できる体になれますでしょうか」

 などという、たぶん子どもの頃、空襲におびえ学童疎開で寂しい思いをしたであろう五十を過ぎたおばちゃんが、ニッポン的、あまりにもニッポン的な悩みを持って(近ごろ割合多いのですが)やって来ると、私としては、
「こういう人たちのためにも、まだまだカウンセラー稼業から足は洗えないな」
 と思い直さざるを得なくなるのです。

おわりに

 私が最初のセックスレスについての著作『性を病むニッポン』を出したのが今から七年前、一九九〇年のことでありました。本当は、その本の題は、『病める国ニッポンの性』としたかったのです。私としては。性が病んでいるかもしれないことよりも、私たちが税金を納めているこの国自体が半端ではなく病んでいることのほうがよっぽど大変だなと思えて仕方がなかったからです。

 国が病んでしまっているから、”結婚したのに性行為を全く営もうとしない亭主”などという、今まではわがクリニックの相談依頼人の中でのホンの少数者でしかなかった相談例が年間でもダントツの多数例に躍り出たなんて性変が起こる。由来、性には社会の質や動きの鏡的働きをする一面があると言われておりますからね。

 その思いは私の中で今も変わることなく受け継がれております。でも、国自体の病み加減はさらにひどさを増しておりますからね。私のクリニックに相談に見える相談来所者のなんと五九%はセックスレス・カップルであるという数字が九六年度の集計結果に出てしまいました。異変です、ここまで来ると。
 それが、この本を書かずにはいられなかった理由です。
 なお、引用させて頂いた症例は、その方々のプライバシーを尊重させていただく観点から、状況等を変えさせていただいてあります。
 これを書かせてくださったあゆみ出版に感謝しています。
 一九九七年六月  奈良林祥 著者
恋愛サーキュレーション図書室