遅い帰宅の亭主はお疲れ。となれば、亭主の身の一部に他ならない亭主の性もお疲れです。亭主疲れりゃ、性欲鈍る。当たり前すぎるほど当たり前のことですな。だから、鈍ったら鈍ったなりの性の楽しみ方をしながら眠っちゃえばよいのです。女性って、なにが何でも挿入してくれなきゃ嫌だ、なんてつまらない考えの持ち主じゃ無いのだから。

本表紙奈良林祥 著

ピンクバラ自身の性的欲望の表現でいちばん多いのが、フィット感、密着度が素晴らしい、相性がいいという表現を男女ともによく使う。どんな性的機能の相性がよかったのか簡単にいうと膣の締まりがよい。ペニスが太長い。性的欲望の強さに富み官能的に感じさせ満足させてくれる。そして性癖の多様性があり飽きさせない!

第四章 ニッポン的な性の問題の中で

「母親が、異常に近いほどの熱心さで子どもの養育に愛情を注ぐのは、しばしば、彼女の女としての欲求不満の、代償作用に過ぎない」
 と、一世紀も前言い残しているのは、精神分析の創始者、ジーグムント・フロイト先生でありました。もう少し嚙み砕いて申しますと、
“母親たちが、ゼロ歳児の塾のお受験騒ぎに始まり、有名幼稚園よ、中学よ、と、血相を変えて狂奔かるのは、往々にして、忙しすぎるとかいうことを理由に夫が一向に構ってくれないために生まれた、彼女たちの女としての欲求不満の穴埋め作業にほかならない”

 と予見なされていたのが、他ならぬ、あの、フロイト大先生であった、ということです。なにせ、ニッポンの夫たちは世界一の働かせされものでありますからな。これはなにも、今に始まったことではありませんで、今をさる半世紀も前から、月月火水木金金、と言って、日本人は土曜も日曜も返上して働くものだ、と勇み立っていた実績の持ち主でありますからね。そのくせ、なかなか抜けません。残業好きです。冗談言うなよ、好きで残業しているんじゃねえや、と叱られちゃうかも知れませんが、海外進出しても、五時になれば、帰るのは現地採用の連中。日本人は当然の如く残業。

 遅い帰宅の亭主はお疲れ。となれば、亭主の身の一部に他ならない亭主の性もお疲れです。亭主疲れりゃ、性欲鈍る。当たり前すぎるほど当たり前のことですな。だから、鈍ったら鈍ったなりの性の楽しみ方をしながら眠っちゃえばよいのです。女性って、なにが何でも挿入してくれなきゃ嫌だ、なんてつまらない考えの持ち主じゃ無いのだから。ところが、男は勝手に、ワイフは挿入されなきゃ機嫌が悪いだろう、などと、見当違いの下司の勘ぐりをし、そんな気起きないから、と、さっさと寝てしまう。そこでワイフ殿が、たまには抱いて、などと甘えてみせようものなら、亭主君は、したりとばかり”男は仕事が命だくらいのことが分からないのか”と、それが決め手のゼニならぬ、馬鹿の一つ覚えが飛ぶ、このように怒鳴る。

 でも旦那、寅さんもよく言ったじゃないですか、おじちゃん、それを言っちゃあ、おしまいよ、ってね。これを言っちゃ男が廃るし、それを言うくらいなら、結婚なんかしなければよかったのに。

 いずれにしても、かくて、住専で揺れても、沖縄で苦悩しても、働かされ過ぎらしいご亭主がいて、そして女の欲求不満を、子どもに入れあげることでその穴埋めをしなければならない母親がいれば、ニッポンに、被過干渉児が増えることになったとしても、ちっとも不思議ではありません。

 すでに述べましたように、幼児期に親の干渉を受けすぎると、自我の作り上げられ方が、不確実、かつ、ひ弱になりやすいことは、序章、第二章、でお分かりいただけたことと思います。要するに、今まで述べてきたところでお察しはついたことと思いますが、性愛恐怖症ゆえのセックスレスなるサワラナ族君たちの発生は、主に、ニッポンの産業構造の性格に遠因あるいは直接因を持つ、極めて今日的で、しかも、極めてニッポン的性の問題であるわけなのです。

 セックスレスなどという流行語扱いをしていて済むことではないとは思いませんか。ニッポンの産業構造が今のようであり続ける限り、構造のトップにいる人たちのものの考え方が大きく変わらない限り、結婚しても妻に指一本触れようとしない触らない亭主が、今後増えることはあっても、減ることはないでしょうな。
 
Eさんは三十五歳。大手家電メーカーの研究所に勤務する技術者。一年半前、七歳下の女性と見合いで結婚。その後、今日まで性的接触全くなし、という主訴で、夫婦で訪ねてきました。
 彼はひどく無口な男性で、何か話しても、私にはよく聞き取れず、奥さんが彼の言うことを通訳のように私に話してくれて、それでやっと分かるというような状態でした。よくいるのです。この種のむっつり屋さんが。カウンセラーなどという人間の前によくも連れ出してくれたな、という妻さんに対する怨念がやらせる、嫌がらせ行動なのでしょうか。

 いわゆる、セックスレスなるケースを扱ってきて気がつくのは、理科系の学部の出身者で、それも大学院修了、という人が多いこと。そして、と言うのか、だから、と言うべきなのか、勤め先では研究所あるいは研究室勤務であることが、圧倒的に多いですね。Eさんもそうであるように、小さい時から良くできる子と言われていた坊やのなれの果て、であるわけですから、それも当然ということでしょうか。それに、奥さんなる女性に指一本触れずに一年半、というくらいであることからも推察できるように、セックスレス亭主である男性は。殆どと言っていいくらい、人間関係を上手にこなすことが、全くの不得意ですからね。

 研究所のスタッフという辺りが無難な役回りなのではないでしょうか。セックスレス君に大学院修了者が多いのも、彼らがよい子のなれの果て人間で、勉強大好き人間だから、というだけではなくて、人間関係の坩堝(るつぼ)である社会なんてところに巻き込まれる日を、一日でも先に延ばしたいからではないのかな、などといううがった見方をする人もおりますようですけれど。いずれにしても、問題のEさんは国立大学の大学院出でありますからね、大手家電メーカーでもエリートの卵。毎日帰りが遅い。
新製品の開発で他社とのしのぎを削っているのだから、忙しいことも、疲れて帰って来るのであろうことも、七つ年下の奥さんにだってよく分かっているのです。でも、一年半も、指一本触れようとはしてくれない夫、ということになれば、妻さんとしては不安でありますし、第一、寂しい。だから、どうして構っても貰えないのか、と、夫に尋ねる。
すると、彼は、とたんに不機嫌になり黙り込んでしまうか、普段無口で、大人しい彼のどこにこんな勢いが隠されていたのだろうとびっくりするような激しさで怒り出す。こんな事情など知る由もない周囲の人たちからは”赤ちゃんはまだなの”と、心ない質問を受ける。「このままでは、私がどうかなりそうなので、ご相談にあがりました」、とクリニックを訪ねて見えたのは、Eさんの奥さんでした。

 Eさんは、妹との二人きょうだい。父親は一時期のニッポンの典型的商社マン。海外への出張などはのべつだし、海外の単身赴任もあった。子どもの頃の彼の家庭生活は、母と妹の三人暮らしというのが普通で、”小さい頃の父親との触れ合いは、思い出すことが難しいほど、希薄なものでした”とは、彼が面接の中で奥さん経由で私に漏らした言葉でした。

 コミュニケイトできないまま

 この種のご亭主の一番困る点は、妻という女性が何を不満と感じ、なにを望んでいるのか、ということが分かっていないという事なのです。もちろん、亭主の母上という人も、同じ女性のくせに、嫁のいじらしい願いを分かってやろうとしないという点では、同じように困った人であるのです。

 そりゃあね、妻なる女性は、ごく当たり前のひとですから、結婚したら、性の交わりというものがあって、妊娠して、子どもを産み、育てることになるのが自分の役割と思い、そのことを一つの軸として、嫁を考え、妻なることを夢見て結婚したものと思います。だから、普通の夫婦がそうであるように、自分たち夫婦にも、性行為というものがあってほしいと、当然願っていると思います。でも、だからこの嫁は、せがれが性行為をしてくれないことが不満なんだわ、なんていやらしい、と、お母上が蔑むのだとしたら、それは大変な間違いでありますぞ。

 妻である彼女が不満に思っているのは、夫が性行為をしてくれない事なのではないのです。(これは四十年近くも結婚カウンセリングなるものを仕事としてきた中で、私なりに気づいた事なのでありますが)女の人って、そんなに味気ないことを考える生き物ではないのでありまして、彼女が欲しいのは、”私は確かに、この人を必要とされている。”と感じられ、”私たちは、コミュニケイトできている”と実感できることなのです。夫がセックスレス亭主であっても、です。

 疲れて帰ってきても”ただいま”代わりに、いたずらっぽくキスしてくれる夫であってくれれば、夕食を食べながら、電車の中で見たちょっとおかしな話をしてくれる亭主であってくれたら、どうせTVをみるのなら、ワイフの肩など抱きながら見てくれるウチノヒトであってくれれば、今夜の味噌汁もおいしいな、なんて言いながら食べてくれる旦那であればなあ、程度のことなら、ニッポンのお疲れ旦那だってやってあげられるでしょ。何の因果か、セックスレス亭主を引き当ててしまった奥さんだって、少なくとも初期の頃の亭主に寄せる願いって、その程度のことなんですよ。
亭主が留守の間にあったことを、ここぞとばかり喋り始める妻さんの話を、相槌など入れながら聞いてあげる亭主ならなおいいでしょう。冗談いいなさんな、こっちは一日働いて疲れているんだ、とおっしゃるでありましょうが、結婚が疲れるものであるくらい、結婚前から決まっていることでありましょうが、旦那。それに、奥さんが一日中会話らしいものなしに夫の留守の時を過ごしていたっていうのも、これで疲れるものだと思いますよ。

 セックスレス亭主、であるような御仁は、要するに、よく言えば不器用。オール・オア・ナッシング、つまり、完全にやり遂げるか、でなければ、全く何もしないか、のどちらかしかやれない人たちなのです。ベストが無理ならベターでいこう、だって何もしないのに比べればずっとよいのに、それが出来ない。小さい時からママの”女としての欲求不満の穴埋め作業”用の秘蔵ッ子であった彼には惨敗の経験はない。無惨な敗北に涙したこともない。いつも、良くできる良い子であった、というより、そういう子でなければならなかった人間であったわけで、だから、彼には、善(ベスト)が無理なら次善(ベター)でいくか、という選択がやれない。私が、彼らを、不器用と言ったのは、そういう意味なのです。
 そういう、セックスレス亭主のEさんに、
「女の性って不思議なものでしてね、亭主と一つ体になれると常に最高に嬉しくなれるのかというと、そんな保証は何もなくて、かえって、亭主と並んでソファに腰掛けてそこはとないおしゃべりなどしながら衣服越しに伝わって来る彼の体温を感じていると、このまま朝までいられたら、どんなにいいだろう、と思えてきたりするものなのね。だから、疲れていて、とてもクタクタで、という夜は、疲れていて、とてもクタクタのあなたなりの愛情表現を彼女相手になさればいいのよ。

 何もしないことをする、と言いますかね。あなたが、しなければいけない、と思っているような、性器を結合せねばいけないのだろう、彼女の体に自分の体を重ねなければいけないのだろう、というようなことを、しようと思いなさんな。手を握り合わせて眠りに入っていくことくらい、疲れていたってできるでしょう、彼女の腕を枕代わりにして眠りに就くことが、疲れているとできませんか。彼女に腕など揉んでもらいながら、いつの間にか眠りに入っていくなんて、疲れているからこそ申し分ない眠りへの入り方だと思いますけれどね。ねえ、どうです、そんな事も出来ないくらい、くたくたなの、その程度の事だって、何もあなたにしてもらえないよりは、彼女にして見れば、どれだけ安心できるか分からないんだから。キスの一つくらい、疲れてたってやれると思うけれど、どうですか」
 と、噛んで含めるように話して聞かせて、
「試みに、これから三週間、毎日三十分くらいでいいから、性器の結合なんて絶対に考えないで、無心に軽く抱き合うとか、キスくらいするとか、そんな程度のことでいいから、とにかくじゃれ合いながら眠ることをやってみてください」
 とEさんにホームワーク(家庭での実習)を宿題に出してみても、さて、三週間経ってきてもらうと
「キスは気持ち悪いからしませんでした。裸になるなんて好きじゃないから」
 と、奥さんの通訳つきでもそもそ言うだけで、なんにもしてくれない。せめて、プレジャリング(楽しいじゃれ合い)辺りから慣れさせて、などという私の自論見など、まるで受け入れてもらえない。

 それでも、Eさんの母上に言わせると、「二人はとても仲がよくて、夫婦の間は上手く言っていないなどとは、とても思えません」という事になるのですが、奥さんに言わせると、「いいえ、仲がいいのは、彼とお母さんです」という事になるのです。

 そもそも、この結婚それ自体が、彼が望んだものでなくて、母親が全てお膳立てをしたレールにのって、彼は結婚させられただけの事だったのです。何せ、彼の着る物から食べるものに至るまで、嫁を差し置いて、お母さんが世話を焼き、しかもEさんなる旦那は、それを不自然な事とは思っていなかったという有り様だったのですから、その他の点は推して知るべし、でありましょう。ばかばかしくて亭主の性の治療のお相手などやっていられません、というので嫁さんは実家に戻り、結局、離婚という事になりました。まあ、仕方ありませんでしょう。

 Eさん夫婦が私のクリニックを訪ねてきた理由は、ちゃんと性生活がやれる夫婦になりたいから、という事でありましたのですが、じつは、彼の無意識という心の深層では、ちゃんと性行為ができてしまったらどうしょう、という性愛恐怖という心の動きが働いているクライアントだったということです。それも、かなり強度の母親への精神的固着(マザーフィグゼイション)を持った、です。

 これに似たケースは、以前から結構ありましたですね。
 都内のある国立大学でフランス語の助教授をしていた彼は、大学近くの、親が買ってくれたマンションで結婚生活を始めて一年になるけれど、今でも、大学の仕事が終わると、奥さんの待つマンションにではなく、両親がいる都下の実家に帰り、風呂に入り、着替えを済まし、夕食を済ませてから、行ってまいります、といった感じで、奥さんのいるマンションに帰る、という生活を続けているという、セックスレス夫婦の例を扱ったことがありました。

この助教授先生、いったいどんな顔をしてモーパッサンのことなどを学生に講義するのだろうと思ったら、嫌になったことを覚えていますが、こんな例を読まされると、これはひどいマザコンだ、とあきれておいでの方が少なくないと思います。左様、Eさんの場合にも、フランス語の助教授の場合にも見られる”成功への不安”なる症状のルーツは、どうやら、エディプス・コンプレックスの処理の失敗、なる点にあるように思われるのであります。

 さて、エディプス・コンプレックスとは聞き慣れない言葉だな、と戸惑っておいでの方、戸惑うには当たりません。あなたのお馴染みの言い方で言えば、マザー・コンプレックスの処理の失敗、という事なのでありますから。

 ところで、皆さま方は、よく、あのお店の若旦那様はマザコンかもね、などと、さもマザー・コンプレックスを悪者でもあるかのようなおっしゃりようをなさることがありますが、それは大変な間違い、エディプス・コンプレックス(通称マザー・コンプレックス)は良くも悪くもない、一つの、人生の通過点にすぎないものでありますよ。その昔、あなたも、弁慶が安宅の関を通過したように、通過してきた人生の通過点の名前なのです。悪者みたいに言っちゃ可哀想です。

 これは、精神分析なる物の生みの親である、ジーグムント・フロイト先生が考え出した学説なのですが、三歳から五歳くらいの間に、子どもは母親に恋する、というのです。つまり、近親相姦願望を抱くというのであります。穏やかではありませんな。そうです。穏やかではない心情だから、それを、コンプレックス(「複合」と訳されますが、入り組んだ、という意味も持った言葉です)と呼ぶわけです。恋をすると言いましたが、実際には、母親は自分のもの、自分だけのものでなければ嫌だ、と言わんばかりに母親に甘え、母親を独り占めにしたがる時期の事です。

 こんなエディプス・コンプレックスなどというものを心に作り上げたりしている頃の子どもたちの心情を表現する言葉の一つに、
「万能対象、誇大自己」
 というのがあります。いわゆる、子どもの母親観と自己認識の特徴をこれほど見事に凝縮させて言い表せている言葉は他にはちょっと見当たらないのではないか、と思える言葉です。

 万能対策、というのは、母親という対象物は、子どもである自分がこうして欲しいという願うことを何でも叶えてくれて、嫌な顔一つもせずに自分のために尽くしてくれている人なのだ、という意味です。あの人万能の人、というわけ。

 誇大自己、というのは、子どもである自分は、世の中で一番偉い存在であるから、世の中は自分の思うように展開し、万能なる母親は、自分の欲望を全て満たしてくれて当然である、ということです。

 なんて身勝手な野郎どもだ、子どもって奴は、いい気なもんだぜ、全く。
 まあ、そうお怒りめさるなって、あなただって、かつてはそうだったわけだし、いや、今だって、亭主関白なんぞと威張っていたって、なんのことはない、万能対象、誇大自己クンそのまんまの再放送みたいな旦那方、世の中にいくらもいるじゃないですか。自分は偉いんだぞ、俺の言うこと聞けない奴は、死んでもらってもいいんだぞ、なんてとんでもないことを言う”万能対象、誇大自己丸出し”的人間もいますしね。

 というほどに母親を独占しようと思っている子どもにして見れば、父親クンは大変目障りな存在なのでありますよ。何せ子どもである自分より、はるかに体が大きい。何でもできちゃいそうで、おまけに、一番面白くないのが、夜になると、我が独占物のはずの母親と、同じ部屋の同じ布団で寝ているらしい。”あいつは俺の恋敵だ”なのです。でも、大抵の子どもたちは、こんな恋敵がいたんじゃ、母親の独占は難しいんじゃないかな、とあきらめの心境になりましてね。母親への恋を諦めることになるのです。そして、心の中で、”母親を自分にとっての理想の女性像””父親を自分にとっての理想像”というふうに切り替えをするわけで、それがちゃんとやれたことを、
「エディプス・コンプレックスの処理がうまくやれた」
 といわれて
「お前さんは、エディプス関所を通り抜けていいよ」と言ってもらえるわけです。つまり、マザコン卒業でありますな。
 ところがでありますよ、前記Eさんの場合のように、父上は有能な画に描いたような商社マン。お父さんがたまに家にいても「粗大ごみ夜になったらまた戻り」みたいなことになると、話はややこしくなります。

 近頃は、日本の産業界もかなり変わってきてはいるのでありましょうが、接待の宴会、接待のゴルフ、それに残業、と、なかなかお忙しいのが、ニッポンのご亭主さん方です。Eさんなど、幼い頃の思い出の中に、父親がほとんど登場しないのだ、と言っておりますものね。

 となると、いわゆる、エディプス期と呼ばれる年齢を迎え、母親に恋をし始める子どもにすると、父親という恋敵がするから、仕方なく、母親への恋を諦めざるを得ないだろうと心を決めるわけなのに、その恋敵の父親の家庭内での存在感が曖昧であるというのであれば、母親への恋を諦める理由が無くなることになります。

 しかも、すでに述べましたように、亭主が、男は仕事が命、と、奥さんへの接触が間遠になれば、彼女の心には、当然のごとく、女としての欲求不満が生まれます。そして、ニッポンの主婦の場合は、夫への当てつけに恋になどすることで欲求不満の穴埋めをする、という手段はあまりとらず、むしろ、子どもの養育に異常なほどの力を注ぐことで欲求不満の穴埋め作業とするという道を選ぶことが多いようなのです。

 子どもは父親の家庭内の存在感の薄れをもっけの幸いとして母親への恋を募らせ、かつ、持続させるつもりになっている。
 母親は母親で、女としての欲求不満の穴埋め作業として、大いに子どもに入れあげようと心に誓ってている。

 その結果として、三歳から五歳の間くらいに芽を吹くマザー・コンプレックスなる母親への恋心は、消えることなく、子どもの心の中で、五歳、十歳。二十歳と連綿と保ち続けられることと相成るわけです。子どもの心と母親の心は、しっかりと結びあわされている。

 この状態のことを、母親への精神的固着(マザーフィグゼイション)と申すのです。つまり、マザー・コンプレックスという母親に恋する近親相姦願望を心の中から切り離すことがやれたことを、マザー・コンプレックスからの卒業、あるいは、マザー・コンプレックスの処理ができた、といい、マザー・コンプレックスを心の中に引きずったまま二十歳であり三歳であるような状態を、マザー・フィグゼイション、そういう人間をマザフィグ族と呼ぶ、と覚えてくださったら、よろしいのではないかと思います。

 Eさんにその典型を見るような気がしますが、今という時代は、マザフィグ族が増えていておかしくない時代です、ちょっぴりいじりましょうというのが現代日本の育児の主流であり、ちょっぴりしか産まない時代の子育ての哲学が曖昧である現状では、それも仕方ないことでありましょう。それでよいとは、わたしは思いませんが。

 無意識という心の働き

 さて、この、私言うところの、マザフィグ族、つまり心の奥深くで母親さんに恋をし続けながら大人になった、例えばEさんのような人間にとっては、成人してからの異性との愛情関係における成功とか、異性と仲良く成れたことは、象徴的には、マザー・コンプレックス時代における母親に対して抱いた、あの”近親相姦願望”の達成を意味することになるのです。それは同時に、恋敵である父親を出し抜いての、性愛における勝利を意味するものでもあるのです。

 マザフィグ族の彼にしてみれば、こういう成功や勝利はとても不道徳で空恐ろしいことなのです。空想の中でのことと言うのであればともかく、実際にそんな不道徳な行為に勝利し、成功を収めるなんて、とんでもないこと、にもかかわらず自分は今、その不道徳なる勝利を実現させようとしている。と、彼は、結婚して妻と呼ばれる女性となった性交の相手を前に、無意識のうちに、慄然とさせられるのです。彼が、慄然とさせられた瞬間、彼の性的興奮のスイッチは切れ、勃起するかに見えた彼の勃起は消えてしまうのです。かくて、成功も無く勝利もない凡々たる彼でありえたことで、彼はホッとするのです。

 と言っても、これらは、すべて、彼の無意識という心の働きの中でのドラマ展開なのでありますが。
 そういえば、私の文章の中に、無意識という言葉がよく出てきまいりますが、人間の心は、二階建てなのだ、と、考えていただくと、解りやすいかもしれません。ただし、二階建てといっても、地上一階地下一階という二階建てです。

 地上一階のほうの心の働きは、普段私たちが意識して考えたり、判断したり、空想したり、喜んだり、怒ったりしている心の働き。地下一階の心の働きというのは、地下のことだから表からは見えないし、自分でも気づけない無意識のうちに働いてしまう陰の力。

 そして、この二つの心の働きを合わせて、「心の働き」というのです。

 無意識という地下の心の働きは、陰の力だけあって、とんでもない悪さをしたり、なかなか手の焼ける忍者みたいなものです。自分には、まるでそんなつもりはないのに、男をインポテンスにしたり、女性を性交拒否症にしたりします。
図1

 出産を選んだ時にセックスレス

 要するに、皆さんがよくお使いになるマザコンなる言葉、あれは、三歳から五歳頃までの間に人間誰でも直面させられる”近親相姦願望”を巡る心の葛藤があって、それをマザー・コンプレックスと呼ぶ、とする学説から出た言葉でありまして、いわば、誰にもある人生の一つの通過点を指しているに過ぎない言葉でありますから、みなさん方が、”あの人、マザコンかもね”などとおっしゃる言い方は間違いでありまして、”あの人、マザーフィグゼイションの略かもね”とおっしゃるのが正しいのだ、ということです。
しかも、今という時代は、ちょっぴり産んで、たっぷりいじりましょ式の育児スタイルが主流をなしているわけですからね。そうなれば、嫌でも、過保護っ子、過干渉っ子は増えます。それは、マザフィグ族の予備軍が増えるということであります。
言葉を変えて言うならば。それに加えて、折りも折りとての時代背景、ということもありましょうね。大仰な言い方を許して頂けるなら、それこそ、マザフィグ族の反乱の時代、と言いたいくらいです。考えてみてください。私が一日に面接する五人のクライアントの五人までがセックスレスのケースであるという事実を経験させられてご覧なさいな。思わず、そんな取り越し苦労もしたくなるというものです。

 今という時代を、母性喪失の時代と位置づけようという人たちもいるくらいでありまして、子どもを産み、母親にはなった、でも母性には成りたがらない女性が現れてきています。母親になってから母性であることは必ずしも言えない昨今なのです。

 母性であるということは、単に子どもを産んだという事実だけではなくて、赤ちゃんが我々大人に与えてくれるあの珠玉のような可愛らしさに、心からの微笑みや抱擁で応え、惜しみなく愛情を注ぐことをいとわない母親であろうとする生き方の総和のことです。簡単に言えば、「子どもの母親に対する愛着心を満たしてあげる母親の役割のすべてを母性という」という事でしょう。

 かつて、母性になるということは、女性にとって、大きなメリットをもたらすことであったわけです。それどころか、かつてのニホンの女性の世界には、母性になることで、家庭の中でやっと一人の存在として認めてもらえた、などと言う事もあり得たのです。しかし今日では、母性になるという事が、女性にとっての、生きる上の数ある選択肢の一つに過ぎないものになってしまいました。それも、必ずしも今日の女性にとって魅力的とは言えそうにない選択肢の一つ、ということに成りつつある、というわけでしょうか。

 キャリアウーマンとして仕事に生きることに専念したいから、結婚はしない、という選択肢を選ぶ女性もいるでしょう。結婚しても、仕事の世界で生きていきたいから、絶対子どもは作らない、という人生の選び方があってもおかしくない時代でもあります。

 一九九六年という年は、私の仕事の本拠地「主婦会館クリニック」カウンセリングの窓口にセックスレスのクライアント(相談依頼人)の相談申し込みが、一段と増えた年でありました。そして、その中に、幾組かの、”仕事に生きる女の道を選びたいので、子どもを作らない事にした。だからセックスレスなのですが”という、今までのセックスレスの相談にはなかった、新しいタイプの相談が登場して、時代は生きていることをしみじみと感じさせられた年でありました。その一例として、Fさん夫婦の場合を触れてみたいと思います。

 ご主人のFさん、四三歳。経済では名門の私大出身の商社マンで、現在東北地区の支店長として単身赴任中。本社での出席を兼ねて、ほとんど毎週末、東京の自宅に戻ってくる。
結婚して十五年になるF夫人は東京の伝統ある女子大出身で三十八歳。結婚した時、すでに仕事に就いていて、仕事に強い魅力を感じており、何としても仕事を続けていきたいと熱望していたので、ご主人は”仕事をする以上、半端な仕事の仕方はしてほしくないし、いい仕事をしてほしい。そのためにき、我々夫婦は、子どもを作らない方がいいのでは無いか”と提案、それ以来セックスレスなのだ、と言うのです。
なにも、セックスレス、などという道を選ばなくても、経口避妊薬の使用という方法もありましたでしょうし、子宮内避妊具(IUD)挿入でも切り抜けられたのではないか、という気もしないではありませんでした。それに、十五年もの間ご主人は本当にセックスレス亭主を守り続けられたのか、という疑問と興味が私にはあったことも事実です。でも、そんなことを詮索している暇もなく、もっと大きな問題が二人の間に持ち上がり、私を訪ねて見えることになったのです。

 と言うのは、十五年もキャリアウーマンとして充実した生活を生きてきたミセスFが、ある日、ポツリと、”私、赤ちゃん産んでみようかな”と漏らしたことから、思いがけない性の問題が、登場してくることになりました。

 ワイフなりに納得のいく仕事をしてきている、と見ているFさんは、奥さんの思いもかけぬ一言に、決してつれない反応は見せませんでした。”反対はしないよ”といい。でも、”子供が欲しい、早く妊娠したい、と、病的なほどに神経質に妊娠しそうな時期にこだわったりして、妊娠に振り回される女になられるのは、御免こうむりたい。自然体でさ、妊娠したら産む、不幸にして妊娠に恵まれなかったら、その時は、じたばたせずに諦める、というのならね”とOKを出したわけです。まあ、いかにも、都会っ子夫婦らしい、スマートな結論の出し方と、微笑ましく思ったものでした。

 ところがです。十五年ものセックスレス夫婦に別れを告げ、いざ行為ということに成ってみたら、なんとミスターF氏は、事志に反して、インポテンスに見舞われてしまったのです。

 性行為の間隔が異常に長く空いてしまい、結果的にFさんも若くは無くなっていた、という条件が、こういう結果を招いたのでしょう。心因性の持続性インポテンスです。単身赴任先から一週間に一度帰って来るという制約の下での治療でしたので、思ったより伸びましたが、もともと治って当たり前のインポテンスでしたから、問題はすんなり解決しました。

 私がFさんの治療を進めている頃、まだ二十代、三十代というような若い、私と同業の女性たち、つまり、心理学系あるいは医学系のセックスセラピスト(性治療家)の中から、”先生はなぜそんなにセックスレスにこだわるのですか。セックスなんて、あんな面倒くさい物なんか、夫婦の間になくたっていいじゃありませんか。私なんか、ほとんどありませんよ。だって、他にやりたいこと沢山ありますもの”と事も無げに言う声が聞こえてきたりして、私を、慄然たる思いにしてくれたものです。それぞれ立派な仕事をしている、近い将来、日本の性の治療の中核になってくれるに違いない連中の口からの声ですからね。

 こういう、いかにも今的夫婦の性行為の位置づけ方に対して、とりあえず私が答えてあげられる答え方は、「あなた方の場合のように、夫婦になる前から、性行為を無くてはならないものとは考えない、という共通の認識を持っているカップルであれば、性行為があろうが無かろうが、一向に構いませんよ。でもね、結婚という二人の間の契約の中にお互いの納得のいく程度の性行為アリ、のつもりで結婚したのに、相手が、さしたる根拠らしいものなしに性行為をしようともしなければ、性行為をしてもらえなかった側からすれば、それは契約違反であり、人権の無視という事にもなるわけですからね。結婚カウンセラーであり、かつ、セックスセラピストでもある私としては、懸命に受け止めないわけにはいかないのでありますよ。当然でしょ」ということになるのです。
そして、それに加えて、たかがセックス、されどセックス、セックスをなめたらいかんぞよ、と申し添えたいのです、私といたしまして。

 性行為の中のオーガズムという瞬間は、人間にとって”そこでしか体験できない、自我からの解放の時”であるがゆえにオーガズムを生む性行為なるものは尊ばれなければならないし、また、”オーガズムの瞬間にしか人間は素顔を見せる事はしない”から夫婦にとって性行為はなくてはならないものなのである、ことは、すでに述べました。
でも、もう一つ、夫婦の間にどうしても性行為はあるべきであると私がこだわるのは、性行為の中のオーガズムとは、人間の”許し”の極致であるからです。だから、何日かに一回は二人が完全に許し合いの極致の状況の中に包み込まれるオーガズムの時を共有できている夫婦は、日常生活の中でも、巧まずして、大抵のことは許し合える夫婦として暮らしていけるものなのです。
性行為なんて、とセックスを小馬鹿にしていると、許し合いに不器用なカサカサした夫婦にいつの間にかなっていく。それを恐れるから、私は、性行為なんか面倒臭い、なんて言って欲しくないのです。許し合いの希薄な夫婦とは、忍耐の希薄な夫婦ですからね。

 結婚は女と男との間に交わされる契約です。厳密に言えば、神あるいは仏の前における契約です。ところが、昔はともかくも、現在の日本人は信仰の点では、一般的には、かなり、いい加減ですからね。結婚式における神仏は、単なるアクセサリーくらいにしか考えていないみたいでありますから、自分たちは今神仏の前で契約を交わしているんだ、なんて意識は、先ずないでしょうな。百歩譲って、神仏様抜きでも、結婚は契約である、と互いに意識して結婚してくれるかというと、それも、ないみたいのように、私は思えます。第一、結婚は契約だ、なんて言おうものなら、水臭いことを、だの、先様に失礼な、だの、縁起でもない、だのと言われて、異端視されるのがオチでしょう。そういう癖のある国なのです、この国は。毎年のようにプロ野球の選手がアメリカの大リーグに移りたいとは言っては、球団側はスッタモンダするのも、要は、選手クンの側の契約というものの受けとめ方のいい加減さと、一般大衆の”行きたいというものを、行かせてやればいいのに”という、これまた契約音痴的後押しが、話を不透明なものにしてしまう元凶である年中行事に他なりません。

 野球などという遊びごとと結婚を一緒にしては結婚がかわいそうすぎますが、昨今話題の、私言うところの「疑似セックスレス」なる契約違反族ワガママ派の振る舞いは、”ザケンジャネーヤ”と、私なんどがいきり立ってみても、鼻にも引っ掛けてもらえないほどに嚇嚇(かくかく)たる伝統と隆々たる実績に輝く、わがニッポンという国の、宿痾(やまい)的ワガママ病なのであります。それにしても、いわゆる一人のワガママ病人でしかない分際で、セックスレスだなんて、序の章、第二章でとり上げた原発性セックスレス患者さんのAさん、Bさん、Cさんたちの気の毒さを考えると、”テメーラ、臆面もなく、セックスレスだなんて、よく言えるな”と、こちらがふて腐れたくなりたい気分です。

 疑似性セックスレスとは

 私が、疑似性セックスレスと分類するのは、性欲旺盛、性機能万全、にもかかわらず、なぜか配偶者である妻さんとは性行為をしようとしない、ワガママな不届き者たちのことです。中には、義務だから仕方あるまい、と、一年に一、二度、ほんの申し訳程度に妻さん相手に排泄作業をしてお茶を濁す者もたまにいるけれど、大方は、”釣り上げた魚に餌をやる馬鹿はいないよ”と、我が家では糖尿病ゆえのセックスレス、妾宅では毎夜の御乱交型か、さもなければ仕事の話とセックスは自宅には持って帰らない主義なんでね、などと粋がっては夜な夜な東京は六本木界隈でジャリ相手の援助交際なる買春の顧客やっているオジサン型。

 しかも、この不真面目さは、内館牧子さんの著『義務と演技』が読まれたり、それが映画化されたからパッと花咲いた。なんて代物ではありませんで、梶山官房長官という人の発言を待つまでもなく、なんてったってこの国は、ほんの三十年と少し前まで、公娼制度、つまり国によって認められて、男に公然と女性の性における人権(セクシュアル・ライツ)を踏みにじらせることを業とする組織があった国でありますからね。男が家庭外で女性相手に性を排泄行為にうつつを抜かすことをさほど大きな問題とは思わない癖が世の中に定着してしまっているのでしょうね。だから、公然と妾を持って総理大臣を務めていても誰もそれを非難しないし、議会も取り上げようとしないで、その総理大臣が外国の飛行機会社からお金をもらったらしい、ということは裁判沙汰になる、というような不可解な出来事がまかり通ってしまうのです。
私には、総理大臣がワイロを貰ったどうか、なんてことより、総理大臣が妻なる女性の誇りと性の人権を公然と踏みにじった事実の方がよほど重大な問題に思えるのでありますがね。
だって、ワイロは彼の政治家という職業上の誤りの問題であるに比べて、妾の問題は、政治家以前の彼の人間そのものの人権軽視、と”常時自戒の発想”欠如が問われねばならない問題ですもの。

 上っ方がこんな有り様だから、何年もの間夫の不倫ゆえのセックスレスで悩んでいるということで相談に見えた奥さんの希望で夫成る男性に面談した私が、「社長には芸者の二号さんがいる。部長には銀座のクラブのママである愛人がいます。それなのに、たかが課長の私が、それもたまに飲み屋の女将と寝ることがあるくらいの話で、なんで奈良林さんに呼び出されなければならないんですか」と、何ともおかしな恨み節を聞かされる羽目にもなるのでしょうね。

 いくらビーフステキが好きだからといっても、毎日三度三度の食事とビーフステキを出され続けたらそれに飽きてしまうように、どんなに惚れ合って結婚した二人であっても、結婚した途端から、じつは、お互いが飽きる方向へと走り出しているものなのです、悲しいことを言うようでありますが。そんなの悲しい、ですか? だったら、飽きないように、二人で努力し合って生きていくより方法はありません。努力し合うことを怠れば、飽きるに決まっているのです。
ということは、結婚するということは気が遠くなるほどに大変な仕事だ、ということなのでありますよ。何十年もお互い努力し合っていかねばならないって、いい加減な気構えでは、やれないことですぞ。かく申す私めは、一九九七年今年、結婚五十年になります。

 疑似性セックスレスの張本人である亭主は渋々、奥さんのほうは鼻息荒く私の前に現れる、というのが、疑似性セックスレス夫婦のカウンセリングへの登場の普通の姿です。とうとうと、いかにセックスレスであるかを述べ始めるのは奥さんの方。その間、ご亭主はというと、何か口を挟もうと口をモグモグさせるけど、奥さんの喋りの勢いに呆れたように黙ってしまって、天井のあらぬ方角に眼を走らせて、”またあんなつまらないことをごちゃごちゃ言いやがって”とホロ苦い顔をしています。

 ご主人が言い訳ふうに言うことは、ほとんどのカップルが似たようなもので、とにかく忙しい、だから帰りが遅くなる、疲れて帰ってくるので風呂から上がったらあとは寝るだけ、やらなきゃと思うのですよ、でも景気がこんな具合ですしね、お得意さんとのつき合いもありますし、ええ、まあ、官の接待もねえ、これで結構大変なんですわ、課長なんてポストは。

 でも課長さん、日本性科学学会という性科学者の集まりでは、結婚しているのにもかかわらず、夫婦が納得するだけの理由もなしに満一ヶ月以上性行為がない夫婦をセックスレス・カップルとみなす、と一応定義づけているのです。だから、一ヶ月どころか、お宅のように、三年だ、四年だ、とご夫婦の間の性行為がないということになれば、これは、もう、言うことなしのセックスレス・カップル、いや、奥さんは性行為を望んでいらっしゃるのですから、お宅の場合はセックスレス・ハズバンドというわけで、病的な旦那ということに成りますのです。

 しかも、課長さんは、(奥さんには内緒にしておきますが、外では女と性交行為がやれているそうですから)やろうと思えばやれる方のようですから、セックスレスの分類上から申せば、疑似性セックスレス、ということになります。つまり、偽物のセックスレスというわけですな。
もちろん、性の病気なんかじゃありません。単なるワガママ症候群の一つということでしょうか。これって、結婚における契約不履行ですよ。それに、奥さんのセクシャル・ライツ(制における人権)無視、でありますぞ。日本という結婚にいい加減な国だから、あなたはニタニタ笑って済ませるおつもりでありましょうが、これが欧米の国だったら、とても、ニタニタヘラヘラでは済まされないと思いますよ。いや、現に、一九九五年北京で開催された世界女性会議において、Sexual Rights(性における人権)が議題として登場しているのでありますぞ。奥さんたちにも、セクシャル・ライツ性における人権を訴える権利が生まれつつあるのです。家庭外における男の性的逸脱なんてものは、古来からの男の甲斐性みたいなもんで、なんて日本の男の言い分など、とても国際的には通用しない暴言、ということに成る日も、そう遠くはないように思えますけれどね、課長さん。時代は動きつつあるのです、性においても。

 そこで、疑似性セックスレスの課長さんは、私のいうことを、とりあえずは”ごもっとも、以後、努力しましょう”ふうに頷いてイイコブリッコしながら、心の中で多分、”私の行状を、疑似性セックスレスだと一々騒がれたんじゃ、ニッポンで男なんてやらんねえよ”とつぶやいておいでなのでありましょう。考えてみると、こうした、数えきれないほどに世の疑似性セックスレス男性たちの「接待ゴルフ、接待宴会、官官接待、残業、接待カラオケ等などアリ、の、妻さんとのセックス無し」暮らし、という頑張りのお蔭で、この国の経済はみるみる発展し、経済大国と言われる国にもなれたのでありましょうな。疑似セックスレス旦那たちよありがとう、なのでありますからね、つまり。

 でも、課長さん、チョイマイチ。スルッテート、仕事は男の命だ、と男に言わせる企業体は、先に申しましたように、昔でいえば軍隊であり、企業のお勤め人は、さしずめ兵隊さんであり、夫さんとの性行為無しでじっと耐えている被セックスレス妻さんたちは、あの軍隊の花と呼ばれた方々なみの健気なる企業体の妻たちという事になるのでありますな。つまり、この国はまだ、敗戦無しの戦時中、というわけですか。

 なんのことはない、時代は表層雪崩的に、見かけだけ動いているように見えるだけで、本当は、歴史は繰り返されているのさ、と課長さんや企業さんはおっしゃりたいのね。

つづく 第五章 モラトリアム型の若者たち