Bさんも、じつは典型的な「サワラナ族」、つまり、セックスレス亭主の一人であり、いわゆる原発性インポテンスの男性ではないことは、最初の面接で、すぐ分かりました。原発性インポテンスというのは、結婚最初の性行為から勃起不全であったようなケースのことであり、とりあえず普通に性行為を行っていた男性が、ある時から突然勃起不全になった、というタイプのものは、続発性インポテンスといいます。この本の中にこれからも、のべつ出てくる言葉だと思いますので、覚えておいてください。

本表紙 奈良林祥 著

ピンクバラ自身の性的欲望の表現でいちばん多いのが、フィット感、密着度が素晴らしい、相性がいいという表現を男女ともによく使う。どんな性的機能の相性がよかったのか簡単にいうと膣の締まりがよい。ペニスが太長い。性的欲望の強さに富み官能的に感じさせ満足させてくれる。そして性癖の多様性があり飽きさせない!

第二章 サワラナ族のBさん

Bさんは、東北地方のある市で、親譲りの食料品店を営む三十八歳の男性。彼の父親は、彼が幼稚園であったころ、交通事故で死亡。以後、夫亡き後、食料品店の経営を引き継いで極めて多忙な母親に代わり、ほとんど祖母の手で育てられたといいます。その祖母なる人は、死んだ息子に代わって健気に頑張ってくれる嫁の姿に、多分、いたく胸をうたれたのでありましょう。孫であるBさんの養育を一手に引き受け、根が真面目な性格がそれに輪をかけて、厳しくBさんを躾ける結果になったようです。廊下を走ったといっては叱られ、大声を立てたといっては叩かれ、という具合だったと、Bさんは述懐してくれました。

 彼は、私大の雄、といわれる東京の大学を出ているのですが、極めて真面目で、超律儀な日常の行動は、東京での四年間の下宿生活を含め、幼少時代、中学、高校時代、青春時代、そして今日にいたるまで、一貫して変わっていないのだ、と言います。

 見合いでの結婚年齢は三五歳。結婚後三年して、結婚当初よりのインポテンス(勃起不全)ということで、彼の居住地の医者よりの紹介を受けて来所しました。

 そのBさんも、じつは典型的な「サワラナ族」、つまり、セックスレス亭主の一人であり、いわゆる原発性インポテンスの男性ではないことは、最初の面接で、すぐ分かりました。原発性インポテンスというのは、結婚最初の性行為から勃起不全であったようなケースのことであり、とりあえず普通に性行為を行っていた男性が、ある時から突然勃起不全になった、というタイプのものは、続発性インポテンスといいます。この本の中にこれからも、のべつ出てくる言葉だと思いますので、覚えておいてください。

Bさんは結婚以来三年間、妻なる女性と一度も肌を接したことがないどころか、指一本触れたことがないというのでありますから、見事なセックスレスのケースです。インポテンスということで紹介されてきたのは、Bさんが、初夜に試みたけれどできなかった、と先生の問診に答えたからでして、実際には、一つの布団に寝たことは寝たけど、結局、何もしなかった、という事だったのです、本当は。

 彼の性の機能に全く異常の無いことは、泌尿器科の診察の結果でもわかっておりました。ということは、彼はまたAさんの場合と同じ、幼児期の養育者による過干渉に起因する、過剰防衛の結果の性交回避症かなと、初回の面接の時点では考えておりました。

 それにしても、三十八歳にもなるというのに、Bさんの性の知識の貧弱さは、ひどいものでした。今から十五年ほど前のことにしても、大学まで出ている男性とは、とても思えない、まさに箱入り息子とはこういうものか、という知らなさ加減でした。お祖母ちゃまが、悪い虫など絶対に孫につかせてなるものかと、おそらく性なども”悪い虫”の一つに教えられて、必死に非性的成長を願い続けた結果の、セックス音痴だったのでしょう。
これでは、とても性の治療どころではありませんので、東北の都市からで申し訳ないと思いましたが、週に一度の割合で来所してもらい、約六週間かけて、それこそ男女性器の解剖から性行為に至るまで、駆け足で教えねばならなりませんでした。勿論それには、性というものに心情的に少しでも慣れてもらいたいという、私の目論見も含まれてはおりました。私はBさんに、今なら小学生の性教育の時間並みの講義をしながら、当時上野動物園の園長さんだった中川志郎さんとの対談の中で伺った、動物園で生まれて育ったチンパンジーは、野生のチンパンジーのように大人のチンパンジーの性行為を小さい時から見て育っていないから、性行為をする年齢になり、パートナーを与えられて気持ちは猛烈に高ぶっても、その気持ちを性行為に結びつけることができず、大人のチンパンジーが性行為をしている映画を見せて性教育をするのだ、という話を思い出しておりました。

 なにしろBさんは、四年前の東京での大学と下宿との往復以外の外出はほとんど無いに等しかった、と私に話してくれたほどですから、まじめで実直、ということ以外の余計なものは取り入れようとはしないで大人になったような人と言えるでしょう。

 たとえば仕事の関係で配達に出るという事があるわけです。出かけに、お母さんが、三十分もあれば済むわね、といって彼を送り出したとします。ところが、意外に順調に配達が終わり、二十分で帰宅できそうになると、途中で本屋に寄って本の立ち読みで時間をつぶし、きちんと三十分で店に帰ってくるようにするという、失礼ながら滑稽なほどに、いい子であろうと心がける人間であるBさん。つまり、祖母と母の厳しい躾によって彼の心に作られた自我という、昔風にいえばヨロイカブト、今風にいえばフォーマルスーツ(それもぴったりと心を包んだオーダーメード的な)で心を装うだけでは物足りなくて、超自我(スーパーエゴ)などという道徳的な面を受け持つ燕尾服的な心の働きで自分の心を包みたくなるような人なのです。
祖母にしてみれば、まあ会心の作、といったお孫さんですかね。でも、性科学的に見れば、(序の章で述べましたように)自我防衛が過剰にまで強く、だから心に弾力性がなくて対人関係まるでだめ、従って、他人と親密になることに不安を抱いている「回避型人格障害」ともいえる男性に育ってしまった、ということで、会心作どころではないのです。

 他人と親密になることに不安を感じるくらいだから、女性と仲良くなりたいなんて思えない、だから、女の人と仲良く暮らしていかなければならない結婚なんてことをしたいなんて思えない、したくないからなんだかんだ言って結婚から逃げ回る。本人が嫌がっているのだからそのままにしてあげればいいものを、この国には、やたら結婚させたがる妙なお節介やき屋さんがごまんとおりましてね、Bさんがいくら逃げ回っても、有名私立大学出の三五歳が逃げ切れるわけがありません。その年になって一人でいたんでは社会的信用がつきませんよ、だの、あなたが結婚しなければお祖母ちゃまが安心してこの世を終えられませんよ、だのと脅されたり、泣きつかれたりで、結局Bさんは結婚させられた、というわけです。世のお節介やき屋の小母様や小父様も知っておいて頂きたいのですが、世の中には、結婚には不向きだけれど、独身でいれば結構力も発揮できる、という人間もいるのであります。そういう人を結婚させて、二人ともが迷惑を被るなんて、罪作りな話じゃありませんか。

 無意識の性愛への恐怖

 序の章で載せておきましたセックスレスの分類表の中の、原発性1のb「親密への恐怖」に、Bさんは当たる人です。親密になるのが怖い、といっても本人がそれを意識できているわけではありません。再々申してまいりましたように、無意識な心の働きなのですからね。病名で言えば「性愛恐怖症」という事になりますが、その背景には「回避型人格障害」という彼の育ちあがりの歪みが存在しているわけです。セックスレスという性の病いは安っぽい現象じゃないのですぞ、と、私が言うのも、こうした事情からなのです。

「性愛恐怖症」の人というのは、性とか愛とかいうものに関係することが怖いという症状を持っている人のことでありまして、そういう人たちの中に、他人と仲良くすることが好きではない。というタイプの人もいるということでしょうか。というと、そんなの今という時代には、結構いるじゃない、と言いたい方もいらっしゃるかもしれません。大学は卒業したけれど、社会に出て会社の中の人間関係なんていうものに悩まされるのは嫌だから、と、就職もしないで、家の中にこもってTVゲームなどをしている「こもり族」と呼ばれる人たちとか、オタク族とか。要するに、みんな同類項なのですよ。自分の心の殻から出たくない、何かの為に、自分の心の殻を破りたくない、と必死になって自我なる心の殻を守ろうとしてしまう人たちなのです。そして、そういう人たちが起こす性の問題の一つに「性愛恐怖症」という病的恐怖症」という病的症状があり、それがセックスレスという行動を生むのだ、ということもあります。

 性愛恐怖症などと聞けば、誰だって、「要するに、女性と性行為をしたいという気持ちはあるけれど、失敗したら恥ずかしいなどと思ったりすると、怯えてしまって何もできなくなる人間のことなんだろう」と、お思いになるでしょうね。当然です。現に、Bさんだってそうであったように、ほとんどの性愛恐怖症さんは、自分は性行為がちゃんとできないことを悩んでいる人間なのであり、ちゃんとした性行為ができる人間になりたくて相談にきたんだ、と本気でそう思っているのです。

 でも、これが違うんですなあ。性愛恐怖症の人たちというのは、性行為をやろうとしても、失敗してしまうのではないか、ということを恐れている人たちなのではなくて、性行為なるものが、ちゃんとやれてしまうことを、性行為に成功してしまうことを、ひたすら恐れていて、だからサワラナ族であり、それゆえのセックスレスなのだ、という人たちなのであります。なんたるアマノジャク。セックスレスって、ハンパな性の病ではなく、かなり屈折した人たちの病いなのです。しかも、自分が屈折している人だなんて気づいていないというんですから、屈折もここまでくれば立派なものです。

 それにしても、なんか変でしょう。失敗を恐れるというのなら話も分かるけれど、性行為に成功することが怖いなんて、なんたるアマノジャク。このように、性愛恐怖症の人たちは、かなり屈折したものを、心の奥深くに、隠し持っているのです。それでいて自分ではその屈折に気づかず、本当は性行為の成功を恐怖している自分にあるのに、性行為の失敗を恐怖している自分であると思っているという、なんとも痛ましい人たちなのです。

 さて、Bさんですが、性や性行為についての講義が終えたところで、セックスセラピー(性治療)に入り、三週間おきに夫婦そろって来所するというペースで十五回にわたる治療のための面接の後、奥さんの手に口による性器への刺激を受ける事で、どうやら勃起がある程度持続するところになりました。なにしろ、私との面接が始まった三十八歳になるまで、彼は、マスターベーションをただの一度もしたことがなかったほど抑圧(無意識のうちに性欲を押えてしまう心の働き)の強かった人ですから。
ここまでこれたのが不思議なくらいと、私は、内心思っていました。ですから、そうそう夫婦でペッティングを大いに楽しみ合い、状況次第では体を重ね合わせてみるくらいのことを楽しんでみてはどうかなあ、というようなことを、ご夫婦に話してみたわけです。ところが、思ってみなかった出来事が発生してしまいました。いるかいないかわからないくらいおとなしいご亭主が、なんと、奥さんをはげしく突き飛ばした、というのです。それも、三晩も続けてです。

 面接に来所した彼に笑いかけながら尋ねてみたところ、彼は恥ずかしそうに「妻に刺激されているうちに、とても気持ちがよくなってきて、そしたら、なんだか急に恐ろしくなってきて、夢中で妻を突き離さずにはいられなくなって‥‥」と、その時の気持ちを話してくれました。

 Bさんなりに、治療の効果として、奥さんに愛撫されているうちに高まってくる興奮が、以前より強くなってきていて、それが彼に不安感を生み出し、突然の恐怖感の来襲となり、思わず、奥さんを突き飛ばすにいられなくなったという事のようでした。じつは、性愛恐怖症の治療の過程で、夫が妻を突き飛ばすということは、よくある事なのです。

 まさに、性愛恐怖症患者に見られる、性行為を成功に至らせないための無意識のうちの敵意の利用の典型的一例ということができると思います。

 ピッタリした心

 性行為と呼べばオーガズムと応える、というほどにオーガズムは性の世界の花形でありますが、まあ、それも道理、というものでしょう。オーガズムに達することで人は性欲をいとも楽しく過ごすことができるのですから。ところがですね。この、人類共有のオーガズムであるはずのオーガズムが、女の場合と男の場合で、ずいぶん違うのであります。

 と言うと、ああ、射精のあるなしでしょ、と打てば響くように思ってくださる方もおいででしょう。そうですね。おかしいことに、男のオーガズムはオーガズムといわれるより、射精という言葉で片付けられてしまうことのほうが多いくらいに射精は男の性的反応の右代表的存在ではありますね。射精のおかげで、男は、万国共通の、画一にして既製服的オーガズムを身につけることと相成りました。と同時に、男は、心で何を考えていても、射精さえすれば、自動的にオーガズムに到達する便利さを身につけることもできたわけで、その便利さが、男の世界にだけ売春を生み出すことになったのですよ。何事にもよらず、便利であればいい、というもんじゃないようであります。

 そこにいくと、女性のオーガズムは随分と事情が違っておりまして、何せ、彼女たちのオーガズムなるものの仕組みが、科学的にはっきりと説明がついたのが、なんと、今からやっと三十年前の事なのです。要するに、歴史の中の長い間女性とは男の性の満足のために男に膣を貸し与えていればいいのだ程度にしか考えられていなかったことの証しみたいな事実であります。

 マスターベーションによって女性がオーガズムに達することは、何でもなくやれることなのでありますが、これが、二人の体が結ばれての、一般に性行為といわれる行為によってということになると、話がぐっと変わってきまして、出たとこ勝負のその都度払い、結果は、なってみなければ分からない、ということになるのです。
一言で言えば、女性がいわゆる性行為でオーガズムに達することは、やさしいことではない、ということです。射精すれば、即オーガズムの男とは、とても違うのです。でも、そのかわり女性は、一度の性行為で複数回のオーガズムを体験できるという、男には絶対真似のできない恵まれた利点を持ち合わせていますけど。

 でも、こんなオーガズムが怖いとおっしゃる性愛恐怖症とは、どういうものなのでしょう。考えてみてみると、人間はアダムとイブのいにしえから、ずっと性行為を営み続け、何時の頃からかオーガズムにこだわり続けて今日に至っているわけです。

 なぜオーガズムにこだわるのかということは、すでに説明した通り、オーガズムの瞬間にだけ、人間は自我(エゴ)という堅苦しい、よそいきのフォーマルスーツを脱ぎ捨てて、本能的欲望の固まりに立ち戻ることを許されるから。だから、人は性行為を求め、オーガズムに執着するのです。

 自動車の運転をなさる方ならば、よくご存知のことでありますが、クルマのハンドルには、遊びが必ず、なにがしかの「遊び」つまりゆとりというものが設けられています。ハンドルに遊びが全くないクルマなど、とても危険で、運転などできたものではありませんでしょうね。かといって、ハンドルに遊びがあり過ぎても、これまた暴走車になってしまいます。ハンドルの遊びは、ほどほどがよろしいようで、というわけです。

 じつは、これは、心のフォーマルスーツなる自我(エゴ)についても、全く同じことが言えるのでありまして、心にまるで遊びがないほどピッタリ作り上げられた自我でも困るし、かといって、放任主義で、俺のやりたいことを俺のやりたい時にやりたようにやってどこが悪いんだよ。的人間に育ってくれても困りますし。子どもを育てるというのも、これはもう、すこぶるつきの、大変なことでございます。

 この本の序章から登場していただいた、あの「誇りを捨ててまで」の化学者の卵氏も、食料品店の若主人氏も、つまりは、あまりにもピッタリの自我を心の表面に作られ過ぎてしまったゆえの悩める人なのだ、ということです。

夢精の時に出てくる女性に首がない!

 性愛恐怖症、裸こわい族Bさんの話をもう少し続けましょう。
 Bさんが三十八歳で私のところに性の治療を受けたいといって見えるまで、彼はマスターベーションなる人畜無害の性欲処理行為を、ただの一度もしたことがない人だったのです。じつは、こういう男性、私のところにカウンセリングを受けにきたり性の治療のために来るクライアントの中にはよくあることなのです。マスターベーションなどということをするのはよくないことと信じてそれをしない彼らにだって、夢精なる睡眠中の射精は起きます。

 仕方がありません、思春期になれば嫌でも睾丸での精子生産量は増えるし、性欲を生み出す生理的元凶である男性ホルモンの分泌量も増えるのですから。

 だから、裸がこわい族のBさんも夢精は体験しています。夢精の時の夢はいわゆる性夢です。憧れている同じクラスの女の子と森の奥の泉のほとりで晴れてキスしたという夢を見た途端、射精が起きて目が覚めるというロマンチックなものから、性行為をしているというハードなものまで、夢の内容はさまざまですが、いずれにしてもなんらかの形で女性は登場してくるわけです。ところが、Bさんの場合は、
「夢精の時は確かに女性は登場しましたけど、いつの場合でも、その女の人には顔がなかったというか、首から上は見えなかったように覚えています」
というのであります。

 夢の中の女の首がないなんて、まるで江戸川乱歩のミステリーもののような話ですが、私にとって初めて聞く話ではありません。過去に二例ですが、クライアントの話の中に、夢精に登場する女に顔がなかった、という述懐があったことがあります。

 いじらしいじゃありませんか。Bさんは、女の人なんかに興味を持つ自分であってはならない、女の人と仲良しになったりしたらおばあちゃんに猛烈な勢いで叱られ、お母さんを悲しませることになる、だから女の人なんかに見ちゃいけないのだ、と懸命になって女性とは無関係の自分、つまり性的なことに興味を持っていない自分であることを証明したくて、女の顔を見まいと、夢の中でまで努力をしているのです。ほんとうは、首なし女や顔なし女が夢に出てきたのではないと思うのです。首も顔もある女の人が夢の中に出てきて、Bさんはけっこう楽しんことを経験し、だから射精も起きたのだと思うのです。でも、目が覚めた時のBさんには、首のない女性が夢の中に出てきた記憶として残してしまうというわけです。

「ねえねえ、おばあちゃんもお母さんもよく見て、ボクいま女の人の夢を見てるらしいけど、ボク、女の人なんか見ていないからね。女の人と仲良くなんかしていないからね。ほら、女の人に顔なんかついていないもの。この人、女の人なんかじゃないんだから」

 というBさんの必死の叫び声が聞こえるような気がしませんでしょうか。ここで、みなさん方がまだ持っておいでになるかもしれない、マスターベーションに関する誤解や偏見を整理整頓していただく意味で、マスターベーションなるものを総括しておきたいと思うのです。

 かつて、まだ人類が未開といわれていた時代の人間たちにとって、何にも増して大切であったのは、一つの種族を絶やしてしまわないように努力する事だったに違いありません。飢餓ゆえに、悪疫ゆえに一つの種族が全滅してしまうなどということはいくらでもあって、生命が簡単に奪われてゆくという状況の中での最大の課題が部族、民族のサバイバルであったことは当然でしょう。

 やがて、その思いが、中近東の荒野を民族移動していたイスラエル民族の場合のように信仰の形まで凝集していくことになったわけです。それは、旧約聖書としてキリスト教でも用いられているイスラエル人の聖典の中の創世記第一章二十八節という箇所に、神の語られた言葉として、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と記載されていることからも明らかでしょう。

 種族保存をいい加減に考えていてはいけないぞ、といういましめですね。となれば、種族保存を目的としない、あるいは種族保存の役に立たない性的行為はすべていけない行為、悪い行為とされてしまうのは当然であります。同性愛も種族保存に結びつかないからという理由から、罪深い行為という事にされていたわけですし、マンタ―ベーションにしても全く同じで、よくない行為という事にされてしまったというわけです。

 ところで、マスターベーションのことをよくオナニーと言います。そのオナニーという言葉の語源とされるオンナという人物は前記の旧約聖書・創世記三十八章に登場してくる男性です。彼は父親から。「亡兄の嫁であったタマルという女性と結婚し、兄のために子どもを作るように」と言われ、寝所に入りはしたのですが、死んだ兄貴のために子どもを作るなんて嫌だというわけで、聖書では「地に洩らした」と書かれています。ところが、彼が亡兄の嫁だったタマルの膣の中へではなく、地に洩らした、ということが神の言いつけに背く行為である、つまり種族保存に役立たないことをした、というわけで、かわいそうに、オナンは神様によって殺されてしまうのであります。

 オナンのやった地に洩らすという行為が、いわゆるマスターベーションであったのか、受胎調整の方法の一つの膣外射精であったのかはよくわかりません。が、いずれにしても、種族保存に直結しない性行為は神様の罰を受けるほどによくないことなのだぞ、ということを信仰上の書物の中まで戒めているのが、欧米の世界にあってはオナンという人物なのであります。かくてマスターベーションのことをオナニーなどと言われることにもなったというわけなのであります。つまり、少なくとも欧米の社会に、いまでも多少とも残っている「マスターベーションはよくない行為」といえ考え方は、別段医学的に根拠のある理論から来ているものなのではなく、あくまでも信仰上の問題から出てきていることなのです。

 これがなんと、法律の上にまで影響を及ぼしている例は、意外や意外、アメリカのいくつかの州の州法の中に残っていたのです。多分モルモン教の影響力が強かったかもしれませんが、かつて西部劇の舞台として登場したワイオミング州ではマスターベーションが刑罰の対象にされていましたし、マスターベーションとは違う問題ではありますが、同じ種族保存の目的に反するということで、「何人ともいえども、自らの口と相手の性器とをもって性的行為に及んだ者は、十五年を超えない範囲において州刑務所に収容されねばならない」という条項を残した州がアメリカ合衆国の中にいくつかあったのです。それも、最近までです。

 今日ではオーラルセックスなどと言われ、時には性の治療の方法として用いることすらある行為が刑法の対象にされるというのです。日本人などには理解に苦しむようなこんな事実があったりするところにも、種族保存に役立たないマスターベーションなどに対する宗教的影響が欧米ではいかに強かったかがよく表れていると思います。

 部族の人口が増えた方がよかったのは、昔の日本だって同じことだったわけですよ。「やあやあ、遠からん者は音にも聞け」なんていう槍や刀による合戦ではなんといっても兵士の数が多い方がよかったわけです。だから日本の昔だって種族保存に結びつかない性的行為を喜ばない気風はあったでしょう。それがやがて儒教思想に結びつき、明治維新以後の日本の知識階級に受け入れられたキリスト教侵攻、欧米流のものの考え方にも影響されて、近代の日本でも、マスターベーションとは、どこかよからぬもの、という考え方が世の中に浸透していったという事です。

 現に、Bさんのように頑なにマスターベーションをせずに三十八歳まできてしまったような人物や、それに似たような育ち上がりをしている人たちが、いまでもあるのですから。

“性欲あり人間”であることを認めたくない少年たち 

  でも、バランスのとれた人間形成、さらに、性の正常な成長という面から言えば、マスターベーションはむしろ、思春期にかけて、ことに男の場合などは、やらねばならない性的行為、といったほうがいいくらいのものだと、今日では考えられています。
 むしろ、
「思春期に達してもマスターベーションをしようとしない、あるいは、しようとしてもできない、というような育ちあがりをしてしまうことは、人間形成の面に歪みを持っていることの危険な表れだ」
 というほうが正しいかもしれません。
 思春期というのは、誕生以来それまでの”性欲なし人間としての生き方”に決別し、”性欲あり人間として生きる路線”への路線変更を余儀なくされる時期の事ですからね。

 ただ思春期になった、性に目覚めました、ということだけでは、順調に大人に成っていけるという保証にはならないのです。たとえば、俗に過保護っ子といわれるような子どもとして育てられて思春期を迎えたとか、逆に、幼児期に十分な親の愛を享受することなしに思春期を迎えというような子どもたちには、性欲なし人間から性欲あり人間に変わることを嫌がる傾向があります。体自体に変化が起きたりすることで性欲あり人間に変わることを要求されるということをむしろ不安に受け止め、嫌だ、性欲あり人間として新しい路線に乗り換える事のなんて嫌だ、いままでどおりの性欲なし人間、つまり、子どものままでいたいという願望が強く現れるのです。肉体的には性の目覚めの変化がさまざまに出てきているのに、それをどうしても前向きに捉えようとしないといういじけた反応を示す場合が決して少なくないということです。

 親の愛情に飢えたまま思春期を迎えたような子どもにすれば、「このまんますんなり性欲あり人間になって大人になっていったんじゃ、子どもの頃の不幸があっさり水に流されちゃうことになっちゃうじゃないかよ、そんなの嫌だよ」というわけでしょうね。性欲あり人間になることを、つまり、性欲の発生を前向きに受け入れることを拒否することになるわけですよ。

 つまり、思春期とともに性欲あり人間に変わらされたという事実を積極的に受け止め、かつ、それを行動に示すということによって、思春期を機に健全でバランスのとれた大人への人間形成の歩みが始まったと評価できる点が、大切だ、ということです。そして、
 “性欲あり人間に変わったことを積極的に受け止め、それを行動に示す”
 ということの最も無難で効果的な表現が、他ならぬマスターベーションという性行為の実行であるわけなのです。

 性欲あり人間という人間になったことを具体的に体感させ、こういう世界を持ってお前は生きていかなければならない人間になったのだということを、まだ思春期という年齢の子どもたちに体験させる、無理のないリーズナブルな手段として自然が子どもに与えてくれたものがマスターベーションなのだと、大人はこれを受け止めてほしいものです。

 このように言うと、人間は思春期になって初めてマスターベーションをする生きものであるかのように思えるかもしれませんが、必ずしもそうではないのです。

 そもそも性というものは、生まれる前の胎児と呼ばれる時期から、すでに人間の中で活動を開始し始めている、「リビドー」と呼ばれる一つのエネルギーなのです。つまり、性エネルギーで、
 性エネルギーなどと言うと、ははー、性欲だとか性行為の元祖だな、と早とちりしてくれる方も少なくないかもしれませんが、どっこい、性エネルギーは、
(1) まず第一に、人格形成の原動力として働いてくれるエネルギー、なのであり
(2) 次いで、社会的諸活動の原動力へと転用することのできるエネルギー、なのであり
(3) 三番目に、性欲や性行動の原動力として働いてくれるエネルギーでもある、
という、結構たいした奴なのであります。
 もちろん、性エネルギーの力だけで人格が作り上げられるわけではありませんが、少なくとも、性エネルギーの介在無しに、人ひとりの人格が作られることはないのです。

 牛や馬や虎やライオンといった動物にも性エネルギーはあります。でも、彼らの性エネルギーは交尾の原動力としてしか働けません。人間は、このエネルギーを性行動以外の、様々な社会的活動の為の原動力として活用することも出来る生き物なのであります。これは、人間だけに見られる特性です。

 さて、その性エネルギーなるものが与えてくれる快さを人間が人生の最初に体験するのが、お母さんの乳房から唇と舌を巧みに用いて乳汁を吸い取る、という行為であるわけです。もちろん、赤ちゃんが一生懸命に母親のオッパイを吸うのは、栄養補給のためであることは言うまでもありませんが、ああまで夢中になってオッパイを吸えるのは、その結果として唇や舌を通して大きな快さを感じ取ることが出来るからなのです。この、乳房吸啜(てつ)による快感体験は、大人になってからのキスという行為に受け継がれていくわけですね。

 ところが赤ちゃんは、何時までも乳房吸啜による栄養補給と快感獲得という一挙両得的幸せに酔ってばかりもいられなくなるのです。離乳だなんて、いきなり離乳食などという、おいしくもないものを口に押し込められて、無理矢理という感じで乳房を取り上げられてしまうのでありますから。大人には理にかなった子育ての理屈はあっても、赤ちゃん氏にとっては、
恨み骨髄級の無慈悲な仕打ち。栄養的には、母乳から離乳食に変えるべき時期にきているのではあっても、乳房吸啜に伴う唇や舌で感じ取っていたあのとろけるような快感はどうしてくれるんだよ、と文句の一つも言いたくなろうというものであります。が、そこはそれ、
さすがは人間の赤ちゃん。乳房がダメなら親指があるさ、というわけで、乳首に見立てた親指を深々とくわえ込むと、暇さえあれば、というくらいに必死に吸い続け、強引に奪い去られた乳房吸啜快感をまんまんと奪い返して見せてくれるのであります。
中には、親指の根元辺りに吸啜タコができるほどに入れ込む赤ちゃんもいたり、という有り様で、それを心配した親が、指シャブリをやめさせようと親指にトウガラシを塗ったりして意地悪をすると、それじゃ、というので、今度は、トウガラシまみれの親指をあきらめて、赤ちゃん自身のお気に入りのタオルのお気に入りのコーナーを乳首に見立て、電車に乗っても、ハワイ行きの飛行機に乗っても、憑かれたように咥えて吸い続けるのでありますよ。これはもう、乳離れさせられたことへの反抗運動みたいなものです。

 親は、どこに行くのでも、ズルズルズルズルと咥えたタオルを引きずっていられたんではみっともないというので、タオルを見えないところに片付けてしまう。でも、そんな事でへこたれる赤ちゃんではありませんのですぞ。それなら仕方ない、あれでいくか、というので始めるのが「自慰」、つまり、マスターベーションなのであります。まあ、自慰だなんて、誰がそんな悪いことを赤ちゃんに教えたのでしょう、なんて、奥さんもオトボケがお上手ですな。赤ちゃんが生まれた直後から、産湯を使わせながら。”ハイ、お股の間もキレイキレイちましょうね”だの、”オチンチンもキレイキレイちましょうね”だのと言いながら、石けんを付けた手の指で赤ちゃんの外陰部やペニスを丁寧に洗ってあげることで、「ここを擦ると、いい気持ちになりますよ」と、毎日のように赤ちやんに教えておいでになったのは、どこのどなたでありましたっけ。

 そうなんですよ。産湯の段階で、赤ちゃんは、外陰部やオチンチンを擦ってやるといい気持ちであることを覚えさせていたのです。だから、赤ちゃんと言われる年齢でももちろん、保育園児、幼稚園児であればなおさらのこと、自慰をする子がいても不思議ではないのであります。助産婦さんやお母さんから、触れて気持ちいい場所をしっかり教えてもらっているのですから。

 以上述べた、乳房吸啜快感にしろ、指しゃぶりにしろ、すべて自分の体の一部に刺激を加えることによって性エネルギーを燃やし快感を味わっている行為でありますので、これらを、「自体愛レベルの性行為」と呼んで、性行為としては幼く未成熟なもの、とされます。

 その子どもたちが成長し、思春期に達すると、ホルモンに働きによって始めて自分たちの体の中に性エネルギーというものがあることに気づかされるのです。その現象を「性の意識化」と言い、その時から、性欲というものを覚えるようになり、性欲を他者、多くは異性に向け、他者と結ばれたいと願うようになるわけで、「対象愛」という、成熟した大人の性と愛の芽生えというわけです。つまり、思春期とは「自体愛的性」さようなら、「対象愛的性」よこんにちは、という性の分岐点なのです。

つづく 
マスターベーションは必須条件