思春期に達するに及んでマスターベーションをやっている子どもは、まあ人間形成の面では普通に育ってくれるであろう連中です。問題なのはむしろ、思春期に達したにもかかわらずマスターベーションをしょうとしない、あるいは、しなくて平気でいるような人間に育て上げられてしまった子どもたちの、精神病理的精神構造のほうだと私は思っています。

本表紙奈良林祥 著

ピンクバラ煌めきを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いで新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れている

マスターベーションは必須条件

 思春期にマスターベーションを体験することは、思春期を最も正しく生きるための必須条件なのです。思春期においてマスターベーションをする気持ちを全く持っていなかったり、マスターベーションをするにしてもまるで悪いことでもするかのように怯えながら行ったり、というような態度は、思春期を殺してしまう思春期の過ごし方です。人間形成のための一つの時期としてとくに思春期というものがあることを台無しにしてしまう不健康な生き方なのだ、ということも、ついでに”わかった”と呑み込んでください。

 思春期に達するに及んでマスターベーションをやっている子どもは、まあ人間形成の面では普通に育ってくれるであろう連中です。問題なのはむしろ、思春期に達したにもかかわらずマスターベーションをしょうとしない、あるいは、しなくて平気でいるような人間に育て上げられてしまった子どもたちの、精神病理的精神構造のほうだと私は思っています。マスターベーションは思春期の問題じゃないのです。思春期までにすでに作り上げられている人間形成の出来具合が、マスターベーションというものをたたき台にして露呈してしまう、というだけのことなのです。

 性愛恐怖症患者、サワラナ族のBさんも、三十八歳まで全くマスターベーションをしていません。私の患者の中には、Bさんと同じようにマスターベーションと無縁のまま結婚し、そのために性を病むことになっている人たちが少なくないという事実から、私は敢えて、みなさん方が抱いていらっしゃるであろうマスターベーションの受け止め方に、スクランブルをかけているわけであります。

 私の大好きなアメリカの同業者で、エドリータ・フリートという性治療家(セックス・セラピスト)は、自著の中でこんなことを書いています。
「ほんとうに精神的に成熟しているというのには、まるで融通のきかないほどにガチガチに自我の支配を受けている事でもないし、かといって、ただ黙ってあらゆる状況に調子を合わせてゆくイエスマンという消極的姿と同義でもない。また、成熟とは、常軌を逸するほどの気ままさでもない。真の成熟した人間とは、弾力性豊かな自我とはほとばしり出る情熱との絶えざる交流から成り立つものだ」

 この言葉は、マスターベーションという情熱的状況を避けてしまうようでもダメ、自我形成がひ弱であるためにかえって自我防衛の傾向が強く、そのため、マスターベーション体験を通じて情熱に流される愉しみを持つことを恐れて、ひたすら四角四面であるというのもダメ。たとえば、マスターベーションも楽しむ、しかし、快楽に流されっ放しといのではなく、勉強やスポーツも大いにやる、というのでなければ成熟した人間とはいえないのだ、というふうに読みとっていただいたらいかがでしょうか。

 このように書いておくと、中には、マスターベーションを覚えてしまうと、それがやめられなくなるのでは、なんて心配される方がおいでになるかもしれません。その証拠みたいなものとしてよく引用されるのが、猿にマスターベーションを教えると、猿はマスターベーションの楽しさに溺れ、やめられなくなって、結局死んでしまう、という話です。しかし、これは嘘です。
かつてある雑誌で、当時上野動物園の園長であった中川志郎さんと誌上対談した時、中川さんから直接伺った話ですが、「猿はそんな愚かな生き物でなく、マスターベーションのやりすぎだなあと気づくと、ちゃんとやめますよ」ということでした。

 猿でさえそうなのです。人間の子どもがそんなに際限なくマスターベーションに溺れてしまうわけがありません。もし、どうしてもやめられず、一日中マスターベーションに耽るだけの子どもがいたら、それは強迫神経症に陥っている子どもか、さもなくば、実在的空虚感といいますか、自分が中学生であり高校生であり、十五歳であり十六歳であることの意味を、全く見失っていることの空しさからひたすら逃避しようとしている子どもであるかのどちらかでありましょう。

 性欲あり人間になったということで子どもは戸惑うでしょうし、マスターベーションをしたということで子どもなりに悩みもするでしょう。それでいいのです。悩むから考え、考えてもわからないから本を読み、読んでも考えてもわからないから宗教や哲学というものに目を向けるようになるかもしれない。そして、それがやがて大人になるための心の糧となり、子どもたちが、自分の内面というものを考えるきっかけにもなってゆくわけです。

 悩むことの知らない思春期なんて思春期じゃありません。人に悩むということを覚えさせるために、自然は、人生の流れの中に思春期という時期を与え、そのきっかけとして、性欲あり人間にさせたり、マスターベーションを体験させるのだ、と言ってもいいのではないでしょうか。

 クリニックを訪れる大学一年生

 しかし、悲しいかな、中学三年、高校生三年、そして大学とぶっちぎられていて、その間に入学試験というものがあるといういまの学校制度では、子どもたちがおおらかに、かつ充実して思春期を悩むことは現実には許されません。つまり、いまの教育制度や入学試験の制度のもとでは、思春期や青年期をいかにも思春期、青年期らしく豊かに悩む経験をちりばめながら過ごすことが子どもから奪われてしまいかねないという点でこそ、教育制度は問題にされる必要があると私は思っています。
「マスターベーションが子どもの成長にかなり影響があることはわかりましたが、中学、高校の時代は将来の大学受験を控えた大切な時期ですから、大学に入ってから始めさせるというのではいけないでしょうか」という質問をPTA主催の性教育講演会の席上でよく受けたことがありました。「噛んで含めるように思春期の性について話してあげたのに、お母さん、まだ、あんたはそれでもじたばたするんですかね」と言いたい気分でした。

 昨今は、親の心子知らず、の子どもたちがやたら多いようですが、反対に、親の心を知り過ぎるという子どもも結構いるみたいなのです。お母さん好みとでも申しましょうか、大学に入ってから初めて友だちの話を聞いてマスターベーションを始めたという男子学生も実際にいるんです。「でも、どうしてもうまくやれません」と言って私のクリニックを大学一年生が訪ねて来るのは毎年のように、ちょうど入梅の時期恒例のクリニック光景です。

 うまくできない、というのはマスターベーションをしてもどうも射精できない、ということなのです。いってみればこの大学一年生クン、思春期の入り口である中一あたりの時、すでに、”性欲なし人間から性欲あり人間への路線変更、断固反対”を宣言し、マスターベーション拒否闘争に入り、晴れて大学入試に勝利するまで拒否闘争を継続した、筋金入りの闘士であるわけです。

 そのマスターベーションこわい坊やが、突然マスターベーション好き好き大学生に変身、とはいかないのです。大学時代は全学連の闘士の名の闘士だったようなご仁が、女も男もいまでは体制べったりの人間の大人に変身しちゃったり、なんてことはよく見かけますが、性というヤツは意外にまじめで、いやといったらいやだと言い貫く一徹のところがありましてね。
私のような医者の所に来て、かなり苦労して、治療の果てに、やっと射精が起こる男になる場合もあります。しかし多くは相変わらずのマスターベーション拒否人間の大学生であり続けています、性はこれでなかなか頑固なのです。

 マスターベーション拒否人間は、性欲あり人間になることを拒否しています。性欲あり人間になる事を拒否するということは、ボクずっと子どもでいたい、といって大人になることを拒否している未成熟人間であるということです。「ボクは将来、絶対に結婚しません」と宣言でもしてくれるというのであれば、三五歳で未成熟人間であってくれたってよろしいのです。「ウチの坊やには行く末絶対に結婚させません」と固い信念を持っているお母さまでいてくださるのなら、思春期の入り口でマスターベーション拒否宣言し、三五歳でも未成熟男性でありながら、会社ではエリートという坊やにお育てになっても、それもご自由だと思うのです。ところが、実際には、三五歳でエリートで母親思いの、でも、じつは未成熟でしかない男性が、お見合いなるものがあるばかりに結婚していくのですから、話がややこしくなってしまうのです。

 思春期のマスターベーションに対して消極的であったり拒否的であったりする男の子であるということは、しばしば、乳幼児期における育てられ方、躾けられ方の失敗の現れに他ならないのです。これはさらに将来、パーソナリティー・ディスオーダー(パーソナリティー障害)という病名をつけられるような、人間形成の面でバランスを欠く人間になる可能性を予告していることでもあり得るのです。

 性も親の責任において育てるもの

 ここまで長々とマスターベーションについて語らせていただきました。それでもなお、夢精という、夢の中で射精が起きて、精子が自然に捨てられる現象があるなら、なにもマスターベーションなどということをわざわざしなくても、夢精に任せておけばいいのじゃないかしら、などと首をかしげている方もいるかもしれません。そういえばあのBさんも、首なし女の夢を見ては夢精していたわけですから。

 でも、これではダメなんです。なぜかといますと、夢精というのは夢の中の出来事であって、ご本人の意思を伴わないものだからです。自分の意志で射精を起こし、オーガズムに到達したことによる快さを味わうという、自前の性欲の満たし方を学習するのも男にとってのマスターベーションの存在理由の一つなのです。夢精に任せていたのでは、自分の意思で射精を楽しむ、という学習にはならないからです。その証拠に、マスターベーションを一度もせずに結婚した男性の中には、「結婚しても、夢精でなら射精はするけれど、目が覚めている状態では性行為をしても射精が起きません」と言って、私に助けを求めてくる人がいるのです。
 
 ここで学んでいただきたいことが、また一つあります。それは、
「子どもを健全に育てるということは、性の働きの面でも健全で健康に育てるということ。つまり、性もまた、親の責任において育てるものの一つなのです」
 ということです。

 Bさんには失礼ですけが、彼などは、性を育てることなど親が全く念頭に置かずに、大社会向き用のよそいきの顔の人間に育てることばかりに焦点を合わせて育ててくれたので、律儀でまじめに母親の言いつけにいまも忠実な食料品店の若旦那に育ちはしましたが、しかし、おかげで未成熟な三十八歳のサワラナ族のお一人です。という性の育てられ方の失敗の生き証人みたいなものです。

 心の底から裸になれない
 彼が、私のところで治療を受けて、どうやら奥さんの手による刺激に応じて勃起が少しは持続するようになってから、突然、自分の性器に刺激を加えてくれる奥さんを突き離すようになった、ということはすでに述べました。そして、それは、彼の自我防衛の現れ、自我というフォーマルスーツを何としても脱ぎたくないと、フォーマルスーツにしっかりとしがみついているという姿なのであるとも説明しました。

 自我の作られ方が不確実の人間、つまり、自我というフォーマルスーツがあまりにも規格どおり、寸分の遊びもないようにつくられた人間ほど、自我を崩されまいと必死に自我を守る傾向にあります。その現れが、奥さんを突き飛ばすという反応なのだ、とも言いました。

 では、なんでBさんはそうまでして、自我なるフォーマルスーツを脱ぎたがらないのか。それは、変化は苦手で、変化に直面させられることがこわい人だからです。
あなた旅行お好きですか。景色が変わり、耳に飛び込んでくる言葉や風俗習慣など、いつもの生活とは環境が変わり、自分の知らなかったものと触れられることが楽しくて、人間は一般的には旅行が好きです。中には、冒険好き、などという、危険が伴うかもしれないことに敢えて挑戦しようという人だっています。

 そういう人間にとっては、愛と性の世界、とりわけ、愛し合う者同士として性を交えるということは、他では得難いほどに楽しい時であるのです。なぜならば、本人たちは気づいていないでしょうけれど、性を交え、性的欲望の燃え上がりの中に身をゆだねる過程というものが、生理的にも心理的にも、常に変化の宝庫を旅していくみたいなものだからです。人間が性行為に惹かれる理由の一つは、性行為自体がスリルに富んだ旅のようなものだからです。

 アメリカのウィリアム・マスターズという学者によって明確にされたように、性行為は性興奮開始期→性興奮持続(プラトー)期→オーガズム期→性興奮消退期の四段階を経て終わるもので、その間に女も男も、実にさまざまな変化を体験させられます。

 性的興奮が起こると、骨盤に一気に血液が集まってくるという変動によって男は勃起が起こり、女性は膣内から外陰部にかけて潤滑化という現象が起こります。これも変化ですし、プラトー期と呼ばれる頃ともなれば、心臓の鼓動は、普段一分間に六〇前後のものが、多い時には一七五くらいになり、さらにオーガズムの瞬間には一分間に一八〇にもなるというのも、大変な変化です。
血圧だって、ふだん一三〇前後の最高血圧の持ち主がオーガズム時には楽に二〇〇を越えます。乳房は大きくなり、乳頭は勃起し、性的興奮の高まりにつれて瞳孔は散大して焦点が定かではなくなり、ふだんとは全く違う表情を見せ始めるし、オーガズムの瞬間には男に射精が起こり、男女とも強烈な快感が全身を走るわけでしょう。

 こうしてみていくと、性行為とは変化、変化、また変化という、まさに体と心のトリップ(旅)なのです。だから、人は性行為を魅惑的だと感じ、それに魅せられるのでありましょうね。
 この性行為の変化の中で、人の自我は徐々にゆるみ始め、
“フォーマルスーツからカジュアルスーツへ、カジュアルスーツからポロシャツへ、ポロシャツからTシャツへ、Tシャツから上半身裸に、そして最終的に、心の底からの裸へ”
という大きな変化、つまり、自我からの解放への道を辿るのです。それは大いなる歓喜であり、たとえようのない開放感であるのです。

 ところがです、サワラナ族、裸がこわい族であるBさんのような人たちには、この激しく変わる性行為の流れがとても怖いのです。変わる事自体が怖いくらいですからね。心の底から裸になり切るオーガズムの瞬間なんて、想像しただけで身の毛がよだつほど怖くて、恐ろしいのです。


 だから、性行為にとってのプレリュードであるペッティングの段階で、まかり間違って、いい気持ちになって来ただけで、それ以上の変化を恐れて奥さんを突き飛ばしてしまったりするのです。また、絶対に変化など怖いことを体験しなくて済むようにインポテンス(勃起不全)になることで、”ボク、性行為なんて、イチヌケタ”と自ら性行為が行えないありさまに逃げ込んでしまうのです。仮に性器を結合するところまでいけてしまったとしても、オーガズムなどという自我からの解放現象など絶対に体験してやるものかと、射精不能症になることで最後の一線を辛うじて守って見せたりするのです。

 自我形成が正常で、心に適度のゆとりを持ち、ものごとの変化にじょうずに適応していける人間にとっては、性行為というこの変化に富んだ世界はきわめて魅力的に思えます。それなのに、自我形成が不確実で、自我を崩されまいとする無意識の心の働きが強く、変化に対する適応性に欠けるような人たちにとっては、頼むからカンベンしてくれと、ひたすらごめんこうむりたい行為であるとは、なんとも気の毒な話であります。

 呑み込まれる不安

 Cさんは三十四歳、見合いで結婚して一年半。コンピューター関係の会社に勤める研究職。まだ性行為が行なえていない。とにかくおとなしい人で、問診をする私の質問にも即答することはなく、いちいち奥さんと小さい声で相談し、奥さんの意見を聞いてからぼそぼそと答えるというありさまでした。聞き取りにくいので私がきき返すと、彼に代わって奥さんがはきはきと答えてくれて、結局、もどかしくなって奥さんが全部私の問いに答えてくれるというのが毎度のことでした。

 要するに、”性行為をする気持ちはあって、二人で結ばれようとはするけれど、性欲がなくなってしまうというか、興奮が覚めてしまうという事の繰り返しで、だから半年前から全く性行為はしていない”というのが訴えの主なものでした。

 どうして興奮が行為の最中に覚めてしまうのか。つまり、彼が無意識のうちに、性行為をやり遂げようとすることから身を引いてしまうのか。Cさんの説明によると、理由は二つあるようです。

 その一つは、興奮が高まってくると奥さんの外陰部が濡れて来るということが嫌だから、というのがあります。濡れるというのは性行為の中でどうしても女性の身体に発生する、そして発生することが健康的で望ましい生理的反応ですから、それが嫌だと言われても困るのです。
しかも自分の身体にではなくパートナーの身体に起こる変化であっても、Cさんには受け入れがたいことであり、妻の性器に現れるその嫌悪を催す変化を受け入れなくてすむためには、自分の性欲が消滅して、性行為が成り立たなければいいのでしょう。かくて、無意識のうちにCさんの性欲のスイッチは即座に切られてしまう、というわけです。

 Cさんの家庭は父親が学者で、無口でおとなしい人、彼のご両親との面談の時ももっぱら息子について語るのは母親の側で、父親はただ黙ってわきに座っているという感じです。これは、Cさんの奥さんが私の前に座っている時と全く同じでした。母親の力が家庭内で強く、父親の存在感が薄いと、男の子は父親を通して男を学習する機会を持ちにくいし、大人の男になりたいというよりは、母親好みの自分でありたいと思うようになりやすいものです。
そうするほうが自分の生存のためには得だし、安全だからです。きょうだいは妹が一人。Cさんは国立大学の理学部を卒業しています。趣味といえばクラッシック音楽で、会社から帰ってきて食事をすませると、仕事関係の本を読むかヘッドホーンでCDを聞くかするだけ。対人関係は全く苦手で、酒も煙草も口にしません。

 母親が家庭を切り盛りしていたようなもので、彼女はすごくハキハキしており、幼児期に始まり小学校に入るくらいまでよくおねしょうをしていたというCさんは、おねしょうのたびにしっかり者の母親にかなりきつく叱られたそうです。たぶん、妻に外陰部が濡れるという現象が起こると、とたんにCさんの性欲が消滅していくのは、彼女の外陰部の潤滑化が、おねしょによって母親にのべつ叱られていた、こわかった彼自身の体験を無意識のうちに蘇らせるのでしょう。その恐怖が性欲の消滅につながっていく、という一面もあるのかもしれません。

 Cさんが、性行為から思わず身を引いてしまいたくなるもう一つの理由というのは、おそらく無意識のうちに、このまま行為を続けていると彼女に飲み込まれてしまうのではないかという恐怖感が働き始めてしまうからではないかと、私は推察しました。

 これは、心理学で「飲み込まれ不安(エンガルフメント)」と呼ばれる心の動きなのです。対人関係にきわめて不器用なところがあり、内気で社交性がなく、生真面目一方でまるでユーモアがなく、敏感で、神経質で、おまけに自己中心的であるような男性が、女性と性的に一体になるかもしれないような状況に立たされると、まれに湧いてくることのある恐怖感だと言われています。

 気質的には分裂気質の人にはありそうなことです。性的興奮の芽のようなものが変化を予感させるということがまず基礎にあって、それプラス、幼児期から母親に支配されっ放しで育った経験が、彼にとっては母親代理にすぎないのかもしれない妻なる女性に、飲み込まれてしまうのではないかという恐怖を引き起こすのかもしれません。

 Cさんも、もちろん性愛恐怖症の患者さんです。そしてAさんも、Bさんも、性行為に失敗してしまうから治してほしいということが目的で私のクリニックを訪ねてきた方々です。カウンセリングを重ね、カウンセリングから性の治療に移っていくうちに、じつは、性行為に失敗することで悩んでいるのではなく、全く逆に、性行為に成功してしまうことを恐れている性愛恐怖症の患者さんであることがわかった、というケースです。

 いま一般的にセックス・セラピー(性の治療)と呼ばれる治療法は、性行為をしても失敗してしまう人、あるいは失敗することを心配するから失敗を重ねている、という人を治すことを目的としたものであります。性行為の成功を恐怖としているというケースを治すような方法が作られておりません。

 まあ、性愛恐怖症を治していくとしたら、精神分析の力を借りるよりしかたないと思いますが、不幸にして、私どもの国は、精神分析医なる医師の絶対数が極端に少ない国です。

 Aさんも、Bさんも、私は、精神分析の専門家に紹介する労は取りました。その後の結果は残念ながら離婚でした。精神分析そのものが長い月日を必要とするものですから、奥さんが我慢しきれなかったのです。ほんとうを申しますと、よく訓練された性の治療家(セックス・セラピスト)だって、全国的に見てもきわめて少数でしかないのが現状ですから。

 性の病にも、うっかりなれない国に、皆さん方は生きているのだということを、お忘れなく。

つづく 第三章  少産時代の子育ての哲学がな