文部科学大臣が「女性は産む機械」と発言し、女性蔑視だと大きな社会問題となった。その一方で、「じゃ、妻から”働く機械”扱いされている男を救ってくれ」と言う男性や、「出産は女性だけに備わったすばらしい機能なのだから、発言は差別ではない」と声をあげる女性もいた。

本表紙 香山リカ著から引用

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(2)「女性患者を見たら、まず妊娠を疑え」の真実味

 職場でのパワーハラに悩む三〇代女性のミサトの訴え
 文部科学大臣が「女性は産む機械」と発言し、女性蔑視だと大きな社会問題となった。その一方で、「じゃ、妻から”働く機械”扱いされている男を救ってくれ」と言う男性や、「出産は女性だけに備わったすばらしい機能なのだから、発言は差別ではない」と声をあげる女性もいた。母性礼賛と女性蔑視のあいだの線引きは難しい、という事なのかもしれない。

 医療の現場で「産む機械」に相当する言葉があるとすれば、前にも触れたが、「女性患者をみたらまず妊娠を疑え」という格言だろうが。さすがに現在、このことばを大きな声で口にできる人はいないだろう。とはいえ現実的なレベルでは、この格言は今でも十分、真実味を持っているのは確かだ。

 私もこれまで、女性の妊娠を見逃して的外れな医療を続けていたことが、何度かあった。
 たとえば、ミサトさんの場合もそうだった。私は、彼女がまさか妊娠している、などとは全く思っていなかったのだ。三〇代前半のミサトさんが書いた問診表の「今日はどういう相談でいらっしゃいましたか」という項目には、「職場の人間関係の悩み」とだけ記されていた。ミサトさんは両親と同居で、これまで結婚歴もないとのことだった。ミサトさんには年齢に比べて服装も持ち物もあまりに地味で、無造作に伸びた髪が口紅さえ塗られていない顔をほとんど覆い隠すように垂れていた。

 詳しく聞くと、ミサトさんは職場で上司からほとんどパワハラに近いようないじめを受けていることがわかった。同僚も誰もかばってくれない、といった話は、ミサトさんの被害妄想である可能性もあったが、話の内容をごく具体的で、おそらくいじめは現実に起きているものと思われた。上司自身が確認ミスをしたときでも、大声で「困るよ、オレが確認し直しておくように言ったじゃないか」と自分のせいのように怒られる。そんなことが続けば、ミサトさんが言うように「職場に行って上司の顔を見るだけで頭が真っ白になっちゃって」という状態になってもおかしくない。

 これは精神医療の問題というよりは、その上司をどうするか、といった現実的なレベルで対処すべき問題なのではないだろうか。私はミサトさんに、「その上司のうえの上司に話してみれば?」「匿名で意見を言える目安箱みたいなのは会社にないのですか?」「労働問題にくわしい弁護士を紹介しましょうか?」などと畳みかけるようにいくつかの質問をした。しかしミサトさんは、うつむきながら「はあ…‥どうだろう」「あるようでないような」といった曖昧な返答を繰り返すだけだった。会社でもこうやって少し強く言われると、うつむいてもじもじしてしまうのだろうか。それも上司からのいじめの対象になる一因かもしれない。

 ミサトさんに動いてもらって組織に働きかけ、対策を講じるのは難しそうだ、ということがわかったので、ここはミサトさん自身の精神状態をまず落ち着かせる方向から手を付けるしかない。会社の話をそれ以上聞くのはやめて、私はミサトさん自身の生活についての質問をいくつかした。
「えーと、お休みの日は何をしていますか?」
「家で寝ているか、近所を散歩するか。」
「定期的に会う友だちはいますか?」
「学生時代の友だちはいるけれど、みな忙しくて。」
「ご両親とはよく話しますか?」
「まあまあ。普段は話せない。」
「では、今お付き合いしている人はいるでしょうか?」
「いません」
「立ち入った質問になりますが、ご両親はご結婚を勧めたりなさいますか?」
「特に。」
 ミサトさんの私生活は、その外見同様、ごく地味できわめて狭い範囲で完結しているようだった。とはいえもちろん、これだけでこの人の生き方が正常でない、などと言う事はできない。ミサトさんの場合も、上司のいじめさえなければ、真面目に今の仕事に打ち込み、一定の収入を得て、両親のもとで安定した生活を送ることができるのだ。多少、趣味や娯楽が少なくても、恋人がいなくても、それは個人の選択や自由の範疇だろう。

 とりあえず、不眠、食欲不振、会社でのパニックを訴えるミサトさんに、軽めの抗不安剤と少量の抗うつ薬を処方した。これで少し症状が改善すれば、また「会社の人事課に訴えてみます」といった元気が出て来るかも知れない。

 恋人もいない、結婚も考えていないが妊娠

 ところが、次の週に再度、診察室を訪ねたミサトさんの顔色は前回以上に悪く、言葉はさらに重かった。
「どうでした。お薬は飲んでみましたか。
「はい。でも。」
「何かありましたか。」
「全然ご飯が食べられなくて。」
「体調が悪いですか。」
「はい。おなかも痛いんです。」
 上司の態度は相変わらずだという。うつ状態では、頭痛、腹痛などの身体的症状が出ることも不思議ではない。また、最近の抗うつ薬の中には、副作用としてまれに吐気や便秘といった胃腸症状を起こすものもある。ここは抗うつ薬を変更して、まず徹底的にこの身体症状を伴ううつを退治することにしよう。

 私はそう考えたその後、何回か薬を変えたり量を増減したりしたのだが、「不安は少しなくなったけど」と言うものの、憔悴した顔つきや消え入るような声は相変わらずだった。

 そうやって一ヶ月あまり経過した頃だっただろうか。予約通りの時間に診察室に入って来たミサトさんは、いつものように「調子は‥‥まあまあ」と答えたあとで、とくに声のトーンをかえることもなく言った。
「あ、最近、薬飲んでいないんです。先週、産婦人科に行ったら妊娠してて、つわりだったみたい。」

 あまりに淡々と小声で語られたので思わず「ああ、そうですか」とそのまま受け流しそうになったが、「妊娠したとのこと」カルテに書きながら、「え!」と驚いて顔を上げた。ミサトさんは相変わらず、目を伏せたままだ。
「あの‥‥妊娠って‥‥あなた自身ですか。」
「ひう。もう職場には話しました。産休取らなきゃならないし。」
「だって、恋人もいないし、結婚も考えていない、と言ったじゃないですか」と詰め寄りたい気分になったが、よく考えてみれば恋人や結婚の予定の有無と妊娠には直接の関係はないのかもしれない。

 それからいくつか質問してみると、相手は恋人ではなく、その人に妊娠の事実を告げるつもりもないのだという。子どもがどうしても欲しい、という気持ちもないが、妊娠中絶も嫌なので、出産はするつもり。同居の両親にもまだ話していないが、会社はシングルマザーでも産休は取れると言ってくれたので、できればこのまま実家に住んで仕事を続けたい‥‥。そういった話を、とくに「大変な決断をした」という様子もなく、ミサトさんは淡々と話した。

 振り返ってみると、これまでの体調不良や食欲不振もつわりから来ていた可能性が高い。しかし「上司からのいじめ」というはっきりした心因があり、恋人もいないと断言している女性を見て、「これは妊娠かも」と疑ってみることはやはり難しい。とはいえ、「最後の生理はいつでした? 生理と気分の上下が関係することもありますから」くらいのことは聞いてもよかったかもしれない。

 それにしても、もともと行動範囲が狭く、最近は会社のことで頭がいっぱいで何も手に着かなかったはずのミサトさんは、いったい誰と、どういう状況で妊娠に至るようなセックスをすることになったのだろう。そしてそのセックスは、追い詰められ落ち込んでいるミサトさんにとって、一時の心の安らぎになるものだったのだろうか。さらに、今回の妊娠やシングルマザーへの道は、彼女の人生をどう変えていくのだろう。そもそも、上司との関係はこれからどうなっていくのか。

 ――いや、もしかすると相手はその上司、という事は‥‥。
 そういう考えがふと頭をよぎったが、それ以上、その妊娠に関して多くを尋ねてみることはできなかった。妊娠期間中は服薬をしたくない、とミサトそこだけはっきり意志表明したので、「じゃ、もし今後、何か相談があったらいつでも来てください」と次回の診察の予約はせずに、私は彼女を送り出したのだった。「あ、おめでとうございます。がんばってね」とようやく思い出して声をかけたのは、うつむきがちなミサトさんがドアをあけて半分、診察室から出かけたときになってからだった。

(3)年下男との恋とセックス