更年期のキーワードは「ときめき」です。
閉経による卵巣からのホルモン分泌が減少することで性交痛を引き起こし、セックスレスになる人も多く性生活が崩壊する場合があったり、或いは更年期障害・不定愁訴によるうつ状態の人もいる。これらの症状を和らげ改善する方法を真剣に考えてみたい

本表紙 香山リカ著

第二章 心の病気でも、年をとっても、人には性欲がある

(1) うつ病では性欲が減退する、というが
「うつ病で性欲減退」は、本当なのか?

  一般的に、うつ病では性欲が減退すると言われている。
 たとえば、うつ病に関する入門書などには、次のような他の症状と並列に、何気なく「性欲減退」ということばが記されている。

「意欲減退・憂うつ感・悲観的もしくは絶望的な考え・睡眠障害・食欲低下・性欲減退・頭痛、めまい、首や肩のこりなどの身体症状・人を避ける。死にたいと思う・考えがまとまらない・仕事の能率が落ちる、など。」

 なぜ、うつ病になると性欲が減退するのか。そのメカニズムは、実はよくわかっていない。というより、「仕事や趣味への興味、関心、意欲も薄れるのだから、当然、性への関心や欲望も減るに違いない」と思われているような気がする。

 一方、うつ病そのものによってではなくて、抗うつ剤の副作用で性欲減退が起きることがあるのも知られている。従来、使われていた三環系、四環系と呼ばれる抗うつ剤に比べて、新世代の抗うつ剤にはこの副作用は出にくいとは言われるが、服用者から「妻が子どもを望んでいるのにまったくその気にならず、身体も機能しない」という深刻な報告も相次いでいる。

 つまり、うつ病そのものでも性欲が減退することがあり、そのうつ病を治療するために飲むはずの抗うつ薬で、さらにそれが促進されることもある、ということになる。「うつを治せば性欲も戻るはずだ」と信じて薬を飲んでいたのに、今度は「性欲が戻らないのは薬のせい」と言われてしまう。「自分の性欲減退は症状そのものなのか、副作用なのか」と本人は悩むしかない。

「うつ病と性欲減退」の関係のメカニズムがよく解っておらず、さらに薬物療法を始めるとそれが症状にこの副作用なのか判然としなくなってしまうこともあり、精神科医は一般に、「うつ病者の性欲減退」にあまり関心を持とうとしない。

 ネットで発表されているおびただしい数の「うつ病ブログ「にも、「主治医にも性欲減退に相談しましたが”多少は仕方ない”と言われた」「まあ、それはいずれ、と取り合ってもらえなかった」という主治医の対応への不満がよく記されている。

 しかし、本人にとっては、とくに恋人やパートナーがいる人にとっては、この問題は「仕事に行けない」「食欲が出ない」と同様に、あるいはそれ以上に、深刻な問題である。妻帯者の男性の「うつ病ブログ」のひとつで、この問題がリアルに語られている。一部を抜粋して引用させてもらおう。

 うつ病の症状に性欲減退ってありますよね。私は主治医に一度だけ相談したことがあるんですが、それは治れば大丈夫ですから‥‥とスルーされてしまいまった経験があります。でも、大きな悩みの一つであるんですよね。私がうつ病になって、うちはセックスレスになってしまいましたから。たまにゴメンねって謝ることもあるんですが、妻は別に大丈夫だからって言ってくれて、夫婦の間では幸いにも大きな問題にはなっていないのですが‥‥。あと、薬による勃起不全も経験しましたが、むちゃ気持ちが悪いです。薬の名前は忘れましたが、抗うつ剤を変えた途端にウンともスンとも言わなくなって、一週間だけ様子を見ましたが、あまりにもどうしようもなかったので、調子が悪いと言ってすぐに変えてもらいました。別に使うわけだはないのですが、やっぱり生理的には正常に動作しないのは気持ちが悪いです。

 おそらく主治医としては、「性欲減退のメカニズムもよく解らないので、回復方法も解らない」「いくら副作用として性欲減退が出ても、治療の為には飲んでもらわないわけにはいかない」という気持ちなのだろう。自分のことを考えてみても、それらに加えて、つい「うつ病には自殺願望などのより緊急で深刻な症状も出現するので、性欲の減退くらい大きな問題ではない」と考えてしまう面もあるのではないか。

 だから、うつ病の人たちにあえて「性欲はいかがですか」とは聞かないし、そういう話題が患者さん側から出たとしても、「そんなことを言っている場合じゃないでしょう」とスルーしてしまうのだ。しかし、先のブログにもあるように、本人にとっては、「大きな問題」「男性としてはやっぱり凹む」ことであることは確かなようだ。

 逆に、「うつ病だから当然、性欲は減退しているだろう」という前提のもとで、それをくわしく聴収することなく診断を進めて、失敗したケースもある。

 離婚して生活保護を受けている「うつ病」の四〇代女性ジュンコ

 四〇代後半のジュンコは、他の医療機関から紹介されて私の病院にやって来た。何年にもわたって「うつ病」という診断で、あるクリニックで治療を受けてきたのだが、このほど生活保護を受給することになり、生活保護の指定機関でないその病院では治療を続けられなくなったのだ。ジュンコが生活保護を受けることになった原因は、離婚だった。

 これまで、何年にもわたって別居状態を続け、そのあいだにうつ病が発生したらしい。そしてこのほど正式に離婚が成立すると同時に不安や落ち込みも強まり、細々と続けてきたパートの仕事も出来なくなってしまった。夫にも経済能力はなく、慰謝料や生活費は要求できなかった。「うつ病」という診断書と長い治療歴があったので、市役所の福祉課は比較的すんなり、生活保護の受給を認めてくれたのだという。

 感情的には夫との間はすっかり冷え切っていたのだが、いざ離婚となると、この先、ひとりでどうして暮らしていけばよいのか、まったくわからない。ジュンコは二〇歳そこそこで結婚して以来、短時間のパート以外の仕事をしたことがないのだ。子どもは娘ふたりなのだが、両方とも早い時期に独立しており、親子仲はあまり良いとは言えなかった。

 前医からの紹介状を持って診察室にやって来たジュンコは、年齢よりもかなり上に見えた。四〇代後半なら、まだまだ流行のおしゃれを楽しんだり。メイクやヘアスタイルに凝ってもおかしくない。それなのに、中途半端な長さの黒髪を後ろで一括りにしばり、はるか以前に流行った”ストレッチジーンズ”を履いているジュンコは、昭和四〇年代あたりの時代の団地から、突然ワープしてきたように見えた。

 表情も暗く、ことばも途切れがちなジュンコと話しながら、私は心の中で思っていた。「うつ病がすでに発症しているのに、さらに離婚、失業、生活保護受給と追い打ちをかけるようなことが続いたのだから、おしゃれやメイクの意欲さえなくなるほど、うつ病が悪化してもおかしくはないか。ちょうどタイミングが悪かったのだろうが、回復までにはかなりの時間がかかりそうだっだ。」

 それから二週間に一度ずつ通院してもらうことにしたのだが、いつも「いかがですか?」「はあ、家から出る気がまったくしなくて」といったやり取りが繰り返されるだけで、診察室での会話もまったく深まらなかった。この縮まらない距離感も重症のうつ病特有のものだろう、と私は考えた。

 結婚生活を送っていたときに住んでいた場所から離れ、アパート代の比較的、安そうな町で部屋に閉じこもって暮らすジュンコには、親しく行き来する友人もいないようだった。実際に、「学生時代の友人とか身内の人とか、電話などで気軽に話せる人はいますか」ときくと、いつも「いや、全然‥‥」とか「誰とも話せません」といった答えが返ってくるだけだったので、私は「この人は本当に孤独なのだ」と思い込んでいた。もちろん、経済的基盤も不確かで、毎日の食生活や睡眠さえ乱れがちなジュンコに何らかの性関係がある、などとはまったく考えもしなかった。

 あるとき、いつものように時間通りにやって来たジュンコと「いかがですか? 少しは散歩などもしていますか?」「食事は規則正しく取っていますか?」といった型通りの会話を交わしたあと、私が「まあ、いつもと同じということですね」とまとめようとすると、彼女がおもむろに切り出した。

 二〇歳年下の恋人、そして妊娠の疑い

「それが‥‥・今月は、いろいろたいへんだったんです。」
 一瞬、生活保護打ち切りか前夫の訪問か、と連想したのだが、そのあと、ジュンコの口から語られたのは、まったく想像していなかったような話だった。

 離婚後、ジュンコにはすぐに恋人ができた。それも二〇歳も年下の青年で、引っ越しを頼んだときに来てくれた運送業者だったという。
「でも、あなた、部屋からなかなか出られないんですよね。」
「そうです。だから彼がいつも私の所に来てくれるんです。」
「買い物にもなかなか行けなくて、食事の支度もできないのでは…。」
「そうです。だからたいてい、彼が何か買ってきてくれるんです。」
 彼は「結婚したい」と言ってくれ、先日、いっしょにジュンコの母親の所に挨拶に行ったのだが「とんでもない!」と大反対されたそうなのだ。ジュンコの母親としてはその恋人が近々、家業を継ぐために北海道に帰らなければならないという話を聞き、「老後の世話を頼もうと思っているのに」と怒っているのだという。

「まあ、でもお母さんが何と言っても、結婚して北海道でふたりで生活すればいいんじゃないですか」と言うと、ジュンコはまた暗い顔になった。
「私としてもそうしたいところなんですけど、彼は年に似合わず古風な考えで、”親を悲しませちゃいけない”って言うんですよ‥‥・。あ、でも‥‥。」
「でも、何ですか?」私がきき返しても、ジュンコはしばらくうつむいて沈黙したままだった。しかし、その後で顔をあげたジュンコの表情はこれまでないくらいきりっとしており、何かを決意したかのように見えた。

「先生、ここ精神科ですけど、妊娠検査ってできますか。生理が遅れているんですよ、私。」
「え、え? 妊娠ですか? どうしてまた!」
 医者という立場を忘れて、私は大きな声をあげてしまった。妊娠ということは、当然、ジュンコと恋人の間には性交渉があったということだ。いや、「恋人がいる」と聞いた時点で当然、そのことも考えに入れておくべきだったのだが、この期に及んでもなお、彼女が訴えるうつ症状、生活状態、外見などが頭にあったため、セックスなどということは想像もできなかったのだ。

「それが、彼氏ったらあまり避妊に協力的でないもので。今日は安全日じゃないからやめて、と言っても‥‥ねえ…。」
「そ、そうなんですか。いや、ここで尿を使った簡易妊娠判定ならできますが‥‥。」
 これまでとは立場が逆転したかのように、私がうろたえてジュンコは落ち着いていた。
「万が一、判定が陽性だったらどうされるんですか。」
「そりゃ産みますよ。妊娠したら、母親だってさすがに結婚を認めざるをえないでしょう。」
 その迫力に押されて、私はつい意味のない質問をしてしまった。

「あ、あの、生まれるお子さんはおふたりの娘さんたちのきょうだい、ということになりますよね。
 するとジュンコは、「なに言ってるの、この人?」とばかりに苦笑を浮かべた。それが私が見た初めてのジュンコの笑顔だった。

「まあ、娘たち子どもよりも年下、ということになりますけどねえ。」
 私は、「うつ病では性欲は低下するものだし、だいいちうつ病の人たちは症状による苦痛がひどくてセックスどころではない」と安易に決め込んでいた自分を恥じた。さらに、地味な外見や生活苦だけで「この人はセックスとは縁のない生活を送っている」と考えていたことについても、反省した。

 女性患者を見たら、まず妊娠を疑え

 研修医の頃、先輩に「女性患者を見たら、まず妊娠を疑え」と言われて、同じ女性として侮辱されたような気分を味わったことがあった。「その言い分はひどいと思います」と同期の女性研修医といっしょに異議を申し立てたのだが、先輩は「別に女性を差別しているわけじゃないよ。医者としての正しい態度を教えているだけ」と取り合ってくれなかった。

 しかしその後にすぐに、私は「先輩の言うことは本当だ」と実感することになった。微熱が続いて「体がだるい」と学校に行けなくなり、内科的な検査は異常なしということで不登校を疑われて精神科を受診した少女が、数週間後に実は妊娠していたことがわかったのだ。少女の様子から、出産経験のある女性医師が「もしや」と疑っていろいろ聞いたところ、「実は思い当たることがある」ということになったのだ。

 それまで、少女は「うつ病か、不登校か」と投薬や何回にもわたるカウンセリングを受けたりしていた。妊娠を継続するか一刻も早く決めなければならない時期に、のんびりと箱庭療法などやらせていた、というのはあまりにも間抜けな話だった。

 しかし、彼女は実際のところ、高校生という年齢よりむしろずっと幼い感じの素朴な子で、誰から見てもとても性経験があるようには思えなかったのだ。真実がわかって医局の医者たちは皆びっくりしたが、妊娠を見抜いた女性医師だけが、「妊娠なんて誰でも簡単にできるんですよ」とクールに呟いた。

 それ以来、私は、「外見の印象などから、セックスや妊娠に関して”この人にはあるわけない”ときめつけるのはやめよう」と思っていたはずだ。それにもかかわらず、ジュンコを見た瞬間に、「重いうつ状態の彼女には性の問題は関係ない」と決めつけてしまっていたわけだ。

 それから、看護師に妊娠判定キッドをもってきてもらい、説明書通りに検査を行った。
 結果は、陰性であった。婦人科に勤務した経験が長い看護師は、「先生、この年齢だと自然妊娠はまず無理ですよ。更年期に近づいて月経周期が乱れているだけじゃないですか」と小声で囁いてくれた。

 陰性という結果を告げると、ジュンコは失望と安堵が入り混じったような複雑な表情を見せた。それはそうだろう。四〇代後半を迎えてうつ症状があり、外に買い物に行くことさえできないジュンコが、これから子育てをするというのはあまり現実的な話ではない。
「でも、外に出る気力も体力もないけれど、セックスは出来るわけか」と一瞬、考えそうになってしまったが、私は「いや、それとこれとはまた別なのだ」と自分に言い聞かせた。

 考えればみれば、うつ病における不眠、食欲不振については綿密に研究が行われており、最近では「過食過眠症」のうつ病も少なくないことが知られている。もしかすると、うつ病における性欲や性行動について「低下する」と簡単に結論付けられているだけで、もっとくわしく調べると性欲が低下していない例や、逆に亢進している例、すなわち「過剰性欲型」も少なくないのではないだろうか。

 そういえば、若い頃、勤務していた精神科の女性病棟でも、重症のうつ病で入院している女性患者さんの中に、外泊するたびに症状が悪化する人がいた。あるとき「家に帰るとたまっていた家事をするのがたいへんで、疲れがたまるのではないですか」と尋ねると、三〇代のその女性は「いえ、家事は実家の母が来て全部やってくれるからいいのですが、久しぶりに帰ると夜が大変なんですよ」と当然のように答えた。
そのときも私は、「え、夜に何か仕事でもあるのですか」などと間の抜けた質問をしてしまったのだが、当時の私よりも少し年上の彼女は「そうか、先生、まだ独身だからおわかりにならいかもしれませんね。ほら、夫がね…もう寝かせてくれなくて‥‥」と曖昧な答え方をした。

 さすがに私にもそれが性的な事柄を指すことはわかったが、それ以上質問をすることもできず、ただ「こんなに重いうつ病の妻に、外泊中に性交渉を求める夫も夫だし、応じるこの人もこの人だ」と、ただただ驚くばかりだった。

 今だったら、「なるほど。ご主人とのセックスはあなたにとって、どれくらい負担になるのでしょう。それとも、自信の回復などプラスに働いている面もありますか」などと、少しは医学的な質問をすることもできたかもしれない。あるいは、他の面では明らかに意欲も活動性も低下している彼女が、セックスに関しては外泊のたびに夫の求めにとりあえずは応じることができるというのは、それだけで「過剰性性欲」である可能性もある。

 妊娠判定で陰性だったジュンコは、その後も相変わらず、診察室に来るたびに暗い表情で「どこにも行けません」「買い物に行くだけで疲れます」と訴える。化粧ひとつしない顔、輪ゴムでくくった髪などは、相変わらずだ。それでも、結婚を反対されたその恋人との仲を聞くと、ジュンコは毎回、「続いています」と答えていた。結婚さえしなければ実家の親にも交際がわかることはないし、彼が北海道に戻るのもまだずっと先のことなので、とりあえずはこの関係を続けていこう、ということになったようだ。

 それ以来、ジュンコは「妊娠判定してください」とは言わない。私も、「恋人に誘われたきくらい、少し遠出してみてはどうですか」などと治療に絡めてその男性のことを話題に出す程度で、「今でも妊娠するかもしれないほどセックスをしているんですか」などとは単刀直入にはきけない。しかし、それに関しても相変わらずなのだろう。うつ病では、憂うつ気分や意欲の減退と性欲の低下は比例しているように思われているが、決してそうではないケースがあるということだ。

 別の言い方をすれば、これまで出来ていた家事ができなくなり、面白く見ていたテレビが見られなくなっても、好きな異性とのセックスだけはこれまで通り行うことができる機能も、人間には備わっているということだ。もちろん、そのまったく逆の人、すなわちすべてが順調なのだがセックスだけはしない、したくない、できない、という人も少なくない。どうやらセックスの問題は、その人の生活のその他の部分から切り離して考えたほうがよいかもしれない。
つづく (2) 人は何歳までセックスをするものなのか