夫側だけが「妻はもう妹みたいな感じなんで、どうしてもセックスする気にならない」と思い、妻は夫を「ひとりの男性」として見ていたら、妻は「なぜこんなに仲がいいのにセックスだけはないのか」と悩むことになるだろうか。

本表紙香山リカ著から引用

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(2)「セックス恐怖症」のまま結婚し、夫を拒み続ける妻、カオリ

愛情はあるがセックスレス」の夫婦の理由とは

 前の項で紹介したミサエの夫がなぜ妻とセックスを拒み続けたのか、結局わからなかった。夫婦仲が冷め切っている、家庭の外に恋人がいる、といった理由は、ミサエたちには当てはまらなかった。

 一方で、仲はそれほど良くないのに、セックスの関係だけは続いている、という夫婦もいる。たとえばかつては、いわゆる亭主関白でほとんど夫婦の会話もないのに子どもの数は一〇人、という夫婦も少なくなかった。日中は会話どころか視線も合わさないのに、夜になると突然、自分の体に手を伸ばしてくる夫を、妻はどういう気持ちで受け入れていたのだろうか。これこそ夫の愛情の証だと思っていたのか、それとも単に”妻のつとめ”と耐えていたのか。

 ただ、「会話はないがセックスだけはある」というのをそのまま、男性の秘められた愛情の証拠と考えるには、若干、無理があるかもしれない。二人の子どもを産ませた愛人から慰謝料一〇〇〇万円の支払いを求める民事訴訟を起こされたある大物政治家は、その裁判で「一人目の子どもを作ったあとで愛情関係は破綻していた」と主張し、「ではなぜ子どもを作ったのか」と理由を問われてこう答えた。「子どもを寝かしつけて、二人きりになるとどうしても動物的な面が出てきてしまった。」

「動物的な面」とはいわゆる本能だけの結果として生まれたのか、と自己否定されたような気持ちになるだろうが、男性は愛情などなくてもセックスはできるし、それが生殖につながることもある、というのがよくわかる発言だ。

「愛情」という尺度だけで考えると、「会話はないがセックスだけは頻繫な夫婦」より、「会話はあるがセックスレスの夫婦」のほうが愛情あり、という事になるのだろうか。

 では、「愛情があるのにセックスレス」という人達の場合、なぜそのようなことになっているのだろう。

 よく言われるのは、その「愛情」は男女のそれから友だちあるいはきょうだいのそれにシフトしているのに、今さらセックスなど照れくさくてできない、というものだ。たしかに、日中の生活での私たちの状態とセックスしているときの状態とには、大きな差がある。とくに今は、多くの人が家庭では「無印食品」や「ユニクロ」などのユニセックスな服を身に包み、言葉づかいも、男性も女性も「○○なんだよ」「そうだよね」などと従来の男ことばを積極的に使う人が増えている。

 このように、日常の中で性差を感じさせる場面が著しく減っているので、性差そのものを利用して行うセックスにリアリティが持てなくなってしまっても不思議ではない。大学でも、DVやストーカーの心理について学ぶために恋愛が主題の映画やテレビドラマを見てもらうことがあるのだが、ちょっとでもセックスを思わせる場面が出て来ると、多くの学生はクスクスと笑う。もちろんどういう表情で見てよいのかわからず、照れ隠しの為に笑っている学生も多いのだろうが、ひとつ前のシーンではおしゃれをして気取っていた男女が、それこそ”動物的に”組あっている姿は、学生たちにも滑稽に見えるのではないだろうか。

 しかし、この手の”ユニクロ的セックスレス”の場合、「中性化」は夫婦や恋人、双方に同時に起きなければ、不幸な結果となる。つまり、夫側だけが「妻はもう妹みたいな感じなんで、どうしてもセックスする気にならない」と思い、妻は夫を「ひとりの男性」として見ていたら、妻は「なぜこんなに仲がいいのにセックスだけはないのか」と悩むことになるだろう。
 さらに、「夫婦仲はいいのにセックスレス」の場合、その原因は「中性化」だけではない。

 診察室で出会った人たちの中でも、「今の夫(妻)には愛情があり、性関係が持てないのは申し訳ないけど、どうしてもセックスに抵抗がある」というセックス恐怖症の人たちがいた。

差し込み文書

早育の中高校生カップルの性

セックスすると、相手のことが好きになる。最初はためらいながらセックスして、次第にためらいがなくなっていって、それと共にどんどん好きになる。ためらいがなくなった先には惰性があって、惰性になると関係もセックスも惰性になる。それで好きなのかどうなのか分からなくなって、早育の中高校生カップルは浮気や些細な喧嘩がきっかけで別れる。

恋愛の先に心も躰も満たされる楽しい快感を得られその先に結婚であるという甘い考えは非常に危険である。夫をいくら愛していた妻でも子が産まれると母性に変化する。夫が父性に変化しないことに妻は失望しつつ、恋愛時と同じ態度でセックス快感を求め続ける夫にやんわりと拒否しつつそれは結婚の義務と諦め、早く終われと演技する。或いは逆の場合もあり二人が心から淫蕩し満足し合えず次第に不機嫌さ増していき浮気・不倫というセックスレスの原因が発生する。

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夫が父性に変わり、方や妻は女の恋愛感情や性感覚を求める場合も少なからず存在する。
夫婦共々母性、父性として、子供を軸とした家庭生活が回っていくとされる七割近い夫婦が離婚に至らなく孫やひ孫に囲まれる穏やかな幸せな老後を送られる人々であろう。

 アンジャッシュの渡部建の不倫報道

2020年6月11日発売『週刊文春』で報じられた、アンジャッシュの渡部建の不倫報道は一般的な“不倫”ではなく多目的トイレというゲスさに世間は驚いたが、一般社会でも多く見られ左程驚くことではない。どんなに可愛い奥さんでも、普段仲が良くても、本人の有り余る性欲の持ち主既婚者と知り近寄ってくるゲス女とそのプレイをしないと満たされない性癖の渡部建との違いはなく同じく顔を公開し晒さらされてもよい案件だ。何も知らなかった妻の佐々木希さんはどんなに絶望的な気持であろうかと推敲される。

金があって自由時間あり気に入った女が言い寄れば世の中の大勢のモテ男達の食指を止めることはできないのだ。或いは恋愛依存症的性欲旺盛な女達もその乱れ切った恋愛やセックス快感の食指を止めることはできない深い性的悩みだともいえる。このような行為は社会的制裁、法的措置が取られるので長続きできないし、悲惨な結果が待っている。

 一瞬夢みる放恣(ほうし)な姿態、姦通

 男と女の性愛がどういうものであるかを知っている女にとって、誘惑者のことばは、たとえ精神的なことしか語らなくても、すべてベッドにつながって、妻の心は落ち込んでゆく。不倫に踏み切る時の妻の状態は、十人が十人同じもので、要するに好奇心に負けたのである。秘密を持つということが、単調な妻の生活に、精神の緊張を与える。
女が一番いきいきと魅力的にみえるときは、ある目的のために、ウソをついて、必死に演技するときだろう。
 人妻を満足させるほど、人妻を姦通への誘惑に引きずり込むため、情熱的になってくれる男は、どちらかと言えば、精神的プレーボーイで、人妻をものにするまでの過程を愉しんでいるのであり、ものにした女は他の多くの女同様、大して珍しくも美味しくもない女なのを知っている。

 妻たちの深層心理

 性を重要視し、性が人生の中で最大の関心事のように考える風潮は、マスコミの扇動のせいもあるけれども、それに乗せられやすい女たちの浅薄さのあらわれで、今の人妻の多くは、自分から性の自縄自縛にかかっているようなところもある。

 夫の浮気が、感覚的に許せないといって一度や二度の、あるいは、ある時期の夫の浮気以来夫との性交渉を断つというような、潔癖な妻は滅多にいるものではない。
 ある時期、思い出すたび、口惜しさと、不潔感に、泣いたり、わめいたりしても、いつのまにか夫を受け入れているし、男とはそんなものだというあきらめで、あきらめてしまっている。

 セックスの技術を極める

父性・母性に満足できない男・女の性は浮気・不倫を繰り返し繰り返すということで満足しているかといえばそうではない。これ以上ないという究極のオガィズムを得るために彷徨(さまよう)っているのだろうが、セックスの技術を極め鍛錬されたペニス・膣によってのみ究極の快感(オガィズム)を相手に与えられるし、自分も得られる。その手助けをしてくれるソフトノーブル下記商品群である。

恋人からのDVで、「セックスは恐ろしいもの」と思ってしまった

 そのひとり、カオリさんの問診票の「相談したいこと」の項目には、はっきり「セックスができない」と書かれていたのだが、家族の項目を見ると、四年前に結婚した夫とふたり暮らしということになっている。ということは、最近になってカオリさんは、夫との性関係で何か問題を感じるようになったのだろう。

 そう思いながらカオリさんを診察室に呼び入れ、話を聞いてみて驚いた。カオリさんは、結婚以来、一度も夫とセックスをしたことがない、と言うのだ。それどころか、結婚前にそれを経験したのは、大学生のときの恋人が最後だとも言う。つまり、夫とはまだ一度も、性関係を持っていないということだ。私は驚きを隠しながら「それはご主人も納得の上で、という事ですか」と尋ねると、カオリさんはうつむきながらこう答えた。

「まあ、夫は学生時代の友だちで話しやすかったこともあり、結婚しようか、という話が出た時に、”私、ちょっとアレが苦手で”というのは伝えました。夫にしてみれば、”まったくできない”とは思わずに、軽く考えていたんじゃないでしょうか。夫も私も三〇歳になってちょっと焦っていたので、デートもあまりしないうちに入籍、ということになったんです。試してみる機会もあまりなくて‥‥」

 カオリさんの場合、大学の時に付き合っていた恋人がいわゆるDV男で、セックスもまったく一方的に強要されていたのだという。別れ話を切り出してからはかなり殴られたり財布からお金を抜かれたり、といったひどい目にあい、カオリさんとしては「男性=暴力=セックス」という図式ができ上がってしまった。それ以来、「セックスは恐ろしいもの」という感情が消えず、ドラマでそういうシーンが出て来るだけで動悸、ふるえが起きるようになったという。

「夫は昔からの友だちなのでそれほど恐怖もなかったですし、なんとかなるかな、とも思ったのですが‥‥」

 そう話すカオリさんだが、いざ結婚してみると、やはり夫になった男性が自分の布団に入ってくるだけで、動悸、ふるえ、過呼吸などの拒絶反応が激しく出ることがわかった。夫は優しい人で、「そのうちなんとかなるよ」と怖がるカオリさんにセックスを強要しようとはしなかった。そしてそのまま、四年もの月日が流れたのだという。

 夫とは一度もセックスが出来ないが、気にしていない
 しかし、カオリさんが診察室を訪ねる気になったのは、「夫とセックスしたいから」という理由によってではなかった。
「もう夫とは出来ないと思います。夫も今はあきらめたみたいです。子どももいりません。だから、そっちは良いのですが‥‥。私も三〇代半ばになるので一度、婦人検診を受けたいのですが、あの内診というのが受けられないんですよ。それを何とかしてほしくて。」

 カオリさんは、セックスだけではなくて、自分の体に何か異物がいることそのものに強い抵抗を示していた。子宮がん検診では、器具を膣内から挿入して子宮頸部の細胞を取らなければならない。「これが検査だから」と自分に言い聞かせても、金属性の器具が太もものあたりまで来ると、もう耐えられなくなり「やめてください」と大声を上げてしまう。
「なんとか先生のほうで診断書を書いてもらって、お腹の上から超音波か何かで検査してもらえないでしょうか。」

 カオリさんはそう要求したが、超音波でわかるのはガンがかなり進展してからのことだろう。それは出来ないと告げると、カオリさんはがっかりしたような顔をしたが、「母親も子宮がんになったし、やっぱりどうして検査したいんです」と言う。カウンセリングを受けて本格的に恐怖症を告白しては、と勧めたのだが、「とりあえず検査だけ早く受けたい」と乗り気ではなかった。

 結局、婦人科医や麻酔科医に協力を仰ぎ、意識のレベルを下げて全身管理をしながら、何とか検査を行うことが出来た。

 とはいえ、「夫と一度もセックスしたことがない」という問題は残っている。カオリさんに「あなたの心からは、大学生のときのトラウマがまだ消えていないと思われます。一度、それをきちんと見直すなどして、その恐怖症を解決した方がよいのではないでしょうか」と伝えたのだが、「いえ、もういいんです。検診を受けるという当初の目標は達成できましたから。二、三年後くらいに検査を受けるときにまた来ますので、よろしくお願いします」と帰ってしまった。

 カオリさんは「セックスレスでも私には不満はないんです」と言っていたが、それは妻側の一方的な言い分でしかない。夫は夫婦の関係に問題を感じていないのか、一度、話を聞きたかったが、「検査を受けるのが目的」と本人が言う以上、夫婦カウンセリングを強要する事も出来ない。

仕事を持っている女性のほうが、セックスレスに悩んでいる

 ちなみにこのカオリさんは、専業主婦であった。これは印象論の域を超えないのだが、
結婚しているがセックスがない、あるいはセックスをする恋人がいない、と悩んでいるのは、専業主婦よりむしろ仕事を持っている女性の方が多い気がする。仕事が忙しすぎる結果としてセックスレスになる人もいるだろうが、その状態を「まあ、仕方ない」と受け流せないのだ。しかも、「私だって性欲はあるのに」と身体的なレベルで悩んでいるのではなくて、「夫とセックスもしない私は魅力のないダメな女」と人間的なレベルで苦しんでいるパターンが多い。

 ちょっと考えてみると、これはおかしなことであるような気がする。同じようにセックスレス夫婦でも、仕事があればそこで自分の価値を確認することが出来るはずだから、「ダメな女」などと悩む必要はないのではないか。つまり、セックスレスの不満、不安を埋めるものを、働く女は職場の評価や収入など、外に求められるはず、ということだ。

 しかし、実際はそうではない。専業主婦はセックスレスでも動じない、という意味ではないのだが、仕事が出来ればできるほど、収入や社会的評価が高ければ高いほど、むしろセックスレスがその人にとって深刻な問題としてのしかかる傾向すらある。

 おそらく多くの女性とって、社会での評価は本当の意味で自分の価値や意義の確認につながっていないのだろう。いや、それどころか、もしかすると仕事の場で「すごいですね」とその働きぶりが褒められればほめられるほど、「これは職場に限っての事で、私自身は人間として女性として、本当はダメなのではか」とむしろ自分への疑問が大きくなる、とさえ言えるのかもしれない。

 もちろん、その社会的評価と反比例して目減りする女性の自信は、セックスによってすべて回復するわけではない。とはいえ、肩書きも資格もスキルもすべて取り払ったところで、文字通り”裸の自分”として男性に求められるセックスという体験は、女性にとって仕事とは対極に位置づけられる行為であろう。男性の場合、「いい女とセックスできるのは、地位やカネがある証拠」と社会的評価はセックスや自分への自信に直結しているのだが、女性はその逆なのだ。
職場で昇進し、収入が上がることがもたらす「でも、本当の私はダメな人間」という自信喪失を「誰でもない私としてのセックス」で穴埋めしようとし、悲劇に巻き込まれたのが、「東電OL」である。一九九七年三月、渋谷のホテル街で、大企業に勤めるキャリア女性が無残な遺体となって発見された。警察が調べてみると、彼女は自分の社会的地位を隠して街頭に立ち、行きずりの男たちとわずかな金を引き換えにセックスを行う、いわゆる売春行為を行っていたことが明らかになり、社会に大きな衝撃を与えた。

 彼女がなぜ売春をしていたのかはわからないのだが、それはお金ほしさや性欲の満足のためではなく、自分の価値や意義の確認作業だったのではないか、と多くの人が考えた。
キャリアがあっても自信が持てない、というよりは、キャリアがあればあるほど「人間として女としてダメなのでは」と思ってしまう、という心理的メカニズムに共感する女性は少なくなく、事件発生から一〇年以上がたった今でも、働く女性の心を語る際に引き合いに出されたりしている。

 仕事をすればするほど、自分に自信がなくなる。目減りした自信は、お金や社会的評価によってではなくて、セックスでしか回復しない。しかし、仕事が忙しくなればセックスを楽しむ時間が無くなり、地位が高くなれば男性にも敬遠されてしまう‥‥。

 働く女性がこんな悪環境に陥っている、と言えば、男性や専業主婦、フリーターの女性はこう考えるだろう。「それがはっきりしているならば、仕事なんかやめるか手抜きすればいいじゃない」。しかし、「仕事と自分」はそう簡単に割り切れる問題ではない。かくして彼女たちは、働けば働くほど自信が失われると知りながら、また仕事に全力投球を繰り返してしまうのである。

 もちろん、専業主婦やフリーターの女性もそれぞれの立場で自分への疑問にとらわれたり不安に陥ったりすることはあると思うが、この「セックスなどの直接的に、身体的行為でしか回復しない」という特殊な形の自信喪失にさえ陥っていなければ「最近、すっかりセックスしていなくてちょっと物足りないけれど、まあ、たいしたことじゃないか」と思えるはずだが、彼女たちは「セックスしていない。求められていない。やっぱり仕事を取ったら私には何の価値もないんだ」とそのことを拡大解釈し、激しい焦燥感にかられるのである。

 そういう意味で、働く女性のセックスレスは、専業主婦の場合に比べて、より込み入った問題になりがちと言える。この人たちは結局、セックスを通して単純な肉体的な満足や相手からの愛情を得たいのではないからだ。極端なことを言えば、人間として女としての自信が回復できさえするなら、それがセックスである必要さえない、と言える。ただ、セックスは今のところいちばん手っ取り早い自己確認手段であるにすぎない。

 作家の岩井志麻子氏は、この「自己確認としてのセックス」という特殊なセックスについて、あけすけにこう語っている。

「四〇歳を超えてからのセックスは、『女』の価値の確認作業です。要するに、男をちゃんと勃起させられるかどうか。私なんて、若い男がチンコ勃ててくれるだけで、ああ、まだ自分にそういう力があるのだと、すごくうれしくなります。」(『婦人公論 別冊』一月一五日号・中央公論社・二〇〇八年)

「勃起させられるか」といった即物的な表現と「それだけですごくうれしい」といった無邪気な言い回しとのあいだのギャップがやや奇妙にも感じられるが、これこそが社会的地位の高い女性とセックスの関係を端的に表す言い方なのだ。とはいえ、こういう女性が完全に仕事から離れて「若い男だけ」となってしまうと、また新たな不安がつのってくるだろう。あくまでも高いクオリティの仕事をこなした上でなければ、セックスは自己確認作業にならない。

 よく考えてみれば、小説で高い評価を得ている岩井氏のような人が、何も自分より収入も社会的地位も低い若い男性を「勃起させた」といって無邪気に喜ぶ必要もないはずだ。しかし、キャリアが上がれば上がるほどシンプルなセックスによる自己確認が必要となる、というのはこれまで説明してきた通りである。

「従軍慰安婦になりたい」というミナ

 キャリア女性とは別の意味で、過剰に自己確認作業を必要としている人たちがいる。それは、境界性パーソナリティー障害と呼ばれる人格特性を持った人だ。中でも女性たちは、キャリアのあるなしにかかわらず、「抱きしめる、キス、セックス」といった短時間で可能な身体的接触を通して、消しても消してもわいてくる心の中の不安から逃れようとする。

 しかもこの人たちの場合、一回のセックスで得た「私もまだ求められている」といった安心感は、決して自分の中に蓄積されていかない。体を離した瞬間から、また次の不安が始まってしまうのだ。だから、一見するといわゆるセックス依存症になったごとく、次々に不特定多数の男性と関係を持つ人もいる。彼女たちは決して”セックスが好き”なわけはなく、そうしていないときの自分と向き合うことに耐えられないのである。

 そうは言っても、日常生活を抱擁やセックスだけで構成することはできない。というより、どんなに多数の相手がいたとしても、たいていの人の場合、セックスに費やす時間は一日のごく一部でしかないだろう。

「毎日がむなしくてたまらない」と診察室にやってきた、フリーターのミナさんは、そういう”ふつうの時間”をどう過ごしていいのかわからない、と真剣な顔で訴えた。彼女は、短大を卒業した後、カナダへの短期留学から帰ってきて、日本の社会に適応できないまま毎日をすごしていた。

「風俗嬢になればいつでも誰かからもとめられるのかもしれないけど、指名がつかなくなったりすることもあるんでしょう? そうなることを考えると、とてもやる勇気がないんです。だから私、考えたんですよ。戦争になったら従軍慰安婦になろって。それならさすがに、もういらない、って言われることはないでしょう。女性に飢えた男性たちに感謝されるかもしれないし。これ、私の転職だと思うんですけど、どうでしょう。」

 私はそこまでしないと自分の価値を確認できない、と思っているミナさんの心にあいた穴の深さに言葉を失ったが、彼女がするべきは「絶え間ないセックス」ではなくて、その穴を埋めることであるのは間違いない。ミナさんにとっては、セックスという「体の穴を埋める行為」は、まさに「心の穴埋め」の隠蔽になっているのだ。しかし、本来、行うべき心の穴埋め作業にはかなりの時間とエネルギーが必要だ。そんな”苦行”よりはセックスの方がずっと手軽で効果的、と思っているミナさんに、どうやって「従軍慰安婦になりたいだなんて言ってはいけない」ということを、心理的、論理的な意味でわかってもらえばよいのだろうか。

つづく(3) 男性にとってセックスはコミュニケーションではない?