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オズボーンの空腹を訴える鳴き声で目を覚ました

本表紙 山田詠美 著
オズボーンの空腹を訴える鳴き声で目を覚ました
 冷蔵庫を開けてキャットフードの缶を取り出して猫に与え私はミルクを大きな箱から直接飲んだ。ひどく喉が乾いている。体はまだふわふわと浮いているような気分だ。机の上の昨夜の残骸を素早く片付け私はベッドに戻った。床の冷たさに身震いをする。体の芯までミルクに冷やされている。温かかいシーツにもう一度くるまって眠りたい。ブライドの隙間を広げて外を見ると。雨だった。今日一日は止むことはないだろう。私は幸福な気分になって電話をクロゼットに仕舞い込んだ。目覚めたときから降っている雨は、その日一日を夕方の気分で過ごしてくれる。

 私はスブーンの横に滑り込んでブラケットにくるまった。彼の裸の体は最も居心地の良いシーツのように思われる。
「雨の音が聞こえる」
「起きてたの」
「ああ」
「一日中振り続けると思うわ」
「死んだような気持だ」
「だるいのね」
 スブーンはベッドの横に置かれた切りっぱなしの大きな鏡を見た。
「二日酔いだ」
「あたしも。それを言い訳にして自堕落に過ごさないと?」
「ふん」
 机の上に平然と頬杖をついたままスブーンは私の体をかわいがり始めた。私は心地よさに猫のように目を細めて、あんたは私の気持のよいシーツだと告白した。スブーンは笑いながら、おまえはオレの毛布だと言った。彼のいい方は武骨で慣れない少年が愛を囁くのに似て彼を初心に見せたら。歌の下手なチェット・ベイカーが不思議と私を感動させるのに似ていた。彼の歌を聴く度にいつも私は、だらしのない砂糖になって溶けてしまいそうになる。

 雨は降り続いている。彼は私の耳朶を噛んだ。私はピアスを外していたので耳に開けていた穴にスブーンは唾液が通り過ぎていくのを感じることができた。

 スブーンは一日のうちで、どの時間にメイクラブをするのが好きか、と聞いた。私は彼に媚びようとして「いつでも(エニタイム)と答えた。
彼は朝が好きだと言った。とくに雨の朝がいいと。まるで今じゃないのという私の言葉にお前はそんなことも知らない、と私を憐れんだ。

 彼は私の皮膚が?がれてしまうくらいに強く、私の首筋を吸った。そこには、かわいそうな紫色の蜘蛛の巣が散乱する。その蜘蛛は彼の心を捕食しようと待ち受ける。けれど、いつの間にか私は、そんな大それた考えを捨て、スブーンの小さなおもちゃ(トイ)になる事を楽しみ始める。トイは気まぐれなキッズにたたきつけられ、もてあそばれるうちに、その痛みを楽しみ始める。

 彼はターンテーブルにレコードを載せようと腕を伸ばした。こんな日にセロニアス・モンク。雨音のようなピアノ。楽しみは中断された。

 ベッドからはみ出したスブーンのこげた体。私はボールドウィンの小説の中のブラザー・ルーファスを思い出す。彼はサキソフォンを聴きながら愛シテクレルカと心の中で叫んでいた。スブーンにサックスは必要なかった。彼は自分の体そのもので私にメッセージを送る。私は彼のためにアル中の売春婦にだって身をやつすかもしれない。でも、私は彼をヒモにしたくない。なぜなら商品となった女の首筋に決して彼は跡を残すようなことはしなくなるから。
「オレが、まだ女を知らなかったころ、ダチが言ったんだ。女の足の間には穴が開いているから、そこに自分のやつを突っ込むんだ、つてね。だからオレは足の間にポッカリでっかい穴が開いているんだって思っていた。初めての時は悩んでしまったよ。この女には穴がねえってね。自分でその穴を探し当てなきゃなんねえなんて知らなかったからな」
 その話は私の緊張を解きほぐした
「で、今は知っていたわけね」
「こういうふうに、な。そっちのほうでオレの指を探し当てようとする」
 生き物なのよ。呼吸しているの。鏡を当てると曇るのよ。そう伝えようとしたが声にはならない。私の声帯はいつも思い通りに働かない。こういう場合には。
「あんたの肌って本当に黒檀(エボニー)ね」
 最も不幸で一番美しい色。私がどんなに日に灼いても近づけない。
 けれど皮膚を引き裂けば赤い血は出るし、私を愛したときは白い液も流れ出る。彼の頭を私の両足の間に感じながら、私はやるせない気持ちになった。今、私の両足の間にあるスブーンの頭。ぜんまいのような髪の毛が密生している。私の皮膚を一枚一枚たいらげていく巨大なかたつむりの舌。彼の頭を抱え込む度に私を邪魔する金のピアス。スブーンの引き立て役にしかならない。汗の川を造る背中の窪みに続いたスブーンの尻。私はいつも、そこに手を触れるのが怖かった。割れ目に誤って手を差し込もうものなら、くわえ込んだまま二度と放しはしないだろう弾力のある尻。私が手首を切り落とさない限りは。まるでアンデルセンの童話。足を切り落とすまで踊り続けなくてはならなかった赤い靴を履いた少女。私は踊り続けなくてはならない。

 私は失いたくない。私を束縛するこれらのものたちを。
「ジューシィで最高にいい味だぜ」
 私の思惑とは別にスブーンは自分の体でとらえたことだけを口に出す。彼は考えを持たない。体で反応したものだけが彼の言葉を使う。音楽があるから踊るのではなく、体が動き始めるから音楽を必要とする。彼の舌は私の体をダンスしながら音楽を奏でている。

 スブーンの舌は決して休まない。私の体液は温められた牛乳のように膜を張り始める。
「猫がどうゆうふうにファックするか知っているかい」
「NO、知らないわ」
 私はいきり背中にスブーンの体の重みを感じる。胸の茂みが私の背骨を刺激し私は泣きそうになる。そしてスブーンは私の左肩に後ろから、思いっきり噛みついた。
「ひどいよ! どうして?」
 「お前は知らねえだろうけど猫はこうするんだ。雌の肩の毛が全部抜けちまうまでな」
「ほんとう?」
「で、すげえ声で鳴くんだぜ」
「こんなふうに?」
 私は猫の鳴き声を真似てみる。そのうちそれは私自身の声になっていく。私はスブーンに自分自身を征服させた快楽を知る。

 ベッドの横に鏡を目にやると。白いシーツを私はつかみ、幾重にも重なった皺の上に私の体はある。それは、ただぼやけたフォトグラスに見える。その上に私のもう一枚のいとしい黒いシーツが載せてられ、タイトな写真が現像される。私はやがてそのシーツの白さも黒さも識別できなくなり、朦朧とした意識の中で自分の指先の赤いエナメルだけを追っている。

 私は雌猫のようにわめいていた。

「静かに、ベイビー。雨の音(リストンウザレイン)を聴きなさいよ」
 いつの間にか、モンクのピアノは終わり雨の音だけが薄暗い部屋に響いている。

5 仕事用の化粧を落とし


文章二枚の鳥の羽根のような付けまつ毛を剥がしたとき、スブーンは帰ってきた。周囲の物に乱暴にぶつかりながら、わめき散らかす。
――酔っぱらっている。
 私はベッドから起き出してスブーンにグラス一杯の水を差し出そうとする。断っておくが私を煩わせるアル中男に思いやり表わし迎い入れるためにそうしたのではない。スブーンとの生活がどういうものであるか私にはもうよく解っていた。
「これ、飲んで。早く酔いを醒ましなさいよ」
 スブーンの皮ジャンバーからは安物のジンとアブサンの匂いが漂ってきて私の鼻を刺す。
「なんて臭いの、スブーン!」
「黙れよ、このビッチ!」

 彼は私の手からグラスを取り上げて床にたたきつけた。頬に跳ね上がったガラスの破片が私に血を流させる。
「オレのことを臭いと言ったな。どんなふうに臭いんだよ。言ってみろよ! さあ! 言えったら」
 スブーンは私の首を締めた。
「言う‥‥ったら‥‥離して‥‥よ、‥‥・死んじゃうよお」

 彼はいきなり手を離し、私を壁にたたきつけた。彼の白目は澱んでいて焦点が合っていない。また今日もドラッグをやり過ぎている。

「ハーレムの匂いだよ! 劣等生の塊りの匂いがするんだ!」
 スブーンはテーブルの上にあったホワイトラムの瓶を壁に投げつけた。瓶の割れる凄まじい音と共にラムの甘い香りが飛び散った。彼は突然、床に座り込み石のように動かなくなった。目はうつろに遠くを見ている。手はガラスの破片で血だけになっている。よく見ると顔にも古い血がこびりついていた。喧嘩をしてきたのに違いない。開いたままのジーンズのジッパーが彼を一層みじめに見せている。

「ジッパーを上げなよ。おしっこをしたまんま忘れたの? それとも女とファックをして来たってわけ?」
 そうでない事は私には解っていた。
「ファックだと? なんだってそんなことをおめえはそんなことを思いつくんだ! オレがいねえ間に男を連れ込みやがったな。そのくそったれアンヨを開いて安モンのプッシィをくれてやったんだろう! オレがいねえ間にゃいつも男を加え込みやがって! このファッキンビッチ!」
 
 スブーンは訳の解らない言葉をわめきながら私の髪をつかんで部屋中を引き摺りまわした。ガラスのかけらが体に突き刺さる。
「そいつは黒人か白人か、まさか日本人じゃねえだろうな。あんなアグリーな連中じゃ‥‥」
「あんたって最低の男だよ! アル中でジャンキーで。あたしだってみつともなし(アグリー)の日本人なんだ。だけどあんたよりましだわ! 黒人って汚ない。だから生まれつき、不幸なんだ!」

 私は泣いて楽になろうとして、しゃくり上げたが涙は出なかった。
 彼には中間というものがなかった。彼との生活の中で知ったこと。それは淡白な薄味の料理を食べられない人生もあるという事だった。彼は甘すぎ、そして辛すぎ、油濃かった。甘すぎるクリームの中を泳いでいたかと思うと、ペッパーソースを頭からぶっかけられる。私の胃はどう対処してよいのか解らない。私の心はただれて潰瘍を造りそうだ。

「ガッデム! どいつもこいつも馬鹿にしやがって! 何もかもがうまく行きゃしねえ!」
「あたしは馬鹿にしていないよ。だってあんた本当に馬鹿なんだもん。

かわいいよ。そういう思い方、おかしい? かわいいよ、そういう男って。本当だよ」
 スブーンは息を止めて私を見据えた。
 殴られる‥‥・!
 私は目をきつく閉じて歯をくい縛った。歯が折れないように。私の奥歯はもうすでに二本、スブーンの大きな手によって折られている。あの、時には私の体をくすぐり夢を見させてくれる恥知らずの手で。

 スブーンは私をぶたなかった。私の頭を抱え込み私に口づけた。私はもがいたが彼は私の顎を押さえた指を離そうとしなかった。私の口の中にはアルコールとマリファナの匂いが悪血のように浸透してくる。それは糸を引いて体内に流れ込む。
「あなたを感じるわ。スブーン」
 不意に彼は私を突き離し嘔吐し始めた。私は吐気の止まらない彼をバスルームに連れて行き背中をさすった。血で汚れた頬を涙が伝わっていく。吐く物がなくなると彼は血の混じった胃液を吐いた。私は死を宣告された病人を励ますように彼の背中をさすり続けた。泣いている惨めなスブーン。どうしようもない。私はナースの資格を持っていないのよ。

 私は散らばった床のゲロを彼のポケットに入っていたスブーンですくい上げギャベジ缶に捨てた。私は、銀の匙でゲロもすくえるのよ、と神様にいってやりたかった。

 片付けが住んだ後、私は顔を洗っているスブーンを残してベッドに入った。さっぱりとした顔でスブーンがすまなそうに私の名前を呼んだとき、私は寝入った振りをして返事しなかった。
「お前にファックしてやりてえけど、やらしてくれねえだろうな、今日は」
 彼はファックしか方法を知らない!
 どうやってやるんだろう。どうやっておまえを気分よくさせられるんだ。やる以外にどんな方法があるんだよう。きっとスブーンは心の中こう叫んでいるに違いない。大きな図体をした未熟な子供。私のかわいいスブーン。この黒い魔物は私の心を汚さない言葉で満たしていく。けれど、まだ隙間は残っている。私の心が沸騰したケトルのようにピーと合図するまでは。

「ファックしてやりてえんだ。キム、お前をいい気持にさせてやりてえんだ。寝ちまったのかよお、SHIT! せっかくオレがかわいがってやろうとしたのに体に触れさせもしねえ」

 スブーンは私の横に滑り込むと、私に背を向けてため息をついた。
「強姦すればいいじゃない」
 スブーンは驚いたように私の方を向き直って、こちらを見た。私は暗闇の中でもそうとわかるように歯を剥き出して、にっと笑った。
 彼はこの瞬間に不幸な子供である事をやめにした。
6 スブーンと暮らし始めてから二度ほど、私は他の男とベッドを共にした
他の男とセックスがしたかったら、では決してなかった。
 私は時々不安になった、スブーンにのめり込んでいく自分が。私はスブーンというジグソーパズルの一片になるのが怖かった。

 仕事の後、私はずいぶん前から馴れ合いの関係にある気のおけない男友達の部屋に訪ねた。彼はいつも私の共犯者であり、私も彼にとっては同じだった。彼はいつもしてきたことをその晩もし、私は体も心も彼に熟知されているはずなのに、敗北感だけを抱えて彼の部屋を後にした。私はスブーンの中毒患者になりつつあった。

 部屋に戻るとスブーンはジンのグラスを床に置いたまま、ベッドカバーの上に俯せに寝入っていた。スブーンの大きな素足を見た途端、私は泣き出した。
「キム…。どうしたんだ。あっ、泣いてんのかい? どうしたんだよ! 誰が殴った!」
 スブーンは足に当たる私の涙で目を覚ました。彼は私が泣くのはメイクラブの時に殴られた時だけだと思っているらしい。
「何でもないよ」
「誰がひどい目に合わせたんだ!」
「ううん、ただ、あんたが恋しかったなって思っただけよ」
「そんなことはァ解っているよ。そいつは前からの決まりなんだ」
 何の気まりなのか知らないが彼は私をベッドに引き摺り上げキャラメルのパッケージを開くように服を脱がせた。そして私の体に舌を這わせていったが、その舌が突然、硬直した。私は自分の体に目をやった。そして愕然とした。私の胸に紫色の痣がくっきりと付いている。

 スブーンは呆然として暴力を振るうのも忘れている。私の肩をつかんだ手は小刻みに震えている。私の命は今晩なくなるのだわ。私は覚悟を決めてスブーンの顔を見た。怒りに燃えて狂人のようになっているとばかり思っていたスブーンの目には絶望的な悲しみが漂っていた。

 あなたのそんな目はタブーよ。
 スブーンの心の中にはタイプで打たれたこの言葉が行ったり来たりしているだけなのだ。
 I AM SAD. 
 私の顔から冷や汗が流れ出た。何とかしなくては、スブーンはこんな表情を作ってはいけないのだ。彼はいつも超然とした阿呆でいなくては。私は生まれてからついた、ありたけの知恵を振り絞った。

「こんな場所にキスマークを付けたらドレスが着られないわ。今度から気をつけて、スブーン」
「そうか‥‥昨夜‥‥」
 彼の顔がぱっと明るくなり私を押し倒して無茶苦茶に愛し始めた。
 責任転嫁。私にこんな悪知恵が働くとは私自身も知らなかった。
 安堵と快感の溜息をつきながら、スブーンの嫉妬がどれだけ彼を傷つけるか、そしてどれだけ私を苦しめるかを思った。スブーンの悲しみは、すなわち私の悲しみだった。
 私はこのろくでなしを愛している!
この思いつきは私の顔を赤くさせ、私は彼の顔を見上げた。スブーンは不思議そうな顔をして動きを止めた。
「どうした?」
「あたし、あんたを愛していると思うの」
 きっと私は今晩のディナーはシュリンプにしたわ、というような得意気な表情をしていたに違いない。
「そんなことは解っている。そういう決まりなんだ」
 私とスブーンという組み合わせは社会におけるひとつの規則なのだろうか。いずれにせよ、私の体にはスプーンという刻印が押されているのは確かだ。

 公園の片隅で寝そべって私たち二人はジョイントを吸っていた。道行く人々もまさか、こんなに堂々とマリファナを飲(や)っでいるとは思わずに通り過ぎて行く。スプーンは片目をつぶり時たまオズボーンに煙を吹きかける。オズボーンはまたたびをくらった時のように腰の抜けた姿にスブーンは笑い転げる。私は部厚いダッフルコートにくるまり、何度もビール瓶の栓を指でひねって開ける。

 小春日和。日差しは強い。目を閉じると私の瞼は初夏の木の葉になる。手探りで私はスブーンのごわごわしたブルージーンズを触る。彼が私の唇を盗もうとするのが気配で解る。キスの前に彼のまつ毛はいつも私の頬をくすぐるからだ。季節外れのパナマ帽が落ちオズボーンが跳びついてじゃれている。スブーン、私の唇をコルネットを吹くように吹かないで、プリーズ。

 私たちは荒引のソーセージをかじりながら公園前のバスストップに立っている。時折かけすぎたマスタードが私を泣かせる。オズボーンはスブーンのジャンバーの中で丸くなって寝ている。
「キム‥‥」
 マリア姉さんが立っていた。私はこんな所で会う偶然に驚きながらも、素直にそれを表せないで立ちすくむ。スブーンに、マリア姉さんはチラリと視線を落とす。私はばつの悪さに縮み上がりそうだった。あまりにも愛しすぎた男を人前にさらすのは恥ずかしいものだ。スブーンは、といえば、まるで物を見るように彼女に一瞥をくれ、そのまま胸の中に手を入れ猫を触っていた。
「このこ?」
 私は頷いた。マリア姉さん、私のテキストブック。けれど不思議な事に私は彼を採点してもらいたくなかった。昔のようには。
「ずいぶん、大きな子ね」

 少し間をおいてそれだけ言うと、簡単な別れの挨拶を交わし、彼女はキャブを止めて去っていった。まるで男と別れる時のようで私は少し寂しくなった。卒業証書をちょうだい。私は心の中で呟いた。

 バスが来た。私たちは乗り込み、座席で黙って座っているスブーンに私は声をかける。
「彼女は私に色々な事を教えたわ。まるで、あんたが私にそうするように。綺麗なひとでしょう?」
 私は陳腐な自分の言葉におどおどしながらスブーンの顔を見た。
「別に」
 美しい女を見ると決まって口笛を吹き卑猥な言葉をかけるスブーンがそう言った事で、私は訳のわからない不安に襲われた。
「綺麗よ。誰が見たって美しいわ」
「うるせえな」
 スブーンは一言そう言うと、窓から外を見た。濃いまつ毛に縁どられた大きな目は涙の膜で濡れていた。それを見た途端、私の胸に大きなパンの塊を飲み込んだ時のようなつかえを感じた。その魂りは次第に消化されて小さくなっていくはずなのに唾液の被いを幾重にも重ねて、どんどん大きく膨らんで行くかに思えた。

 バスが急停車する。座席が大きく揺れる。私は、ごくりと音を立てて塊を飲み込んだ。私はもう一度運転手が急ブレーキをかけたりしないことを願った。その塊が目から飛び出さないように。
7 朝食の炒り卵を口に押し込みながら私はスブーンを見た
彼はいつもの彼の朝食、二錠のアスピリンをタンカリージンで流し込むことをせず、後生大事に抱えた書類に目を通しながら、どこかの大使館に電話をかけていた。そして時折、口を閉じたり目を閉じたりして動かなくなった。

 ねえ、あんたの女は(ユアガール)はあんたに夢中になんだけど、というようないつもの軽い告白をもできず私は横の黒い顔を盗み見する。

 朝からチェット・ベイカーを聴くことはないじゃないかという言葉以外、私は彼の今日聞いていない。ノイズの塊りのようなこの男は、最近、哲人のように沈黙している。コークのラインも最近は引きそびれている。ひたすらスモーキング。寝椅子(カウチ)に横になった大きな図体は私の心を悩ませる。

 感情をそのまま水に融かし込んだような目に最近は思い悩んだような影がある。あの公園のバス通りの出来事は私の心を今も引っ掻いている。かさぶたは今だに出来ない。私はあせっている。私とスブーンの自堕落な生活に何か重大なしおりが挟まれたような気がする。

 歯に挟まった卵を楊枝でつついていた時、私は虫歯の神経を憂鬱な気分にさせてしまった。その痛痒さは同時に私の心をナーブスも刺激した。

 私はテーブルの上の書類の束をスプーンめがけて投げつけた。散らばった紙は負けのカードのようにきちんと広がり私をかっとさせた。それが何かの設計図に違いないと私は悟ると同時にスブーンは私の頬をしたたか殴りつけた。

 弾みで床に転がった私に一瞥をくれ、彼は私の負けのカード(確かにそのポーカーゲームは彼の勝ちだった)を拾い集めると何も言わずに出て行った。

 私は一人残された部屋に屈みこんで胸を押さえた。そして、そのまま床に倒れて足をじたばたさせた。自分の思い通りにいかない赤ん坊のように駄々をこねて泣いてみた。けれど、まだ心は苦しい。私は呼んでみた。スブーン。キッチンにあるただの道具として呼んでみた、スブーン。ただの食べ物を口に運ぶちっぽけな道具であるのに。私は、再びじたばたした。スブーン。今度は自分は自分の男の名を呼んでみた。本当の涙が流れて私は少し楽になった。

 今まで、たとえ半殺しの目に遭っても私は安らいでいた。愛というには、あまりにも密着し、そして、あまりにも不真面目な絆でスブーンと私は結ばれていたから。
マリア姉さんとスブーンが出会った事で不安になる根拠がない、という事がよけい私を不安にした。
彼はあの時、すでに根拠を語る前に現実を見せていた。彼の表情は傷ついたように思う。スブーンの心が痛むとき、私の心も痛むように私の全身は訓練されている。両方が患者になるのだから私たちは途方にくれる。

 マリア姉さんに心惹かれたスブーンを良い趣味だと誇りに思う反面、今まで私が持ったことのない嫉妬という感情を強烈に味わった。

 最後の一滴まで私を飲み干す前にカップを置いてしまうなんて。行儀の悪いスブーンを軽蔑しようと試みた。けれど彼を軽蔑することは、そのまま自分自身を軽蔑することに他ならなかった。

 捜さなくてはならない。私は立ち上がって髪を梳き、コートを羽織った。私は夢遊病者のように街をうろつき、スブーンの行きそうもない場所から捜し始めた。二人で行ったバーやディスコ、レコード屋など。スブーンがドラッグを売りさばいていた友人のアパートメント。彼の姿はどこにもないと知ると、私はほぼ確信をもって自由が丘のマリア姉さんのマンションに足を向けた。スブーンが彼女の居場所など知るはずがないのに、私は狂人のような直感力でそこに引き寄せられた。

 部屋の前でチャイムを鳴らしても何も返事がなかった。けれど私は扉の向こう側でスブーンが私に助けを求めているような気がした。かつて宿無しの不良少女だった頃、私はこの部屋の鍵を預けられたのだった。私は無言でキーを外し、ドアを開けた。

 倉庫(ロフト)のような広い部屋の隅のベッドの上に上体を起こして、スブーンはいた。海藻のような長い髪の毛が彼の足の間に広がり、その間から金色に塗られた尖った爪が覗いていた。その髪はメドゥーサのように今にも一本一本が蛇になって蠢きそうにユラユラと揺れていた。
 マリア姉さんは静かに顔を上げた
「こっちにいらっしゃい、キム」
 私はそこに行った。そして二人を見下ろした。スブーンの黒光りする体は噛めば甘い汁がじわりと湧いてきそうなチョコレートだった。そして、それだけだった。それだけのものを捜し、東京中を気違いのように走り回ったのだ。そして、私にとってそれは、それほどのものだった。

 どうして? いつから? どっちから? 私の口からWで始まる疑問詞が一度にどっと吐き出されそうになり混乱した。私はアメリカのカートゥンの一場面を見るようで、ふと、おかしくなったりした。滑稽なマンガの主人公。自分を思いっ切り笑わなくてはいけないのかしら、この場合。

 マリア姉さんは唇をめくり上げたまま立ち尽くしている私を横目で見て、傍にあったガウンを羽織った。
「あんたが私にこうさせたのよ」
 私は何を言われているのか、まったく理解できずに彼女を見詰める。この言葉にもし注釈がついていたら私は急いで後ろのページをめくっただろう。
「キム、あんたのせいよ」
 これでもか、というようにマリア姉さんは私にこの言葉を突き刺した。
「どういうことなの? 解らないよ、私」
 乾いてしまった唇の皮を必死に湿らせて、私はつづけた。
「偶然にあたしは姉さんにスブーンを会わせただけよ。あたしの知らない間にこっそりあたしの男を取ったのはあんただわ」
 生まれて初めて私は彼女を「あんた」という対等の呼び名で呼んだ。
「取ってやしない」
「取ったわ! 彼はあたしの、なんだ!」
 スブーンに支配されているという自己満足は実はスブーンを所有しているという満足にほかならならなかった事に今、私は気づいた。
「そして、あんたは彼の、ってわけ」
「そうよ」
「‥‥・だからなんじゃないの」
「?」
 あなたはいつも私に難題をふっかける。
 私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。わたしはいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関わった男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じて安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスブーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりに無知で海藻のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。

 彼女は私を見詰め返した。私は不思議なくらいに冷静だった。昔、私は、よく男を寝取られた女の姿を想像して興奮した。世にも惨めな、そして張りつめた女の美しい表情。私の目に涙が溜まった。きっと、その悲しみは全身が涙になって流れてしまうくらいに、切ないものに違いない。私はそう思い、想像の中にその女に同情して泣いた。私は同情できた。なぜなら私は過去に自分の男を寝取られたことなどなかったから。男を人に取られる前に私の恋心は足音すら立てずに私の人生から歩み去っていったから。そして、マリア姉さんは私に、そういうものよ、と幾度も呟いて、私はそれを忘れた。

 今、私は男を取られた女になっている。私はそう感じている。けれどブルースなど私の口をついて出て来はしない。私は金縛りにあった人間がTVの画面を見るようにそこに立っている。感情という感情がすべて氷づけになってしまったみたいだ。

 愛しているという言葉の意味を私は思い出せない。私はマリア姉さんにそれを伝えた。
「それはあんたが真ん中にいるからよ」
 何を言っているのだ、この人は。真ん中にいるのはスブーンではないか。

 彼は大声で騒ぎ立てない私たち二人のやりとりに怯えている。私は急にこの男が不憫に思われた。ここ数日の彼の顔は重大な事をしでかしそうに危っかしく見えたのだった。が、今は、単純な悪戯を見つけられた子供といったふうにばつの悪そうな顔をしているではないか。今まで刻み付けられていた深刻な表情は、いったい何だったのだろう。

私は地団駄を踏みたい気分だった。「どんな気分(ハウユーフィル?)」と尋ねたら「まあまあ(ソウソウ)」とでも答えそうな気分雰囲気だ。私に起こった重大な出来事。それなのにこのふしだらな(この言葉が私の口から出たのが私自身おかしかった)男は、ただのラブアフェアを楽しんでいただけだったのだろうか。私のあれほど憧れ、一度は切望したことすらあるマリア姉さんとの情事が、そんなものだったなんて思いたくなかった。私は、それに重大な意味を与えたかった。
「あんたは真ん中にいるのよ」と、マリア姉さんがもう一度言った。
「みんな私を苛めないで」私は泣いた。
「泣かないで、私のキム」
 二人の声が重なり合った。
「愛しているのよ、キム」
 私は自分の声を疑った。私のずっとあこがれ続けていた女(ひと)が、一番似つかわしくない言葉を言っている。しかも、私が彼女にそうするのをやめた後で。
「ずっと前から愛していたのよ。あんたは私の執着した、ただ一つのものだったのよ」

 そういえば私は執着されていた。彼女の指輪や帽子や男たちよりもはるかに。
「だから、いつも私はあんたの付属品まで愛していたわ。あんたの何もかも知りたかったのよ。この男と出会ってあんた私にそうさせなくなった。私の片隅に置くことすらしなくなった。私が、どんなに嫉妬したかあんたは解らないわ。思いが通じないってどんな事だか解る?」

「何故、もっと前に言わなかったの?」
「そうしたら、あんたはいやになる。あんたはいつもそう。覚えてなきゃいけない事ができると、何もかも憎むのよ」

 確かに彼女を憎むようになっていただろう。それを聞いた後で、もしスブーンに出会っていたら。
「それに、もし言ってしまったら、私は自分を抑えられず、あんたを捻りつぶしてバリバリと骨まで食べてしまったかもしれない」

 それを聞いて彼女の私に対する気持と私のスブーンに対する気持は同質のものだと思った。私もスブーンをいとしく思うあまり、乱暴に骨まで噛み砕きたいと何度も思ったことがあったから。
「この男の体を気がすむまで味わいたかった。彼のペニスはあんたの匂いがまだ残っている」
「‥‥・」
「今日限りで忘れるわ。こんな恥はもうかかない。愛しているだなんて恥ずかしい言葉、二度と言いたくないわ。言わなくて済むようなものに執着するわ、この次は」

 マリア姉さんは口を塞いで嗚咽を堪えた。泣くという事も愛するという事も彼女にとっては屈辱なのだった。私は忍耐強さのまったくない出来そこないの人間である自分を有難く思った。
「お姉さん、スブーンはあたしの付属品なんじゃない。もしかしたら、私が彼の付属品かもしれない」
「あんたにそんな事を言わせるなんて‥‥。ただの男じゃないの。何も持っていないただの男じゃないの。それなのに‥‥」
「あたしの男よ」
 彼女は額に手を当ててため息をついた。
「それは、重大な意味、ね‥‥」
「忘れたの? 私も何も持っていないただの女なのよ」
「行ってよ。もう行って」
 私はふたりを残したまま部屋を出た。私は人それぞれのCrazyabut you の意味を考えた。

 部屋に戻り、急に空腹を感じ、まる二日間何も食べていなかった事を思い出した私は疲れ果てていて料理をする気もしなかったので砂糖抜きのシリアルに牛乳をかけて食べた。時折、コン―フレークが喉に刺さり飲み込むのに苦労した。

 つづく 8 私はドアの前にしゃがみ込んで外の音も聞く